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ダーヴィット・ヒルベルト
【1862年1月23日 ~ 1943年2月14日】

deutuland


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ヒルベルトの名前を英語でつづるとDavid Hilbertとなり
ドイツ語:でつづるとˈdaːvɪt ˈhɪlbɐtとなります。誰しもが認める
「現代数学の父」がヒルベルトです。遅ればせながら、
誰しもが認める大物をご紹介します。
ヒルベルトは当時プロイセン王国領だったケーニヒスベルク
(今はロシア領であるカリーニングラード)に生まれました。

ヒルベルトはケーニヒスベルク大学に進学し学びますが、この大学では別途、カントが(別の時代に)学び、学長を務めていたような歴史ある大学です。もともとドイツ騎士団だった男が設置した大学で、第二次大戦後はソビエト連邦領として統治されていました。記事を書いている2022年にはウクライナとロシアの紛争が続いていますがロシアの領土を巡る経緯は非常に根深いものがあると感じさせる地方です。思えば旧東ドイツも実質的にロシアの支配下あったとも言えます。プロイセン王国ではありますが、後の時代には別の国であったような地方でヒルベルトは生まれ学びました。後に多彩な才能がヒルベルトを育てました。特にウェーバーはドイツ数学の影響をヒルベルトに与えたと言われています。更に、同大学でヘルマン・ミンコフスキーとアドルフ・フルヴィッツと刺激を与えあう関係を持ちます。なかんずくミンコフスキーとは「最良にして、本当の友人」と感じるような関係を築きました。

またヒルベルトは偉大な数学者を多数、指導輩出しています。教育者として非常に優れています。ヒルベルトはゲッティンゲン大学で色々な人を指導していきました。その中の一人であるヨハネス・ルートヴィヒ・フォン・ノイマン(のちのジョン・フォン・ノイマン)の論文を評価していて、ノイマンは後に原子爆弾やコンピュータの開発で特筆される業績を残します。また、後述する「ヒルベルト空間」の名付け親はノイマンだと言われています。「三次元ユークリッド空間」を発展させていったのです。ヒルベルトは当時22歳であったノイマンをゲッティンゲン大学に招いて育てたのです。また日本人では東大の高木貞治がドイツ留学時代ヒルベルトの指導を受けたと言われています。思い返せば恐縮ながら、私も高木貞治の教科書を使っていたので、日本で数学を志す若者もヒルベルトの影響を受けていたのです。明文化すると少し感慨深いです。

ヒルベルトの業績で大きいと思えるのは数学概念の統合計画」と言える仕事だと思えます。それは不変式論、抽象代数学、代数的整数論、積分方程式、関数解析学、幾何学の公理系の研究、一般相対性理論などで個別にあった公理を整理して応用を考えていき、現実の現象(人間の頭の中での認識群)との相関を考えた時に、多岐に及ぶ業績を「結びつける試み」であると思えます。ヒルベルトの公理論と数学的な整合性の証明に関する一連の計画はヒルベルト・プログラムと呼ばれ、現代で理解されています。後にフォンノイマンも議論を続け、ヒルベルト空間と呼ぶ空間を3次元ミンコフスキー空間から発展させています。また、ヒルベルトの零点定理などに名前が残っています。

何よりヒルベルトはドイツの数学レベルを世界最高の水準ひきあげた数学者達の一人でした。一流の数学者でした。そんなヒルベルトは、晩年にナチスドイツによるユダヤ人迫害を目の当たりにしています。ドイツの数学研究所からユダヤ人たちが一人一人いなくなっていく様子に心を痛めていたそうです。

〆最後に〆

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(対応英訳)

Hilbert’s name is spelled in English as David Hilbert and German: as ˈdaːvɪt ˈhɪlbɐt. The undisputed “father of modern mathematics” is Hilbert. I will introduce the big game that everyone recognizes, though it is late. Hilbert was born in Königsberg (now Russian territory Kaliningrad), which was then the Kingdom of Prussia.

Hilbert goes on to study at the University of Königsberg, which is a historic university where Kant studied (at another time) and was the president. The university was originally set up by a man who was the Teutonic Order, and was ruled as the Soviet Union territory after World War II. In 2022, when I wrote the article, the conflict between Ukraine and Russia continued, but it is a region that makes me feel that the history of Russia’s territory is very deep-rooted. If you think about it, it can be said that the former East Germany was also under the control of Russia. Although it is the Kingdom of Prussia, Hilbert was born and learned in a region that would have been another country in later times. Later, various talents raised Hilbert. In particular, Weber is said to have influenced Hilbert with German mathematics. In addition, he has an inspiring relationship with Hermann Minkowski and Adolf Hurwitz at the university. Above all, he had a relationship with Minkowski that made him feel “best and true friend”.

Hilbert has also produced many great mathematicians. He is very good as an educator. Hilbert taught various people at the University of Göttingen. He appreciates the paper of one of them, Johannes Ludwig von Neumann (later John von Neumann), who later made remarkable achievements in the development of atomic bombs and computers. In addition, it is said that Neumann is the godfather of “Hilbert space” described later. He developed the “three-dimensional Euclidean space”. Hilbert invited Neumann, who was 22 at the time, to the University of Göttingen to raise him. It is said that Teiji Takagi of the University of Tokyo received guidance from Hilbert when he was studying in Germany. Looking back, I’m sorry to say that I also used Teiji Takagi’s textbook, so young people who aspired to mathematics in Japan were also influenced by Hilbert. I am a little deeply moved when it is written.

What seems to be a big achievement of Hilbert is the work that can be said to be the integration plan of mathematical concepts. It is an invariant theory, abstract algebra, algebraic integer theory, integral equations, functional analysis, research on axioms of geometry, general relativity theory, etc. When considering the correlation with the phenomenon (recognition group in the human mind), it seems to be an “attempt to connect” a wide range of achievements. Hilbert’s program, a series of plans for proof of mathematical consistency with Hilbert’s public theory, is called the Hilbert Program and is understood today. Later, von Neumann continued his discussion, developing a space called Hilbert space from the three-dimensional Minkowski space. In addition, the name remains in Hilbert’s zero point theorem.

Above all, Hilbert was one of the mathematicians who raised the level of mathematics in Germany to the highest level in the world. He was a leading mathematician. Hilbert witnessed the persecution of Jews by Nazi Germany in his later years. He was hurt by the disappearance of each Jew from the Deutsche Mathematics Institute.

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セシル パウエル
【1903年12月5日生まれ‐4/12改訂】

こんにちはコウジです。「パウエル」の原稿を改定します。投稿作業としては関連リンク、内部リンクの改定、個別の人物の追加をしましています。今後もご覧下さい。また、ブログ宣伝でツイッター使います。
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【1903年12月5日生まれ ~ 1969年8月9日没】


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パウエルとハイゼンベルグとゾンマーフェルト

単なる偶然の産物といえば偶然ですが、
今回ご紹介するセシル パウエルと
ハイゼンベルクとゾンマーフェルトは
同じ誕生日でした。また同様に
西川 正治も同じ誕生日でした。

さて、
今回の紹介は英国のセシル パウエルです。

素粒子の軌跡を記録する方法
を改良しました。

つまり、

Photographic Emulsionsの中での粒子軌跡を

直接記録する方法を採用したのです。

当時は未知なる粒子が次々と発見され

様々に予想されていたのですが、

観測手段も試行錯誤が成されていました。

例えば、

霧箱で飛んでくる粒子の軌跡を捉えたり、

高い山の上で観測して飛来宇宙線の大気減衰を

克服したり写真技術を活用したりしました。

パウエルの手法は写真のイメージから考える

のでしょうか。機会があれば更に確認します。

 

 パウエルによるπ中間子の観測

またパウエルは湯川秀樹が予想した
パイ中間子の観測・発見の為に
研究スタッフを派遣しています。生成後の
寿命が短く地表に到達できないパイ中間子
観測の為にボリビアにあるアンデス山脈の
標高5000mの山から上記乾板を使って発見
しています。ダイナミックな観測だった
と言えるでしょう。加えて、気球を使い
高度を確保したりもしています。
観測の為に様々な工夫をこらして
結果を得ています。

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(2021年11月時点での対応英訳)

Powell, Heisenberg and Sommerfeld

It’s just a coincidence, but C. Powell, Heisenberg, and Sommerfeld have the same birthday. Similarly, Shoji Nishikawa had the same birthday.

By the way, this time I would like to introduce you to Cecil Powell in the United Kingdom. The method of recording the trajectory of elementary particles has been improved. In other words, we adopted the method of directly recording the particle trajectory in Photographic Emulsions. At that time, unknown particles were discovered one after another and various expectations were made, but the observation method was also trial and error. For example, we captured the trajectory of particles flying in a cloud chamber, observed them on a high mountain to overcome the atmospheric attenuation of flying cosmic rays, and used photographic technology. Do you think of Powell’s method from the image of a photograph? I will check further if there is an opportunity.

Observation of pions by Powell

Powell also dispatches research staff to observe and discover the pions predicted by Hideki Yukawa. It has been discovered using the above-mentioned dry plate from a mountain at an altitude of 5000 m in the Andes Mountains in Bolivia for the purpose of observing pions that have a short life after formation and cannot reach the surface of the earth. It can be said that it was a dynamic observation. In addition, we also use balloons to secure altitude. We have obtained results by making various efforts for observation.

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アイザック・バロー
【1630年10月生まれ ‐4/12改訂】

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【1630年10月生まれ ~ 1677年5月4日没】


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 バローとルーカス職

今回のご紹介するバロー教授は
イギリス・ケンブリッジ大学の数学者です。
バローはケンブリッジ大学での
ルーカス教授職に初めて任命されています。
ルーカス職とはケンブリッジ内大学の称号(職位)で
クール(Cool)な物理学者に国王から贈られる称号です。
特に数学系の理解が高い人物に贈られます。

 筆者とバローの出会い

私がバローの名を初めて知ったのは
高校の時の英語の教材で、
次の様な文章だった気がします。

Just under three hundreds years ago,
the professor of mathematics
at Canbride did distinctly unusual
thing. He decided one of his pupil was..…

上記英文での教授がバロー先生で
その後に出てくる弟子(生徒)がニュートン
なのです。バローはニュートン
ルーカス職を譲ります。彼の方が
職位に相応しいと判断したのです。

異例な判断だったようですが
その後のニュートンの業績を考えると
バローの判断は素晴らしいと分かります。
因みにその後、名誉あるルーカス職は
ディラック
ホーキング

引き継いでいきます。

 バローの業績

上記、英語の文書が書かれた時代
から更に時代は進んでますが、
バローの残した業績は物理学のみ
ならず、工学、ひいては産業に
大きな成果を残しています。

具体的にバローが残した業績で
特筆すべきは微分と積分が
真逆の数学的行為であると幾何学的
に証明した事だと言われています。
今では当たり前なのかも知れません
がバローが整理、体系化した結果
なのです。

〆最後に〆

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 Barrow and Lucas

Professor Barrow is a mathematician at the University of Cambridge, England. Barrow has been appointed for the first time as a Lucas professor at the University of Cambridge. The Lucas professor is the title (position) of the University of Cambridge and is given by the king to a cool physicist. It is especially given to those who have a high understanding of mathematics.

 My Memory

The first time I learned the name of Barrow was in English teaching materials when I was in high school, and I think it was the following sentence.

Just under three hundreds years ago,
the professor of mathematics
at Canbride did distinctly unusual
thing. He decided his pupil his was ..…

The professor in English above is Mr. Barrow, and the disciple (student) who appears after that is Newton. Barrow hands over Lucas to Newton. He decided that he was more suitable for his position.

It seems that it was an unusual decision, but considering Newton’s subsequent achievements, Barrow’s decision is wonderful. By the way, Dirac and Hawking will take over the prestigious Lucas profession after that.

 Barrows work

Although the times have progressed further from the time when the above English documents were written, Barrow’s achievements have made great achievements not only in physics but also in engineering and eventually in industry.

Specifically, it is said that what is remarkable about the achievements left by Barrow is that he geometrically proved that differentiation and integration are the opposite mathematical acts. It may be natural now, but it is the result of Barrow’s organization and systematization.

 

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J・F・ジョリオ=キューリー
【1900年3月19日 ~ 1958年8月14日】‐4/12改訂

パリの夕暮れ


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今回のご紹介はジャン・フレデリック・ジョリオ=キューリーですが、J-F・ジョリオ=キューリーはフランスパリに生まれ、亡くなるまでパリで暮らしました。そんな人の58年の人生のご紹介です。名前の綴りはJean Frédéric Joliot-Curieとなります。著名なキューリー夫妻の娘婿としてご紹介するとわかりやすいでしょうか。つまり、義理の父はピエール・キュリー、義理の母はマリー・キュリー。義理の妹はエーヴ・キュリーとなります。

このご紹介の中でフレデリックとご紹介していきますが、フレデリックはラジウム研究所でマリ・キューリーの助手となりました。その研究所でマリの娘イレーヌを知り交際を深め。まもなく2人は結婚しました。その時点で姓を「ジョリオ=キューリー」としたのです。ジョリオはフレデリックの血筋の名前でキューリーはイレーヌの血筋の名前でした。二人は後に一緒にノーベル賞を受けます。

フレデリックとイレーヌの夫婦は同位体元素への反応過程を研究して新しい物質を作り上げたのです。具体的にはアルミニウムに対してアルファ線を照射したときに人工放射性同位元素である30P(リン30)が発生したのです。その後、フレデリックはフランス原子力庁の長官としてフランス初の原子炉を1947年に建設するプロジェクトに加わります。原子力の平和的な利用と環境に及ぼす影響については各論があると思えますが、今のフランスの電源構成に大きな影響を与えた人だと言えます。

政治的な活動としてフレデリックは第二次世界大戦時にはナチスドイツに対抗するレジスンス運動に参加しました。そして終戦後は先述したフランス原子力庁の仕事をしながらフランス国立科学研究センター総裁、コレージュ・ド・フランスの教授も務めていました。他、パグウォッシュ会議(核兵器と戦争の廃絶を訴える国際会議)の創始、世界平和評議会の初代議長、フランス共産党の党員と多方面で尽力し活躍をしました。

教育者としてフレデリックは日本初の女性物理学者である湯浅年子に物理学を指導しています。その実績も我々日本人には新鮮なのではないでしょうか。本当に多彩な魅力を持っていた人だと言えます。

更に意外な側面は柔道との関わりです。フレデリックはフランス柔術クラブの名誉会長でした。柔道創始者の嘉納治五郎も就いていた役職です。フレデリックがいかにフランス国民から敬愛されていたかがわかりますね。

 

〆最後に〆

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(対応英訳)

Introducing this time is Jean Frederick Jorio-Curie, but JF Jorio-Curie was born in Paris, France and lived in Paris until his death. This is an introduction to such a person’s 58-year life. His name is spelled Jean Frédéric Joliot-Curie. Is it easy to introduce as the son-in-law of the famous Mr. and Mrs. Curie? That is, his father-in-law is Pierre Curie and his mother-in-law is Marie Curie. His sister-in-law will be Ave Curie.

In this introduction, I will introduce you to Frederick, who became an assistant to Marie Curie at the Radium Institute. He got to know Mali’s daughter Irene at the institute and deepened his relationship. Soon the two got married. At that point he changed his surname to “Jorio-Curie”. Jorio was the name of Frederick’s lineage and Curie was the name of Irene’s lineage. The two will later receive the Nobel Prize together.

The couple of Frederick and Irene studied the process of reaction to isotopes and created a new substance. Specifically, when aluminum was irradiated with alpha rays, the artificial radioisotope 30P (phosphorus 30) was generated. Frederick then joined the project to build France’s first nuclear reactor in 1947 as Secretary of the French Atomic Energy Agency. There seems to be some debate about the peaceful use of nuclear energy and its impact on the environment, but he is one of the most influential people in France’s current power mix.

As a political activity, Frederick participated in the resistance movement against Nazi Germany during World War II. And after the end of the war, he was also the president of the French National Center for Scientific Research and a professor at Collège de France, while working for the French Atomic Energy Agency mentioned above. He and others have worked extensively with the founding of the Pugwash Conference (an international conference calling for the abolition of nuclear weapons and war), the first chairman of the World Peace Council, and members of the French Communist Party.

As an educator, Frederick teaches physics to Toshiko Yuasa, Japan’s first female physicist. I think that achievement is also fresh for us Japanese. It can be said that he really had a variety of charms.

A more surprising aspect is the relationship with judo. Frederick was the Honorary Chairman of the French Jiu-Jitsu Club. He was also in the position of Judo founder Jigoro Kano. You can see how Frederick was loved by the French people.

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E・ウィグナー
_【1902年11月17日 -4/11改定】

シカゴの画像

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【1902年11月17日 ~ 1995年1月1日】


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その名を書き下すと

ユージン・ポール・ウィグナー

(Eugene Paul Wigner)。

ハンガリー生まれのユダヤ人です。

後程詳しくご紹介しますが、ウィグナーは

ポール・ディラックの義理のお兄さんで、

BCS理論の作成者3人組の中心、

バーディーンの指導教官です。

物凄い人脈を持っている人ですね。また、

「原子核と素粒子の理論における対称性の発見」

に対して1963年の

ノーベル物理学賞を受賞しています。

対称性に着目した素粒子の整理は有効で

その分類方法が無ければ

進まなかった話が沢山あります。

 

 ドイツでのウィグナー

ユージン・ウィグナーは現在のベルリン工科大学

を卒業後そこで勤務していましたが

ナチスドイツのユダヤ人迫害に対して

研究継続の困難を感じアメリカに亡命をします。

米国に亡命後はウィスコンシン大学で

物理学の教授を務め、その後に

プリンストン大学で数学の教授を務めました。

そんなウィグナーはレオ・シラード

エドワード・テラーらと、ナチスドイツが

原子爆弾を開発した時の危険性を

アメリカ政府に対して訴えていきました。

実際にベルリンを追われた過去を持つ

ウィグナーは現実に当時の状況を分析

していたのだろうと思います。つまり、

当時のドイツの科学の水準を分かっていて

ナチスが有していた兵器を理解していたから、

ナチスによる原爆開発の危険を強く感じて

いたのだと思えます。ただ、

実際の歴史を知っている

今の我々にとって見たら取り越し苦労です。

ノルマンディー上陸作戦以降の連合軍の

通常兵器での反攻を思えば、優秀とはいえ、

一国のドイツがヨーロッパ大陸を長期間占領し続ける

事は出来なかったでしょう。

現在で考えると強大化する中国に対して欧米諸国

がどういった対応をするか

気になる所でありますよね。いずれにせよ、

英米が原爆を所有するきっかけを

ウィグナー達は作ったのです。

 原爆とウィグナー

ウィグナーはアメリカの原爆開発のきっかけ

となったアインシュタイン名による大統領宛書簡

の起草対してシラードやテラーと連名で加わり

ました。加えて、原爆を開発するマンハッタン計画

にはメンバーとして加わりました。

晩年にウィグナーは哲学的な傾向を深め、講演録

「自然科学における数学の理不尽な有効性」を残しています。

著名なこの著作は多分野に影響を与えています。また、

ウィグナーの妹は食事の席にディラックを招いた縁で、

彼の奥さんになっています。とても意外な取り合わせですね。

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(2021年11月時点での対応英訳)

If you write down the name

Eugene Paul Wigner.

He is a Hungarian-born Jew. As I will explain in detail later, Wigner is Paul Dirac’s brother-in-law and the supervisor of Bardeen, the center of the trio of creators of BCS theory. He has a tremendous network of contacts, isn’t he? He also received the 1963 Nobel Prize in Physics for his “discovery of symmetry in the theory of nuclei and elementary particles”. There are many stories that the arrangement of elementary particles focusing on symmetry is effective and would not have progressed without the classification method.

Wigner in Germany

Eugene Wigner worked there after graduating from the current Berlin Institute of Technology, but found it difficult to continue his research on the persecution of Jews in Nazi Germany and went into exile in the United States.

After his exile in the United States, he was a professor of physics at the University of Wisconsin and then a professor of mathematics at Princeton University. Wigner, along with Leo Szilard and Edward Teller, appealed to the US government about the dangers of Nazi Germany developing an atomic bomb.

I think Wigner, who had a past of being ousted from Berlin, was actually analyzing the situation at that time. In other words, he knew the level of German science at the time and understood the weapons that the Nazis had, so it seems that he was strongly aware of the danger of the Nazis developing an atomic bomb. However, for those of us who know the actual history, it is a difficult move. Given the counterattack of the Allied forces with conventional weapons since the Invasion of Normandy, Germany would not have been able to continue to occupy the continent for a long time, albeit excellent. When you think about it now, you are wondering how Western countries will respond to the growing power of China. In any case, the Wigners created the opportunity for Britain and the United States to own the atomic bomb.

Atomic bomb and Wigner

Wigner joined Szilard and Teller jointly in drafting a letter to the president in the name of Einstein, which triggered the development of the American atomic bomb. In addition, he joined the Manhattan Project to develop the atomic bomb as a member.

In his later years Wigner deepened his philosophical tendencies, leaving behind his lecture “The Unreasonable Effectiveness of Mathematics in the Natural Sciences”. His prominent work has influenced many disciplines. Wigner’s sister is also his wife because he invited Dirac to his dining table. It’s a very surprising combination.

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クリスティアーン・ホイヘンス
【1629年4月14日‐4/11改訂】

デルフフト工科大学

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【1629年4月14日‐1695年7月8日】


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ホイヘンスの生い立ち

オランダの名家にホイヘンスは生まれ、ライデン大学では

数学と法律を修めました。物理学はその知見を活かす

フィールドだったとも言えます。特に

数学で優秀さを発揮していたと言われています。

光学でのモデルは幾何学的なイメージを

しっかり作ると分かり易く,話が整理しやすいのです。

ホイヘンスの業績

物理学関係の業績としては特に、光学での業績が

顕著です。所謂、ホイヘンスの原理は後の物理学者達

が波動を考えていく上でとても有益だった筈です。

波の性質が突き詰められていき、縦波とか横波とか周波数とか周期とか最終的には波面や、さざ波も、光も同じ定数で表現出来る現象となるのです。この理解が重ね合わせの原理の土台として役立ち、振動解析や音階解析へと話が進んでいくのです。

ホイヘンスに繋がる人脈

更に今世紀初頭にエーレンフェストアインシュタインがホイヘンスの母校であるライデン大学で議論していた事を鑑みると、人々の繋がりに小さな感動さえ覚えます。加えてライデン大学ではローレンツカメリー・オネスも研究を進めていくのです。

科学での一番最初の障壁は一般化を含めた理解だ

と感じます。一般の人々にも説明出来る

「言葉」を出来るだけ沢山、科学者が

作り出すことが大事です。その点で

ホイヘンスは初めの難しさを超えたのです。

 

ホイヘンスの他の業績

別途、ホイヘンスは土星の衛星タイタンの発見したり、振り子の原理を理解して時計を制作したり、オリオン大星雲を発見してスケッチしたり、その進取の精神には驚かされます。特に1675年に世界で初めて火薬を使った往復型の内燃機関を形にしているそうです。ニュートンのプリンキピア刊行が1687年ですので、「瞬時に伝番していく撃力」に関する考察を、ホイヘンスが独自に形にしていると想定されます。特筆すべき一面かと思えます。

なお、いわゆるエーテルの存在をホイヘンスは想定して

後の物理学に議論の土壌を残しました。

この功績も非常に重要だと思います。

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2020/10/18_初版投稿
2022/04/11_改定投稿

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(以下は2021年8月時点での対応英訳です)

Base of Huygens’s LIFE

Huygens was born into a well-known Dutch family and studied mathematics and law at Leiden University. It can be said that physics was a field where he could make use of his knowledge. He is especially said to have showed his excellence in mathematics. An optical model is easy to understand if you make a solid geometric image, and it is easy to organize the story. His physics-related work is particularly remarkable in “Optics”. The so-called “Huygens principle” should have been very useful for later physicists to think about waves.

Huygens’s work

The nature of the wave is scrutinized, and it becomes a phenomenon that the longitudinal wave, the transverse wave, the frequency, the period, and finally the wavefront, the ripples, and the light can be expressed by the same constant. This understanding serves as the basis for the principle of superposition, and the discussion progresses to vibration analysis and scale analysis.

Huygens’s reration

Also, given that Ehrenfest and Einstein were discussing at Leiden University, Huygens’ alma mater, at the beginning of this century, I am even impressed by the connections between people. In addition, Leiden University will also pursue research by Lorenz and Kamerlingh Ones.

I feel that the very first barrier in science is understanding, including generalization. It is important for scientists to create as many “words” as possible that can be explained to the general public. In that respect, Huygens surpassed his initial difficulties.

Huygens’s other works

You will also be amazed at the enterprising spirit of discovering Saturn’s moon Titan, understanding the principles of the pendulum to make watches, and discovering and sketching the Orion Nebula. Especially in 1675, it is said that the world’s first reciprocating internal combustion engine using gunpowder was formed. Since Newton’s Principia was published in 1687, it is assumed that Huygens has uniquely shaped his thoughts on “instantaneous transmission power.” I think this is a noteworthy aspect.

Huygens also left the ground for debate in later physics, assuming the existence of so-called ether. I think this achievement is also very important.

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G・R・キルヒホフ
【1824年3月12日 ~ 1887年10月17日】‐4/11改訂

deutuland

こんにちは、コウジです。キルヒホッフの原稿を改訂します。主な改定点はこの投稿へのリンクの挿入、および文章内容の最高です。ご覧ください。【以下原稿です】


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その名は正しくはグスタフ・ロベルト・キルヒホフでGustav Robert Kirchhoff,とつづります。1824年に現在のロシア領カリーニングラードであるケーニヒスベルクで生まれました。生まれ故郷にあるケーニヒスベルク大学で学び、26歳でブレスラウ大学員外教授に就任しています。
キルヒホッフについて伝えられている内容は主に業績となりますので、本稿は時代背景をもとにして研究内容を中心とした記述を纏めたいと思います。私自身がドイツ系の人になったつもりで出来るだけ正確に記載したいと考えています。ロシアをドイツ語圏と見てるのは強引だと思いますが、そこの考察は後程。;)

実際にキルヒホッフの業績の中で有名なものは①電気回路におけるキルヒホッフの法則、②放射エネルギーについてのキルヒホッフの法則、③反応熱についてのキルヒホッフの法則です。それぞれにとても大事な考察だったといえるでしょう。

まず第一に、回路におけるキルヒホッフの法則が最重要です。別言すれば一番知られています。当然と言えば当然の事実を明言化しているだけだ、とも言えるのですが「回路網中の任意の接続点に流入する電流の和は 0(零)である」というのが第一の法則です。正確にはキルヒホッフの第一法則というべきでしょうが、本稿では単純に「第一の法則」または「第一法則」と省略します。この時代には自由電子運動論を裏付ける理論はありません。電子を直接観測にかけるどころか原子や電子のサイズも想像がつかないで、あくまで電子は一つのモデルでした。こうして考えた時に、正直でドイツで学んだ人は出来る事実で話を組み立てます。つまり出来るだけ正確に観測を続けて観測結果を蓄積して、観測事実の相互関係を定量化するのです。当時は電源と抵抗の単純な回路を考えた時に夫々を要素と考えて回路に落とす作業自体にも議論があったでしょう。つまり、我々が当たり前に書いている回路図も国際度量衡といった枠組みが無くて、ヨーロッパの一部の人々が使うだけの不可思議な記号だったのです。知る人ぞ知る知見だったとも言えます。そんな回路上での一点を考えたら入り込む電流と出ていく電流の総和が等しい。実験事実によるとゼロとなるという事実が第一法則なのです。この法則は今、電気工学(ひいては現代産業)で幅広く応用されています。

そして次に、キルヒホッフの電圧則はキルヒホッフの第2法則とも呼ばれます。回路を考えたときに回路網中の任意の閉ループを考えてみて構成する部分的な電圧を計測したとき、任意の分け方で考えた起電力の総和と電圧降下の総和は等しいのです。抵抗、電球、電線電池からなる回路で何が電気を起こしていて、何が消費するか考えてみてください。そして再強調しますがこの時代には電子の存在は今より不確かです。今の学生が教科書を読んだときに漫画的な丸い物体(模式的な電子の姿)を見て想像するような作業ができないのです。力学と比べて電磁気学や熱学はまとめ難い側面があります。実際には電圧を生じる電池のような物質があり、電気を流し抵抗を持つ同線等の要素を細かく考えていくことで、回路間の色々な場所での電圧降下をかんがえていき、キルヒホッフは第二法則を確立することが出来たのです。

そして1859年にキルヒホッフは黒体放射におけるキルヒホフの放射法則を発見しました。電子の運動でオームの法則に従い議論されるのに対して、熱放射は空間での現象に対しての考察です。また、別の空間的な考察としてキルヒホッフには分光学での考察も行っています。フラウンホーファーが発見したいわゆるフラウンホーファー線(太陽の光線を分解した時に現れる特徴的な吸収)がナトリウムのスペクトルと同じ周波数帯に見受けられると示し、(今で言う分光学的方法で)太陽の内部にあると思われる元素を同定できることを示しました。他に音響学、弾性論に関しても先進的な研究を行っています。

〆最後に〆

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2022/04/04_初回投稿
2022/04/11_改定投稿

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(対応英訳)

His name is correctly Gustav Robert Kirchhoff, spelled Gustav Robert Kirchhoff. He was born in 1824 in what is now Russian Kaliningrad, Königsberg. He studied at the University of Königsberg in his hometown and became a non-professor at the University of Breslau at the age of 26.
Since the content reported about Kirchhoff is mainly his achievements, this article will summarize his research content based on his historical background. I would like to describe it as accurately as possible as if I were a German person. 😉

In fact, the most famous achievements of Kirchhoff are (1) Kirchhoff’s law in electric circuits, (2) Kirchhoff’s law on radiant energy, and (3) Kirchhoff’s law on heat of reaction. It can be said that each was a very important consideration.

First of all, Kirchhoff’s law in the circuit is of utmost importance. In other words, it is the best known. Of course, it can be said that it only clarifies the facts of course, but the first rule is that the sum of the currents flowing into any connection point in the network is 0 (zero). am. To be precise, it should be called Kirchhoff’s first law, but in this article, it is simply abbreviated as “first law” or “first law”. There is no theory to support the theory of free electron motion in this era. Far from directly observing the electrons, I couldn’t imagine the size of the atoms and electrons, and the electrons were just one model. When thinking this way, honest and learned in Germany build up the story with the facts that can be done. In other words, we continue to observe as accurately as possible, accumulate observation results, and quantify the interrelationship of observation facts. At that time, when considering a simple circuit of power supply and resistance, there would have been discussion about the work itself of considering each as an element and dropping it into the circuit. In other words, the circuit diagram we take for granted was a mysterious symbol that was only used by some people in Europe, without a framework such as the General Conference on Weights and Measures. It can be said that it was a knowledge known to those in the know. Considering one point on such a circuit, the sum of the incoming current and the outgoing current is equal. The first law is the fact that it is zero according to the experimental facts. This law is now widely applied in electrical engineering (and thus modern industry).

And then, Kirchhoff’s voltage law is also called Kirchhoff’s second law. When considering a circuit, when considering an arbitrary closed loop in the circuit network and measuring the partial voltage, the sum of the electromotive force and the sum of the voltage drops considered by any division are equal. Think about what is producing and consuming electricity in a circuit consisting of resistors, light bulbs, and electric wire batteries. And again, the existence of electrons in this era is more uncertain than it is now. When a current student reads a textbook, he cannot do the work that he imagines by seeing a cartoon-like round object (a schematic electronic figure). Compared to mechanics, electromagnetism and thermal physics are difficult to summarize. In reality, there is a substance such as a battery that generates voltage, and by carefully considering factors such as the same line that conducts electricity and has resistance, Kirchhoff considers the voltage drop in various places between circuits. I was able to establish the second law.

And in 1859 Kirchhoff discovered Kirchhoff’s law of radiation in blackbody radiation. Whereas the motion of electrons is discussed according to Ohm’s law, thermal radiation is a consideration of phenomena in space. In addition, as another spatial consideration, Kirchhoff is also considering spectroscopy. The so-called Fraunhofer line discovered by Fraunhofer (the characteristic absorption that appears when the sun’s rays are decomposed) is shown to be found in the same frequency band as the spectrum of sodium, inside the sun (in what is now called a spectroscopic method). It was shown that the element that seems to be in can be identified. He also conducts advanced research on acoustics and elasticity.

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ポール・ディラック
【1902年8月8日生まれ‐4/10改訂】

こんにちはコウジです。「ディラック」の原稿を改定します。投稿作業としては関連リンク、内部リンクの改定、個別の人物の追加をしましています。今後もご覧下さい。また、ブログ宣伝でツイッター使います。
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①SyvEgTqxNDfLBX‗3385⇒3395‗②ev2Fz71Tr4x7b1k‗2717⇒2736
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なので合計‗6102+5965=【12057@2/9】⇒6131+6170=【12301@2/20】

作業としてフォロワー増は暢気に続けます。
それよりも紹介の内容を吟味します。【以下原稿です】

【1902年8月8日生まれ ~ 1984年10月20日】


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無口なディラック

イギリスのディラックは

とても謙虚で無口な人でした。

ノーベル賞が決まった際には、

有名になる事を恐れて受賞の辞退を

考えていた様です。そんな人なのですが、

20世紀初頭の天才達がひしめく中で

ファインマンハイゼンベルクシュレディンガーなど

と量子力学を確立します。特にシュレディンガーとは

同じタイミングでノーベル賞を受賞します。

ディラックの人柄を考えるにあたり少し、

その家族について言及します。

ディラックが10代後半の時期にスイスから

家族は国籍を移しています。そしてディラックの

性格形成を語っていく上で家庭環境は大きな要素

だったようです。まず1924年にディラックの

兄が自ら命を断っています。

色々考えた末だったのでしょうか。

ディラック自身も、その父と会話し辛い

場面が多々あったようです。そして、

極端に無口な人になっていったようです。

ディラックと数学

しかしディラックは、闇に沈まずに数学を駆使して輝かしい成果を残しています。特にデルタ関数やブラケット記法は素晴らしいのです。そんな足跡を沢山残しました。

デルタ関数は超関数の仲間で
積分を使って定義されます。
多分野で有用である関数ですが、
物理の分野では観測に伴い、
波束が収束する様子が表現出来るのです。
数学上ではヘビサイド関数を表現出来ます。
現象は捉え方次第で色々な観測が出来て
周波数軸の観点で物事を考える時と
実座標軸(長さの観点)で考える時と
数式上の表現が異なります。
工学的にこの視点を応用した解析も
実用上で非常に便利に利用されていて
市販品のアナライザーで簡単に
業務解析をする事が出来ます。

ブラケット記法とは日本語で「括弧」
の記号を使った表記です。その定式化では
カギカッコ<>の形の 「<」 の部分
だけを「ブラベクトル」と呼び
カギカッコ<>の形の 「>」 の部分
だけを「ケットベクトル」と呼びます。
非常に分り易い表現でブラの部分がベクトル量
に相当してケットの部分が、それと作用するベクトル量に相当する定式化です。作用する前のケットが固有値を持つ場合に固有状態を持つと表現されます。ここでのベクトルがヒルベルトベクトル(無限次元に対応)であることが学部時代の私にとって感動的でした。一瞬にして物理量に対応する状態が記述された気がしました。一次元が線で、二次元が平面で、三次元が立体空間だというくらいしか想像がつかなかった高校時代から想像は大きく膨らみ、いきなり無限次元に話が拡張したのです。一つのベクトルが多くの情報を担います。他方でデルタ関数は観測が一瞬にして波束の収縮を引き起こす様子を表現していると思います。

こうした定式化をディラックは進め、理論から提唱される物質を考え出しています。具体的に反物質と呼ぶ存在がいくつも提唱され、見つかっています。反物質は寿命が通常の物質より若干短かったりしますので日常的ではありませんが、粒子の生成消滅を論じたりする際に大事な要素です。陽子には反陽子があり中性子には反中性子があります。

ディラック来日

そして、何よりディラックは無口な人です。多くの成果を出していく中で各国の物理学会で招待する動きがあって日本にも来ていたようです。ただ性格が性格でですので余り逸話が残っていません。「仁科さんとお茶飲んだ時に・・・」みたいな話が残っていないのです。無論、歳下の朝永さんとか湯川さんは尚更の事、話しづらかったと思えます。話しかけても無言だったのでしょう。多分オランダでも日常会話はほとんどなかったと思われます。ケンブリッジでは「1Dirac」という単位を使われていました。仲間内での意味としては
「1Word/1Hours」が「1Dirac」に相当して
一時間あたりに単語二つを使ったら「2Dirac」消費されたとして換算されました。ディラックは一時間に数Dirac程度しか言葉を残さなかったそうです。

しかし、そんなディラックは真面目な性格、人を騙さない性格もあって周囲から大事にされていた様子が伺われます。このブログのTOP画面で使っている集合写真でも真ん中の列の中央に居ます。若き天才ディラックにアインシュタインやキューリ夫人が気を遣って「君の研究は素晴らしい。これからも頑張って下さいよ!」といった気持で尊重しているような
気がするのです。そして、

ディラックはイギリスの伝統を受け継いだ人でもあります。
ケンブリッジではルーカス教授職を務めました。この名誉は初代・アイザック・バローから始まり二代目・アイザック・ニュートンと続き、最近では宇宙論で名を成したS・W・ホーキング博士が受け継いでいます。


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2020/08/17_初稿投稿
2022/04/10_改定投稿

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(2021年10月時点での対応英訳)

Quiet Dirac

Dirac in England was a very humble and reticent person. When the Nobel Prize was decided, he seemed to be thinking about declining the award for fear of becoming famous. Although he is such a person, he establishes quantum mechanics with Feynman, Heisenberg, Schrodinger, etc. in the midst of the geniuses of the early 20th century. In particular, he won the Nobel Prize at the same time as Schrodinger. In considering Dirac’s personality, I would like to mention his family for a moment.

His family transferred nationality from Switzerland when Dirac was in his late teens. And it seems that the family environment was a big factor in talking about Dirac’s personality formation. First, in 1924, Dirac’s brother died himself. Was he the end of many thoughts? It seems that Dirac himself had many difficult conversations with his father. And he seems to have become an extremely reticent person.

Dirac and math

However, Dirac has achieved brilliant results by making full use of mathematics without sinking into the darkness. Especially the delta function and bracket notation are great. I left a lot of such footprints.

The delta function is a family of generalized functions defined using integrals. It is a useful function in many fields, but in the field of physics, it is possible to express how the wave packet converges with observation. Heaviside functions can be expressed mathematically. Various observations can be made depending on how the phenomenon is perceived, and the mathematical expression differs between when thinking about things from the perspective of the frequency axis and when thinking from the perspective of the actual coordinate axis (from the perspective of length). Analysis that applies this viewpoint engineeringly is also very convenient in practical use, and business analysis can be easily performed with a commercially available analyzer.

Bra-ket notation is a notation that uses the “parentheses” symbol in Japanese. In that formulation
Only the “<” part in the shape of the key bracket <> is called the “bra vector”.
Only the “>” part in the shape of the key bracket <> is called the “ket vector”.
The bra part is a vector amount in a very easy-to-understand expression
The part of the ket corresponding to is the formulation corresponding to the amount of vector acting on it.

Eigenstate and dirac

It is expressed as having an eigenstate when the pre-acting ket has an eigenvalue. It was impressive to me when I was an undergraduate that the vector here is a Hilbert vector (corresponding to infinite dimensions). I felt that the state corresponding to the physical quantity was described in an instant. From high school, when I could only imagine that one dimension was a line, two dimensions were a plane, and three dimensions were a three-dimensional space, my imagination expanded greatly, and the story suddenly expanded to infinite dimensions. One vector carries a lot of information. On the other hand, I think that the delta function expresses how the observation causes the wave function collapse in an instant.

Dirac is proceeding with this formulation and has come up with substances proposed by theory. A number of specific antimatter entities have been proposed and found. Antimatter is not routine because it has a slightly shorter lifespan than normal matter, but it is an important factor when discussing the formation and annihilation of particles. Protons have antiprotons and neutrons have antineutrons.

Dirac visits Japan

And above all, Dirac is a reticent person. While he has produced many achievements, he seems to have come to Japan as he was invited to the Physical Society of Japan. He just doesn’t have much anecdotes because he has a personality. There is no such thing as “when I drank tea with Nishina-san …”. Of course, it seems that Mr. Tomonaga and Mr. Yukawa, who are younger, were even more difficult to talk to.

He would have been silent when he spoke. Perhaps there was little daily conversation in the Netherlands. In Cambridge, the unit “1 Dirac” was used. As for the meaning within the group, “1 Word / 1 Hours” is equivalent to “1 Dirac”, and if two words are used per hour, it is converted as “2 Dirac” consumed. Dirac left only a few words per hour.

However, it seems that such Dirac was taken care of by the people around him because of his serious personality and personality that does not deceive people. The group photo used on the TOP screen of this blog is also in the center of the middle row. I feel that Einstein and Mrs. Curie care about the young genius Dirac and respect him with the feeling that “Your research is wonderful. Please continue to do your best!”

And Dirac is also a man who inherited the British tradition.
He was a Lucas professor in Cambridge. This honor begins with the first Isaac Barrow, continues with the second Isaac Newton, and has recently been inherited by Dr. SW Hawking, who has made a name for himself in cosmology.

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ロバート・ボイル
【1627年1月25日生まれ‐4/10改訂】

オックスフォード大学(OXFORD)

こんにちはコウジです。「ボイル」の原稿を改定します。投稿作業としては関連リンク、内部リンクの改定、個別の人物の追加をしましています。今後もご覧下さい。また、ブログ宣伝でツイッター使います。
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【1627年1月25日生まれ ~ 1691年12月31日没】


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アイルランドの貴公子ボイル

その名は正確には

サー・ロバート・ボイル: Sir Robert Boyle_

英国アイルランド生まれの物理学者です。

初代コーク伯爵リチャード・ボイルと

キャサリンの間に7番目の男子として生まれ

アイルランド現地の家庭に里子に出されます。

その結果、ボイルはアイルランド語を

理解し、通訳レベルまで習得しました。

ボイルはフランス人の家庭教師と

海外旅行をしていて、1641年冬には

イタリアのフィレンツェで過ごし、

ガリレオ・ガリレイの教えを受けます。

ガリレオは1642年に亡くなりますが、

まさに晩年のガリレオと接したのですね。

今の日本人ならボイルは中学生の年齢でしょうか。

多感な時期に良い刺激を受けた事でしょう。

帰国後のボイル

1644年に大陸の長旅を終えるとボイルは

多くの時間を科学に使い、後の王立協会

に繋がる集まりである「ロンドン理学協会」、

別名、「不可視の学院」とも呼ばれた集まりに

参加するようになります。

ボイル家の先代が亡くなって

いましたので、ボイルはアイルランドでの

立場もあったのですが、ロンドンで頻繁に

会合が開かれた事情もあり、ボイルは最終的には

オックスフォードに移り住みます。

実験器具が入手し辛いといった切実な

側面もあったようです。

ボイルとその法則

その後、フックを助手としてボイルは空気

ポンプを制作して圧力の研究を始めます。

フランスのパスカルが同じ時代に研究をしていること

を考えると当時の物理学会での関心が

圧力にあった事が分かりますね。ニュートン力学

が成立していない時代には「力を加える」こと

よりも「圧力を加える」方が定量的に現象を把握出来る

作業だったとも言えるでしょうか。フック

ボイルの助手なので、ばねに関わる力の定式化が

出来ていないと思われます。そんな時代に力は

重力と関連して評価するしかなかったのでしょうか。

個人的に関心を持ってしまいました。

やがてはボイルの研究は圧力と体積との関係を

示す、ボイルの法則に繋がります。

ただ1660年迄にボイルは

「体積は圧力に反比例する」と明言していて、

書物での記録はあるようですが、

温度や分子量との関連を含め、

現象の定式化には至らなかったようです。

『実際の定式化はヘンリー・パワー

Henry Power FRS (1623–1668))によって

1661年になされているようです。』

【以上、3行は英語版Wikipedia情報】

このボイルの考案した「ボイルの法則」が一つの基礎となり

熱・統計力学の土台が構築されていきます。

更にこの後、

J・C・シャルルが考案した「シャルルの法則」が

温度との関係を与えますので高校レベルの知識として

「ボイル・シャルルの法則」が確立される訳です。

低圧力・高温度の条件下で、異なる気体間で法則が成

り立つことは自明ではないのですが

経験的法則として成り立ち、

後に様々な方式で発展していきます。

最後に、ボイルは錬金術の伝統を受継いで

いましたが、近代的な視点を持ち「元素」を想定して、

混合物と化合物を明確に区別した点で秀でています。

ボイルが明確にしたパラダイムシフト

は非常に大きな業績だと言えるのではないでしょうか。

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【対応英訳】

His name is Sir Robert Boyle.

He is a physicist born in Ireland, England. He was born as the seventh boy between the first Earl of Cork Richard Boyle and Catherine and is fostered in a local Irish family. As a result, Boyle understood Irish and mastered it to the level of an interpreter.

In his younger days, Boyle travels abroad with a French tutor and spends the winter of 1641 in Florence, Italy, where he is taught by Galileo Galilei.

Galileo died in 1642, and Boyle had in contact with Galileo in his later years. Is Boyle the age of junior high school for Japanese people today, isn’t it? He would have been well inspired during a sensitive period.

After completing his long journey on the continent in 1644, Boyle spent a lot of his time in science, attending a gathering that later led to the Royal Society, also known as the “London Science Society,” also known as the “Invisible College.” 

Boyle had a position in Ireland because the predecessor of the Boyle family had died, but due to frequent meetings in London, Boyle eventually moved to Oxford.

He seems to have had an urgent aspect that it was difficult to obtain laboratory equipment. After that, with Hook as his assistant, Boyle created an air pump and began researching pressure.

Considering that Pascal in France was doing research at the same time, you can see that the interest at the Physical Society  at that time was about” pressure “. In an era when Newtonian mechanics was not established, it can be said that “applying pressure” was a task that could quantitatively grasp the phenomenon rather than “applying force”. Since the hook is a boil assistant, it seems that the force related to the Spring has not been formulated. Was force only evaluated in relation to gravity in such an era?

I’m personally interested. Boyle’s research eventually led to Boyle’s law, which shows the relationship between pressure and volume.

However, by 1660, Boyle had stated that “volume is inversely proportional to pressure,” and although there seems to be a record in his book, the phenomenon was not formulated, including the relationship with temperature and molecular weight. It seems.

“The actual formulation seems to have been done in 1661 by

Henry Power FRS (1623–1668)).”

[The above 2 lines are English translation version of Wikipedia information]

The “Boyle’s Law” devised by Boyle will be the basis for building the foundation of statistical mechanics. Furthermore, after this, “Charles’s law” devised by JC Charles gives a relationship with temperature, so “Boyle-Charles’s law” as high school level knowledge is established. It is not obvious that the law holds between different gases under low pressure and high temperature conditions, but it holds as an empirical law and later develops in various ways.

Finally, Boyle has inherited the tradition of alchemy, but excels in having a modern perspective and assuming “elements” to make a clear distinction between mixtures and compounds. It can be said that the paradigm shift that Boyle clarified is a very big achievement.

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トマス・メンデンホール
【1841年10月4日~1924年3月23日】‐4/10改訂

東大

こんにちはコウジです。「メンデンホール」の原稿を改定します。投稿作業としては関連リンク、内部リンクの改定、個別の人物の追加をしましています。今後もご覧下さい。また、ブログ宣伝でツイッター使います。
7/11(日)朝の時点でフォロワーは合計【11691】でした。半年後の2/9と4/5時点で‗
①SyvEgTqxNDfLBX‗3385⇒3452‗②ev2Fz71Tr4x7b1k‗2717⇒2876
‗③BLLpQ8kta98RLO9‗2543⇒3212‗④KazenoKouji‗3422⇒4088
なので合計‗6102+5965=【12067@2/9】⇒6328+7300【13628@4/5】

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メンデンホールはいわゆる「お雇い外国人」さんで、名前の綴りはThomas Corwin Mendenhallです。アメリカのオハイオ州生まれです。アメリカから先だって来日していた動物学者であるE・S・モースの推薦でメンデンホールは1878年に東京帝大の物理教師となります。黎明期の日本教育に先鞭をつけたのです。

メンデンホールは設立されたばかり東大理学部観象台の観測主任となり気候を観測しました。実際に1879年1月から2年間にわたり東京本郷で気象観測に従事したのです。メンデンホールは直接気象に関わるのみではなく日本で地震が頻発する環境に着目し、そうした事情を考慮して、観象台に地震計を設置を導入していきました。当時の日本では一般にそうした観測環境に対しての知見が乏しかったかったのです。結果として地震観測に関する業績を残し、日本地震学会の設立につながっていきます。メンデンホールはこの側面でも日本の教育に貢献をしています。

こうしてメンデンホールは日本物理学の黎明期において 気象学。地震学を確立していきました。一方で単位系の確立をしていった人です。 また富士山頂で重力測定や天文気象の観測を行い、日本に地球物理学を広げていきました。

日本の物理学者では特に、田中館愛橘がメンデンホールから力学、熱力学を学んでいます。師ともいえるメンデンホールとの出会いは愛橘に多大な影響を与えたと言われています。例えば、1879年(明治時代)にメンデンホールを通じてエジソンのフォノグラフの情報を得て、実際に田中舘は試作をしています。音響や振動の解析を試みてい定量的な解析が日本で始まったのです。また、田中舘はメンデンホールによる重力測定に参加し、東京と富士山で作業しました。

メイデンホールは2年の赴任の後にアメリカへ帰国をしましたが、海岸陸地測量局長時代にアメリカの州境と国境のを測定して定めました。緯度、経度で州境が引かれている現在のアメリカの州の形を作ったのです。メイデンホールの業績は評価されていて、アラスカの氷河のひとつに今でもメンデンホール氷河という名前が残っています。メイデンホールの局長時代の仕事に関連して命名されています。

〆最後に〆

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2022/04/03_初回投稿
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(対応英訳)

Mendenhall is a so-called “hired foreigner” and the spelling of the name is Thomas Corwin Mendenhall. He was born in Ohio, USA. At the recommendation of E.S. Morse, a zoologist who had come to Japan earlier than the United States, Menden Hall became a physics teacher at the University of Tokyo in 1878. He pioneered Japanese education in the early days.

Menden Hall was just established and he became the chief observer of the Observatory of the Faculty of Science at the University of Tokyo, observing the climate. He actually engaged in meteorological observations in Hongo, Tokyo for two years from January 1879. Menden Hall focused not only on the weather directly but also on the environment where earthquakes occur frequently in Japan, and in consideration of such circumstances, we introduced seismographs on the observatory. In Japan at that time, I generally wanted to have little knowledge about such an observation environment. As a result, he left behind his achievements in seismic observation and led to the establishment of the Seismological Society of Japan. Menden Hall also contributes to Japanese education in this aspect.

Thus Mendenhall was a meteorologist in the early days of Japanese physics. We have established seismology. He, on the other hand, is the one who established the system of units. He also expanded geophysics to Japan by measuring gravity and astronomical meteorology at the summit of Mt. Fuji.

Among Japanese physicists, Tanakadate Aikitsu is learning mechanics and thermodynamics from Mendenhall. It is said that the encounter with Mendenhall, who can be said to be a teacher, had a great influence on Aitachi. For example, in 1879 (Meiji era), Tanakadate actually made a prototype after obtaining information on Edison’s phonograph through the Mendenhall. He tried to analyze acoustics and vibrations, and quantitative analysis began in Japan. In addition, Tanakadate participated in the gravity measurement by Mendenhall and worked in Tokyo and Mt. Fuji.

Maiden Hall returned to the United States after two years in office, but he measured and determined the borders and borders of the United States when he was Director of the Coastal Land Survey. He created the shape of the current American state, which is bordered by latitude and longitude. Maidenhall’s achievements have been well received, and one of Alaska’s glaciers still retains the name Mendenhall Glacier. Named in connection with his work as director of his Maiden Hall.