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本多光太郎(ほんだこうたろう)
【雑種の犬と大学に。「今が大切」「つとめてやむな」】‐7/30改訂

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。
では、ご覧ください。内容を整理し、
主にリンクを見直しました。
現時点での英訳も考えています。
(以下原稿です)

永久磁石発電機
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【1870年3月24日生まれ ~ 1954年2月12日没】


【画像引用:国立国会図書館】

本多光太郎について

本多光太郎は日本の鉄鋼業界での研究土壌を作り上げ、

研究者として多くの人材を育て上げた先人です。

人物としては、

彼の逸話を聞けば聞くほど人間臭い所が感じられて、

個人的に本人に会ってみたくなります。

見てみたいです。

本多光太郎はいつも古い着物を着て、

靴底が擦り切れるまで靴を履き、雑種の犬を引きながら

大学に出勤していたようです。そんな人です。

本多光太郎は子供時代は学校の成績も悪くて、大柄な割に何時も青ばなをたらしてて、
「はなたらしの光さん」と呼ばれていた学校嫌いの子供でした。そんな
本多光太郎が東大に進学して理学系の物理学科を卒業したそうです。
東大では田中舘愛橘らの流れを受ける日本物理学の教育体系の中で学びました。

今は理物と物工(りぶつ、と、ぶっこう)があるのでしょうが、当時はどうだったのでしょうか。
その後に本多光太郎はドイツとイギリスに留学します。当時日本人研究者の多くは
ボルツマンヘルツらドイツ物理学の影響を受けていました。帰国後、東北大学で教授を務め
理化学研究所で研究を進める中で有名な「KS鋼」を発明します。

本多光太郎は金属に対しての材料物性学の研究を世界に先駆けて始めていました。
より性能の優れた材料を作り上げる為に
所謂(いわゆる)「冶金」の過程を研究していったのです。

本多光太郎の業績

KS鋼(新KS鋼)は発明時に世界最強の永久磁石でした。

現代での硬質磁性材料に繋がる研究の端緒をつけたのです。

それまで刀などの特定目的で鍛えられてきた日本の鉄が

工業生産に耐える性能を備えて差別化出来るように

なっていくのです。この発明がなされてから益々、

各種産業で多くの日本の鉄が使われていくのです。

KS鋼とは何か

KS鋼(ケーエスこう)は、本多光太郎が1917年に開発した永久磁石用鋼材です。
「KS」は共同研究者であった住友吉左衛門家の鈴木(K)と、住友伸銅所(S)
に由来するとされ、日本の磁性材料研究を世界水準へ押し上げた発明でした。

当時は強力な永久磁石を作ることが難しく、電気機器や計測機器の性能向上には大きな壁が
ありました。
本多は鉄にコバルトやタングステンなどを加え、熱処理条件を工夫することで、
それまで世界最高だった磁石鋼を上回る性能を実現します。

KS鋼はその後改良され、新KS鋼へ発展しました。
この成果は発電機・モーター・計器・電話機・無線通信機器など、
近代工業の幅広い分野で利用され、日本の特殊鋼産業の発展にも大きく貢献しました。

現在ではネオジム磁石など希土類磁石が主流となっていますが、
「高性能永久磁石を材料設計によって生み出す」という発想は、
KS鋼から始まったと言っても過言ではありません。本多光太郎は、
日本における材料科学・磁性材料研究の礎を築いた人物なのです。

 

本多光太郎と実験

なにより、本多光太郎は無類の実験好きでした。「今日は晴れているから実験しよう」
と言いながら実験を始めたり、「今日は雨だから実験しよう」
と言って実験を続けたりしていました。そんな会話を始める時には
周囲の人は「ぁ、本多節だ!(笑)」と感じたことでしょう

独独の朗らかな緊張感が生まれたことでしょう。また、結婚式をあげた時に
本多光太郎本人が居なかったので、探しに行ったら実験室で
実験をしていたという。とぼけたエピソードもあります。

全般的に身の回りの細かい事は気にかけない大雑把な人でした。
そんな本多光太郎は組織を育て人を育てたことで有名です。
要職を務めたり創設に携わった研究機関を羅列すると、

東北帝国大学附属鉄鋼研究所、
東北帝国大学総長、
千葉工業大学設立、
東京理科大学初代学長、
日本金属学会創設初代会長、
後の電磁研初代理事長

です。
指導している仲間に対しては毎日のように「どんな状況?」と実験の具合を
尋ねていき、論文に対して細かく意見を加えていたそうです。

最後に本多光太郎の言葉を残します

「今が大切」「つとめてやむな」

私にはトーマス・マンの
「くよくよするな働け」という言葉と重なります。
各人の人生・やりがいと、つながる言葉です。
本多光太郎は仕事として、人生として「実験を
何時までも考えていた人」だったのでしょう。

この分野の人物

田中舘愛橘

長岡半太郎

中村清二

ボルツマン

ピエール・キュリー

ロバート・ミリカン 

〆最後に〆

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(2021年10月時点での対応英訳)

About Kotaro Honda

Kotaro Honda is a pioneer who created the research soil in the Japanese steel industry and nurtured many human resources as a researcher. As a person, the more I listen to his anecdotes, the more human-like I feel, and the more I want to meet him. I wanna see.

It seems that Kotaro Honda always wore an old kimono, trousers until his soles were worn out, and went to college while pulling a hybrid dog. He is such a person.

Kotaro Honda was a child who hated school and was called “Hanatarashi no Hikari-san” because he had poor grades at school when he was a child. Kotaro Honda goes on to the University of Tokyo and graduates from the Department of Physics in Science. Nowadays, there are physical objects and craftsmen (Ributsu, and Bukko), but how was it at that time?

Works of Honda Koutarou

After that, Kotaro Honda will study abroad in Germany and England. After returning to Japan, he invented the famous “KS Steel” while working as a professor at Tohoku University and conducting research at RIKEN. Kotaro Honda was the first in the world to start research on material properties of metals. He studied the so-called “metallurgical” process in order to create better performing materials.

KS Steel (new KS Steel) was the strongest permanent magnet in the world at the time of his invention. He began his research on modern hard magnetic materials. Japanese iron, which had been trained for specific purposes such as swords, will be able to differentiate itself with the ability to withstand industrial production. Since the invention of this invention, more and more Japanese iron has been used in various industries.

Experiment with Kotaro Honda

Above all, Kotaro Honda loved experiments like no other. He started his experiment saying “it’s sunny today so let’s experiment” and continued his experiment saying “it’s raining today so let’s experiment”. Kotaro Honda wasn’t there when he had the wedding, so when he went looking for it, he was experimenting in the laboratory. There is also a blurry episode. He was a rough person who generally didn’t care about the details around him.

Engaged Organaization

Kotaro Honda is famous for raising organizations and raising people. When he lists the research institutes that have held important positions or were involved in the founding,

Tohoku Imperial University Steel Research Institute,
President of Tohoku Imperial University,
Established Chiba Institute of Technology,
First President of Tokyo University of Science,
Founding Chairman of the Japan Institute of Metals,
He was later the first deputy director of the Institute of Electromagnetics.

He asked his colleagues about the condition of the experiment on a daily basis, asking “what kind of situation?” And added detailed opinions to his treatise.

Finally, I will leave the words of Kotaro Honda.

“Now is important” “Don’t stop”

To me, it overlaps with Thomas Mann’s words, “Don’t work hard.” It is a word that connects each person’s life and rewards. Kotaro Honda must have been “a person who had been thinking about experiments forever” in his life as his job.

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中村清二
【地球物理・実験物理を研究し多くの人材を育てました】-7/29改訂

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。
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現時点での英訳も考えています。
(以下原稿です)

光学ガラス三角
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【1869年10月28日〜1960年7月18日】

中村清二(1878-1963)は、日本の物理学者・地球物理学者であり、
光学・火山学・物理教育という三つの分野で大きな足跡を残しました。
東京帝国大学教授として多くの研究者を育成するとともに、
『理科年表』の物理部門監修や実験物理学教育の充実にも尽力し、
近代日本の物理学の発展を支えた人物として知られています。

中村清二の時代のキャリア形成

中村清二は福井県に生まれ、東京帝国大学へ進学しました。
在学中は田中舘愛橘の指導を受けていますが、その後の
キャリア形成には、現代とは異なる時代背景を強く感じさせるものがあります。

1903年、中村は30代で助教授の地位にありましたが、その時期に
ドイツへ留学しています。特に興味深いのはその後で、
帰国後に博士号を取得している点です。

当時の修士課程の位置づけについては詳しく分かりませんが、
博士課程を修了する前に助教授として学生を指導し、
さらに海外留学を経験したうえで博士号を取得していたことになります。
現代の感覚からすると、時代の違いを強く感じさせる経歴です。

現在であれば、博士号を取得していない助教授、
あるいは准教授はほとんど存在しないのではないでしょうか。

【出典:wikipedia】


中村清二の研究業績

中村清二は、何よりもまず光学の研究で知られています。
量子力学が成立していく時代に関連する研究を行い、
光弾性実験やプリズムの最小偏角に関する研究などを手がけました。

また、地球物理学の分野でも重要な業績を残しています。
大正時代に三原山が噴火した際には、地球内部の物理学に
強い関心を持つようになり、火山学の確立に寄与しました。
三原山や浅間山における研究体制の整備にも大きく貢献しています。

さらに中村は、物理学教育にも情熱を注ぎました。物理の教科書を
繰り返し編纂し、とりわけ東京帝国大学の講義科目であった
「実験物理学」は、後の日本の物理学人材を育成し、学問の発展の礎を築いたといえます。

1925年には『理科年表』が刊行されますが、その際、
中村は物理部門の監修者として重要な役割を果たしました。
定年後も研究意欲は衰えず、八代海の不知火や魔鏡の研究に取り組んでいます。

理科年表とは何か

『理科年表』は、日本で最も権威ある科学データ集の一つです。
1925年(大正14年)に創刊され、現在も毎年改訂版が刊行されています。
天文学・物理学・化学・地学・生物学・気象学・地震学など、
自然科学に関する膨大な数値や定数、観測データを一冊にまとめた資料であり、
研究者だけでなく、大学・高校の教育現場、企業の技術者、
さらには新聞社や出版社でも広く利用されています。

理科年表の特徴は、単なる辞典ではなく、
「正確な数値を調べるための標準資料」である点です。
例えば、プランク定数、光速度、重力加速度、元素の物理定数、
天体の位置、日食・月食の時刻、各地の気象統計、
地震・火山活動の記録など、科学研究で必要となる基礎データが
体系的に整理されています。
現在でも論文や教科書を執筆する際の重要な参考資料として利用されています。

創刊当時、中村清二は物理部門の監修を担当しました。
これは単に記事を書いたという意味ではなく、
日本の物理学者が共通して利用できる基礎データを整備し、
全国の教育・研究活動を支える役割を担ったことを意味します。
研究成果は論文だけでは発展しません。
誰もが同じ基準で数値を扱える環境を整備することも、
科学の発展には欠かせない仕事でした。
中村清二は研究者であると同時に、日本の科学基盤を築いた
教育者・編纂者でもあったのです。

創刊から100年近く経った現在でも『理科年表』は刊行され続けており、
日本の科学界を支える代表的な出版物として高く評価されています。
中村清二の仕事は、研究成果だけでなく、後世の研究者が
利用する知識基盤の整備という形でも受け継がれているのです。


中村清二の人柄と周辺人物

中村清二は、妻との間に二男二女をもうけました。また、
作家の中村正常は兄の子にあたります。中村正常は、
三原山の調査に同行したこともあり、学問的な交流があったことがうかがえます。

なお、中村正常の長女は女優の中村メイコとして知られています。

こうした多くの業績と人とのつながりを残し、中村清二は
91歳で生涯を閉じました。まさに大往生といえるでしょう。


関連する物理学者

◀ 前の人物:田中舘愛橘

日本近代物理学の礎を築き、中村清二の恩師。

▶ 次の人物:長岡半太郎

日本初期の原子論研究を牽引した物理学者。

この分野の物理学者(日本近代物理学)

田中舘愛橘

中村清二

長岡半太郎

本多光太郎

アルベルト・アインシュタイン

マックス・プランク

〆最後に〆

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(対応英訳)

Seiji Nakamura was born in Fukui prefecture and enterd into the University of Tokyo. There, he was taught by Tanakadate Aikitsu, and from there I felt the times in his future career. He was an assistant professor in his thirties in 1903, when he went to Germany to study abroad. The part where I felt the times was when I thought about it, but Nakamura got his PhD after returning to Japan. I don’t know how to treated a master’s degree at that time, but before finishing his doctoral course, he taught students as an assistant professor, studied abroad, and then got a PhD. He felt that the times were different.

Nakamura is known for his research in optics. He has been doing related work in the era when quantum mechanics was established, and he is studying photoelastic experiments and the minimum declination of prisms.

Nakamura is also conducting research in the field of geophysics. Especially when Mt. Mihara erupted in the Taisho era, he was interested in the physics inside the earth. He has established volcanology and is contributing to the development of research systems for Mt. Mihara and Mt. Asama. ..

He also repeated the work he enthusiastically put together a physics textbook. In addition, experimental physics, one of the lecture subjects at the University of Tokyo, cultivated human resources in Japan laters and laid the foundation for the development of physics. His science chronology was released in 1925, when he left his job as a supervisor in the physics department.
After retirement, Nakamura is conducting research on Shiranui and magic mirrors in the Yashiro Sea.

Personality of Seiji Nakamura, etc.
Nakamura could have a second son and a second daughter with his wife.
The writer, Masatsune Nakamura, was the son of his older brother and also accompanied him to the investigation of Mt. Mihara.
The normal eldest daughter is Meiko Nakamura, an actress.
Nakamura was called, leaving behind many of them. He is 91 years old.

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ヨハネス・ゾンマーフェルト
【粒子の運動を考察して量子化条件を進化|立派な人材を育てた良き先生】-7/28改訂

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【1868年12月5日生まれ ~ 1951年4月26日没】


【引用:Wikipedia】

その名の綴りはArnold Johannes Sommerfeld。
ドイツのゾンマーフェルトは

 

パウリハイゼンベルク の指導をして

育てあげた大きな実績があります。

 

 この二人は量子力学で大きな仕事をしていて

この二人が抜けていたら

量子力学の発展は大きく遅れていたでしょう。

「とても意義深い仕事」をしてきた人達でした。

パウリもハイゼンベルグも

ゾンマーフェルトの研究室を離れた後に

対象の深い部分に対しての考察を進めています。

また、ゾンマーフェルトを語るうえで忘れたくないのは
ボーア・ゾンマーフェルトの量子化条件です。

ゾンマーフェルト最大の功績は、
ボーアの原子模型をさらに発展させたことです。
ボーアは電子が円軌道を描くと考えましたが、
ゾンマーフェルトは電子は楕円軌道も取り得ると考え、
さらに相対論的効果まで取り入れました。
その結果、水素原子スペクトルの微細構造を
より正確に説明できるようになり、量子論は単純な
原子模型から本格的な理論体系へと発展する
大きな一歩を踏み出しました。

また、ボーア=ゾンマーフェルトの量子化条件は、
後にハイゼンベルクやシュレーディンガーらが築く
量子力学への橋渡しとなりました。
現代では古い理論として位置付けられていますが、
量子力学誕生までの重要な歴史的段階として、
科学史の中で非常に高く評価されています。 

そこがまさに

電子軌道の自由度を考える事に繋がったのです

「ゾンマーフェルトは、ボーアの原子模型を拡張し、電子の軌道が必ずしも単純な円ではなく、
楕円軌道を取り得ることを理論的に示しました。これは、同じ原子でも観測されるスペクトル線が
微細に分裂する現象を説明する鍵となりました。ボーアの量子化条件をより一般化し、
高次の量子数や相対論的効果まで含めた理論を展開することにより、
量子力学が本格的に発展する土台を築いたのです。Encyclopedia Britannica

微細構造とは何か

ゾンマーフェルトの業績を理解する上で欠かせないのが「微細構造
(Fine Structure)」です。これは、水素原子などが放つ光のスペクトル線を
高い分解能で観測すると、本来一本であるはずの線が僅かに複数へ分裂して
見える現象を指します。19世紀末から20世紀初頭にかけて、この現象は
物理学者たちを大いに悩ませました。

ボーアの原子模型では、電子は原子核の周囲を円軌道で運動すると考えられて
いました。この理論だけでも水素スペクトルの主要な波長は説明できましたが、
実際の観測ではさらに細かな分裂が存在していました。そこで
ゾンマーフェルトは電子軌道を円だけでなく楕円まで拡張し、
角運動量の量子化を一般化するとともに、電子の相対論的効果も理論へ
取り入れました。その結果、観測されていた微細構造を定量的に説明することに
成功したのです。

もっとも、現在では微細構造は単純な楕円軌道だけで説明されるものではなく、
電子のスピンやスピン・軌道相互作用、さらには相対論的補正などを含めた
量子力学によって理解されています。それでもゾンマーフェルトの理論は、
古典的なボーア模型から現代量子力学へ橋を架けた極めて重要な中間段階
でした。実験で観測されるスペクトルをより精密に説明しようとした彼の試みは、
後にハイゼンベルクやシュレーディンガーらによる量子力学の完成へと
受け継がれていきます。微細構造の研究は、「原子の内部では古典力学だけでは
説明できない現象が起きている」ことを示した歴史的証拠の一つでもありました。

 

より詳細にはボーアの提唱した量子化条件を

進化させて、より高次の拡張を展開していった

と言えるでしょう。同時期の

ウィルソンや石原純の理論も特筆すべきです。

 

【以下2原論文はWikipediaより引用しました】

  • Wilson, W. (1915). “The Quantum Theory of Radiation and Line Spectra”. Phil. Mag.. Series 6 29 (174): 795-802. doi:10.1080/14786440608635362.
  • Ishihara, J. (1915). “Die universelle Bedeutung dse Wirkungsquantums”. Tokyo Sugaku Buturigakkai Kizi. Ser. 2 8: 106–116. JOI:JST.Journalarchive/ptmps1907/8.106.

こういった話をしていて感じるのは
どうやっても見えない世界に
何とか形を与える事は素晴らしい、
という事実です。

実際に形を与える事は文化的発展に繋がり

世界を変えていくのです。

ダイナミックな世界かと思います。

日々の暮らしでは感じられない世界です。

そして、
ゾンマーフェルトは事故で命を落としています。
残念な最後ですね。残した物が大きいだけに残念です。
後程、AIで彼のお人柄を分析してみたくなりました。
少しでも思い出したい人って居ますから。


関連する物理学者

◀ 前の人物:ニールス・ボーア
量子化条件を提唱し、
ゾンマーフェルトによって発展した。

▶ 次の人物:ヴェルナー・ハイゼンベルク
ゾンマーフェルト門下から
行列力学を築いた量子力学者。

この分野の物理学者(量子論)

プランク

アインシュタイン

ボーア

ゾンマーフェルト

パウリ

ハイゼンベルク

シュレーディンガー

ディラック 

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Sommerfeld in Germany has a great track record

of growing up with the guidance of Pauli and Heisenberg. If these two people were missing, the development of quantum mechanics would have been greatly delayed. They were people who had done “very meaningful work”. Both Pauli and Heisenberg have been thinking about the deeper parts of the subject after leaving Sommerfeld’s laboratory.

Personally in Sommerfeld’s work, I was impressed with the method of expanding and calculating the integral path. I thought that was exactly what led to thinking about the degree of freedom of electron orbits. ..

Sommerfeld’s idea is that an electron should draw an elliptical locus without moving in a simple circular orbit. In more detail, it can be said that Bohr’s proposed quantization conditions were evolved to develop higher-order extensions. The theory of Wilson and Jun Ishiwara at the same time is also noteworthy.

[The following two original papers are quoted from Wikipedia]

Wilson, W. (1915). “The Quantum Theory of Radiation and Line Spectra”. Phil. Mag .. Series 6 29 (174): 795-802. Doi: 10.1080 / 14786440608635362.
Ishihara, J. (1915). “Die universelle Bedeutung dse Wirkungsquantums”. Tokyo Sugaku Buturigakkai Kizi. Ser. 2 8: 106–116. JOI: JST.Journalarchive / plotms1907 / 8.106.

What I feel when talking about this is that it is wonderful to somehow give shape to the invisible world. Actually giving shape leads to cultural development and changes the world. I think it’s a dynamic world. It’s a world you can’t feel in your daily life.

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ロバート・ミリカン
【油滴重量から電気素量を導いた米国の実験家】-7/27改訂

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【1868年3月22日 ~ 1953年12月19日】


ロバート・A・ミリカン(1868–1953_写真は1891のもの)
光電効果と油滴実験で知られるアメリカの実験物理学者
出典:Wikimedia Commons(Public Domain)

ミリカンは非常に優れたアメリカの実験家でした。

コロンビア大学で物理学の博士号をとりますが、ミリカンが

同大学での初めての物理博士習得者だったそうです。

光の二重性が議論されていた当時、ミリカン自身は必ずしも
「光量子仮説に積極的」だったわけではありません。むしろ、
アインシュタインの光電効果の理論に対しては
強い懐疑を抱いていました。

しかし、実験家として徹底的に検証を重ねた結果、光電効果の
振る舞いは粒子性を前提としなければ説明できないことを、
ミリカン自身の精密実験が示すことになります。
彼は自らが慎重であった仮説を、実験によって
支持せざるを得なかったのです。

ミリカンは長年にわたり光電効果を精密に測定し、
入射する光の振動数と飛び出す電子の運動エネルギーとの関係を
詳しく調べました。その結果はアインシュタインの
光量子仮説と驚くほど一致しており、自ら懐疑的であった
理論を実験によって裏付ける結果となりました。
さらに、
この測定からプランク定数を極めて高い精度で決定し、

量子論の発展に決定的な貢献を果たしたのです。

 

また、そうした実験と光の波長からプランク定数を定めました。

思えば、2022年のノーベル賞も実験家に贈られています。時代・時代で
現実世界との対応を確かめていくのが実験家です。同時に、実験家が
事実を示すことで理論が進みます。プランク定数は今や多くの論文の中で
当たり前に使われている定数です。

電気素量を導き出した実験

金属板の間を落下する液体の運動を考え、ミリカンらは

重力効果に対してクーロン力の兼ね合いを計算に取込み、

厳密に計測値が求まる油滴重量から電気素量を導きます。

ミリカンは極めて小さな油滴を電場の中に浮かせ、
重力と電気力がつり合う条件を精密に測定しました。
すると、どの油滴が持つ電荷もある一定の最小単位の
整数倍になっていることが分かります。
この最小単位こそ
電子1個が持つ電気量、
すなわち電気素量でした。 

この油滴の実験の素晴らしい所は量子化する事で電子の

粒子性を示した点です。電流が計測されるイメージを考え

みた時に、その担い手の電子が連続量なのか粒子のように

考えられるか、当時は不確かだったのです。

ミリカンの実験結果では粒子性が示されました。

この2つの業績でミリカンはノーベル賞を受けました。

ミリカンは非常に優れた教育者

多くの教科書を世に送り、その中で少し先んじた

概念をミリカンは紹介しています。更にミリカンは

カリフォルニア工科大学の創設に大きく関わりました。

今でも同大学に彼の名を冠した建物があるそうです。

【そもそも米国の通例で、1号館と言う代わりに
ミリカン・ホールという名をつけたりします】


関連する科学者

この分野の科学者(電子・量子論)

マックス・プランク

ヴィルヘルム・ヴィーン

アルベルト・アインシュタイン

J.J.トムソン

アーネスト・ラザフォード

ロバート・ミリカン

ニールス・ボーア

ヴェルナー・ハイゼンベルク 



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(対応英訳)

Millican was a very good American experimenter.

He holds a PhD in physics from Columbia University, and Millican was the first PhD in physics at Columbia University.

He develops a theory that puts wave nature in the foreground at the stage of demonstrating that light has particle nature and wave nature. However, it seems that Millican himself repeatedly asked himself that the experiment that assumed particle nature as an experimental fact produced very consistent results.

As a result, Millican also experimentally supports the photoelectric effect discussed by Einstein. We also determined Planck’s constant from such experiments and the wavelength of light. In addition, the experiment that derived the elementary charge is also wonderful. Considering the movement of the liquid falling between the metal plates, Millican et al. Incorporated the balance of Coulomb force against the gravitational effect into the calculation.

The elementary charge is derived from the weight of the oil droplet

, for which the measured value can be obtained exactly. The great thing about this oil drop experiment is that it shows the particle nature of electrons by quantization. When I thought about the image of measuring the electric current, it was uncertain at that time whether the electrons of the bearer were considered to be continuous quantities or particles. Millican received the Nobel Prize for these two achievements.

Millican has also sent many textbooks to the world as a very good educator, introducing concepts that are a little ahead of the game. In addition, Millican was heavily involved in the founding of the California Institute of Technology. It seems that there is still a building bearing his name at the university.

[In the first place, it is customary in the United States to call it Millican Hall instead of Building No. 1.]

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マリ・キュリー
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マリー・キュリー(1867–1934)
出典:Wikimedia Commons(Public Domain)

マリア・スクウォドフスカ=キュリー

:Maria Salomea Skłodowska-Curieですが

フランス語でマリ・キューリと呼ばれる事が多いです。

彼女は物理学と化学で2度ノーベル賞を受けています。マリ・キューリの父は研究者
でしたが貴族階級の出身だった為に、帝政ロシアの支配下の元で教壇に立つこと
を禁じられていました。マリ・キューリは10歳をなる前に大変苦労します。父の
非合法の講義が発覚して職・住を失い、母の結核による他界があり、更には
投機での失敗もあり、
マリーは親戚等の世話になります。

 

そんな苦しい時期にマリ・キューリにも

恋をした時間がありました。

当時、マリ・キューリは家庭教師を生業としていましたが、カジュミェシュ・ゾラフスキ
という青年と恋仲に落ちます。
共に避暑旅行に出かけたりして幸せな時間を過ごしますが、
最終的には破局を迎えました。この事がマリ・キューリのパリ行きに繋がった様です。

パリでもマリ・キューリは苦労します

屋根裏部屋に住んで、寒い時には持っている全ての服を着ながら勉学に励みます。
パトロンが居たという話も聞きません。地方から出てきた若いマリはただ勉強を続け、
自分の知見の方向性を模索します。人生をかけて取り組む分野を切り開いていくのです。
そんなパリ生活は大学の学部を卒業する迄、続きました。

 

そんなマリ・キューリに

光明がさします。知り合いを通じて

ピエール・キューリと出会ったのです。

 

そのピエール・キューリは国外で評価を受けていて1893年には英国の
ケルヴィン卿が訪ねてくる程でした。
ところが、ピエール・キューリは
勲章を辞退してしまうような性格でひたすら研究に励んでいました。

そんな二人が惹かれ合い、認め合い、マリの帰国後もピエールは
恋文を
贈り続け、遂にはマリの心が動き、2人は簡素な結婚式をあげます。

幸せな結婚だったと思います。

祝いの宴もなく、結婚指輪も無い、

つつましい形式でしたが

祝い金で買った自転車に乗り、

フランスの片田舎へと新婚旅行に旅立ちます。

ピエールが自転車をこぎ、

その後ろにマリが乗り、長閑な道を

語りながら進んでいった事でしょう。

料理・洗濯などの家事で頑張り、長女に恵まれながら学問を続け、ベクレルの見出した放射線に対して二人は研究していきました。そこで。光や温度といったパラメターではなくウラン含有量の「量」が放射現象には本質的であるとの結論を得ます。
その後、マリとピエールの夫妻は元素の精製に心血を注ぎます。純度をあげる事で同位体の存在に近づいていったのです。関心のある精製にキューリー夫妻は全てを注ぎ込みます。結果として、夫ピエールは度重なる発作に苦しみ、妻マリは神経衰弱から睡眠時遊行症に陥ります。
そんな中で第2子を流産してしましました。そうした犠牲を払い、夫婦は物理学で大きな成果をあげます。

放射能とは何か

放射能とは、不安定な原子核がより安定した状態へ移り変わる際に、
自発的に放射線を放出する性質のことです。現在では原子核物理学の
基本概念として知られていますが、19世紀末までは原子は変化しない
存在であると考えられていました。その常識を覆すきっかけとなったのが、
アンリ・ベクレルによる天然ウランの放射線の発見と、それを受けて
マリ・キュリーが「放射能(Radioactivité)」という概念を提唱し、
体系化した研究でした。マリ・キュリーは、放射線の強さが光や温度ではなく、
物質そのものに由来することを実験によって示し、放射能が原子固有の性質で
あることを明らかにしました。

放射線にはアルファ線、ベータ線、ガンマ線など複数の種類があります。
アルファ線はヘリウム原子核、ベータ線は電子や陽電子、
ガンマ線は非常に高いエネルギーを持つ電磁波です。
これらは原子核が崩壊する過程で放出され、後にラザフォードらによって
詳しい性質が解明されました。こうした研究は原子核物理学の誕生につながり、
現代の量子物理学や素粒子物理学へと発展していきます。

現在では放射能は医療・工業・科学研究など幅広い分野で利用されています。
例えば、がん治療で用いられる放射線治療、PET検査などの核医学、
年代測定、材料検査などは放射性元素の性質を利用した技術です。
一方で、放射線は過度に被ばくすると人体へ悪影響を及ぼすことも
分かっており、
厳格な安全管理のもとで利用されています。
マリ・キュリー夫妻が命がけで切り開いた放射能研究は、
現代医学や原子核科学の礎となり、21世紀の科学技術にも受け継がれているのです。

 

新しい概念の提唱に至ります

マリ・キューリ最大の功績は、
単にラジウムやポロニウムを発見したことではありません。

「放射能(Radioactivity)」という現象そのものを体系化し、
それが原子そのものの性質であることを実験で示したことです。

それまで原子は変化しない存在と考えられていました。
しかしマリ・キューリの研究は、原子が自らエネルギーを
放出し、
別の元素へ変化する可能性を示しました。

この発見は20世紀物理学の出発点となり、後の
ラザフォードによる原子核研究、
ボーアの原子模型、
さらには量子力学へとつながっていきます。

―この事実は、原子を不変と考えていた当時の物理学に対する根本的な挑戦でしたー

放射線の放出は一見するとエネルギー保存則に反するかのように見えましたが、
後にラザフォードらによって原子核内部の構造と崩壊過程が研究され、問題は
より深い階層のエネルギー変換として理解されていきます。当時はまだ手探りの
段階でしたが、原子が変化し得る存在であるという認識そのものが、
物理学の地平を大きく押し広げたのです。

そして、その過程で放射線を放出して一見、エネルギー保存の法則に
相反する変化を起こしますが、それを追ってラザフォードらが
研究成果を次々と発表します。原子核の崩壊過程では素粒子の結合に関わる
様々なエネルギーが関与します。現在では簡素にダイヤグラムで理解する手法が
確立されていますが、当時は手探りの状況理解でした。
そして夫ピエールが放射線に医学的効果を期待出来ると発見をしていくのです。ラジウムの効果でした。微量のラジウムならば古くから「ラジウム温泉」の効果は広く知られていました(ただし、明確に「ラジウム」という言葉は使われていませんでした)。

また、現在では分かっているのですが過度のラジウムは身体に悪影響を与えます。放射線の影響を直接・装置で患者に対して考慮し始めたのです。ピエールの発見は大きな人類の知見へと繋がっていきます。

当初は、妻マリーの博士学位習得が放射線研究の目的であったのですが最終的にはマリー・ピエール・ベクレルの3人に対してノーベル賞が贈られます。苦労してきた二人にとって、まさに栄誉の極みでした。

所が、その後突然の不幸が訪れました。夫ピエールが46歳の若さにして交通事故で命を落とすのです。妻マリーは悲痛にくれます。当然でした。その後、傷が癒えるまでに多くの言葉と時間が必要でしたが、最終的に妻マリーは夫ピエールの大学での職位と実験室の後任を引き継ぎます。研究者として活動を始めたのです。

ケルビン卿との議論

マリー・キューリ―はケルヴィン卿と対峙します。夫を認めてくれていた恩人でもあるのですがケルビン卿はラジウムを元素ではなく化合物であると考えていたのです。マリーは実験事実で論破してケルビン卿の誤りを正しました。そしてカメリーオネスと低温状態のラジウム放射線を研究していこうと話を進めます。

また第一回ソルベー会議で論文を発表していた若き日のアインシュタインを評価して、チューリッヒ大学教職への推薦状を書いています。そうした当時の綺羅星の物理学者が彼女と交流を持ちました。反面、ゴシップ騒動に追われていた部分も有、マリーはマスコミを嫌います。二度目のノーベル賞を受ける際にはスウェーデン側からも授与を見合せる打診がありましたがマリーは毅然と対応して、ゴシップネタとされた関係を「成果をあげた関係」であると語りました。
旦那様の教え子、ランジュバンとの成果でした。

そして、、、語らなければなりません。何より悲しかったのは放射線のもたらした弊害です。研究の過程で放射線被曝が重なりマリーは頭痛・耳鳴り・怪我がなかなか治らないといった障害に悩まされ続けます。そして終には死に至りますが、当時はまだその関連性が明確ではなかったようです。

波乱に満ちたマリー・キューリの人生は幕を閉じましたがその後人々は彼女の残した物を高く評価しています。1995年、夫妻の墓はパリのパンテオンに移されました。フランス史の偉人の一人として今でも祭られています。そして、物理の世界の偉人として世界中で語り継がれています。


関連する物理学者

この分野の物理学者(放射能・原子物理学)

ピエール・キュリー

アンリ・ベクレル

J・J・トムソン

長岡半太郎

アーネスト・ラザフォード

ニールス・ボーア

マックス・プランク

アルベルト・アインシュタイン

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(2021年9月時点での対応英訳)

Maria Salomea Skłodowska-Curie
She is often called Mari Curie in French.

She has received two Nobel Prizes in physics and chemistry. Mari Curie’s father was a researcher, but because he was from the aristocratic class, he was forbidden to teach under the rule of imperial Russia. Mari Curie has a hard time before she turns 10. Marie takes care of her relatives and others as her father’s illegal lectures are discovered and she loses her job and residence, her mother died of tuberculosis, and her speculative failure. Become.

I had a time when I fell in love with Mari Curie during such a difficult time. At the time, Mari Curie was a tutor, but she fell in love with a young man named Kajumjesh Zorafski. She spends a happy time together on a summer trip, but in the end it was catastrophic. This seems to have led to Mari Curie going to Paris.

Mari Curie has a hard time even in Paris. She lives in the attic and works hard at her studies while wearing all her clothes she has when it’s cold. Her life in Paris continued until she graduated from college.

Her light shines on such Mari . She had met Pierre Curie through her acquaintance. The Pierre Curie was well received abroad, and in 1893, Sir Kelvin of England visited him. However, Pierre Curie was devoted to his research with a personality that would decline his medal.

The two were attracted to each other and acknowledged each other, and even after her return to Paris, Pierre continued to give her a love story, and finally Mali’s heart moved, and the two had a simple wedding ceremony. I think it was a happy marriage. There was no celebration party, no wedding ring, and although it was a humble format, I rode a bicycle I bought for the celebration and set out on my honeymoon to a remote country in France. Pierre would ride a bicycle, and Mali would ride behind him, talking about a quiet road. They worked hard on cooking, continued their studies while being blessed with her eldest daughter, and studied the radiation found by Becquerel.

Therefore. We conclude that the “amount” of uranium content, rather than parameters such as light and temperature, is essential for radiation phenomena. After that, Mari and Pierre devoted themselves to the purification of the elements. By increasing the purity, we approached the existence of isotopes.

Mr Curie and his wife put everything into the refinement of interest. As a result, her husband Pierre suffers from repeated seizures and his wife Mari suffers from sleepwalking due to memory weakness. Meanwhile, I had a miscarriage of my second child. At that cost, we come up with a new concept. That is, “a specific element changes to another element”
The fact is.

Then, in the process, it emits radiation and causes changes that seemingly contradict the law of conservation of energy, but Rutherford et al. Will announce their research results one after another. Various energies involved in the bonding of elementary particles are involved in the decay process of atomic nuclei. Nowadays, a simple method of understanding with a diagram has been established, but at that time it was a fumbling understanding of the situation.

And her husband Pierre discovers that radiation can be expected to have a medical effect. It was the effect of radium. The effect of “radium hot springs” has long been widely known for trace amounts of radium (although the word “radium” was not explicitly used). Also, as we now know, excessive radium has a negative effect on the body. We began to consider the effects of radiation on patients directly and with equipment. The discovery of Pierre will lead to great human knowledge.

Initially, the purpose of radiation research was to obtain a doctoral degree from his wife Marie, but in the end, the Nobel Prize will be given to three people, Marie Pierre Becquerel. It was a great honor for the two who had a hard time.

However, sudden misfortune came after that. Her husband, Pierre, died in a car accident at the young age of 46. Her wife Marie is in pain. It was natural. After that, it took a lot of words and time for her wounds to heal, but eventually her wife Marie took over her husband Pierre’s college position and laboratory successor. She started her career as a researcher.

Discussion with Sir Kelvin

Marie Curie confronts Sir Kelvin. Sir Kelvin, who was also her benefactor who acknowledged her husband, considered radium to be a compound rather than an element. Marie argued with her experimental facts and corrected Sir Kelvin’s mistakes. She then goes on to study Cameriones and cold radium radiation. She wrote a letter of recommendation for the University of Zurich teaching profession in recognition of her youthful Einstein, who had published her treatise at the first Solvay Conferences. The physicist of Kirasei at that time had an exchange with her.

On the other hand, Marie Curie has been chased by the gossip turmoil, and Marie hates the media. When sMari received her second Nobel Prize, the Swedish side also asked her to forgo her award, but Marie responded resolutely and described her relationship as her gossip story as “successful.” “It’s a relationship,” she said.
It was an achievement with her husband’s student, Langevin.

And … I have to talk. The most sad thing was the harmful effects of radiation. In the process of her research, radiation exposure overlaps and Marie continues to suffer from disabilities such as her headaches, tinnitus and injuries that are difficult to heal. She and she eventually died, but it seems that the relevance was not yet clear at the time.

Her turbulent life with Marie Curie ended, but people have since appreciated her leftovers. In 1995, the tombs of the couple were moved to the Pantheon in Paris. She is still celebrated as one of the great men of French history. And she has been handed down all over the world as she is a great man in the physical world.

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長岡半太郎‗【日本物理学の黎明期に、ボルツマンに学び原子構造の土星モデルを提唱】-7/25改訂

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。 では、ご覧ください。内容を整理し、 主にリンクを見直しました。 現時点での英訳も考えています。 (以下原稿です)

長岡半太郎(人間の記録) 【スポンサーリンク】

【1865年8月19日生まれ ~ 1950年12月11日没】

画像引用:長岡半太郎| 近代日本人の肖像 | 国立国会図書館

長岡半太郎の豊かな人脈

長岡半太郎は、日本で最初に世界水準の原子模型を提唱した 物理学者として知られています。1904年に発表した 「土星型原子模型」は、後のラザフォード模型や ボーア模型へと続く原子物理学の重要な一歩 となりました。その背景には、田中舘愛橘、ボルツマン、 本多光太郎らとの豊かな交流がありました。

この長岡半太郎は大村藩の流れに生まれます。 学生時代は東大で山川 健次郎田中舘愛橘に学び、 助教授としてドイツ留学していた時期に ボルツマンに学びます。それだから実証主義の 考え方も、留学以後は頭の片隅にあった筈です。

どう考えて、どこまで核心に迫っていったか

論じる際には当時の日本における量子論での

現象把握を考えると良いでしょう。そんな事を考えながら、

科学史の観点から論文を読んでみたくなりました。

別の面から調べてみたら話は進む時があると 思えるからです。そして長岡半太郎の子供時代は 学業成績は芳しくなかったようです。

この点は同時期の本多光太郎を思い出します。因みに、 二人に加わえて鈴木梅太郎の三人は 「理化学研究所の三太郎」 と呼ばれていたそうです。 携帯電話のコマーシャルで似たような人達居ましたね。

長岡半太郎の研究業績

土星型原子模型とは何か

土星型原子模型とは、1904年に長岡半太郎が提唱した原子構造のモデルです。 当時はJ・J・トムソンが提案した「ブドウパン模型」が有力視されており、 正電荷が広がった球の中に電子が埋め込まれていると考えられていました。 しかし長岡は、この考え方では原子の安定性や電子の運動を十分に説明できないと考え、 重い中心の周囲を軽い電子が高速で回転するという、新しい原子像を提案しました。 その姿が土星の周囲を取り巻く環に似ていたことから、 「土星型原子模型」と呼ばれるようになりました。

この模型では、原子の中心に大きな質量と正電荷が集中し、その周囲を電子が 公転するという考え方を採用しています。現在の知識から見ると、 中心に「原子核」という言葉はまだ存在していませんでしたが、 長岡は原子の質量が中心付近に集まっているという発想に到達していました。 これは後にラザフォードが金箔散乱実験によって原子核の存在を実証するよりも 数年前のことであり、その先見性は現在でも高く評価されています。

もっとも、この模型は古典力学に基づいていたため限界もありました。 電磁気学によれば、加速度運動をする電子は電磁波を放射して エネルギーを失い、やがて原子核へ落下してしまうはずです。 また、原子スペクトルの離散的な性質も説明できませんでした。 そのため土星型原子模型は最終的な理論にはなりませんでしたが、 「原子内部には中心構造が存在する」という大胆な着想は、 当時の物理学者に大きな刺激を与えました。

その後1911年にはラザフォードが原子核模型を提唱し、 1913年にはニールス・ボーアが電子軌道へ量子条件を導入して ボーア模型を完成させます。さらに20世紀後半には ハイゼンベルクの不確定性原理やシュレーディンガーの波動方程式によって、 電子は古典的な軌道を回る粒子ではなく、確率的に存在する波動関数として 理解されるようになりました。 このように長岡半太郎の土星型原子模型は、 今日の量子力学とは異なる古典的モデルではありますが、 原子構造を具体的な形で世界へ示した最初期の理論の一つであり、 日本から世界へ発信された画期的な原子模型として、 近代原子物理学の発展に大きな足跡を残したのです。

長岡半太郎は田中舘愛橘と地震の論文を纏めたり、

本多光太郎と磁気の論文を纏めたりしていますが、

長岡半太郎の研究業績として大きいのは、

なんと言っても原子モデルでしょうボルツマン仕込みで

ミクロへの探求を進めていたのです。トムソン

ブドウパンの中のブドウのような形で

中心からの距離や軌跡と無関係に

電子の存在を仮定していたのに対し、

長岡半太郎は原子の周りを電子が回転する

土星のようなモデルを提唱しました。

この話は、不確定性関係をふまえて論じてみたいと思います。後に確立された不確定性関係では対象粒子の位置と運動量の関係が論じられます。この二要素が関連して論じられる訳です。

長岡の土星型原子模型は1904年に提唱された古典的な原子像で、土星の環のように陽子(あるいは陽電荷)を中心に電子が回転するイメージを提示しました。しかしこのモデルは古典力学に基づくものです。 のちに確立される量子力学とは理論的枠組みが異なります。ハイゼンベルクの不確定性原理(1927年)は、位置と運動量を同時に厳密に決定できないという量子論固有の性質を示したものであり、「電子の軌道が古典的に確定できない」という点で古典的な軌道像の限界を指摘します。 したがって、長岡の模型は当時の原子イメージ構築に大きな貢献をした一方で、後の量子論が示す粒子の確率的・波動的性質とは根本的に扱い方が異なる、という位置づけで論じるのが適切です。

現代的に考えて、不確定性の考え方の枠組みでは運動量が確定している電子に対して位置は不確定であって当然です。具体的には個体原子の位置は止まっていると見なせそうですが、動き回る電子の位置の確定が難しいのです。「運動量」の観測精度を高めている電子に対して位置情報はどんどんぼやけてきてしまいます。

当時すでに原子という概念そのものは広く受け入れられていましたが、原子内部が どのような構造になっているかは、まだ誰にも分かっていませんでした。

長岡半太郎は、その未知の世界に対して土星の環になぞらえた 原子模型を提案し、電子の運動を理論的に考えるための最初の本格的な 枠組みを与えたのです。そのモデルをもとに 帯電物質である電子の挙動が議論できたのです。

素晴らしいパラダイムシフトでした。

関連する物理学者

◀ 前の人物:J・J・トムソン 電子を発見し、ブドウパン模型を提唱しました。

▶ 次の人物:アーネスト・ラザフォード 長岡半太郎の模型にも着想を得ながら、 原子核模型を提唱しました。

この分野の物理学者(原子物理学・量子論)

ルートヴィヒ・ボルツマン

J・J・トムソン

長岡半太郎

アーネスト・ラザフォード

マックス・プランク

ニールス・ボーア

ヴェルナー・ハイゼンベルク

エルヴィン・シュレーディンガー

〆最後に〆

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Hantaro Nagaoka’s rich personal connections

This Hantaro Nagaoka was born in the flow of the Omura domain as well as Hideki Yukawa. He studied with Kenjiro Yamakawa and Aikitsu Tanaka at the University of Tokyo when he was a student, and with Boltzmann when he was studying abroad in Germany as an assistant professor. So did he discuss the idea of ​​positivism based on his study abroad? When discussing how close he was to the core, it would be good to consider the phenomenon grasp in quantum theory in Japan at that time. With that in mind, I wanted to read the treatise from the perspective of the history of science. If you look at it from another side, it seems that there are times when the story goes on. And it seems that his academic performance was not good when he was a child of Hantaro Nagaoka.

This point reminds me of Kotaro Honda at the same time. By the way, in addition to these two people, Umetaro Suzuki was called Santaro of RIKEN. There were similar people in mobile phone commercials.

Research achievements of Hantaro Nagaoka

Hantaro Nagaoka has compiled papers on earthquakes with Tanakadate Aikitsu and papers on magnetism with Kotaro Honda, but the major research achievement of Hantaro Nagaoka is probably the atomic model. I was pursuing a quest for the micro. Whereas Thomson assumed the existence of electrons in the shape of grapes in grape bread regardless of the distance or trajectory from the center, Hantaro Nagaoka created a Saturn-like model in which electrons rotate around an atom. Advocated.

I would like to discuss this story together with the uncertainty relation. The uncertainty relation established later discusses the relationship between the position of the target particle and the momentum. These two factors are discussed in relation to each other. In the framework of that idea, it is natural that the position is uncertain with respect to the electron whose momentum is fixed. Specifically, it seems that the position of a solid atom is stopped, but it is difficult to determine the position of moving electrons. The position information becomes more and more blurred for the electrons that improve the observation accuracy of “momentum”.

Considering going back in time

and observing electrons in the time of Hantaro Nagaoka, even if we imagine a charged substance that captures the behavior of electrons, we cannot stop the movement of electrons moving around in the charged body. Because an electron is an object that is always moving. That’s why it’s difficult to model at the beginning.

Although it can be said that it is an incomplete model in today’s physics, especially in quantum mechanics, Hantaro Nagaoka’s model can be highly evaluated because it changed the atomic model at that time. I was able to create an initial image of the existence of an atom that I had no knowledge of. Based on that model, we were able to discuss the behavior of electrons, which are charged substances. It was a wonderful paradigm shift.

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100年を迎える東京大学地震研究所(ERI)が築いた地震学とこれからのAI時代

東大

本記事は11/9付の日本経済新聞を起点に記載しています。東京大学地震研究所(ERI)は2025年11月13日で設立から100年を迎えます。1925年の設立以来、関東大震災を教訓に地震予知・観測体制を築き、日本が世界の地震研究を牽引してきました。英国人ジョン・ミルン(JohnMilne)による水平振子式地震計の開発、大森房吉・丸山卓男・津村健四郎らによる地震モーメントやマグニチュード理論の確立など、その歩みは日本科学史の一大軌跡といえます。本稿では、①地震研究100年の歴史、②技術革新、③AI時代の展望という三つの章で構成し、制度と技術の系譜をたどります。


第1章:100年の歴史に刻まれた制度と人

関東大震災(1923年9月1日)を契機に、地震観測と耐震研究を体系化する必要性が高まり、1925年に東京大学地震研究所が誕生しました。以来、ERIは観測網の整備、地震計の改良、断層運動理論の発展を通じて、国際的研究機関としての地位を築きました。

1.1 設立背景と制度整備

震災後、国の学術政策と建築基準が一体化し、地震学の社会的使命が明確化。地震予知研究、気象庁・大学・国立研究所の分業体制が整いました。

1.2 ジョン・ミルン来日から地震学基盤の構築

1876年、英国から招聘されたジョン・ミルンが来日し、世界初の近代的地震観測体制を整備。1880年の横浜地震観測を皮切りに、地震波形記録・震央推定などの方法論を導入しました。

1.3 大森房吉・丸山卓男・津村健四郎らの技術革新

大森房吉(1868–1923)は「地震学の父」と呼ばれ、震源距離と時間差の関係式を導出。丸山卓男(東大地震研)は地震モーメントの理論化で国際的評価を確立。津村健四郎は地震継続時間を基にマグニチュード推定式を改良しました。

【地震研究の主要年表】

出来事関連人物・機関
1876年ジョン・ミルン来日、地震観測開始東京帝国大学
1880年日本地震学会創設ミルン・大森房吉
1923年関東大震災内務省震災予防調査会
1925年東京大学地震研究所設立初代所長 今村明恒
1960年代地震モーメント理論確立丸山卓男
2020年代AI・機械学習を導入した観測解析ERI・JAMSTEC

第2章:技術革新と地震学の転機

地震学の進化は「観測技術」「理論」「応用設計」という三段階で展開されてきました。ジョン・ミルンが水平振子式地震計を開発し、丸山卓男が地震モーメントを定義。こうした発展は、1980年代以降の地震カタログ整備や防災工学に波及しています。

2.1 観測技術の進化 — 地震計から海底観測網へ

地震計は機械式からデジタル式、さらに海底光ファイバー式へ。現在では海洋研究開発機構(JAMSTEC)が展開するDONET・S-netが、リアルタイム地震波を高精度で解析しています。

2.2 理論モデルの深化 — 地震モーメント・マグニチュードの普及

地震の規模を「モーメント」で表す考え方は、1960年代に丸山卓男氏が提唱。その後、カナダのカナメ研究者ハスキンスらとともに国際標準となり、現在のMw表記へと進化しました。

2.3 耐震・社会実装 — 地震防災・建築基準の変化

1981年の建築基準法改正により、耐震設計は「損傷制御型」に転換。ERIの研究成果が防災都市計画、ライフライン設計、自治体のハザード評価などに組み込まれました。


第3章:AI時代の地震研究と未来展望

AIとビッグデータの時代、地震研究も転換期にあります。観測データの自動解析、異常波形の自動検出、AIによる震源推定モデルなど、研究領域が広がっています。ERIでは近年、地震波動場の機械学習解析を用いて、スロー地震の検出精度を高めています。

3.1 AI/機械学習の導入例と研究成果

ERI・東北大・防災科研などが共同で開発した「AI地震波分類システム」は、地震波形を0.1秒単位で自動判別。発生直後の緊急通報制度(EEW)に応用されています。

3.2 国際共同研究・データ共有の潮流

米国USGSや欧州EPOSなどと連携し、データ形式を共通化。AIモデルによる世界規模の震源パターン分析が進んでいます。

3.3 課題と未来像 — AGI時代の地震科学

完全自律型AI(AGI)による地震予測はまだ理論段階ですが、モデル間比較(AGIモデル1号 vs 2号)を通じてリスク推定精度が向上する可能性があります。

【用語解説】

  • 地震モーメント:断層のずれ量と面積を用いて地震の規模を表す物理量。
  • AI地震波解析:機械学習を使い、ノイズと実地震波を自動で判別する技術。
  • DONET/S-net:日本が展開する海底地震観測網。リアルタイム観測を可能にする。

まとめ

東京大学地震研究所100年の歴史は、単なる学術機関の記念ではなく、地震研究が国家・社会・技術の全体を変えた軌跡そのものです。AI時代のいま、観測・理論・防災が再統合されようとしています。100年前に始まった「人命を守る科学」は、これからの100年でも進化を止めないでしょう。

参考文献:
・日本経済新聞(2024年11月9日朝刊)
・東京大学地震研究所公式サイト(ERI
・Nature / Springer / ScienceDirect 各誌掲載論文(Maruyama, T., Tsunemura, K., Kato, S., 2019–2024)

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F. J. Dysonの死 【2020-03-02‗95歳_ノーベル賞 】

(以下全て転載内容)

2020-03-02 ・

昨日の新聞でF. J. Dysonが亡くなったのを知った。95歳だったという。

朝永、Schwinger, Feynmanの量子電磁気学の理論をまとめた理論をつくった人として知られている。

同じ年代の物理学者C. N. YangはDysonが上の3人と一緒にノーベル賞をもらえなかったことについて上記3人にだけノーベル賞を授与した委員会の批判的であった。

同じ業績に対して3人までの受賞者とするノーベル賞委員会の不文律があるのをC.N. Yangが知らないはずはない。だが、そういう不文律を破ることも、また意味があるくらい量子電磁気学のくりこみ理論に対するDysonの寄与は大きかったとYangは評価していたのだろうと思う。

Yangももう高齢だと思うが、彼はまだ生存しているのではないかと思うが、定かではない。

Dysonと聞くと、私の妻などはどうも自動で掃除する電気掃除機のようだねと言っていた。最近ではDysonという名前の自動掃除機が販売されている。

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テラー 【2019-08-09‗オッペンハイマー_ダイソン 】

(以下全て転載内容)

2019-08-09 ・テラーとは水爆をつくったエドワード・テラーのことである。

NHKの昨夜の「フランケンシュタインの誘惑」ではオッペンハイマーを権力の座から追い落して、自分が表にでて、水爆をつくったのはよかったが、オッペンハイマーを追い落とす査問委員会の証言で彼に不利な証言をしたために、その後の科学者社会とのつきあいがなくなって、晩年はとてもさびしかったのではないかとの話であった。

ピアノを弾くのが好きであったから、晩年はピアノを弾いて過ごしたという。それでもあからさまにつきあいはなかったかもしれないが、ノーベル賞学者のヤンはテラーの支持でシカゴ大学で学位をとったので、少しはテラーに同情的であった。

量子電気力学の業績で知られる、ダイソンもそれほどテラーを嫌ってはいなかったらしい。でも昔からの友だちはみんなテラーから離れてしまったことはたぶん間違いがない。

テラーは山登りも好きであった。若いときに、これはたぶんハンガリーにいたときの話だが、電車にはねられて脚を折ったとか聞いている。だから脚がわるかったはずだ。

なかなか直観的な理解をする人だとも聴いている。テラーの群論の理解が直観的であったとかヤンの書いた文章で読んだことがある。

ただ権力的なところがあり、ちょっと科学者仲間からは人生の途中から大いに敬遠された。

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エディトンとチャンドラセカール 【2019-06-21 _星の一生_プリンキピア】

(以下全て転載内容)

2019-06-21 ・エディトンとチャンドラセカールとの奇しき因縁を昨夜のNHKのテレビの放送ではじめて知った。エディトンは1916年だったかに観測隊を指揮してアフリカに出かけて、日食のときの星の位置を観測して、それを普通のときの星の位置ときに見える位置と比較して、一般相対性理論の重力による光の曲り方が相対論の予言と一致することを示した。

一般相対性理論では3つの実験的検証があるが、そのうちの一つである。ちなみに一般相対論の残り二つの実験的検証は「水星の近日点の移動」と「光のスペクトルの赤方偏移」である。

それはさておき、星の一生を研究したエディントンは星の最後は白色矮星になることであると結論した。ところがチャンドラセカールはもし星が太陽の30倍以上の質量をもつと星の最後は白色矮星にはならず、ブラックホールになると予言した。

エディントンはこの仮説を認めず、チャンドラをイギリスから追い払った。チャンドラは優秀な人であったから、アメリカに行き、そこでブラックホールとは関係のない,星の研究をしていたが、水爆実験か何かの折に出てくる光か何かの電磁波のスぺクトルが、チャンドラの予言したブラックホールの予想した電磁波のスペクトルに類似しているとの手紙を若い学者から受け取り、約40年前の自分の理論が正しかったことを知るようになった。

シカゴの郊外の天文台に勤めていたチャンドラはシカゴ大学の大学院の講義にでかけてきていたが、彼の教えていたクラスからはヤンやリーとかノーベル賞受賞者が続出していたという。その後、彼自身もノーベル賞を受賞した。

何年間かあるテーマについてチャンドラは研究するが、そのおしまいに、その分野の研究についてのテクストを書いて、その研究を終わりにするという習慣があった。

彼の人生の最後の研究はニュートンのプリンキピアであった。それはプリンキピアの命題を読んで、その証明は読まずに、自分でその命題を証明して、そのあとでプリンキピアの証明を読むという方法である。その本は読んだことはないが、日本語での訳本が講談社から、中村誠太郎訳で出ている。

この訳本は定価が1万円以上するもので、1冊公費で購入して大学の在職時代にはもっていたが、退職時に図書館に返却したので、現在は手元にはもっていない。暇ができたら、大学の図書館から借り出して読んでみたいと思っているが、そんな機会が私に来るかどうかはわからない。

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