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H・アルプレヒト・ベーテ
【星の進化を考え、また原子核反応を考えた】‐9/15改訂

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。
では、ご覧ください。内容を整理し、
主にリンクを見直しました。
現時点での英訳も考えています。
(以下原稿です)

核兵器の書籍
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【1906年7月2日~2005年3月6日没】


【Photo: Hans Bethe / Wikimedia Commons】

イギリスに逃れたベーテ

ベーテはユダヤ系なのでナチス政権下で

苦労します。を追われイギリスに逃れ、

マンチェスター大学で職を得ます。

第二次大戦の間はオッペンハイマー招きでUCB
(カリフォルニア大バークレー校)
の特別会議に参加します。
特別会議では核兵器の
開発が始められ、
ロスアラモス研究所が
出来る
とベーテは理論部門の監督を務めます。

戦後はトルーマン大統領が水素爆弾の開発を断行した流れで
ベーテは引き続き開発
において重要な役割を果たします。

ベーテの提唱した星の進化

その他、ベーテの業績としては大きく二点があげられます。
一つは恒星の内部で核融合反応が起きうると指摘をして、
重力と釣り合う「内側からの力」を考えたことです。

恒星は自身の重力によって内側へ収縮しようとします。
一方、恒星内部では核融合反応によってエネルギーが生み出され、
そのエネルギーが外部へ運ばれることで、恒星は長期間にわたって
光と熱を放出することができます。

ベーテは1938年、恒星内部で水素がヘリウムへ変換される核反応を
詳しく検討し、太陽のような恒星がなぜ長期間にわたって
エネルギーを放出できるのかを物理学的に説明しました。
この研究は、後の恒星物理学・核物理学の重要な基礎となりました。

星の進化を考える時に超高圧下で起こりうる現象を予見したのです。
現在考えられている進化過程でベーテの考え方は不可欠です。
大まかに星の進化を考えていくと、、

万有引力でガスや、チリが集まっていき、
段々に中心方向に向かって『まとまり』が出来てきて
まとまりの質量がどんどん増えていくのですが、
この時に星の内部で内部で核融合反応が起きて
外側方向に広がる力が働き、
万有引力で集まる力と内部から核反応で
外側へ広がっていく力がつりあう」

と考えることが出来たのです。理路整然とした
宇宙の理解が進んだと言えるでしょう。

そして、重量が増えていき星の進化が進むと
恒星として光を発するようになり、
白色矮星、ブラックホールと成り得るだろうと考えます。

地球や木星のような天体では核融合は起きておらず、
重力収縮や内部熱によって構造が維持されています。
地球の中でもマグマが沢山対流していて
中心の温度は6000度と推定されています。

ベーテと恒星内部の核融合‗追記

より正確に記載すると以下のように考えていく事が出来ます。恒星内部で
起きる核融合反応と、そこから生まれるエネルギーの理論的解明
です。

注意したいのは、すべての恒星が同じ進化をするわけではないことです。
恒星の質量などによって最終的な姿は異なり、
白色矮星になる星もあれば、超新星爆発を経て中性子星や
ブラックホールを残す星もあります。観察している時点で
どんな段階になり、どんな段階へ進化するか考察するのです。

したがって、ベーテの業績を「星がどのように進化するか」という
一つの物語だけで捉えるよりも、
恒星がどのようにして核融合によってエネルギーを生み出しているのかを
原子核物理学から説明した
と捉える方が正確です。

 

また星の話とは別に、加速器で実現される様々な現象を
説明していく内に超高圧下・超高温下で起こり得る
原子核の崩壊状態をベーテは理論立てて説明して
人類にとっての新たな知見としました。

ベーテと戦後科学者の倫理

第二次世界大戦後、ベーテは核兵器開発に関わった科学者としての
責任について深く考えるようになります。マンハッタン計画に
参加した多くの科学者と同様に、戦争終結後は核軍拡競争
に対して慎重な立場を取るようになりました。

特に水素爆弾開発を巡っては、科学的可能性を理解しながらも
軍拡の加速に懸念を示し、政策議論にも積極的に関与しました。
彼は科学者が単なる技術者ではなく、社会的責任
を持つ存在であるべきだと考えていたのです。

冷戦期には軍事研究と基礎科学の関係が強く結びつく時代でしたが、
ベーテはその中で理性ある発言を続け、「良心的な科学者」
の代表例として知られるようになりました。
晩年まで核軍縮や科学政策について発言を続けた姿勢は、
20世紀科学者像を象徴するものと言えるでしょう。

ベーテとラムシフト

また、ベーテのもう一つの重要な仕事が、
量子電磁力学につながるラムシフトの計算です。
ベーテは1947年、ラムシフトについて非相対論的な近似計算を行い、
発散の問題を含む量子電磁力学の計算を現実の実験値と結び付ける
重要な一歩を踏み出しました。

この研究の流れには、
リチャード・ファインマン
も深く関わっています。
ファインマンはロスアラモスでベーテの理論部門に参加し、
戦後にはベーテの招きでコーネル大学へ移りました。
その後、ベーテとファインマンは量子電磁力学の発展にも
大きな役割を果たしています。

ベーテは大変な時代を生きた偉大な理論家でした。

「原子核反応理論への貢献、特に星の内部における
エネルギー生成に関する発見」で

ノーベル賞を受けています。

ベーテの理論は、太陽がどのようにして長期間エネルギーを
放射し続けられるのかを初めて物理学的に説明したものでした。

 

関連する物理学者

◀ 前の人物:J・R・オッペンハイマー

▶ 次の人物:リチャード・ファインマン

この分野の物理学者(核物理学・量子電磁力学・宇宙物理学)

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2020/11/23_初版投稿
2026/09/15_改定投稿

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(2021年11月時点での対応英訳)

Bethe fled to England

Bethe is of Jewish descent, so he has a hard time under the Nazi regime. He was driven out of the country and fled to England to get a job at the University of Manchester. He attends a special UCB (University of California, Berkeley) conference at the invitation of Oppenheimer during World War II. Bethe will oversee the theory department when the development of nuclear weapons begins there and the Los Alamos National Laboratory is established. After the war, Bethe continued to play an important role in the development of the hydrogen bomb as President Truman decided to develop it.

Bethe’s advocated evolution of stars

In addition, I think there are two major achievements of Bethe. One is to point out that a fusion reaction can occur inside a star, and to consider the internal force that balances gravity. When he considered the evolution of stars, he foresaw possible phenomena under ultra-high pressure. Bethe’s thinking is indispensable in the evolutionary process currently being considered. Roughly thinking about the evolution of stars,

“(1) gas and dust gather with universal gravitation, and gradually” cohesion “is formed toward the center, and (2) the mass of the cohesiveness increases steadily. At this time, (3) a nuclear fusion reaction occurs inside the star and the force that spreads outward works, and (4) the force that gathers by universal gravitation and the force that spreads from the inside to the outside by the nuclear reaction are balanced. “

Then, as the weight increases and the evolution of the star progresses, it will emit light as a star, and I think that it will go through the stages of white dwarfs and black holes. Non-shining stars such as Earth and Jupiter are currently in a state where the expansion of nuclear fusion from the inside and the attractive force to the inside are in balance. In addition to the story of stars, Bethe theoretically explained the decay state of atomic nuclei that can occur under ultra-high pressure and ultra-high temperature while explaining various phenomena realized by accelerators, and made new knowledge. bottom.

Bethe and Lamb shift

In addition, Bethe’s other achievement was to rigorously and non-relativistically scrutinize the Lamb shift that leads to quantum electrodynamics, and to perform extremely accurate calculations. Feynman is his disciple in this respect.

Bethe was a great theorist who lived in difficult times. He has received the Nobel Prize for his “his contributions to his theory of nuclear reactions, especially his discoveries of energy generation inside the stars.”

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朝永 振一郎
【繰りこみ理論を駆使して素粒子間の反応を理論的に解明】-9/14改訂

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。
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(以下原稿です)

【↑_Credit:Wikipedia】

物理学とは何だろうか
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【1906年3月31日生まれ ~ 1979年7月8日没】

【Photo: Sin-Itiro Tomonaga / Wikimedia Commons】

朝永振一郎の生い立ち

朝永振一郎は私が使っていた教科書

Diracの「量子力学」】の翻訳者でした。

また、朝永振一郎の著作では「スピンはめぐる」と
「物理学とは何だろうか」が有名です。(AmazonへGo)
沢山の著書を残しました。

 

他著書のご紹介①;鏡の中の物理学

朝永振一郎のご先祖様は大村藩

(現在の長崎県内にありました)の流れをくみます。

そして、そんな朝永振一郎の父は京都大学哲学科教授でした。
そんな生い立ちをもった、朝永振一郎は現在の筑波大学の
前身
となった大学、東京教育大学で教鞭をとり、最終的には
学長を務めます。
東京に生まれ京都で育ち、世界で議論しました。

朝永振一郎と戦時下の研究環境

朝永振一郎の研究を語るうえで忘れてはならないのが、第二次世界大戦期
という特殊な研究環境です。当時、日本では海外の学術論文の
入手が極めて困難となり、欧米の最新研究から半ば孤立した状態にありました。

しかし朝永は、
この制約の中で独自に量子電磁気学の理論構築を進めていきます。
戦後になって海外の研究成果が再び共有されると、
アメリカのリチャード・ファインマン
日本の朝永、そしてジュリアン・シュウィンガーが、
それぞれ異なる方法で同じ理論的到達点に
至っていたことが明らかになりました。

この時代の日本の理論物理学を考えるうえでは、
仁科芳雄が築いた研究環境も重要です。
海外との情報交換が困難な時代に、
日本の物理学者たちは限られた情報をもとに
世界の物理学に追いつこうとしていました。

この独立した到達こそが量子電磁気学の正しさを強く裏付け、
1965年のノーベル物理学賞共同受賞へとつながります。
科学が国境を越えて収束していく象徴的な出来事でした。

朝永振一郎の業績

朝永振一郎の研究業績の中でも、特に重要なのが
量子電磁力学(QED)における繰り込み理論の確立です。

量子力学と特殊相対論を組み合わせて電磁気現象を扱うと、
計算の途中で無限大に発散する項が現れるという大きな問題がありました。
この数学的問題「発散」をそのまま物理量として扱うことはできません。

朝永は、この問題に対して相対論的な量子力学を整理する
「超多時間理論」などの研究を進め、
量子電磁力学を首尾よく定式化する道を切り開きました。

この研究は、同じ時代にリチャード・ファインマン
ジュリアン・シュウィンガーらが進めていた研究とも合流します。
それぞれ異なる方法を用いながら、量子電磁力学の発散を扱い、
実験と比較できる理論へと整理していったのです。

特に電子の磁気モーメントやラムシフトなど、非常に高い精度で
実験と比較できる現象を説明できるようになったことは、

量子電磁力学の大きな成功でした。

1965年、朝永振一郎はファインマン、シュウィンガーとともに
ノーベル物理学賞を受賞します。
これは三人が同じ計算をしたという意味ではなく、
それぞれ独立した方法から量子電磁力学の発展に大きく貢献したことを
評価した受賞と考えると分かりやすいでしょう。

ファインマンの経路積分にも数学的な美点を感じますが
朝永振一郎の理論の方が
直感に訴える説得力を持っています。

好みといえば好みの問題ですが、発散・∞という大問題に対して
ラムシフトを正しく吟味して相対論的に計算が出来た時に
一瞬にして話が繋がり
感覚的に
「正しかったんだ」と思えるのです。

また、朝永は相対論と量子論を両立させるため、
「超多時間理論」と呼ばれる独自の定式化を提案しました。

朝永振一郎の理解で量子電磁気学の整理が進み、
素粒子物理学が大きく進歩したのです。

朝永振一郎は晩年、大学入学以前の若者に対し
科学的な啓蒙を進めていました

最後に、朝永振一郎は湯川秀樹

京都大学で同期でした。それぞれの形で

当時の物理学で完成形を作り上げたのですね。

関連する物理学者

◀ 前の人物:J・R・オッペンハイマー

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2020/09/12_初稿投稿
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(2021年10月時点での対応英訳)

The background of Shinichiro Tomonaga

Shinichiro Tomonaga was the translator of the textbook I was using [Dirac’s “Quantum Mechanics”]. Its ancestors follow the flow of the Omura domain (currently in Nagasaki prefecture).

And Shinichiro Tomonaga’s father was a professor of philosophy at Kyoto University. With such a background, Shinichiro Tomonaga teaches at Tokyo University of Education, the predecessor of the current University of Tsukuba, and eventually becomes the president. He was born in Tokyo, raised in Kyoto, and discussed around the world.

Achievements of Shinichiro Tomonaga

The greatest research achievement of Shinichiro Tomonaga is the renormalization theory. There is a reaction of elementary particles that is also expressed in a mysterious schematic diagram called the Feynman diagram, but it explains the mathematical contradiction in the process. Feynman’s path integral also has a mathematical beauty, but Shinichiro Tomonaga’s theory is more intuitive and convincing.

Speaking of taste, it is a matter of taste, but when the Lamb shift is correctly examined for the big problem of divergence and ∞ and the calculation can be done relativistically, the story is connected in an instant and it seems that it was “correct” sensuously. is.

With the understanding of Shinichiro Tomonaga, quantum electrodynamics was organized and particle physics made great progress. Shinichiro Tomonaga also promoted scientific enlightenment for young people before entering university in his later years.

Finally, Shinichiro Tomonaga was in sync with Hideki Yukawa at Kyoto University. Each form was completed by the physics of the time.

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J・ロバート・オッペンハイマー
【あだ名はオッピーとか原爆の父とか】‐9/13改訂

こんにちはコウジです。

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Blu-ray ※日本語無し](輸入版) OPPENHEIMER
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【1904年4月22日生まれ~1967年2月18日没】


【Photo: J. Robert Oppenheimer / Wikimedia Commons (Public Domain)】

 原爆の父オッペンハイマー

オッペンハイマーは原爆の父と呼ばれている側面
ありますが、UCB(カリフォルニア大学バークレー校)
では学生からオッピーという愛称で呼ばれていた
側面もありました。オッペンハイマーの人生は
喜怒哀楽に満ちています。

オッペンハイマーの人生を理解する上で重要なのは、20世紀前半
という激動の時代背景です。彼がユダヤ系家庭に生まれたことも、
当時の政治状況と無関係ではありませんでした。

ヒットラーが民族としてのユダヤ人達に焦点を当て迫害し、
敵視していた現実は
動かしがたい事実です。
強制収容所に連行
されるような世相の中で
ユダヤ人達は非常な
危機感を感じていたはずです。

ユダヤ人たちが抱く危機感の中で20世紀初頭の歴史は進み、
天才達が育ち・団結して
新しい物を生み出していた
という側面があるのだと言えます。

そんな時代に兵器製造の行為は肯定される話ではないのですが、
当時の論客達はユダヤ人迫害
から話を初めて、
マンハッタン計画に進む流れ
を紹介していき、
大衆に納得し易い話を組み立てられたでしょう。

ユダヤ系の物理学者達

世界大戦終結後、100年近くがたとうとしています。
ユダヤ人に対しての考えは幾多の人が繰り広げてきた
のではないかと思えますが、再度、私も強調します。

具体的な物理の世界での登場人物はアインシュタイン 、
シュテルンマックス・ボルンネイサン・ローゼン
D・J・ボームE・パウリ 、ランダウファインマン
ハンスベーテ

そして今回ご紹介するオッペンハイマーです。

(今は此処迄しか思い浮かびませんが
後日、思い付くたびに補記します。)

ナチスの迫害と物理学者たちの移動

オッペンハイマーの人生を理解するうえで、
20世紀前半のヨーロッパで起きた政治的変化を
無視することはできません。

とくに1930年代、ナチス政権によるユダヤ人への迫害と
大学・研究機関からの研究者排除は、
ヨーロッパの科学界そのものを大きく変えていきました。

アインシュタイン、マックス・ボルン、パウリなど、
当時の物理学を担っていた研究者の中には、
ドイツやヨーロッパを離れてアメリカやイギリスなどへ
移住することを余儀なくされた人々もいました。

ここで重要なのは「ユダヤ系だったから物理学が発展した」
という単純な話ではありません。

むしろ、政治的迫害によって研究者が国境を越えて移動し、
それまで別々だった研究ネットワークがアメリカを含む
新しい研究環境で結び付いていった
ことに注目すべきでしょう。

オッペンハイマー自身も、ゲッティンゲンで
マックス・ボルン
のもとで学び、ヨーロッパの量子力学研究の流れを吸収した後、
アメリカへ戻って研究者を育てる側に回りました。

つまり、オッペンハイマーを中心に見ると、
「ヨーロッパの量子力学」
→「アメリカへの研究者移動」
→「UCBでの人材育成」
→「マンハッタン計画」
という一本の流れを見ることができます。

その進展は物理学に留まらず、工学、産業、
果ては政治体制に繋がっていきました。

1917年ロシア革命に始まった社会体制の変化とも
同期していた、
と言えるのでは無いでしょうか。

20世紀初頭の閉塞感は、それを打ち破る様々な努力によって
大きく様変わりしていたと思えます。そして、昨今コロナで
不満が高まり、米中関係が緊張していく世相は、やもすれば
危ない世界に近づいてるようにも思えます。

各人で理性的な判断・発言をしましょう。
今、方向付けが重要です。

 オッペンハイマーの関心

さて実際、オッパンハイマーは経済的に恵まれた
家庭で育ち、沢山のお小遣いをもらいながら
すくすくと育ちます。そして、
オッペンハイマーは最終的に6つの言葉を操ります。
少年時代には
鉱物学・数学・地質学・化学に関心を示し
ハーバードを3年で終えてケンブリッジに留学します。

そこから理論物理学のゲッティンゲン大学に進み
ボルンと出会います。オッペンハイマーは
ボルンの指導の下で
研究を進め共同で
ボルン・オッペンハイマー近似等の業績を上げます。

若い時代にボルンと近似に関する仕事をする以外に
一度帰国した後に二度目の訪欧でエーレンフェストパウリボーア
等と交流し物理学での知見を育みます。暖かい人々が
次の時代の人材を育てたのです。
2023年に別記事にまとめました)。

その後、アメリカに戻りカリフォルニア工科大学やUCBで
教鞭をとりますが、第二次大戦勃発に伴い、
オッペンハイマーは
ロスアラモス国立研究所の
初代所長に任命されます。

ロスアラモス国立研究所で原爆を開発したのです。
この仕事は、世界のパワー・バランスを変え、
後の世界を大きく変えました。大国の力が強まったのです。

ゲッティンゲンではマックス・ボルン
のもとで量子力学を学びました。
また、この時期のヨーロッパでの交流をたどると、
エーレンフェストパウリボーア
など、後の量子力学史を代表する人物とのつながりが見えてきます。

 

晩年のオッペンハイマー

晩年、オッペンハイマーは成し遂げた仕事の意味を自問し、
後悔の言葉さえ残しています。

戦争時代の原爆開発・使用は国としての
アメリカの中で必要と判断されていましたが、
それ以後の時代では原爆を使わなくても各国が
持つだけで攻撃対象とされたりしますし、
外交で原爆が脅迫の道具として使われていたりします。

そういったことにつながった発明をオッペンハイマーは
「罪」として捉えていて、
水爆の開発には反対していたりもしました。

オッペンハイマーには別の罪(?)もあります。
オッペンハイマーの時代は冷戦時代なので
学生時代からの共産党とのつながりを指摘され、
最終的には赤狩りの標的とされ続けていました。

常時FBI(司法省管轄のアメリカ連邦捜査局)
監視下にあったのです。1965年、
がんの為に
ニュージャージーの自宅で
静かに生涯を終えました。

合掌。

そして、2023/8/19に追記します。
映画宣伝の思惑でこの夏に「バーベンハイマー騒動

が起きました。オッペンハイマーの伝記映画と
バービー人形の映画が同日に放映されていました。
その中で、
米国の配給会社が「忘れられない夏になりそう!
と発言した事に日本法人は遺憾の意を示しています。
米国の商戦主義が終戦記念日を控えた日本人の
感性に「カチン」ときたわけです。

関連する物理学者

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2020/09/21_初稿投稿
2026/09/13 _改定投稿
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(2021年10月時点での対応英訳)

Atomic bomb father Oppenheimer

Oppenheimer was sometimes called the father of the atomic bomb, but at UCB (University of California, Berkeley), he was also nicknamed Oppenheim by students. Oppenheimer’s life is full of emotions. When thinking about Oppenheimer’s life, the first point to look at is that he also has Jewish blood.

The reality that Hitler focused on and persecuted the Jews as an ethnic group and was hostile to them is an immovable fact. The Jews must have felt a great sense of crisis in the world of being taken to concentration camps. In that sense of crisis, the history of the early 20th century may have been that geniuses grew up and united to create new things. The act of manufacturing weapons is not affirmed in such an era, but the debaters at that time also started talking about the persecution of Jews and introduced the flow to the Manhattan Project, and assembled a story that is easy for the public to understand. Probably.

Jewish physicists

Almost 100 years have passed since then, and I suspect that many people have developed this idea, but I would like to emphasize it again. The characters in the concrete world of physics are Einstein, Stern, Max Born, DJ Baume, E. Pauli, Landau, Feynman,

And this is Oppenheimer. (I can only think of it here now, but I will add it later whenever I come up with it.) The progress of physics at the beginning of this century brought about by such members was rapid. Its progress went beyond physics to engineering, industry, and even the political system.

It can be said that it was in sync with the changes in the social system that began in the Russian Revolution in 1917. It seems that the feeling of obstruction at the beginning of this century was greatly changed by various efforts to overcome it. And it seems that the world, where dissatisfaction with Corona has increased and US-China relations have become tense these days, is approaching a dangerous world. Let’s make rational judgments and remarks by each person. Direction is important now.

Oppenheimer’s interest

Well, in fact, Oppanheimer finally manipulates six words. As a boy, he became interested in mineralogy, mathematics, geology and chemistry, finishing Harvard in three years and studying abroad in Cambridge. From there he goes to the University of Göttingen in theoretical physics and meets Born.

Oppenheimer conducts research under the guidance of Born and jointly achieves achievements such as the Born-Oppenheimer approximation. He then returned to the United States to teach at the California Institute of Technology and UCB, but with the outbreak of World War II, Oppenheimer was appointed as the first director of the Los Alamos National Laboratory. So he developed the atomic bomb. This work changed the power balance of the world and changed the world later.

Oppenheimer in his later years

In his later years, Oppenheimer asked himself what the work he had accomplished and even left a word of regret. It was judged that the development and use of the atomic bomb during the war was necessary in the United States as a country, but in the subsequent era, even if each country did not use the atomic bomb, it would be the target of attack, and diplomacy. The atomic bomb is used as a threatening tool. Oppenheimer saw the invention that led to that as a “sin,” and he even opposed the development of the hydrogen bomb.

Oppenheimer also has another sin (?). Since Oppenheimer’s era was the Cold War era, he was pointed out that he had a connection with the Communist Party since he was a student, and eventually continued to be the target of the Red Scare. He was always under the supervision of the FBI (Federal Bureau of Investigation under the Department of Justice). In 1965, he quietly ended his life at his home in New Jersey because of cancer. Gassho.

2025/5/5のメモ

 

オッペンハイマー原稿メモ

P54.Fファーガンとハーバード
P67.ボーアがラザフォードの紹介でオッペンハイマーに会う
「二体問題で困っている」⇒That’s BAT!
P68.1926年にボルンがケンブリッジに来た時に連続スペクトルの
仕事を評価しゲッチンゲン大学での共同研究が始まる
P109.歴史として完全に記録されることになるだろう。ByOpy
P119.アンダーソン
P136.現代物理学の父ニールスB
P135.オッペン像「事実の歪んだ写像」
P224.トリニティーの意味?
P238.消防車ベーテの実験分析での助言が格別
P240.論文は数多く・・・しかしロバートはトリニティー。。。
P246.ナチスドイツが原爆を持てないと1944年11月に、、
P269.聖者フランクのフランク報告書
P311.Prudenceを「オッピーは持っていない。それはすなわち、世の中でやっていくため、あるいは落伍しないための賢明な兵法」←オッピーは自身の知的・道徳的・審美的規範で置き換えてきた」By.N.R.デイヴィウス
P344.4年後にロシア
P347.ホールデンの文
P336.IAEA
P340.我々と共に
P353.1950年フックスの告白
P408.ゲッチンゲンでのボルンとの関係_ボルン⇒オッピー責任回避を試みる

また、2023年3/26のメモに追記します。現時点でこれが確定メモ。凡そ2年前からの作業なのですね。

追記分)

<オッペンハイマー原稿>
オッペンハイマーは内的な考察を処理しきれない;トラブルを意識的に避けたかった。
オッペンハイマーの非宗教的な倫理観に起因し問題が出てくる。
・ユダヤ、キリスト、イスラム、ヒンズーと親和性がない
・ハーバード大学でのユダヤと反左
・三年間で最優秀で卒業する
・1922年文学での奇跡の年にユリシーズ
・1935年の物理学での奇跡の年に量子力学誕生
(ロバートは1922年9月~1925年6月に11)
・プリンキピア・マセマティカ
(アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド と
バートランド・ラッセル によって書かれ、1910年から1913年に出版)
・1931年K.ゲーテル(不確定性原理)
・ポアンカレの「現代物理学」
・ギブスの「非同一系の非平衡論」
・ジールス「気体分子運動論」
・ゾンマーフェルトの「原子構造とスペクトル」
(ハーバードの理論屋ケンプルへの手紙)
・クロムイエロー、(ロバートフランシス・ポールのトロクロ?)
・ボルンの連続スペクトル論理

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(以下原稿です)

フォン・ノイマンの生涯
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【1903年12月28日 – 1957年2月8日】


【Photo: John von Neumann / Wikimedia Commons (Public Domain)】

フォン・ノイマンの生い立ち

フォン・ノイマンは、数学・物理学・コンピューター科学を
横断して20世紀の科学技術に大きな影響を与えた人物です。

特に重要なのは、量子力学の数学的定式化、電子計算機の設計、
数値気象学、そしてマンハッタン計画への参加
でしょう。

一見すると別々に見えるこれらの仕事を結び付けていたのが、
高度な数学を現実の問題へ適用する能力でした。

その知性は少年時代から際立っており、
後にダーヴィット・ヒルベルトとの交流にもつながります。

ヒルベルトは現代数学を大きく発展させた数学者であり、
若きフォン・ノイマンの才能を高く評価した人物です。
ヒルベルトの記事と併せて読むと、ノイマンが
どのような数学的環境から
育ったのかが見えてきます。】

ノイマンはハンガリー人で恵まれた家庭に育ちました。
晩年のヒルベルトと交流をし、数学センスに
磨きをかけた逸話が残っています。

【(1925年ころ)ヒルベルトの伝記を読んだジョニーはしきりにヒルベルトを訪れるように
なったらしい。「40以上も歳の離れた2人の数学者が ヒルベルトの家の庭や書斎で何時間も話し合った。】
ノーマン・マクレイ著「フォン・ノイマン生涯」より)
そして、戦争の時代にドイツを経てアメリカに亡命します。
ハンガリー名ではナイマン・ヤーノシュ:nɒjmɒnˌjɑ̈ːnoʃ、
ドイツ名ではヨハネス・ルートヴィヒ・フォン・ノイマン
:Johannes Ludwig von Neumann、
アメリカではジョン・フォン・ノイマン(ジョニー)
と名乗りました。

理論家としてのノイマンの業績

大きな業績として量子力学の黎明期に数学的定式化
を進めたのがノイマンです。「量子力学の数学的基礎
という名著を1932年に残しています。また、ノイマン型
コンピューターを開発した業績も見逃せません。
経済学、気象予報学にも足跡を残す多才な人です。

また、ノイマンは数値気象学を創設したと言えます。
自ら発展させたコンピューターの活用法として
地球の各場所での情報をもとに
数日後のお天気を予測していったのです。

そんな、ノイマンは誰しもが認める天才です。
後述するプリンストン高等研究所時代にアインシュタインが
ノイマンを評して天才と呼んでいたそうです。
(ノイマンもアインシュタインを天才と呼んでいたそうです)
ノイマンは少年時代から英才教育を受け、ディケンズの小説を
一字一句間違えず暗唱していたと言われます。
また、車を運転しながら読書していたと言われます。
(しかそそもそも、ノイマンは運転が苦手。zwz)

数学・物理学・コンピューター科学・気象学・経済学
で多才な才能を発揮した人です。
映画のモデルにもなっています。

以前このサイトで掲載した映画作品「博士の異常な愛情」は
フォン・ノイマンをモデルにしたと言われています。
(実際のキャラとはだいぶ違いますよ!!:))

原子爆弾やコンピューターの開発

フォン・ノイマンは1930年にプリンストンに招かれ、
プリンストン高等研究所の所員に選ばれています。

因みに、その時に同時にメンバーとして選ばれた一人が
アルベルト・アインシュタインでした。
戦争へ向かうアメリカで軍事関係の研究を進めます。

特に、フォン・ノイマンはロスアラモス国立研究所で
アメリカ合衆国による原子爆弾開発のための
マンハッタン計画に参加します。アメリカという国家が
多くの才能をアメリカの理想の為に集めていました。
沢山の予算が動きます。昔からアメリカファーストです。

そして、
弾道研究所に関わるENIACのプロジェクトに参加して以降、
ノイマンも電子計算機のプロジェクトを進めていくのです。

ノイマンの別関心事として衝撃波の伝達
の研究分野がありました。
所謂「FAT・MAN」(長崎に落ちたプルトニウム型原子爆弾)
のための爆縮レンズを開発していくのです。

殺人兵器の開発に科学者が関わっていく良い例です。
「(効率的に)人を沢山殺そう」という考えと
「科学的探究心」は瞬時に置き換える事が出来るのです。
結果として科学者に殺意がなくても効果的な兵器が作れます。

フォンノイマンの考え方を表す言葉

名言として残されている一つをご紹介します。
「思考こそが一次言語であり、
数学は二次言語である。
数学は、思考の上に作られた、
一つの言語に過ぎない。」
実際に物理モデルを構築する前の「思考」が大事で、
それは掴み様の無い物です。幾何学的な図形で抽象的に
表現してみたり群論を使って整理してみたりします。
数学や物理モデルは思考を表現する道具となります。
見つかった「秩序」を数学的表現で表すのはその後の段階で、
さらには大衆に分かるように色々な言葉で肉付けします。
物理学者はこの作業を無限に繰り返さなければいけません。
そんなノイマンは1955年に骨腫瘍・あるいは、すい臓がん
と診断されました。
晩年、
ノイマンは骨腫瘍を患い1957年に53歳で亡くなりました。
マンハッタン計画への関与から放射線との関連が語られる
こともありますが、因果関係は明確には確認されていません。
53歳の人生でした。
同僚のエンリコ・フェルミも1954年に
骨がんで亡くなっています。
フェルミも53歳の人生でした。
「ジョニー(フォン・ノイマン)が臨終を迎えたウォルター・リード
陸軍病院では国防長官と副長官、それに陸海空軍の長官も参謀長たちもぐるり
とベットを取り巻いて最後の一言にじっと耳を傾けていた」と言われます。」
ノーママンクレイ著‗渡辺正訳「フォン・ノイマンの生涯」より)
科学技術の発展の為に晩年を捧げた人生でした、
ご冥福をお祈りいたします。

関連する人物の流れ

◀ 前の人物:
ダーヴィット・ヒルベルト

▶ 次の人物:
エンリコ・フェルミ

 

フォン・ノイマンとつながる科学者

  • ダーヴィット・ヒルベルト
    ― 数学的基礎を学ぶ上で重要な人物
  • アルベルト・アインシュタイン
    ― プリンストン高等研究所での同僚
  • エンリコ・フェルミ
    ― 原子炉開発と核物理学
  • ユージン・ウィグナー
    ― 原子核・素粒子論とマンハッタン計画
  • エドワード・テラー
    ― 核兵器開発と理論物理学


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2026/09/12_原稿改定

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(2021年10月時点での対応英訳)

The background of von Neumann

Neumann is a Hungarian German who goes into exile in the United States. He is said to have been reciting Dickens’ novels word for word, having been educated as a gifted boy in Hungary for Naiman Janos: nɒjmɒnˌjɑ̈ːnoʃ and in Germany for Johannes Ludwig von Neumann. increase.

He is also said to have been reading while driving a car. He is a versatile talent in mathematics, physics and computer science and is also a movie model. The movie work posted at the beginning is
It is said to have been modeled after von Neumann.

Development of atomic bombs and computers

Von Neumann was invited to Princeton in 1930 and was selected as a member of the Princeton Institute for Advanced Study. By the way, one of the members who was selected at the same time was Albert Einstein. He pursues military research in the United States heading for war.

In particular, von Neumann will participate in the United States’ Manhattan Project for the development of an atomic bomb at the Los Alamos National Laboratory. And Neumann will also proceed with this computer project by participating in the ENIAC project related to the Ballistic Research Laboratory.

Another concern of Neumann was the field of study of shock wave transmission. He will develop a detonation lens for the so-called FAT MAN (plutonium-type atomic bomb thrown at Nagasaki). It’s a good example of how scientists get involved in weapons development. The idea of ​​”killing a lot of people (efficiently)” and “scientific inquiry” can be instantly replaced.

A word that expresses the idea of ​​von Neumann

I would like to introduce one that remains as a saying.
“Thinking is the primary language,
Mathematics is a secondary language.
Mathematics was built on thought,
It’s just one language. “

It is important to think before actually building a physical model, which is something that cannot be grasped. Try to express it abstractly with geometric figures or organize it using group theory. The mathematical expression of the found “order” will be expressed later, and will be fleshed out in various words so that the public can understand it.

Physicists have to repeat this task indefinitely. Neumann was diagnosed with bone tumor or pancreatic cancer in 1955. He is also the result of his repeated research on radioactivity. His colleague Enrico Fermi also died of bone cancer in 1954. I pray for the souls of his later life for the development of science.

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ユージン・ウィグナー
‗【ポール・ディラックの義理の兄|BCS理論を作ったバーディンの指導教官】-9/10改訂

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。
では、ご覧ください。内容を整理し、
主にリンクを見直しました。
現時点での英訳も考えています。
(以下原稿です)

素粒子と時空
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【1902年11月17日 ~ 1995年1月1日】


【出典:Wikimedia Commons】

その名を書き下すと

ユージン・ポール・ウィグナー

(Eugene Paul Wigner)。

ハンガリー生まれのユダヤ人です。

後程詳しくご紹介しますが、ウィグナーは

ポール・ディラックの義理のお兄さんで、

BCS理論の作成者3人組の中心人物、

バーディーンの指導教官です。

物凄い人脈を持っている人ですね。

また、「原子核と素粒子の理論における対称性の発見」
に対して1963年のノーベル物理学賞を受賞しています。

対称性に着目した素粒子の整理は有効で、その分類方法が
無ければ
進まなかった話が沢山あります。

 

 ドイツ・アメリカでのウィグナー

ユージン・ウィグナーは現在のベルリン工科大学
卒業後にベルリン工科大学で
勤務していましたが
ナチスドイツのユダヤ人迫害に対して研究継続の困難
を感じアメリカに亡命をします。

米国に亡命後はウィスコンシン大学で物理学の教授を務め、
その後にプリンストン大学で数学の教授を務めました。

そんなウィグナーはレオ・シラードエドワード・テラーらと、
ナチスドイツが原子爆弾を開発した時の危険性を
アメリカ政府に対して訴えていきました。

ならでは、の表現を使ってユダヤ人として
ナチスの脅威を政府に伝えられたはずです。
実際にベルリンを追われた過去を持つウィグナーは
現実に当時の状況を分析していたのだろうと思います。

実際、当時のドイツの科学の水準を分かっていて
ナチスが有していた兵器を理解していたから、
ナチスによる原爆開発の危険を強く感じていたのだと思えます。
ただし、
その後の歴史を知る現在の私たちから見ればドイツの
原爆開発は結果的に成功しませんでした。しかし
当時はドイツが世界最高水準の物理学研究を有しており、
ウィグナーたちの危機感は決して
非現実的なものではありませんでした。

ノルマンディー上陸作戦以降の連合軍の通常兵器での反攻を思えば、
優秀な国だとはいえ、
一国のドイツがヨーロッパ大陸を長期間占領
し続ける
事は出来なかったでしょう。政治のバランス。

現在で考えると強大化する中国に対して
欧米諸国
がどういった対応をするか気になる所ですよね。

原爆とウィグナー

ウィグナーは、ナチス・ドイツによる原爆開発の可能性を強く警戒した物理学者の一人でした。

当時、ウィグナーはレオ・シラードやエドワード・テラーらとともに、ドイツが核兵器を開発する可能性について
アメリカ政府へ警告する動きに加わっています。

その流れの中で、シラードが中心となってまとめた大統領宛の書簡に、ウィグナーやテラーも関わり、
最終的にアルベルト・アインシュタインの署名を得ることになります。

ここからアメリカの核開発が大きく動き出し、後のマンハッタン計画へとつながっていきます。

ウィグナー自身もマンハッタン計画に参加し、核兵器開発を支える重要な役割を果たしました。

この歴史をたどると、一人の物理学者だけで原爆が作られたわけではないことが分かります。

アインシュタイン、シラード、フェルミオッペンハイマーテラーなど、
それぞれ異なる立場の科学者が、戦争という巨大な時代背景の中で交差していったのです

ウィグナーを見るときに興味深いのは、単なる「原爆開発者」としてではなく、
「理論物理学・数学・原子核研究・そして科学者の社会的責任をつないだ人物」
として捉えられることではないでしょうか。
 

又、ウィグナーはアメリカの原爆開発のきっかけとなった
アインシュタイン名による大統領宛書簡の起草に対して
シラードや
テラーと連名で加わりました。

加えて、
原爆を開発するマンハッタン計画にはメンバーとして加わりました。

晩年にウィグナーは哲学的な傾向を深め、
講演録
「自然科学における数学の理不尽な有効性」
を残しています。
著名なこの著作は多分野に影響を与えています。

最後にウィグナーの妹は食事の席にディラックを招いた縁で、
彼の奥さんになっています。とても意外な取り合わせですね。

 

関連する物理学者の系譜

◀ 前の人物:
ポール・ディラック

▶ 次の人物:
フォン・ノイマン

この分野の物理学者:
ハイゼンベルク
フェルミ
エドワード・テラー
ジョン・バーディーン

 

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(2021年11月時点での対応英訳)

If you write down the name

Eugene Paul Wigner.

He is a Hungarian-born Jew. As I will explain in detail later, Wigner is Paul Dirac’s brother-in-law and the supervisor of Bardeen, the center of the trio of creators of BCS theory. He has a tremendous network of contacts, isn’t he? He also received the 1963 Nobel Prize in Physics for his “discovery of symmetry in the theory of nuclei and elementary particles”. There are many stories that the arrangement of elementary particles focusing on symmetry is effective and would not have progressed without the classification method.

Wigner in Germany

Eugene Wigner worked there after graduating from the current Berlin Institute of Technology, but found it difficult to continue his research on the persecution of Jews in Nazi Germany and went into exile in the United States.

After his exile in the United States, he was a professor of physics at the University of Wisconsin and then a professor of mathematics at Princeton University. Wigner, along with Leo Szilard and Edward Teller, appealed to the US government about the dangers of Nazi Germany developing an atomic bomb.

I think Wigner, who had a past of being ousted from Berlin, was actually analyzing the situation at that time. In other words, he knew the level of German science at the time and understood the weapons that the Nazis had, so it seems that he was strongly aware of the danger of the Nazis developing an atomic bomb. However, for those of us who know the actual history, it is a difficult move. Given the counterattack of the Allied forces with conventional weapons since the Invasion of Normandy, Germany would not have been able to continue to occupy the continent for a long time, albeit excellent. When you think about it now, you are wondering how Western countries will respond to the growing power of China. In any case, the Wigners created the opportunity for Britain and the United States to own the atomic bomb.

Atomic bomb and Wigner

Wigner joined Szilard and Teller jointly in drafting a letter to the president in the name of Einstein, which triggered the development of the American atomic bomb. In addition, he joined the Manhattan Project to develop the atomic bomb as a member.

In his later years Wigner deepened his philosophical tendencies, leaving behind his lecture “The Unreasonable Effectiveness of Mathematics in the Natural Sciences”. His prominent work has influenced many disciplines. Wigner’s sister is also his wife because he invited Dirac to his dining table. It’s a very surprising combination.

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和達清夫
【マグニチュードの概念を考え始めて、気象台長を務めた】-9/9改訂

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。
では、ご覧ください。内容を整理し、
主にリンクを見直しました。
現時点での英訳も考えています。
(以下原稿です)

自然の恵み
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【1902年(明治35年)9月8日 – 1995年1月5日】


Wikimedia Commons‗和達清夫】

愛知県に生まれた和達(わだち)清夫は和達三樹のお父様です。
(和達三樹の名は教科書でおなじみなのではないでしょうか)
和達清夫は地球科学に足跡を残し、特に気象学や地震学で
有名です。いわゆるマグニチュードを体系化したのは
チャールズ・リヒターですが、その基礎となる地震波振幅の
研究において和達清夫の成果は重要な役割を果たしました。

個々の地点で感じられる(観測される)
「震度」に対して地震そのものの大きさ(震源地での大きさ)を
表す指標が「マグニチュード」です。

マグニチュードの概念はその後、地震が起きるたびに活用されて
非常に重宝な概念として使われています。あたり前に使われています。

個々の地点で感じられる(観測される)「震度」に対して、地震そのものの
規模を表す指標が「マグニチュード」です。

マグニチュードは後にチャールズ・リヒターによって体系化され、
現在では地震の規模を表す基本的な指標として広く使われています。

一方、和達清夫が重要な足跡を残したのは、地震波と震源の深さの関係を
明らかにする研究
でした。特に浅い地震と深い地震を区別して研究した
ことは、その後の地震学の発展につながります。

つまり、リヒターが地震の「規模」を表す尺度を体系化したのに対して、
和達清夫は「地震が地下のどこで、どのように起きているのか」
を地震波から探る研究を進めた、と整理すると分かりやすいでしょう。

こうして考えると、現在では当たり前のように使われている地震の観測や解析も、
多くの研究者が地震波の性質を一つずつ明らかにしてきた結果なのだと分かります。

地震について更に深く考えてみたいと思います。
今では子供でも知っていますが地震は波で震源から
遠ざかれば遠ざかる程に減衰します。

和達清夫が明らかにした地震の世界

和達清夫の研究を理解するためには、まず地震がどのような波として
観測されるのかを考えてみる必要があります。

地震が発生すると、震源から周囲へ地震波が伝わっていきます。私たちが
地面の揺れとして感じる現象は、この地震波が地中を伝わってきた結果です。

地震波には代表的なものとしてP波とS波があります。

P波は「Primary wave(第一波)」と呼ばれる波で、S波より速く伝わります。
そのため、地震が発生した場所から離れた観測地点では、まずP波による
小さな揺れが到達し、その後にS波による大きな揺れが到達します。

私たちが学校などで学ぶ「初期微動」と「主要動」という考え方も、
このP波とS波の到達時間の違いに対応しています。

一方、S波は「Secondary wave(第二波)」と呼ばれ、P波より遅く伝わります。そのため、
P波とS波の到達時間の差を調べることで、観測地点から震源までのおおよその距離を推定できます。

つまり、地震波は単なる「地面の揺れ」ではありません。
地震波を観測することで、地下で起きた地震の位置や深さを推定できるのです。

ここに和達清夫の研究の重要性があります。

和達は、さまざまな地震の観測結果を調べ、震源の深さと地震波の関係
について研究しました。特に、震源が浅い地震だけでは説明できない
深い場所で発生する地震に注目したのです。

当時、地震は現在ほど詳細に観測できませんでした。それでも地震波が
観測点へ到達する時間や波の特徴を比較することで、
地下のどこで地震が発生したのかを推定していきました。

この研究によって、地震には震源の深さという重要な違いがあることが
、より明確に理解されるようになります。

和達清夫の博士論文が「Shallow and deep earthquakes」だったことも、
この研究テーマを象徴しています。

現在では、地震観測網によって地震の発生場所や深さがかなり精密に
求められます。しかし、その背景には、地震波を一つの観測データとして捉え、
そこから地下の構造や震源の情報を読み取ろうとしてきた研究者たちの積み重ねがあります。

和達清夫は、その黎明期において重要な役割を果たした研究者の一人でした。

こうして考えると、地震学とは単に「地震の揺れを測る学問」ではありません。
目に見えない地下の現象を、地震波という観測可能な情報から読み解いていく学問なのです。

そして、この地震波の研究は、後に地震の規模を表すマグニチュード
考え方ともつながっていきます。地震そのものの大きさをどう評価
するのかという問題については、チャールズ・リヒターらの研究が重要になります。

 

そして具体的には初期微動と本震から構成(P波とS波から構成され)、
其々が 振動数と振幅を持ちます。
2つの構成波が、それぞれパラメターを持つのです。

和達清夫の経歴を振り返れば、

東京帝國大学理学部物理学科を卒業

後に中央気象台に勤務していきます。

気象台では第6代気象台長を務めました。

和達清夫の時代から物理学が

実学として活用されていきます。

地球物理学を実務に適用したのです。

和達清夫は気象観測の黎明期において

指導的な役割を果たしました。

1960年から(第5代)日本学術会議議長

(第17代)日本学士院院長、

埼玉大学学長、日本環境協会会長

などを歴任しました。

和達清夫は1985年には

文化勲章を受勲しています。

そして92歳で亡くなっています。

この分野の物理学者(地震学・地球物理学)

  • チャールズ・リヒター ― マグニチュードの体系化
  • 和達清夫 ― 地震波・深発地震の研究
  • 和達三樹 ― 理論物理学・数理物理学

 

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〆最後に〆

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 (2021年10月時点での対応英訳)

Wadachi Kiyoo born in Aichi is father of Miki Wadachi.(whether the name of Miki Wadachi is not familiar with a textbook)
Kiyoo Wadachi leaves a footprint for earth science and is famous for meteorology in particular and seismology.

It is said that a study of Kiyoo Wadachi became the hint as for the concept of so-called “magnitude”. Whenever an earthquake gets up afterwards, the concept of the magnitude to express size (size at the epicenter) of the earthquake itself for “the seismic intensity” that is felt to be individual points (is observed) is utilized and is used as a very useful concept. It is used in front of the area.
Wadachi continue an advanced study and think about the range from the depth of the seismic center and lead to a concept of the magnitude.

In the first place the doctoral dissertation of Kiyoo Wadachi
“Shallow and deep earthquakes”
I did it in this.

If look back on a career of Kiyoo Wadachi, Tokyo emperor country University department of science physics subject

After graduating from this, the Central Meteorological Observatory works.

Wadachi acted as Mayor of the sixth meteorological observatory in the meteorological observatory.

Physics is utilized as practical science from the times of Kiyoo Wadachi.

Wadachi applied geophysics to business.

Kiyoo Wadachi played a leading role in the dawn of the weather observation.

In 1960 (the fifth) Chairperson of Science Council of Japan (the 17th) Japan Academy’s director,

Wadachi successively held Saitama University’s president, Japanese environmental association’s chairperson.

As for Kiyoo Wadachi, Conforment of honor is doing the Order of Culture in 1985.

Wadachi die at 92 years old.

 

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エンリコ・フェルミ
【マンハッタン計画に参画し排他律に従う原理を構築した一人】-9/6改訂

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。
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(以下原稿です)

↑Credit:Jimmy in unsplash↑

角運動量とスピン
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【1901年9月29日生まれ ~ 1954年11月28日没】

【出典:

Portrait

Wikimedia Commons‗Public domain‗E.Fermi】

イタリア生まれのフェルミ

フェルミはイタリアのローマに生まれアメリカで没してます。

アメリカではフェルミの名前を冠した研究所が今でも

シカゴ大学内にあって、そこで議論が交わされています。
「フェルミの講義」について他の方のブログへリンクします。
少しでも「臨場感」を味わって下さい。。

フェルミはご紹介しているC.N,Yangをはじめ
多くの物理学者を育て上げました。
その業績は社会的側面が大きいものもある一方で
純理論を突き詰めた後世の多くの
物理学者が使う
原理・概念もあります。

まさにパラダイムシフトを起こした
立役者です。ミクロの世界を切り開きました。

フェルミは核物理だけの物理学者ではない

フェルミという名前から、マンハッタン計画や原子炉を思い浮かべる人も
多いでしょう。しかし、フェルミの業績は核物理だけに限定されません。

ベータ崩壊を説明する理論を構築し、ニュートリノを含む弱い相互作用の
理解にも大きな道筋を与えました。また、電子の集団を統計的に扱う
フェルミ・ディラック統計は、現在の物性物理学を理解するうえでも
重要な考え方です。

つまりフェルミは、
「原子核を研究した物理学者」というだけではなく、
ミクロな粒子の振る舞いを理論と実験の両面から切り開いた物理学者
だったのです。

 

そもそも、フェルミは学生時代から抜きん出た優秀さを備えています。
一歩一歩、フェルミは議論を展開して
ノーベル賞を受け、その授賞式
の際にイタリアから
アメリカに亡命しました。

フェルミの時代にはナチスが猛威をふるっていて、
奥様がユダヤ人だつた為もフェルミは迫害されていたのです。

フェルミとマンハッタン計画

アメリカ移住後にフェルミはマンハッタン計画に参画し、1942年、
シカゴ大学で世界初の人工原子炉「シカゴ・パイル1号」の臨界に成功しました。

これは原子力発電所ではなく、核連鎖反応の実証実験でした。

そもそも、計画への参加はオットー・ハーンがドイツで
核分裂実験に成功した事情が大きいです。

フェルミを初めとした物理学者達が時代に危惧感を抱いたのです。
アメリカを中心とする
資本主義圏が自由を謳歌した点で
フェルミの業績は
計り知れないです。

反面でスリーマイル島の事故や福島での原発事故を思い起こすと、
気楽に賞賛ばかりはしていられません。

このブログの中で私が何回か主張しているように
識者が知恵を集結して問いかけなければいけません。

かってのラッセルーアインシュタイン宣言を思い起こしたいです。
一方で我々、大衆も皆で分かる範囲の言葉を使い
意見を交わさねばなりません

可能な範囲で意見を交わして民衆の英知を集結させるべきです。
個人個人が平和に対して
語る時に少しでもしっかりした
考えをもって
話さないといけないのです。

色々な人と語る時に話が繋がっていく様な議論の土壌を、
少しずつ育んでいかないといけないです。その為には
会話をする個人それぞれが、より平和と現実に対して
しっかりした考えを持ってほしいです。
そんな人が話しやすい雰囲気を
出していけるような人になって下さい。
自分が話を広げるだけではなくて、
相手の意見や気分を理解する力も大きいです。

考えを作るうえで政治家には頼れない昨今です。
各人、しっかりした考えを育んで下さい。

 フェルミトとスピン

さてフェルミに話を戻します。フェルミは純理論の中で
スピン角運動量に関して議論を進めました。

別のご紹介でボゾン・アインシュタインの系を紹介しましたが、
フェルミとディラックは別の粒子群に着目します。

 

フェルミとフェルミ統計

さて、フェルミに話を戻します。

フェルミの理論的業績の中でも、現在の量子力学や物性物理学に
深くつながっているのがフェルミ統計です。

別の記事で紹介したボースは、アインシュタインとともに
ボース・アインシュタイン統計へと
つながる考えを築きました。
これに対してフェルミとディラックは、電子のような
粒子を記述する
フェルミ・ディラック統計を発展させました。

後世の量子力学では、粒子はスピンの性質によって大きく
ボソンとフェルミオンに分類されます。
電子、クォーク、ニュートリノなどはフェルミオンに分類され、
フェルミ・ディラック統計に従います。

ここで重要なのは、「排他律」と「フェルミ統計」を混同しないことです。
排他原理そのものはパウリ
提唱したものです。一方、フェルミは電子などの粒子集団を
統計的に扱う理論を構築しました。

この違いを押さえておくと、
パウリ
フェルミ、ディラックという三人の仕事が一本の流れとして
見えてきます。

 

後世の理解ではスピン角運動量が半整数(1/2とか3/2とかいった数)
の粒子はフェルミ粒子(フェルミオン)と呼ばれボゾンとは
別の振る舞いを示します。
具体的なフェルミオンとしてはクォークや電子、
ミュー粒子、
ニュートリノ、陽子、中性子もフェルミ粒子の仲間です。
こうした概念は電気伝導率の物性を議論するときには欠かせません。

フェルミの排他律に従う電子の集団を統計的に扱い、
フェルミ統計を確立したのです。
例えばこの理論で金属他の熱伝導が非常によく説明されます。

こうして沢山の業績を世に残し、フェルミは天に召されました。

彼は病床で点滴が落ちるのを眺めて、

その流速を出していたと言われています。

フェルミこそ、生粋の物理学者でした。

謹んでご冥福をお祈り致します。


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(2021年10月時点での対応英訳)

Italian-born Fermi

Fermi was born in Rome, Italy and died in the United States. In the United States, there is still a research institute named after Fermi at the University of Chicago, where discussions are held. While some of its achievements have a large social aspect, there are also principles and concepts used by many posterity physicists who have pursued pure theory. He is the driving force behind the paradigm shift. He opened up the micro world.

In the first place, Fermi has outstanding excellence since his school days. Step by step, Fermi developed his discussions, received the Nobel Prize, and went into exile from Italy to the United States at the award ceremony. At his time, his wife was persecuted because he was Jewish.

Fermi and Manhattan Project

After moving to the United States, Fermi participated in the famous Manhattan Project and was involved in the creation of a nuclear power plant, which would significantly change society. In the first place, participation in the project is largely due to Otto Hahn’s successful nuclear fission experiment in Germany. Fermi and other physicists were worried about the times. Fermi’s achievements are immeasurable in that the capitalist sphere centered on the United States enjoyed freedom. On the other hand, when he recalls the Three Mile Island accident and the nuclear accident at Fukushima, he cannot easily praise him. As I have argued several times in this blog, wisdom must be gathered and questioned. I want to recall the old Russell-Einstein Declaration. On the other hand, we, the general public, must exchange opinions using words that everyone can understand.

We should exchange opinions to the extent possible and bring together the wisdom of the people. When an individual talks about peace, he or she must have a firm idea. We have to gradually nurture the ground for discussions that will connect the conversations when talking to various people. I want each individual who has a conversation to have a firmer idea of ​​peace and reality. Please become a person who can create an atmosphere that makes it easy for such people to talk. Not only do I spread the story, but I also have a great ability to understand the opinions and moods of the other person. Nowadays, we cannot rely on politicians to make ideas. Please nurture a solid idea for each person.

Fermit and spin

Now let’s get back to Fermi. Fermi proceeded with the discussion on spin angular momentum in pure theory. He introduced the Boson Einstein system in another introduction, but Fermi and Dirac focus on different particle swarms. In later understanding, particles with a half-integer spin angle momentum (numbers such as 1/2 and 3/2) are called fermions and behave differently from bosons. As specific fermions, quarks, electrons, muons, neutrinos, protons, and neutrons are also fermions. These concepts are indispensable when discussing the physical characteristics of electrical conductivity.

He established the Fermi statistics by statistically treating the group of electrons that obey the Fermi exclusion principle. For example, this theory explains the heat conduction of metals and others very well. .. In this way, Fermi was called to heaven, leaving many achievements in the world.

Fermi is said to have watched the drip drop on the bed and set the flow velocity. Fermi was a true physicist. He humbly prays for his soul.

 

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E・O・ローレンス
【サイクロトロンを発明し人工放射性元素を実現】‐9/5改訂

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。
では、ご覧ください。内容を整理し、
主にリンクを見直しました。
現時点での英訳も考えています。
(以下原稿です)

 

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【1901年8月8日~1958年8月27日】


【出典:Ernest Orlando Lawrence:
Wilipedia commons‗public domain】

 優れた実験家ローレンス

その名はErnest Orlando Lawrence。
(アーネスト・オーランド・ローレンス)

ローレンスは優れた実験物理学者であり、
現在でも世界中で活用されている「サイクロトロン」
(円形加速器)を発明したことで広く知られています。

彼はアメリカ・サウスダコタ州でノルウェー系の
両親のもとに生まれました。少年時代には、
友人のマール・トゥーブと一緒に簡易無線装置
を作ったりして、科学への興味を示していました。

その後、サウスダコタ大学時代は医学を志望してましたが、
化学の学士号、物理学の修士号を習得します。

トゥーブと共にスワン先生の下で学びます。
ローレンスがイェール大学で博士号をとった時には
光電効果に
関する研究をしていたようです。

その後、恩師だったスワン先生がイェール大学を去るタイミングで
カリフォルニア大
に移ります。ローレンスは実験家として大変、
有望視されていました。

ローレンスの業績 

ローレンスの最大の業績は、単に
「サイクロトロンを発明した」

ことではありません。

原子核を人工的に調べるために、荷電粒子を高いエネルギーまで
繰り返し加速する仕組みを実用化したこと
にあります。

当時の物理学では、ラザフォードらの研究によって
原子核に粒子を衝突させることで核反応を起こせる
ことが
分かり始めていました。しかし、問題は
「どうやって粒子を十分なエネルギーまで
加速するか」です。

ローレンスはここにサイクロトロンという答えを与えました。
磁場によって荷電粒子の軌道を曲げ、電場による加速を
何度も繰り返すことで、粒子のエネルギーを高めていくのです。

この発想によって、原子核を「自然に観察する」だけではなく、
人間が粒子をぶつけて核反応を起こし、その結果を調べる
という実験物理学が大きく発展しました。

ローレンスと彼の率いる**カリフォルニア大学バークレー校の放射線研究所
(後のローレンス・バークレー国立研究所)**は、自然界に存在する元素だけ
でなく、
不安定な元素を作り出したのです。

強い磁場を使い帯電しているイオンをビーム状に
出す事が出来るので
ローレンスの作ったサイクロトロンは
イオンが反応する状態を作れるのです。

数メートル・オーダーの装置を使って原子を加速させて
コンマナノ・オーダーの原子の反応を調べていきます。

日本、イギリスが発展形の措置を計画していきます。
サイクロトロンを使えば特定金属にイオンビームを
当て続ける事が出来たりする訳です。

こうした装置の開発を通じてローレンスは
人類に新しい知見を
もたらしたのです。

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2020/10/31_初回原稿
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(2021年10月時点での対応英訳)

Excellent experimenter Lawrence

Its name is Ernest Orlando Lawrence. Lawrence is a well-known experimenter and widely known for inventing the cyclotron, which is still frequently applied.

Born to Norwegian parents, he worked with Merle Tuve as a boy to create simple radios.

Later, Lawrence aspired to medicine when he was at the University of South Dakota, but he earned a bachelor’s degree in chemistry and a master’s degree in physics. He studies with Tuve under Dr. Swan. When Lawrence got his PhD at Yale University, he seems to have been studying the photoelectric effect.

After that, his teacher, Swan, will move to the University of California when he leaves Yale University. Lawrence was very promising as an experimenter.

Lawrence’s achievements

In his cyclotron experiments, Lawrence’s application of using the device was an artificial radioactive element. Lawrence and his Berkeley National Laboratory created unstable elements as well as those that exist in nature.

Since it is possible to emit charged ions in the form of a beam using a strong magnetic field, the cyclotron made by Lawrence can create a state in which the ions react. Japan and the United Kingdom will plan similar measures.

If you use a cyclotron, you can keep shining an ion beam on a specific metal.

Through the development of such equipment
Lawrence gives humanity new insights
he brought it.

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W・E・パウリ
【微細定数 1/137.036…|新たな概念として排他律とパリティーを発見】-9/3改訂

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。
では、ご覧ください。内容を整理し、
主にリンクを見直しました。
現時点での英訳も考えています。
(以下原稿です)

 

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【1900年4月25日生まれ ~ 1958年12月15日没】


【出典:Wikimedia Commons‗ETH Zürich ‗Pauli】

その名はWolfgang Ernst Pauli

ヴォルフガング・エルンスト・パウリは、オーストリアに生まれ、
後にスイスで活躍した理論物理学者です。
パウリの排他原理(排他律)
で知られ、量子力学における電子の状態を理解するうえで欠かせない人物です。

パウリの研究は排他原理だけではありません。
電子のスピンという新しい自由度の理解、
量子力学の発展、素粒子物理学、さらには微細構造定数
1/137への強い関心まで、その仕事は広い範囲に及びます。

また、パウリは
アインシュタイン
ゾンマーフェルト
ハイゼンベルク
多くの物理学者と深い議論を交わしました。
さらに心理学者C・G・ユングとの交流という、
一見すると物理学とは離れた側面もあります。

つまりパウリを知ることは、単に「排他原理を発見した物理学者」を
知ることではありません。
量子力学がどのように形作られていったのか
そして物理学者が何を考え、誰と議論していたのかを知ることにもつながります。

排他律を排他率と書いてしまいがちですが
排他律です。その「パウリの排他律」は
「パウリの原理」とも呼ばれています。

1945年にアインシュタインの推薦で
ノーベル物理学賞を受けています。

ミドルネールのエルンストはパウリの名付け親、
パウリが尊敬するマッハに由来します。
父方はユダヤ系の血をひき、
有名な出版社を経営していたようです。
ヴォルフガング・エルンスト・パウリは
ヴォルフガング・ヨーゼフ・パウリの息子でした。
ヨーゼフはウィーン大学の化学者で世界的な学者でした。)
そうした人脈の影響を受け(エルンスト・)パウリ自身は
自らを「反形而上学の一門の出」であるとみなしていました。
(太字部は後述の「137」より引用)

そんなエルンストを父であるヨーゼフは大事に育てています。
にわかに信じがたいエピソードとして「パウリが12歳の時に
ゾンマーフェルトのウィーンでの講義を聴く機会を作った」のです。
そして、理解を問われた12歳のエルンストが
黒板の右上の式だけは分かりませんでした。」と答えた所、
ゾンマーフェルトは「やれやれ、私としたことが間違いをしでかしてしまった!
と言ったそうです。Jordan(1971)P.33.(太字部は後述の「137」より引用)
恐るべき12歳ですね。

さて、

排他律の具体的な内容に関してですが、
ナトリウムの分光実験から話が始まります。

再現性の高い事実として
磁場付加時の分光は電子の
自転(相当の動き)に由来する」
という仮説をパウリは立て、
後にそれはスピンと名付けられます。

(パウリは磁場負荷時の電子に2価性を
明確にしました。追記@2026年2月)

新しい量子的自由度です。
後に行列力学を基盤とした定式化が行われ
数学的に表現します。これが絶妙‼

パウリと著名人の交流

個人的に興味を引くのはミュンヘン大学でパウリが
ゾンマーフェルト_の指導を受けている点です。

私が講義を受けた先生がゾンマーフェルト_を研究していて、
マッハの名前も、その先生から教えてもらいました。

そして私の中で、
マッハ・ゾンマーフェルト・パウリとつながったのです。
そしてもう一つ個人的な話を続けます。
今使っているドメインへの投稿です。

何故か半年程、投稿漏れに気づかずにいたのですが、
ある日「パウリ」について気になって
上記ゾンマーフェルトとの関係を思い出したのです。

そして急ぎ作業を続けていて驚いたのは、
その日がパウリの誕生日だったのです。

パウリが生まれてから120年が終わった瞬間でした。
後述するユング達が極めた深層心理の世界では
意識下と無意識下の間に「潜在意識」を想定しますが、
そんなことも少し考えてしまいました。

よもや潜在意識下で決めた投稿日だったのでしょうか。
または深層意識下で「投稿していませんよ!」
と告げてくれた人がいたのでしょうか。
とか色々と考えてしまいました。

まぁ、普通に考えたら単なる偶然ですね。

私の頭の中での奇妙な三角関係はさておき、

パウリは人間的にも面白い人だと思えます。

独自に培った知性で各界の著名人を魅了しているのです。

例えば、博士号を習得した直後、パウリは
ゾンマーフェルトに独逸語での百科事典の記事執筆
を依頼されます。内容は相対性理論に関する記事
でしたが、2か月ほどを使って完成させました。

その結果はアインシュタイン本人の査読にかなう見事なもので、
今日においても読み応えのある
ものとなっているそうです。
後のプリンストン大学時代にはパウリを自分の後継者として
アインシュタインは高く評価しています。

アインシュタインはパウリのミドルネームを
どの程度、意識していたのでしょうか。
マッハとの関係を知っていたのでしょうか。

機会があれば調べてみたいと思います。
マッハ・アインシュタイン・パウリの三角関係です。

更に妙な繋がりは心理学者C・G・ユングとの関連です。
パウリは離婚後に精神を病んでいた時期がありました。
もともとパウリは夜遊びが好きで朝起きるのが遅い
タイプの「遊んでいる」性格でしたが、特に
離婚騒動の時期に精神不安定になったのです。

今や、夢分析の世界で有名なユングに
完璧主義者のパウリが出合ったのです。

先生と生徒という関係を築き、
生徒としてユングにパウリは科学的な批評を加えます。
互いに有益な関係だったのでしょう。

パウリは「中国人女性の夢」を何度も見て、意識化出来ない
自分の内面の考察を進めます。そして(この時代の物理学に詳しい人
ならご存じかと思いますが)後に「現実で大きな衝撃」を受けます。
チェン・シュン・ウーのパリティー非保存の実験です。

因みにユング関連でのフロイトもユダヤ系です。
アインシュタインもユダヤ系です。ナチスの時代に
パウリのユダヤ関係の史料は意図的に隠されている
ようですが、心理的に大きな一面となった筈です。

この切り口で考えていっても特有の文化に起因する
思考的な共有点が見いだせると思います。
思考の方法を考えるうえで、興味深い対象です。

パウリと1/137

そして、

パウリは最後まで愛した物理学を愛し続けました。

戦争での苦難の時代の後に帰国して、
病床でも完璧主義者として見舞客と議論を続けました。
その中で語り継がれている話があります。

「微細構造定数」と呼ばれる無次元量があります。
ユダヤ教の教義「カバラ」の綴りをヘブライ語で
数値化した値の和が137だとも言われます。
アーサー・ミラー著「137」参照の事】
それはプランク定数に関わる相互作用を
特徴付ける量です。パウリはその値に最後まで、
こだわり抜きました。137号室で亡くなります。

もし、パウリが神に謁見したら、
神に微細定数 1/137.036…の
理論的根拠を尋ねたとしたら、
神様は物凄い速度で計算式を
書き連ねるだろう。その後、
きっとパウリは「違う!」
と唱えて、話し続けるであろう。

よもや、神様さえも「あ!」
と唱えるのではないか、
と不遜にも想像してしまいました。

そしてパウリの葬儀について語ります。
天に召される時は誰にも訪れます。

パウリの亡骸(なきがら)は12/20に火葬されました。
由緒ある教会に多くの物理学者・著名人が参じました。
ニールス・ボーア、パウル・シェラーが弔辞を述べ
82歳だったユングも参列していました。
そして、
ハイゼンベルグが参列しなかった理由を前出の著者
であるアーサーは「物理への溢れる情熱」に帰しています。
ハイゼンベルグの心中は複雑だったのでしょう。

パウリもハイゼンベルグも徹底的に理論を愛していました。
考え抜く為に自身の身をすり減らして時間を使いました。
そうした本気の議論が生涯、彼らの心に残っていたのでしょう。


パウリと関連する物理学者

パウリの研究を追っていくと、量子力学を作り上げた
多くの物理学者へ自然につながっていきます。
人物から人物へ読み進めることで、
20世紀前半の量子力学の発展をたどることができます。

〆 

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2020/09/19_初稿投稿
2021/04/25_原稿改定
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(2021年10月時点での対応英訳)

Its name is Wolfgang Ernst Pauli

Pauli is an Austrian-born Swiss physicist. It is famous for Pauli exclusion principle. It is easy to write the exclusion principle as the exclusion rate, but it is the exclusion principle. The “Pauli exclusion principle” is also called the “Pauli principle”. He received the Nobel Prize in Physics in 1945 on the recommendation of Einstein.

Middlener Ernst comes from Pauli’s godfather, Pauli’s respected Mach. His father seems to have run a well-known Jewish publisher.

Now, regarding the specific content of the exclusion principle, the story begins with a spectroscopic experiment of sodium.

As a highly reproducible fact, Pauli hypothesized that spectroscopy when a magnetic field was applied was derived from the rotation of electrons, which he later named spin. A new quantum degree of freedom. He later formulates based on matrix mechanics and expresses it mathematically. Twice

Exchange between Pauli and celebrities

Personally, I’m interested in Pauli’s guidance at Sommerfeld at the University of Munich. The teacher I was giving a lecture on was studying Sommerfeld, and he also told me the name of Mach. And he was connected to Mach Sommerfeld Pauli. And I will continue with another personal story. This is a post to the domain you are currently using. For some reason, I was about half a year old and didn’t notice the omission of posts, but one day I was worried about “Pauli” and remembered the relationship with Sommerfeld.

And what surprised me as I continued to work in a hurry was that day was Pauli’s birthday. It was the moment when 220 years had passed since Pauli was born. In the world of deep psychology, which Jung and his colleagues have mastered, we assume a “subconscious” between consciousness and unconsciousness, but I have thought about that for a moment. Was it the posting date decided under the subconscious? I have thought about it.
Well, if you think about it normally, it’s just a coincidence.

Aside from the strange love triangle in my mind, Pauli seems to be a humanly interesting person. His unique intelligence attracts celebrities from all walks of life.

For example, shortly after completing his PhD, Pauzo was asked by Nmarfeld to write an encyclopedia article in German. The content was an article about the theory of relativity, but it took about two months to complete. The result is excellent enough to be peer-reviewed by Einstein himself, and it seems to be readable even today. Did Einstein notice Pauli’s middle name? Did he know his relationship with Mach? I would like to find out if I have the opportunity. It is a love triangle of Mach Einstein Pauli.

A more strange connection is with the psychologist CG Jung. Pauli had a period of mental illness after his divorce. Now, the perfectionist Pauli meets Jung, who is famous in the world of dream analysis. He builds a teacher-student relationship, and Pauli gives Jung a scientific critique as a student. It must have been a mutually beneficial relationship. By the way, Jung’s brother and disciple Freud are also Jewish. Einstein is also Jewish. Even if you think from this perspective, you can find a thoughtful shared point due to the unique culture. It’s a little interesting when thinking about how to think.

Pauli and 1/137

And Pauli continued to love his beloved physics until the end. He returned home after a period of hardship in the war and continued to discuss with visitors as a perfectionist in bed. There is a story that has been handed down in it.

There is a dimensionless quantity called the fine constant, which is the quantity that characterizes the interactions involved in Planck’s constant. Pauli was particular about that value until the end. If Pauli had an audience with God and he asked God for the rationale for the fine constant 1 / 137.036 …, God would write the formulas at a tremendous speed. After that, Pauli will surely say “No!” And continue talking.

I have imagined that even God would say “Ah!”.

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J・F・ジョリオ=キューリー
【アルファ線を使いリン30を実現】-9/2改訂

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。
では、ご覧ください。内容を整理し、
主にリンクを見直しました。
現時点での英訳も考えています。
(以下原稿です)

 

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【1900年3月19日 ~ 1958年8月14日】

【出典:Wikimedia Commons:Frédéric Joliot-Curie】

今回のご紹介はジャン・フレデリック・ジョリオ=キューリーです。

J-F・ジョリオ=キューリーはフランスパリに生まれ、
亡くなるまでパリで暮らしました。
そんな人の58年の人生のご紹介です。

名前の綴りはJean Frédéric Joliot-Curieとなります。
著名なキューリー夫妻の娘婿としてご紹介すると
わかりやすいでしょうか。

つまり、義理の父はピエール・キュリー、
義理の母はマリー・キュリー。
義理の妹はエーヴ・キュリーとなります。

今回のご紹介の中でフレデリックとご紹介していきます。
フレデリックはラジウム研究所で
マリ・キューリーの助手となりました。

その研究所でマリの娘イレーヌを知り交際を深め。
まもなく2人は結婚しました。

その時点で姓を「ジョリオ=キューリー」としたのです。
ジョリオはフレデリックの血筋の名前でキューリーは
イレーヌの血筋の名前でした。
二人は後に一緒にノーベル賞を受けます。

人工放射能を生み出したジョリオ=キューリー夫妻

フレデリック・ジョリオ=キューリーとイレーヌ・ジョリオ=
キューリー夫妻の大きな業績が、人工放射能の発見です。

夫妻は原子核反応を利用して、自然界に通常存在しない
人工放射性同位体を作り出しました。具体的には、
アルミニウムにアルファ粒子を照射することで

放射性同位体リン30(30P)を生成しています。

この成果によって、放射性物質は「自然界に存在するものを調べる」だけ
ではなく、原子核反応によって人工的に作り出せる
ことが明確になりました。

人工放射能という考え方は、その後の原子核物理学だけでなく、
放射性同位体を利用した医学や研究にもつながっていきます。

これは人類が初めて
「人工放射能」を作り出した瞬間でした。

その後、フレデリックはフランス原子力庁の長官として
フランス初の原子炉を1947年に建設するプロジェクトに加わります。

原子力の平和的な利用と環境に及ぼす影響については
各論があると思えますが、今のフランスの電源構成に
大きな影響を与えた人だと言えます。

政治的な活動としてフレデリックは第二次世界大戦時には
ナチスドイツに対抗するレジスタンス運動に参加しました。

そして終戦後は先述したフランス原子力庁の仕事をしながら
フランス国立科学研究センター総裁、
コレージュ・ド・フランスの教授も務めていました。

他、パグウォッシュ会議(核兵器と戦争の廃絶を訴える国際会議)
の創始、世界平和評議会の初代議長、
フランス共産党の党員と多方面で尽力し活躍しました。

また、
教育者としてフレデリックは日本初の女性物理学者である
湯浅年子に物理学を指導しています。

その実績も我々日本人には新鮮なのではないでしょうか。
本当に多彩な魅力を持っていた人だと言えます。

更に意外な側面は柔道との関わりです。
フレデリックはフランス柔術クラブの名誉会長でした。
柔道創始者の嘉納治五郎も就いていた役職です。
フレデリックがいかにフランス国民から
敬愛されていたかがわかりますね。


ジョリオ=キューリーと関連する物理学者

ジョリオ=キューリー夫妻の研究をたどると、
放射線・原子核物理学をめぐって多くの物理学者につながっていきます。
人物から人物へ読み進めることで、20世紀の物理学がどのように
発展していったのかを追うことができます。

〆最後に〆

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(対応英訳)

Introducing this time is Jean Frederick Jorio-Curie, but JF Jorio-Curie was born in Paris, France and lived in Paris until his death. This is an introduction to such a person’s 58-year life. His name is spelled Jean Frédéric Joliot-Curie. Is it easy to introduce as the son-in-law of the famous Mr. and Mrs. Curie? That is, his father-in-law is Pierre Curie and his mother-in-law is Marie Curie. His sister-in-law will be Ave Curie.

In this introduction, I will introduce you to Frederick, who became an assistant to Marie Curie at the Radium Institute. He got to know Mali’s daughter Irene at the institute and deepened his relationship. Soon the two got married. At that point he changed his surname to “Jorio-Curie”. Jorio was the name of Frederick’s lineage and Curie was the name of Irene’s lineage. The two will later receive the Nobel Prize together.

The couple of Frederick and Irene studied the process of reaction to isotopes and created a new substance. Specifically, when aluminum was irradiated with alpha rays, the artificial radioisotope 30P (phosphorus 30) was generated.

Frederick then joined the project to build France’s first nuclear reactor in 1947 as Secretary of the French Atomic Energy Agency. There seems to be some debate about the peaceful use of nuclear energy and its impact on the environment, but he is one of the most influential people in France’s current power mix.

As a political activity, Frederick participated in the resistance movement against Nazi Germany during World War II. And after the end of the war, he was also the president of the French National Center for Scientific Research and a professor at Collège de France, while working for the French Atomic Energy Agency mentioned above. H

e and others have worked extensively with the founding of the Pugwash Conference (an international conference calling for the abolition of nuclear weapons and war), the first chairman of the World Peace Council, and members of the French Communist Party.

As an educator, Frederick teaches physics to Toshiko Yuasa, Japan’s first female physicist. I think that achievement is also fresh for us Japanese. It can be said that he really had a variety of charms.

A more surprising aspect is the relationship with judo. Frederick was the Honorary Chairman of the French Jiu-Jitsu Club. He was also in the position of Judo founder Jigoro Kano. You can see how Frederick was loved by the French people.

ビタミンB群30日分