2025年11月3日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す昨夜の「数学白熱教室」 【2015-11-28投稿分_谷山氏_フェルマーの定理】 NHKのEテレの「数学白熱教室」第三回を見た。いつもの通りで途中で少し眠ったようだが、多分後半の重要なところは見た。フェルマーの定理から、谷山・志村・ヴェイユ予想へと話が進む前の数論と方程式の解の話もおもしろかった。よくわかったというわけではないが、不思議なものがそこにあるという感覚は感じ取れた。ワイルズともう一人の研究者のフェルマーの最終定理の解決も実は谷山・志村・ヴェイユ予想の解決であり、それとフェルマーの定理とが密接に関係しているという話も興味深かった。またこれはフレンケルが現在研究しているラングランズ・プログラムの一例になっているという。もともとフェルマーの定理はピタゴラス数の拡張として考えられたとの説明は数学がどうやって広がっていくかを示した話であったと思う。ピタゴラス数として3, 4, 5のつぎは13,12, 5であるが、そこらあたりまでなら誰でも知っているだろう。だが、それらよりも大きい数にもピタゴラス数はある。谷山さんは自ら命を絶った数学者であるが、彼は不思議な予想能力があった人だったという。一方、志村さんは今でも生きていて、ちくま学芸文庫に数冊本を書き下ろしている。でも妻によれば私の眠っていたときの話は素数にある種の対称性があるという話だったという。そういう話だとフレンケルさんの話でなくとも誰か数学者が本に書いてあってもいいはずだと思う。だから、どれかの数学の本で読むことができるかもしれない。(2024.3.23付記)その後、志村さんも亡くなったが、いつなくなったのかは覚えていない。だが、最近まで存命だったことは確かである。 〆【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 最近は全てに返事が出来ていませんが 問題点に対しては 適時、返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2025/11/03_初版投稿サイトTOPへ
2025年11月3日2025年11月3日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残すガロアのノートにあった詩 【2015-11-18にGooblogブログへ 投稿分】 昨夜、なにげなく書棚で見かけた、 岩田義一さんの『偉大な数学者たち』(ちくま学芸文庫) に載っていたガロアのノートにあった詩を訳と原語とで書いておく。久遠なる糸杉はわれをかこむ 色あせし秋の日よりはなお色あせて わが身は墓場へとくだりゆくL’eternel cypres m’environne: Plus pale que la pale automne, Je m’incline vers le tombeau.岩田さんは書いている。 糸杉は棺をつくるのに使われると。 この詩の前に岩田さんは書いた。ガロアは自分の生命がもうあまり長く続かない ことを予感していたのではなかったろうか。paleのaの上のアクサン・シルコンフレックスと 糸杉cypresのeの上のアクサン・グラーブ、および etenelのはじめのeのアクサン・テギュは再現できていないこと をお断りする。前にもこのブログで書いたことがあるのだが、 この『偉大な数学者たち』を感激して読んだという記憶は 私には残念ながらなかった。しかし、 だからといってこの書がつまらない書だとは思っていない。〆【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 最近は全てに返事が出来ていませんが 問題点に対しては 適時、返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2025/11/03_初版投稿サイトTOPへ
2025年10月31日2025年10月19日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す老人の呟きから10月末抜粋・ガロアのノートにあった詩 【2015-11-18 】・昨夜の「数学白熱教室」 【2015-11-28】・数学・物理通信6-3を発行 【2016-03-19】・伏見康治コレクション3 【2016-05-24】・」エ―レンフェストの定理 【2016-06-21】・最近ならば 【2016-07-27】・物理学を学ぶときに 【2016-11-30】・ブログは消耗品である 【2016-12-24】・遠山啓さんの心配 【2017-04-26】・cleverな人よりもwiseな人を 【2017-04-28 】・complementary 【2017-12-07】・四元数の流行を下火にした人 【2018-04-10 】・『物理学天才列伝』下 【2018-08-20 】・Diracの寡黙とGell-Manのライターズ・ブロック 【2018-08-27】・エディトンとチャンドラセカール 【2019-06-21 】・テラー 【2019-08-09 】・F. J. Dysonの死 【2020-03-02 】・C. N. Yangの方は 【2020-03-03】・小説『カード師』 【2020-06-09】・コンプトン効果を連立方程式の問題にしたら 【2020-12-02】・花粉症 【2021-02-22 】・大栗博司さんの本を手に入れた 【2021-07-13 】・益川さんが亡くなった 【2021-07-30】・学士院賞をもらった後で 【2021-08-02 】・愛媛県出身者としては3人目 【2021-10-07】・科学者は老後に何をするか 【2021-10-13】・マックス・ボルン 【2023-01-17 】・マイトナー 【2023-01-26 】・フォン・ノイマン 【2023-01-27 】・オッペンハイマー 【2023-01-30】・【朝永振一郎 2023-01-31】・ゲーデル 【2023-02-02】・ライプニッツ 【2023-02-03 】・ミュラー、べドノルツ 【2023-02-04 】・ハイゼンベルク 【2023-02-06】・ 【パウリ 2023-02-07 】・ヨルダン 【2023-02-08】・シュレディンガー 【2023-02-09 】・コッホ 【2023-02-10】・ローレンツ 【2023-02-13 】・ガリレオ・ガリレイ 【2023-02-15】・ニュートン 【2023-02-16】・エンリコ・フェルミ1 【2023-02-20 】・フェルミ 2 【2023-02-21 】・ジョリオー・キュリー夫妻 【2023-02-23】・2024年の始動 【2024-01-08】・ハイゼンベルクが日本にやってきたころ 【2024-04-01 】・アインシュタイン 【2024-05-02】・X線の発見とレントゲン 【2024-05-28】・折々のことば 【2024-09-27 】・ザンクト・パウリ 【2025-04-28 】・数学・物理通信の論文が引用された 【2025-06-05 】・『武谷三男の生涯』の意義 【2025-09-02 】・まだこのブログは生きているが、 【2025-09-22】 ガロアのノートにあった詩 【2015-11-18 】・昨夜、なにげなく書棚で見かけた、岩田義一さんの『偉大な数学者たち』(ちくま学芸文庫)に載っていたガロアのノートにあった詩を訳と原語とで書いておく。久遠なる糸杉はわれをかこむ 色あせし秋の日よりはなお色あせて わが身は墓場へとくだりゆくL’eternel cypres m’environne: Plus pale que la pale automne, Je m’incline vers le tombeau.岩田さんは書いている。糸杉は棺をつくるのに使われると。この詩の前に岩田さんは書いた。ガロアは自分の生命がもうあまり長く続かないことを予感していたのではなかったろうか。paleのaの上のアクサン・シルコンフレックスと糸杉cypresのeの上のアクサン・グラーブ、およびetenelのはじめのeのアクサン・テギュは再現できていないことをお断りする。前にもこのブログで書いたことがあるのだが、この『偉大な数学者たち』を感激して読んだという記憶は私には残念ながらなかった。しかし、だからといってこの書がつまらない書だとは思っていない。昨夜の「数学白熱教室」2015-11-28・NHKのEテレの「数学白熱教室」第三回を見た。いつもの通りで途中で少し眠ったようだが、多分後半の重要なところは見た。フェルマーの定理から、谷山・志村・ヴェイユ予想へと話が進む前の数論と方程式の解の話もおもしろかった。よくわかったというわけではないが、不思議なものがそこにあるという感覚は感じ取れた。ワイルズともう一人の研究者のフェルマーの最終定理の解決も実は谷山・志村・ヴェイユ予想の解決であり、それとフェルマーの定理とが密接に関係しているという話も興味深かった。またこれはフレンケルが現在研究しているラングランズ・プログラムの一例になっているという。もともとフェルマーの定理はピタゴラス数の拡張として考えられたとの説明は数学がどうやって広がっていくかを示した話であったと思う。ピタゴラス数として3, 4, 5のつぎは13,12, 5であるが、そこらあたりまでなら誰でも知っているだろう。だが、それらよりも大きい数にもピタゴラス数はある。谷山さんは自ら命を絶った数学者であるが、彼は不思議な予想能力があった人だったという。一方、志村さんは今でも生きていて、ちくま学芸文庫に数冊本を書き下ろしている。でも妻によれば私の眠っていたときの話は素数にある種の対称性があるという話だったという。そういう話だとフレンケルさんの話でなくとも誰か数学者が本に書いてあってもいいはずだと思う。だから、どれかの数学の本で読むことができるかもしれない。(2024.3.23付記)その後、志村さんも亡くなったが、いつなくなったのかは覚えていない。だが、最近まで存命だったことは確かである。数学・物理通信6-3を発行2016-03-19・さっき、ようやく『数学・物理通信』の6巻3号を発行した。インターネットのサイトで見て下さる方は数日したら、谷村先生が掲載して下さるであろうから、数日は待たれる必要があろう。今回は友人の E さんの相対論の話が出ている。彼の講義ノートは数百ページのものらしいが、それを20ページ前後に要約したものとなっている。さすがにこの分野の専門家なのでやはり随所に独自性が現れているが、それでもその長さから数学の部分の詳しい説明はないので、ちょっと説明が欲しい気もしたが、これはこれでそれなりによくできた要約だと思っている。それと S さんの周期ポテンシャルの量子力学のシリーズがはじまった。私も大学院の講義でこの周期的ポテンシャルをあつかったことがあるが、その周期的ポテンシャルとしてはいわゆるKronig-Pennyのモデルしか扱ったことがない。周期的ポテンシャル1次元の問題だが、結構難しいところがある。私は関心があったのは、量子状態で離散的なエネルギー準位から、周期的ポテンシャルになるとそのエネルギーの幅が生じて最後には固体の量子理論としてのエネルギーのバンド構造ができるところのうつりかわりである。素粒子のレプトンの質量準位が二重構造をなしているのではないかというような予想を立てたりして、それを導こうと考えたりしたこともあった。これはうまくいかないことは明らかかもしれないけれど。レプトンのe, \myu, \tauはニュートリノと合わせてdoubletにはなっているが、質量準位は二重構造にはなっていない。二つの井戸をもつポテンシャルとして有名なのはアンモニアの二つの井戸ポテンシャルがあり、スペクトルが二重線になっていたのだったかどうかもう忘れてしまった。そんなことを周期的ポテンシャルから思い出している。伏見康治コレクション32016-05-24・『物理学者の描く世界像』(日本評論社)に中性子の減速の話題が取り上げられている。これは原子炉内での核分裂で発生した中性子を減速させる話である。伏見康治先生もやはり原爆研究か原子炉の理論の一環として中性子の減速の問題を考えられていたらしい。あまりこれは現在では学問的な内容ではないのかもしれないが、それでも原子炉工学を学ぶときには基礎知識であろうか。数年の間 E 大学工学部で原子力の基礎知識を講義したことがあり、そのときに中性子の減速の数学というか物理を自学自習したことがあった。これは講義をするためには当然のことであった。伏見先生は雑誌「数学セミナー」の編集部の要望に応えて「やはり微積分は役に立った」という記事を3か月にわたってかかれた。それが、この本に掲載されている中性子の減速である。私はこれらの章をまだ読んではいないが、それほど難しい数学も用いていないので、読んでみようかと思っている。私が昔テクストを読んでつくったノートも役に立つかもしれないなどと考えている。などと多寡をくくったことを書いたが、さらにちらっとこの記事をながめたところではどうもノートが役に立つのは連載3回の1回目だけらしい。エ―レンフェストの定理2016-06-21・というと量子力学でその位置の期待値から波束が古典力学の運動方程式の形をみたすという定理である。この定理が難しいと思ったことはなかった。が、私自身はこの定理の意義を軽視してきたが、このところその意義に目覚めている。もっともこの計算は学生のときにも苦手だったが、どうもいまでも苦手であることを発見した。学部の4年生になって量子力学のセミナーがはじまり、その初めごろにセミナーでこの計算で立ち往生してしまい、S 先生から叱られたことがあった。その後のセミナーではその汚名を挽回するように努めたけれども。その思い出よみがえってきたのだが、何十年もたってこれくらいの計算はなんてことはないはずなのにやはり苦手である。もっともきちんとやればなんてこともないはずだ。だが、どうも逃げ腰なのがいけないのではないかと思う。きちんと落ち着いてやれば、なんてことはないはずだが、ちょろちょろしてしまう。この姿勢がよくない。最近ならば2016-07-27・自分の研究結果をできるだけ早く発表するのは科学者にとっては常識であろう。だが、昔はそうではなかった。ニュ―トンは若いときに自分のした研究結果をかなり晩年にならないと発表しなかったし、ガウスも数学日記を書いていたが、その中には新しい結果もあったのに死後になってそれが他人によって発表されたとかいう。ガリレイにしても本当は彼のした研究で後世からみて一番価値のある物体の自然落下の研究はローマ法王庁から自宅蟄居を命じられていた晩年になってようやく書いたことを最近知った。いわゆる「科学対話」と言われている著作を書いたのは「天文対話」よりも後だったという。それでもニュートンは微積分学と力学の創成者として有名だし、別に問題はあまり起こらなかった。いや実はいくつかの先取権の問題はあったのだが、なんとかクリアしたという。20数歳のときの仕事でニュートンは結果として後世に名を遺したが、それからの余生(?)は権力と富を求めたのではないかとか最近通俗書の科学史の本で読んだ。物理学を学ぶときに2016-11-30・何をテクストとして学んだらよいか。これは意外と独学で学んでいる人に困ることである。私がもし初心の学生なら、何を学ぶだろうと思い出しながら、書いてみた。だから世の中で名著と言われるものでも途中で挫折すると思われるようなものはあまり推薦しない。これらの名著はある程度物理の何たるかがわかってから、読んだらいいと思う。さて一般物理としてはじめに何を学んだらいいのか。私には適切なテクストが思い浮かばない。原島鮮先生の『初等物理学』(裳華房)という本があった気がするが。それを読んだことはないので、それがよかったとも言えない。力学についていえば、私自身は文句なく原島鮮先生の『力学』(裳華房)を推薦するが、その本が今も出ているのかどうか。電磁気学を学ぶときには私たちの年代なら、高橋秀俊『電磁気学』を学んだものだが、私は砂川重信先生の『電磁気学』(培風館)を勧めたいと思う。そしてもっと進めば、いろいろの本が電磁気学には名著がたくさんあるだろう。しかし、一番初めはこれがいいのではないか。相対論は何を読んだらいいか。私たちはメラーの『相対性理論』(みすず書房)を学んだ記憶があるが、一般相対論の方は今でもあまりよくわからないので、どれがいいかよくはわからない。広江克彦『趣味で相対論』(理工図書)か砂川重信『相対性理論の考え方』(岩波書店)がいいのではないかと思っている。それで初歩を学んだら高等な相対論の本はいくつもある。量子力学を学ぶなら、やはり原島鮮『初等量子力学』(裳華房)がいい。それで初歩を学んだら、また多くの名著がある。私は大学4年生のときのセミナーでSchiffの”Quantum Mechanics” (McGraw-Hill)を読んだ。もっとも全部読んだわけではなくて摂動論のところくらいまでである。またボームの『量子論』(みすず書房)はたとえばエルミート演算子などについてよく分かるように書いてある。その点で私はボームの本にお世話になっている。この本はいまではDoverで安く購入できる。熱力学を学ぶときには何を読んだらいいだろうか。私は統計力学とか熱力学はとても弱いので困ってしまうが、統計力学が理解可能だと思えるようになったのは原島鮮先生の『物性論概説』の統計力学の章を読んだからであった。それまでは統計力学は私には理解可能なものとは思えなかった。熱力学はレオントビッチ『熱力学』(みすず書房)が大学のときのテクストだったが、これはあまり勧められない。いまの私ならムーア『物理化学』上(東京化学同人)1章から3章までを読むのがいいと思う。すくなくともこれくらいしか私は読み通したことがない。統計力学もムーア『物理化学』上(東京化学同人)の4章と5章を読めばいい。もちろん、フェルミの『熱力学』(三省堂)とかの翻訳もあるが、いまでは手に入らないだろう。ブログは消耗品である2016-12-24・新聞が消耗品であるようにブログも消耗品である。だから日々新たな気持ちで書くことが大切で、昔書いたことが大事なわけではない。とはいうものの日々の自分の考えたことを書いているので、ときどきはそれを見直すのがいいと思っている。思想と言えるほどのものが私のブログにあるのかどうかはわからないが、どういう本を読んであんなことを思ったとかそういう風なことは書いていないことが多いけれどもやはり何かを考える動機に読書がなっていることは確かである。最近ではコタツで夜に読んでいるのは図書館で借りて来た「昭和後期の科学技術思想史」である。これに岡本拓司さんが書いている広重徹論は大部なものである。多分日本で書かれた最大の広重徹論であろう。私の不満に思うのは現代科学の発展の歴史をふり返って広重の言ったことが当たっていたのかどうかという視点が欲しいような気がしている。広重徹が亡くなったのは1975年であり、彼が思っていたことがどれほど正しかったかは広重徹論を書く一つの視点ではなかろうか。(2016.12.26付記) 広重は70年代に素粒子で多くの共鳴粒子が見つかったりでして、数百個になったことにいらだっていたと、この岡本拓司さんの広重論にある。そこが私などは不思議に思うところだが、多数の素粒子が見つかったときにすでにそれらを複合粒子として考えるという考えが出ていたのだから、いわゆる本質的な力学としてはまだきっかけもつかまれていないとしても素粒子の研究としてつぎの段階への手がかりは出ていたことになる。それはFermi-Yangの論文に始まり、坂田モデルとつながり、IOO対称性とか1960年代の初頭にはそういうことが出ていた。それがGell-MannとN’eemanの八道説につながり、その後のクォークモデルとなる。そして電弱理論とかQCDにつながっている。Weinberg-Salam理論は1968年には出ているが、くりこみ可能性を’t Hooftが証明したのが1971年というから広重の亡くなる前にはすでに新しい理論の芽はあったのだ。そこらの評価が広重にはできていなかったと思われる。最後の段階への評価はできなかったにしても複合モデルを評価できなかったのは広重としては大きなミスではなかろうか。そういうことは岡本拓司さんの広重論にはもちろん出てこないのだが。遠山啓さんの心配2017-04-26・東京工業大学に勤めていた遠山さんは若いときにレッドパージにかかって大学を辞めさせられるのではないかと心配をしていたときがあったと知った。彼は狭い意味での政治的な人ではまったくないが、その算数教育の方針が時の文部省の方針に反していたので、そのための心配を密かにしていたのだろう。それで、もしレッドパージにかかって大学を辞めなければならなくなったとしたら、文筆で生きていく覚悟をしていたとはなかなか悲壮である。そのことは実際には起こらなかったのだが、それでも算数教育では彼と数学教育協議会のメンバーたちが考案した「水道方式」と「量の理論」とは数学教育に一石を投じることとなった。結局のところ、その教育のしかたが文部省の方針よりも合理的で多くの子どもたちの算数教育に有用であったためにときの政府の介入をもはねのけて、いまではどの算数の教科書も数学教育協議会の教えた方を少なくとも部分的には取り入れるというふうになっている。これで想起するのは戦後の一時期だが、やはり武谷三男がある種のジャーナリストとして文筆で生計を立てていたという事実である。武谷は1953年に立教大学に勤めるまで、大学卒業後、およそ19年にわたって、大学とか研究所に勤めることも会社に勤めることもできなかった。そのための後遺症は長く武谷に残っており、武谷に批判的な人にはその事実の重さがわかっていない、大きな事実だと思う。その不幸にもかかわらず、武谷が物理学者として生き残れたのはあるいは奇跡だというべきかもしれない。遠山は武谷ほどその旗幟が鮮明ではなかったから、大学から追われることはなかった。しかし、レッドパージの覚悟をしていたとは、戦後の政治状況の様子の一環が読みとれる。cleverな人よりもwiseな人を2017-04-28 ・というのは量子力学の行列力学のversionの建設に貢献した、M. Bornの書いた文章が出典であろう。このBornの文章を読んで、湯川秀樹が「cleverな人よりもwiseな人を」という考えを日本の一般に紹介したと思っている。ところが『遠山啓』(太郎次郎社エディタス)の遠山の退官記念講義で「cleverな人よりもwiseな人を」という話が話されている。これは遠山が湯川の話をどこかで読んで、つまみ食いしたというふうに考えるよりは遠山も同じBornの話を独立に読んでいたのであろうと私は考えている。Bornがどういうふうに言っていたのか湯川は詳しく紹介していたはずだが、記憶は確かではない。たぶん、Bornのまわりで学んだ若者はみんな原爆をつくる指揮をしたオッペンハイマーOppenheimerや原爆をつくることには失敗したHeisenbergも含めて優秀な人材であった。だが、Bornは「彼らがcleverであるよりも知恵のあるwiseな人であってほしかった」というような回想をしていたと思う。そのBornの回想を湯川は読んで雑誌「自然」だったかで紹介していた。ちなみにHeisenbergは量子力学の行列力学versionの端緒を与える研究をしたことで有名だが、自分の考案した算法が行列と数学でよばれるものだとは知らなかったらしい。彼の考案した奇妙な算法が実は数学で行列(マトリックス)と呼ばれる算法であることに気がついて行列力学を体系づけた功績はBornとJordanである。量子化条件と呼ばれている、位置座標と運動量の間の交換関係を導いたのもBornとJordanだと言われている。complementary2017-12-07・complementaryという語を今朝はつぶやいている。相補原理という原理をデンマークの物理学者ボーアが思いついた。これは多分量子力学での粒子性と波動性の理解が難しくて、たとえば、電子は一方で古典的な粒子ともみなされるのにやはりある種の波動性ももっている。古典的な描像では粒子とはある小さな箇所に質量とか電荷がかたまっているというイメージだが、一方の波動は空間に広がっている。見て感じることができる波は水面の波である。海の波などがその典型である。この波は電磁波の波などだと空間に3次元的に分布しているのだが、海の波だとある平均的、近似的な平面のまわりで運動している。すくなくとも一カ所にかたまって存在してはいない。シュレディンガーなどはこの波で電子のような粒子をつくろうと考えたらしいが、波は時間が経つと壊れていく。これは海の波などだと大きな波が崩れて白い泡が生じるのでわかる。ソリトンで有名だった広田良吾先生の講義を聞いたときに彼は波の上部の方が下部よりも速度が速いと図を描いて示していた。それで波の上部が早いから一度塊としてできた波群は上部の方が速度が速いから、砕けるのである。よく映画とか写真で上から波が覆いかぶさっているようなところをサーフィンしているサーファーを見る。これなどは波の上部の速度が下部の部分よりも速いために起こる現象である。有名な葛飾北斎の波間の富士などもこういう知識を持ってみると理解できる。北斎がこのことを理解していたかどうかはわからないけれども。私にしても広田先生の講義を聞くまではそんなことも知らなかった。complementaryに返ると、実はあるえらい先生からあるときにSさんと君とはcomplementaryだろうと言われたのを思い出したのである。この S さんも、私が偉い先生だと思っていた、K 先生ももう亡くなって久しい。四元数の流行を下火にした人2018-04-10 ・最近の四元数のブームではかつて四元数の流行を下火にした人がいたなんて、驚きだろうが、いたのである。これはギッブスというアメリカ人の物理学者とヘヴィーサイドというイギリスの電気工学者であったという。要するに実部(またはスカラー部ともいう)のない四元数の積で出てくる、その四元数の実部と虚部が実は現在ベクトルのスカラー積とベクトル積というモノであり、実は有用なのは四元数そのものではなく、ベクトルの現在スカラー積と言われているものとベクトル積と言われているものとが有用なのだとの深い考察を行って、ベクトルを導入したのがギッブスとへヴィーサイドだと言われている。そうすると、ハミルトンは四元数を発見した、創造性に富んだすごい人だったが、それを展開して、ベクトルを導入し、かつそのスカラー積とベクトル積とが有用なのだという洞察をすることができた、ギッブスとへヴィーサイドとの役割も大切なのだとわかる。もちろん、ハミルトンが四元数を発見しなかったら、その後のいわゆるベクトルとその理論は生まれなかったのだが、ギッブスとヘヴィーサイドとはハミルトンとはちがった役割をもっているのだということがわかる。ギッブスは熱力学でも熱力学ポテンシャルといわれるいくつかの関数を導入して、熱力学の様相を大きく変えたという。ヨーロッパの学者からなかなか認めてもらえなかったが、いまでは優れた物理学者であることが知られている。(2018.4.28付記)ボイヤーの『数学の歴史』を読んでいると、ギッブスの先駆者としてグラースマンがいるそうだが、グラースマンの数学を学んだことがない。いつだったか藤川和男さんが松山に来られて講義をされたときにグラスマン数のことを話されたことぐらいしか覚えていない。最近では金谷健一さんの『幾何学と代数系』(森北出版)でグラースマンの数学を学ぶことができるだろう。『物理学天才列伝』下2018-08-20 ・ブルーバックス(講談社)を図書館から借りてかえって、その一部を拾い読みしている。私がおもしろかったのはチャンドラ・セカールであった。南部さんの『素粒子』(ブルーバックス)だったかに天文台からシカゴ大学まで大学院のセミナーをするために出てきていたとか書いてあって、彼のクラスの全員がノーベル賞をとったと説明があった。これはリーとかヤンとかがその直後にノーベル賞をとったことを意味してもいた。そのうちにチャンドラー自身がノーベル賞をとる。わたしが関心をもったのはチャンドラーの最後の研究である、ニュートンのプリンピアの話であった。彼はプリンキピアをはじめからは読まないで、自分で力学の定理を書いてそれを現代的に証明して、それからその点をニュートンがどう書いているかをプリンキピアを読むことで比較したという。そして、どのようにニュートンがうまく力学のことを書いているかを痛感したという。この研究はいつものチャンドラの流儀で本にした。すなわち、チャンドラーは自分の研究の総括としていつもその分野の専門書を書いて、その分野の研究を終わりにしていた。このチャンドラーの最後の研究書は中村誠太郎さんの訳で講談社から出されている。もっともこの本は一万円を超える定価がついていたと思う。もっともこの説明で私もこの訳本を読んでみたくなった。もう数十年も昔のことだが、日本にチャンドラがやってきて、ブラックホールについて物理学会で講演した。その講演の訳が物理学会誌にでていたのだが、その最初の部分のアイディアを使って、試験問題をつくったという思い出がある。入試の問題になるくらいのやさしい話にしたのである。Diracの寡黙とGell-Manのライターズ・ブロック2018-08-27・これらは天才的な学者であった、二人の家庭環境から来ているらしい。Diracの父親はスイス出身のフランス語教師であり、夕食のときにDiracにフランス語を話すように強制したために、英語でもDiracはほとんど話さないようになったと言われている。誰かがフランス語圏からDiracに会いにやってきたときに、フランス語をDiracが解しないと思って一生懸命に英語で話そうとしたとかいう話があり、そのあとでDiracがランス語が話せることを知っておどろいたとか読んだことがある。またフランス語で書かれたDiracの論文もあったはずだ。同じようにGell-Manも心理的要因から文章が書けなくなるという症状をもっていたらしい。卒業論文は完成するどころか、書き出すこともできなかったというから、Gell-Manのライターズ・ブロックは重症である。そういう病気があるとは私自身は聞いたことがない。Yale大学では大学院には進めなかったので、MITに進んだという。そこで、Weiskopfにつく。 Wesikopfからは実践的な物理学を学んだという。「数学的洗練さよりも、証拠と一致するかどうかを重んじろ。できる限り単純さを追い求め、決まり文句やもったいぶった言い方は避けろ」これはなかなかいいアドバイスである。こういうアドバイスをする人はその当時はほとんどいなかったのではないか。私などが育ってきた研究雰囲気と似通っているが、それは横道にそれる。Gell-Manの優れた点は問題の表面的な細部に惑わされずに、「分析的な目」で、その裏に隠されたパータンを見抜く才能にあったという。ただ、列伝の著者も彼が少し嫌な性格の持ち主であったことをほのめかしているようだ。エディトンとチャンドラセカール2019-06-21 ・エディトンとチャンドラセカールとの奇しき因縁を昨夜のNHKのテレビの放送ではじめて知った。エディトンは1916年だったかに観測隊を指揮してアフリカに出かけて、日食のときの星の位置を観測して、それを普通のときの星の位置ときに見える位置と比較して、一般相対性理論の重力による光の曲り方が相対論の予言と一致することを示した。一般相対性理論では3つの実験的検証があるが、そのうちの一つである。ちなみに一般相対論の残り二つの実験的検証は「水星の近日点の移動」と「光のスペクトルの赤方偏移」である。それはさておき、星の一生を研究したエディントンは星の最後は白色矮星になることであると結論した。ところがチャンドラセカールはもし星が太陽の30倍以上の質量をもつと星の最後は白色矮星にはならず、ブラックホールになると予言した。エディントンはこの仮説を認めず、チャンドラをイギリスから追い払った。チャンドラは優秀な人であったから、アメリカに行き、そこでブラックホールとは関係のない,星の研究をしていたが、水爆実験か何かの折に出てくる光か何かの電磁波のスぺクトルが、チャンドラの予言したブラックホールの予想した電磁波のスペクトルに類似しているとの手紙を若い学者から受け取り、約40年前の自分の理論が正しかったことを知るようになった。シカゴの郊外の天文台に勤めていたチャンドラはシカゴ大学の大学院の講義にでかけてきていたが、彼の教えていたクラスからはヤンやリーとかノーベル賞受賞者が続出していたという。その後、彼自身もノーベル賞を受賞した。何年間かあるテーマについてチャンドラは研究するが、そのおしまいに、その分野の研究についてのテクストを書いて、その研究を終わりにするという習慣があった。彼の人生の最後の研究はニュートンのプリンキピアであった。それはプリンキピアの命題を読んで、その証明は読まずに、自分でその命題を証明して、そのあとでプリンキピアの証明を読むという方法である。その本は読んだことはないが、日本語での訳本が講談社から、中村誠太郎訳で出ている。この訳本は定価が1万円以上するもので、1冊公費で購入して大学の在職時代にはもっていたが、退職時に図書館に返却したので、現在は手元にはもっていない。暇ができたら、大学の図書館から借り出して読んでみたいと思っているが、そんな機会が私に来るかどうかはわからない。テラー2019-08-09 ・テラーとは水爆をつくったエドワード・テラーのことである。NHKの昨夜の「フランケンシュタインの誘惑」ではオッペンハイマーを権力の座から追い落して、自分が表にでて、水爆をつくったのはよかったが、オッペンハイマーを追い落とす査問委員会の証言で彼に不利な証言をしたために、その後の科学者社会とのつきあいがなくなって、晩年はとてもさびしかったのではないかとの話であった。ピアノを弾くのが好きであったから、晩年はピアノを弾いて過ごしたという。それでもあからさまにつきあいはなかったかもしれないが、ノーベル賞学者のヤンはテラーの支持でシカゴ大学で学位をとったので、少しはテラーに同情的であった。量子電気力学の業績で知られる、ダイソンもそれほどテラーを嫌ってはいなかったらしい。でも昔からの友だちはみんなテラーから離れてしまったことはたぶん間違いがない。テラーは山登りも好きであった。若いときに、これはたぶんハンガリーにいたときの話だが、電車にはねられて脚を折ったとか聞いている。だから脚がわるかったはずだ。なかなか直観的な理解をする人だとも聴いている。テラーの群論の理解が直観的であったとかヤンの書いた文章で読んだことがある。ただ権力的なところがあり、ちょっと科学者仲間からは人生の途中から大いに敬遠された。F. J. Dysonの死2020-03-02 ・昨日の新聞でF. J. Dysonが亡くなったのを知った。95歳だったという。朝永、Schwinger, Feynmanの量子電磁気学の理論をまとめた理論をつくった人として知られている。同じ年代の物理学者C. N. YangはDysonが上の3人と一緒にノーベル賞をもらえなかったことについて上記3人にだけノーベル賞を授与した委員会の批判的であった。同じ業績に対して3人までの受賞者とするノーベル賞委員会の不文律があるのをC.N. Yangが知らないはずはない。だが、そういう不文律を破ることも、また意味があるくらい量子電磁気学のくりこみ理論に対するDysonの寄与は大きかったとYangは評価していたのだろうと思う。Yangももう高齢だと思うが、彼はまだ生存しているのではないかと思うが、定かではない。Dysonと聞くと、私の妻などはどうも自動で掃除する電気掃除機のようだねと言っていた。最近ではDysonという名前の自動掃除機が販売されている。C. N. Yangの方は2020-03-03・昨日F. J. Dysonが95歳で亡くったというニュースを書いた。一方、C. N. Yang(楊振寧)の方は現在97歳でまだ生きておられるらしい。彼は若いときに中国国籍からアメリカ国籍をとったが、2005年にまた中国国籍を再度取得したとインターネットに書いてあった。奥さんをなくされてか、54歳も年の離れた大学院生と再婚したと話題になったとあった。Yangには何度か国際会議で見かけたり、大学院時代に当時在学していたH大学のコロキュウム室で会ったことがある。小さな黒板に散乱論のセミナーの期日が書いてあったので、scattering theoryのセミナーをしているだねとO教授とY助教授にいわれていた(注)。このときにはイギリス人のKemmerも一緒に来られていたと思う。Yangはきりりとひきしまった顔の人であった。その後、1年後か2年後に大学院をおえてK大学の研究所で非常勤講師を数か月したが、ここで出会った女性の秘書さんがえらくこのYangさんのファンだと言われていたのが、さもありなんと思った。Yangは勤勉な研究者であり、hard workerという定評がある。これはアメリカの物理学会というか、物理学者の世界ではよく知られた事実であったらしい。ベンジャミンフランクリンが大好きで、C.N. Franklin Yangという名前をつけておられる。彼のお父さんは数学者であり、若いときにはアメリカに留学された方であったとか聞いた。中国が中華人民共和国になった後も清華大学に勤められていたとかで、Yangはときどき人民共和国に帰省したりしており、どちらかといえば、中華民国よりも中華人民共和国寄りであると聞いたことがある。これは共同研究者で、ノーベル賞の共同受賞者でもあった、T. D. Lee(李政道)が中華民国寄りであるのと対照的であるとか聞いていた。(注)この訪問後にYangの自著の小さな本を研究室の図書に寄贈するために送ってこられた。こういう細かな配慮がYangが好かれる原因の一つであるのかもしれない。小説『カード師』2020-06-09・小説『カード師』は朝日新聞に現在連載中の新聞小説である。作者は中村文則さん。カード師の私の体験を書いている小説だが、ある人の遺書を私が読んでいるというところらしい。らしいとしか言えないのは私にはちょっと面倒な設定であるので、途中から読むのを諦めたからである。ところが今日は光とは電子とかの波と粒子の2重性の話が出てくる。これは量子力学をまじめに学ぶ人は一度は聞くテーマである。いわゆる二重スリットの話といえば、ああ、あの話なのと分かるくらい有名な話である。もっとも一般の人にこの話がどのくらいわかるかはわからない。朝永振一郎さんのエッセイにこれを簡明に説明したエッセイがあった。「光子の裁判」というタイトルだったか。光は波と思われていたが、これが粒子性をもつものであることは光電効果かとかCompton効果からわかってきた。それで20世紀初頭にこの光の2重性の解釈に物理学者は苦しむことになる。古典物理学的に言うと粒子であるものは波動であるとはいえないし、波動であるものは粒子であるとはいえない。だが、量子力学では光とか電子はその両者の性質をもつものとしてとらえる。それはどういう実験的観測をするかによる。粒子としての位置を測定すると、それは粒子性を示すし、光の運動量をきっちり定めようとする実験をすると波動性が得られる。だったかな?光は波動でも粒子でもない、両方の性質を併せ持つものであるという理解である。これは古典物理学の範疇ではその両方の特性をあわせもつことなどできないが、量子力学ではそれが可能である。いわゆる弁証的統合的理解が必要である。いわゆる、2重スリットでは2重スリットのところで光の位置を観測しないかぎり波として振る舞う。ここを通過した後で光を粒子として観測したときにはその過去が変えられるという風に小説では書いてあったが、2重スリットのところでは何の観測もしていないならば、それは波であったのか粒子であったのかは判定することが出来ないという風に考えると理解している。この話は何十年も量子力学の講義をした来た私にもわからない。私のいまの理解では波としての性質は確率波として理解しており、1個1個は粒子性をもっているのではないかと思っていたが、それも私の思い込みで観測しないときには光が粒子性をもっていたか波動性をもっていたかは何も確定的にいうことができないというのが公式の見解であろう。こういう事実を目に見えるように実験してくれたのが亡くなった、外村彰さんであった(注)。光の粒子は一個一個粒子のようにスクリーン(または写真フィルム)上にやってくるが、それが長時間露光されていると、波動的なふるまいの光の干渉縞が観測される。(注) 外村彰 『目で見る美しい 量子力学』(サイエンス社)は量子力学のテクストとしてはあまり数式の多くない写真の多いすばらしいテクストである。特に66-67ぺージの写真が今回の内容と関係している。この本の価格も2,800円とリーゾナブルである。コンプトン効果を連立方程式の問題にしたら2020-12-02・以前から考えておりながら、なかなか実現しないのが高校数学の連立方程式の練習問題に、コンプトン効果のX線の波長のずれの計算をいれたらどうかと思っている。これは朝永の『量子力学 I』(みすず書房)にこのテーマが取り上げられており、昔一生懸命計算した覚えがある。なかなか計算ができなかったと思う。以前に購入していた『シルヴィアの量子力学』(岩波書店)があるのに日曜に気がついて、その個所だけを読んでみた。面倒そうな式がたくさん出てはいたけれど、それほど難しい計算ではない。どうしてこの問題が難しいと思ったのかはわからない。どうも数学では単に練習問題として出題される無味乾燥な問題が多いが、物理的にも意味のある演習問題であれば、解く人も身が入るのではなかろうかと思う。実は大学を定年退職した後の2年ほどはそういう方式のe-Learningのコンテンツをつくっていた時期があった(注1)。このe-Learningのコンテンツは高校程度だが、理系の大学生で落ちこぼれそうになった人を救うという名目でつくっていた。だが、このe-Learningのコンテンツには三角関数が全く入っていないので、そこを何とかしたいと思いながら、まだうまく三角関数の部分が書けていない。前につくっていた、e-Learningのコンテンツで中性子と原子核との衝突の問題を演習問題として取り上げたことがある。その問題を見て、技術者だった義弟が関心をもってくれた。これは中性子は水の原子と衝突して熱中性子になるための衝突回数だったかに関係している。現在の原発の中性子の減速材としては普通の水を使っている(注2)。どうも原子力だとかだと今はちょっと時代遅れの技術的な問題であるが、80年前くらいはホットな問題であった。(注1)これは私が80歳を越えていて、高校生のことを考えてはいないことの反映である。長い老後生活を楽しむために高校数学だって学んだら、興味深いのではないかという気持ちが強いからである。現役の高校生さん、すみません。現役のときにはこういう楽しさはわからないのは仕方がない。(注2)普通の水と普通でない水があるのかということだが、重水というのがある。これは陽子の代わりに重陽子D_{2}Oでできた水である。高速中性子の減速材としては普通の水(軽水)よりも中性子の衝突回数が少なく熱中性子になる。それで原子炉の減速材として重要視された(注3)。第2次世界大戦中にノールウェイに重水工場があったが、ここをナチスドイツが差し押さえたというので原爆開発をし始めるのではないかという恐れをもった連合国がこの重水工場を襲撃するという映画がある。タイトルは「テレマークの要塞」だったと思う。本当にあった話かどうかは知らない。重水は原爆の材料に直接になることはないと思うが、一般の人は原爆の材料と聞くと納得してしまうところがあるだろう。あくまで原子炉の減速材としての役割だと思う。もっともその原子炉を動かしてプルトニウム239をつくれば、このプルトニウムは原爆の材料になる。日本でも原子炉がたくさん原発での稼働していたので、プルトニウムが蓄積している。これは原爆の材料となる。それで日本の多量のプルト二ウムの蓄積は国際的には日本は原爆をつくるのではないかと、大いに危険視されている。(注3)ウラン235は核分裂するが、これは速度がおそい熱中性子といわれるものによる核分裂の断面積が大きい。天然のウランの99.3%はウラン238でこれは核分裂しない。だが、この多量にあるウラン238が中性子を1個吸収してプルトニウム239となると、これは高速の中性子によって核分裂する。だから、原子炉の中にある一定の割合でプルトニウムを混ぜて高速中性子で核分裂を起こさせることが考えられた。これは普通にはプルサーマルと呼ばれている。こうして蓄積したプルトニウムを消費しようと試みられている。ところが熱中性子による原子炉の制御に比べて高速中性子による原子炉の制御は難しいと言われており、それで原発への信用度が下がっているのが、現状である。原発の燃料のウラン235を燃やした(化学反応で燃やす燃焼とはちがう)後の核廃棄物の半減期が数万年とかと言われているので、この核廃棄物を安全に2万年も保管するかということが問題になるのだが、これはまだまったく技術的に解決していない。特に日本ではどうしたらいいかいいアディアがない。普通に考えられているのは核廃棄物をガラス状に焼結させて、地下深くに貯蔵することである。しかし、その2万年の間にその放射能に汚染された地下水がでて来ないという保証は誰もできない。原発はトイレ無きマンションだと言われる所以である。花粉症2021-02-22 ・私も典型的な花粉症である。毎年2月10日前後から鼻がぐずぐずして鼻汁がとても出る。今年は早めに行きつけの内科の医師に処方してもらった薬のおかげかそれほどひどくはないとはいうものの。もっとも今年は暖かい日もあるので、いずれひどい花粉症の症状に悩まされるであろう。40歳すぎからの花粉症とのつきあいであり、はじめは花粉症という言葉も知らなかったので、風邪にかかったと思っていた。もっとも熱は出ない風邪だが。hey feverという語がヨーロッパにはあることをそのころ知ったのだが、これが日本での花粉症にあたるとは知らなかった。物理学者のハイゼンベルクが若いときからアレルギーに悩まされており、1925年の5月にもひどいHeyfeverにかかった。それでついていた先生のボルンに休暇をもらってHelgoland島に逃避の旅行に出かける。ここで、ハイゼンベルクは量子力学の端緒となるアイディアをつかんで、それをすぐに論文にまとめる。これを読んだ先生のボルンはそこで使われた数学が奇妙であることに悩むが、それはボルンが若い大学生のとき数学で学んだマトリックスであることに気がつく。そして、ハイゼンベルクの論文を発展させる論文を学生のヨルダンと論文を書く。その後休暇から帰ってきたハイゼンベルクと3人でいわゆる三者論文 (drei M”annerarbeit) を書く。これが行列力学と呼ばれた、量子力学のはじまりであった。これは1925年のことである。年が明けて1926年にはド・ブロイの発想に触発されたシュレディンガーの波動力学と呼ばれた、また別の量子力学の論文が発表されることになる。天才は数学だって必要とあれば創り出す。ハイゼンベルクは行列の算法をそれが数学としてすでにあるということを、知らずに発明したのであった。ボルンとかシュレディンガーとかは40歳代であったが、他のハイゼンベルク、ヨルダンとか、また行列力学でも波動力学でもない独自の量子力学を発展させたイギリス人の若い学者ディラックもハイゼンベルクの一年先輩の物理学者パウリもみんな20歳代の前半の研究者であった。それで量子力学はKnabenphysik(少年の物理学)と呼ばれた。ちなみにKnabenは雅語であり、普通の日常生活で話される言葉としてはKnabenという語は使われない。日常での若者という意味のドイツ語はJungeである。いうならば、Knabenはゲーテの詩に出てくるような語である。大栗博司さんの本を手に入れた2021-07-13 ・注文していた大栗博司さんの書いた本を手に入れた。『探求する精神』(幻冬舎新書)である。朝日新聞の書評で物理学者の須藤靖さんが激賞していた。大栗さんには個人的な面識はないが、私たちの発行している「数学・物理通信」の送り先の一人である。大栗さんはもちろん京都大学名誉教授の中西襄先生の友人知人の一人であるから、中西先生からの推薦されたメールアドレスに加わっている。数日はこの本で楽しむことができるであろう。益川さんが亡くなった2021-07-30・先日、Steven Weinbergが亡くなったと書いたばかりだったが、旧知のノーベル賞物理学受賞者の益川敏英さんが亡くなったと知った。昨夜、ドイツ語のオンラインのクラスの途中で、妻がスマホを見て、教えてくれたので、知っていたが、今日の朝日新聞に大きな写真と共に記事が出ていた。名古屋大学の大学院生たちだった益川さんたちが大挙して広島の私たちの研究室を訪れたことはまだ昨日のように覚えている。ほとんど私と同年の人たちであった。みんな、なかなか多士多才の人たちであり、その中でも益川さんはみんなの尊敬を集めているらしいことは分かった。それから何回か私が名古屋の会議にでかけたときにも、友人たちと帰りにどこかに夕食に誘っ てくれた。もう何十年もあってはいなかったが、彼は偉くなっても人柄があまり変わるというふうではなかった。それはノーベル賞をもらった後でも変わらなかったと思う。私よりは1歳年下の81歳だったという。戦争を空襲を受けたという経験で知っている最後の世代だった。学士院賞をもらった後で2021-08-02 ・益川さんが学士院賞をもらった後で私の勤めていたE大学工学部に非常勤講師として来てもらったことがあった。実はその前の年度に来てほしいと要請を研究会に出かけた友人のEさんにことづけしたのだが、その年度はすでに3件の非常勤講師を引き受けていて無理だから、つぎの年は優先して予定に入れておくという話だった。そしてその約束を次の年度には果たしてくれたのであった。もっともそれは彼と小林さんがノーベル賞を受賞するずっと以前のことである。たぶんそのころでもいつかはノーベル賞を受賞するのではないかと思われてはいたが、それでもまだ実験的なevidenceがまだだったと思う。topクォークが発見されたのはそのあと数年してであったと思う。CPの破れの実験的検証とどちらが先だったか。愛媛県出身者としては3人目2021-10-07・真鍋淑郎さんは愛媛県出身者としては3人目のノーベル賞受賞者となった。大江健三郎、中村修二につづいて、3人目である。このうちの2人がアメリカ在住である。すなわち、中村修二さんと真鍋淑郎さんである。二人とも物理学賞の受賞である。もちろん、大江さんは文学賞の受賞者である。大江さんは松山市とも関係があるが、もともとは松山の出身ではない。中村修二さんと真鍋淑郎さんも松山市とは関係があまりない。意外と田舎の方の出身であるのが、独自の個性を生むのに役立っているのかもしれない。科学者は老後に何をするか2021-10-13・昔、「自然」という雑誌が出ていたころ科学者は「老後に何をするか」ということが、その巻頭言か何かで触れられたことがある。物理学者のWeiskopfによれば、1.Do philosophy (哲学をする)2.Do administration (科学の行政にかかわる)3.Do nothing (何もしない)の3つが挙げられたという話だった。それを聞いた朝永さんが 4.Do nonsense (ナンセンスなことをする)をつけ加えられたとか。朝永さん自身は実際には5.Do scientific history (科学の歴史を研究する)をされた。これは著書『スピンはめぐる』(みすず書房)とか『物理学とは何だろうか』上、下(岩波新書)に結実した。特に後者の下巻の熱力学のいろいろな概念の説明は興味深い。これらの著書のうちで、前者『スピンはめぐる』は英訳まで出ている。後者の英訳は出ているのかどうか私は知らない。マックス・ボルン2023-01-17 ・これは「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで雑誌『ひうち』という雑誌に掲載したものである。その中の第4回である。ご参考までにこのブログに掲載する。 (4)マックス・ボルン(Max Born) 1882-197010年以上も昔になってしまったが、ドイツのマインツ大学に留学していたころ、住んでいたMainz-Gonsenheimの近くの森の傍のバスの終点に、M. Bornとのみ記された(小さな)石碑があった。そこになぜ、マックス・ボルンの名を記した石碑があるのか、由来を書いたものが見当たらなかったので結局わからずじまいであった。日曜などに子どもをつれて森を散歩するついでに、よくそこへ立ち寄ってボルンに思いを馳せたものだ。ボルンといっても、たいていの人はそんな名前はご存じないにちがいない。しかし、彼こそハイゼンベルクやシュレディンガーやディラックと並んで「量子力学」の創始者の一人なのだ。特にハイゼンベルクの独創的ではあるが、荒削りの洗練されていない論文から数学的に構造のはっきりした量子力学の理論を抽出したのはまさに彼とP. ヨルダンであった。彼らの量子力学は行列の形で表されるために行列力学と呼ばれている。また、量子力学における状態関数は、粒子がある場所に見い出される確率と関連するという確率波解釈を提唱したり、またボルン近似といわれる粒子の散乱によく用いられる近似法を考案したのも彼であった。ハイゼンベルクの先生の一人であるにもかかわらず、哲学的立場がハイゼンベルクと異なるためか、その評価においていくらか彼はないがしろにされる傾向にある。例えば、ハイゼンベルクがノーベル物理学賞を1932年に受賞したときに、共同受賞したとしてもおかしくかなったのに、ボルンのノーベル賞受賞は1954年であり、ハイゼンベルクの受賞より22年後のことであった。因みに「量子力学」(Quantenmechanik)という語はボルンによるものという。ユダヤ系ドイツ人であったために、1932年から1954年まで、イギリスに亡命生活を余儀なくされた。1954年に帰国し、1970年にゲッティンゲン郊外のバート・ピルモントで亡くなった。私の好きな学者の一人である。(1988.11.20) (2023.1.21 注)Quantenmechanikは英語ならだれでも知っているQuantum Mechanicsである。発音が難しいのでカタカナでつたなくだが、つけておくとクヴァンテンメヒャニークと発音する。ドイツ語をご存知の方はカタカナの発音は無視してください。マイトナー2023-01-26 ・これは『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(12)である。 (12) マイトナー (L. Meitner 1878-1968) いままで女性科学者を一人も紹介していなかった。女性の科学者といえば、だれでもキュリー夫人を思い出す。それほどキュリー夫人は偉大だし、かつ有名である。しかし残念ながら、彼女はドイツ語圏世界の科学者というのははばかられるであろう。ではドイツ語圏世界は著名な女性の科学者を生まなかったのであろうか。そんなことはない。リーゼ・マイトナーやエミー・ネタ―といった名がすぐ思い浮かぶ。力学の「ネタ―の定理」で知られる数学者のネタ―のことは別の機会に譲ることにして、今月はマイトナーをとりあげよう。マイトナーといえば、すぐにペアとなって第1回目に紹介したハーンを思い出す(ベルリンにハーン・マイトナー研究所という彼らの名にちなんだ研究所がある)。マイトナーは、放射線化学者であったオット・ハーンの30年にもわたる共同研究者であった。今日ではあり得ないことだが、昔のドイツでは女性の科学者が大学や研究所の実験室に出入りすることを許可しないというようなこともあったらしく、マイトナーははじめの数年は研究所の木工場の一部を借りて実験を行っていたと言う。 ユダヤ系のオーストリア人であった彼女は、1938年のヒットラーによるオーストリアのドイツ併合と共に「人種法」による身の危険を避けるためにやむなく、ベルリンをはなれてスウェーデンへと亡命する。その直後に、シュトラースマンの意見によって動かされたハーンはイレーヌ・キュリーやフェルミらの実験を追試することになった。綿密な化学実験が何日も何日も続き、その結果ハーンは破天荒な実験結果に達する。すなわち、「天然に存在する最も重い元素ウランに中性子を当てるとできるのはウランよりも重い超ウラン元素ではなく、それよりはるかに軽い二つの元素である」。これがいわゆる「核分裂」の発見である。その意外な結果に驚いたハーンは急いで論文を1938年12月末にNaturwissenschaften誌に投稿すると共にその結果を長年の協力者であったマイトナーに直ちに知らせた。ハーンには自分の発見が何を意味するのかは十分にはわからなかったが、そのことを深刻に受けとめたのはマイトナーであった。彼女はハーンがどれほど緻密にかつ注意深く実験するかを十分知っていたから、その実験事実は疑う余地はなかった。では、ハーンの発見は何を意味するのだろうかと彼女は思い悩んでいた。そこへ、マイトナーの甥の物理学者のオット・フリッシュが伯母とクリスマスの休暇を過ごすためにコペンハーゲンからやってきた。マイトナーは甥の顔を見るやいなや、自分の疑問について議論をふっかける。フリッシュははじめいやいやながらであったが、そのうちに自分も熱心にハーンの発見の解釈についての考察を伯母と共同で行い、結局彼らはいわゆる「核分裂」反応が起こっているという結論に達する。ちなみに、核分裂(nuclear fission)という語はフリッシュによる命名という。こうしてマイトナーはハーンの発見の意味を解明した世界最初の科学者となったが、またわずかな差でノーベル化学賞へのチャンスを逃した科学者ともなった。後年マイトナーはハーンに「1938年にあなたは私を亡命させるべきではなかった」と述べたとハーンの自伝に書かれている。優れた科学者は自己の命よりも研究を優先したい願望をもっているものらしい。(1989.7.14 フランス革命200年の記念日に) (2023.1.26付記)ハーンの回にも核分裂とはなにかを説明できなかったし、今回もその説明はスキップしている。ウラン元素に衝突させる中性子のエネルギーは小さなものである。高速の中性子を当てるのではない。原子炉のことを知っている人は中性子の減速材として軽水とか重水を使うことを知っているであろう。減速されてよたよたの中性子の方が高速の中性子よりも核分裂を起こさせる断面積が大きい。高速中性子で核分裂を起こさせる原子炉もあるが、そういう元素はプルトニウムであり、核分裂を起こさない天然のウラン元素U238が中性子を吸収してプルトニウムをつくり、そのプルトニウムは高速の中性子によって核分裂を起こす核分裂断面積が大きい。そいうふうにしてプルトニウムをつくりながら、エネルギ-を取り出す原子炉を高速増殖炉という。もっともそういう炉は実用化されていない。将来的にも実用化できる見込みはあまりない。フォン・ノイマン2023-01-27 ・これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(8)である。 (8) フォン・ノイマン (J. von Neumann 1903-1957) 天才はしばしば短命である。美人がそうであるように。これは神が多分にその才能や美しさを妬んだためかもしれない。原爆製造に関係して比較的若くして亡くなった天才的科学者としてはエンリコ・フェルミとかフォン・ノイマンがいる。イタリア系のフェルミはドイツ語圏世界の科学者とはいいがたいが、ハンガリーの首都ブタペスト生まれのノイマンは明らかにドイツ語世界の科学者である。ノイマンは数学者であったが、大学でははじめ化学を専攻した。オッペンハイマーとかウイグナーとかいった物理学者もはじめは化学専攻であったそうだから、化学は万学への契機を与えるのであろうか。日本でも、理論物理学者には意外と電気工学出身とか化学出身の人で成功しているが多いのは世界的傾向とまったく似通っている。ドイツのSpringer社の黄表紙シリーズの中にある“Die Mathematsiche Grundlagen der Quantenmechanik” (『量子力学の数学的基礎』)はノイマンが29歳のときの著作という。十年ちょっと前に数学者のY先生からこの本の内容の手ほどきを受けたことがあったが、Y先生もそのエレガントさにしきりに感心されていた。しかし、この本は私のような数学オンチには簡単に読めるような代物ではない。関数解析、量子力学、ゲームの理論、プログラム内蔵型コンピュータの普及発展等々ノイマンの業績はまことにすばらしい。ノイマンは驚くほど記憶がよいだけではなく暗算能力にも優れていたという。しかし、その彼が初期のコンピュータENIACのことを聞いてそれにすぐ夢中になったというのはおもしろい。ものすごい暗算の達人だったからこそ、人間の能力の限界をよく知っていたのだろうか。ノイマンはロス・アラモス(スペイン語でポプラを意味する)の原爆実験場に長くいたために、ガンに侵されたのではないかといわれている。そういえば、ロス・アラモス研究所長であったオッペンハイマーや原爆製造の指導者の一人フェルミ、ごく最近ではファインマンといった人々もガンに冒されて亡くなっている。広瀬隆のノンフィクション『ジョン・ウエインはなぜ死んだか』に述べられているような事実がロス・アラモス関係者に現れるのは当然の結果かもしれない。今世紀初期のハンガリー出身の優れた一群の科学者たちの出現、例えば、ウィグナー、ノイマン、ガボーア、テラー、シラルドも興味津々であるが、このことについては別の機会に譲ることにしよう。「ジョニー(ノイマンのアメリカでの呼び名)は本当は悪魔なんだけれど、人間の中で暮らして人間の真似があまりにうまくなったんで、とうとう自分が悪魔であることを忘れてしまったのさ」と数学者の森毅は『異説数学者列伝』のノイマンの項を書き始めている。(1989.4.15)オッペンハイマー2023-01-30・これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(6)である。(6)オッペンハイマ― (J. R. Oppenheimer 1904-1967)中部ドイツを流れるライン河が北から西へと大きく折れ曲がり、マイン川と合流する地点にあるマインツから南に20kmほどのところにオッペンハイムというワインの産地として有名な小さな町がある。この地がオッペンハイマーの父祖の地であるかどうかは定かではないが、明らかに彼はドイツ系のアメリカ人であり、若くして黄金時代のゲッティンゲンに学んだ。オッペンハイマーの名はマンハッタン計画と呼ばれた原爆開発と分かちがたく結びついており、しばしば彼は原爆の父と呼ばれる。また彼を悲劇の主人公とするのに好都合なことにマッカシーによる赤狩りによって一切の公職から追放されるという経験もしている。栄光からの転落であった。現代のガリレオ・ガリレイといわれる由縁はここにあるオッペンハイマ―の評伝はこうした彼の経歴からか、優れた才能をもった物理学者でありながら、一級の物理学の業績をあげ得なかったために、その代償として原爆開発の指導者としての世俗的な名誉の道を選んだのではないかと述べている。 私もそれは十分にあり得ることと考えるが、このオッペンハイマーの物理学上の評価は現在では変わってきている。たとえばノーベル物理学賞受賞者である、C. N. Yangは彼の最近出版された論文選集の中で、オッペンハイマーの中性子星やブラック・ホールについての先駆的な研究は今日、偉大な物理学および天文学上の業績として認められるようになったと述べている。人の真の評価は棺を覆った後にもなお直ちには定まらないということだろうか。(1989.1.2) (2023.1.30 付記)この文章を書いた後で、オッペンハイマーがブラック・ホールの観測可能性だとかの話題が出るといつもすぐにその話をそらしたとか、F. J. Dysonの書いた文章の中で見かけたような気がするが、定かではない。ちょっと込み入った感情をオッペンハイマーは自分の研究についてももっていた人かも知れない。SchiffだとかBohmの量子力学のテクストの序文にオッペンハイマーへの謝辞が書かれているので、彼が優れた物理教師であったことがうかがえる。本文ではそれについて触れていないのは片手落ちだったかもしれない。朝永振一郎2023-01-31・これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(13)である。 (13) 朝永振一郎 (Sin-itiro Tomonaga 1906-1978) 朝永振一郎と見たとたんに「ええっ、どうして朝永さんがドイツ語圏世界の科学者なの」と不思議がる読者の顔が思い浮かぶ。その通り、朝永は日本の科学者であって、ドイツ語圏世界の科学者ではない。しかし、この一連の記事では表題の意味を広く解釈することにしている。その一例はオッペンハイマーであった。朝永とドイツ語圏世界とのかかわりは1937年の彼のライプチッヒ留学に始まる。当時すでにヒトラーはドイツの政権を掌握していた。当時、理化学研究所の仁科芳雄博士のもとにいた朝永は日独学術交流事業の一環としてライプチッヒのハイゼンベルクのもとへと研究にでかける。 ライプツィッヒの日独学生寮に住み、日本語、日本文学専攻のドイツ人学生とのつきあいながら、原子核物理学の研究を続ける。そのときの滞独日記は現在では『朝永振一郎著作集』(みすず書房)に収められているので、読まれた方も多かろう。そのトーンはその当時の政治情勢を反映してかなにか陰鬱で、センチメンタルでもある。ハイゼンベルクの下にも、ほとんど優秀な学生は残っていなかった。しかし、彼の助手で、後に空軍に入り偵察飛行に出たまま帰ってこなかった、共産主義者のハンス・オイラーは優秀な若い学者として将来を嘱望されていた。ハイゼンベルクもオイラーの才能とその早すぎた死を悼んで自伝『部分と全体』(みすず書房)でオイラーについて一章を割いている。 朝永の滞独日記にもこのオイラーに彼の論文をほめられたとある。このころのハイゼンベルクは「白いユダヤ人」と言われ、ナチへの非協力者として当局からは白い眼でみられていたらしい。ハイル・ヒトラーと挨拶して大学での講義を始めなければならなかったので、あいまいに手を振って挨拶をするハイゼンベルクを何度も見たと朝永は述べている。 さて、「滞独日記」は決して明るいものではないが、その陰で朝永の懸命な研究生活がつづく。ハイゼンベルクの物理的思考法やフィーリングを着実に吸収している。そしてその成果は帰朝後の1943年の超多時間理論、1947年のくりこみ理論へと結実する。敗戦直後の日本で朝永は一躍世界の研究の最前線に躍り出て、アメリカのシュウインガー、ファインマン、ダイソンといった若い天才物理学者と競い合う。そのころ、ハイゼンベルクはくりこみ理論の論文を読んで、あなたの「生きているしるし(Lebenszeichen)」を見たと朝永に書き送っている。 朝永の著した量子力学のテクスト『量子力学I, II』(みすず書房)は不朽の名著だが、特に『量子力学I』は何度読んでも感銘を受ける。純然たるテクスト風の書籍でこんなに感銘を受けるものが他にあっただろうか。 私には朝永の講演を何回か聞く機会があったが、もっとも印象に残っているのはなんといっても、第二回科学者京都会議の直後に広島市公会堂で行われた「平和を創造するための講演会」での彼の講演であった。このとき彼はPugwash会議の歴史と現状について話した。 「このごろPugwashが“平和のために努力する”という意味の動詞として使われ、pugwash, pugwashed, pugwashedと規則変化します。みんなでpugwashしましょう」と朝永が話を結んだときの会場中の笑いとどよめきと深い余韻は今も私の体の中に残っている。(1989.8.30) (2023.1.31付記)朝永さんについて30年を経たいま何か書き加えておこうかということが思い浮かばない。その後にも朝永さんの講演は聞いたことはあったのに。まったく何も考えが思いつかなかったか、それともいろいろと思ったことがあったのだが、忘れてしまったのかは今ではわからない。その後、朝永さんは科学者の原罪みたいな思想を説くようになられたと思うが、その思想にはあまり賛成ではない。(2023.2.1付記)朝永さんの著書に関係したことでは『スピンと角運動量』(みすず書房)のPauliマトリックスの導出の箇所をフォローして「数学・物理通信」にエッセイを書いたことがある。量子力学を学んだ人でPauliマトリックスを知らない人はないが、これはあまりにも有名なのだが、その導出までは知らない人も多いかと思って書いたメモである。『スピンと角運動量』では他の本ではあまり見ない取り扱いも一部あり、その点で長い間わからなかった点があった。頭のいい人に尋ねてみたいと思いながら、それを果たせず、結局自己流に理解して、Pauliマトリックスの導出を説明したエッセイを書いた(「数学・物理通信」9巻10号(2020.2.3)20-30)インターネットで検索すれば、見ることができる)。もとより量子力学では角運動量の一般論を学ぶので、その一般論で角運動量の大きさが1/2 \hbarであると特定して、Pauliマトリックスを導くのも一つの方法ではあるのだが。(2024.1.12付記)上の付記を書いてからほぼ一年後の今思うことは朝永の岩波新書『物理学とはなんだろうか』下巻のIII章(2 熱と分子、3 熱の分子運動論完成の苦しみ) を読んで私の熱力学の認識を少しでも深めたいという気持ちが少し起って来ている。そういうことが私にできるのかどうかは実際のところはわからないが、そういう気持ちがちょっぴり起っていることだけは確かである。ゲーデル2023-02-02・これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(15)である。 (15) ゲーデル (K. Goedel 1906-1978)今月はゲーデルをとりあげよう。ゲーデルについて私の知っていることはほとんどない。私の思いつく手がかりとしてはホフシュタッターの本『ゲーデル、エッシャー、バッハ』くらいなのだが、これが訳本でも765ページの大著ではじめから読む気力を失わせるような本でとても参考資料にはなりそうにない。もっともホフシュタッターの父親はノーベル賞を受賞した物理学者で、私はその昔、学部学生のときの卒業研究のテーマで「原子核の荷電分布」というのを与えられ、ホフシュタッターの論文を読んで、その実験結果を簡単な仮定から再現することを試みるというような行きがかりはあったのだけれど、これはまったく本題からはずれる。ゲーデルはウィーン大学で数学と物理を学んだ後、プリンストンの高級研究所 Institute for Advanced Studyで研究をし、そこで亡くなった。彼は現在のチェコスロバキアのBruno(当時のオーストリア・ハンガリー帝国のBruenn)の生まれというから、正真正銘のドイツ語圏世界の科学者である。彼ほどの数学者がプリンストンで正教授になったのが、46か47歳のときだというから、決して早い方ではない。ゲーデルは天才的な数学者であるノイマンに数学基礎論の研究を断念させるほどすごい学者であったらしい。ゲーデルの業績は「どんな矛盾のない公理系も不完全である。すなわち真か偽か決定できない命題をもつことを証明した」ことにあるという。このことは思想的観点からみてもきわめて重要であるといえよう。公理系がその自己完結性をもたず、つぎからつぎへとつながって行くところが、ホフシュタッターの本『ゲーデル、エッシャー、バッハ』のモチーフでもある。しかし、一つの理論体系が自己完結的になりえないという考えはゲーデルとの関連においてではなく既に私たちは知っている。それは坂田昌一の自然の「無限の階層性」の哲学である。いかに見事な物理法則の体系が完成してもその中にはかならず偶然に支配される現象的な要素があり、それについての考察がつぎの新たな論理を生むというのが坂田の終生変わらぬ信念であった。たとえば、現在の素粒子の標準理論といわれる電弱理論においても対称性の破れといった問題があり、それについてはヒッグス・セクターの問題といった形で現象論的段階のまま残されている。数学基礎論についてのヒルベルトの公理主義の立場ははじめ成功したかに見えたが、結局ゲーデルでの不完全性定理によってその夢は打ち砕かれてしまった。しかし、「形式的公理系は不完全だが、その背後には絶対的な数学的実在がある」とゲーデルは考えていたらしい。この考えは今は亡き遠山啓らの数学協議会に集う人々のとっている立場に非常に近い。ところでゲーデルの不完全性定理に対するゲーデルのこの考えは量子論にはじめて確率概念を持ち込んだアインシュタインがこの確率概念を最後まで本物だと思わなかったことと極めて類似していて興味深い。数学者の倉田令二朗によれば、「ノイマンがプリンストンの悪魔」なら、さしずめ「ゲーデルは魔王」であり、彼は年中、リュウマチ、熱、消化不良、風邪に悩まされ、極度の対面恐怖症のため部屋にカーテンを常に引き、黒眼鏡をかけて部屋の隅にうずくまっていたという。天才たることもまたつらいことだ。我々は凡人であることを喜ぶべきかもしれない。(1989.10.20)ライプニッツ2023-02-03 ・これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(3)である。 (3) ライプニッツ (Leibniz 1646-1716)数学は自然科学の中に入れないという人もあるが、私はやはり数学も自然科学の一つであるという立場をとりたい。それに17世紀のライプニッツの時代には今ほど数学と自然科学とは分離していなかった。いやそれどころか後世に科学として確立する分野の天文学(Astronomie)と化学(Chemie)は占星術(Astrologie)や錬金術(Alchemie)とはそんなに明確には分離していなかった。ところで、微分積分学の創始者としてはライプニッツよりもニュートンの方がよく知られているが、ライプニッツも疑いもなく微積分学の創始者の一人である。高校で学ぶ微分積分学ではもっぱらライプニッツの考案した微分記号や積分記号 が用いられており、ニュートンの用いたといわれるドットと呼ばれる のような記号は大学程度にならないと教わらない。それだけとっても、実際の微積分学への影響としてはライプニッツの方がニュートンよりも大きい。ただし、微積分法そのものの発見はニュートンの方が10年ほど早かったといわれている。私的なことで恐縮であるが、私はこのウナギのような形の という積分記号 ∫ が大好きである。先入観としてそうなのであるから不思議である。微分と積分とはどちらが難しいかといえば、だれでもすぐ積分と答えるし、そうにはちがいないのだけれども、この ∫ を書くたびにひとりでにその形の優美さにほれぼれしてしまう。記号の偉大さとはこんなことをいうのだろうか。とんだ方向に話がそれてしまったが、ライプニッツの科学への貢献には計算機の改良、記号論理学の創始等もある。哲学者、数学者、政治家で百科全書的天才である。ライプチッヒ生まれのライプニッツとはなんだか語呂あわせのようだ。(1988.11.4) (2023.2.3付記)この文章を書いた後で大田浩一(東京大学名誉教授)さんの書いた本を読んだら、彼はドイツ人からライプニッツと発音するのではなく、ライブニッツと発音すべきだと教わったと書いてあった。ただ日本ではライプニッツと発音する人が多いと書かれた独和辞書もある。友人のドイツ人R氏にこの点を糺してみたが、両方の発音があるとのことだったので、決着はついていない。ミュラー、べドノルツ2023-02-04 ・これは以前に「燧」という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載されたものの(2)である。 (2)ミュラー (K. Alex Mueller 1920- )べドノルツ (J. Georg. Bednortz 1950- ) ミュラー、べドノルツと聞いても一般の人はもちろん超電導を専門にしない物理学者は何をした人たちだったんだろうと思うかもしれない。かく申す私もそのうちの一人である。しかし、高温超電導体研究の端緒を与える研究を行った学者だといえば、物理学者ならずとも「ああ、あの超伝導フィーバーを引き起こす研究をした人たちだな」と思い及ぶに違いない。これほど世界を賑わせた画期的な研究は最近あまりなかった。超伝導研究に世間の関心を集めたせいか、マスコミでは物理学の主流は高エネルギー物理学から固体物理学に移ったとまで述べるものが多くなった。液化窒素の温度(零下196度)で冷却することによって超伝導現象を呈するセラミック超伝導体はいままで高価な液化ヘリウムによって冷却しなければならなかった超伝導の世界を大きく拡げてしまった。特にその工学的応用が大きく期待されている。「電力貯蔵」「超伝導磁石による核融合発電」「損失のない超伝導送電」「超伝導磁石による高速モノレールカー」等々。これらは、実際には21世紀以降の技術的課題となるであろうが、だからといってミュラー、べドノルツの発見の価値が低くなりはしない。ミュラーはバーゼル(Basel)生まれのスイス人でチューッリヒ連邦工科大学(ETH Zuercrich)の出身、またべドノルツはミュンスター生まれのドイツ人でミュンスター大学からETHに学んだという。両人とも現在IBM チューリッヒ研究所所属、1987年度のノーベル物理学賞を受賞した。(1988.9.28) (参考文献)1.科学 58巻1号(1988)(岩波書店)2.中嶋貞雄、『超伝導』(岩波新書)ハイゼンベルク2023-02-06・ これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(9)である。 (9) ハイゼンベルク (W. K. Heisenberg 1901-1976) 5月にふさわしいドイツ語圏世界の科学者としてハイゼンベルクを紹介しよう。一般に天才というものは早熟である。ハイゼンベルクもこの例外ではない。彼が量子力学への正しい一歩を踏み出したときまだ23歳であった。 量子力学はパウリによって少年の物理学(Knabenphysik)とまさしく呼ばれたように、ボルンやシュレディンガーのような例外はあるが、若者のための、若者によって創られた物理学であった。このときハイゼンベルク、パウリ、ディラックらの天才はすべて20歳を少しでたばかりであった。 ボルンがパウリに会ってハイゼンベルクの量子力学の構想をはっきりと数学的に定式化するのに協力してほしいと申し出たとき、パウリは毅然としてこれを断ったという。当時すでに40歳を越えていたボルンのような「老人」は量子力学のような若者の物理学に首を突っ込むべきではないというのがパウリの考えであったという。パウリの強烈な個性に辟易するボルンの姿が目に見えるようだ。 それはともかく、ハイゼンベルクが彼の正しい量子力学、すなわち行列力学へのきっかけをつかんだのは1925年5月のことであった。彼はひどい枯草熱にかかったためにそれを避けるために休暇を申し出てヘルゴランド島に出かける。ここで彼は自分の研究を仕上げたのであった。 枯草熱(Heufieber)とはどんな病気なんだろうと私は長年疑問に思ってきた。山崎和夫訳のハイゼンベルクの自伝『部分と全体』(みすず書房)にもユンクの『千の太陽よりも明るく』(文芸春秋新社)の訳にも枯草熱と訳されているが、枯草熱とは花粉症のことらしい。天才ハイゼンベルクも我々と同じ花粉症に悩まされていたと聞いて、ぐっと身近に感じるのは私だけではあるまい。 彼が1967年に日本にやって来たとき、私も彼の英語での講演を聞いたが、内容はよくわからなかった。プラトンとかイデアとかそんな言葉のみが頭に残っている。がっしりした体格で頭の前の方が禿げ上がっていたのを記憶している。晩年の写真としてよく見かけるあの風貌であった。伝記等にある写真でよく見かける、あのさっそうとした若者の姿はどこにもなかった。 その講演のつぎの日は雨で私は大学に行かなったが、ハイゼンベルクは宮島への観光をキャンセルして、私の先生のO教授と物理の話をしたらしい。O教授の部屋からニコニコと上機嫌(in guter Laune)で出てくるハイゼンベルクを見たと友人の小林正典君(故人、岐阜大学名誉教授)から後日聞いた。 1976年4月から1年間ドイツで研究生活をすることとなった私はモスクワ、コペンハーゲンを経由して、この年2月1日にフランクフルトに着いた。後で知ったことによると正にこの日にハイゼンベルクは死去したのであった。そのことをその後、知ったとき、なんだかドイツの科学のロマンの時代が終わってしまったと感じたものだ。 ハイゼンベルクの業績は多岐にわたっている。量子力学の創設は彼の一番大きな業績であろうが、その他に不確定性関係(不確定性原理と普通呼ばれている)や場の量子論、原子核の構造、強磁性体の理論、非線形場による素粒子の統一理論等どれ一つとってもすばらしいものである。(1989.5.5) (2023.2.6付記) 北海の島でリゾート地のヘルゴラント島はいつだったかテレビで見たところでは海岸の崖が赤くてそれが印象的な島であった。岩がごつごつしていてあまり草花が咲かないので枯草熱が悪化しない理由であるとか聞いた。枯草熱とは、春先の草花とか木の花とかが咲くころに40度近い熱が出て体調が不調になるのだということをアメリカに長く留学していたことのある、元同僚から教えてもらった。この方も春先には鼻の頭を赤くされるほどの花粉症であった。日本では花粉症は鼻汁がすごく出るのが普通かと思うが、枯草熱は鼻汁が出るとはあまり聞かなかったような気がする。むしろ高熱が出て気分がとてもわるいのだという。 私も花粉症なので、花粉症の悩ましさはわかっているつもりだが、私の花粉症は高熱が出ることはない。2月のいまごろから4月終わりまでの花粉症は毎年悩ましい。(2024.4.1付記)Heisenbergの行列力学を知るには朝永振一郎の名著『量子力学 I』(みすず書房)を読まれるといいだろう。促成栽培的に量子力学を学ぶためにはこの書はちょっと遠回り的なので、はばかられるが、それでも読んでわくわくする書である。純粋の科学書でこういうわくわく感を他の書では残念ながら、感じたことがない。こういうわくわく感を読者に感じさせる本を書ける人はどんな方なのであろうか。(2024.9.4付記) 現在のNHKのラジオのドイツ語講座「まいにちドイツ語」で今月にはHelgolandが舞台となっている。またNordseeのWattenmeerが先月だったか話題として出てきた。私のブログではHeisenbergに関係してHelgolandについて述べたことがあるし、NordseeのWattenmeerについても述べたことがあった。もっとも私自身はHelgolandに行ったこともないし、NordseeのWattenmeerも見たことがないのだが。(2024.11.4付記) このブログではNordseeのWattenmeerについてもどこかに書いてあるのだが、読者にそれを検索して探せというのも不親切なので付言する。Wattenmeerは引き潮のときにずっと何キロメートルも干潟のできる海のことをいう。Nordseeはそういう海らしい。フランスの有名な観光地であるモン・サンミシェルも北海に面しており、ここも干潟が沖合に向かって引き潮のときに干潟ができるらしい。そしていまではそういう人もいないだろうが、満ち潮のときには馬車で駆けてくるくらいの速さで潮が満ちてくると聞いている。昔はそれで引き潮のときに沖合まで歩いて出てしまって潮の満ちるのが早くて溺れて亡くなった方がいるとか噂で聞いている。Wattemeerという語は私のドイツ語の教師でもあるドイツ人のR.R.氏から教わった語である。日本で普通にドイツ語を学ぶ学生なら、こういう語は中級にならないと知らない語であろう。 パウリ2023-02-07 ・これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(10)である。 (10) パウリ (W. Pauli 1900-1958) ハイゼンベルクといえば、すぐにペアとなって思い出される科学者として今月はパウリを紹介しよう。パウリはハイゼンベルクの一つ年上でミュンヘン大学のゾンマーフェルトの学生としてはハイゼンベルクの先輩である。ハイゼンベルクが野や山やWanderungを好み、「太陽の子」と呼ばれたのとは対照的に都会を好み夜毎に酒場に姿を現したという。性格的にも正反対のこの二人は終生深い友情で結ばれていた。 パウリはウィーンの出身でゾンマーフェルトのもとで20歳になるかならぬで相対性理論についての論文を書いた。その理解の深さ、透徹した論理や鋭い批判によってこれを読んだ人は誰もこれが20歳の若者の作とは信じなかったという。日本でもゲージ理論の先駆的な研究で有名な内山龍雄氏を驚嘆させている。 パウリはまた「パウリの排他原理」の名で知られる事実を雑多な実験事実の中から本能的にかぎだした。現在では、「排他原理」は美しい数学的形式で表され、このことから「排他原理」はこの方式ではじめて定式化されたのかと思いがちなだが、実はそうではない。 パウリはあまりに批判的でありすぎたために、彼によって事前につぶされたいくつかの発見があり、その中でとりわけ有名なのはクロニッヒによる電子のスピンの概念の提唱がある。クロニッヒはパウリがこのスピンの考えに賛成しなかったために、電子のスピンについての自己の考えを発表するのを見合わせた。その直後にオランダのライデン大学のエーレンフェストの学生であったウーレンベックとハウトシミットが電子のスピンの考えを提唱し、このときは何故かパウリはそれほど反対しなかったために、電子のスピンの概念の提唱は彼らによるものとなった。 しかし、意外に決定的なところでパウリは彼の肯定的な裁可を与えている。それはハイゼンベルクの量子力学の着想に関してである。ヘルゴランド島から休暇の帰途、当時ハンブルクにいたパウリを訪ねたハイゼンベルクは彼の量子力学の着想をパウリに話したが、ここでパウリはそれについて彼の支持を与えたのであった。ハイゼンベルクにとってパウリの支持は他の誰の支持よりも心強く感じたにちがいない。 パウリはもちろんハイゼンベルクの才能をよく認識していたにちがいなかろうが、事毎にきびしい批判的言辞を披露してはばからぬパウリが認可を与えたというのはやはり彼の天才的な直観によるものであろうか。その直後パウリは水素原子の問題をハイゼンベルク流の行列力学の手法で解いてみせ、世間をあっと言わせた。そしてこれが行列力学の信用をつとに高めたのであった。しかし、この方法はとても複雑をきわめるために私たちが水素原子の問題を大学で教える際には、よりやさしい波動力学的手法によることがほとんどである。 その後、ハイゼンベルクと組んでの「波動場の量子論」の論文はその当時の場の量子論の集大成でもあった。さらにベータ崩壊に関してエネルギー保存則が確率的にしか成立しないのではないかと言われたときに、「ニュートリノ」という未知の粒子を導入してこの困難を救ったのもこのパウリであった。そして、この粒子は数十年後であったが、実験的に発見された。 彼の著した量子力学のテクスト『波動力学の一般的原理(Die Allgemeinen Prinzipien der Wellenmechanik)』はディラックおよび朝永の量子力学のテクストと共に量子力学の三大名著と言われている。 パウリは第2次世界大戦中はアメリカやスイスにいて、純粋な物理の研究に従事し、他の大多数の物理学者とは異なり、軍事研究には関係しなかった。その点で、ナチス治下のドイツで原子力研究に従事したハイゼンベルクやその周りの人々について彼がどのように感じていたかはとても興味のあるところである。 死の直前になって、パウリはハイゼンベルクと再び一つの共同研究を行っていた。これが世にいう「宇宙方程式」である。しかし、あるときパウリはハイゼンベルクと意見を異にし、ある学会において厳しい口調で彼を非難し始める。その批判は遠慮会釈もなく猛烈を極めたものであったという。その場に同席した物理学者でノーベル賞受賞者のC. N. Yangは、激昂しているパウリに対してそんなときでも冷静さを保っているハイゼンベルクの姿に感銘を覚えたと語っている。 「物理学の法王」といわれたパウリは59歳で世を去った。日本でも湯川、朝永、坂田、武谷といった素粒子物理学者の中で坂田が一人、59歳の若さで世を去ったが、人の良い点をみて、悪い点をあげつらわなかったという点で坂田とパウリはまったく正反対の極致にあると思われる。しかし、政治的、学問的信条において自分の信じる点を譲らなかった点では坂田とパウリは相通じるものを案外持っているのかもしれない。(1989.6.6) (2023.2.7付記)この「ドイツ語圏世界の科学者」も残りが少なくなってきた。昨日のハイゼンベルクと今日のパウリはそのハイライトであろうか。同じ物理関係のブログのkouzouさんと同じ人を取りあげることになっているかもしれないが、視点はまったくちがうはずである。もともとこれらの記事は雑誌「燧」に掲載される前にパンフレット”Zeitung der deutschen Gruppe in Ehime”に毎月掲載したものである。これはNさんという方が始められた松山でドイツ語を学ぶ小さなグループがdeutsche Gruppe in Ehimeであった。それに関係していたドイツ人の友人R氏がNさんに共鳴して出されていた、小冊子が”Zeitung der deutschen Gruppe in Ehime”である。別にR氏から特に強く勧められたというわけでもなかったが、彼に協力するということもあって書き続けたと思う。それをまとめて、その後に雑誌「燧」に掲載したといういきさつがある。これまでこれらのエッセイが読者を十分に得たとは思わない。このブログでの発表によって何回目かの発表したことになるが、これを読んでまったくの的外れのエッセイだとかいうような批評はどこからもまだもらったことがない。ヨルダン2023-02-08・これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(11)である。 (11) ヨルダン (E. P. Jordan 1902-1980) 後年ワインの当たり年として知られるようになった1976年の5, 6, 7月はドイツ、いや、ヨーロッパではカンカン照りの日照り続きであった。私たちの住んでいたマインツ郊外のWohnungの前庭の芝もこのときほとんど枯れてしまった。雨が降らないため、渇水で庭に水を撒くことも自制するようにとテレビ、ラジオで放送されていたらしい。何日も何日もほとんど雨らしい雨も降らないために空気が乾燥しているせいか喉がからからに乾く。一般にヨーロッパでは5月、6月は一年で一番よい季節で晴れたよい天気が続くのが普通だ。しかし、この年は少し異常だったようだ。あくまで澄んだ空をジェット機のつくる飛行機雲のみが幾条もの白い直線となって残り、やがて消えていく。私たちの町からフランクフルト空港へは車で30分くらいのせいか、この飛行機雲の絶えることがない。 このころのある日、私たちのWohnungのブザーが鳴った。誰だろうと玄関口に降りて行ってみるとE大学の素粒子論の研究仲間である、Eさんであった。彼は7月8日からアーヘンで開かれる「ニュートリノ国際会議」に出席するために昨日ブラッセルに着き、すぐに飛行機を乗り継いでフランクフルトからマインツにやって来たという。 私たちは数か月ぶりの再会を喜び合った。数日して彼はアーヘンに汽車で行き、私は家族と一緒に車でアーヘンへと出かけた。学会本部で郊外に宿を斡旋してもらい、そこからアーヘン工科大学の講堂で開かれている学会へと通った。 何日目かの朝、会場の方へ歩いて行くとマインツ大学のKretzschimar教授が大急ぎでやってくるのに出会った。「どうかしましたか」とたずねると、「ヨルダン教授の講演があるのです。ヨルダン教授を知っていますか」という。「もちろん知っています。私もその講演を聞きに行くところです」と答えると、「では急ぎなさい」と言い残して彼は足早に先に行ってしまった。後からふうふういいながら会場に入り、真ん中の少し前の方に席を見つけた。会場はすでにほぼ満員である。 アーヘン工科大学のFaissner教授のヨルダン教授の紹介に引き続いて、ヨルダンの「ハイゼンベルクの思い出」と題する講演がドイツ語で行われた。内容はほとんどわからなかったが、「Drei-Maenner Arbeit(三者論文)呼ばれる著者である、ボルン、ハイゼンベルクと私は・・・」というところだけはなぜか耳に残っている。 私たちのように量子力学をすでにできあがった学問として学んだ者はもうこの三者論文を勉強したりはしなかった。しかし、『量子論の発展史』(中央公論社)の著者である高林武彦氏によれば、この三者論文とシュレディンガーの一連の波動力学の論文とはまさに横綱相撲でまことに堂々としたものであるという。 老齢のためだったのか、または、病後であったのかこのときヨルダンは椅子に腰を下ろして話をした。白髪でハイゼンベルクより長身に見えた。謹厳な風貌の人で、講演の後、聴衆の拍手に手をあげて応えられたのがいかにも印象的であった。それから数年してヨルダンは亡くなった。 ヨルダンはハイゼンベルクより1歳年下で、パウリ、ハイゼンベルク、ヨルダンの3人は引き続いてボルンの助手をつとめた。ハイゼンベルクの量子力学の着想に触発されたボルンが量子力学の数学的定式化の研究にとりかかろうとしてパウリの協力は断られたが、すぐさま年は若いが俊秀のヨルダンを口説いて彼の協力をとりつけ最初の論文「量子力学について」を夏休みを返上して完成する。そして、9月には夏休みから帰ってきたハイゼンベルクも加わって三人で「量子論についてII」を11月には仕上げていた。それと前後してイギリスの天才物理学者ディラックの論文が現れる。年が明けて1926年はじめにはシュレディンガーの波動力学と呼ばれるようになった一連の論文が出現し、量子力学の数学的形式は完成するのである。 ヨルダンの業績は他に量子力学の変換理論、星の生成、宇宙の進化等があり、また量子生物学を提唱したという。(1989.6.17) (2023.2.8付記)明日はシュレディンガーについての記事を載せるつもりだが、これでほぼ物理学者の連載エッセイは終わるが、あと生物学者とか医学者が一人二人残っている。さらにこの連載のエッセイではないが、他のところに書いたエッセイが2編ほどある。それがどこかにあるので、探すつもりである。シュレディンガー2023-02-09 ・ これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(18)である。 (18)シュレディンガー (E. Schroedinger 1887-1961) 一夜明ければ大スターになっていたとか大学者になっていたとかいうのは、映画スターとか学問を志す者の実際には果たすことのできない夢であろう。 ちょっと見たところでは、シュレディンガーはそのような夢を実現した稀有な人と思われる。1925年、ゲッチンゲン大学のボルン、ハイゼンベルク、ヨルダンの三者による「行列力学」の創成によって量子力学の一つの正しい定式化が行われ世を賑わした。ゲッチンゲン、ミュンヘン、コペンハーゲンといった当時の学会の主流からすこしはずれたところのチューリッヒ大学の教授であったシュレディンガーの大活躍が1926年の年明けとともに始まる。 「固有値問題としての量子化(Quantisirung als Eigenwertproblem)」と題する一連の論文が1926年の前半の半年ほどの短期間にあいついで、雑誌Annalen der Physikに現れる。ハイゼンベルク流の行列形式の量子力学の難解さに辟易していた当時の物理学者にとって、これは干天の慈雨にも似たものであった。さらには、やはりこの年にボルンたちの行列力学と彼の波動力学とが数学的に同等であることを彼は示した。これらの研究はもちろんド・ブローイの物質波の仮説やアインシュタインの論文に刺激されてできたものではあったが、だからといってシュレディンガーの天才を疑うべきではない。 1926年にはシュレディンガーはすでに40歳近くでディラックやハイゼンベルクのような若者とはもう言えなかったが、それだけ力量も充実していたということだろう。ボルン、ハイゼンベルク、ヨルダンが共同して行列力学を創り上げたのと対照的に独力で波動力学を創り上げている。 高林武彦は『量子論の発展史』(中央公論社)において彼の仕事はまさに横綱相撲にふさわしいと述べている。もっともシュレディンガーが提案した波動方程式(彼の名にちなんでシュレディンガー方程式と呼ぶのが普通だが)を彼は最初解くことができなかったそうだ。その解き方については当時チューリッヒ工科大学(ETH)にいた優れた数学者ワイルの手を煩わせたという(注 2023.2.9)。 私たち凡人は数学を学んで、それを用いて何か研究しようとするが、天才たちはそんなことをする必要がない。必要とあれば、自分で数学だってなんだって創り出してしまうのだから。例えば、ハイゼンベルクが量子力学のために考案した妙なかけ算はボルンによってそれが行列のかけ算だとわかったし、ディラックは量子力学のためにデルタ関数を創り上げた。シュレディンガー方程式の解法も、現在では境界値問題として知られている、その当時としては新しい解法を必要としたのであった。また、アインシュタインの一般相対性理論の構想は、数学者にとってはすでに知られていた、テンソル解析とリーマン幾何学にもとづいたものといわれ、アインシュタインは数学者にすでに知られてはいたが、彼には未知のものであったリーマン幾何学のいくつかの定理を再発見したという。 思わぬ方向に話がそれてしまった。シュレディンガーに話を戻そう。1933年シュレディンガーはベルリン大学教授の職をなげうってオックスフォード大学へと移っていく。彼はユダヤ人ではなかったが、ナチスの行ったユダヤ人同僚に対する教授職の解任や追放等に対する抗議の気持を強く持っていたためという。その後、紆余曲折を経て結局はアイルランドの首都ダブリンの高等科学研究所に落ち着き、1956年に故国オーストリアのウィーンに帰るまで、そこで研究生活をおくる。 シュレディンガーは哲学的傾向の強い学者で、それも素朴な実在論者であり、波の重ね合わせとして粒子をつくりあげるという基本的なアイディアを抱いていた。また、波動関数ψは粒子の電荷密度を表すものとして素朴にイメージしていたらしい。 このイメージはボルンが1926年に初めて提唱し、ボーア等の綿密な吟味を経て、その後はコペンハーゲン解釈と呼ばれるようになった波動関数の確率解釈という学会の正統的見解とは根本的に相容れない見解であった。シュレディンガーは波動力学と呼ばれた量子力学の一つの形式の生みの親ではあったが、この波動関数の確率的解釈は彼にとっては生み落とした鬼子のようでもあったろうか。(1990.11.22) (注 2023. 2.9)波動幾何学の創始者である、三村剛昂先生は私の学生時代に定年退職されたが、シュレディンガーは彼の方程式をワイルに解いてもらったという話を彼からじかに聞いたような気がするが定かではない。これは彼の講演を聞いたときに彼の話に出たのか、それとも竹原市にあったH大付属の理論物理学研究所に私が行ったときに個人的に三村先生から直に伺った話であったかはいまではわからない。 (2023.2.9付記)このシュレディンガーをもって「ドイツ語圏世界の科学者」の数学者と物理学者、化学者の記は終わる。まだ残っているのは生物学者のローレンツと医学者のコッホである。明日以降にはこれらの人についての記を述べよう。 いずれにしても物理学者を中心とした「ドイツ語圏世界の科学者」は実質的には終わった。コッホ2023-02-10・これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(16)である。 (16)コッホ (R. Koch 1843-1910) 年も改まって1990年となった。ヨーロッパ、特に東欧世界の1989年の政治情勢の変動は、情報通の人々の予想をもはるかに上まわっていた。東欧世界の自由化の兆しを喜ぶ一方で、我々の「自由」世界がこれでいいのかと本当に疑問に思う。例えば、記録映画「核分裂過程(Kernspaltung)」に見られるような国家権力や地方政府当局の市民への抑圧や市民の抗議行動について報道をしないといったことは別に核廃棄物処理工場の建設を強行しようとした西ドイツのバッカスドルフについてだけ見られる現象ではなく日本においてもしばしば見られるものだからである。 前置きが長くなったが、今月はコッホをとりあげよう。コッホは結核菌やコレラ菌、羊や牛の病気である炭疽病の病原菌を発見したこと、および、ツベルクリンの創薬等で知られている。これだけを聞いたら、コッホは大学とか研究所に勤める学者、いや現代風に言えば、研究者のように思えるだろう。しかし、彼の伝記によれば、炭疽菌や結核菌の発見は彼が一介の田舎医者だったり、保健省の役人だったりしたときに行われたものだという。数学者ワイヤストラウスが高校の教師をしながら、偉大な数学研究を行ったと同じように。その後、コッホはベルリン大学教授になり、伝染病研究所の所長となったが、彼の研究の方法はすでにそれ以前に彼の手によって独自に形成されたものであった。 パスツールが発酵や腐敗は微生物の作用によることをすでに確立していた時代ではあったが、それでも病原菌についてのいろいろな研究方法はまったく確立していなかったし、それについての専門的教育も専門家も存在していなかったときだけに、このコッホの研究の独創性はいくら高く評価しても評価しすぎることはないだろう。低温殺菌法を意味するpasteurizationという用語に名を残したパスツールの方が「微生物の狩人」としてはわずかに先駆者であろうが、我々は非常に多くのものを医学の分野でコッホに負っている。 パスツールと彼より約20歳も年下のコッホはライバルで、「犬猿の仲」であったという。これはいくつかの分野で二人の研究が交錯していたことによるらしい。それはともかく川喜田愛郎の『パスツール』(岩波新書)によれば、1880年代のはじめを境にして、病原微生物学の主流はパスツ-ル学派からコッホとその学派に移ったという。 一医学生のころ遠い異国を旅する冒険旅行家となることを夢見たコッホは、妻からの贈物の顕微鏡によって人類の知らなかった微生物の世界を旅することとなった。彼の若いときの夢は形を変えてではあるが、実現したといえるだろう。(1990.1.4) (2023.2.10付記) こういう伝記まがいのエッセイを書くためにはそれなりの読書が必要であり、執筆当時は数冊の本を読んだりしている。このシリーズ以外でもあまり長くではないが、数人の科学者について書いたことがある。もう一人でこのシリーズ「ドイツ語圏世界の科学者」は終わるが、その後にもなお数人の科学者についてのエッセイを書くことができるだろう。その原稿がうまく残っていればの話ではあるが。ローレンツ2023-02-13 ・これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(14)である。 (14)ローレンツ (K. Lorenz 1903-1989) 今年(1989)の2月末に動物行動学者のローレンツが85歳で亡くなった。雑誌「科学朝日」の5月号で京都大学教授の日高敏隆さんが思い出を書いていたので、すぐにでもローレンツをとりあげるつもりでE大学法文学部のUさんにSpiegel(1988年11月7日号)での彼の最後となった対話の記事のコピーとかローレンツの対談「Leben ist lernen」(Piper)とかを借りたが、なにせドイツ語が十分読めないので、そのままになっていた。せめて日本語に訳された『攻撃』くらいは読んでから、ローレンツのことを書こうと思っていたが、それも果たせそうにない。雑誌「みすず」(1989.8月号)にSpiegelの対話の部分の訳が出たのでそれらを頼りにはなはだ不十分だが、ローレンツについて述べてみよう。ローレンツの業績は一口に言って動物行動学とか行動生物学とか言われる学問分野を確立したことにある。『生物学辞典』(岩波書店)によれば、「放し飼いにした動物、特に鳥類(ガン、カモ類、カラス類)や魚類(シククリット類その他)の行動について、厳密な認識論に裏付けられた観察を行い、リリーサーの概念をはじめ、行動の生得的解発機構の認識を打ち出して、行動生物学を確立した」とある。「厳密認識論」というものがどんなものかも知りたいが、それはおいておくとしても、上の文章を読んですぐ何のことかわかるだろうか。専門家の方は別として、何を言おうとしているのかよくわからないのが本当だろう。リリーサーという専門用語は別としても「解発」という語もいくらか専門用語的で普通の日常生活では使わない。例えば、カモメが危険を知らせるための鳴き声をあげれば、そのひなが逃げ隠れするといった行動をする。このような、その動物に特有の行動を引き起こすメカニズムを動物というものは生まれながらに持っているものだというのである。そして、そのような行動を引き起こすもとになる特性、上の例では、カモメの危険を知らせる鳴き声をリリーサー(releaser, Ausloeser)というらしい。いつでも学問というものはしゃちこばってとっつきにくいものだ。日常の言葉で言ってもらえれば、すぐに了解できることでも改まって専門用語を用いて言われるとなんのことだかわからなくなることはしばしばある。市民運動等においてもいわゆる科学者でない市民はいつでも日常の言葉で科学者に言い直してもらう必要があろう。ローレンツは上に述べたような業績によってフリシュ、ティンバーゲンとともに1973年ノーベル賞を受賞した。ローレンツが「私たち人間が行う行動は石器時代の人々が行った行動と同じように本能に縛られている」というとき、ほかならぬ人間自身もローレンツから見ればカモとかガンとかいう動物と同じ動物であると考えられていると言った点はひょっとしたら物議をかもすところだろう。しかし、私はローレンツのいうことの方が真実を衝いていると思われる。人間は地球というある種の生き物の中に巣食うがん細胞なのかもしれない。すなわち、自分たちを破滅に導くまで本能の赴くままに自己増殖し、環境を破壊するといった点で、もう一つだけ触れておきたい点は、第2次世界大戦下でのローレンツとナチスとの関係である。ローレンツのいい方によれば、「自分の関心事に重点をおくあまりに政治的問題を避けてきた」とのことである。音楽界の巨匠フルトベングラーとか哲学者のハイデッガーとか対ナチ協力のかどで非難される学者や芸術家は多い。ローレンツは積極的ではなかったとしてもその点については非難されてもしかたがないようである。しかし、私自身が同じ状況におかれたらどうするだろうかと考えるとき答は簡単に見つかりそうにない。(1989.9.26) (2023.2.13付記) このローレンツをもってもともとの「ドイツ語圏世界の科学者」の再掲載は終わる。あと数人ドイツ語圏世界の科学者」について書いたことがあるので、その原稿が見つかればあと数人について述べることができるであろう。ガリレオ・ガリレイ2023-02-15・ これは「力学の道草」というエッセイの一つである。 ガリレオ・ガリレイガリレオ・ガリレイ(1564-1642)は近代科学の父と言われる。彼は哲学的・思弁的であった、それまでの科学に実験的な手法を導入して仮説を検証するという方法を意識的に導入したのであった。フィクションなのか事実なのかははっきりしないが、ピサの斜塔から重い砲丸と軽い銃弾とを一緒に落として、それらがほとんど同時に落ちるということを実験的に示したといわれている。アリストテレス(B.C. 384-322)の力学体系では思い物体ほど速く落下すると考えられていたので、スコラ哲学者たちはその事実を認めることを拒否したという。望遠鏡をつくり月面が凹凸していることを観測したり、木星に衛星が存在することを発見したり、コペルニクスの地動説を支持して宗教裁判にかけられ、ローマ法王庁からその説の撤回を迫られて、仕方なく自説を撤回したものの「それでも地球は動いている」とつぶやいたとか。当時の宗教裁判の過酷さはその一端をたとえば、ウンベルト・エーコ原作でショーン・コネリー主演の「バラの名前」に見ることができよう。しかし、武谷三男か森毅だかによればガリレオ。ガリレイは論争術にも優れた自信満々の男で宗教裁判にかけられてへこむような男ではなかったともいわれる。ともかくエピーソドには事欠かない。少年のころ教会の天井からぶら下がっているランプも揺れる周期を自分の脈拍を用いて測り、振り子の等時性を発見したという。まさに天才の名に値しよう。ガリレオ・ガリレイの一番大きな業績は地上の物体の運動学を樹立したことである。うまく斜面を用いて落下運動を研究し、現在知られている落体の運動法則を確立した。すなわち、自由落下運動は等加速度運動であり、重力は落下物体の速度に単位時間当たり一定の変化を引き起こすことを把握していた。また力が働かない物体は等速直線運動をするという「慣性の法則」をも認識していたのである。ガリレイが実験を盛んに行ったというのは後世の人たちの創り出した虚像で本当は思考実験的な研究が主であったという説もあるが、最近亡くなったある学者の詳細な研究によれば、やはり実験を主にして仮説を検証するといったことは後世の人の創り出した虚像ではないらしい。(1995.3.3) (2023.2.15付記)これは『数学散歩』(国土社)にも収録された「力学の道草」というタイトルのエッセイの(2)である。これは工学部の材料工学科の力学演習を3人の教員グループで受け持っていたときに、同僚のK教授から演習資料の埋め草に書くことを勧められたものである。そういう事情を『数学散歩』にも書いていない。ここではじめて明かす事情である。このことを知っている人は私も含めて3人しかいない。ニュートン2023-02-16・ これは「力学の道草」という続きのエッセイの一つである。 アイザック・ニュートン (1642-1727) ニュートンはガリレオ・ガリレイが亡くなった年に生まれた。ニュートンは数学においては微積分学をつくり、物理学においては古典力学の体系を完成した天才である。もっとも微積分学はニュートンが力学をつくるのに必要として考案したのだから、無限小を取り扱う数学である微分積分学は力学の付属品と考えるべきかもしれない。最近では力学との関係において微積分を教えようとする試みもされているが、現状はむしろ力学との関連を考えずに教えられているのが実態であろう。 ニュートンの伝記を読むと先駆者としてのデカルトの業績が大きく彼に影響を与えているように思われる。特に微積分学についてはデカルトの「座標幾何学」の影響はとても大きいのではないだろうか。力学の面から見るとすでにガリレオ・ガリレイだとかケプラーだとかの先駆者がいたし、その成果を受け継ぐといった面が彼には多分にある。ニュートンの、力学への進展への本質的な寄与は「加速度は力に比例する」ことをはっきりと認識したことにある。 晩年になって「私は仮説をつくらない」といったとか「自分は海辺できれいな貝殻を拾って喜んでいる子供のようだ」といった謙虚に思えるような言動のみが巷間に伝えられているが、どうしてどうしてそんな一筋縄で捉えられるような人物ではない。 普通の金属を金に変える錬金術の研究に没頭し、また神学に凝って聖書に出てくる事実がいつの年代であるかという研究を何十年もするなど性格的にも奇妙な側面をもっている。ちなみに言うといつかドイツで会ったオランダ人の若い神学者に初対面のとき「神学ってなんですか」と尋ねたら「神の歴史を研究することです」と答えてもらった。私の「神学」についての知識はそれ以上をいまだに越えていない。 ニュートンは現代風に言えば造幣局の長官にあたる職を長年にわたって務めているし、万有引力(最近では重力という)の発見とか微積分学の発明とかにおけるプライオリティを強固に主張するなどと世俗的な名誉欲もけっこう強い人である。 ニュートンといえばまず力学とか微分積分学とかを考えるが、光学をずいぶん長年にわたって研究し、太陽光はいろいろな色の光が混ざっていることを発見したのはニュートンであることは意外に知られていない。また、ニュートン-コーツ公式という数値積分法、ニュートン-ラフソン法といった高次方程式の解を求める方法やニュートンの冷却の法則といったところにもニュートンは名前を残している。(1995.3.16) (2023.2.16付記)このニュートンの記述でもって科学者のエッセイを書くことを終わる。昨日も書いたかもしれないが、他にも科学者の短い伝記めいたものを数編書いているが、このブログに掲載するには長すぎるということで、このニュートンで科学者の伝記めいたエッセイを終わりにする。科学に関心のない方にはちんぷんかんぷんであったかもしれない。その点はご寛恕をお願いしたい。エンリコ・フェルミ12023-02-20 ・これは「技術と科学の歴史を考える」というタイトルの講義の後半を私が担当したときの「原爆製造と原子核物理学」というサブタイトルの講義の中の人物評伝の一部のエンリコ・フェルミの前半である。Enrico Fermiについては参考文献のセグレ『エンリコ・フェルミ伝』(みすず書房)を読んでほしい。また、Fermi夫人である、ラウラ(Laura)の著した『フェルミの生涯ー家族の中の原子』(法政大学出版局)が夫人から見たEnricoの伝記である。Segreによれば、Fermiのもっとも偉大な業績を3つ挙げれば、つぎのとおりである。1.フェルミ統計の発見2.ベータ線崩壊の理論3.中性子の実験的研究、特に遅い中性子による核反応の発見および原子炉における連鎖反応の達成この中でも2のベータ線崩壊の理論を私個人はもっとも重要なフェルミの業績と考えているが、ノーベル賞をもらったのは3の中性子の実験的研究である。特に遅い中性子による核反応の発見に関係したものである。今世紀最大の理論物理学者の一人ランダウLandauは「理論物理学者にして実験物理学者でもあった最後の人フェルミ」と評している。(以下「エンリコ・フェルミ2」につづく)フェルミ 22023-02-21 ・これは「技術と科学の歴史を考える」というタイトルの講義の後半を私が担当したときの「原爆製造と原子核物理学」というサブタイトルの講義の中の人物評伝の一部のエンリコ・フェルミの後半である。Fermiの講義録である『原子核物理学』は内容が少し古くなってきたが、原著はシカゴ大学出版局から、訳書は吉岡書店からいまも出版されており、読者に読み継がれている。日本版の訳者小林稔氏(京都大学名誉教授、故人)は訳者まえがきでつぎのように述べている。「イタリヤの生んだ鬼才Enrico Fermi教授はいうまでもなく原子核物理学の第一人者であり、人類が第二の火、すなわち、原子力を発見したのも主として彼の研究に負うものであって、彼は歴史上永久に名をとどめる数少ない物理学者の一人であることは疑いのないところである。 Fermi教授は実験及び理論の両方面に卓越した才能をもち、その業績も有名なフェルミ統計、べータ線崩壊の理論、量子電磁気学など理論的なものから、中性子衝撃による人工放射能、遅い中性子の選択吸収、さらに原子力解放の緒となった核分裂の現象、その連鎖反応など行くとして可ならざるものはなく、しかもいずれも物理学の根本問題を衝き、その自然認識の深さの非凡さは驚嘆のほかない。イタリヤにおいては僅かの放射性物質とパラフィンのみの実験室でよく世界の原子核研究に伍し、中性子の性質の探求にあざやかな業績を挙げており、アメリカに移ってからはまさに鬼に金棒、現在もシカゴ大学の大サイクロトロンを主宰し、有能な同僚や弟子たちと共に原子核研究の推進に非凡の精力を注いでいる」これはFermiが亡くなる直前に書かれた彼のプロフィールである。ここにはFermiの業績についてほとんどあますところはない。しかし、Fermiの教育上の業績についてはまったく触れられていない。この点についてはFermiの優れた弟子の一人で、ノーベル賞物理学受賞者のC. N. Yangの文章から引用しておこう。(引用はじめ)「よく知られているように、Fermiは水際立ったすばらしい講義をした。これは彼の特徴的なやり方であるが、それぞれの題目について彼はいつでも、最初のところから出発して、単純な例をとりあげ、できるだけ「形式主義」を避けた(彼はよく込み入った理論形式は「えらいお坊さま」のものだと冗談をいった)。彼の論証は非常にすっきりしているので、ちっとも努力をしていない印象を与えた。しかし、この印象はまちがっている。すっきりしているのは、注意深い準備、いろいろの異なった表現の仕方のうちでどれを選ぶかを慎重に考慮した結果のためであった。・・・週に1~2回、大学院生のために非公式の、準備なしの講義をしてくれるのがFermiの習慣だった。グループは彼の部屋に集まり、Fermi 自身か、ときには学生の誰かが、その日の討論のために特別な題目を提起した。Fermi は、綿密に見出しのついた自分のノートを探し回って、その題目に関するノートを見つけ出し、われわれに講義してくれるのだった。・・・討論は初歩的水準に保たれた。題目の本質的、実質的部分が強調された。大抵いつも、分析的でなく、直観的、幾何学的な取り組みであった」(引用終わり)(2024.3.1付記)ここにFermiの特質が述べられていて、あますところがない感じである。そういえば、これを書いたYangはまだ中国で健在なのだろうか。ひょっとして100歳を越えているか、または、100歳にとても近いかのどちらかであろう。ジョリオー・キュリー夫妻2023-02-23・フレデリックとイレーヌ・ジョリオー・キュリーの簡単な評伝についてはセグレ『X線からクォークまで』(みすず書房)のpp. 327-343を読んでほしい。また、フェデリックについては参考文献の『ジョリオ・キュリーの遺稿集』(法政大学出版局)を参照して下さい。イレーヌは言わずと知られた有名なキュリー夫人の長女であり、体つきも性格も母親そっくりであったという。血筋とその母親からの教育によって母親と同じ放射線科学の研究に入った。一方、フレデリックは物理学者ランジュバンの学生であったが、その並外れた技術的な才能を買われてキュリー夫人の助手として推薦された。彼は陽気で活発な上に気持も優しくまた想像力に富んだ人物であった。彼らは後にチャドウィックが中性子を発見するきっかけとなる現象を発見した。また1938年の核分裂反応の発見にもきわめて近いところにいたが、この発見も逃している。しかし、1934年には人工放射能をもった物質を創成することに成功して1935年にノーベル化学賞を夫妻で受賞した。フレデリック等はハーンの核分裂反応の発見後、すぐにその追試に成功し、またその核分裂の際に2個以上の中性子が放出されることを発表した。すなわち、原子核からエネルギーが取り出せることを示し、このことを機密にしておこうと思っていたシラードたちを大いに慌てさせたのであった。シラードはアインシュタインにルーズベルト大統領に原爆を提言させたことで知られている、ハンガリー出身の物理学者である。2024年の始動2024-01-08・今日、1月8日から今年2024年を始動する。今日は成人の日で祝日だが、私は定年後は基本的には日曜日しか休まないことにしているので、今日が2024年の始動はじめである。いまある方と折衝をしていて、この方と仕事ができたらいいなと考えている。多分最終的には引き受けてくれるのではないかと楽観的ではあるのだが。話は別だが、四元数関係の『四元数の発見』にはまだ載っていないエッセイ15編を数日前にプリントアウトした。なかなかこれらを通して読むという作業はしてこなかった。この正月明けからこの作業をしてみたいと思っている。それと昨日古本店である、近くのBook Offで購入した線形代数の本のベクトル空間の章を読み始めた。これが定価220円で売られているのを他の本と共に購入した。実は,ここに以前に山本義隆『熱学思想の史的展開』のちくま学芸文庫版を見掛けたので、これが今もあれば、購入したいと思って出かけたのである。これはさすがに残っていなかった。ちなみにこの本の現代数学社版はもっているのだが、山本さんは同書がちくま学芸文庫に収められる機会に増補改訂されたとか聞いているからである。山本さんとはもう50年近く会っていないので、彼は私のことをもう忘れたかもしれない。何かの本の後書きで彼が病気をしたとか書かれていた。その後、『小数と対数の発見』(日本評論社)を書いたとかあった。いや、この本のあとがきにそう書いてあったのかもしれない。ハイゼンベルクが日本にやってきたころ2024-04-01 ・20人くらいドイツに関係した科学者について昔ある雑誌に書いた記事から転載したブログのうちでハイゼンベルクのブログが読まれていたので、先ほど読み直してかなり加筆修正をした。昔、ハイゼンべルクが日本にやって来たとき、講演を聞いたと書いた。そのときの彼の講演の後で新聞記者が私の先生の一人のYさんにその内容を尋ねていたのを覚えている。H大学の大学会館のかなり広い部屋でその講演があった。それは1967年だから私は博士課程の最上級生であったが、あまり話の中身は理解できなかった。それがいつごろであったか。もし秋であったのなら、私の学位論文の研究がだいぶん煮詰まってきて、まとまりつつあった時期だったろうか。それがもし5月ころなら、まだ研究にとりかかって間がない頃であり、研究のために必要なkinematicsを習得しようとして四苦八苦していた時期になる。いずれの時期だったかは覚えていない。Goldberger-Watsonの両氏が書かれた本である”Collision Theory”のphoto-productionのプロセスに必要なkinematicsは、私には結構難しかったが、懸命にそれを習得しようとしていた。その論文には南部陽一郎さんはあまり関係していないといわれるが、有名な南部(Nambu)さんの名前が入った通称CGLN(著者名のChew-Goldberger-Low-Nambuの頭文字をとった略称)と言われた論文の第2論文のkinematicsをCGLNの一人のGoldbergerが解説した本を読んでいた。原論文のCGLNにもちろんそのkinematicsの要旨も出ているのだが、私には論文からその仕組みを読み取る力はなかった。私がいまこれほどまでに異常にLevi-Civitaの記号に執着する元は実はphoto-pi-productionの研究を過去にしたことがあったのが、その理由である。もっともそれは今関心のある、3次元のLevi-Civitaの記号ではなく、4次元のLevi-Civitaの記号とその縮約公式が研究には必要だったのだが。参考までにいうと、Levi-Civitaの記号\epsilon _{ijk}はベクトル解析のベクトル代数を理解するときにとても役立つ記号である。ベクトル代数やベクトル解析でこのLevi-Civitaの記号の有用性を知れば、ベクトル解析の面倒さ、不可解さの一部は必ず晴れるという魔法の杖のようなものである。もっともこれになじむのはなかなか難しいかもしれない。私にとっても、もう何十年も昔のことだが、Bohmの『量子論』(みすず書房)の本にでていたLevi-Civitaの記号を見たときが、この記号を見た、生まれてはじめての機会だったと思うが、とてつもなく難しいものに思えた。これはパウリ行列の間に成り立つ関係を示すために用いられたものであったのだが。(2024.4.2付記)私のLevi-Civitaの記号との出会いは上にBohmの『量子論』であったと書いたが、その英語版を今見てみるとはパウリ行列の間に成り立つ関係はLevi-Civitaの記号を使って書かれていない。それでこれは私の記憶違いらしい。どうも有名なSchweberの場の量子論のテクストの比較的はじめの方の記述を見たのをまちがって思い込んでしまったらしい。いずれにしても、これは私にはわからんなと思ったことだけは事実である。これは単に記号だけのことではあるのだが、私はギリシャ文字に心理的に弱いらしいことがわかる。もっとも、私はSchweberの場の量子論の本を詳しく勉強したことがない。結局のところ、Bohmうんぬんという、上の記述はまちがっているのだろうが、あえてそのままにしておく。人の書くことをそのまま簡単に信用するなという教訓にしたいためである。アインシュタイン2024-05-02・以前にアインシュタインについてはこのブログでも書いたことがある。これは昔の講義ノートに書いてあったことの再録である。アインシュタイン(1879-1955)について少し述べておこう。アインシュタインはユダヤ系のドイツ人で南ドイツの都市ウルムで生まれた(その後、スイスの市民権を取り、死亡するまでそれを保持した)。私も1997年に、このウルムを訪れたことがある。アインシュタインは小さい頃から数学と物理に興味をもっていた。ドイツのギムナジウムの軍隊的な規律を嫌い、ギムナジウムを中退してチューリッヒ工科大学を受験したが、試験に失敗してしまう。しかし、数学や物理は抜群の成績であったので、もう一度ギムナジウムに入って勉強し直すことを大学の学長から薦められ、スイスのギムナジウムに入り直し、そこを卒業してチューリッヒ工科大学(ETH)に入学する。大学の頃はあまり講義には出席せず、自分独自な勉強に精を出した。試験のときは学友のグロースマンからノートを借りて勉強して単位を取った。大学卒業後は大学での助手の職は得られず、ベルンの特許局で特許技師として働きながら、立派な業績をあげる(注)。それが1905年の3つの論文で、光量子仮説、ブラウン運動、特殊相対性理論である。光量子仮説は光が粒子性をもつことを示した光電効果の説明を与えたものであり、ブラウン運動は分子の存在と分子の熱運動を実験的に証明可能とした。特殊相対性理論は時間と空間の概念の変革を行ったものであり、この理論から質量とエネルギーの相互転換が可能であることが示された。1915年には特殊相対論を一般化した一般相対性理論を発表する。この一般相対性理論は重力を空間の性質として説明する理論である。その中の一つの予言である、重力場中での光の偏曲は第一次世界大戦後の皆既日食の際に観測され、一般相対性理論の実験的検証の一つが得られた。その他、量子論への貢献も大きい。1932年以来アメリカに居住し、プリンストンの高級研究所で研究生活を送りながら、統一場理論を研究した。この理論は重力と電磁場を空間の性質として説明しようとするものであったが、成功していない。一方、アインシュタインは原爆研究をルーズベルト大統領に始めることを進言した手紙を送ったが、第二次世界大戦終了直前に広島と長崎に原爆が投下されたことは、彼には思いもよらないことで、その責任を深く感じることとなった。核戦争を避けるための努力を訴えたラッセルーアインシュタイン声明は世界各国の著名な科学者11名によって署名され、各国の科学者が一堂に集まって核戦争と核兵器の廃絶を議論するパグウォッシュ会議のきっかけとなった。(注)アインシュタインがETHの学生だったころ数学の先生としてミンコフスキーが在職していた。特殊相対論を学んだことのある人は知っているが、アインシュタインの特殊相対論はミンコフスキーの4次元時空の論文で理解できるようになったという学者も当時多かった。確かにアインシュタインの論文の内容の説明の後でミンコフスキーの説明を講義で聞いたとき、こちらの方が分かりやすいと感じたことは事実である。また、アインシュタインの特殊相対論を読んで、『あの「さぼり」の学生のアインシュタインが!』とミンコフスキーが言ったとかとも言われている。その真偽のほどはわからないのだが。ちなみにミンコフスキーが論文を発表したときにはミンコフスキーはもうETHの教授ではなく、ゲッチンゲン大学に帰っていたと思う。ゲッチンゲン大学のもう一人の数学の教授は有名なヒルベルトであった。(2024.5.21付記) 詳しい消息は知らないのだが、ミンコフスキーはこの論文の発表後に病気で急に亡くなったと思う。ミンコフスキーがゲッチンゲン大学に帰って来たのも友人だったヒルベルトの尽力だったとか。ヒルベルトはミンコフスキーと二人でゲッチンゲン大学の数学をこれから盛り立てて行こうとの意図があったのであろう。惜しまれる早世ではあった。X線の発見とレントゲン2024-05-28・これは「ドイツ語圏とその文化」という自作の雑誌に掲載したものである。 X線の発見とレントゲン -ドイツ語圏世界の科学者3-1.はじめにレントゲンによるX線の発見についての記述をちょっと場違いかもしれないが,ラジウムの放射能の研究で有名なマリー・キュリー夫人の伝記『キュリー夫人の素顔(文献:リード)からその一節を引用するのが一番いいだろう.(引用はじめ)原子力時代の始まりを1895年11月8日からとしても,決しておかしくはないだろう.その日バイエルンの研究室で,一つの現象が観測され,それがその後の物理学者たちのものの見方を変えてしまった.それを観測したのは,ウィルヘルム・レントゲン(1845-1923)であった.彼はナシの形をした陰極線管を戸棚から取り出し,その一端を電気回路に接続した.それから,その陰極線管のまわりを黒いボール紙で覆い,部屋を完全に暗くして,陰極線管に高圧の電流を通した.(中略)陰極線管から1メートルほどまで来たとき,彼はかすかな光を見た.彼はマッチをすって,その光がどこから出ているのか見ようとした.それは白金シアン化バリウムを塗った小さなカードであった.陰極線管からの光線は,厚いボール紙に完全にさえぎられているのに,そのカードは光を放っていた.彼は陰極線管のスイッチを切った.するとバリウムを塗ったカードは光らなくなった.スイッチを入れると,カードは再び光はじめた.こうして,レントゲンはエックス線を発見したのであった。(引用者が訳書から漢字と固有名詞等を少し変更した)(引用終わり)レントゲンはこの正体のわからない放射線の性質を調べて同じ年の12月28日に論文として発表した.このとき放射線の基本的性質はほとんど解明されていたという.これは大発見であった.手のX線写真をとればその手の骨の様子がわかることも示されたという.医学的な応用が直ちに誰の目にも明らかだった.『キュリー夫人の素顔』によれば,X線の研究は一年経つか経たないうちに48冊の書籍と1,000編以上の論文が出版されたという.それに対比してその当時の流行の研究テーマではない,放射性元素の研究をひそかにはじめたマリー・キュリーの姿が印象的である.しかし,以下ではレントゲンとX線に焦点をあてたいが,その前に放射線にはどのようなものがあるのかをまとめておこう.2.放射線の種類広辞苑によれば,放射線(radiation)とは狭義には放射性元素の崩壊に伴って放出される粒子線または電磁波のことをいい,アルファ線・ベータ線・ガンマ線のことをいうが,それらと同じ程度のエネルギーをもつ粒子線・宇宙線を含める.ちなみにいずれも原子核から放出されるが,アルファ線はヘリウム原子核,ベータ線は電子または陽電子,ガンマ線は非常に波長の短い電磁波である.広義には種々の粒子線や電磁波の総称である.とある.狭義の意味では天然放射性元素でも人工の放射性元素でもすべて放射性元素から放射されるものという限定があるが,ここではもっと広い意味にとって放射線を考えてみよう.電子線(陰極線),陽子線,中性子線,X線とか宇宙線も含めて考えることにしよう.そのときに放射線は質量をもった粒子放射線と質量をもたない電磁放射線とに大別できる.1.粒子放射線 アルファ線,ベータ線,電子線,陽子線,中性子線,重粒子線2.電磁放射線 ガンマ線,X線がその主なものである.電磁放射線とは普通はいわないが,電磁波の仲間には光線や赤外線,紫外線等も含まれている.光線は人間の目に見えるので,可視光線とわざわざ可視という形容詞をつけて呼ぶのが普通である.一方,紫外線や赤外線は人間の目で見ることはできないが,赤外線は体にあたると暖かく感じるし,紫外線を浴びると人の皮膚が後で黒くなったり,または赤くなったりして日焼けをする,また,このころは携帯電話をもたない人はいないくらいだが,これは電波といわれる電磁波である.ラジオやテレビの電波も電磁波の一種である.これ等の電波の波長は0.1mmから30kmである.X線は可視光線と同じ電磁波の1種であり,その波長は0.01nmから10nmである(注:1nm=10^{-9}mである).参考までに可視光線の波長は380nmから800nmくらいであり,X線の波長は可視光線の波長と比べると1/40から1/80,000も小さい.電磁波の波長$\lambda$と周波数$\nu$と速度$c$の間には\begin{equation}c=\lambda \nu\end{equation}の関係がある.この関係は難しそうだが,周波数(振動数)とは1秒間に何回1波長の振動を繰り返すかを示す量であるから,周波数に波長をかければ,それが電磁波の速さとなる.ここでcは真空中の光の速さである.これは電磁波である以上は波長の大小にかかわらずこの関係は変わらない.もちろん電磁波の伝わる空間が真空中でなければ,その速さは真空中での光の速さより小さくなる.波長0.01nmのX線の周波数3$\times 10^{19}$Hzであり,そのエネルギーはおよそ0.1keV,また波長10nmのX線の周波数は3$\times 10^{16}$Hzであり,そのエネルギーはおよそ100keVである\footnote{eVはエネルギーの単位の一つで,$1 \mathrm{eV}=1.9\times 10^{-19}J$である.これは1Vの電圧で電子を加速したときに電子がもつエネルギーである.3.X線の性質X線という名称はレントゲンがX線を発見したときにはこれがどういうものかわからなかったために代数で未知数を表すためによく使われる文字xにちなんでつけられたものである.しかし,簡単にわかるようなX線の基本的性質はレントゲン自身によってX線の発見から数週間内に調べられた.それらの性質をここに挙げておこう~\cite{レートン}.1.X線は高エネルギー(数10keV)の陰極線(すなわち電子)を放電管の陽極にあたるとき生じる.2.重い金属でできている陽極は軽い金属でできている陽極よりも強いX線を発生する.3. X線は電荷をもたない.X線は磁場によって曲げられないから.4.X線は帯電した物質を放電させる.5.軽い元素からできている物質は重い元素からできている物質よりもX線を強く透過する.6.写真乾版(フィルム)はX線に感光する.7.X線は直進し,普通にはそれを反射させたり,屈折させたりできない.8.シアン化白金バリウム,カルシウム化合物,ウラニウムガス,岩塩などがX線によって蛍光を出す.その後の研究で以下の性質も判明した~\cite{レートン}.1.X線は波動性をもつ放射線である.電磁波の1種である.2.\X線をある条件下で偏光させることができる(注:(直線)偏光とは電磁波の電場の振動面がある平面に固定されることを意味する.振動面が回転する場合には円偏光または楕円偏光という.偏光面は光の進行方向に直角である.これは光(電磁波)が横波であることを示している.自然な光はいろいろな振動面をもつ光の重ね合わせである.光を偏光板を通すと特定の振動面をもつ光だけが得られる.これを偏光という)3.X線は結晶で回折させることができる.これによって結晶の空間構造を知ることができるようになった.4.X線には連続X線の他に陽極の材料に特有のスペクトラルをもつ特性X線がある.5.特性X線の波数は陽極物質の原子量とともに増大する.4.X線の発見の意義物理学上の意義で言えば,特性X線の方が連続X線よりもはるかに意義が大きいが,物理学上での意義を別にすれば,医学的な診断の技術としてのX線の意義がとても大きい.骨折したときに骨がどういう風に骨折しているのかとかいう診断を与えてくれる.これは私の経験したことだが,20数歳のときに奥歯の親知らずが生えて来て,それも成長する方向が横にある歯を押すようになったために熱を出した.歯科医に行ったら,歯のレントゲン写真をとられて,それを見て親知らずを歯茎を切開して抜いてもらったことがある.その後も歯科でX線写真を撮ったことがあるのは1度や2度ではない.もっとも一番よく知られているのは肺結核の診断としてのX線写真の撮影であろう.これは日本の学校や会社等では普通に健康診断の一環として行われている.もちろん,X線撮影のための放射線障害も恐れもないわけではないが,それよりも病気の予防や診断のメリットの方が勝っている.体をCTスキャンして,肺がんや胃がんの健診をしたりする.最近ではX線による非破壊検査が工業的にいろいろなところで行われている.大きな船の船体の鉄板でできた船腹の壁のどこかに小さな傷(crack)が入っていないか,または原子炉の格納容器に亀裂が入っていないかX線の診断機で調べるのが普通である.航空機の機体などもそうやって検査するのだと思う.そういう検査を\textgt{非破壊検査}という.特性X線についてはここで詳しいことを述べないが,いわゆるボーアの原子の量子論の確証と原子番号$Z$の物理学的な意義を確定した功績はとても大きい(注:原子番号$Z$は元素の原子核内の陽子の数であることがMosleyの法則によって確かめられた.ちなみにMosleyはイギリスの優れた実験物理学者であったが,第1次世界大戦のときに若くして戦死した.メンデ—レーフの元素の周期律は実はこのMosleyの研究で確定をした).特性X線は原子の内側軌道に存在する電子が空席になることによって,より外側軌道にある電子が内側軌道に遷移するために発生する電磁波である.X線の波長が可視光の波長よりも小さいために可視光にならないが,光とX線とは原子から発生する点で同じメカニズムである(注:ガンマ線の場合は原子核から発生する.その点でガンマ線はX線とは単に電磁波としての波長の違いだけではなく,発生機構の違いがある)もちろん,このようなX線の利用とか応用とかは直接にはレントゲンとは関係がないが,それでもX線の発見がその契機を与えたことはまちがいがない.またその後,X線回折と言われる新しい物質の結晶構造を解析する手段が開発された.レントゲンが優れた実験家であったということを記す,事実がある.これは上にも何度か引用したレートンの書の脚注につけられたつぎのような注意からも明らかである.(引用はじめ)後から考えてみると,X線が発見される数年前から,すでに多くの実験室に(X線が)存在していたことが確かなようである.なぜならば,そころの高電圧を用いた気体放電管がしばしば使われており,そこからX線が発生するからである.レントゲンは単にそれらに注目した最初の実験家であるにすぎない.(中略)この種の経験は,予期しないものに対して大きく目を開き,それに備えるのが大切であることを示している.最初は正確な測定を妨げる厄介な実験的障害に思われた効果でも,のちに,測定しようとする量よりもはるかに重要なものとなるかも知れないのである.(引用終わり)実際,いったんX線の存在が明らかになってしまうと自分の方が先にX線を観測していたということを主張する実験家は一人二人ではなかったことを私たちは知っている.よく言われることであるが,観測することと発見することとは同じではない.観測してもそれが新しい事実であることがはっきり認識されなければ,発見とはならない.5.レントゲンの生涯レントゲン(Wilhelm Conrad R\”{o}tgen)は1845年3月27日ドイツのレンネップで生まれた~\cite{山崎}.レンネップは現在はレムシャイトの一部となっており,日本では刃物の町として有名なゾーリンゲンの近くの町である.日本の商社等の支社や営業所が多くあるデュッセルドルフからもそれほど遠くはない,ライン河下流の地域でオランダにほど近い.お父さんはドイツ人で織物の製造と販売をする職人兼商人である.お母さんはオランダ人であった.だからかどうかは知らないが,レントゲンは戸籍の上ではオランダ国籍であったという.だが,その当時国籍という概念が今ほどはっきりしていたのかどうかわからない.1848年一家はオランダのアッペルドルンに移り住んだ.そこで初等教育を受けた後,ユトレヒトの工芸学校に入った.しかし,彼はその途中で事件に巻き込まれ,退学処分となる.それで大学への入学資格が得られなかった(注:ヨーロッパでは大学入学資格がないと大学に入学できない.その大学入学資格はフランス語圏ではバカロレアという.またドイツ語圏ではアビトューアという).それでもユトレヒト大学の聴講生となるが,大学への入学資格をもっていないために正規の大学の学生となることができない.そのときに,トールマン(Tohrmann)という学生と親しくなる.彼はスイスの出身であるが,父親のユトレヒト赴任について来てユトレヒト大学の学生になっていた.彼はレントゲンが大学入学資格がないために正規の大学生になれないことに深く同情して,スイスのチューリッヒ(Z\”{u}rich)にあるポリテクニク\footnote{現在ではこの学校はETHという略称で呼ばれており,最難関の大学である.このETHは約30年後にアインシュタイン(Einstein)の卒業した大学でもある.}は約10年前に創立された準大学であり,その入学試験はアビトューアがなくても受験できることを教えてくれた.ところが受験前に病気にかかり,受験ができなくなったが,ユトレヒトの工芸学校の成績と共に病気のために受験できないという医師の診断証明書を校長に送った.その手紙に心を動かされた校長はレントゲンが無試験でポリテクニクム(工科大学)に入学できるように取り計らい,それが許された.工科大学でははじめ熱力学をつくったことで有名なクラウジウスに学び,その後クントに学んだ.その後チューリッヒ大学で学位をとり,クントの助手となった.またクントが大学を変わったときにクントについて行って勤務する大学を変えた.その後,レントゲンは大学教授となった.教授となって4つ目の大学として1888年にヴュルツブルク大学に勤めることになった.そして7年後の1995年に大発見をすることになった.5.1でもX線の発見の様子が描かれてはいるが,イタリア出身の物理学者セグレによる「X線の発見」の記述はつぎのようである(『X線からクォークまで』~\cite{セグレ}から引用した).(引用はじめ)1895年11月8日の夕方のこと,レントゲンはヒットルフ管を操作していた.彼はそれを黒いボール紙でしっぽり覆っておいた.部屋は完全に暗くしてあった.管から少し離れた所には,スクリーン用に白金シアン化バリウムを塗った紙が一枚置かれていた.驚いたことに,レントゲンはこの紙が蛍光を発するのを見たのである.スクリーンが発光するからには何かがそれに当っているはずであるが,彼の管は黒いボール紙で覆ってあったので,光も陰極線も,そこから外に出てくるはずはない.この思いもよらぬ現象に驚き,かつ不思議にも思い,彼はもっと研究してみることにした.スクリーンを裏返して,白金シアン化バリウムを塗っていないほうが管に向かい合うようにしてみた.しかし,相変わらずスクリーンは蛍光を発している.スクリーンからもっと遠ざけてみたが,やはり蛍光は続いている.次にいろいろな物体を何種類か管とスクリーンとの間に置いてみたが,どれもそのスクリーンに向かう何物かをさえぎらないようであった.管の前方に手を出すと,スクリーンにその骨が見えた.つまりレントゲンは「新種の放射線」を見つけたのである.(引用終わり)こういう風に一時にすべてのことを発見できたとは私は思わないが,それでも彼の何週間かの研究の過程で起きたことを多分述べていると思われる.レントゲンは一人で実験するのが常であったという.11月8日から実験室にこもって研究をした.自分でも信じられないような現象に出くわしたので,その新しい放射線の存在を確認するために何回も何回も繰り返して実験をした.ようやくいろいろ発見した現象を写真乾板上に記録してようやく自分の発見を確信したという.(引用はじめ)1895年12月28日,レントゲンは,ヴュルツブルクの物理・医学協会の秘書に論文の初稿を渡した.これはすぐに印刷されて,1986年1月の初めのうちにほうぼうへ送られた.(中略)この発見に続く数か月の間,レントゲンは世界中からの講演の招待を受けたが,ただ一つを除いて,他のどんな招待もみな,断ってしまった.自分のX線の研究を続けたかったからである.(引用終わり)レントゲンはこの業績により1901年にノーベル物理学賞を受けた.そのノーベル物理学賞の賞金は全部ヴュルツブルク大学に寄贈したという.また,X線についての特許をとることをある会社に提案されたが,まったく特許をとるつもりがないことをその会社に告げたという.ノーベル賞を受ける前の1900年にミュンヘン大学に移った.第一次世界大戦後のインフレのために破産して老後は大変だったらしい.1923年2月10日にミュンヘンで亡くなった.78歳だった.6.おわりにもう1年か2年レントゲンが長生きしていれば,ドイツ語圏で起こった量子力学の誕生に出会えたことだったろう(注*:Heisenbergたちによる行列力学が1925年に発表され,またSchr\”{o}dingerによる波動力学の発表は1926年であった)だが,老齢のレントゲンにはそのことは知る由もなかったかもしれない.レントゲンは機械工作が得意で,そのことが彼がX線の発見に成功した理由かもしれない.この器用さや機械が好きなことは彼の父親譲りであったと思われる.大学入学資格をとれなかったために大学に入学できなかったというエピソードの持ち主でもあるが,そういうハンデを優秀なレントゲンははねのけてしまった.もっともX線の発見以外に後世に残る業績を上げているというわけではないが,一つの偉大な発見をすれば人生には十分すぎるであろう.\bibitem{リード}ロバート・リード(木村絹子 訳),『キュリー夫人の素顔』(共立出版,1975)114-115\bibitem{新村出}新村 出編,『広辞苑』第5版(岩波書店,1998)\bibitem{レートン}R. B. レートン(斎藤・並木・山田・小林 訳),『現代物理学概論』(岩波書店,1970)399-449\bibitem{山崎}山崎岐男,『X線の発見者 W.C. レントゲン』(出版サポート大樹社,2014)\bibitem{セグレ}セグレ(久保亮五,矢崎裕二 訳),『X線からクォークまで』(みすず書房,1983)27-34\end{thebibliography}読者からの手紙『ドイツ語圏とその文化』をいつもありがとうございます.終りまで目を通しています.貴兄の世界の拡がりに期待をしています.ところで1巻2号のMayerの血液の色の話ですが,むかし初めてこの話を読んだとき,色の明度が変わるのは間違いだろうと思いました.その後,目にしたいくつかの教科書的な本でも,色の変化の真否については何も書かれていなくて,これを元にしたMayerの推論だけが書かれていました.歴史的事実としてはよろしいのですが,何か一言,簡単な言及が欲しいところです.間違ったデータから,正しい結論が引き出されることは,よくありますが,この場合はMayerの自然観と論理性が正しい結論を与えたのでしょうか.波爛万丈のMayerですが,Rumfordもいろいろですね.マサチュッセッツ生まれで,アメリカ独立戦争では王党派だったため,追われて英国に亡命(独立前だから“亡命”ではなく,本国に逃れたというべきですか),火薬と砲弾についての研究が認められて,Bayern王につかえて・・・というご存知の次第ですが,独立したアメリカといつ“和解”したのでしょうか.物理学者が主に受賞しているアメリカ芸術科学アカデミーのRumford賞はRumfordの寄付が元のようなので,生前に和解したのでしょうか.現代は和解の難しい時代ですね.(M. Y.)\\(答)メール有難うございます.マイヤーの血液の色の鮮明度の件は山本義隆氏の『熱学思想の史的展開』(現代数学社)のp.318に\\(引用はじめ)「今日の医学の常識からすると,ドイツと南洋との温度差くらいで静脈の血の色がそれほど違うことはないそうであるからこれはたいへん偶然的な,もしかしたら間違いあるいは錯覚が原因になった発見なのかもしれない」(渡辺正雄)という指摘の方が現実的な気がする.(引用終わり)とあります.それを踏まえてどこかに注釈をつけたのですが,そのことをもっとはっきりと指摘しておくべきだったかもしれません.しかし,そのことを当然と思ってしまったので,詳しい言及と注意をしなかったのだと思います.ちなみに上に引用された渡辺さんの参考文献は「エネルギー概念の成立」で,東京大学公開講『エネルギー』(東京大学出版会,1974)p.17です.こちらの方はまったく見ておりません.折々のことば2024-09-27 ・朝日新聞の第一面に哲学者の鷲田清一さんの「折々のことば」が載っている。昨日今日は写真家の土門拳さんの写真集『風貌』からのことばが載っていた。 気力は眼に出る。 生活は顔色に出る。 教養は声に出る。 土門拳土門拳はつぎのようにも書いていると鷲田さんは書く。 「本人が欠点と思っているところが、実は案外、唯一の魅力だったりする」昨日も何か鷲田さんは書かれていたのだが、これは昨日の新聞がもうどこへ行ったかわからないので書けない。だが、これを読んで思い出したことがある。若いときに半年だけ京都大学の基礎物理学研究所の非常勤講師をしていたことがある。一般の人にわかりやすくいえば、ここは湯川秀樹先生が所長をなさっていた研究所で、彼の定年前の2年前の頃である。所長室の隣の小さな会議室で昼食を一緒に所長も含めて所員が食べていた。この昼食後のあるとき、湯川さん本人から土門拳の写真をとるときの手法について聞いたことがある。土門が湯川さんの写真をとるために来たときのことだが、彼は顔を見合わせるなり、腹の立つようなことを言うのだという。これが土門の写真を写すときの手法だったのだろうと湯川さんは述べていた。怒ったときにその人の本性が現れると土門は考えていたのではないかと。いずれにしても写真家にはすべてお見通しであったのだろうか。怖い怖い。ザンクト・パウリ2025-04-28 ・FCザンクト・パウリ(FC Sankt Pauli)とはハンブルクのサッカーチームの名前だという。聞き覚えのあるチーム名だが、どこのサッカーチームかわからなかった。ザンクト・パウリはあまり強いサッカーチームではないらしい。ファンとしてはそのことがいとおしいらしい(注)。いま、NHKのラジオの「まいにちドイツ語」の放送を2回目か3回目として聞いていたら、ナビゲーターの綿谷エリナさんが言っているのを聞いた。ハンブルクにはザンクト・パウリという地区があったような気がするが、確かではない。その地区には塔のそびえた立つ教会か寺院があったと思うが、これも確かではない。ハンブルクに行ったことは1度きりであり、それもおよそ50年ほど前のことになる。パウリと聞くと天才的な物理学者Wolfgang Pauliを物理屋さんなら思い出すであろう。パウリ行列という2行2列の3つの行列 \sigma _{x}, \sigma _{y}, \sigma _{z} がある。これに単位行列 1 を加えると、これらの4つの行列でどんな2行2列の行列でも1, \sigma _{x}, \sigma _{y}, \sigma _{z} の線形結合として表すことができる。いわば、4次元空間の4つの座標系軸に沿った単位ベクトルe_[0}, e_{1}, e_[2}, e_{3}がすべての4次元空間のベクトルをそれらの単位ベクトルの線形結合\bm{e}=d\bm{e}_[0}+a\bm{e}_{1}+b\bm{e}_[2}+c\bm{e}_{3}で表されるようにである。そしてここからがちょっと手前味噌だが、この4つの2行2列のマトリックスは四元数 1, i, j, k の一つの表現として使われたりもする。もっとも \sigma _{x}, \sigma _{y}, \sigma _{z} の前には -i の係数をつけておくのが普通である。他の係数を付けることも可能ではあるだが。(注)FCザンクト・パウリとはFussball Club ザンクト・パウリであろう。サッカークラブ ザンクト・パウリであった。またザンクト・パウリはやはりハンブルクの地区名である。歓楽街として知られているレーパーバーンもこの地区にある。数学・物理通信の論文が引用された2025-06-05 ・雑誌「数理科学」6月号は「物理学と特殊関数」の特集だった。それを見るともなしに見ていたら、「数学・物理通信」の論文が引用されていた。これはびっくりであった。もちろん、うれしいびっくりである。著者は佐藤勇二さん(福井大学)という方で、論文のタイトルは「ベッセル関数と物理現象」であり、引用された論文は中西襄先生と世戸憲治さんの共著の論文「多重振り子と鎖振子」である。私は数学・物理通信の発行者だが、佐藤勇二さんにメールで数学・物理通信を送っていない。ということは谷村さんのサイトで佐藤さんはこの記事を見たのだろうか。谷村さんの日頃のご尽力に感謝しなくてはならないだろう。名古屋大学の谷村さんは「数学・物理通信」の発行のはじめから、彼が京都大学に勤務されていたころから、ご自分のサイトに「数学・物理通信」のバックナンバーも含めてすべてを掲載をして下さっている。私がメールで送っている方々を延べで数えると100人は超えているのだが、お送りしている方々は人間だからやはり病気で亡くなるということが起こってくる。それも両手の指にあまる数の方々がすでに亡くなった。きちんと数えたことはないのだが、20人以上を超えているだろう。メールでお送りしている数を数えたら、87人だったが、それからでも数人の方が亡くなっている。もっともお送りする方で新しい方にもお送りすることも出ている。でもなかなか100人は超えない。これは個人のできることの限界であろうか。「数学・物理通信」は購読料を取ったりしていない、まったくのボランティアの事業である。だから資金がなくて発行を中止するということはない。だが、私が倒れれば、発行は続かないだろう。
2025年10月27日2025年10月26日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す量子基礎研究で米3氏がノーベル賞を受賞【トピック_2025年度】 昔確認できていたトンネル効果とは?量子力学では、例えば電子や陽子・中性子などミクロな粒子が「本来なら越えられないエネルギー障壁(ポテンシャル・バリア)」を、波動性を帯びる性質により確率的に“すり抜ける”現象として、トンネル効果が知られています。例えば、1950〜60年代の半導体トンネルダイオードや超伝導トンネル接合等が実験例です。古くは レオ・エザキ 氏が半導体トンネル現象により1973年のノーベル物理学賞を受賞しています。 NobelPrize.org+2NobelPrize.org+2この段階では「原子・電子など、非常に小さな系(ナノスケール)で、しかも単一粒子または少数粒子の振る舞い」で観測されたもので、「目で見える大きさ」での実証はされていませんでした。今回はどんなトンネル効果が確認され、どの程度“巨視的”なのか?今回の ジョン・クラーク、ミシェル・デボレ、ジョン・マルティニス の3氏による受賞理由は明確です。「電気回路における巨視的量子力学的トンネル効果およびエネルギー量子化の発見」 NobelPrize.org+2NobelPrize.org+2彼らは1984〜85年に、超伝導回路(ジョセフソン接合:Josephson junction)を用い、“手のひらに収まるほどのシステム”(チップサイズの回路)において、トンネル効果および量子エネルギー準位の離散化(エネルギー量子化)を実証しました。 NobelPrize.org+1具体的には、数十億を超える電子対(コーパー対)が集団としてひとまとまりで振る舞い、古典的には「壁の向こうへは出られない」状態にあるのに、トンネル現象により電圧ゼロの状態から別の電圧状態へ“抜け出す”という実験を実施しています。 The Washington Postつまり「電子が1個だけ壁を抜ける」ではなく、「マクロな回路全体が量子的に振る舞って抜ける」ことを示した点が画期的です。APS Physicsの記事も「大きな物体からなる系でもトンネル効果を示せることを実証した」と報じています。 physics.aps.orgこの「マクロな系」とは、複数の粒子がひとつの量子的なユニット(collective quantum state)として振る舞うことを意味し、従来ミクロ領域に限られていた量子効果が、可視・扱いやすい実機規模での実証に至ったという点で“巨視的”と言われています。昔と今で何が違うのか?定量的に項目昔(ミクロ系)今回(マクロ系)系の大きさ原子、電子、ナノスケール手のひらサイズの回路チップ(数 mm〜cm)粒子数1〜少数粒子数十億〜数十億電子対が集合効果の観測トンネル効果、量子化:単一粒子を対象に検証回路全体が量子ユニットとしてトンネルおよび量子化を示す状態変化の指標波動関数、電子透過率など電圧ゼロ状態から別電圧状態への転移で観測可能技術応用基礎物理実験、半導体トンネルデバイス超伝導回路、量子ビット(qubit)、量子コンピューター基盤このように、スケール(大きさ・粒子数・観測可能性)が飛躍的に違うのが今と昔の最大の差です。トンネル効果は「実空間ですり抜ける」わけではない。重要な注意点新聞などでは「電子が壁をすり抜ける」「壁の絵をすり抜けるように」などの比喩表現がありますが、これは誤解を招きやすいです。実際には次の通りです:トンネル効果とは、**ポテンシャル障壁(エネルギー障壁)**を波動関数が“確率的に透過”する現象であり、電子が物理的な「壁」を文字どおり通り抜けるわけではありません。この現象は、電子の波動的性質(波としての振る舞い)が働くとき「粒子的性質」が希薄になる状況で起こります。つまり「物質の壁を直接通り抜けた」という理解ではなく、「波動関数が障壁を『飛び越える確率を持つ』」ことが核心です。さらに、今回のマクロスケール実験でも、超伝導状態という非常に低温・極端な環境下で、回路全体が量子的に振る舞っており、日常的な「壁をすり抜ける」ようなものとは根本的に異なります。この理解を持たずに「壁を抜けた」というイメージを植え付けると、後の量子力学・量子情報理論の学習や理解において混乱を招く可能性があります。量子AI(量子コンピューター+AI/AGI)の概略量子コンピューターとは、量子ビット(qubit)を用い、**従来のビット(0/1)ではなく、重ね合わせ(superposition)と量子もつれ(entanglement)**を活用して計算を行う装置です。今回の受賞研究は、超伝導回路を用いて量子的な振る舞い(トンネル効果・エネルギー量子化)をマクロな規模で示したものであり、量子コンピューター技術の基盤(例えば超伝導型量子ビット)に直結しています。 NobelPrize.org+1さらに「量子AI」と言われる分野では、量子コンピューター上で動作するAIモデル、あるいは量子演算を活用して学習・推論を高速化・効率化する試みが進んでいます。AGI(汎用人工知能)の実現にもこの量子コンピューター技術が「計算資源:コンピュート力」の観点から重要視されており、今回の研究が示したような大規模な量子振る舞いが実用段階へ近づく可能性を示しています。ただし、「量子AI=すぐに人間レベルのAGIが出る」という意味ではなく、・量子ビットのスケーラビリティ・エラーレート低減・量子デコヒーレンス対策など、まだ多くの技術的ハードルがあります。今回の成果は「量子効果を日常機器スケールに広げうる」という証明であり、応用への“扉”を開いたという位置づけです。✅ 最後にまとめ今回のノーベル物理学賞受賞は、量子力学の奇妙な現象であるトンネル効果を、原子や電子レベルから“手のひらサイズの回路”というマクロな系にまで拡大して実証した点にあります。しかし、重要なのはこの現象が「実空間の壁を文字どおりすり抜けた」という直感的なイメージではなく、「波動性を持つ多数粒子の系が、エネルギー障壁を確率的に越える量子的振る舞いを示した」という精緻な理解です。さらに、この技術的ブレークスルーは量子コンピューター・量子センサー・量子暗号といった次世代技術の基盤を成し、「量子AI」の将来像にも重要な影響を与えうるものです。新聞や報道にある“壁をすり抜ける”という表現をそのまま受け入れるのではなく、「ポテンシャル障壁を超える波動的な確率現象」であるという理解を再強調したいと思います。〆最後に〆以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 最近全て返事が出来ていませんが 全て読んでいます。 適時、改定をします。nowkouji226@gmail.com2025/11/26_初回投稿サイトTOPへ 舞台別のご紹介へ 時代別(順)のご紹介
2025年10月27日2025年10月17日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残すゲオルク・レティクス_【コペルニクスと天動説をまとめた】‐10/27改訂 こんにちはコウジです。 半年ごとの既存記事見直しの作業です。 今回は古代に概念・手法を確立していった偉人を紹介します。 では、ご覧ください。内容を整理し、リンクを見直しました。 現時点での英訳も考えています。(以下原稿)天体回転論 【スポンサーリンク】 【1514/2/16 ~ 1574/12/4】天文学のパイオニア・レティクスその名はGeorge Joachim Rheticus または Rhäticus, Rhetikus と記します。 (外国の方ですから正確にコピペしました。)天文学者レティクス (本名 Georg Joachim Iserin、後に von Lauchen / Rheticus を名乗る)は、 1514年2月16日、オーストリアのフェルトキルヒ(Feldkirch) で生まれました。 Encyclopedia Britannica+1幼少期には父親の医学職、ラテン語学校での教育を経て、チューリッヒ(Zurich) での学びののち、1533年からウィッテンベルク大学に進学し、1536年に 修士号を取得。その翌年 1537年にウィッテンベルクで数学と天文学の 教授職に就任します。 mathshistレティクスは 1539年から1541年 の間、ポーランドのフラウエンブルク(Frombork)で コペルニクスと共に暮らし、その理論を直接学びました。 mathshistory.st-andrews.ac.uk+2Encyclopedia Britannica+2その滞在中にレティクスは Narratio Prima(1540年)を執筆し、コペルニクスの地動説 (heliocentric model)を紹介する働きをします。これにより、 「De revolutionibus orbium coelestium」が出版されるきっかけを作った重要人物となりました。 mathshistory.st-andrews.ac.uk+2Encyclopedia Britannica+2また、彼は三角法(trigonometry)の分野でも業績を残しており、 Opus Palatinum de Triangulis という六つ全ての三角関数(正弦・余弦・正接など) を用いた表を含む著作を準備しました。これは彼の晩年後、 彼の弟子によって 1596 年に出版されます。 Encyclopedia Britannica+2mathshistory.st-andrews.ac.uk+2あえて他の道具を考えていくとすれば ユダヤ教の発展と共に伝わってきた「カバラ」 と呼ばれる数の体系です。キリスト教の色々な 話に基づき数字一つ一つに意味を付けていきます。 13や7が比較的幸運な番号であるといった次第に 一つ一つの数字に意味が加わるのです。数秘術としてカバラは占い師が受け継いでいる体系です。 中世には王家の意思決定などの時に(真面目に)「議論」が カバラの流儀で交わされて実際の祭り事が行われていました。有名人ではミッシェル・ノストラダムスはフランス王家に仕え、 カバラの思想に基づき助言を与え地位を確立しています。 レティクスも何人かのパトロンのもとで研究を続けます。レティクス時代の宗教と政治また、当時の宗教は政治的にも力を持っていました。 特に中世以前はキリスト教の教えに従い 協会自治区が地方のあちらこちらにありました。 そうした経緯で、1096年から1303年にかけての期間には 聖地を確保するために十字軍が組織され、 大規模な軍事行動が行われました。斯様な時代背景のもと、16世紀前半に 宗教改革をしたマルチン・ルター(1483- 1546) によるコペルニクス(1473 – 1543)への批判が有名です。宗教が科学に対する影響は大きいのです。ルターは 聖書の一節であるヨシュアによる「日よとどまれ」(ヨシュア10:12~13)という言葉に着目しています。「地球が動いているのではなくて太陽が動いている」 という概念が聖書の中での世界観が天文学にも 適用される事が好ましい世の中だったのです。実験と経験を重視して考える思考は ルター思想の中では目立ちません。 ルターによれば千年以上前に著された 聖書の言葉が何より重いのです。 それだからルターはコペルニクスの 考えを受け入れていないのです。教会が権威を持ち堕落しているとの批判的な観点からルターは 神の言葉としての「聖書の文言」 を大事にする聖書絶対主義を掲げました。キリスト教の中でもプロテスタントとカソリックが 天文学に対して異なる見解を示します。科学に対してキリスト教が偏見を持っていた事情は1973年に ヨハネ・パウロ二世が「ガリレオ裁判の過ち」を 公式に謝罪するまで続きます。レティクスとコペルニクス精力的にレティクスはコペルニクスを支持し続けました。 時代背景にも関わらずに天動説を進めていきます。 コペルニクスの死後まもなく発刊された 「天球の回転について」 において天動説を形にします。後世の天文学者が大事に使っていく概念を作り上げたのです。 いわゆる「コペルニクス的転回」が大部分の人に 理解されなかった時代に、 レティクスは理解と復旧を進めました。〆 テックアカデミー無料メンター相談 【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 最近全て返事が出来ていませんが 全て読んでいます。 適時、改定をします。nowkouji226@gmail.com2022/10/05_初版投稿 2025/10/27‗改訂投稿舞台別のご紹介へ 時代別(順)のご紹介 電磁気関係へ オーストリア関連のご紹介へ AIによる考察(参考)ーこのサイトはAmazonアソシエイトに参加していますー(2022年10月時点での対応英訳)Rheticus is an astronomerI write down the name with George Joachim Rheticus or Rhäticus, Rhetikus. (because he was foreign one, I copied and pasted it exactly.) Rheticus is an astronomer born in Austria.After having put the mathematical quality in felt Kirch, Zurich, Wittenberg, Rheticus begins to work as a professor in Wittenberg University in 1537. And, during two years after two years later, Rheticus lived with Copernicus. They affected each other. The Newton dynamics was not there at that time, and there was no understanding about the electromagnetism, too. They must study Dynamics to be usable as preparations was astronomy and mathematics.Era of Rheticus There was a system of the number called “The Cabala” that came with development of Judaism if I think about other learmings daringly. They add a meaning to one one number based on Christian various stories. They gave a meaning to each gradually each number to be the number, that 13 and 7 are relatively lucky. This thought is the system which a fortune-teller still inherits as a number secret art. They had done such a “discussion” at the time of decision making of the royal family seriously in the Middle Ages, and every real festival was held. Michelle, nostole dams served a French royal family in the famous people and Michelle gave advice based on Cabara and establish a position. Rheticus continues studied it with some patrons, too.On the oyher hand, the side that religion at the time had power politically was very strong. There was an association autonomous district in local many places according to Christian teaching before the Middle Ages in particular. They had organized Crusade to secure a “sacred place as process” in the times of the Crusade during a period from 1096 through 1303, and they had carried out a large-scale military campaign.Rheticus and ReligionCopernicus criticism by Martin Luther who did the Reformation in the cause, the early 16th century of the background in such times has it pointed out. Religion has a big influence on science. By Jehosua who is one node of the Bible as for Luther “stay a day”, and pay the attention to the word (Jehosua 10:12 – 13). It was the world where it was preferable for a view of the world in the Bible, “the earth did not move, and the sun moved” to be applied to astronomy. The thought to focus on an experiment and experience in the thought of Luther, and to think about is not founded. Words of the Bible written according to Luther more than 1,000 years ago are heavy Important above all. Because it is it, Luther does not accept a thought of Copernicus. Luther raised the Bible aesthetic absolutism to take good care of “the words of the Bible” as words of God from a critical point of view that Chnrch was corrupted if they paid a church for too many authority. In addition, Protestantism and a Roman Catholic show a different opinion for astronomy in Christianity. that the circumstances that Christianity prejudiced against for science continue until John Paul II apologizes for “the mistake of the Galileo trial” formally in 1973Rheticus continues supporting Copernicus without being concerned in the background in those days and pushes forward the Ptolemaic theory. Rheticus made the Ptolemaic theory a form in “about the turn of the celestial sphere” published soon posthumously of Copernicus. Rheticus made up the concept that a later astronomer used carefully. In the times when so-called “Copernican change” was not understood by most people, Rheticus pushed forward understanding and restoration.
2025年9月30日2025年9月29日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す老人の呟きから9月末抜粋_・『物理数学散歩』の不評 【2013-04-05 】・WKB近似の解説論文 【2013-04-18 】・天然原子炉と原爆開発資料 【2013-07-02】・演劇『コペンハーゲン』に関して 【2013-08-28】・歴史に疎いが 【2013-09-02】・特殊相対論とミンコフスキー 【2013-10-04 】・ヒッグスにノーベル賞 【2013-10-09 】・重力質量と慣性質量 【2014-03-09】・ハイゼンベルク原子炉の謎 【2014-04-11】・ETH 【2014-05-17】・世界の見方の転換 【2014-05-27】・辻哲夫『物理学史への道』 【2014-05-30 】・四元数:実数の4組表現 【2014-07-01 】・青色LEDのノーベル賞受賞 【2014-10-08】・行と列 【2014-10-31 】・ランダウの理論物理学教程 【2014-11-22】・オッペンハイマーの科学観 【2015-03-10】・宇宙白熱教室とネター 【2015-06-20】・南部さんの死去 【2015-07-18 】・エミー・ネター 【2015-07-28】・Heisenberg方程式を見つけたのは・・・ 【2015-08-21 】 『物理数学散歩』の不評_2013-04-05 私の著書である、『物理数学散歩』(国土社)がほとんど売れなかった。2011年4月に出版して今が2013年4月であるが、わずか50部しか売れなかった。それも大学の図書館で20冊購入されたことが分かっているので、一般の人は30部しか購入してくれなかった。これは数式が満載であるということを抜きにしてもやはり気落ちするような事実である。定価は1,260 円であるので、高価なわけでは決してない。前著『数学散歩』の方はそれでも250部くらいは売れたと思うので、今回の焦点を絞って理工系の学生を対象にした出版はまったく失敗だったことになる。どうも『物理数学散歩』というタイトルがよくなかったのか。いずれにしても私が思っていたような人はほとんどいなかったということになる。私にしても、もし若い学生の時にこのような本が出版されていたとして、購入したかどうか。それはわからない。もっとも不評であったことが、即ち価値がないということではないと信じている。(2019.4. 26 注)古本で5,000円とか10,000円の値がついているのを見ると、だれか貴重な本だと思ってくれている人が少数だが、いることは確かである。だが、こんな値がつくと誰だって買えないであろう。(2019.11.18 付記) 古本で5,000円などと値がついたら、そんな本を買うことなどできないのは、当然である。(2020.2.29付記) 古本で29,000円の高値がついているとかコメントいただいたことがあるが、これは著者の本意ではないので、下のコメントに留意されてもし読みたい方にはまだ残部がありますので、コメントに意向をお教えください。読んでみたい方には『物理数学散歩』は著者割引で、送料込みで1,000円でお分けできます。コメントにご連絡ください。一万円のミスプリントではありません。WKB近似の解説論文2013-04-18 ・物理学者のMさんから、WKB近似の解説論文を投稿してもらってから、半年以上経った。論文中に図があるのだが、latexではそのまま図を使えないので、picture環境で今週の月曜から描きなおしている。7つある図の5つを描きなおしてあと2つとなった。そのうちの1つも昨日その大部分をすでに描いている。いくつかの矢印とそれへの説明を入力すれば、この図は描きあがる。ポテンシャルの障壁の山をどうやって描くかを考えるのに昨日の時間の大部分を使ったが、3次のベジェ曲線のコマンドを使ったら、うまくいった。それでこの図の難しいところはクリアーできた。残っているのは図1である。これはなかなか面倒な図であるから、完成はもしかしたら、来週になるかもしれない。この解説論文は6月に発行予定の数学・物理通信3巻3号に掲載を予定している。Mさんの解説論文の意図はいいものであったが、それにしても解説はまだ難しいところがあった。それで私の独断で付録とか参考文献をつけた。著者のMさんの校閲をまだ経てはいないが、編集者の意図をくんでくれるものと勝手に期待している。天然原子炉と原爆開発資料2013-07-02‗「地球上に天然の原子炉が存在したのではないか」という理論を提唱していた、黒田和夫さんという人のことを岩波書店のPR誌「図書」7月号で読んだ。黒田さんの書いた講談社ブルーバックスでそういう題の本があり、面白そうと思ったので購入はしていたが、読んだことはなかった。その天然原子炉の話がとても要領よく説明されていた。原子炉の中には水が中性子の減速材としてまた、熱を伝える熱伝達材として入っているのだが、自然の原子炉の可能性は水がないのでありえないと原子炉をつくったFermiたちは思っていたらしい。だが、水が過去のウランの鉱床に結構十分あり、かつU235の含有率は20億年前にはいまのU235の3.5倍の含有率であったろうという。これは現在の原子力発電で使われる濃縮ウランのU235の濃度にほぼ等しいという。そういういくつかの条件下では天然の原子炉が地球上に存在しえたはずだというのが黒田氏の推論であったが、原子炉の研究をしていた人からはそういう理論は無視をされたという。ところが1972年になって、フランスの原子力庁がアフリカのガボン共和国のオクロ鉱山から産出されたウラン鉱が異常な同位体組成をもっており、原子炉で使用済みのウラン鉱の燃えカスに似ていると発表した。さらに、これは黒田が予言した天然原子炉の理論でほぼ完全に説明ができると結論付けたという。これだけでも話が面白いのだが、理化学研究所で行っていた、戦争中の原爆開発の関係文書を黒田が預かっていたという。このエッセイの著者小嶋稔さんはその依頼をしたのが理研の誰であったかはわからないと書いている。死後その資料は理研に黒田夫人から返却されたという。それで思い出したのだが、黒田さんがアメリカから日本に里帰りしたときに「武谷三男に会って、天然の原子炉について議論するために日本に来たと言っていた」とどこかで読んだ。それはもちろん、武谷が書いていたことではないが、武谷が亡くなった後でどなたかがそういう回想をされていた。そういえば、武谷は戦争中に理研にいたし、原子力研究の一端を理論的に担っていたことも事実である(2014.3.17 付記参照)。もっとも武谷は原爆が広島に落とされたころ、特高に捕まって取り調べを受けており、それは調書が出来上がる直前であったから、黒田さんに文書の秘匿を頼んだ本人とは考えにくい。それでもひょっとすれば、事情をうすうす知っていた可能性はあったのではないか。(2014.3.17 付記)武谷の戦時中の原子力研究の一端の成果として1955年ごろに発行された、岩波書店の『現代物理学』講座の1冊の豊田利幸博士との共著の『原子炉』がある。この書は原子炉の原理について述べた隠れた名著ではないかと思っているのだが、そういうことを知っている人もあまりいなくなってしまった。演劇『コペンハーゲン』に関して2013-08-28・ことはハイゼンベルクとボーアに関することである。とは言っても物理学のことを知らない人にはなんのことかわからないであろうか。ボーアはデンマークの物理学者で原子論で知られた有名な学者だし、もう一人のハイゼンベルクもドイツのこれまた有名な物理学者である。この二人はもちろんボーアがハイゼンベルクの先生にあたる。そしてこの二人深く互いを理解しあった中であったが、第2次世界大戦中の1941年にドイツ占領中のデンマークをハイゼンベルクが訪れる。そして、ハイゼンベルクはボーアに連合国が原爆の開発に進まないようにとそれとなく伝えようとしてコペンハーゲンを訪れる。そして実際に会うのだが、その話はハイゼンベルクがナチの情報部に漏れるのを恐れて遠まわしにしか言わない。そのためにボーアはナチのドイツが原爆を開発する意思があるのだと思ってしまう。それで、歴史上ではアメリカの原爆開発だけが進行して、それは広島、長崎への原爆投下へと至る。この辺のハイゼンベルクとボーアとの会話とボーア夫人の3人の会話が演劇『コペンハーゲン』のテーマである。ただ、私はまだこの演劇を見たことがない。『数理科学』9月号はそのテーマがボーアであり、その記事の一つにこの演劇に関する対話のいきさつを山崎和夫さんが書かれている。それによれば、ボーアとハイゼンベルクはそのときのことについて一度二人だけで話し合いを戦後何回かしようとしたらしい。しかし、それが行われないうちにロベルト・ユンクの「千の太陽よりも明るく」(平凡社)が出版され、そのデンマーク語訳を読んだボーアがアメリカの物理学者たちが悪玉として描かれているのに機嫌を悪くされてこの話し合いは結局されなかった。これがハイゼンべルクに近いドイツの物理学者の思っている事情であるが、一方アメリカに亡命したかつてのヨーロッパの物理学者たち、特にユダヤ系の物理学者は身内が強制収容所で殺されてなくなったということもあり、ハイゼンベルクとそのまわりにいたドイツの物理学者の方がむしろ悪玉であると考えている。そして山崎さんによれば、それが世界の大勢の考え方であるらしい。私が興味深く思ったのは「千の太陽よりも明るく」の出版されるまではボーアはむしろハイゼンベルクとの和解を考えていたのだが、このノンフィクションのせいでその和解がなされなくなったらしいことであった。私はこの書を学生の頃に読んだが、アメリカの物理学者の悪玉説であるとは思わなかったが、当事者になるとそうは思わなかったことに驚かされた。(付記)そして広島への1945年8月6日の原爆投下によって、私の先生のSak先生とSaw先生とが原爆に被曝するという、結果となった。Sak先生はすでに故人だが、Saw先生はまだ存命である。歴史に疎いが2013-09-02・暦史に疎い私だが、1900 量子仮説の提唱(Planck)1905 特殊相対性理論(Einstein), 光電効果の理論(Einstein)1911 有核原子模型の提唱(Rutherford)1913 原子模型の量子論(N. Bohr)1915 一般相対性理論(Einstein)1923 物質波仮説(de Broglie)1925 行列力学(Heisennberg)1926 波動力学(Schr”odinger)1935 中間子理論(Yukawa)1948 量子電気力学のくりこみ理論(Tomonga, Schwinger, Feynman, Dyson)などの物理学上の発見のいくつかの年は覚えている。そういえば、2011年は有核原子模型の生誕100年であり、今年の2013年はBohrの原子模型に量子論の100年目であった。それだから雑誌『数理科学』9月号でボーア特集となった。2011年には徳島科学史研究会の総会で当時高知女子大におられた大久保茂男さんが有核原子模型の提唱から100年ということで特別講演をされた。その講演はなかなかインパクトのあるものであったが、それはもうあまり思い出せない。しかし、徳島科学史雑誌にその講演の内容が載せられているので今でも読むことができるのは幸いである。そういえば、2005年にも特殊相対性理論100年ということで科学雑誌に特集が組まれたように思うが、早くも記憶が定かではない。それにしても私が新しい科学上の発見の年を覚えていないのはどうしてだろうか。特殊相対論とミンコフスキー2013-10-04 ・「特殊相対性理論とミンコフスキーとはミスマッチだ」と思う方もおられるかもしれない。そんなことをいう人は特殊相対論のことを知らない方だろう。1905年にアインシュタインが特殊相対性理論を発表した後で、その3年後の1908年にミンコフスキーがその幾何学的な意味を示した。私は相対論の講義を聞いてよく理解できなかったが、このミンコフスキーの解釈を聞いてようやく特殊相対論を理解できるようになった。それ以来、これは私のお好みである。雑談会でその分野の専門家であるEさんが、特殊相対論の話を一般の人のためにしたのだが、わかりやすくという意図のためにかえって理解が難しくなっていると感じた。そのときに技術者だったKさんがE=mc^{2}という式がどのように導出されたかをまだ知らないと言っていたので、その説明をしたいと考えるようになった。私の勤務していた大学の工学部には特殊相対論を教える科目はなかった。それで原子力工学の基礎を教えるために2回と半分くらいの授業時間を使って特殊相対論の初歩とE=mc^{2}の導出を講義していた。いわば、目的志向の講義であった講義のプリントをつくって学生に配ったが、その記録は小著「数学散歩」(国土社、品切れ)に載せてある。もちろん、この講義のプリントはもっと他のことも書いてあるが、それらは授業で取り扱わなかった。そういうことで、ミンコフスキーのアイディアにもとづくローレンツ変換の初等的な導出をしようかと考えているこのごろである。ヒッグスにノーベル賞2013-10-09 ・ヒッグスが今年度のノーベル賞をもらった。ヒッグスの方の名はもちろん知っていたが、もう一人のアングレールの方は失礼ながら名前も業績も存じ上げなかった。テレビのニュースで聞いたときにヒッグスはすぐにわかったが、もう一人の方の名はわからなかった。今日新聞を見てようやくわかったが、まったく名前を知らなかった。以前に電弱理論でグラショウ・サラム・ワインバーグがノーベル賞を受賞したときにもちろんグラーショウの名は知っていたが、電弱理論の先駆的な研究をしていたとは知らなかった。まあ、私は工学部に勤めて素粒子の研究から遠ざかったからある意味ではしかたがないけれども、それくらいは知っているべきであったろう。グラショウはむしろ大統一理論の提唱者としてしか知らなかった。グラショウの自伝によれば、ワインバーグとはニューヨークのブロンクスの高校の同級生だったとかで同級生がノーベル賞をもらうという数少ない例の一つになっている。重力質量と慣性質量2014-03-09・ある化学系の技術者だった方が『ドイツ語圏とその文化』2号に「質量は重力に比例する物体のある属性だ」という私が書いた一文を読んで、ようやく質量とは何かの一端がわかったと言われたと聞いた。質量は重さに比例する重力質量と、重さとは関係がない、慣性質量という考え方がある。たとえば、摩擦のない床(注)の上に物体が置かれていて、それに力を働かせたとする。物体の重力と床からの抗力とが釣り合っているので、この物体を横側から押してやれば容易に動くかと思うのだが、そうはいかない。それは運動を起こしにくくさせている、慣性質量がこの物体にはあるからだと考える。このようにして定義された慣性質量は重力質量とは論理的に関係がなさそうである。要するに、質量の考えには二つの考えがある。それらはどういう関係にあるのか。その違いを測定する実験が20世紀の初めに行われたと聞くが、その違いは誤差の範囲でわからなかった。それで1915年になってその二つの質量は同じものだとする、等価原理がアインシュタインによって提唱されて、これが一般相対性理論の二つの原理の中のひとつとなった。(注)摩擦のない床など考えられない方はスケートのアレーナのような滑らかな氷の上に物体を置くことを想像してほしい。ハイゼンベルク原子炉の謎2014-04-11・「ハイゼンベルク原子炉の謎」というエッセイが物理学会誌の4月号に載っている。第2次世界大戦中にドイツで試作されていた、ハイゼンベルクが指導した原子炉が臨界に達しなかったということで、ハイゼンベルクは二流の物理学者と揶揄されたりした(arme zweite Klasse Physiker : Otto Hahnによる評)(注1)。ハイゼンベルクはフェルミのような実験核物理と理論核物理を個人的に体現する型の人ではないので、これは彼の不名誉ではないかもしれないが、不名誉と考える人もいる。それとドイツのハイゼンベルクのごく親しい周辺の人を除いて、戦前に師とも目されたボーアでさえも、ハイゼンベルクがナチの意向を汲んで原爆をつくろうとすると考えたという。その辺がユンクの『千の太陽よりも明るく』(文芸春秋)の記述と食い違っているのだが、その辺の謎があるから、一般の人にもわかるような史劇「コペンハーゲン」が上演されて議論を呼んだ。というような経緯はこのブログでも述べたことがある。表題のエッセイにはそういういきさつも載っており、物理学者ならずとも興味をそそられるであろう。しかし、このエッセイの主眼はそこではなく、ハイゼンベルクが関係した重水を使った原子炉がなぜ臨界に達しなかったかの謎に迫ろうとする(注2)。そして解析的には解けない、臨界条件を求めるハイゼンベルク・ビルツの式をモンテカルロ法で数値的に解き、結局重水の量が足らなかったためにハイゼンベルクの原子炉は臨界に達しなかったと結論している。普通には臨界条件を求めるには中性子の拡散方程式を解くが、この拡散方程式と比べてハイゼンベルク・ビルツの式が不合理というわけでもなかったということらしい。(注1)arme のところをpauvreとしていたが、pauvreはフランス語なので、armeと変えた。armeにも「貧しい」という意味の他に「哀れな」という意味がある。正しくはarmer, zweiter Klasse Physikerかもしれない。もしder arme zweite Klasse Physikerとderという定冠詞がつくなら、正しいだろう。(2016.7.29付記)これはもちろん原爆とか原子炉の研究に関してだけで、その他の点でハイゼンベルクが2級の物理学者だということではもちろんない。(注2)臨界とは原子炉の中で中性子が増えていく有効増倍率k_{eff}=1となる条件である。原子炉が作動するためには最低条件としてこの臨界条件を満たす必要がある。普通に原発等で原子炉の運転をするにはこの中性子の有効増倍率k_{eff}を1よりごくわずかに大きくしたり、小さくしたりするようにコンピュータ制御で制御棒の出し入れを細かくしている。炉内の中性子の数を計測カウントしてその有効増倍率を1の上下となるようにコンピュータ制御で制御棒の出し入れをして原子炉を運転をする。もっとも見てきたように言っているが、原発等の原子炉の実物は見たことがない。いつか何十年か前に当時知人が勤めていた熊取の京大原子炉の見学をさせてもらった。このときは原子炉は運転休止中であり、原子炉の上を説明を受けながら歩いたのを覚えている。もともと制御とか運転とかは、ある運転の道筋(範囲)を決めておき、そこからあまり外れないようにすることだと星野芳郎の『技術と人間』(中公新書)で読んだ覚えがある。ETH2014-05-17・ETH (Eidgenössische Technische Hochschule Zürich, ETH Zürich, ETHZ)(注)と聞いてすぐにチューリッヒ工科大学のことだなとわかったら、それはかなりヨーロッパ通か研究者の方であろう。いま調べて原稿を書いている、レントゲンがこのETHの初期の卒業生である。レントゲンが入学したころにはこのETHができてまだ10年ほどしかたっていなかった。オランダで幼少時を過ごしたレントゲンはアビトューアの資格をある事情で得られず、大学に入っても資格を得られないということからアビトューアの資格がなくてもはいれる工科大学のETHに試験を受けて合格をして入った。もっともその後ETHではなく、チューリッヒ大学で学位を得て卒業をしている。ETHはいまではヨーロッパの名門の大学として知られており、かのアインシュタインの卒業した大学としても知られている。アインシュタインはレントゲンよりも10歳か20歳年下なので彼はアビトューアなしではETHには入れず、もう一度ドイツで退学したギムナジウムをスイスのギムナジウムをに入り直して、アビトューアをとっている。もっとも試験は前年に受けて数学と物理は抜群の成績だったらしいが、古典語ラテン語、ギリシア語とかの成績が悪くて不合格となっていた。だが、いまならなかなか合格にはできないのかもしれないが、ETHの校長がアインシュタインにギムナジウムに入ってこれらの科目を習得するように説得したらしい。そしてつぎの年には無試験で入学を許可された。もっともアインシュタインはほとんどETHの講義には出なくて、友人のノートを借りて勉強し試験はパスしたという。ノートを貸した友人の度量が大きかったということだろう。そのさぼりのためにETHの助手としては残れずベルンの特許局の技師の職を友人の父親の紹介で得たという。そのベルンで2005年に大きな3つの論文を出して、一躍世界にアインシュタインの名が知られるようになった。ベルンは河沿いの美しい町である。1976年の春にここを鉄道で通り抜けたが、実際にこの街を訪れたのはその数か月後の8月の終りのことであった。(注)Eidgenössischとはいま辞書を調べると「スイス連邦の」という形容詞だと分かった。読みをカタカナでつけるとアイトゲノッシュシュとでもなろうか。アイドではなく,アイトである。ノーベル賞受賞者を20人以上出しているとWikipediaにある。世界の見方の転換2014-05-27・山本義隆氏がまた大著を著したらしい。らしいとしか言えないのはまだこの3部の大著『世界の見方の転換』(みすず書房)を購入もしていないからである。旧知の方であるから、彼の著書を読みたいと思ってできるだけ購入してはいるが、残念ながらちょっと拾い読みするくらいで通して読んだことはどの書もない。これは彼の著書がくだらないからではなく、多分その反対に襟を正して読みたいと私が思っているからである。この新著は『磁力と重力の発見』『十六世紀の文化革命』についで彼の3部作とでもいうべきものらしい。5月25日の朝日新聞に書評が出ていたが、これは書評を読んでその内容がわかるようなものではなかろうから、やはり購入して読むべきだろうが、経済的理由からもなかなか購入も難しい。辻哲夫『物理学史への道』2014-05-30 ・先日、松山市駅の高島屋のふれあいギャラリーに書道の展示の手伝いに行った後で、ジュンク堂に本を見に立ち寄った。そこで『物理学史への道』(こぶし書房)を買って帰った。一昨日は読む時間がまったくなく、昨夜ようやくその一部を読んだ。辻哲夫は広重 徹の僚友であり、物理学史家と考えられている。それで広重の武谷批判について辻がどういう判断をしているかが私には関心事であった。これに直接触れたところはなかった。武谷は自分が批判されると過剰に反批判を展開するというところがあるので、それには巻き込まれたくないという意図もあろうか。もっとも広重 徹は論争的であったというのは結構一般に受け入れられた評価のようであるので、広重 徹と武谷とは論争では戦闘的という点で、結構似た性質をもっていたということかもしれない。私のペンネームの一つに香山 徹があるが、実は若いころに広重の書『戦後日本の科学運動』(中央公論社)に触発されて、自分でつけたペンネームである。四元数:実数の4組表現2014-07-01 ・実数の2組(a, b)で、複素数を表すことがある。それと同様に四元数を実数の4組(a, b, c, d)であらわすことがある。(a, b, c, d)=a(1,0, 0,0)+b(0, 1, 0, 0)+c(0, 0, 1, 0)+d(0, 0, 0, 1), と表すことができるので、これから4つの基底 (1,0, 0,0), (0, 1, 0, 0), (0, 0, 1, 0), (0, 0, 0, 1) を自然に導入することができる。これはもちろん1=(1,0, 0,0), i=(0, 1, 0, 0), j=(0, 0, 1, 0), k=(0, 0, 0, 1)のことである。だが、あからさまにi, j, kを導入していないので、四元数の別の表示a+bi+cj+dkから四元数の演算規則を求めないと、どんなものだかまったくわからない。しかし、実はi ^{2}=-1, j^{2}=-1, k^{2}=-1, ij =-ji=k, jk=-kj=i, ki=-ik=j の演算規則がわかっているので、四元数を計算することができる。まさに、この四元数の元 1, i, j, k は四元数における「実体」である。というようなことを考えている。四元数の実部と虚部とが互いに「直交補空間」であるという命題を説明しようとしてここ数日頭を働かせた結果わかったことである。上の命題自身は数学者ポントリャーギンが著書「数概念の拡張」(森北出版、2002)に書いてあることだ。しかし、そのことを前に数回繰り返して読んだのだが、どうもわからなかった。四元数の全体が4次元のユークリッド・ベクトル空間であるとポントリャーギンは書いているのだが、その記述が間違っているのではないかと思っていた。訳注でスカラー積を(1, i)=(1, j)=(1, k)=0(i, j)=(j, k)=(k, i)=0(1, 1)=(i, i)=(j, j)=(k, K)=1ととることができるとあった。そのことが理解できなかったが、このことがようやくわかった。青色LEDのノーベル賞受賞2014-10-08・言わずと知れた、赤崎、天野、中村3氏のノベール賞受賞の報である。天野さんの名前は聞いたことがなかったが、赤崎、中村の両氏の青色半導体への寄与は知られていた。それにしても中村修二氏の寄与がとても大きい。基礎研究としては赤崎、天野の研究が先行していたにせよ、中村氏の研究成果と実用化がなかったら、赤崎、天野のお二方もノーベル賞受賞できていたかどうか。新聞を読む限りでは3人とも好きなことをしていたことを強調されている。少なくとも研究には自己満足がなければならない。これらの方々の研究成果にもかかわらず、日本の基礎研究とか実用研究の雰囲気はいまあまりよくない。これは今日の朝日新聞の社説でも要注意と述べていたが、その注意くらいではとてもすまないところに来ているのではないか。これは国立大学の法人化以降に顕著に見られる傾向である。私たちが大学に勤務していたころの予算の維持と研究の雰囲気が失われてしまっていると事情に通じた人は語っている。外国に研究に行けば、帰ってきても以前に自分が在籍したその職はなくなっているとも聞く。そういうことでは誰も外国にオチオチ研究留学できない。これは構造的にそういう風になってしまったとか。20年後の日本の研究と技術開発の現状はもう見るも無残になってしまっているだろう。そんな現状を憂うことをいう人はまだなぜだか少ない。それにプロジェクト研究は別だが、個々の研究者に与えられる、研究費は私が現役のころの1/3くらいになっているとか聞く。それでも、もし、いい研究が今後もできるとすれば、それは個々の研究者の涙ぐましい研究費集めの努力と日夜を継ぐ研究の成果によるものであろう。だが、それも今後は少なくなってしまうであろう。ああ、そのことを政治に携わっている人が知っているのかどうか。行と列2014-10-31 ・行列というと普通の人はコンピュータの新しいソフトを買い入れるための行列とか日本シリーズで球場に入るための行列を想像するであろう。しかし、行列は数学用語でもある。英語ではマトリックスmatrixという(もっとも英語風に発音するならば、メィトリックスだろうか)。元はドイツ語でMatrizeという。複数だとMatrizenである。ドイツ語でもMatrixという語もあるようだ。Matirzeは印刷用語で字母という意味もある。行列は方形に数字を並べた集まりのことで、これには、たす、ひく、かけるといった演算ができる。そして、この方形に数字や文字を並べた横の列を行(row)とよび、縦の列を列(column)とよぶ。英語 で行をrow, 列をcolumnとよぶことを知らない人はちょっと数学を学んだ人にはいないと思うが、さてドイツ語ではどういうのだろう。ということでいつものドイツ語のクラスで先週聞いてみた。R氏は線形代数を学んだことがないらしく、実際に数学でどういうかは知らないがといいながら、英語のrowにあたるのはReihe, columnにあたるのはSpalteだといわれた。昨日の午後、先週のドイツ語のクラスの要約をつくっていたときに、気になって最近自宅からもってきた藤原松三郎著『行列と行列式』(岩波全書)を開いてみたら、11ページに行はZeileとあり、列はKolonneとあった。それでその語を採用していたが、ちょっと気になったので、高木貞治著『代数学講義』(共立出版)を見てみたら、行はZeileだったが、列はSpalteであった。それで高木先生の権威にしたがって、ドイツ語の要約をつくった。しかし、クーラン・ヒルベルトの『数理物理学の方法』のドイツ語版をもっていることを思い出したので、それを見て確かめてみようとは思ったが、今朝はそれを探して読んで来ることを忘れて仕事場にきた。岩波の『数学辞典』ならrowとcolumnのドイツ語訳を見つけられるかと思って昨日調べたが、どこにも出ているようではなかった。インターネットの和独辞典もひいてみたが、どうも数学用語としての行と列の用語に対応した語を見つけることができなかった。いまインターネットの英独辞典をひいてみたら、、さすがに訳が出ていたが、複数の候補があり、一つに絞ることができなかった。訳の候補として有力なのはrowでは-e Reiheと-e Zeileである。またcolumnではKolumne(これは性が書いてない)と-e Spalteである。(2014.11.1 付記)今朝、クーラン・ヒルベルトの「数理物理学の方法」のドイツ語版を調べたら、やはり行は-e Zeileであり、列は-e Spalteであった。直接にはこの語を使っていないが、ZeilenindexとSpaltenindexという語を見つけたので、間違いがない。ランダウの理論物理学教程2014-11-22・詳しくはランダウ=リフシッツの『理論物理学教程』と言わなければならないが、それがPDFで無料公開されているという。もっとも1960年代に発行されたものであり、最新の1980年代のものは公開されていないらしいが、それでも憧れの『理論物理学教程』である。私に一番近しかったのは『弾性体論』だったが、これは大学の講義の弾性論のテキスト(英語の版の青焼きコピー)として使われた。結局はまったくわからずじまいであった。この科目の単位はどうやってもらったのだろうか。その後、材料工学科に数年勤めたときに弾性体論の一部を講義することになってあわてて、それを学び直したといういきさつもあった。しかし、いずれにしてもランダウの本は私にはわからなかった。ゆっくりじっくり読めばわかるようにはなるだろうが、それはあまりにも時間がかかりすぎるという気がする。そして、別の本で学んでその基礎がある程度わかった上で読めば、多分ランダウの本はすっきりしているのだろうと思う。私がもっている訳本では『力学』、『場の古典論』、『統計物理学』の3つだけであるが、『弾性体論』は今でもどこか探せば英訳の青焼きのコピーが出てくるであろう。1960年代の版ではあるが、公開されたということで感慨がある。学生のころランダウの量子力学の英訳本を友人のY君がこれを私たちに見せびらかせて読んでいたことを思い出す。その後、私は4年生になって研究室に入り、そのセミナーでシッフの英語の量子力学の本を読んだが、WKB近似のところだけはランダウの日本語訳で読んでノートをつくった覚えがあるが、そのノートもよく探さねば出ては来ないであろう。ロシア語の『場の古典論』と『量子力学』はその後、手に入れたので、ロシア語を学ぼうと思ったが、初歩のロシア語を学んだ段階でそれきりとなってしまい、その後ロシア語には縁がない。大学で2年後輩のO君は生物物理とか分子生物学とかに関心があって、長らく医学部に勤めていたが、ロシア語は辞書を引けば読めるようになったと言っていたから、まあものになったのであろう。O君とはかなり長い間年賀状のやり取りをしていたが、そのうちにお互い疎遠になってしまった。大学を定年で辞めてからはどこかで物理を教えていると聞いたが、まだ生きているのかどうかわからない。オッペンハイマーの科学観2015-03-10・先日、ダイソンの「叛逆として科学」(みすず書房)を読んだときにおもしろく感じられたのはオッペンハイマーの科学観である。オッペンハイマーは原爆の父とも呼ばれてロスアラモスで原爆の製造の指揮を執ったことで知られる物理学者である。後世からみたら、オッペンハイマーの一番すぐれた物理学上の業績はアインシュタインの一般相対論の方程式のブラックホール解を見つけたことだろうとダイソンはいう。ところが、このブラックホール解という業績をもとに宇宙に本当にブラックホールがあるのかを探したら、どうですかというダイソンの勧めにまったく興味を示さなかったという。ダイソンはいう。それはオッペンハイマーの物理学上の関心事は物理の基本となる方程式を見つけることであったからだろうと。ノーベル物理学賞受賞者のC. N. ヤンなどもオッペンハイマーの最大の物理学的業績はブラックホール解の発見であろうと述べている。そして、オッペンハイマーがもう少し長生きしていれば、この解の発見でノーベル賞を受賞できたのではないかとまで言っている。ところが、オッペンハイマーはそういう解には関心を示さなかった。武谷三段階論でも本質的段階は方程式の発見といわれているから、方程式の発見がやはり昔の物理学者の夢であったのだろうか。宇宙白熱教室とネター2015-06-20・アリゾナ州立大学のローレンス・二クラウス教授のNHK「宇宙白熱教室」の放送の第3回目が昨夜あった。これは以前に放送の再放送である。3回目にしてようやく眠らないで最後まで見ることができた。あまり難しい数学を使わないで宇宙の質量を求めるところまで話が進んで来た。来週は最終回である。私は宇宙のことをよく知らない。それでおもしろく見せてもらっている。どういう人がこのクラスに聴講に来ているのかわからないが、年配の方が多いようである。中学生の低学年かひょっとすれば小学校の高学年かと思われる子が一人いるが、宇宙の話に興味を持つのはある程度年がいかないとわからないであろう。運動エネルギーからはじまり、位置のエネルギーの話へと移って行き、地球の質量を求めることから宇宙の質量を求めることへと話は及んだ。数式の計算がないわけではないが、初等的なものであり、日本でもちょっと優秀な高校生ならば十分わかる程度の話にしているのはさすがである。昨夜は物理法則が時間的に不変ならば、保存される量があるというネターの定理のことを話していた。ネターの定理のことをネーターの定理と吹き替えで言っていたので、ちょっと変な感じがした。この定理を発見したネターのことをいつかサーキュラー『ドイツ語圏とその文化』でとりあげてみたいと考えている。物理の人は知っているとは思うが、ネターはドイツからアメリカに移住したけれども当時のアメリカでも女性に大学教授の職はなく、苦労した挙句に比較的若くして亡くなってしまった。数学者の正田健次郎さんが、ネターボーイとよばれるネターのとりまきの一人であったとは誰かの書いたエッセイかなにかで読んだことがある。このころはいまでは単に代数とよばれる分野が抽象代数と言われたころであり、ネターボーイたちも颯爽としていたらしい。ネターの定理についてはあまり学生時代には聞いたことがなかったが、大学に勤めるようになって間がないころ、理学部に勤めていた友人のEさんから内山龍雄さんの『一般相対性と重力』(裳華房)だったかの不変変分論という章の手ほどきを受けたことがある。素粒子論の研究者は大抵知っている話だが、私はそのときまでネターの定理のことを聞いたことがなかった。南部さんの死去2015-07-18 ・7月5日に物理学者の南部陽一郎さんが亡くなっていたことが昨日報道された。偉大な物理学者だということは聞き及んでいるが、私にはまだその偉大さはよくはわからない。もっとも南部さんの提唱された「自発的対称性の破れ」については短い論文を友人たちと出版したことがある。それはもっとも本質的な議論ではまったくなかったが。一年のうち何ヶ月かを大阪大学で研究されていたので、大阪大学で大学の定年後も研究を続けている友人から南部さんのことをちらっと聞いたことがある。南部さんの頭脳は働きは晩年にも衰えなかったと聞いているが、しかし肉体的には足取りとかが危うそうなことがあったとこの友人は語っていた。これはしかたがあるまい。友人は私よりの数歳下なので、70歳をちょっと越したぐらいだが、彼でもときどきは急病で入院を余儀なくされたりとかするらしい。年は争えない。しかし、それほど偉大な物理学者の南部さんではあるが、ノーベル賞の受賞は89歳の時と遅かった。これは彼の研究が深くていつも何十年もしないと一般の物理学者に理解できなかったためとも言われている。1940年代後半には東大出身の優秀な物理学者が輩出し、それらのその当時の若者は東京大学には職がなかったために大阪大学、大阪市立大学等に勤めるようになった。南部、早川、木庭、山口、西島さんたちである。その関西の大学への東大からの流出の先頭を切ったのが南部さんだったとか聞く。ご冥福をお祈りする。エミー・ネター2015-07-28・女性数学者エミー・ネターについて不定期刊行の『ドイツ語圏とその文化』で取り上げようかと考えている。物理を学んでいるものにはネターは「ネターの定理」で有名である。一方、数学者の間ではむしろネターはかつて抽象代数学といわれた新しい代数で有名なのであろう。ネター環という理論で有名らしい。これはちょっとネットで調べたが、私には理解できないので紹介できるような気がしない。昨夜、wikipedia のネターの定理を読んでみたが、もうわからなくなっていた。もっともこれはちょっと努力をすれば理解可能であると思っている。それで内山龍雄さんの『一般相対性と重力』をとりだしてきたが、これは友人の E さんが何十年も前に手ほどきしてくれたことがあるが、そのときのノートを参照しなくてはわかりそうにない。そのノートはどこかにあるのだが、まだどこにあるのか見つけてはいない。そうはいっても文章だけの説明でネターの定理の説明をすることはしたくない。解析力学の範囲でもいいから数式を用いた説明をつけたいと思っている。ネターは予想に反して結構多くの人の関心を集めていると見えてネターに関係するサイトは多い。私はここで、ネターと書いたが、どうしたものかインタネットでも文献でもネーターとなっている。これは日本風になった発音なのか、それともこの発音のほうが正しいのか調べていない。Noetherをネタ―とカタカナで表したのだが、発音はNertherだと、ある英語のサイトの記事にはあった。とするとネーターと表すのがいいのだろうか。太田浩一さんの『ほかほかのパン』(東京大学出版会)にもネーターの表記である。特に女性の書いたネターの伝記等がたくさんあるようだが、これはネターの生きた時代だけではなく、現在でも女性のおかれた環境が厳しいことを物語っているようでもある。その業績からいえば、ネターは抜きん出ている。Heisenberg方程式を見つけたのは・・・2015-08-21 ・講義をするということから遠ざかって久しい。もう講義をしなくなってから 5 年を過ぎただろうか。冒頭のタイトルは「Heisenberg方程式を見つけたのはHeisenbergではない」という名古屋大学の谷村さんの発想を敷衍したいと思ったからである。・・・のところは実は上に書いたように書くべきだったのであるが、それだとあまりにタイトルが長くなりすぎる。それで・・・とした。量子力学ではHeisenberg方程式は一番の基本方程式であるが、その基礎方程式を現在のように定式化した初めての人はHeisenberg自身ではないという。ちょっと本当かと思うような話であるが、これは実は正しい。Heisenbergから渡された論文に載っていた奇妙なかけ算に頭をかしげた、先生のBornがその奇妙なかけ算は自分が学生時代に大学の数学の講義で学んだことのある、マトリックスのかけ算とおなじものであることに気がついたという。交換関係としてよく知られている[x, p]=ih/(2\pi)もBornの定式化によると言われている。Heisenbergは天才で、実に自分が知らなかった数学を自分で編みだしていたのだ。ついでにいうと(neben gesagt)、もう一つの量子力学の基礎方程式 といわれるSchr”ondinger方程式をSchr”ondingerがはじめて導いたのだが、彼は自分が導いた方程式を最初解けなかったという。当時Schr”ondingerはチューリッヒにいたのだが、彼はしかたなく、数学者のWeylにこの方程式の解き方を教えてもらったという。これは波動幾何学の創始者として知られた三村剛昂先生から聞いた話である。Schr”odingerはWeylからその当時には新しい手法だった境界値問題の方程式の解き方を教わったのだという。こういう話は物理の歴史においては別に珍しくない。天才は数学でもなんでも自分の必要に応じてつくりだしてくる。数学を十分学んでから物理を研究しようなどと思っていた、または、思っている、私などは学者の部類には入らない。
2025年8月31日2025年8月3日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す老人の呟きから8月末抜粋_・なおし魔 【2011-04-19】・Heisenbergがノーベル賞を単独受賞した訳 【2011-05-27】・「坂田昌一の生涯」を読む 【2011-11-04】・坂田昌一の寺田寅彦批判 【2011-11-12 】・久保亮五の統計力学 【2011-11-19】・Boltzmann 因子 【2012-02-16】・Yangの新しい論文 【2012-02-17】・「素粒子論研究」終刊号 【2012-02-28 】・遠山啓と武谷三男2 【2012-03-08】・Pauliの行列の導入 【2012-03-19 】・ライフログ 【2012-04-11】・外村彰氏の死 【2012-05-03 】・四元数と線形代数 【2012-05-07】・『千の太陽よりも明るく』 【2012-07-11】なおし魔 【2011-04-19】私は「なおし魔」である。だからこのブログでも誰かからアクセスされたブログを見て、再度自分で読んで、変な表現を自分でしていたと思ったら、どしどし文章を直している。そういう意味では記録などおかまいなしである。もっとも後の時点での訂正とか付記であることをはっきりさせるために(何年何月何日付記)と書いていることもあるが、そういう付記をしないことも多い。そういう文書の訂正をした人として私と比べるととてもおこがましいが、二人のとても有名な人がいる。一人は有名な中国の革命家、毛沢東で彼は自分の書いた文書を彼の毛沢東選集か何かに収録するときに大きくは変えなかったかもしれないが、細かな修正をしたといわれる。だから、ある意味では歴史的な記録としては具合が悪いところがあるかもしれない。もう一人の方は日本人の物理学者である、朝永振一郎博士である。彼はみすず書房から出版した彼の論文集で、全部自分の書いた論文を修正をしたといわれる。そしてその論文の受理の年月日も消してしまった。このことは私は知らなかったのだが、筑波大学名誉教授の亀淵さんがどこかで書いておられた。それで朝永先生の完璧主義は貫徹をしたのだろうが、歴史的文献としての意義が失われたと書かれていた。そういった優れた人と比べるのはおこがましいのであるが、私のブログではどうもおかしな表現をしたり、また書き損じをしたり、言葉が足りなかったりとかいろいろミスが多い。それでそれとは明示をせずに修正をしたりしている。特に読んでくださる方を間違ったところへと導いてはまずいので自分で気がついたまずいところはいつでも直すことにしている。それで、よく問題にされるのが武谷三男の文章で彼は戦後「広島に原爆が落とされて、日本の軍国主義の野蛮が吹き飛ばされた」(ここでの引用表現は正確ではないことを了解してください)というようなことを書いている。そしてそのことを修正はしないで彼の著作集にそのまま収録されている。それは彼のある種の律儀さや率直さを示しているのだが、これが他の学者や評論家から原爆の悲惨さを指摘しなかったという意味で、非難の的になったりしていることである。修正をしても、またはしなくても論争の的になったり、されたりする。私はここに挙げたような有名な人物ではないし、大したことをブログで述べているわけではないので、論争に巻き込まれることもないだろうが。Heisenbergがノーベル賞を単独受賞した訳 【2011-05-27】マトリックス力学とは今では量子力学といわれている、20世紀前半に展開された原子中の電子の力学である。もちろん量子力学は原子中の電子だけを対象にする力学ではないが、誤解を恐れずこう言っておく。マトリックス力学はもちろんHeisenbergの卓抜なアイディアから始ったが、しかしその数学的な展開にはBornとJordanの貢献が大きかった。BornとJordanとのHeisenbergの論文の数学展開とその後のHeisenbergも含めた有名な三者論文で彼らはマトリックス力学を完成させた。BornはHeisenbergの先生の一人である。ところが、1932年にノーベル賞を受賞したのはHeisenberg一人で、BornとJordanははずれていた。そのことについてのBornの苦悩は大きかったことが彼の告白によってわかるのだが、BornはHeisenbergが優秀であることを自分で言い聞かせて自分を納得させたとどこかで読んだ。その後、1956年にBornは単独で量子力学の確率解釈で、ノーベル賞を受賞するのだが、ここでも政治的な意図が働いていたと、ごく最近の研究でわかったらしい。これら事情にはJordanがからんでいる。Jordanはナチドイツ下で、ナチの思想に共鳴していたのみならず、その重要な活動の一翼を担っていたらしい。それで、Heisenbergのノーベル賞受賞のときにノーベル賞の委員会はBornとの同時受賞も考えたらしいのだが、Bornにノーベル賞を与えるとJordanにもノーベル賞を与えない訳には行かなくことになるとの理由で、それを阻止するためにHeisenberg一人の受賞と決定したらしい。その後、第2次世界大戦後の1956年のBornの受賞のときにもJordanの関係しない業績に対してノーベル賞を授与することにしたらしいと、ごく最近にインターネットのサイトで読んだ。1976年にアーヘンであったニュートリノ国際会議の際にはまだJordanは存命であったが、そのときに1976年2月1日に亡くなったHeisenbergの追悼講演をJordanがした。もっともこのときの講演はドイツ語でされたので、私にはほとんどわからなかった。その後まもなくしてJordanは亡くなってしまって、もう歴史上の人物になってしまっている。ノーベル賞とナチとは受賞者において関係がある。光電効果の実験で有名なLenardもそういう学者の一人であり、賞金を投資とかに使ってはいけないとかの賞金の規約があるらしいが、それに違反して物議を醸したことがあると昔読んだ記憶がある。また、Stark効果で有名なStarkもノーベル賞の受賞者だが、彼もナチの思想の信奉者でドイツ主義運動とかに関与したとか言われる。そういうことがあったので、ノベール賞選考委員会としては慎重であったのかもしれない。・「坂田昌一の生涯」を読む 【2011-11-04】昨日、知人の西谷正さんから、彼の労作である「坂田昌一の生涯」を送ってもらった。それで今朝の4時ごろまでかけて読んだ。とはいっても470ページを越す大著であるから、これは拾い読みにしかすぎない。一言でこの本を評価することはできないし、またそれをすることは著者の西谷さんに失礼でもあるだろう。彼の多年にわたるご努力に感謝をしたい。確かに益川さんの序文にもある通り一読に値する書であり、ほとんどなんでも書いてある。これは単に坂田の生涯だけではなく、彼と関係のあった、湯川、朝永、武谷等との交流の記録でもあるだろう。私は武谷三男の伝記を書くとか、書きたいと言っているのだが、その作業は遅々として進まない。ひょっとすると鶴見俊輔さんは武谷の伝記を書く気持ちがあったかもしれないのだが、私が書きたいといっているので、我慢をして書かないでおられるのかもしれない。この書は坂田先生の物理についても述べてあり、また、社会活動についても書いてある。それもなかなか詳しく調べて描かれてある。坂田はその門下生が多くて、それらの門下生に慕われていたので、坂田自身は自分についてはあまり語らなかったが、それでも坂田について語る方は多い。それがこの伝記の深みを与えている。私個人は坂田の言説としては、「階層性の論理」とか「形の論理から物の論理へ」という主張が印象的であり、それらについてもう少し踏み込んだ考察が欲しかった気がする。しかし、これは個人的な好みであって、それだからといってこの書が極めて優れた書であることには変わりがない。・坂田昌一の寺田寅彦批判 【2011-11-12 】「小屋掛け物理学」と寺田寅彦の物理学を批判する人はいう。これは私の知る限り、原光雄とか武谷三男とかまた菅井準治とか唯物論の立場に立つ、物理学者等が言っていたことであり、坂田昌一も同じ批判をもっていたことが、西谷正さんの『坂田昌一の生涯』(鳥影社)でわかった。(ちなみに原光雄は化学者である)。これは寺田物理学の一つの側面だとは思うのだが、寺田寅彦のやった研究にはその側面に限らずもう少し範囲が広いというのが、私の現在の判断である。それは絶対正しいということではなくて私の感じなので正しいかどうかわからない。この判断は、岩波書店が寺田寅彦の科学論文の著作集を出したことがあり、そのときにそれを私は購入しなかったが、そこに出ていた論文のリストを見て思ったことであった。ただ、普通の市民に卑近な物理学として受けのよかった寺田物理学には上の方々が与えた批判は当てはまるのかもしれない。だから寺田物理学の流れを汲む、中谷宇吉郎についても二つの評価の見解がありうると思う。寺田寅彦の研究には、寺田小屋掛け物理学的な批判の当てはまる側面とそうでない側面があるという認識が必要だと思う。ロゲルギストについては私はこの別の側面があるのかはわからない。だから、これについては判断を保留しておきたい。その寺田物理学の別の側面があったかどうかということに対する、西谷さんの見解の表明は『坂田昌一の生涯』には出ていなかったと思うし、この書は坂田の伝記であり、西谷さんの見解が問われている訳ではないから、この坂田の見解に西谷さんがどう思ったかを書く必要はないのだが、個人的にはどう思われているのだろうということは知人としては関心がある。文学としての寺田寅彦全集が出たときに武谷三男も岩波書店の求めに応じて、推薦文を書いていたと思うが、彼は寺田物理学の批判と共に寺田寅彦は権力的ではなかったと、彼のいい側面の指摘もしていたように思うが、それはもう記憶が薄れてさだかではない。(2013.2.11付記) 人の目に触れる文章は記憶で書かないでちゃんとしたことを書けということをコメントをもらった。上の部分のどこがそうだったのかわからないが、最後の部分だとすれば、記憶が薄れて定かではないと書いたが、寺田が権力的ではなかったという指摘は間違いがないと思うので、そんなに無責任なことを言ったわけではない。一言お断りをしておく。これが武谷の現代論集に載っていたのか、それとも論集には載っていなかったが、寺田寅彦全集の広告のためのパンフレットに載っていたのか調べたら、わかることだが、調べていない。どうもコメントをされた人の指摘が具体的でないので、私の思い過しかもわからないが、上の文のどこかに問題があったとしても、ここは間違っていますよと指摘をすれば、すむことではないか。もし私の記憶とかが間違っていたのなら、それは失礼をしました。ということになるだけであろう。コメントも建設的にして頂きたい。それにこれはいわゆる研究論文ではない。真偽のほども読む人の判断に委ねられる。これは論文との違いであろう。論文とエッセイとの違いを心得ないでいる人のコメントはそのままでは出せない。また、自由な意見の表明もいけないという一種の言論統制だとも悪意をもってとれば、とれなくもない。そこまで意地悪く思っているわけではないけれども。・久保亮五の統計力学 【2011-11-19】久保亮五の『統計力学』というと、多分物理学を学んだ人は彼の『統計力学』(共立出版)を思い出すだろう。だが、ここではその有名な著書のことではない。金曜日に古書でダイアモンド社の「新物理学講座」というシリーズ本を購入した。その中の1冊にこの表題の書があった。この書は100ページそこそこの小冊子なので、統計力学の考え方を中心に書いたとあとがきで書いている。これの3章に気体の拡散について書いてあるが、いままで私がこういうことをなぜ統計力学の書で書かれてないのだろうと思っていたようなことが書いてある。まだ、十分に了解ができてはいないところもあるが、いままでの理解の隙間を埋めてくれるような気がしている。これに近い書き方がされていることを私が知っているのは、和田純夫さんの『熱・統計力学のききどころ』(岩波書店)の第1章のはじめのところである。それにチラッと見たことがあるのは横浜市立大学だったかに居られた都筑さんの著書に私の知りたいことが書いてあったように思う。その書の名は失念したが、森北出版から出された書であったと思う。名著として有名な朝永振一郎の『物理学とはなんだろうか』(岩波新書)の中の熱力学と統計力学の項にもあまりヴィヴィッドには書かれていないことなので、少し欲求不満を起こしそうだった。とはいうものの、「物理学とはなんだろうか」が名著であることは間違いがないが。M大学の薬学部でのリメディアル教育の数年前まで私が担当していた、物理講義でも熱力学については和田さんの本の一部を敷衍して講義をしていたが、あまり私の意図は学生には伝わらなかった。というのはたぶん、私とは熱力学とか統計力学とかでの問題意識が違ったからであろう。私は「なぜ熱は高温から低温に流れるのか」を熱力学のテーマとして取り上げようとしたのだが、これは学生にとっては当然の経験的な事実であるから、それについて説明を必要とするという考え方はなかったに違いない。もちろん、よく知られているように熱力学の範囲では、「系に何も仕事をしないと、熱は高温から低温に流れる」というのは熱力学の第2法則そのものであってその熱力学の範囲では説明できることではない。しかし、熱力学のそういう側面を正面から統計力学の専門家は取り上げないのかと思っていたが、さすがに久保先生はそのことをわかりやすく説明する必要を感じておられたことがわかった。私と同じ問題意識を物理を教えておられる方々が持っているかどうかはわからないが、高校等で熱力学や統計力学を真剣に教えようと思っておられる方には表題の書は役に立つに違いない。図書館等で見てみられることをお勧めしたい。・Boltzmann 因子 【2012-02-16】大学院生の頃だったかN教授のところへ、石原明先生だったか統計力学の専門の先生が来られて、そのときに簡単なBoltzmann 因子の導き方についてのそれほど長くはない話を聞いた気がする。しかし、その頃Boltzmann因子などにまったく関心がなかったので、まったくどのような話だったかは覚えていない。ノートをとっておくべきだったかと今ごろになって思っているが、もう遅すぎる。その後、Feynmanの講義録でBoltzmann因子とかBoltzmann分布に感心した覚えがある。そしてそのFeynmanの知見を私の講義のネタの一つにしていたとはこのブログで書いたことがある。昨日、インターネットで検索してみたら、日本語のサイトではBoltzmann因子という項目では検索にはかからなかったが、Boltzmann分布ではかなりの数のサイトがあった。だが、英語ではさすがにBoltzmann Factorという語が検索にかかった。私はこのfactorとか因子という語とか概念が大切であるという気がしている。普通にBoltzmann分布となるには正規化の定数が必要になるが、これは後から計算で決めてやればよい。大切なのはこのBoltzmann因子である。もちろん、この正規化定数を決めるためには積分するとか和をとることが必要であるが、それはある数学的な手続き(*)をとれば、比較的簡単に決められるというようなことをエッセイに書こうと思っている。(*) 被積分関数中に現れるパラメーターで微分して積分値を求める方法定年退職の前の数年、熱力学を教えることになって、それを担当したが、そのときに「Boltzmann因子が大事なのだよ」と講義した。そのことをノートに書いてあるので、それをエッセイを書いておこうとしているが、そのためにはまたFeynmanの講義録を読み返したい。だが、その気持ちがそのうちにその気が失せてしまうかもしれない。・Yangの新しい論文 【2012-02-17】C.N. Yangは1922年の生まれというからもう今年には90歳になるが、最近、物理の歴史についての論文を書いた。それがInternational Journal of Modern Physics Aの最近号に出ている。これはFermiのベータ崩壊の理論について書いたものでとても面白かった。Yangは1970年代のあるときにWignerにあって、「Fermiの一番優れた仕事(研究)は何か」と尋ねたら、即座にそれはベータ崩壊の理論だとWignerから言われた。Yangはベータ崩壊の理論がFermiの重要な業績であることには同意したが、それでもその頃にはすでにGlashow-Salam-Weinbergの電弱理論で、Fermiのベータ崩壊の理論は今から見ると過渡的な理論であったことがわかったので、Wignerの意見には心底からは同意できなかったらしい。それでそういうことを趣旨のことをWignerに言った。そうすると、そのときにWignerはこのFermiのベータ崩壊の理論は当時の物理学者たちに与えた衝撃の大きさを語った。それでこの感覚のジネレーション・ギャップを埋める話をこの論文に書いている。そしてやはりWignerのいうことが正しかったという。そのYangの言い分を正しくわかってもらうには彼の論文を読んでもらうのがよい。ここで私が下手な要約をするよりは。さらに、それに加えてYangらしさがこの論文の末尾に出ている。それはP. Jordanの業績の評価である。Jordanは量子力学に重要な寄与をしただけではなく、場の量子論にも重要な寄与をしたのに正当に評価されていないという。現在ではJordanの評価が正しくなされなかったのはJordanがナチを政治的に支持したことによるものだということが言われており、このブログでもそのことがインタネットのサイトで言われているといつか述べたことがある。科学者の政治的な立場はその業績の科学的評価にも及ぶ。しかし、Yangはそのことにはあまり賛成ではなく、評価をすべきは評価すべきだと考えたらしい。他にもYangはOppenheimerのblack holeやneutron starの研究業績を評価していることやDysonが量子電気力学の研究でノーベル賞をもらえなかったことは、ノーベル賞は3人以内という内規があるとはいえ、残念だと他のところで述べている。・「素粒子論研究」終刊号 【2012-02-28 】昨日、帰宅すると部厚い郵便物が「素粒子論研究」編集部から届いていた。やけに厚いのでなんだろうと思ってその封を開けてみたら、3冊の「素粒子論研究」終刊号119号が入っていた。夕食後にはテレビを見ないでこの3冊を読んだ。私たちが発行している『数学・物理通信』をご自分のサイトにリンクしてくださっている、名古屋大学の谷村省吾さんの書いた「ハイゼンベルク方程式はハイゼンベルクがはじめて書いたわけではない」というおもしろい題のエッセイは、実におもしろかった。実際の科学と後世の一般的な流布されていることはまったく違うことがわかる。だから、その事実を忘れないようにしようというのが谷村さんの言いたいことらしかった。先日読んだYangの論文でもその時代に生きた人たちと後世の人たちとの受け取り方のずれを問題にしていた。旧知の物理学者Kさんは素粒子論研究の編集長もされた方だが、「素粒子論研究」の65年を振り返っておられた。その中に私がまとめた『武谷三男博士の業績リスト』と『武谷三男博士の著作目録』にも言及されており、その資料の作成者としてはうれしかった。Kさんは「素粒子論研究」は最後には280部くらいの発行部数であり、素粒子論グループのメンバー数からいうとあまりメンバーから注目を集めなかったというが、それでも興味深い記事がなかったわけではないという。今後は「素粒子論研究」電子版が存続するが、冊子体の「素粒子論研究」は119号で終わりとなった。名残惜しいがしかたがあるまい。最後の編集長となった笹倉さん、事務的な業務行った野坂さん有難うございました。・遠山啓と武谷三男2 【2012-03-08】前に「遠山啓と武谷三男」という題でブログを書いたことがあるので、今回は「その2」とする。私が「日本の古本屋」古本の出品をときどきチェックしている人に武谷三男と遠山啓がいる。そのチェックに最近引っかかったのが、岩波のPR誌「図書」の遠山についての記事(2009年11月号)で、仕事場の書棚を見に行ったら、その当該号があった。それは野崎昭弘さんの「遠山啓と数学教育」というテーマのエッセイであった。これは前に多分読んだのだと思うが、読んだ記憶が残っていなかった。2009年は遠山の生誕100年であった。それで岩波書店が野崎さんにその生誕100年を記念して寄稿をお願いしたのだろう。野崎さんは生前遠山に会ったことはなかったと書いている。電話で多分雑誌「数学セミナー」の原稿を遠山さんから頼まれたらしいが、数値計算のことに関係していたので、専門ではないからと断ったと書いている。(注: 遠山さんと矢野健太郎氏とは雑誌「数学セミナー」の共同編集人であった)その後、野崎さんが数学教育協議会の委員長を引き受けたから、面識があったかと思ったがそうではなかったらしい。私は野崎さんのような有名人物ではないし、二人きりで遠山さんに会ったことはないが、松山で数教協の全国大会があったときに松山市民会館での講演を聞きに行った。講演の後で、遠山さんに質問までした。そのときの話は競争原理を教育の分野から追放しようという、遠山さんらしい主張であり、教師は「点眼鏡」をはずそうという趣旨の話であった。そのころは私はまだ数学教育にはそれほど関心がなかった。これは1978年のことではなかったかと思う。この次の年の1979年に70歳で遠山さんは意外に早く亡くなった。その後、私は1985年くらいから教育への関心が大きくなってきて、愛媛県の数学教育協議会の学習会に顔を出すようになった。もっとも熱心な出席者ではなく、気が向いて時間がとれるときという制限がある。武谷についてだが、1965年だったか私が大学院生のころにO教授から「誰が集中講義に来てほしいか」といわれて「武谷さんはどうですか」と言ったら、その意見が取り入れられて、立教大学から集中講義に来られた。「物理学の方法論」という題の講義だったが、実際にされたのは「ケプラーがどうやって火星の軌道を決めたか」という話であり、あまり方法論とはとかいうような大上段にかぶった話ではなかった。その直後くらいに、「科学入門」(勁草文庫)が出されたが、そのPRもさりげなくされたと思う。つぎに、武谷さんを見かけたのはその後1968年の夏だったか、それとも、もう秋だったかに京都大学の基礎物理学研究所に研究会か何かで来られているのを基礎研の共同利用事務室で見かけた。白いワイシャツの袖を腕まくりしており、そのアンダーシャツが長袖でいかにもアンバランスだったのを覚えている。50年くらい昔はワイシャツは長袖で夏になると、腕まくりして半袖風に折り返して着るというのが粋という感じだった。今では夏には半袖のシャツを着るのが普通になっているが。私などは武谷さんとは親子ほど歳が違うのでもう大学院を出る頃には半袖のシャツを着ていた。遠山も武谷も学校嫌いだったということは前に書いたし、文学好きであることも書いた。遠山は将棋が好きであり、将棋をよくしたらしい。一方、武谷は文学のみならず、音楽にも絵画や彫刻、演劇にもなかなか造詣が深かったらしい。伝記的な材料としては武谷は自分の小さい頃からのことや研究についても回顧録が出ており、材料に事欠かないのだが、人間的にも魅力的だとの見方は、特に女性からされていたらしい。武谷がご家族からどう思われていたかはわからないが、鶴見俊輔さんによれば武谷さんのそういう側面を非常に好んでいた人がおられることは間違いがない。ただ、物理学者の間ではその同僚たちに対して武谷が研究上で批判が厳しかったことから、かつて長期間グループを組んで研究をしていた方々からは反感があっただろうということは想像に難くなく、その点で武谷の評価はそう単純ではない(もちろん、これらの研究者の方々からは武谷に対する反感の声は直接には記録に残るように語られてはいないが)。もっとも晩年に武谷と研究を共にされたN教授とかF教授はその範疇には入らないであろう。彼の伝記を書きたいなどと私が言ったとき、哲学者の鶴見俊輔さんはいまにでもそういう武谷ファンの女性を紹介してくれそうだったが、なかなかその気になれなくて鶴見さんのご好意を無にしている。遠山と武谷は共に九州出身であり(2024.9.21注)、遠山は幼少時には朝鮮に住んでいたが、父親の死後に熊本に帰り、その後、福岡で旧制高校に行った。武谷は小学校から高校までを台湾で過ごして、大学は京都大学に入った。一方、遠山は東京大学の数学科に入ったが、ある事情で退学をして、数年後に東北大学数学科に入りなおし、そこを卒業した。二人とも東京に住んだが、権力に反骨で、体制に批判的な人生を送った。(2012.3.9 付記) 上で遠山が東大を退学したのを「ある事情」とのみ書いたが、もうその事情をここで書いてもいいだろう。その当時の東大の数学科の試験で自分の教えた通りに解答を書かないと単位を出さないという教授がおられて、そのことは先輩から聞いて遠山は知っていたのだが、思わず試験のときに自分流の解答を書いてしまったらしい。その科目は必須科目であったから、あと何年数学科に在学しても卒業できないので、その教授の定年の年に退学をしたという。退学をするときに尊敬していた高木貞治教授には「退学します」という挨拶に行ったとはどこかで読んだ。また、その合格させなかった教授のイニシャルは高木さんと同じTであることはわかっている。遠山が東大嫌いであったかどうかは知らないが、そういういきさつがある(2023.11.23 注)。ちなみに湯川秀樹博士の自伝『旅人』(朝日新聞社)に高校で、先生の教えた通りに解答しなかったために、その解答が間違っていたわけでないのにバツにされて、立体解析幾何学の点数が60点代だったことがあるという記述があった。湯川博士が数学者にならなかったのはそのせいもあるかと思われる。(2015.11.28注) 遠山は熊本県が父親の郷里だが、武谷は山口県光市が父親の郷里だという。坂田昌一の祖先の郷里は山口県の柳井市だったらしい。少なくとも坂田のお墓は柳井市にあるという。(2020.12.4付記) 個人的には光市に行ったことはないが、大学時代の親友の出身地がこの光市であり、この親友は若くして亡くなってしまったが、光市と聞くと妙に懐かしく感じる。この光市も私の出身地の今治と同じく海岸の清松白砂がいいらしい。これは若くして亡くなった親友のH君の言であった。(2023.11.23 注)上に「合格させなかった教授のイニシャルは高木さんと同じTであることはわかっている」と書いたが、これはまちがっているのかもしれない。遠山さんには坂井という教授のことを書いたエッセイがあり、この教授のご機嫌を損ねたことがこれほど祟るとは思わなかったと書いた文章がある。(2024.9.21注) 上に武谷は九州の出身と書いた。福岡県大牟田市で生まれたことは事実だが、武谷の両親は現在の山口県光市の出身である。・Pauliの行列の導入 【2012-03-19 】先週の火曜日に京都産業大学の名誉教授のSさんの講演が愛媛大学であり、彼の新しい構想の理論を聞いた。その中味の正否はすぐにはなんともいえないが、ちょっとした壮大な構想の理論であった。その話のいとぐちとして話をされたx^{2}+y^{2}+z^{2}の因数分解からPauliの行列がごく自然に導入されることが印象的だった。これはSさんの話の単にほんのいとぐちの話題にすぎなかったのだが、私自身はどういう風にPauliのスピン行列を導入するかにいままで関心をもったことはなかったので、新鮮な感じがした。これについてはいつか因数分解というテーマで数学エッセイを書いてみたいと思う。このx^[2}+y^{2}+z^{2}の因数分解ほど高尚なことではないが、私の子どもが大学の理工系学科の卒業生であるのにx^{3}-1の因数分解の公式を忘れてしまっていたという話を昨日聞いた。それで、今朝起きてから、もしこの公式を忘れてしまったら、どう対応したらいいかという数学エッセイの草稿を書いた。すぐに思いつくx^{3}-1の因数分解を求める方法は因数定理を使うことであろう。f(x)=x^{3}-1とするときx=1をf(x)に代入するとf(1)=0であるので、x-1という因数があることはすぐにわかる。したがって、x^{3}-1をx-1で代数的に割る演算を行えば、x^{3}-1=(x-1)(x^{2}+x+1)と因数分解できることはすぐにわかる。割る算を直接しなくても、x^{3}-1をx-1で割ればその商は2次式であるから、その2次式を仮定して未定係数法で決めてもよい。そのような内容を数学エッセイの草稿に書いた。しかし、私の子どもはこの因数定理を忘れていたのであろう。おいおい、高校の数学も身についていなかったのか。よく大学の理工系学部に合格したものだったな。(2012.3.21付記)Pauli行列 \sigma は物理を学んだ人は大抵知っている2行2列の行列である。京産大のSさんの話のPauli行列の話は結局x^{2}+y^{2}+z^[2}=(x \sigma_{x}+y \sigma_{y}+z \sigma_{z])^{2}となるような \sigma_{x}, \sigma_{y}, \sigma_{z} を求めることであり、\sigma_{x}^{2}=1, etcとか \sigma_{x}\sigma\{y}+\sigma\{y}+\sigma_{x}=0であるような \sigma行列を求めることであり、よく知られたPauli行列は確かにこのような関係を満たしている。かつ\sigma_{x}\sigma\{y}-\sigma\{y}-\sigma_{x}=2i \sigma_{z}のような交換関係も成り立つ。このような代数をClifford代数という。いつだったかDirac方程式に出てくる、\gamma _{\mu}等の満たす代数がClifford代数の例であると理化学辞典を調べて書いたが、Pauliの行列もCliford代数の例であることを知った。あのときに \gamma 行列以外にClifford代数の例を知りたいと書いたが、その解答はPauli行列であった。どうもClifford代数と聞くと難しいという印象をもつが、x^{2}+y^{2}+z^[2}=(x \sigma_{x}+y \sigma_{y}+z \sigma_{z])^{2}を満たすような代数だと知れば、それほど恐ろしくはなくなる。どうしてこのような数学の教え方があまりされないのであろうか。それとも私が知らないだけなのか。・ライフログ 【2012-04-11】先日、NHKのクローズアップ現代でライフログというのが流行っているという現象を取り上げていた。ほとんど時々刻々の自分の生活の記録をとる人が増えているという。「なんとせわしいことよ」と思う私は古代人であろうか。そういえば、40年以上昔に知り合った、化学者のある先生は日記をつけるのを日課としていて、いつも日記帳を携帯しており、彼が当時滞在していた、イギリスのバーミンガムから彼の家族と共に当時私たちの住んでいたマインツにやって来たときに愛用の日記帳を携えていた。とはいっても彼は別にイギリス人ではなく、日本人でそれも私の勤めていた大学の学部は違うが、先生であった。そして彼からゲッチンゲンを訪れたという話を聞いた。それはそこが量子力学発祥の地であるからということであった。そこで、彼は核分裂反応の発見者のオットー・ハーンの墓を訪れたと話してくれた。それまで私は大学工学部で8年近く量子力学を教えていたが、在独中にゲッチンゲンに行ってみようという気はあまりなかった。それがこのK先生の話を聞いて一度はそこを訪ねたいと思った。その後、今度は逆に8月の終わりに一家でバーミンガムの彼の家を訪問したが、そのときはまだゲッチンゲンには行っていなかった。ゲッチンゲンが私に親しくなかったわけではない。学生のころにロベルト・ユンクの「千の太陽よりも明るく」の翻訳が出版されて、それをはじめ妹が大学の図書館から借りて来たのだったか、それを読んで自分でもその翻訳本を手に入れて読んだ。これは本当に心躍る物語であった。いまでもこの本の翻訳を文庫で読むことができる。ユンクはジャーナリストであり、小説家でないが、多分この書が彼の最高傑作であろう。原子爆弾へと到る原子物理学の発展の人間ドラマをまた、その地ゲッチンゲンを生き生きと描いていた。私たちが実際にゲッチンゲンを訪れたのは1976年12月のクリスマスの後の雪の季節であった。そしてそのときの記念として市の中心街で買ったゲッチンゲンの市街図は鮮明だったそのオレンジの色はあせてしまっているが、私の仕事場に架かっている。・外村彰氏の死 【2012-05-03 】物理学の分野で大きな業績を上げられた外村(とのむら)さんが亡くなられたと新聞で知った。ノーベル賞候補になっていたほどの研究者で、もしもっと長生きができれば、ノーベル賞を受賞できた可能性は大きかった。彼はBohm-Aharanov効果(普通にはA-B効果という)の実験的な検証で有名である。A-B効果は磁場を感じるのは磁束密度Bではなく、ベクトルポテンシャルAであるということを理論的に主張したものであったが、その効果を実験的検証したことで知られる。有名なFeynmanの講義録にもこのAB効果の話はでてくる。日本の企業である、日立で行われたこの研究は日立で研究開発された電子線ホログラフィーの技術を用いたもので、優れたものであったらしい。日立は彼のノーベル賞受賞を後押しするために量子力学の国際会議まで主宰したが、彼の受賞には間に合わなかった。残念である。最近は日本人のノーベル受賞者がたくさん出ているが、彼もその候補の一人と言ってよかったと思う。もっとも日立からノーベル賞をもらうような研究が出たからといって、日立全体が優れた企業であり、その製品が優れたものであるかどうかは別問題として個別に検討すべきことであろうが、それでも企業イメージがとても上がることは請け合いであろう。外村さんは亡くなったが、彼は数冊の著書を遺しており、私もそれらの全部ではないが、何冊かをもっている。量子力学の本としては『目で見る美しい量子力学」(サイエンス社)というのがある。この本は量子力学の本としてはとてもめずらしく、数式は最小限度で写真とか図が多いという量子力学の書である。私もいつか量子力学の書を著すことがあれば、外村さんの写真を提供してもらいたいと考えていた(そういう機会があるかは別として)。私自身は外村さんにはついに面識はなかったが、優れた実験物理の研究者を日本は失った。・四元数と線形代数 【2012-05-07】Hamiltonが考えだした、四元数は線形代数の源をつくった。ところがHamiltonが自分の見出した非交換の代数系の発見をあまりに重要と考えすぎたために四元数にこだわりすぎて、細かな発見はあったが、大きな線形代数という流れをつくることができなかった。これはたとえば、森毅氏の「数学の歴史」にも書かれている。そのどこが線形代数に受け継がれ、非交換であることよりも重要であったことは何かを書いたものはないかと探していた。先週の土曜日に市中のジュンク堂書店に行って、カッツの「数学の歴史」を立ち読みしたら、四元数の積から出てきたスカラー積とベクトル積がむしろ重要なのであり、その他のことはあまり有用ではないということを後の数学者は悟って、それでいわゆるベクトル解析がギッブスとかヘビサイドによってつくられたのだとあった。Croweの書いた、A History of Vector Analysis (Dover)という書もあるので、それを読めばいろいろなことがわかるのであろうが、どうもやはり英語を読むのは日本語を読むほどには早く読めないので、難渋している。Stillwellの「数学の歴史」(朝倉書店)の多元数の章は四元数のことを書いてあり、私も読んではじめて知ったこともあったが、これには四元数はテンソル解析にその思想が受け継がれたと書いてあった。どの数学の歴史の書物にもHamiltonが非交換の代数系をあまりに過大に評価して、彼の後半生をその発展に尽くしたことには批判的である。それは後世から見るとそういうことが言えるのだろうが、その渦中におり、人類の歴史上ではじめて非交換の代数系を発見したHamiltonにそのことを要求することはかなり過酷な要求でもあろう。そのいきさつを詳しく知ることとか、線形代数の出てきたいきさつとか、そのどこがキーポイントであったかということを知りたいと思っている。私には出来上がった線形代数そのものよりもそういういきさつの方が関心がある。いまの数学のテキストはあまりに天下りでその理論の形成過程をダイナミックに伝えるという風ではないことが不満である。しかし、これは詳細な数学史の研究に私が関心があるということを意味してはいないから、なかなか他人からは理解してもらえないだろう。・『千の太陽よりも明るく』 【2012-07-11】ロベルト・ユンクの『千の太陽よりも明るく』(Heller als tausend Sonnen)は優れたノンフィクションである。いまは平凡社ライブラリーに入っているが、私が学生のときに読んだときは文芸春秋社から発行されていた。ロベルト・ユンクはスイスのジャーナリストだと思っていたが、ベルリン生まれであり、もとはドイツ人である。だから、ナチスに迫害を受けて、ドイツから亡命したジャーナリストである。この本はいうまでもなく、原爆の製造や開発へと向った、物理学者を主とした原子科学者の運命というか歴史を回顧した優れた読み物である。だが、それをどれくらい多くの日本人が読んでいるのかとなると心細くなる。本当は多くの人に読んでもらいたい書である。学生のときに、これを一日か二日かけて勉強をほったらかして、息も切らせず読んだ覚えがある。ところがこの書を推奨するとかいった人を書物や雑誌の中で見かけたことがない。現在の平凡社ライブラリーでも、1,600円の定価なので、そんなに価格が安い訳ではない。だが、それでも本当は多くの人に読んでほしいと願っている。最近、妻が市民劇場の演劇で「東京原子核クラブ」という理研の仁科芳雄グループに集った人たちを巡るドラマを見てきた。その内容を聞いたわけではないが、それなりに興味深い演劇であったはずだ。これは日本でも原爆をつくろうとしたグル-プがあったとか、朝永振一郎氏とその近傍の人を巡るドラマである。そういえば、『千の太陽よりも明るく』にも記述があったと思うが、2次世界大戦中にコペンハーゲンのボーアのところへドイツのハイゼンベルクが訪ねるという話がある。その議論の主題は原爆の製造を巡るものであり、2000年前後だったかに、史劇「コペンハーゲン」というドラマとなった。これは「原爆の開発を世界の戦争をしている連合国と枢軸国との両方共にしないように」とのハイゼンベルクがボーアに申し出をするためにコペンハーゲンを訪れたと言われているが、そのときナチにその意図を悟られないにようにとハイゼンベルクは表現をとても曖昧にしたので、その意図はまったく通じなかったという。ボーアはハイゼンベルクが「原爆の開発をする許可を求めに来た」と思ってしまった。戦後も家族や親族をナチスの強制収容所のガス室で亡くした、ヨーロッパからアメリカに亡命していた科学者を含めた多くの人たちはドイツに残った、これらの科学者をナチスに協力をした咎で容易に許しはしなかった。それらのうちの幾分かは単なる誤解であったのかもしれないとしても。日本ではドイツほど原爆の開発の可能性は高くなかったので、それほど問題にはならなかったが、それでもそういう日本の原爆開発の事情を書いた本も英語とかでは出版されているらしい。現在ではなかなか『千の太陽よりも明るく』は手に入りにくいかもしれないが、まだ読まれてない方にはぜひ一読をお勧めしたい。私も最近書棚から取り出してきて、再読を始めたところである。
2025年8月6日2025年8月6日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残すPapers about Fermi @ 2023 フェルミ 22023-02-21 13:31:17 | 物理学これは「技術と科学の歴史を考える」というタイトルの講義の後半を私が担当したときの「原爆製造と原子核物理学」というサブタイトルの講義の中の人物評伝の一部のエンリコ・フェルミの後半である。Fermiの講義録である『原子核物理学』は内容が少し古くなってきたが、原著はシカゴ大学出版局から、訳書は吉岡書店からいまも出版されており、読者に読み継がれている。日本版の訳者小林稔氏(京都大学名誉教授、故人)は訳者まえがきでつぎのように述べている。「イタリヤの生んだ鬼才Enrico Fermi教授はいうまでもなく原子核物理学の第一人者であり、人類が第二の火、すなわち、原子力を発見したのも主として彼の研究に負うものであって、彼は歴史上永久に名をとどめる数少ない物理学者の一人であることは疑いのないところである。 Fermi教授は実験及び理論の両方面に卓越した才能をもち、その業績も有名なフェルミ統計、べータ線崩壊の理論、量子電磁気学など理論的なものから、中性子衝撃による人工放射能、遅い中性子の選択吸収、さらに原子力解放の緒となった核分裂の現象、その連鎖反応など行くとして可ならざるものはなく、しかもいずれも物理学の根本問題を衝き、その自然認識の深さの非凡さは驚嘆のほかない。イタリヤにおいては僅かの放射性物質とパラフィンのみの実験室でよく世界の原子核研究に伍し、中性子の性質の探求にあざやかな業績を挙げており、アメリカに移ってからはまさに鬼に金棒、現在もシカゴ大学の大サイクロトロンを主宰し、有能な同僚や弟子たちと共に原子核研究の推進に非凡の精力を注いでいる」これはFermiが亡くなる直前に書かれた彼のプロフィールである。ここにはFermiの業績についてほとんどあますところはない。しかし、Fermiの教育上の業績についてはまったく触れられていない。この点についてはFermiの優れた弟子の一人で、ノーベル賞物理学受賞者のC. N. Yangの文章から引用しておこう。(引用はじめ)「よく知られているように、Fermiは水際立ったすばらしい講義をした。これは彼の特徴的なやり方であるが、それぞれの題目について彼はいつでも、最初のところから出発して、単純な例をとりあげ、できるだけ「形式主義」を避けた(彼はよく込み入った理論形式は「えらいお坊さま」のものだと冗談をいった)。彼の論証は非常にすっきりしているので、ちっとも努力をしていない印象を与えた。しかし、この印象はまちがっている。すっきりしているのは、注意深い準備、いろいろの異なった表現の仕方のうちでどれを選ぶかを慎重に考慮した結果のためであった。・・・週に1~2回、大学院生のために非公式の、準備なしの講義をしてくれるのがFermiの習慣だった。グループは彼の部屋に集まり、Fermi 自身か、ときには学生の誰かが、その日の討論のために特別な題目を提起した。Fermi は、綿密に見出しのついた自分のノートを探し回って、その題目に関するノートを見つけ出し、われわれに講義してくれるのだった。・・・討論は初歩的水準に保たれた。題目の本質的、実質的部分が強調された。大抵いつも、分析的でなく、直観的、幾何学的な取り組みであった」(引用終わり)(2024.3.1付記)ここにFermiの特質が述べられていて、あますところがない感じである。そういえば、これを書いたYangはまだ中国で健在なのだろうか。ひょっとして100歳を越えているか、または、100歳にとても近いかのどちらかであろう。
2025年7月31日2025年7月26日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す【「老人の呟き」からの転載_7月末】・群と代数【2007-06-07 】・デカルトと湯川秀樹【2007-07-28】・朝永振一郎著の『量子力学』の研究 【2007-08-04 】・武谷三男の資料 【2007-08-13 】・フーコーの振子1 【2007-08-20 】・Boltzmannの原理 【2007-09-26 】・物質の波動性とBohrの量子条件 【2007-10-16 】・小川洋子「博士の愛した数式」 【2007-12-11 】・三段階論は科学史から導かれたか 【2007-12-17】・DysonとFeynmanの著作 【2008-01-19 】・科学者の伝記2冊 【2008-01-24 】・宇宙と物質、その一様、等方性 【2008-02-18 】・武谷の処女論文の発見 【2008-02-25 】・場の理論は日本にはなかったか 【2008-02-29 】・物理の散歩道 【2008-03-05】・武谷の「素粒子論の発展」 【2008-04-01】 ・1965年以降の武谷 【2008-04-08 】・「私の見てきた素粒子物理学の40年」感想 2008-04-17 12:37:37 | 物理学・伏見康治氏の死 2008-05-10 11:42:38 | 物理学・思想の意義 2008-05-15・湯川朝永シンポジウムの会議録 【2008-05ー22】・広島大学理論物理学研究所 【2008-06-16 】・新版「スピンはめぐる」 【2008-06-26 】・湯川秀樹と隕石 【2008-06-27 】・山本義隆『新物理入門』 【2008-06-30 】・朝永振一郎「角運動量とスピン」 2008-07-02 15:11:17 | 物理学・独創性は少数者にあり 2008-07-27 23:30:18 | 学問・自発的対称性の破れとカタストロフィー 2008-08-26 12:41:37 | 物理学・問題の解決 2008-09-12 11:23:04 | 物理学・一流の湯川、二流の朝永? 2008-09-18 10:40:13 | 物理学・南部、小林、益川博士のノーベル賞受賞 2008-10-08 12:40:47 | 物理学・武谷三男の処女論文 2008-10-10 13:20:43 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数学(引用此処から)ゴールドスタインの古典力学の付録の「群と代数」のところの翻訳を1週間ほど前に終えていたのだが、ホームステイで時間がとれなかった。やっと検討を始めた。それで、参考にJohさんの群についてのところを印刷して読もうとしている。かなり大部の内容なので読み通せるかどうかもわからない。Johさんの書き方は平易なのだが、問題は根気が続くかどうかであろう。それにあるところではやはり急勾配で分かりにくいところもあるかもしれない。また、一番の問題は当面の問題とか用事で読む暇が取れなくなることであろうか。きちんと読んで語句の脱落したところとか、式の書き間違いとかも指摘してあげたい。いままだ2つの記事しか読んでいないが、始めの「群の公理」のところでも例5の逆元の存在のところのfまたはf^{-1}の式の中のax+bはxの間違いであろう。これは計算をしておかしいことがわかった。(引用此処まで)デカルトと湯川秀樹2007-07-28 15:01:31 | 物理学(引用此処から)私はデカルトが好きである。なぜかといえば学問の方法を考え出したということが好きだ。ユークリッドの初等幾何学に座標の考えを導入して、解析幾何学といわれている学問を創設したのでデカルトは特に有名である。湯川秀樹もこのデカルトが好きであったと思う。一度何故好きなのですかと聞いたのだが、明確な返答はなかった。でもそんなことは答えがなくとも分かっているような気がする。学者の中には方法とかいわなくとも自分で体の中にすでにもっている人もいる。私が湯川に直接具体的に名を挙げてデカルトと比較して聞いたのはパスカルだが、私にはパスカルは好きになれない。彼は方法とかいうようなことをいわなくとも数学でもなんでも創造的なことが出来る直観的なタイプだったろうと思っている。湯川は方法とかを考えたりするタイプの学者には見えないが、自分では何らかの方法とか創造に対する意識をもっていたのだろうと思う。それが彼の書いたいくつかの本に現れている。私が方法ということをしきりに意識したのは大学の受験勉強をしているときであった。劣等生だった私はそういうことを自然に考えるようになった。もっとも中学校のときに英語の教授法について書いた本を中学校の図書館で見ていたりしたからそれ以前からも何かをするときの方法に関心があったかもしれない。頭のよくないものが頭のいいものになんとか追いつくことができないまでもそれほど遅れないためには方法論を意識する必要があるというのが私の考えである。これと同じコンテキストからといっていいと思うが、私の先生の一人S先生は頭の悪いものは数学くらいは使わなくてはならないというのが、口癖であった。もっとも私の大学のときの先生にはS先生が3人もいるので、どのS先生かと気になるかもしれないが、3人の中で一番年寄りの先生のことである。もう存命ではない。(引用此処まで)朝永振一郎著の『量子力学』の研究2007-08-04 13:57:25 | 物理学(引用此処から)標題の本を出版している人がいる。土屋秀夫という人である。どういう人かわからないのだが、東京大学と東北大学の物理の図書室にこの本は登録されている。国立国会図書館には所蔵されていないようなので、これは自費出版の本かと思われる。ページ数が521ページと分厚い本なのでかなりの大著といえる。出版社の創栄出版に問い合わせたのだが、今日は土曜日なので返事は月曜日以降になるだろう。創栄出版は仙台の出版社で自費出版等を盛んに行っているとある。googleで検索したら、日大の東北高校を平成11年に退職した人に土屋秀夫さんという方がいる。日大東北高校は野球で有名な高校であるから、調べてみると福島県郡山市にあることがわかった。創栄出版の返事が不発に終われば、ここに照会をしてみるつもりである。詳しい朝永の量子力学の研究がなされているとすれば、やはり一読に値するだろう。『朝永振一郎著の「量子力学」の研究』を手に入れて、ぜひ読みたいと思っている。(2011.11.3付記)この書を東京大学の物理図書館から借り出して、コピーをとった。だからこの書のコピーをいまではもっている。詳しい計算とか内容の解説をした書である。これは自費出版された書で、出版社にも問い合わせたが、1部も残っていなかったということは別のブログで書いたかもしれない。また、出版社に著者への連絡先がわからないかと尋ねたのだが、いつのまにか出版社でも連絡先がわからなくなったとのことであった。私自身も朝永の『量子力学 I 』 は2回ほど講義をしたことがあるので、そのノートをつくってもっているが、そのノートとこの著書と比べてみたいと思ってもいる。ともかく、なかなかしっかり計算をしてある書で、内容の解説も書かれている。この書が一般書として出されていないのは残念である。しかし、前にも書いたかもしれないが、式の表わし方を工夫するとかは必要だと思っている。また、この書の活字はあまり感心しないし、式の表示も現在ではlatex等で表示すれば、もっときれいで見やすくなるであろう。どこかの出版社で出版をしてくれないものだろうか。内容の問題ではなく、本の活字とかの見かけが問題だというつもりであるので、上に書いた批判についてご寛容をお願いしたい。(2020.2.7付記) 土屋秀夫さんは他でも書いたと思うが、東京大学工学部化学工学科を1971年に卒業された方である。私よりも7歳か8歳若い方である。(引用此処まで)武谷三男の資料2007-08-13 10:35:27 | 物理学(引用此処から)オンラインサービスで武谷三男のプログレスに出た論文はおよそプリントした。一つか二つだけ私の前のレポートで落としていたのが今回見つかったような気がしたが、どうもはっきりとはわからない。いまのところ過不足はないみたいだ。ある論文のページ数がどうしたものか間違っていたのに気づいた。その他収録すべきものに落ちがあるのかどうかはもう一度調べて見る必要がある。湯川、朝永、坂田の三博士の論文集は出版されているが、武谷の論文集は出版されていない。これは出版するとするとかなり大部なものになり、その費用は膨大なものになる。またそれだけの業績を上げたのかという点の世間的な評価では残念ながら上記三博士ほどではないかもしれない。しかし、重要な論文を選んだ論文選集ということなら可能性があるかもしれない。だが、彼の物理にかけた情熱はこの論文のページ数の多さからも伝わってくるようだ。ダイソンが彼の論文選集で述べているように、物理学の論文は歴史的に回顧するとかならずしも全部が意味を持って生き延びる訳ではない。それが数学との違いである。それで物理学者については論文全集ではなく、論文選集が発行されるとダイソンは言う。それに比べて数学者は論文全集が発行される。武谷三男は論理的にも行動でも潔癖な人で他人に対して批判が厳しかった。それで熱狂的な信奉者がいる一方で物理学者の中でかっての門下生にも晩年そっぽを向かれたという風でもある。これは単に風評とか単なる私の感じている雰囲気にしか過ぎないので歴史的な研究としてはその裏付けとかをする必要がある。その評価を自ずと伝記とか年譜を書くとすれば、しなければならない。そのときには自分がどういう立場に立つかをしっかりさせなければならないと思う。メモとして記しておくとゲージ理論の創始者の一人である、内山龍雄氏の武谷に対する拒絶反応(下記の付記参照)とか高木仁三郎氏との「時計か金鎚か」という論争もある。そういうテーマを一つ一つ調べて行かねばならない。(2013.3.16 付記)上に書いた内山龍雄氏の武谷に対する拒絶反応というのは私の推測であって、内山の回顧には武谷に感謝していると思われる一節もある。それに伏見康治の書いた文には内山にゲージ理論のはじめの論文(ネターの論文?)の存在を教えたのは科学史に関心のあった、武谷であるとの記述があった。内山はその点を武谷に感謝していると思われる。(引用此処まで)フーコーの振子12007-08-20 12:23:52 | 物理学(引用此処から)フーコーの振子って知っていますか。名前は知っている人でもそれが何を意味するのかは知らない人が多いだろう。大学4年のときに相対論の時間にS先生に授業で聞かれて、27、8人はいる物理学科生(4年生)が誰も答えられなかった。それも2年のときに力学でフーコーの振子について詳しく教わったにも関わらず。それでそのときはじめてフーコーの振子の実験の意味を知った。これは地球が自転していることを実験室で証明するという実験であった。上野にある国立科学技術博物館にはフーコーの振子が動いているので、それを見てすでに地球の自転を証明するためだと知っている人もいるだろう。北極(南極も?)でなら24時間で振子の振動面はちょうど1回転するが、その他の地球上の地点では24時間経ってもちょうど1回転はしなかったと思う。これは直観的にわかるはずだが、いまその説明はちょっと自信がない。コペルニクスの地動説によって太陽が動くのではなく、地球の方が動くということにはなったが、それは単に考えの上の話であって地球の自転は実験的に証明されなければならない。そうフーコーが考えたのかどうかは知らないが、そういう根拠を求めるというのはやはり物理学であろう。(引用此処まで)Boltzmannの原理2007-09-26 15:49:38 | 物理学【引用此処から】私の友人のNさんによれば、Feynmanの著書「Feynman物理学」はすばらしい本だが、唯一つだけ熱力学・統計力学の部分が弱くて特色が少ないという。そうかもしれない。しかし、私には忘れられないことがある。E大学に勤めるようになって、この「Feynman物理学」訳本の第2巻のうちで熱力学の項目を授業で教えるために読んだ。そのときにあるエネルギーをとる状態が実現する確率はe^{-エネルギー/kT} に比例するということを知った。大学の統計力学の授業でBoltzmannの原理を教わらないはずはないのだが、大学で学んだ統計力学の内容はちんぷんかんぷんだった。Feynmanの主張は指数関数の肩のところにくるargumentで分母kTの上の分子のエネルギーはそれが運動エネルギーがくることもあれば、ポテンシャルエネルギーがくることも、はたまた全エネルギーがくることもあるという。これで気体分子の速度分布則が怖くなくなった。Boltzmannの原理がどうやって導かれたかはこのときはまだ知らなかったが、大いに気を強くするような知見であった。実に感じ入ってその後は毎年授業で強調している私の授業ネタの一つとなった。その後、積分中のパラメータで微分する方法によって積分する方法があるのを知ったので、実際に大事なことはこのBoltzmannの原理であることがわかった。法則をきちんと書き下すときに、その前についている係数等は確率が規格化されることから、単に技術的な計算で導くことができる。すなわち、それらの係数はいつでも自分で導いてやればいいのだから怖くはない。よく物事がわかっていないときには式の複雑さでものごとの本質の理解ができなくなる。さらに、本質が何かわかっていないために覚えることが多くてわからなる。なんだか面倒な式だなといった感じだけが残ってしまう。それは困るのだ。だから、積分中のパラメータで微分する方法によって積分する方法(これを私はFeynmanの積分法と勝手に名づけている)などを知っていることは単なるテクニックで本質ではないだろうが、Boltzmannの原理の理解に役立つことは間違いがない。物質の波動性とBohrの量子条件2007-10-16 11:58:51 | 物理学(引用此処から)歴史的にはもちろんBohrの量子条件(1913)があってその後約10年程してde Broglieの電子の波動性(1924)が提唱されてBohrの量子条件が実体論的になった。Bohrの量子条件は現象論ではないにしても、なんだか天下り的で天才の閃きによるものとしか思えない。もちろん、de Broglieの電子の波動性もそのアイディアは天下り的であるが、それによって量子条件が実体論的裏づけを得たと思う。それで「de Broglieの物質波仮説」は私の好みに合っている。もっともde Broglieの「物質と光」(岩波文庫)に収録されている、彼のノーベル賞受賞講演によれば、その着想は単なる天下りではなくちゃんと理由があることがわかる。いずれにしてもいろいろな意味でde Broglieは私の昔からの憧れの学者である。(2013.5.25 付記) de Broglieはあまり難しい数学は使わないで物理学を研究するというタイプの学者であり、人とのつきあいがあまり上手ではない人であった。そういうところが私の好みとあっている。私もあまり人とのおつきあいが上手ではない。また、数学があまり得意ではない。もちろん、世の中の一般の人と比べれば、数学が下手だとは言えないかもしれないのだが、それでも私は数学が得意ではない。(2013.6.10 付記) 先日、Yangの論文選集II (World Scientific, 2012) を読んでいたら、Bohrの量子条件をde Broglie流に解釈した述べ方がした図が出ており、私が上で述べたような捉え方をYangもしているらしい。私のようなぼんくらの物理学者でも、ときにはYangと似た考えをもてたということであろう。(引用此処まで)小川洋子「博士の愛した数式」2007-12-11 12:01:45 | 学問(引用此処から)この小説を読んだことはないのだが、12月9日の日曜日の夜にテレビでその映画を見た。あらすじは省略して、要するに「博士の愛した数式」はe^(i ¥pi)+1=0 である。ここで、¥pi は円周率を表している。これは不思議な数式であるが、またある意味ではちっとも不思議ではない。オイラーの公式といわれるe^(i x)=cos x +i sin xを知っている人で、その幾何学的意味が実軸上で0から1に向かった矢印→を原点Oの周りに角度を弧度法(ラディアン)で測って角度xだけ反時計方向にその矢印を回転させることだと知っていればすぐにわかる。いま0から1に向かっていた矢印→を¥piすなわち180度反時計方向に回転させれば、0から-1へ向かう矢印→となる。すなわち、e^(i ¥pi)= -1が得られる。この式の両辺に1を足せば,e^(i ¥pi)+1=0 が成り立つ。どうも小説では意味深長で神秘的に聞こえる、この関係をなんでもない散文的なものにしてしまうから、「科学者なんて毛虫のようだ」なんていわれるのだろうが。「毛虫云々」は物理学者・武谷三男が太平洋戦争後につづり方研究会に出て、「梅毒で頭がもうろうとした人からいい文学が生まれるのとサルバルサン606号やペニシリンで梅毒が治って文学が生まれないのとどちらがいいのか」という意見を述べたときに、その会に参加していた、ある女性が武谷を「毛虫のようだ」と評した故事にちなむ。武谷三男はするどい論調で皮肉をいつも言っていたとか。それで、武谷の口には毒があるといわれたという。また彼のあだ名は「ゲジゲジ」だったらしい。これはトップシークレットです。もっとも大阪大学理学部の第2回の卒業生だった、すでに故人の長谷川先生によれば、大阪大学の理学部の創設の初期にそこをしばしば訪れていた武谷は寡黙だったという。湯川秀樹、坂田昌一たちとの中間子論の共同研究で武谷三男は物理学会に知られるようになる。特高に捕まって留置所生活を半年間ほどするのはその直後である。(2024.4.27付記)物理学者・武谷三男について少しネガティブに聞こえることを書いたので、付け加えておく。哲学者の鶴見俊輔と彼の生前にちょっとの間だったが、知り合いになって、私がいつか武谷三男の伝記を書きたいと言ったところ、武谷が文学や演劇・音楽を愛し、かつ人間性が豊かで、繊細な感受性の人物であることを直に知っている京都在住の女性を紹介してくれそうだったことである。武谷三男の伝記は書くという、私の見込みはまったく立たず、たぶんそのことは私よりは若いが、物理学者・坂田昌一の伝記をすでに書いて実績のあるNさんが、その望みを叶えてくれるのではないかと密かに思っている。(引用此処まで)三段階論は科学史から導かれたか2007-12-17 14:58:58 | 科学・技術(引用此処から)科学の認識論として知られている武谷の三段階論だが、広重徹はこれが武谷の科学史の曲解から出て来たという風に考えている。広重は「科学史を具体的に研究して三段階論のようには歴史はなっていない」といっているか。それとも「歴史からは三段階論は出て来ない」という風に言っているか、または「三段階論は間違っている」と言っていると私は理解している。これはかなり私の自分勝手な解釈なので本当は広重がそう思っていたかどうかは今後詳細に調べてみる必要がある。ともかくもそういう理解を前提としてここでは論を進めてみる。だからこの前提がくずれれば、以下の議論は無用である。武谷はこの三段階論の着想を必ずしも科学史だけからヒントを得たものではないことは彼の回想「思想を織る」に出てくる。音楽理論等からも着想を得ているという。そうだとすれば、広重がいう武谷は科学史をきちんと調べないで論を立てたという話は確かにそうかもしれないが、それだからといって武谷を論難するのはちょっと話が違うかもしれない。だからどうだというところまで考えが及んではいないが、もっと広い(人文科学や社会科学も含めた)科学全体のコンテキストからこの三段階論をもう一度考え直さなくてはならないだろう。広重のいう「科学史の素人であった」武谷の三段階論はやはり素人目にはぴったり来るところがあるのを否定はできない。これは力学の形成だけではなくて他にもいろいろな場合でも考えられるだろう。ということは個々の科学の歴史についてそれが三段階論と離れていようとも実はそれがむしろ本質をついたものであったのかもしれない。しかし、実際の場合の有用性については別に評価をしなければならないだろう。以下は単なる放談である。量子電気力学では現象論の段階をどこにとるのかはよくわからないが、坂田のC中間場の理論はその実体論とも考えられる。もちろんこの場合には実体論はうまく行かないところもあり、結局は「くりこみ理論」である種の本質論となった。もっともそう捉えるとHeisenberg-Pauliの場の量子論はどの段階に位置づけたらいいのか。また、電弱理論は「量子電気力学と弱い相互作用」のある種の本質論であるが、その前の段階として何をどのように位置づけるのか。そしてそれは実際の電弱理論をつくるときにどう働いたのか、または働かなかったのか。実際の歴史は輻輳していて一筋縄では行かない。ゲルマン等のクオークモデルへと導いたその元の坂田モデルはやはりある種の実体論と位置づけるべきではないか。ところが逆転してU(3) またはSU(3)へと導かれたところはある意味で現象論であったということになる。坂田モデルは実体論であるが、それからU(3)というある意味で本質論だが、一方で現象論であったものができた。その現象論を修正することにより、SU(3)という本質論であるが、また新たな現象論であったものができ、それの実体を探るという意味でクォークモデルが出た。またこれはある種の実体論であり,またそれは現象論でもあった。そのときにゲージ原理がある種の役割を果たしているが,それをどう位置づけるのかそれを落としてはならないだろう。そういった素粒子の歴史をもう一度ひもといてみる必要がありそうだ。(引用此処まで)DysonとFeynmanの著作2008-01-19 15:11:29 | 物理学(引用此処から)World ScientificでFeynmanとDysonの本を購入した。といっても本当は新しいものではない。Feymanのは彼の学位論文が本になったのだ。また、Dysonのは彼の1951年のCornel大学での講義ノートが本になった。これは多分Feynman理論を講義した世界ではじめての試みだったのだろう。Dysonの講義ノートもFeynmanの講義ノートも大学院時代に先生方か先輩の蔵書の中にあったような気がする。Feynmanの方はすでに本として出版されていると思う。ところが、Dysonの講義ノートは研究者の間に出回っていたが、本とはならなかった。それがおよそ60年のときを経て本になった。Dysonはまだ存命であるが、朝永、Schwinger, Feynmanはすでに亡くなった。この3人が1965年に量子電気力学の業績によりノーベル賞を受賞したが、そのときにDysonは賞から漏れた。これはノーベル賞の受賞者は3人以内という不文律に触れたためという。YangはDysonにノーベル賞を与えなかったことでこのノーベル賞選考を彼の論文選集で批判している。Oppenhiemerに対するYangの評も同様に暖かい。もう少しOppenheimerが長生きしていれば、ブラックホールの予言とかパルサーといわれる中性子星の研究で彼の業績は評価されたはずだという。これはDysonやOppennheimerの二人とYangが親しいということもあるだろうが、それだけではなくYangの目が公平だと思われるところがいい。Yangはハードワーカーだとかで研究熱心である。LeeとYangとはノーベル賞を同時受賞しているが、二人を比べて日本ではYangの方が評価が高いと思う。そういえば、ドイツのマインツ大学で研究室が私と同室だったKim さんはLeeがあるとき講演に来て、そのとき聴衆の中の一人が数学者でLeeの使った用語の定義を根掘り葉掘り聞いて、いちゃもんをつけたのでLeeが腹を立てたと話していた。Yangは前の奥さんが亡くなったので若い中国人女性と再婚したとか。その女性を連れて日本の講演会にやってきたと物理学会誌で読んだ。Yangは亡くなった私の先生のOさんよりも年上だと思う。(引用此処まで)科学者の伝記2冊2008-01-24 11:51:18 | 本と雑誌(引用此処かr)昨日2冊の科学者の伝記を手に入れた。1冊は岩田義一さんの「偉大な数学者たち」(ちくま学芸文庫)でもう1冊は佐藤文隆さんの「異色と意外の科学者列伝」(岩波科学ライブラリー)である。昨日ちらちらっと拾い読したのだが、思ったほどは面白くなさそうだ。特に「偉大な数学者たち」はアマゾンの書評がすばらしいとのことだったので期待していたが、それほどではないのではないかと思う。もちろん、この書をよく読んでいないための評価であるから間違っている可能性は大きい。昨日は短い伝記を読んだので、長い伝記は後の楽しみに残してある。日曜の午後にでもコタツに入って楽しむつもりである。この書は1950年の発行というからもう60年近くになるわけだが、どういうものか今まで読んだことがなかった。もっとも一番新しい数学者として取り上げられたのが、ガロアであるからup-to-dateというわけにはいかない。しかし、科学者の生き方というのはやはりドラマに取り上げられることがある。演劇「コペンハーゲン」は見たことがないが、第2次大戦中のコペンハーゲンで繰り広げられたハイゼンベルクと彼の師のボーアとの会話を中心にしている。単に師弟の旧交を温めるということにはならず、ナチスドイツが原爆を開発する意図をもっているかどうかがテーマであった。ロベルト・ユンクの「千の太陽よりも明るく」では連合国とドイツの間でお互いに原爆の開発をしないように約束をとりたいためにハイゼンベルクはボーアのところへ話に行ったが、ボーアは戦時下では科学者は自分の祖国のために原爆の製造も許されると受け取った。ナチス治世下の状況で自分の身の安全のためにハイゼンベルクがはっきりと原爆を開発しないと言明ができず、あいまいな言いまわしに終始したためにこの誤解は生じたといわれる。そのためでもないだろうが、長い間ハイゼンベルクはアメリカの科学者やヨーロッパからアメリカへ亡命した科学者にナチスを擁護した科学者として悪い印象をもたれた。(引用此処まで)宇宙と物質、その一様、等方性2008-02-18 11:40:47 | 物理学(引用此処から)いま急に思い出したのでメモしておく。湯川秀樹監修の岩波講座「物理学の基礎」はだいぶ以前に出た本だが,この中の古典物理学の力学のところに豊田利幸先生が弾性体の力学と相対論を同時に学ぶような趣旨でテンソルについて書いている。これは優れた観点である。弾性体力学での、物質の等方性、一様性の仮定は、宇宙論での宇宙の等方、一様性の仮定とまったく同じであり,同じ仮定がまた結晶学でも使われている。人間はその対象分野は違っても同じ仮定から、その理解を始めている。たとえば、宇宙の分野での独自な理解の仕方を結晶学や弾性体力学へと応用して、これらの分野の理解を進める。またはその逆の試みがされてもいいのではないかと思った。よくは知らないが,レッジェポールで有名なReggeはそういう趣旨で重力論を展開したことがあるらしい。もちろんいつまでたっても、等方性と一様性の仮定から離れられないのならば,物性物理学の進歩はないだろう。現在では一様でない物質とか結晶とかも、現代の物性物理学では同様に対象にされている。格子欠陥とかアモルファスなどが主な研究の対象になっている。(2013.2.20付記) 表現が未熟であったので、趣旨がはっきりするように文章を改めた。どこをどのようにという記録は取らなかったが、より趣旨をはっきりさせたつもりである。この文章を検索されて、読んだ方がいたことがその契機となった。感謝をしたい。(引用此処まで)武谷の処女論文の発見2008-02-25 11:51:58 | 物理学(引用此処から)一昨日、いままで分かっていなかった武谷の処女論文のありかがわかった。これは台湾博物学会会報に出た論文であった。私は日本の地質学会誌を探していたので、見つからなかったのだ。これは武谷が旧制の台北高校生のときの論文である。台北帝大教授の早坂一郎の英訳だという。出版は1936年(昭和11年)なので武谷が24、5歳のときの出版であるが,書いたのは1928、9年頃だから17、8歳位のことである。量子電気力学の業績でノーベル賞を1965年に朝永やFeynmanと共同受賞した早熟の天才Schwingerがはじめて論文を書いたのは16歳のときだというから分野は違うが年齢的にはそれに匹敵する。山へ登っては貝やかたつむりを採取してそれを分類したらしい。また若い学生の論文を英訳された早坂一郎先生の尽力と分け隔てなさがすばらしい。武谷が学問のふるさとして台北帝大の地学の先生、早坂、丹先生たちとその学問の雰囲気を懐かしんでいた理由がわかる。ローマ字でMituo Taketaniと入れて探したら、「台湾貝類資料庫」という中に武谷の論文が出ていた。そのPDFコピーがインターネット上から手に入りそうだったが、なかなか取り込めないのでメールを書いた。親切な人に出会うかどうかはわからない。しかし、やるだけのことはやってみた。これで多分武谷の論文で現在のところ存在がわかっているものは尽くしたと思う。念のためにCitation indexを調べる必要があるが、これは大学に行って誰かの端末を使わないと調べることが出来ない。ただし、このような発見は自分の体の中で興奮がない。自分が新しいことを研究して小さなことでも発見があると興奮してある種の満足の感覚が体を満たすものだが、今回はどういう感情も起きない。オリジナルのことをやらないのはさびしい。(引用此処まで)場の理論は日本にはなかったか2008-02-29 14:20:57 | 学問(引用此処から)「素粒子論研究」の最新号の研究会報告にKさんとOさんの講演が載っている。二人とも場の理論的なアプローチを得意とした学者である。Oさんは坂田先生に自分の研究の話をするときには必ず場の理論的な側面をはずして話していたとのことである。きわめて場の理論家としては肩身の狭かったことであろう。Oさんはしかし場の理論以外のこともやっているし、その素粒子理論へのU(3)の導入は彼とIさんの大きな業績でもあるから、坂田先生からそれなりに評価はされていただろう。確かに50年代から60年代の場の理論の勢いはあまりなかったというのは本当だろう。しかし、湯川とか朝永はやはり場の理論を主軸とした研究をやっていたといえるだろうし、また場の理論から離れてはいなかっただろう。特に朝永は1955年以降は論文を発表はしていないが、密かな研究としては場の理論的な研究を目指していたらしい。今回の研究会ではある程度広島大学付置だった「理論物理学研究所」に焦点があたっているが、広島大学の素粒子論研究室には光はあたっていない。その辺が不満である。しかし、それはある意味では武谷の業績の軽視でもあるような気がする。朝永、湯川、坂田はもてはやされるが、武谷以下の人たちの寄与はどうも無視される傾向にある。もちろん、武谷の寄与が前の三者ほど華々しくない。学問の世界も「やはり勝てば官軍である」ことは紛れもない事実であろう。(引用此処まで)物理の散歩道2008-03-05 17:59:15 | 物理学(引用此処から)昔ロゲルギストという一団の物理学者のグループがあり、「物理の散歩道」というエッセイだか本を出していた。若手の物理夏の学校の当番校だったときに坂田昌一先生を講師に招いて話をしてもらった。坂田先生が亡くなる数年前の話である。坂田先生は講演で「物理の散歩道」などという考えを批判されて、闘う物理学でなくてはならないといわれた。多くのヒトがそれを聞いて感銘を受けたなどとは思わないが、それでも坂田先生の立つ立場は理解したと思う。こんなことを思い出したのは数年前に私は「数学散歩」という本を出版したからである。坂田流に言えば数学に本気で取り組んでいないということになる。そうかもしれない。しかし、私が「散歩」という語を使ったのは教科書風の体系的ではないという意味でつかったのであった。une promenadeというのは散歩にあたるフランス語だが、「物理の散歩道」風の気持ちも少しはあった。だが「数学散歩」での取り扱いはそんなに散歩風でもないのだが、それにしてもこれは言い訳がましい。(引用此処まで)武谷の「素粒子論の発展」2008-04-01 10:50:49 | 物理学(引用此処から)科学朝日1960年11月号の標題の記事はなかなかいいと思って武谷三男「現代論集」に収録されているのではないかと思ってあたってみたが、どうも収録されていないようだ。他の科学朝日の記事は出ているので、収録しなかったのには、なにか理由があるのだろうか。この次の号をもっていないのでわからないが次の号にもつづきがあるはずだ。武谷が強調しているのは概念分析であり、そういうことは誰でも研究にあたってはするのだろうが,そこのところが興味深い。物理学での彼の業績として宇宙線のカスケードシャワーの現象で中性中間子の重要性を指摘したとある。パイ^{0} は2つの光子に崩壊する。これがカスケードシャワーの重要なプロセスだという。多分この分析は戦争中の話で中間子討論会のレポートとなっているはずだ。それを後でプログレスの論文として出されている。(引用此処まで)1965年以降の武谷2008-04-08 11:05:18 | 物理学(引用此処から)日本人は外国の人の論文はよく引用したり、評価するが日本の同様な仕事は評価しないと言われる。少なくとも武谷がこういって在米の日本人の物理学者を非難したことは私の記憶にも新しい。しかし、武谷が自分の指導していた核力グループで特に広島グループが大きな寄与をなしていた時代があったのだが、それを武谷が正当に評価していたかどうかは疑わしいという気がする。それが遠因をなしているのかどうかはわからないのだが,その後の坂東弘治さんたちのハイペロンの研究でもOBEモデルはNN散乱で世界で多分はじめに広島グループが始めたということをもう覚えている人は彼らのグループにもいないのではないか。山本さんという、坂東弘治さんの共同研究者であった人のその分野の日本語で書かれた概観を最近見たのだが,坂田モデル、武谷の方法論は言及されていたが、それを発展させたOBEモデルの広島グループの寄与はまったく書かれていない。もちろん、ハイパーチャージが入った反応についての坂東さんたちの功績は大きいのだろう。だが、それにしてもOBEモデルをSU(3)に一般化したオランダのグループの評価だけが特筆されるというのはどういうことだろうか。OBEモデルの主要な提唱者である、Yさんなどは多分に正当に評価されていないことに苛立っていたとしてもおかしくはないだろう。もちろん、Yさんが苛立っていたという感じは少なくとも私はもっていないが、これが武谷を指導者として広島グループが受け入れがたかった理由かもしれない。もちろん私自身はそのグループの端にしかいなかったので、このグループの業績への寄与がある訳ではないが、どうも評価が低すぎるというか業績がまったく無視されているという気がする。武谷は自分が研究を指導して来た核力グループの崩壊とともに自分が足場とする研究グループとして一時ではあるが、広島グループに期待をかけたと私は思っている。だが、彼はなんでも自分が言い出したことを単にグループのメンバーが詳細な研究で確かめたという風な評価するところがあった。オリジナリティの起源は自分にあるという風に。それで結局、武谷はFさんを中心とした宇宙線のグループと宇宙の問題へと研究方向を変えたと思われる。この宇宙線の研究は世間にあまり受け入れられなかったように思われる。しかし、これが本当にあまり成果を上げなかったのかどうかは冷静に検証しなければならない。(引用此処まで)「私の見てきた素粒子物理学の40年」感想2008-04-17 12:37:37 | 物理学((引用此処から)友人のHさんから、R大学に長く勤めておられたFさんの「私の見てきた素粒子物理学の40年」を貸してもらって読んでいる。まだ半分も読んではいないのだが、いくつか記録しておく。Fさんは私たちの先輩である。Lee-Yang のparity非保存の論文が出たときにparity非保存の実験まで提唱したことにその仕事の徹底さと深さに感じ入ったとある。これを見て思い出したのだが、先回の2006年の同窓会のときにやはりこのことが会食の後でだったかその前だったかは忘れたが、もう一人の先輩Sさんの反応との違いが印象に残っている。Sさんは負けず嫌いなのでLee-Yangと同じようなことをちょっと考えたという風なことを言われていたが、Fさんは潔くLee-Yangとの差を認めていた。それを率直に認められるだけFさんの考えとか力量が大きいという風にそのとき感じた。逆説的だが、率直に差を認められるだけその人の力量とか認識の差が出ると思う。Sさんも才能ある物理学者だと思うし、その現在でも研究に熱心な人であることは認める。だが根本的なところでFさんと力量の差があるような気がした。もう一つ気がついたことはFさんがdispersion relation を使った研究を終生のライフワークとしたきっかけについてである。これは彼が弱い相互作用の研究をしていて、dispersion relationの有用性に気がつき、それを核力研究に使い出したことにあるという。私の知っているF-Machida両氏のNuovo Cimentoの論文で町田氏がFさんに分散公式を核力研究に使うことを薦めたのかと考えていたが、これはまったく違うらしい。もちろん町田氏は核力研究の専門家であったから、NN散乱のあれこれをFさんが町田氏から学んだということはあるだろう。でも主体性はFさんにあったという風に思える。これで思い出すのはS-Yの素粒子の質量公式のことである。私たちの先生OさんたちがIOOシンメトリーを提唱した頃、Sさん、Yさんが共同で質量公式をU(3)対称性にもとづいてつくった。これは誰が考えてもOさんの指導で質量公式をつくる仕事を始めたと考えるだろう。ところが事実はそうではないらしい。Yさんの語るところによれば、 F、Y、Sの諸氏は一緒にK中間子がpionとleptonとに崩壊する3体崩壊を研究していたが、このときに未知の粒子を仮定していたらしい。それで武田暁先生にデータのambiguityと未知の粒子の質量があいまいだとのambiguityの2乗では研究にならないと批判されたらしい。それではその未知の粒子の質量を予測しましょうということが動機で質量公式の研究を始めたとは直接Yさんから何度か聞いたところである。もちろん運よくIOO対称性の研究が近くで行われており、その知見を活用することができたのは事実だろう。だが、外から容易に推測するような動機で研究が進められたわけではないということは興味深い。こういうことは近くにいる人でないと知ることができない。上のFさんのdipersion relationの核力研究への適用もそういう事例であろう。武谷の核力研究の方針やそれらについて武谷が書いたところを読めば、どうしても武谷の示唆によって核力にdispersion relationを用いることが行われたという風に外からは解釈がされがちだ。それは単純にそういうことではないことがわかる。ただ武谷の名誉のためにいうと、いろいろなものが出てきてもそれを十分に位置づけることを心がけていたとはいえるだろう。このことは多分坂田昌一にも同じことが言えるだろうと思う。(引用此処まで)ホーイラーとロレンツの死2008-04-19 13:07:59 | 物理学(引用此処から)一昨日だったかWheelerホーイラーの死が報じられていた。96歳だったという。この頃の若い物理学者はWheelerといえば、通称「電話帳」といわれる部厚い、一般相対論と重力の本Gravitation を思うだろう。しかし、核分裂の理論をつくったのは彼とBohrであった。また彼はアメリカの生んだ天才的物理学者Feynman の先生でもあった。Feynmanは誰に指導を受けたとしても結局はその天才を発揮しただろうが,その天才をもっと大きく育てた人としても有名である。ちょうどオランダの天才物理学者’t Hooft を育てた、Veltmanのような存在だったのだ。もっともVeltmanはその業績が認められて’t Hooft と同時にノーベル賞を受賞した。Heisenbergの先生だったBornは、Heisenbergがノーベル賞を単独受賞したときに自分の業績が認められなかったことに悩んだという。だが幸いなことに20数年後だったかにBorn自身もノーベル賞を受賞したので、ある意味では救われた。その点で気の毒なのは量子電気力学の建設者の一人Dyson であろう。朝永、Schwinger, Feynmanの3人が1965年にノーベル賞を受賞したときに彼一人が共同受賞できなかったから。また昨日は気象学者Lorenzの死が報じられた。Lorenz は90歳で亡くなった。彼は現在ではカオスと言われる現象の発見者の一人とみなされている。数年前には京都賞か日本賞を受賞している。カオスとは因果的法則が、確率的なランダムな現象を引き起こすものをいう。数十年の昔、京都大学の山口先生の集中講義でカオスという現象を知った。山口さんの話はMayの数理生態学の話でであり、これは一番簡単な2次写像のカオスである。Lorenz のことを知ったのはかなり後で、その後有名な物理学者となった蔵本氏の論文とかでLorenz の論文が引用されているのを見た。「中国で蝶がはばたくとその影響がブラジルに伝わる」とかいう風に表現される。普通にはそんなことが起こるはずがないが、カオスの神髄をうまく表現しているかもしれない。(引用此処まで)伏見康治氏の死2008-05-10 11:42:38 | 物理学(引用此処から)伏見康治さんが亡くなったと今朝の新聞に出ていた。98歳だったという。1909年の生まれというから来年は生誕100年だったことになる。いつごろ伏見康治の名を知ったか覚えていないが、亡父の蔵書の中に彼の「確率論及統計論」があった。30代か40代のはじめに書いた本だと思う。その本を知った当時はまだ大学生かまたは高校生の頃で、伏見康治氏は私には老大家という印象だったが、事実はそうではない。少壮の学者だったことになる。読んだことはないが、「相対論的世界像」という本の著者としてとかガモフの全集の一部の訳者として知っていた。大学院のころにたまたま頭のいい学者のことが研究室の先生の間で話題になり、その頭のいい学者の筆頭が伏見さんであった。また、小谷正雄先生も頭のいい人で東海道線に乗ってつぎつぎと来る駅の名前を覚えようともしないのに自然に覚えてしまうくらい記憶力もすぐれた学者だという話が印象的だった。もっとも頭のいいことがすなわち業績をあげた学者ということにはならない。もっとも小谷さんなどはすぐれた学者だといっていいだろうが。伏見さんは晩年には若いときにはむしろ思想的に敵対していたと思われる武谷三男をある意味で評価している(科学者の証言)。これは家庭がそれほど裕福ではなかったから、生活に困ったというような家庭の事情が似ていたこと等もあるだろうし、二人が長生きしたこともあるだろう。そういうこともあって伏見さんは武谷さんを意外に肯定的に評価していると考えている。日本での原子力の研究を進めようとしたところも方向は少しだけ違ったかもしれないが、似ている。そして伏見さんが大阪大学を辞めて名古屋大学のプラズマ研究所の所長になったところもひょっとしたら原子力研究のあり方に批判的であったためかもしれないと思ったりする。みすず書房から出された彼の著作集には興味深いものがある。彼はあまり教育に関心を示さなかったが、その関心の一部は彼の著書の中にぽつぽつと出ている。私も母関数という概念の紹介に彼のあるエッセイの冒頭部分を「数学散歩」(国土社)で利用させてもらった。人は死すべきものである。これはどうあがいてみたところで変えられない。だが、いかに生きるかは努力で変わってくる。人生は地球歴史的な長時間でみれば無駄なのだが、だからといって自分が無駄に生きる必要はない。(引用此処まで)思想の意義2008-05-15 11:39:31 | 日記・エッセイ・コラム(引用此処から)若い学生の頃に兄の友人のYさんから、指揮者は音楽を自分なりの解釈をして、それを楽団の演奏者に説明して自分のイメージの音楽を演奏するのだと聞いて指揮者の存在意義がやっとわかったということがあった。音楽を解釈する余地があるなどということは音楽に疎い私には想像を遥かに越えることであった。話は音楽からはずれるが、私の長男が大学受験に失敗して予備校に通っていたころ、彼がFeynmanの物理学の本を受験勉強の暇々に読んでいて、「物理学は思想だ」とつぶやいたときもびっくりした。残念ながら、私は物理学は思想だとは思っていなかった。もっとも単なる知識の寄せ集めかと問われれば、そうとも言いかねるとは答えただろう。いまでも物理学は思想かと尋ねられたら、ううんと考え込んでしまうだろう。しかし、物理学者には思想家的な人もいる。物理学者の中でもとりわけ湯川とハイゼンベルクは思想家としての色彩が強い。また、ハイゼンベルクの先生だったボーアとか、アインシュタインもそうだろう。ガリレイだとか、ケプラーとかはたまたニュートンも思想家なのだろうが、彼らのことはよくはわからない。30年以上前に留学していたマインツ大学で、数学教室の図書室に行ったら、ケプラーの全集もあってそれが大部のものであることはそのときに知ったが、多分ラテン語で読めなかったと思う。思想が一番大事なものかどうかはわからないが、何ごとかをする人にはかならず思想があるように思う。その思想は簡単なものからもっと多重なものまでいろいろだろう。しかし、ともかくなにか思想とでも呼べるべきものがあるのは確かなようである。(引用此処まで)湯川朝永シンポジウムの会議録2008-05-22 12:26:17 | 物理学(引用此処から)PTPのSupplement no. 170(湯川朝永生誕百年のシンポジウムのproceedings)が昨日湯川記念館から届いた。朝永さんとのつきあいの回想をした、小柴さんの話と南部さんの話を読んだ。知らない言葉が多く、辞書を引き引きの読書であった。深夜の2時頃までかかって読んだ。同時に坂田モデル50周年の記念の会議のproceedings(PTP supplement no. 167)も同時購入したのでこちらの方も少しだけ読んだ。IOO対称性の導入についての話は大貫さんの話が詳しいが、これは素粒子論研究に彼が書いたものほど詳細ではなさそうである。私の先生の一人である沢田さんの話はPTPのonlineで前に読んだことがあるので、今回は見ることもしなかった。R大学に勤めておられたFさんの退職のときの回想記録と沢田さんの回想というで、彼らの物理観にこれで触れたことになる。後はもう一人の私の先生であるYさんの話とこれは狭い意味の先生ではないが、広島大学の素粒子論研究室と関係の深いWさんの話を聞けば、おおよその昔の広島大学の素粒子研究はわかることになろうか。(2014. 7. 23 付記) Yさんに私がしたインタビューは素粒子論研究の終刊の一つ前くらいの素粒子論研究に掲載されたので、後はWさんの話を聞くことが必要であろう。先々週のNHKのEテレ放送「原子力 科学者は発言する」で武谷さんの関係で元気に出演されていた、京都大学名誉教授の町田 茂さんもこの時期の広島大学素粒子論研究室のメンバーであった。彼の話も聞かなければならないのだろう。(引用此処まで)広島大学理論物理学研究所2008-06-16 14:56:52 | 物理学(引用此処から)広島大学理論物理学研究所とは、広島県竹原市にあった、もうなくなってしまった理論物理学の研究所である。1944年設立で1990年に閉所して、京都大学基礎物理学研究所に吸収合併された。1989年に創立45周年の会があり、それに出席をしたことを覚えている。宇宙物理学や場の理論、時間空間論を研究する全世界的にも特異な研究所であったが、いろいろないきさつから京都大学基礎物理学研究所と合併した。1944年に発足したときには世界で第4番目の理論物理学研究所ということであったが、小さいことでも世界で一番小さな理論物理学研究所であった。ここの教官は理学部の教官と一緒に理学研究科の一部であり、学部の学生の卒業研究を指導するシステムではなかったが、大学院生を教育していた。そこで学位をとった宇宙物理学や素粒子物理学の研究者は多い。私はこの研究所の出身ではないが、広島大学理学部物理学科の学生だったから、いくらかこの研究所については見聞きしている。しかし、私の先生の一人Oさんなど私が大学院生のころは、学生が宇宙物理学分野に関心をもつのを要注意とされていた。これは、これらの研究がそのころは物理だか哲学だかわからないようなところがあると思われていたからだろう。その後、金沢大学からの田地先生とか素粒子の研究者が増えて物理的な色彩も強くなり、そういうことを言われなくなった。また、宇宙物理学それ自体が実験とか観測データが増えてきて、いまでは宇宙物理学は狭い意味でも物理学の範疇に入っている。それが時代の流れなのである。googleで検索してみると理論物理学研究所に関するホームページは結構多い。もうなくなってしまった研究所だが、ひときわ思い入れが強い。(引用此処まで)新版「スピンはめぐる」2008-06-26 11:22:27 | 物理学(引用此処から)復刊プロジェクトで朝永振一郎「スピンはめぐる」が復刊された。予約注文していたら、今朝出版社のみすず書房から宅急便で届いた。新版では江沢洋さんが注をつけている。「素粒子の本質」(岩波書店)で武谷三男が朝永に量子力学IIIでもいいし、そのほかの本でもいいから対応原理的考えにもとづいた物理の本を書いてくださいと要望していたが、「うまく書けないよ」と朝永が答えていた。そういう要望にもとづいた訳ではないかもしれないが、「スピンはめぐる」が書かれたといういきさつがある。晩年の科学行政の世界での朝永のすこしあいまいな姿勢に厳しい批判を与えた武谷も朝永の物理学の長所をしっかりとつかんでいた。この「スピンはめぐる」は少し難しいので腰を落ち着けて読まないと読むことができないと思う。それでまだきちんと読んだことはない。ただ、この新版では雑誌の連載時には載っていた写真のいくつかはそのままではないだろうが、つけられている。それを眺めるだけでも楽しい書である。(引用此処まで)湯川秀樹と隕石2008-06-27 12:40:31 | 日記・エッセイ・コラム(引用此処から)私の妻が昨日昔のことを思い出して言っていた。長男は小さいとき夜なかなか寝つくことができなかったという。どうして寝れないのかと聞いたら空が落ちて来るのが心配だといったという。そういう話を私がしたのかもしれないが、多分これは本人の想像力だと思う。小さくても想像力に富んだ子はいろいろ考えているのだ。やはりその人のもって生まれた性質は教育なんかを超えていると思う。それで思い出したのだが、昔湯川先生が所長をしていた基礎物理学研究所で私は数ヶ月非常勤講師をしていたが、そのときの昼食時に隕石が落ちて自分にあたったらどうしようと心配をしたことがあるといったら、湯川先生が実際にあったこととして自分の親戚の人が山道を歩いていたら、何かふらふらと飛んできてどこかその人の近くに落ちたという。これが隕石であったという。彼はそれが自分の親戚の人としか言わなかったが、ひょっとしたら彼の父親の小川啄治氏であったかもしれない。小川啄治氏は地学の研究者であったから、山道を歩くことも多かったであろう。このようなことに出会う人は本当に少ないとは思うが、やはり実際にあるということであろう。長男が昔感じた心配を杞憂とばかり笑うことはできない。(2013.2.18付記) 「湯川秀樹と隕石」などというタイトルで偉そうなやつだと思われた方もおられるであろう。これは表題ということもあり、表題はいつでも短くしたいという意図ともう湯川博士も歴史上の人物となっているとの観点からであり、他意はない。「さん」とか「博士」とか敬称を入れるべきかともいまでも思わないでもないが、表題としてはこのままとさせて頂く。途中の文章では「さん」を「先生」に改めた。「さん」では私にはあまりにもなれなれしすぎるからである。ロシアにとても大きな隕石が落ちて、ニュースダネになったので、このブログも一人、二人見てくれた人が出てきた。それで、文章の少し改変をした。(引用此処まで)山本義隆『新物理入門』2008-06-30 07:30:57 | 物理学(引用此処から)講義の準備のために以前に購入していた山本義隆氏の『新物理入門』の電磁気のところを一部読んだ。なかなかよくできている。どういう風によくできているかというと帰納的ではなくできるだけ演繹的に議論が進むところだ。よくアマゾンの書評で彼のこの本がすぐれているという人と、もう一方の評価はそれなら大学のテキストとして書かれたものを読んだほうがいいという評の両方があったと思う。予備校での講義だから、微分積分をフルに使っているとはいっても制約がある。だから後者の批評はある程度あたっているかもしれないが、そういう制約のある中でよく書いてあると思う。彼が真剣に書いているということは十分にわかる。物理はもともと実験科学だから、それを理論化するときにどこが一番基本かを言い難いところがあるが、彼はその点を最小限にしているとの印象である。しかし、基本となるところでも理解を十分にすれば、丸暗記はいらないのかもしれないが、それでもある程度記憶しておかなければならないこともあると思うので、その点が十分に簡単化されているかは彼の努力にもかかわらず疑問である。批判的にとられるかもしれないが、批判するのが本意ではない。誰が電磁気を書いても難しいのだと思う。Feynman Lecture(訳書:ファインマン物理学(岩波書店))みたいにはじめにバンとMaxwell方程式を書くわけにも行かないだろうし、それができたら気持ちの上ではすっきりするが、一般の電磁気学ではそれはやはり難しかろう。でもよく整理をされていると思う。もっとも電磁気学のことをあまり知らない私がいうのだから、信用度はとても低いだろうが。(引用此処まで)朝永振一郎「角運動量とスピン」2008-07-02 15:11:17 | 物理学(引用此処から)朝永振一郎の「スピンはめぐる」の新版が出たということを数日前に紹介したが、朝永の量子力学IIIにあたる、「角運動量とスピン」(みすず書房)がすでに出ている。角運動量の章がないと量子力学のテキストとしては不完全だというので、朝永の量子力学の英訳版を出したNorth-Holland社からの申し入れがあったのだろうか、英訳本の第2巻には角運動量の理論が入っていたが、それが日本語版にはなかった。生前、朝永は名著「量子力学I, II」(みすず書房)の続きの「量子力学III」を書こうとして、何回かどこかの旅館に泊り込んで原稿を書いたり、いくつかの大学でその勉強の結果を集中講義したらしい。しかし、ついに「量子力学III」は出版されなかった。しかし、朝永の死後、この「角運動量とスピン」が発行された。角運動量とスピンのみならず、摂動論もそれには書かれている。量子力学の数学的整備についても原稿が準備はされたが、その部分は朝永の死によって未完に終わった。量子力学は角運動量の理論がわかってやっと一人前に量子力学が理解したといえるようになるが、これが始め取りつきにくい。小谷、梅沢編「大学演習 量子力学」(裳華房)の角運動量の章を読むのが、一番簡単だ。が、私など角運動量の合成を理解したのはやっと大学院生のときであった。角運動量の合成について基本的なことはそのベクトル・モデルが理解できればいいと思う。さらに、Clebsch-Gordan係数のところがわかればもっといい。ところが、この係数には文字がたくさんついていてなんだか難しそうである。ある先輩に「これは単に係数なんだよ」と言われてようやく驚かなくなった。もしそういうことを教えてくれる人がいないと理解するのに時間がかかったことだろう。熱心に学べばいつかはそういうことがわかるのだろうが、それにしても自分ひとりでわかるには時間がかかるかもしれない。これは角運動量ではないが、有限群の表現にもそういう種類のことがあって、わかるのに数日かかったことがある。それで自分がわかった後は学生には自分なりの表し方で教えていた。式などをギリシャ文字を使って表しただけで難しそうに感じるものだが、学生などはすぐに拒絶反応を起こす。ギリシャ文字を使って式を表すときには、単に普通のアルファべットで表してもいいのですが、文字がたりなくてとか、慣用的にこう表されているのでとか言い訳をしないといけない。そうはいっても十分ではないことがやはり多い。数学者は花文字のギリシャ文字を集合とか空間等を表すのによく使う。そうすると私などはなんだかわからない感じがするので、これは一般的な反応であろう。(引用此処まで)独創性は少数者にあり2008-07-27 23:30:18 | 学問(引用此処から)昨日、インターネットの理論物理というサイトで湯川秀樹博士の出たテレビの放送の一部が出ていた。それを見ていて直接に湯川博士から聞いたことを思い出した。「独創性をもったものはあくまで少数者である」という信念は終生、湯川博士のもち続けたものであった。物理学の研究においても流行があるが、その流行を追うことを彼はよしとはしなかった。自分がよしとしなかったのみならず、若い学者が流行を追うことを快くは思っていなかったと思う。東大の物理の研究者に違和感を持ち続けたのはそのためでもあったろう。東大ばかりではない。アメリカの物理のその当時の先端をきっていた物理学者のGell-Mannについてもあまり評価は高くなかったと思う。それは一つには道なきところに道をつけたいと思ってひたすら困難に立ち向かっている自分への自負心のせいかもしれない。将来の評価はわからないが、湯川博士の後半生の仕事は実を結ばなかったし、将来に生きるとも現在のところは考えられていない。しかし、それでも自分の信じるところを貫き通すという気概はすごいものがある。天才といわれる由縁であろう。(2024.4.8付記)湯川と呼び捨てで書いていたのだが、いくら歴史上の人物とはいえ、ちょっと私自身が偉そうに思われてもいけないので、博士と敬称をつけた。気持として歴史上の偉大な人物と感じていることはまったく変わらないのだが。(引用此処まで)自発的対称性の破れとカタストロフィー2008-08-26 12:41:37 | 物理学(引用此処から)「自発的対称性の破れとカスプカタストロフィー」というのは私たちが1970年代の半ばに私たちが書いた論文の題名である。もう30年以上も前の短い論文である。そのことなどまったく忘れていたのだが、夢うつつの中で「自発的対称性の破れ」についての「ファイ4乗理論」の話をどうも思い出していたらしい。これは私が自発的対称性の破れの意味をはじめて理解した例であって、本当は南部陽一郎さんの論文を読んで知るべきところをこのファイ4乗理論で自発的対称性の破れということの意味をはじめて知った。私にもわかるようにphysics reportに書かれていたのだ。多分これはAbers and Leeのレビューであったろうか。それを読んでやっと自発的対称性の破れがどういうものかを知ったのであった。大学院を出た後に、基礎物理学研究所に非常勤講師として半年ほど勤めていた頃に所長の湯川先生が自発的対称性の破れという概念は物性から来た概念だが、いまは素粒子で一般化しているとよく言われていた。1968年のことだから、Weinberg-Salamの理論は出されていたはずだが、W-S理論はまだまったく注目はされていなかった。湯川先生にとっても旧知の南部さんが出された重要な概念ということはわかっておられたのであろう。なんどか「自発的対称性の破れは—」とか言われるのを伺った気がする。「Gell-Mann何するものぞ」という感覚の湯川先生だのにこの自発的対称性の破れは新しい概念だということは認識しておられたに違いない。話は違うのだが、ある事情でカタストロフィーという概念を知り、その中で一番簡単なカスプカタストロフィーがファイ4乗理論のポテンシャルと同じ形だということにはすぐ気がついた。それでこのポテンシャルをカタスロフィーの観点から見るとどういうことになるのかというのが、私たちの論文の要旨である。なんてこともない論文だが、特にレフェリーの異論もなく英国の雑誌Proceedings of Royal Societyに載せられた。その論文は共著者の人たちが英文を書いてくれたり、図を描いてくれたりしたが、アイディアはあくまでも私自身のものである。こんなことを言うと共著者のNさんとUさんとがくしゃみをしているかな。ちなみにfirst authorは当時私の上司のA教授だった。共著者のNさんとUさんとが私の置かれた状況を知っていて文句を言われなかったのは有難かった。どうしてこんなことを夢見るのか、今朝の夢うつつの状態の無意識から浮かび上がってきたのか不思議であるが、その理由は特に思い当たるものがない。(2009年5月27日付記) その後、2008年度のノーベル賞を「自発的対称性の破れの発見」の業績により南部陽一郎さんが受賞するとノーベル賞委員会から発表されたのはこのブログを書いてから数ヵ月後の2008年の10月半ばであった。(引用此処まで)問題の解決2008-09-12 11:23:04 | 物理学(引用此処から)これは科学技術に限ったことではないが、問題の解決に至るまでには大きくいって3つの段階がある。第一は問題を設定して方程式を立てるという段階である。これが本当は一番難しい。現実の現象は複雑多岐にわたっているので、それを単純化して方程式にまとめる。これが第一にするべきことである。第二にその方程式を解くことである。方程式を解くというと2次方程式の解の公式で解を求めるというような響きがあるが、方程式によって解を求める手法はいろいろであって、ここもかなり面倒である。それに多大の時間がかかることも決して珍しくない。だが、大学院で学んだことはこの部分はあまり評価がされないということであった。いや評価はされているのだろうが、計算手法が新しく開発されたというのでなければ、前面にその苦労を取り出して述べるということはしない。計算自身が面倒であるということは誰でも知っているにもかかわらず。それはできて当然という感じがある。それで、なんとか解が求まったとしよう。その解をどう解釈するのかということがまだ残っている。この第三段階は第一段階の方程式を立てるところと同じくらいの比重があって、これはきわめて重要視される。私の長男がある計算をしてその結果について共同研究者のY先生にこんな結果が出たのですが、どうしてかわからないと言ったところ、それはこういう原因でこういう結果になったのだろうと言われたといっていた。共同研究者のY先生は数学がわかっておられるわけではないのだろうが、経済を実感としてつかんでおられて数学的な方程式を解いて得られた結果を解釈できるという優れた方だったらしい。それで思い出すのは物理学者のボーアのことである。彼は方程式を解くのではなく、直観的に推測をして物理の研究を進めていたらしい。もちろん、そのときの直観のもとには多くの経験とか考察があったと思われる。もちろん、ボーア先生も間違えたこともあったし、変なことを主張したこともあった。しかし、量子論における彼の直観が大きく量子力学の創設に貢献したことは間違いがない。そういえば、ファインマンの本に引用されている言葉にディラックの「方程式を解かないで理解するときにのみ、その方程式を理解する」とかいうのがあった。いくつもの優れた方程式を立てたり、独創的なアイディアで知られる物理学者ディラックならではの言葉かと思われる。(引用此処まで)一流の湯川、二流の朝永?2008-09-18 10:40:13 | 物理学(引用此処から)このことは実際にあった話で先輩に聞いた。物理学会では若手の夏の学校というのをどの分野でも行っている。今はどうか知らないが、昔は長野県で行われていた。その中の物理若手グループの一つ「素粒子・宇宙線・原子核」のグループの夏の学校で講師に湯川先生を呼ぶということが企画されたという。そのとき当時夏の学校が行われていた木崎湖畔の村長が湯川さんが来てくれるというのでとても喜んだという。村の文化度が一気に上がるとでも思ったのだろうか。ところが、何かの都合で湯川さんの都合がつかなくなったらしい。それで計画を立てている若手の事務局としては急遽、当時学会では世界的な業績をあげていた朝永さんに白羽の矢を立てて、そのことを村長に告げたら、村長いわく「一流の湯川でなく、二流の朝永を呼ぶのか」とお冠だったという。その村長がいつまで生きられたかは存じないが、もし1965年まで生きていたら、二流(?)の朝永がノーベル賞を受賞するというニュースに驚いたに違いない。この夏の学校が何年のことかは聞かなかったが、多分1955年(昭和30年)ころのことであろう。50年以上も前の話である。こんな話がこのブログでされているのを見たら、元村長さん、泉下でいまごろくしゃみをしていることだろう。(引用此処まで)南部、小林、益川博士のノーベル賞受賞2008-10-08 12:40:47 | 物理学(引用此処から)2008年度のノーベル物理学賞に南部、小林、益川の三博士の受賞が報道された。昨日は夜テニスに行っていたので、私の友人の物理学者から電話を妻が受けたということでこの事実を知った。南部さんはノーベル賞に値するといわれながら、QCDの受賞者が出たときにもう南部さんは受賞できないかと私も思ったが、ちゃんと受賞できたことはとても喜ばしい。「対称性の自発的破れ」というのが彼の受賞理由だが、これはなかなかわかりにくい概念であった。だが、これが現在の素粒子理論の基礎をなしている。このブログでも内容は触れていないが、1回か2回取り上げている。小林、益川両氏は「CP対称性の破れ」が受賞理由だが、一般には4つのクォークからクォークを6個に増やした研究者として知られており、彼らのミキシング角はCKM角として知られている。素粒子のテキストではCKM角とかCKM行列というのはもう標準的で固有名詞だという意識もないくらいである。私は益川さんとは若い頃からの知り合いであって、彼は気配りの細かで、かつものごとに臆しない感じの人である。小林さんは歳が少し違うのでそれほど親しくはなかった。しかし、二人がノーベル賞を貰うのは時間の問題だと思われてはいたが、それにしてもかなり時間がかかった。これは南部さんにはもっとそうであろう。テレビで見たら、益川さんはやはり昔の性質そのままで飾らないところがいいと思った。彼はあまり英語が得意でないことは有名で、今回も選考員会から電話も日本語で通訳があったとのことである。でも英語が得意でなかろうが、どうであろうが、受賞できたことはおめでたい。(引用此処まで)武谷三男の処女論文2008-10-10 13:20:43 | 科学・技術(引用此処から)あれほど早く終わって欲しいと願っていた仕事が終わってみると、なんだか空虚に感じる。確かに自分のやっておきたい仕事ではなく、浮世の義理で仕方なくやっていた仕事ではあるが、この半年以上没頭してきたので、その空白を埋めるための気持ちを取り直すためにはしばらく時間がかかりそうだ。昨日から物理学者、武谷三男の「業績リスト(第2版)」(注:『素粒子論研究』116-5 (2008.12)に掲載)の仕上げにとりかかっている。これは基本的には作業が終わっている仕事ではあるが、見直しや手直しをしようというのである。新しい成果も盛り込まれている。武谷は台北高校に在学中に貝類の化石の収集に台北大学の早坂先生とか丹先生と調査旅行に何回か出ている。そしてそれをまとめて論文にした。この英訳は台北大学教授だった早坂先生がされたらしいが、それが1936年にその当時武谷が在学していた京都大学の専門家の校訂を経て、発表された。これが武谷の処女論文である。日本の地学学会の雑誌に出たとばかり思っていたので、しきりに日本の地学学会の雑誌を調べてみたが、それにあたるものが見つからなかった。英語でTaketaniと入れてあるときにgoogleで検索をしてみたら、台湾のある博物館か何かのところにその論文の題目が出ていた。そのPDFファイルはパソコンに取り込めそうだったのに、自分では取り込めなかった。それでその関係者にメールを出してPDFファイルを送ってもらうように頼んだところ、Wu教授がそのPDFファイルを送ってくれた。Wu教授のご親切に感謝したい。(注)「武谷三男博士の著作目録」の方は第4版が最新のものである。第2版までは冊子体の『素粒子論研究』に発表したが、第3版と第4版は『素粒子論研究』の電子版に掲載されている。武谷三男博士については「武谷三男博士の業績リスト」と「武谷三男博士の著作目録」を私がつくっている。「業績リスト」は第3版が最新であるが、「著作目録」の方はすでに第4版まで公表している。こちらの方は第5版を出す必要があることが判明しているのだが、まだその準備はしていない。 詳しくは検索をしてみてください。(引用此処まで)高瀬正仁著『岡潔』2008-10-27 11:42:29 | 数学(引用此処から)岩波新書の新著である高瀬正仁著『岡潔』を読んでいる。岡潔は数学の多変数関数論の分野ではよく知られた巨人である。「岡の前に岡なし、岡の後に岡なし」といっていいくらいの数学者であるらしい。昨今の数学会のノーベル賞ともいわれるフィールズ賞は40歳以前の数学者に与えられる賞だが、これらの賞には無縁だったが、天才というにふさわしい人である。もちろん岡が数学にのめりこんで没頭したことにより、岡の社会的、世間的な評判はあまりよくない。奇行や失跡等があった人である。だが、その数学的天才はまごうことがなかった。昔、私は誰かに言ったことがあるが、「彼くらいの才が私にあるのなら、なんと言われても私は意に介さない」と。ただ、こういった天才のまわりにいる人はつきあうのは大変だったろうなと思う。高瀬の『岡潔』は抑えた調子でこの岡の様子を書ききっている。数学の言葉は出てくるが、式は一つも出てこない。私は1変数の関数論でさえ理解が十分でない方だが、その雰囲気はよく伝えているのではなかろうか。数学者の伝記を書くのは難しい。それは内容が普通の読者に理解が簡単にできるようなものではないから。普通なら世間的な数学者の奇行とか何かに重点がおかれてしまい、数学の内容への言及は少なくなってしまうのだが、この本には言葉で意を尽くすことができないかもしれないが、その数学的な内容を伝えようとしている。残念なことは岡の跡を継ぐ、多変数関数論の学者が世界的にいないらしいことだ。岡潔の数学的な問題意識が消えて誰にも受け継がれていないことが描かれている。もう、日本にはそのような社会的余裕はまったく残っていないのだろうか。現代社会における効率化の弊害は大きい。(217.7.13付記)多変数関数論が応用上も将来において重要であろうというのが岡が多変数関数論を終生のライフワークにした理由であったろうが、いろいろな事情でそれが実現はしていないらしい。それと同時にやはりとてもこの分野が難しいことが挙げられるのであろう。残念なことだが。(2023.6.12付記)岡潔についての表現を一部改めた。ご本人に対して失礼であったとの考慮からである。前にはうっかり書いてしまい、気がつかなかった。お詫びをしてすむことではないが、お詫びをしておく。(引用此処まで)Fermi solution2008-11-17 11:41:53 | 物理学(引用此処から)Enrico Fermiは物理学者である。それも実験と理論の両方にまたがって偉大な業績をあげた類まれな物理学者である。現在では多分理論と実験にわたって才能を発揮するというような芸当は多分できない。Fermiは中性子が減速されてその核反応の断面積を大きくするということを発見してノーベル賞に輝いた。その後イタリアからアメリカに移住して世界で始めての原子炉の設計と運転に成功した。また、理論ではベータ崩壊の理論をつくったことやFermi統計で有名である。そのFermiはまた独特の考えの持ち主であったが、その一つにFermi Solutionと言われるものがある。同名の本は誰かの物理学者が書いているのだが、その中の一つとしてシカゴ市のピアノ調律師の数を推定するというのがある。詳細はよくは覚えていないのだが、シカゴの人口からピアノを習っている人の数を推定し、またピアノの調律を必要とするピアノの数を推定して、そのピアノ数に対してピアノ調律師の数を推定するというものであった。最近インターネットでその話をどこかでちらっと見たような気がするが、定かではない。昨日用があって本棚の中を探していたら、そのFermi Solutionの本が出てきた。読み返した訳ではないが、その話の記憶がよみがえってきた。これはいわゆる数学の問題ではないかもしれないが、人が何かを推測をしたりするときには必要な考えであろう。数理統計等でこの頃重要なのは推計学だとか聞いているが、この考えに近いのかまったく違うのかは知らない。それにしてももっともらしい推定をしてシカゴ市のピアノ調律師の数を推定するという独自の方法はなかなか興味深いものがある。この方法は別にピアノ調律師の問題だけではなく、現在問題の経済の問題解決とかその他に応用が広いからである。(引用此処まで)地位の上下からの解放2008-12-11 13:20:13 | 物理学(引用此処から)昨日、NHKのニュースで名古屋大学の物理教室の上下の地位を気にしない議論とか先生といわないという習慣について報道があった。これは別に名古屋大学だけのことではない。素粒子論分野では常に教員に対しても先生とは呼ばない。また教員が普通には呼ばせない。先生と呼ぶのは伝統的に湯川、朝永、坂田、武谷といったかつて大ボスといわれた人たちだけでそれ以下の人たちは先生とは呼ばないし、教員自身が学生や目下の者たちに呼ばせないのが普通である。この伝統がいつ起こったかについては諸説があるだろうが、朝永先生の高弟であった、木庭二郎さん以来の伝統というのが多分正しいのであろう。木庭さんは長らくコペンハーゲンのニールス・ボーア研究所の教授だったが、ヨーロッパで出会った、自分よりも若い研究者にも先生とは呼ばせなかったという。しかし、そういう風習は別に木庭さん一人がつくり出したものではなかろう。第二次世界大戦後の日本の素粒子論グループに普通に行われていたことである。現に私の先生の一人だった、Oさんも自分のことを先生とは呼ばせなかった。京都大学で小林、益川のノーベル賞受賞記念の集会があったときに、京都大学基礎物理学研究所の九後さんが益川さんの紹介のときに益川先生と先生という言葉を使ったら、「コラッ」と益川さんが言って、「益川君と呼べ」と叫んでいた。まさか益川君とは言えないので、九後さんは益川さんと言い換えていたが、それがテレビに放映されていた。益川さんの、この気魄と学問の上で上下なしという強い意識はまさに地で行く教育である。(引用此処まで)素粒子の宴2009-01-05 11:42:01 | 日記・エッセイ・コラム(引用此処から)私の仕事はじめは今日1月5日である。長かった年末年始のお休みも終わり今日から仕事を再開する。1月2日に兄の家に行き、親戚とひとときを楽しんだ。年末には今まで何年かたまっていた古い年賀状を裁断機にかけるように仕分けをした。それでもかなりの古い年賀状が残っているが、これは私の先生等からの私信を含んだものであり、保存しておきたいものである。南部陽一郎さんとPolyzerの30年ほど昔の本「素粒子の宴」の新装版を読んだ。これは以前に購入したのだが、友人の家に置き忘れたので、それは友人に寄贈したので自分ではもっていなかったものである。この本は二人の対話と編集者の南部さんへのインタビューから成り立っているが、南部さんがRegge pole モデルにはそれほど期待をかけていなかったことを知って意外な気がした。南部さんの思考法は同じような法則が成り立つときにはそれに共通な実体があるだろうというものだそうで、これは実は坂田昌一氏の得意とした思考法でもある。式の計算等もそれ南部さんは上手なのではあろうが、彼の特色はそこにはなくむしろ「形の論理から物の論理へ」といった坂田流の思考が特色らしい。ただ、この書は1979年に発行されたもので、さすがの南部さんもその当時は小林、益川のCPの破れの論文はあまりご存知なかったようである。この当時の彼の日本の物理学会の評価があまり高くなかったような雰囲気が感じられる。(引用此処まで)西島和彦さんの死去2009-02-19 11:41:31 | 物理学(引用此処から)西島和彦さんが2月15日に亡くなったと新聞報道で見た。NNG(中野・西島・ゲルマン)ルールで有名な方である。西島さんはイータ電荷と量子数に名前をつけたのだったが、これ現在ではストレンジネスという名の量子数として知られている。Q=I_{z}+Y/2(Yはハイパーチャージ)の規則がいわゆるNNGのルールだが、強い相互作用ではストレンジネスSは保存されるが、弱い相互作用ではストレンジネスは保存されないという発見である。これが宇宙線中に見つかったV粒子の振舞いを説明した。どうも素粒子の分野から離れて時間が経つので、記憶があいまいだが、こんなことだったろうと思う。しかし、私が大学院生だった頃に勉強した彼の著作Fundamental Particles(Benjamin)の方の印象が強い。その後これをもっと場の理論的に取り扱ったFields and Particles(Benjamin)もよく計算に参照した。わかりやい著作を書く人で、場理論の専門家というイメージのほうが強い。その後、紀伊国屋から「場の理論」いう本を出されているが、これは値段が1万円近くしたと思うのでもっていない。NNGルールから坂田モデルを経て、私の先生たちの業績であるIOO対称性に行き着く。これがゲルマンのクォークモデルへとつながっていき、現在の素粒子の標準理論を形成している。もちろん、南部の自発的対称性の破れの概念を取り入れたゲージ理論であることが重要なのであるが。(引用此処まで)Feynman & Hibbsの積分公式2009-03-26 13:58:01 | 物理学 (引用此処から引用此処から))「Feynman & Hibbsの積分公式」とはFeynman & Hibbsが著した本「経路積分と量子力学」(みすず書房)の最後にある定積分公式の意味である。この定積分公式を全部を導出していないとこのFeynman & Hibbsの本を読むことができないということはないのだろうが、やはり読んでいる途中で数学的計算でつっかえるのは好きでないので、これらの公式を証明しておきたい。ということで、公式のいくつかはSchulmanの本を参照して証明をしたのだが、まだ5つだけその導出法がわからないのが、残っていた。その内の一つをこの数日計算していたのだが、どうも計算が合わないので簡単な微分積分の計算が間違ったと思って数日心が暗かった。そのうちにどうも原著の方にミスプリがあるのではないかと思って岩波「数学公式集I」を調べたら、やはり私の計算は間違っていなくて原書がミスプリらしいことがわかった。それで公式の一つは導出がわかったのだが、後まだ導出法のわからないのが、4つも残っている。そのうちのまず2つが何とか導出できないか考えて見よう。同じような有用な定積分公式というのがRyderのQunatum Field Theoryにあるが、これは証明つきであってその証明は昨夜確かめることができた。(引用此処まで)木庭二郎さん2009-04-10 16:13:19 | 物理学(引用此処から)今日の朝日新聞の「素粒子の狩人」という欄に木庭二郎さんのことが出ていた。いわゆるマスコミ的には有名な人ではなかったが、戦後の素粒子論研究者の中では実力者の一人といわれていた。有名な朝永振一郎の「くりこみ理論」の建設に重要な一翼を担ったことで知られている。東京高校の学生であったときに、その政治的な活動のために学校を追われ、その後高校の入学資格をとるために山形県の商業学校を出て山形高校へと進学し、東京大学の物理学科へと進んだ。獄中にあったときに肺結核を発病し、その後大学の在学中にもその病のために休学を余儀なくされ、1945年にようやく大学を30歳で卒業されたという。卒業直前の数年間はいわゆる朝永スクールの一人として朝永さんの指導を受けた方である。その後、大阪大学の助教授を経て京都大学の基礎物理学研究所の教授となり、研究所の任期が終わってポーランドの研究所へ行き、その後デンマークのボーア理論物理学研究所に落ち着き、そこで亡くなった。59歳だったと思う。それもイタリアの物理の夏の学校かなにかの講師として行くためにコレラかなにかの予防注射を受けたのが、古い病気を引き出して亡くなったと聞いている。昨年ノーベル賞をもらった益川さんが学生に「自分のことを先生とは呼ばさない」ということで一般には有名になったが、その慣習を作った一番初めの研究者であるといわれている。研究を一番優先されて雑誌や新聞にエッセイ等を書くこともほとんどされなかったという人である。これは彼が肺結核を患っていたので、自分のできることを研究第一に絞ったからであった。文芸評論家の中村光夫は彼の実兄であり、二郎というのだから木庭さんは次男だったのだろう。私には「中間子の多重発生」の研究者としての彼の印象が強い。これは私が生まれてはじめて物理の研究に関心をもった領域がこの中間子の多重発生であったということによっている。木庭さんと高木修二さんが書いた中間子の多重発生についてのレビュー論文の別刷りをO教授からもらって読んだのは私が修士課程のころであった。残念ながら、事情で「中間子の多重発生」の分野の研究論文を書くことは私にはなかったのだが、そのことを思い出すと懐かしい。木庭さんは謹厳実直でまじめな方であったらしいが、その門下生のニールセンは天才的な学者といわれている。また、木庭さんは外国語の堪能な方で一番上手なのはロシア語であると私の先生のOさんから聞いていた。つぎに上手なのはドイツ語であったと聞いた。これは病の床に長年伏しているときに外国語を勉強されたことによるとか。それにしても木庭さんが病気で伏せっていたころはあまり外国語の学習に適した時期ではなかったろうに、なかなか天才的なところがある。南部陽一郎さんも最近の著書『素粒子論の発展』(岩波書店)で木庭さんのことに触れている。大学の入学年は南部さんと同年だったらしいが、木庭さんの卒業は病気のために南部さんよりも数年遅れた。しかし、多分木庭さんの方が南部さんよりもなお数年は年長だと思う。(2014.2.28 付記)このブログにアクセスがあったので、文章に追加をしたり、一部を書き直した。木庭さんには会うことはなかったが、多くの人の記憶に残ってほしい学者の一人である。(2018.3.12付記) このブログにアクセスがあったので、文章の意味があいまいだったところを修正した。岡部昭彦さんの著書『科学者点描』(みすず書房)に木庭二郎さんのことが書かれている。(引用此処まで)聞かせてよ、ファインマンさん2009-04-22 18:59:05 | 物理学(引用此処から)「聞かせてよ、ファインマンさん」(岩波現代文庫)を購入して見たら、これが「ファインマンさん ベストエッセイ」を改題したものであった。もっとも前の本を買ってもっているかは書棚を調べて見ないとわからない。それはともかくこれは“The pleasure of finding things out”という本の翻訳であり、英語の原著はもっていて読んだ覚えがあるが、どうも英語で読んだので印象が薄かった。この本にはDysonの序文がついていてこれがなかなか泣かせる名文である。それを読むだけでもこの本を買う価値があろう。もっともこの序文を読むだけなら書店で立ち読みでもすませることもできる。編集者はしがきには「ボーズ・アインシュタイン凝縮」の新しい現象の発見の講演を聞いた編集者の胸のときめきを書いている。その注によって私は「ボーズ・アインシュタイン凝縮」のことをはじめて知った。言葉としてのボーズ・アインシュタイン凝縮は知っていたが、内容は知らなかったのである。ということはpion condesationとかquark condensationとかいわれるものも同種の現象だろうか。説明によればボーズ・アインシュタイン凝縮とは絶対零度の近くで冷却された多くの原子が動きを止め、一個の粒子のように振舞う現象だという。そういえば、30年以上昔にドイツでScheckという学者からその当時pion condensationが未解決の問題だときいたが、pion condensationについて辞書的な意味でも調べて見ることもしなかった。なんという好奇心のなさなんだろう、私は。物理の世界ではすでにpion condensationについては解明されていることだろうが、そのことさえも知らない。と書いてあわてて理化学辞典を見に行った。1998年発行の理化学辞典第5版ではまだ理論的な予測の域を出ていないとあった。星のうちで中性子だけからできた中性子星での理論的な予測であるとのことである。中性子だけからできている星は高密度の星でこれは原子核の密度よりも大きい。昔講義で原子核の密度を計算してみたことがあるが、1ccに1億トンが詰まっているくらいの密度だったろうか。それよりも中性子星は密度が高いと考えられている。(引用此処まで)日本と外国との乖離2009-05-13 14:10:44 | 学問(引用此処から)いや日本と外国との乖離乖離とおおげさに言うほどのことではないのだろうか。武谷三男博士の業績を調べたりしているうちに外国の物理学史の研究者が武谷とか坂田とかはたまた湯川とかのことを研究して論文や書籍にしていることを知った。日本ではこれらは方はもう亡くなってからかなり時間が経つので、忘れ去られようとしている。そうはいっても湯川はノーベル賞を日本人としてはじめてとったスパースターだから、議論する人はいるし、坂田も昨年末にノーベル賞をもらった小林、益川の先生にあたるから、思い出す人も多い。ところが武谷になると彼が亡くなってからまだ10年目だというのに日本では思い出す人はほとんどいなくなっている。だが、L. M. BrownとかM. F. Lowとかドイツの科学史家である、Rerchenbergとかは湯川や坂田、武谷のことを研究して論文にしたり、本として出版したりしている。これは日本人の悪い癖ではないだろうか。外国で評価されたり、話題になったりしないととりあげない。私が武谷の論文リストをつくったり、著作リストをつくったりしてもそれを評価してくれる人はいないとは言わないが、少ない。一方、外国の研究者の科学史の論文だが、大きなところでは間違いはないのかも知らないが、細かなところではやはり間違いがあったりする。そういうところを埋める研究が必要な気がする。こんなことをここ数日感じている。(引用此処まで)広重徹の武谷批判2009-05-21 12:35:20 | 学問(引用此処から)広重徹の「科学と歴史」(みすず書房)の中の「科学史の方法」のところを読んでいる。この中で広重徹は武谷三段階論を科学の研究の歴史に基づいたものではなく自然の論理としても科学の歴史としても間違っているといっている。間違っているという言い方はちょっと言い過ぎかもしれないが、武谷三段階論はどうも歴史に即したものではなく、また三つの段階の間の移行の契機がはっきりしないというようなことらしい。これはまだ印象の段階なのだが、もっときちんと広重の言っていることをつかむようにしなければならないだろう。昔、広重の武谷批判を読んだときにそれなりに納得した気になったものだったが、だが広重は新しいアイディアを出してはいないと思った。広重の言うことは個々には間違いがないのかもしれないが、夢とかロマンがないという不満である。少なくとも人をひきつける要素に欠けている。科学史の研究は夢とかロマンとかドグマを与えるものではないといわれればその通りかもしれないが。その後、武谷の広重に対する反批判も読んだ。一部は「もっとも」と思うところもあったが、全部が「もっとも」と言えないのではないかと思った。この二人の議論から何を得るのか。これは自分の立場をはっきりさせることになるのだろうか。そういえば、大学院の頃、O先生は広重が個別科学としての物理学の研究をしていないために「研究のあや」がわからないというような批判をしていたように思う。科学史をやっていない普通の物理学者には伏見さんにしても南部さんにしても武谷三段階論を方法論というか世界観としてはそれなりに評価していると思う。それは考え方であって、かならずしも科学史の成果とは捉えていないと思う。このごろ、科学史の研究者として一般に評価されている、山本義隆氏の本などには武谷の名前などは全く出てこない。これは科学史研究としては広重風の意味では武谷三段階論はあまり評価できるものではないということを示しているのだろうか。もっとも山本義隆氏が科学史研究者の中で評価されているのかどうかはわからない。すくなくとも山本氏は広重とは違って武谷三段階論のような考えに囚われなかったということだろう。(引用此処まで)広重徹の武谷批判をどう考えるか2009-06-06 11:41:32 | 物理学(引用此処から)「広重徹の武谷批判をどう考えるか」を広重の「科学史の方法」と題したエッセイを読んで考えていたが、なんとかこれに答える道を考えついたように思う。もっとも細部はまだ考えなければならないのだが、主にどう考えるべきかということのヒントを得たという気がしている。少し、気が落ち着いた。このところどう考えるべきかで悩んでいたので。もちろんこれが間違っている可能性もないではないが、どうも広重の武谷批判を読んでいて細部にはそうだなと思い当たるところがあるのだが、全体としてはあまりすっきりしなかった。武谷三段階論をすべてを否定してしまってはロマンがないし、そうかといって広重の批判のいうことには細部ではそうかもしれないなという気がしているから始末が悪かった。あまりに困ったので、知人のS先生にメールを送って示唆を得ようとしたのだが、S先生からは明確な方向は得られなかった。感じとしては私の感じ取っていたような感じをやはりお持ちなのだとわかった。このごろは安孫子さんという物理学者がやはり広重の武谷批判を取り上げて議論されているようなのでそちらも読んでみなければならないが、ひょっとして同じような見解に達しているのかもしれない。(引用此処から)『朝永振一郎著「量子力学」の研究』2009-06-13 12:37:07 | 物理学(引用ここから)『朝永振一郎著「量子力学」の研究』を東大物理の図書室から借り出してもらった。長年どんな本かと思っていたのだが、朝永の『量子力学 I, II 』(みすず書房)を徹底的に追求した本である。以前に、出版社の創栄出版に問い合わせたのだが、私費出版だったとかでこの本を入手することが出来なかった。朝永の量子力学中の式を徹底して計算したり、説明を加えたりしているのだが、計算が少し面倒な感じがする。これはまともに式を計算をするとこうなるので、しかたがない(しかし、計算にもう少し工夫ができないものか)。また、この本は500ページを越える大作なのでミスプリントも多いようである。だが、それがこの本の価値を低めるものでないのはもちろんである。参考にした本も多い。それらの参考文献には私のもっている本もあるが、全く見かけたことのないものも含まれている。そして、その参考文献も著者と書名はあるが、出版社名とか出版年代がなく、文献としては不完全である。いや、これほどの大著を書けば、少々の不完全さは仕方がない。この本が多分著者の土屋秀夫さんの周りの知人や友人に配布されただけで、多くの人には読まれていないだろうことは推察される。残念である。このままの形では出版には馴染まないかもしれないが、改訂して出版されたらと思う。改定したいことはつぎのことである。(1)記号を工夫して計算が、できるだけ万里の長城風であることの改善(2)ミスプリをなくす(3)文献の不備を補う(4)式の入力をLatexでして見やすくする等である。土屋秀夫さんは東大工学部化学工学科を1971年に卒業された方であることが本書からわかった。私よりも年長の方と思っていたが、私よりも8-9歳は若い方らしい。とはいっても、もう60歳は越えておられる。(引用此処まで)遠山啓と武谷三男2009-06-25 14:34:15 | 学問(引用此処から)昨夜から武谷三男の「哲学はいかにして有効さをとり戻しうるか」をメモを取りながら読み始めた。まだ前半も読み終えていないのだが、彼は理論が危険を冒すことによって鍛えられるということを強調している。そこには哲学者が危険を冒さないでそのためにいつまで経っても科学を進めるのに役に立たないことに苛立ちがある。他方、雑誌「数学教室」のシリーズ「いまこそ遠山啓を語る」では7月号に井上正允さんが教育学者から聞いた話として遠山が戦後の「生活単元学習」を激しく批判し、居並ぶ教育学者を前に「抽象的な教育論ではなく、具体的な教科について語れ」と喝破したとき、教育学者は誰一人として反論ができなかったということを書いている。これがいつのことだったかはわからないが、戦後まもなくのことであろう。これは武谷のエッセイとはまったく別のコンテキストであるが、発想にはいうまでもなく並行性が感じられる。哲学や方法論の有効性をあまり強調すると有効性だけがとりえだと主張するのは学問の本質から外れるとの批判 (広重の武谷三段階論批判のように) が出るが、抽象的な議論に終始してまったく役立たない教育学に愛想をつかした、遠山さんの苛立ちは分かる。遠山は1909年生まれで、武谷は1911年の生まれである。二人とも学校嫌いだった。それで二人ともほとんど独学的である。武谷の方は生涯を通じて教育に違和感をもったが、遠山は逆に教育に関心をもった。だが、それも学校教育に肩入れをするというよりも独自の塾教育というか、独自の教育を目指した。(引用此処まで)四元数の発見への道2009-08-04 12:12:07 | 数学(引用此処から)四元数の発見への道の説明がスティールウエルの「数学のあゆみ」下巻(朝倉書店)にあると数理科学8月号で読んだ。私の前に書いたエッセイ「四元数の発見」(愛数協の「研究と実践」掲載)とどうちがうかと思い、E大学の図書館でこの本の該当箇所をコピーしてきた。昨日このコピーを読んだところでは一部数論で知られていたことをハミルトンが知らなかったというような説明があったが、肝心の四元数の発見の説明では私の記述のほうが詳しいと思う。私の説明はハミルトンの論文の解読であるから、これは当然かもしれない。もっとも捉え方のキーポイントは私とスティールウエルとでまったく同じであった。堀源一郎さんの「ハミルトンと四元数」(海鳴社)ではこの部分を1843年のハミルトンのノートの訳で置き換えている。この訳の解明もほぼ済んでいるので、私の「四元数の発見」という2008年2月に書いたエッセイを補強することもできるが、さてどうしたものだろうか。堀さんの本のハミルトンのノートの訳には詳しい計算等がでているが、これはその後のハミルトンの論文には出てきていない。四元数の発見のノートからはハミルトンが四元数を複素数とのアナロジーで追求してきたことがわかる。その点を追求してまた新たなエッセイを書いてみようかと思っている。ただ、私は球面三角法の導出にも最近関心をもっているのだが、この四元数が球面三角法の導出にも使えると知って関心が深まっている。この点については堀さんの本にも詳しい説明があるようである。(2013.6.23付記) その後、四元数については現在サキュラーの「数学・物理通信」に連載している。最初は2011年9月の1巻9号から書き始めて、1巻11号、2巻1号、2巻2号、2巻5号、3巻1号、一番最近では2013年3月の3巻2号まで書き進めている。これらは「数学・物理通信」で検索をすると名古屋大学の谷村さんのサイトに出くわすのでそこで見たり、またダウンロードすることができる。なお、この連載は続ける予定である。(2014.1.6付記) 四元数に連載のエッセイは2013年12月の「数学・物理通信」3巻8号まで断続的に続いている。この連載もそろそろおしまいにしたいところである。別に自慢するという訳ではないが、四元数の発見の経緯とか四元数と回転とかについて突っ込んで議論したつもりである。(引用此処まで)くりこみの意味2009-08-19 13:00:40 | 物理学(引用此処から)くりこみの意味がK. G. Wilsonによってはっきりしたと、つい先日南部陽一郎さんの「素粒子の発展」を読んで知った。K. G. Wilsonが臨界現象の臨界指数をくりこみ群を使って計算をして、業績をあげてその後ノーベル賞をもらったことを知っているが、彼の業績がそういう意味をもっていたとは思わなかった。もう40年以上昔にちょっとそれを勉強しようとしたのだが、まったくわかならないままとなってしまった。くりこみ群の提唱者の一人である、Petermenのレビューを読もうとしたのを覚えているが何を言おうとしているかまったくわからなかった。ごく最近になって、10年前くらいの「数理科学」の記事「くりこみの地平」を読んだが、それはよく分かったとはいえないが、おおよそはわかった。これはHal Tasaki(田崎晴明)さんが筆者の一人に入っていて明確に書かれていた。この人はなんでも明確に考えるという思考の持ち主で優れた物理学者の一人である。さらにくりこみ群についてHal Tasakiの書いた、「パリティ」の記事もあるようだが、これはまだ読んでいない。朝永振一郎がくりこみ理論を提唱したときには、彼はまだ本物の理論ではないと思うといっていたが、そうすると「くりこみ理論」も単なる間に合わせの方法だとはもう言えないのだろう。(引用此処まで)量子力学の完成はいつか2009-08-24 17:41:44 | 物理学(引用此処から)普通には量子力学の完成は1925年のマトリックス力学の提唱やDiracの非可換な代数の代数の発見とかまた1926年のSchr”odingerの波動力学によって量子力学は数学的に完成したといわれる。ところが、量子力学の数学的な完成の一方の立役者の一人である、HeisenbergやBohrは1926年に至ってももう一つ量子力学が腑に落ちてはいなかった。そのため量子力学の理解のための必死の研究が続けられ、1927年のHeisenbergの不確定性関係の発見とBohrの相補原理の発見またはやはり1926年に提唱されたBornの確率解釈によってはじめて、その方向での研究が一段落をしたのであった。いま、問題にしたいことはこれを武谷三段階論で見るとどういうことになると考えるのだろうかということである。広重徹のように考えると1925年あるいは1926年の段階では量子力学は完成していなかったということになろうか。だが、普通にはやはり1925年または1926年が量子力学が出来上がった年と考えるのだと思う。それらは確かに水素原子のエネルギー準位を正しく再現することができたのだから。だが、人間は単に正しい方程式が導出されて、それから実験が確かめれても粒子性と波動性の相克のために心から納得できたとは考えなかった。電磁場の本性についても同様なことがあったと考えるべきであろう。そうだすれば、そういうものの分かり方をどういう風に位置づけするのがよいのであろう。これは武谷三段階論で扱えないのではないかという難問が出てきている。(引用此処まで)再、広重徹の武谷三段階論批判2009-09-19 13:45:03 | 物理学(引用此処から)前にもこの標題でブログを書いたが、今日は最近の私の知見である。広重は武谷が三段階論によって実体の導入ということを方法論の中心にしたのに、中間子論や二中間子論においてその重要性に言及していないという。すなわち、方論的先取に失敗したという。そしてそのことは三段階論が歴史的な法則としての資格を欠くこと、特に三つの段階間の移行の論理を欠くことと結びついているという。特に興味ある試みとして二中間子論に注意を促していないから、方法論的先導性が否定されるという。この広重の意見を一度否定する見解でエッセイの草稿を書いたのだが、文献的には広重の言うように二中間子の重要性に触れた武谷の書いた論文は見あたりそうにないので、事実としては広重の主張を認める見解に変えるのが正しいのではないかと思うようになった。ところが昨夜、1943年9月に行われたという中間子討論会の記録である、素粒子論の研究 I を取り出してみたら、この討論会では坂田と谷川によって二中間子のことが述べられており、武谷自身は中性中間子について報告をしている。それで、もちろんその中性中間子の議論の中で二中間子論についての言及はないが、普通に考えればこれは坂田と谷川の報告があるからであろうと推測がつく。その後1945年までの間には戦争中であったということもあって、雑誌とか何かもきちんと発行されなかった。それに食べるものに困って、人々が生きるのに精一杯だった。また、思想言論統制もあっただろうし、思想言論統制だけではなく武谷自身の特高警察による4ヶ月にわたる逮捕拘置もあった。そういう状態ではなかなか意見表明は難しかったろう。敗戦後も二中間子の実験的な発見が1947年春になされるまでに、確かに二中間子論についての言及はないが、むしろこの点についての考察が必要なのではないかと思いはじめている。それはそれなりの理由があるとの見解である。だが、もちろん広重の見解をなぞるようなものではないつもりだ。この間にも武谷はきちんとした職にはついておらず、東海技術専門学校(東海大学の前身?)に教えにいくとか、文筆で食べていたという。ちなみに武谷が名古屋大学から学位を受けるのは1949年1月である。さらにその後、立教大学理学部の教授となるのは1953年4月のことである。(引用此処まで)」解析接続2009-11-18 10:49:18 | 数学」(引用此処から)解析接続とは例えばJRの電車の他の線への接続みたいな用語だが、ちょっとちがう。高木貞治の名著である、『解析概論』(岩波書店)では解析接続のことを解析的延長(analytic continuation)といわれている。私は「解析接続とはある領域で定義された関数を他の領域に拡張することだ」と考えているが、これが本当の理解なのかはよくはわからない。その解析接続について解説したサイトがあるのを最近知った。説明は初等的なのだが、ちょっと眼からうろこが落ちたという感じがした。その記事のコメントに「解析接続は無限級数の和をとる以外にもありそうですね」とあった。これはその通りでいくつかの方法がある。ところがその例をあげた本が少ないように思う。サイトの著者に私の知っていることを述べ、「これについて調べてくださいませんか」とコメントをしたのだが、この人も会社勤めで忙しそうだ。だから自分の問題意識は自分で解決する以外に道はなさそうだ。解析接続はこれからリーマン面が導入されたりするということで、大事な概念らしいが、初等的な関数論(このごろは関数論は複素解析というらしい)の本にはあまり載っていない。能代清先生の本に『解析接続』(共立出版)と題する本があるのだが、この本は古本で2万円の値がついていた(付記参照)。もっとも私はこの本の旧版(岩波書店版)をあるところで本当に安く手に入れたのが、これがまた古くて本でカビが生えそうな本でなかなか読む気が起きない。(2013.12.25付記) この能代先生の上記の書の比較的新しい版もあるとか聞いていたので、いつかE大学図書館に立ち寄ったときにその書を開いてみたが、どうも解析接続の例示が十分ではないという判断をした。これはこの書をちらっと見ただけの話なので、間違っているかもしれないが、多分その評価は間違っていないと思う。 (2023.3.2付記)この後にも解析接続のことについてはこのブログに書いたことがあるが、解析接続の方法について述べた書籍は金子晃さんの『複素関数論講義』(サイエンス社)と松田哲さんの『複素関数』(岩波書店)が詳しいことを知ってほしい。もっとも、もっと豊富な例を書いた書籍とかエッセイがほしいところではある。それはその問題意識をもっている私自身がこのことをエッセイに書くしかないのかもしれないなどと思うこのごろである。(2023.12.14付記)能代清『解析接続入門』(共立出版)は他に類書がないので、よく読んでみる必要があるのではないかと思っている。(引用此処まで)続、広重徹の武谷三段階論批判2010-05-18 12:00:52 | 科学・技術(引用此処から)そろそろ8月の徳島科学史研究会での発表の準備をしなければならない、時期になってきたので、昨年読んだ広重徹の武谷三段階論批判の続きを読み始めた。彼の著書「科学と歴史」(みすず書房)の最初の論文「科学史の方法」の前半を昨年読んでそれに対する考えを昨年まとめたのだが、そのときにはむしろ私は途中経過では広重の評価について揺れ動いたが、最後には広重に対して批判的であった。ところが、現在彼の論文の後半のはじめの節を読んで考え込んでしまった。これについては広重に批判的になることはできないのではないかと思っている。広重があからさまに武谷批判を繰り広げているところでは、必ずしもそれには賛成できなかったが、あからさまに批判していないところにむしろ広重のいいところが出ているようだ。これはちょっとおかしいとも思えるが、意外とそういうものなのかもしれない。「三段階論によらないと科学史の研究ができない」というのはおかしいと広重が武谷を批判したが、意外にそういうことを武谷は主張してはいなくて、科学史家は原典の忠実な翻訳などをしたらいいのではと書いていたのを私は読んだことがある。そうすれば、広重の主張のおかしさが直ぐにこのことに関してはわかる。だが、かえって、武谷をあからさまに批判していないところでは、それだからこそ科学史家としての広重の特徴なり、経験なりがむしろ顕著に現れていていいと思う。それで、この節「科学の歴史性」のところをどう考えるのかというのが新しい問題として出てきている。三段階論が「科学史の方法」だとは私は思わない。だが、科学の捉え方の一つとしてはいいと思っている。だが、これは誤解を受けないようにあわてていっておくと、これが科学に対する唯一の考え方ではないということである。最近の若い研究者は武谷三段階論などといっても知らない人も多いのだろうが、広重の若いときにはそれ以外に他の考えなどないようにさえ感じられたのだろうか。そうだとすれば、私と広重等の年代の人との年の差による感じ方の違いとだといえよう。(引用此処まで)矢野健太郎氏2010-07-14 12:40:00 | 数学(引用此処から)矢野健太郎氏は微分幾何学が専門の有名な数学者である。若いときにフランスで学位をとられた方であるが、その後アメリカ、オランダ、イギリスと世界の至るところで研究生活を送り、また軽妙なエッセイを書いて出されている。もちろんのことだが、彼の名のついた大学程度のテキストとか受験参考書の類も事欠かない。私の学生時代の高学年には東京大学から東京工大に勤務先がすでに変わられていたと思う。私が使った大学での数学のテキストは彼の著書で「代数学と幾何学」「微分積分学」の両方とも東京大学の助教授の肩書きだったが、今私のもっているこの本たちは後の版で東京工大の所属になっている。ちなみに「線形代数」と「微分積分学」が大学の基礎教育の定番として定着するのは私などよりも数年後のことである。矢野先生が亡くなってからずいぶん経つので彼の書いた書籍が書店にたくさん並ぶという状況ではないが、私の学生時代は書店に彼の書いたエッセイ本がたくさん並んでいたものである。文章も上手な数学者という定評があった。これもいつかのブログに書いたことだが、矢野先生の講義はおもしろくてその授業の時間が経つのが早かったと彼の授業を聞いた私の大学のときの物理の大内先生から聞いた。残念ながら私自身はそんな授業をあまり経験したことがない。ちょっと違った経験だが、物理の授業で体感的に感じることができた講義は私の先生、小川さんの講義であった。この講義でも毎時間そんな風だということではなく、いくつかの授業でそうであったというにすぎない。だが、それでもそういう講義ができる先生は少ない。(引用此処まで)ゲジゲジ2010-08-07 13:04:00 | 日記・エッセイ・コラム(引用此処から)昨日、アンパニウスを取り上げたので、ゲジゲジを取り上げた方がいいだろう。というのは物理学者の渡辺慧と武谷三男とは親友であったのだから。ゲジゲジは何を隠そう、私が肩入れをしている武谷三男のあだ名だったらしい。これがどこからきたのかはっきりしないが、武谷の書いたエッセイの中につぎの話がある。あるとき、つづり方教室の一つに武谷が呼ばれて、医学が進歩して、サルバルサン等で梅毒が直るようになったことと梅毒で頭がおかしくなって、幻想的な文学ができるのとどちらがいいのかという話をしたらしい。このときに、そのつづり方教室に参加していた、ある女性が彼のことをゲジゲジみたいと評した。それを聞いた悪友たちが武谷のことをゲジゲジとあだ名したためかもしれない。まことに武谷はこういう風に独自の意見の持ち主であって、それはなかなか本質を衝いてはいたのだが、その議論の仕方を好まなかった方がいたことは確かであろう。しかし、なかなかこういう意見は言えるものではない。彼の頭の鋭さが窺い知れるようである。私の考えではもちろん医学の進歩で病気が直ることの方がいいので、直らないでいい文学ができたとしてもそれを医学の進歩が妨げたといって非難することは間違っている。文学はそういう状況の変化を乗り越えてこその文学であろう。そうでなければ、文学など高が知れているといわれてもしかたがあるまい。もっとも文学がそんなにひ弱なものとは私は思っていない。なお、昨日ゲジゲジをインターネットでちょっと調べたら、ゲジゲジは益虫であることとムカデに似ているが、ムカデとは種類が違うことが書いてあった。見かけからはゲジゲジとムカデの区別は私にはつきそうにないが、インターネットでは益虫であるのでゲジゲジを殺さないようにとあった。武谷がこのことを聞いたら、泉下で苦笑していることだろう。(引用此処まで)続、広重の三段階論批判2010-09-27 13:16:10 | 学問(引用此処から)どうも今年は昨年から書き始めている、広重の三段階論批判の原稿の続きを書く気が起きないので一日伸ばしにしていたが、もう締め切りまでに1週間をきったので、日曜日に10枚ほど書いてみた。もっともこれをパソコンに入力してそれから推敲に入るのだが、時間があるだろうか。数学エッセイ「視力の単位」の原稿に書き足しておきたいことができたが、しばらく我慢して三段階論批判の原稿に集中したいと思う。なぜ、あまり批判があからさまでないところで、書きあぐねているのだろうか。なかなかこれは自分でもよくわからない。広重の独白みたいなところもある。どうも広重が自分の勝手につくりあげた三段階論の批判みたいのところもあるが、それだけではない。科学の歴史に関しては広重が言う方が正しいと思われるところもある。一般の人が陥るのと同じような誤解を武谷がしていたとの明白な指摘はない。しかし、一般人の誤解と同じ誤解に武谷が陥っていたのではないかとの印象を与えるような書き方のところもあり、もしそこを誰かに逆に鋭くつかれたときにはそういうことを意図としていないと、いい抜けることもできるようでもある。いずれにしても残り日時は数日のことであるので、しばらく頑張ってみたい。(引用此処まで)
2025年7月13日2025年8月9日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す超伝導量子ビット技術の応用としてのエンタングルメント【トピック】(量子コンピュータ実現までの道のり) 以下の草稿が数学・物理通信に掲載されました。【15巻2号】 原稿は名古屋大学・谷村省吾先生のサイトに掲載 されておりますので、完成稿をご覧頂くことが出来ます。 【谷村先生、ありがとうございます!】以下、草稿として残しますのでご参考に。〈古くて新しい概念「エンタングルメント」そして私〉皆様初めまして。早大理学修士卒のコウジです。この度はネットを通じた活動の中で編集者さんから寄稿依頼を頂き。数学・物理通信への投稿を挑戦させて頂きます。今回題材としているエンタングルメントは大きなテーマではありますが、私自身が出来るだけ深く理解咀嚼したい言葉です。本文が掲載された際には多様な方々の議論を、と期待しています。学生であれ社会人であれ物理を考えて欲しい。そんな議論に対応できる理論が良い理論なのだろうと思います。そして個人的に責務と意義を感じている訳です。その議論の中で少しでも理論が進んでいくことを望みます。私自身は物理の世界から離れて久しいのですが、その視線がネットの世界では大事だとも思えます。大筋で間違いがないか、主張が筋違いではないか不安は尽きません。ただ皆様、時間のある時に一読頂き率直なご意見を下さい。機会があればこうした活動は今後も継続していきます。昨今、ノーベル賞関連でベルの不等式の破れが話題になっています。直接この事実が量子論の有効性を議論しているわけでは無いと私は考えますが、古典力学·電磁気学で話が収まらない領域だと誰しも考える事でしょう。そこで議論の焦点として1935年を中心に考えています。また量子コンピュータの中でエンタングルメントが大きな役割を果たしており、基本に帰って考える事でその性能指標を少しでも向上出来る足掛かりとなる筈だと考えます。斯様な視点でご一読下さい。本稿は重ね合わせ・エンタングルメントの概念を中心に考えていて、応用的側面の考察まで及んでいない点も明記しておきます。 また文章形式でウェブライティングに染まっている部分がありますが、ご了承下さい。以下が原稿で、私の運営しているブログは 物理学への道標【科学史から】です。 (URL;https://www.nowkouji226.com/)☆☆☆1.〈「重ね合わせとエンタングルメント」〉本稿では物理学での大事な概念である 「重ね合わせとエンタングルメント」 について3つの角度から掘り下げていきます。1925年のハイゼンベルグの行列力学の論文以後に生まれ、様々な解釈が続き、エンタングルメントも段々に実態を表していきます。多くの人が議論して育んでいる概念です。会社員兼ブロガーとして活動している私・コウジが、一般の人に出来るだけ分かり易く「重ね合わせとエンタングルメント」という興味深い物理現象をご紹介してみたいと挑戦します。エンタングルメントに関心を持っている方はじっくり読んでみて下さい。そしてご意見を頂けたら幸いです。〈視点1.シュレディンガー【1935年発表「量子論と測定」】〉さて、シュレディンガーによる1935年発表の 「量子論と測定」に出てきた重ね合わせとエンタングルメント の概念に着目しご紹介します。その論文はいわゆる アインシュタイン達のEPR相関が提唱された直ぐ後に提起され、 後の時代の視点で考えたら、量子力学における局所性 に対しての土壌を示したとも考えられます。量子力学の限界を疑問視していたとも解釈されます。量子力学は優れたモデルですが、 シュレディンガーが疑問に思ったように完全に物理現象が把握出来ているか吟味解釈し続けなければなりません。当該論文(1935年)で「シュレディンガーの猫」の 思考実験が使われます。絡み合った量子力学的な事象が観測事実と 関連されていくのか、シュレディンガーは疑問を呈したのです。念の為に実験環境を再現しておくと、①箱の中に猫が居て、毒物で猫が死ぬかもしれない②量子力学的な事象がガイガーカウンターと連動している③ガイガーカウンターが猫の毒殺装置と連動している結局のところは、 思考実験の環境を作っておけば箱を開けるまで 猫が死んでいるか生きているか分からないので 普通(⇒巨視的(常識的))に考えたら 判断しかねる(⇒もつれあった)現象が 箱を開けるまではっきり言えないということになり どっちなのか量子力学と巨視的な猫の状態で 「説明してみて御覧なさい」というのが シュレディンガーの疑問提起です。☆☆ここでの絡み合いが「量子多体問題における相関」ではない点にも注意が必要です。猫は沢山の量子から構成されますが実験の結果に関わる量子はガイガー計に「崩壊してますよ!!」とあるタイミングで情報を発信する原子です。対象原子が他の原子と相関している想定ではありません。とはいえ、私自身がシュレディンガーの原文を読みこなせていたか再考してみても良いかも知れません。英訳版があった気がするのですが未確認です。センサーと崩壊する原子間のエンタングルメントは仄めかされて(ほのめかされて)いないでしょう。論文の主題は隠れた変数へとつながる量子力学の全体像への問題提起だと理解しています。時間平均・空間平均といった概念をシュレディンガーは波動関数に対してどのようにとらえていたのでしょうか。興味は尽きません。ディラックの表現によれば波動関数は統計的側面を持つと言えます。特定の観測値を持つ波動は確率で表現されます。 1930年に初版が書かれた教科書 【dirac「量子力学」】から一文を引用します。 「観測結果の計算には避けられない不定さがあり、そして理論のなしうることは、一般 には我々が観測をする時にある特定の結果が得られる事の確率を計算するだけである」波動関数を使う議論では、結果として猫が死んでいるかもしれないのです。☆☆〈視点2.2000年にJonathan R. Friedman〉更に時代は進み、20世紀後半となってA.J.Leggett が洗練された手法で磁束やジョセフソン効果などを巨視的量子現象 として議論します。いわゆるトンネル現象を使うのです。そして2000年にJonathan R. Friedmanが「Detection of a Schroedinger’s Cat State in an rf-SQUID」 【Quantum superposition of distinct macroscopic statesJonathan R. Friedman, Vijay Patel, W. Chen,S. K. Tolpygo & J. E. Lukens(Nature稿)】 で重ね合わせを再度取りあげます。ここでの状態は広い意味でのエンタングルメントであって二つの状態の重ね合わせの状態であるとも言えます。重ね合わせとエンタングルメントは近い概念ですが、 現代の議論の中では一緒の概念ではありません。ご紹介しているFriedmanの説明の中では「シュレディンガーの猫」に対応して「基底状態の磁束と第一励起状態の磁束」が現れます。引用しているFriedmanの論文での実験セッティング(図C)において「A separate SQUID acts as a magnetometer,measuring the flux state of the sample.」という部分に注目してみて下さい。磁気計(SQUID)がサンプル(SQUID)内での 巨視的な姿をとらえて重ね合わせが観測できるのです。 こうした実験を人類は何百年も続け、議論を深めて技術を進化させています。 外部環境との相互作用が無視出来る適切な条件下では巨視的な実在は十分に量子的に振舞います。ここで猫の入った環境と外部環境は生死を判別する事だけが接点でしたがSQUIDの系と外部環境は十分に切り離されてコントロールされ 重ね合わせの様子が感じられると言えるのです。こうした状況で20世紀後半には実験的に巨視的な量子効果と言える状況が実現しています。Friedmanらは巨視的効果が見える状況下で重ね合わせの状況を観測にかけたのです。具体的には10の10乗個程度の数の電子が位相を揃えて運動する「超電導状態」で現象が生じていて、実際に観測にかかっています。2022年にアスペ等がベルの不等式(CHSH不等式)の破れを実験的に説明しノーベル賞を受賞しましたが、様々な形で観測にかかる形でエンタングルメントも具現化していると言えます。厳密には「古典的解釈が成立しないという証明に過ぎない」という見解は必要です。しかし、エンタングルメントという言葉が明快に実験の事実と数学上での干渉項を解釈していくのです。もはやエンタングルメントの状態は巨視的現象として存在しています。そして、なにより今、量子コンピューターではエンタングルメントを想定して、超並列計算をしています。☆☆☆〈視点3.量子コンピューターの進化〉本稿では最新の活用事例として量子コンピューターをご紹介し、このタイミングでエンタングルメントの状態を再解釈します。応用されている状態であるエンタングルメントは「多体量子系でのもつれあいの状態」です。そして、歴史的な概念成立に鑑み、今まさに活用されている現代の量子コンピューターでの進化を考えていきます。1994年にベル研のW.Shorが量子Turing機械を活用して「因数分解問題と離散型対数問題を非常に小さな誤り確率で高速に解ける」という事実を明らかにして技術的な可能性を明示しました。この意義は深く、現在の全ての暗号化技術を凌ぐ性能の新型コンピューターが具現化している過程であるとも言えます。量子コンピューターでの基本素子QBITを考えるうえでとても大事な概念となるのがコヒーレンスと、その反対の概念デコヒーレンスです。「重ね合わせの状態」をQBITの中で活用して「並列計算」を進めていく手法が重要です。並列計算が既存コンピューターと量子コンピューターで大きく異なります。そして重ね合わせの状態が保たれているコヒーレンスが 壊れる概念であるデコヒーレンスがとても大事です。 その時間の長さは演算可能な時間に関わってきます。日本語で表現すれば「干渉状態の喪失」とでも言えるでしょう。重ね合わせ状態が外部環境などとのやりとりで壊れていく姿は自然に思えます。ただし、可逆な古典理論での枠組みでは説明がつかない現象です。「ニュートン力学は可逆で、現実世界は不可逆です。」水中のボールが減速していく様子はニュートン力学では再現出来ません。微視的に考えていくと沢山の水分子がボールに弾性衝突をくりかえすのです。その可逆な過程は、統計的に考えていく時点で不可逆な要素が出てくるのです。ボールが速度を増すことはあり得ません。統計的な作業は本質的であるとも言えるので別項を設けて数学的に説明したいと思います。ただ、そうした作業の中で何故か不可逆性が出てくる所が話の妙です。何故か出てきます。出てくるものです。「シュレディンガーの猫」の現代的解釈でもデコヒーレンスは大きな役割を果たし、干渉喪失の時間が観測時間に対して非常に短いことから「重ね合わせが成立しない」と表現されます。対して「Freadmanの実験系」では干渉喪失の時間上での問題が生じていないで「重ね合わせの状態が観測できていた」訳です。量子コンピューターでもこの「デコヒーレンス時間」が大きな役割を果たします。仕組みとして量子コンピューターの回路でキーとなるのは新しい素子である量子ビット(Quantum bitからQUBITとも呼ばれます)です。新しいビットの中では従来型と異なった情報を保持をします。すなわち、従来型の「0」か「1」という情報の他に量子コンピューターはその「重ね合わせ」の状態を持ててその「重ね合わせ状態」がいわゆる、「Shorのアルゴリズム」を可能にします。(写真は従来の基盤の写真です)2.理研の中村泰信さんの論文から私は最近、中村さんに大変注目していて、そこから話を続けます。(先に引用しているFrieadmanの論文で引用されているY.Nakamuraが、ここで出てきている中村さんでしょう。)特に私が最近稼働を始めた量子コンピューターを勉強していて今まで分かりづらかった情報読み出し機構について明快に2021年の論文で説明をしています。ジョセフソン接合ユーチューブで公開されていますが、理化学研究所導入の量子コンピュータでは「線幅100nm~200nmのジョセフソン接合」を使い量子ビットの回路を作り上げています。ジョセフソン接合は具体的に超伝導体(例えばAL)で絶縁体(例えばAL2O3)を挟みます。これを使い従来型の回路であるLC共鳴回路を発展させていく事が出来ます。【以下、応用物理‐第90巻より引用(太字部)】超伝導体と超伝導体の間のトンネル接合であるジョセフソン接合の寄与により,強い非線形性を導入することができる.ジョセフソン接合は回路上で非線形なインダクタンスとして振る舞う.理化学研究所で導入している量子コンピュータを始めとして世界中で今開発されているほとんど全ての量子コンピュータでは回路量子電磁力学の考え方に基づき、以下で述べるアイディアを応用しています。超伝導共振器を使うアイディア技術的にもう一つ特徴的な点はマイクロ波で量子ビットを制御する点です。回路内のジョセフソン接合が実効的に非線形のLC回路として動作する点が重要です。ジョセフソン接合は絶縁体を超伝導体で挟んでいるので「キャパシタとして働く」事情は容易に理解できますが、同時にジョセフソン効果によって非線形のインダクターとしても機能します。故に非線形LC回路を構成します。【以下、応用物理‐第90巻より引用(太字部)】量子情報を非調和的な量子ビット回路に蓄えるのではなく,超伝導共振器に蓄えようという アプローチである.後者の利点として,ジョセフソン接合を必 要としないため,電磁場モードが空間中に広がり表面・界面 欠陥の影響を受けにくい 3 次元的な空洞共振器を用いるなどして,量子ビットと比べて高い Q 値すなわち長いコヒーレンス時間を実現することが容易であることが挙げられる.加えて,共振器中のデコヒーレンスは光子の損失によるエネルギー緩和が支配的で位相緩和がほぼ無視できること,また調和振動子特有の等間隔に並んだ多数のエネルギー準位によって形成される大きな状態空間を用いた量子誤り訂正符号を実装可能 であることも利点である.(中略)量子ビット状態の非破壊射影読み出し機構として,この回路量子電磁力学のアイデアが使われている.すなわち,量子ビットにそれとΔだけ離調した読み出し用共振器を結合させ,量子ビットの状態に応じた読み出し用共振器の共鳴周波数シフト(分散シフト~(g^2) /Δ)を,読み出し用マイクロ波パルスの受ける反射位相の変化として検出することによる記号詳細のご説明は主題から大きくズレていきそうなので控えます。もともとの考えはA. Wallraff, D.I. Schuster, A. Blais, L. Frunzio,J. Majer, M.H. Devoret, S.M. Girvin, and R.J. Schoelkopf等によって Phys. Rev. Lett. 95, 060501 (2005).にて議論されていた内容です。中村氏がSQUIDなどと合わせて全体像を解説してくれている中で紹介されています。私はこの考えに教えられ、今まで見てきたユーチューブなどで不可解だった量子コンピュータ基盤のパターンが段々と納得出来るようになりました。共振側の回路でのコヒーレント時間が確保できれば実用上、量子コンピューターの計算が進められます。私は「(電源ではない)情報のトランスミッター」といったイメージで共振器を考えています。そして音波の共振が共振体に介在する媒質に左右されるのに対して超伝導共振器の挙動はどう異なるのでしょうか??機会が有れば更に検討したいです。ここでのエンタングルメントは定量評価出来るのでしょうか??「関連論文読みなさい!!」と言われそうですが、勿論、後ほど読んでいく積りです。中村氏の論文の中でも「シュレディンガーの猫状態」なる表現は使われ、QUBITの中で分かる状態(0か1か)と混在した状態(0または1)が議論の上で区別されています。現代の解釈の中ではエンタングルメント状態は観測で最終的に確定しうるという立場をとっている点を大事に考えてみて下さい。観測のタイミングが大事です。そしてまた、共振をしているQUBITと共振器も同じ状態を保ちながら演算に関わります。共振を始めた時点で古典力学的な振り子運動がイメージ出来て離散的な2準位系で|0>と|1>という2つの状態(ケット)が共振していくのです。重ねあわされた量子ビットが動きます。そして、こうした技術の進展を積み重ねて、量子コンピューターは開発されていきます。今もまた、開発は進んでいます。そして知的な活動の発展(積み重ね)の重要さを最後に強調させて頂きます。学ぶこと、語り合う事、合意として「概念」を作っていく事は楽しいのです。知的探求心こそ人が作り上げた喜びです。そんな楽しさを知っている人間達は(特に物理学者は)「AIが概念を自己生成」していくようになっても議論を続けている事でしょう。そして、AIと人間が競うように考え続ければ更に楽しく議論は続くかもしれませんね。楽観論でしょうか。楽しみましょう。〆以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 問題点に対しては 適時、返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2023/07/08‗初稿投稿 2024/02/03_ 改訂投稿舞台別のご紹介へ 時代別(順)のご紹介 力学関係へ 電磁気関係へ 熱統計関連のご紹介へ 量子力学関係へ【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】(最後に、参考としてLA・TEX稿を掲載します。)\documentclass{article} \usepackage{fontspec} \setmainfont{Arial}\begin{document}\section*{\centering 古くて新しい概念「エンタングルメント」そして私} \paragraph{\centering 皆様初めまして。早大理学修士卒のコウジです。この度はネットを通じた活動の中で編集者さんから寄稿依頼を頂き。数学・物理通信への投稿を挑戦させて頂きます。今回題材としているエンタングルメントは大きなテーマではありますが、私自身が出来るだけ深く理解咀嚼したい言葉です。本文が掲載された際には多様な方々の議論を、と期待しています。学生であれ社会人であれ物理を考えて欲しい。そんな議論に対応できる理論が良い理論なのだろうと思います。そして個人的に責務と意義を感じている訳です。その議論の中で少しでも理論が進んでいくことを望みます。} \paragraph{\centering 私自身は物理の世界から離れて久しいのですが、その視線がネットの世界では大事だとも思えます。大筋で間違いがないか、主張が筋違いではないか不安は尽きません。ただ皆様、時間のある時に一読頂き率直なご意見を下さい。機会があればこうした活動は今後も継続していきます。} \paragraph{\centering 昨今、ノーベル賞関連でベルの不等式の破れが話題になっています。直接この事実が量子論の有効性を議論しているわけでは無いと私は考えますが、古典力学・電磁気学で話が収まらない領域だと誰しも考える事でしょう。そこで議論の焦点として1935年を中心に考えています。また量子コンピュータの中でエンタングルメントが大きな役割を果たしており、基本に帰って考える事でその性能指標を少しでも向上出来る足掛かりとなる筈だと考えます。斯様な視点でご一読下さい。} \paragraph{\centering 本稿は重ね合わせ・エンタングルメントの概念を中心に考えていて、応用的側面の考察まで及んでいない点も明記しておきます。} \paragraph{\centering 以下が原稿で、私の運営しているブログは\href{https://www.nowkouji226.com/}{物理学への道標【科学史から】}です。}\paragraph{\centering ☆} \paragraph{\centering ☆} \paragraph{\centering ☆}\section*{\centering 「重ね合わせとエンタングルメント」}\paragraph{\centering 本稿では物理学での大事な概念である「重ね合わせとエンタングルメント」について3つの角度から掘り下げていきます。1925年のハイゼンベルグの行列力学の論文以後に生まれ、様々な解釈が続き、エンタングルメントも段々に実態を表していきます。} \paragraph{\centering 多くの人が議論して育んでいる概念です。会社員兼ブロガーとして活動している私・コウジが、一般の人に出来るだけ分かり易く「重ね合わせとエンタングルメント」という興味深い物理現象をご紹介してみたいと挑戦します。エンタングルメントに関心を持っている方はじっくり読んでみて下さい。そしてご意見を頂けたら幸いです。}\section*{\centering 「視点1.シュレディンガー【1935年発表「量子論と測定」】」\paragraph{\centering さて、シュレディンガーによる1935年発表の「量子論と測定」に出てきた重ね合わせとエンタングルメントの概念に着目しご紹介します。その論文はいわゆるアインシュタイン達のEPR相関が提唱された直ぐ後に提起され、後の時代の視点で考えたら、量子力学における局所性に対しての土壌を示したとも考えられます。} \paragraph{\centering 量子力学の限界を疑問視していたとも解釈されます。量子力学は優れたモデルですが、シュレディンガーが疑問に思ったように完全に物理現象が把握出来ているか吟味解釈し続けなければなりません。} \begin{document}\begin{center} \large 当該論文(1935年)で「シュレディンガーの猫」の思考実験が使われます。絡み合った量子力学的な事象が観測事実と関連されていくのか、シュレディンガーは疑問を呈したのです。 \end{center}\begin{center} 念の為に実験環境を再現しておくと、 \end{center}\begin{center}①箱の中に猫が居て、毒物で猫が死ぬかもしれない\end{center} \begin{center}②量子力学的な事象がガイガーカウンターと連動している\end{center} \begin{center}③ガイガーカウンターが猫の毒殺装置と連動している\end{center}\begin{center} 結局のところは、思考実験の環境を作っておけば箱を開けるまで猫が死んでいるか生きているか分からないので普通(⇒巨視的(常識的))に考えたら判断しかねる(⇒もつれあった)現象が箱を開けるまではっきり言えないということになりどっちなのか量子力学と巨視的な猫の状態で「説明してみて御覧なさい」というのがシュレディンガーの疑問提起です。 \end{center}\begin{center} ☆ \end{center}\begin{center} ☆ \end{center}\begin{center} ここでの絡み合いが「量子多体問題における相関」ではない点にも注意が必要です。猫は沢山の量子から構成されますが実験の結果に関わる量子はガイガーケースに「崩壊してますよ!!」とあるタイミングで情報を発信する原子です。対象原子が他の原子と相関している想定ではありません。 \end{center}\begin{center} とはいえ、私自身がシュレディンガーの原文を読みこなせていたか再考してみても良いかも知れません。英訳版があった気がするのですが未確認です。センサーと崩壊する原子間のエンタングルメントは仄めかされて(ほのめかされて)いないでしょう。論文の主題は隠れた変数へとつながる量子力学の全体像への問題提起だと理解しています。 \end{center}\begin{center} 時間平均・空間平均といった概念をシュレディンガーは波動関数に対してどのようにとらえていたのでしょうか。興味は尽きません。ディラックの表現によれば波動関数は統計的側面を持つと言えます。特定の観測値を持つ波動は確率で表現されます。 \end{center}\end{document}\begin{center} ☆ \end{center}\begin{center} ☆ \end{center}