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コペルニクス
【1473年2月19日生まれ ~ 1543年5月24日没】


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コペルニクスの若き時代

コペルニクスは王領プロイセンの一部であった現在のポーランドで生まれました。特に第2次大戦までのナショナリズムの時代には、その地に生まれた人々はドイツ人であると言われたりしていましたが、今日ではドイツ系ポーランド人と呼ばれることが多いです。生活の面を考えていくとコペルニクスは職業として天文学に専念出来る仕事に従事していませんでした。日々の仕事としては宗教の布教に伴う様々な仕事をしていたようです。そんなコペルニクスは若い時代にイタリアに2度留学に出ておりボローニャ大学とパトバ大学で、それぞれ法律と医学を学んでいます。

そういった様々な仕事の一つとして、

コペルニクスは聖堂参事会の財産管理

をしていましたが、その仕事の中で

「悪貨は良貨を駆逐する」

という概念を初めて用いています。

良質のお金は各人の手元に残されて、

流通する貨幣は質の悪いものになっていくのです。

流通紙幣の品質に関連した議論です。

そういった社会的な活動もしていたという事実は

特筆すべきです。いずれにしてもコペルニクスは

知識人としての活動を続けていました。半面で、

時代の流れがありドイツ騎士団がポーランド王領

プロイセン内ヴァルミアに侵攻する中で

コペルニクスの生活は変わっていきます。

コペルニクスの宗教的側面

宗教的なコペルニクスの人生の側面を

考えてみると、教会側からコペルニクスが

何時も批判にさらされていた訳ではないようです。

コペルニクス自身が教皇に『天球の回転について』

と名付けた著書を献呈していたりする事実も有り、

コペルニクスと教会側との一定の良好な関係があります。

その半面でガリレオの時代には同書が閲覧出来ない

措置が取られていたり、著名な

宗教家であるルターが考えを批判をしています。

コペルニクスは聖書の考えに沿わないと解釈したのです。

幾多の時代の世界観を大きく変える議論だったのです。

別途、地動説を唱えていたプトレマイオスの論陣も、また

当時の科学的な知見に立脚して議論を進めていますが、

その中ではまだ確立されていなかった「慣性」という概念が

理論に必要だった筈だと後に科学史で議論されています。

ちなみに、コペルニクス以前の時代の天体運動の常識では

プトレマイオスの「アルマゲスト」という著作が有名で、

慣性を考慮せずに「地球が動くなら空の鳥は西に流されていく」

だから(実際には)「地球は動かない」といった判断基準

で話を進めていました。

コペルニクスと学問

さて、1539年にヴィッテンベルク大学の教授であった

ゲオルク・レティクスがコペルニクスを尋ねましたが、

そこで彼はコペルニクスから地動説の思想を

説明してもらい得心し、その考えを継承・発展したい

と思うようになりました。コペルニクスとレティクスの

師弟関係が始まっていくのです。

こんな話を私が調べていき興味を持った点は

コペルニクスが研究領域を確立していく道筋です。

当時は天文学という学問分野は明確にありませんでしたが、

コペルニクスは医学を修める中で、医学の学問体系に

含まれていた天体と人体という関連に着目して、

基礎分野となる天体の知識が当時不足していた事実

に気付くのです。今の我々にとって、一見すると

天体の運動は月くらいしか人間に関係があると思えません。

そこを極めていく事情も釈然としない部分があります。

また、当時の天文の知識は不十分だった筈です。

いわゆる「天動説」に立脚した理解体系では

「つじつまの合わない」事態に突き当たったはずです。

そんな彼らの自然との対話の中で、

レティクスはコペルニクスの理論を急速に吸収し、

理論体系の流布へ向け出版をするように

コペルニクスに進言します。。そうした話を受け

コペルニクスは自らの理論を纏めていこうと考えました。

1539年にはレティクスが自身の天文学の師、

ヨハネス・シェーナーに長い手紙を送りました。

その手紙の中においてコペルニクスの理論の抜粋

を盛り込んでいます。その写しをレティクスは

グダニスクの出版業者に持ち込み、翌年には

「最初の報告」として出版しました。そこでコペルニクスは

レティクスと共に執筆を進めました。その2年後には

「天球の回転について」の草稿が完成し印刷されたのです。

所がレティクスのライプツィヒ大学の数学教授への

就任に伴い、レティクスが後任指名した神学者

アンドレアス・オジアンダーが校正を続けます。

しかしそうした中、コペルニクスは脳卒中で倒れ、

半身不随となり、完成した製本原稿を読むことは

できませんでした。最終的に仕上がった印刷物は、

コペルニクスが亡くなった当日に

彼のもとに届いていたという逸話が残っています。

享年70歳の生涯でした。

〆最後に〆

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2021/04/01_初版投稿
2022/03/24_改定投稿

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対応英訳

Copernicus was born in what is now Poland, which was part of the Royal Prussia. Especially in the era of nationalism until World War II, it was said that the people born there were Germans, but today they are often called German Poles. Copernicus did not engage in astronomy-focused work as his profession. As for his daily work, he seems to have done various jobs associated with the mission of religion. Copernicus went to Italy twice when he was young and studied law and medicine at the University of Bologna and the University of Padua, respectively.

As one of those jobs, Copernicus managed the property of the Chapter Chapter, and in that job he used the concept of “bad money drives out good money” for the first time.

Good quality money is left in the hands of each person, and the money in circulation becomes poor quality. This is a discussion related to the quality of banknotes in circulation. The fact that he was also involved in such social activities is noteworthy. The life of Copernicus changes as the Teutonic Order invades Warmia in Polish Royal Prussia.

Commenting on that aspect of Copernicus’s life, it seems that Copernicus was not always criticized by the church. There is also the fact that Copernicus himself dedicates a book entitled “On the Revolutions of the Heavenly Spheres by Nicolaus Copernicus of Torin 6 Books” to the Pope, and a certain good relationship with the church side can be seen.

On the other hand, in Galileo’s time, measures were taken to prevent the book from being read, and prominent Luther criticized it. It was an argument that drastically changed the world view of many times.

Separately, Ptolemy’s argument, which advocates the heliocentric theory, is also proceeding with discussions based on the scientific knowledge of the time, but the concept of “inertia”, which had not yet been established, must have been necessary for the theory. It was later discussed in the history of science.

Now, in 1539, Georg Joachim Reticus, a professor at the University of Wittenberg, asked Copernicus, where he was convinced that Copernicus explained the idea of ​​the heliocentric theory, and would like to inherit and develop that idea. It came to be. The teacher-apprentice relationship between Copernicus and Retics begins.

What I was interested in investigating such a story is the way Copernicus establishes his research area. At that time, the academic field of astronomy was not clear,

While studying medicine, Copernicus focused on the relationship between celestial bodies and the human body, which was included in the academic system of medicine, and realized that he lacked knowledge of celestial bodies, which is the basic field at that time. At first glance, for us now, the movement of celestial bodies seems to be related to humans only for the moon.

There is a part that is not surprising even in the circumstances that go extremely far there.

Also, the knowledge of astronomical science at that time must have been insufficient. The understanding system based on the so-called “Geocentric theory” must have encountered a situation that “doesn’t make sense”.

In such a dialogue with nature, Retics rapidly absorbs Copernicus’s theory and advises Copernicus to publish it for the dissemination of the theoretical system. .. In response to such a story, Copernicus decided to put together his own theory. In 1539 Retics sent a long letter to his own astronomy teacher, Johannes Schöner.

The letter contains an excerpt of Copernicus’s theory. Retics brought a copy to a Gdansk publisher and published it as the “first report” the following year. So Copernicus worked with Retics. Two years later, the draft of “On the Revolutions of the Heavenly Spheres” was completed and printed.

With the appointment of Retics as a professor of mathematics at Leipzig University, the theologian Andreas Oziander, appointed by Retics, will continue to proofread.

However, in the meantime, Copernicus suffered a stroke and became paralyzed and could not read the completed bound manuscript. There is an anecdote that the final printed matter arrived at Copernicus on the day he died.
At that time, He was 70 years old.