に投稿 コメントを残す

仁科 芳雄
【サイクロトロンを開発し素粒子を研究した「人たらし」】-8/28改訂

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。
では、ご覧ください。内容を整理し、
主にリンクを見直しました。
現時点での英訳も考えています。
(以下原稿です)

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

励起 上 仁科芳雄と日本の現代物理学 [ 伊藤憲二 ]
価格:5,940円(税込、送料無料) (2024/1/15時点)

楽天で購入

 

 

【スポンサーリンク】
【1890年12月6日生まれ ~ 1951年1月10日没】

【Wikimedia CommonsYoshio Nishina】

を育てた仁科さん

仁科芳雄の功績を考える時、研究成果だけを見ると本質を見失います。
仁科が日本の物理学に残したものは、論文や実験装置だけではありません。
海外で学んだ新しい物理学を日本へ持ち帰り、それを次の世代へ伝える
研究者のネットワークそのものを作ったことにも大きな意味があります。

そのため仁科芳雄を知るには、
「何を発見したか」だけではなく、
「誰から学び、誰を育て、誰と研究したのか」
という視点から見ると、日本の物理学史がより立体的に見えてきます。

仁科芳雄は稀代の「人たらし」だったと言われています。
仁科さんは人に惚れ込む性格でした。

仁科さんが人に入れあげる性格で、
その人の良い所を見つけて、それを伸ばす。
そんな仁科さんの元に人が集まる。

そんな風にして仁科さんの下に集まった沢山の人達を
育てあげていった凄さが仁科さんにはあるんです。

仁科さん本人はオランダ・コペンハーゲンの
ニールス・ボーアのもとで育ち、その自由闊達な
コペンハーゲンの学風を日本に持ち込み、
多くの学者を育てました。

仁科芳雄の研究者としての業績を考える時、忘れてはいけないのが
量子力学と放射線物理学を日本へ導入した役割です。
1928年にはオスカル・クラインとともにコンプトン散乱の
有効断面積を議論し、後に「クライン=仁科の公式」として知られる
成果につながりました。

ここで重要なのは、仁科自身が一つの研究テーマだけを追い続けた
人物ではなかったことです。海外で最先端の量子論を学び、
それを日本へ持ち帰り、
さらに若い研究者たちへ
伝えていきました。

仁科の研究者としての歩みをたどると、
ニールス・ボーアハイゼンベルクディラック
といった20世紀前半の量子力学の中心人物とのつながりが見えてきます。

また帰国後にはハイゼンベルクディラック
日本に招待して日本の中での物理学への
理解を深め啓蒙活動を続けています。

更には、師であるボーアを日本に呼び寄せています。

科さんとサイクロトロン 

研究内容として仁科さんはサイクロトロンの建設を進めて、
様々な成果をあげてます。当時、ラザフォードらによって
「原子核反応を引き起こせるだけの高エネルギーまで
粒子を人工的に加速する装置(加速器)」の
必要性が強く認識されていました。

サイクロトロンは単なる大型の実験装置ではありません。
原子核を研究するためには、粒子を高いエネルギーまで加速し、
原子核に衝突させる必要があります。

つまりサイクロトロンの建設は、日本が最先端の原子核物理学を
自前で研究するための基盤を作ること
でもありました。仁科が
装置そのものを日本に根付かせようとした意味は、
ここにあります。 

以後理化学研究所を拠点として開発は進み
サイクロトロン建造技術はまさに理研のお家芸
となっていくのです。【理化学件HPより抜粋】
そして、現在でもサイクロトロンを使った
素粒子の研究は続いています。

そのサイクロンを大型化する際には仁科さんは
大変苦労しています。
先行する
カリフォルニア大学のローレンスとは日米関係の悪化に伴い
関係が悪くなっていったのです。実際、サイクロトロン関係の
情報交換は
軍事的な側面を持つので出来なります。

そして終戦と共に、
仁科さんが
苦心して作り上げたサイクロンは
GHQにより東京湾に破棄されてしまいます。

科さんの晩年 

戦後には仁科さんは理化学研究所の所長を務め、
科研製薬の前身となる会社で社長を務めましたが、
肝臓ガンを患い61歳で亡なってしまいます。

放射線被ばくの影響もあったであろうと言われていて、
残念です。多くの人材育成に捧げた人生だったと感じています。

仁科芳雄をめぐる物理学者

仁科芳雄の人生をたどると、20世紀前半の物理学を代表する
研究者たちとのつながりが見えてきます。
人物から人物へ読み進めることで、
量子力学と原子核物理学の発展を追うことができます。

|コスパ最強・タイパ最強・テックジム|
プログラミング教室の無料カウンセリング【スポンサーリンク】

 以上、間違い・ご意見は
次のアドレスまでお願いします。
適時、返信・改定を致します。

nowkouji226@gmail.com

2020/12/13_初版投稿
2026/08/28_改定投稿

舞台別のご紹介
時代別(順)のご紹介
日本関連のご紹介
東大関連のご紹介
力学関係のご紹介
熱統計関連のご紹介
量子力学関係

AIでの考察(参考)

【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】

(2021年10月時点での対応英訳)

Nishina who raised people

Yoshio Nishina is said to have been a rare “human being”. Nishina-san had a personality that fell in love with people. He has the personality that Nishina puts into a person, and he finds the good points of that person and develops them. People gather under Mr. Nishina. In that way, many people gathered under Mr. Nishina, and Mr. Nishina has the awesomeness of raising them.

Mr. Nishina himself grew up under Niels Bohr in Copenhagen, the Netherlands, and brought his free-spirited Copenhagen academic style to Japan and raised many scholars. He discusses the effective cross-sectional area of ​​Compton scattering with Oskar Klein in 1928. After returning to Japan, he invited Heisenberg and Dirac to Japan to deepen his understanding of physics in Japan and continue his enlightenment activities. In addition, he is calling his teacher, Bohr, to Japan.

Nishina-san and Cyclone

As a research content, Mr. Nishina is proceeding with the construction of a cyclone and has achieved various results. Mr. Nishina is having a great deal of trouble in enlarging the cyclone. His relationship with the University of California, Berkeley, which preceded him, became worse as the relationship between Japan and the United States deteriorated. In fact, exchanging information related to cyclotrons is possible because it has a military aspect. And at the end of the war, the cyclone that was painstakingly created will be destroyed by GHQ in Tokyo Bay.

Nishina’s later years

After the war, Mr. Nishina was the director of RIKEN and the predecessor of Kaken Pharmaceutical, but he suffered from liver cancer and died at the age of 61. It is a pity that he was said to have been affected by radiation exposure. He feels that he was a life dedicated to a lot of human resources development.

に投稿 コメントを残す

エドウィン・パウエル・ハッブル
_【赤方偏移を示し膨張宇宙論を論じました】‐8/27改訂

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。
では、ご覧ください。内容を整理し、
主にリンクを見直しました。
現時点での英訳も考えています。
(以下原稿です)

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

ハッブル 宇宙を広げた男 (岩波ジュニア新書 838) [ 家 正則 ]
価格:990円(税込、送料無料) (2024/1/14時点)

楽天で購入

 

 

【スポンサーリンク】
【1889年11月20日 ~ 1953年9月28日】

【Wikimedia CommonsEdwin Hubble】

ッブルの意外な側面

ハッブルは近代の天文学者で、

ハッブルの法則等で有名です。

膨張宇宙論として理解出来ます。

そんな大天文学者ですが、高校時代は陸上で
イリノイ州の
記録を更新したりしていました。

そんな少年時代は後の人生と全く違いますね。
そして、
大学時代はボクシングでならし、
とあるプロモーターから世界チャンピオン
との一戦を
持ちかけられた程の強さでした。

これまた意外ですね。

ッブルの業績

ハッブルの業績として特に重要なのが、
銀河までの距離と銀河の後退速度との関係を明らかにしたことです。
現在では一般にハッブルの法則として知られています。

1929年、ハッブルはセファイド変光星の
「変光周期と絶対光度の関係」を利用して、
銀河までの距離を測定しました。
セファイド変光星は、変光周期と本来の明るさ
(絶対光度)との間に関係があるため、
観測される明るさと比較することで、
遠方の天体までの距離を推定できます。

そしてハッブルは、そのようにして求めた銀河までの距離と、
銀河のスペクトルに現れる赤方偏移を比較しました。
その結果、遠方の銀河ほど大きな赤方偏移を示すという関係が見えてきます。
現在の表現では、銀河の後退速度が距離にほぼ比例する関係として理解され、
宇宙が膨張しているという考えを支持する重要な観測的基礎となりました。

ここで注意したいのは、ハッブル自身が「赤方偏移そのもの」を
発見したわけではないという点です。
赤方偏移という現象自体は、それ以前から知られていました。
ハッブルの大きな功績は、銀河までの距離を測定し、
それと銀河の赤方偏移との関係を体系的に示したことにあります。

赤方偏移とは、天体から届く光の波長が、
基準となる波長よりも長い方向へずれて観測される現象です。
身近な例としては、遠ざかっていく救急車の音が
低く聞こえるドップラー効果を思い浮かべることができます。
ただし、宇宙論における銀河の赤方偏移は、
単純な音波のドップラー効果と同一視するのではなく、
宇宙膨張による効果を含めて考える必要があります。

こうしてハッブルによる観測結果は、
宇宙を「静的なもの」と考える従来のイメージを大きく変えました。
そして、宇宙膨張を理論的に考えていた研究者たちの議論とも結びつき、
後のビッグバン宇宙論へとつながる重要な流れを形成していきます。

 遠ざかる宇宙

1929年、ハッブルはセファイド変光星
の距離測定と、銀河スペクトルに見られる
赤方偏移を突き合わせることで、
銀河が距離に比例して遠ざかっている
という関係を見いだしたのです。

赤方偏移とはドップラー効果を考慮した考えで
観測可能な大部分の銀河の光が

**波長の長い方向(赤い色の方向)**へ
ずれて観測される現象です。

遠ざかっていく救急車の音が鈍くなっていくと
思い出してください。(これは「音」での話)

ハッブルが考える宇宙論では無論、直接の実験は出来ません。
使える理論も検証の為に理論が必要となる学問体系でした。

反面ハッブル提唱の赤方偏移は宇宙理論に明快な方向性
を与え、
次の考えに繋がっていくのです

の後のハッブルの軌跡

赤方偏移の考えから
膨張宇宙論の考えが裏付けられます。

ハッブルが示した銀河の距離と赤方偏移の関係は、
宇宙が膨張しているという観測的な証拠として重要な意味を持ちました。
一方で、宇宙膨張そのものを理論的に考えていた研究者もいました。

特に重要なのがベルギーの物理学者・宇宙論研究者
ジョルジュ・ルメートル(1894)です。
ルメートルは一般相対性理論を宇宙全体に適用し、
宇宙膨張を理論的に考察しました。

つまり、理論から宇宙膨張を考えた研究者と、
銀河の観測からその関係を示したハッブルの研究が
重なっていったことになります。
この流れは、後のビッグバン宇宙論を理解する上でも重要です。

さらに、宇宙膨張を時間的にさかのぼって考えると、
宇宙には非常に高温・高密度な初期状態があったという
ビッグバン宇宙論へと議論が進んでいきます。

また、我々が暮らす銀河と
別の銀河を見つけた業績も特筆すべきです。

ハッブルからつながる宇宙論の物理学者

ハッブルの研究を理解すると、宇宙膨張をめぐって
多くの研究者が議論を重ねてきたことが分かります。
関連する人物の記事もあわせてご覧ください。

 

【スポンサーリンク】

以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をします。

nowkouji226@gmail.com

2020/11/08_初稿投稿
2026/08/27_改定投稿

サイトTOP
舞台別のご紹介
時代別(順)のご紹介
アメリカ関係へ
力学関係
電磁気関係

AIでの考察(参考)

【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】

(2021年10月時点での対応英訳)

The surprising side of Hubble

Hubble is a modern astronomer who is famous for Hubble’s law, which characterizes the theory of expanding cosmology. Although he is such a great astronomer, he used to break records in Illinois on land when he was in high school. Such a boyhood is completely different from later life. And when I was in college, I was so strong that I was able to get used to boxing and a promoter offered me a fight against a world champion. This is also surprising.

Hubble’s achievements

Hubble’s achievements will be the discovery of a redshift. He derived the idea of ​​redshift by observing the relationship between brightness and variable period from the observation of Cepheid variable stars in 1929. Redshift is a phenomenon in which the light of most galaxies that can be observed is biased toward a shorter wavelength (red direction) in consideration of the Doppler effect. Recall that the sound of an ambulance moving away is slowing down. Twice

Hubble’s cosmology, of course, does not allow direct experiments. The theory that can be used was also an academic system that required theory for verification. On the other hand, Hubble’s redshift gives a clear direction to the theory of the universe and leads to the next idea.

Hubble’s trajectory after that

The idea of ​​redshift supported the idea of ​​expanding cosmology, which in turn led to the Big Burn theory.

Also noteworthy is his achievement in finding a galaxy different from the one we live in.

に投稿 コメントを残す

ヴァルター・ゲルラッハ
【シュテルンと銀粒子の縮退解放の実験を実現】‐8/26改訂

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。
では、ご覧ください。内容を整理し、
主にリンクを見直しました。
現時点での英訳も考えています。
(以下原稿です)

https://amzn.to/4aSbYo2

 

【スポンサーリンク】
【1889年8月1日生まれ ~ 1979年8月10日没】

【出典:Wikimedia Commons:Walther Gerlach】

 実験家ゲルラッハ

ゲルラッハはシュテルンと共に行った

実験で有名です。

本ブログの中でのシュテルンのご紹介は関連人物を中心としており、
実験内容が伝えられていませんでした。それなので、
ゲルラッハと実験内容について語りたいと思います。

その実験はゼーマンとローレンツによる実験と通じる部分があります。
古典的な考えだけでは説明出来ない量子力学的な状態である
「縮退」を考慮する
必要があるという結論に繋がります。

ゼーマン効果ではナトリム原子からの電磁波が対象で
波動的側面から現象が理解できます。一方で
ゲルラッハの実験では加熱して蒸発した銀粒子が対象
ですので粒子的側面から現象が理解できます。

其々の実験対象において磁場をかけた時に縮退が
解けていく様子が観察されます。

古典的な予測では輝点に幅が出ると予想されます。
二つの輝点に分かれる現象は古典的に説明が出来ません。

実験の歴史的意義 

具体的にゲルラッハとシュテルンが行った実験では、
銀原子がもつ磁気モーメントが磁場中で分離される様子が観測されました。
これは後に電子スピンの存在によって理解される現象です。

なぜ銀原子のビームが二つに分かれたのか

シュテルン=ゲルラッハ実験の面白さは、
「磁場をかけたら粒子が二方向に分かれた」という単純な現象の中に、
古典物理学と量子力学の違いが現れていることです。

古典的な磁気モーメントを持つ粒子を考えるだけなら、
磁場中で粒子の向きが連続的に変化するため、
検出板にはある程度幅を持った連続的な分布が現れると考えられます。
ところが実際の銀原子ビームでは、明瞭に二つの成分へ分かれました。

この結果は、原子の磁気的な状態が何でも自由な値を取るのではなく、
特定の量子状態として現れることを示しています。
当時は「空間量子化」という言葉で理解されましたが、
後に量子力学と電子スピンの概念が確立されることで、
この現象は現代的な形で説明できるようになりました。

シュテルン=ゲルラッハ実験の解釈例

この意味でシュテルン=ゲルラッハ実験は、
「目に見えない量子状態を、粒子の到達位置という目に見える結果に
変換して観測した実験」と考えると分かりやすいでしょう。 

加熱された銀粒子がビーム状に放射されている時に
ビーム経路
に対して垂直に磁場をかけます。

壁に当てたビームの輝点を見てみた時に古典論では輝点は一つです。
所が、
ゲルラッハとシュテルンの実験では
「縮退の解けた」2点が
はっきりと見てとれたのです。

量子力学の成立後にこの実験を振り返ると、銀原子の磁気モーメントは
電子のスピンによって説明できます。電子にはスピンという
固有の角運動量があり、磁場に対するその向きによって
異なる磁気的状態をとります。

ただし、ここは物理学史として重要なところです。
1922年にシュテルンとゲルラッハが実験を行った時点では、
電子スピンという概念はまだ確立していませんでした。

当時、この二つの輝点は「空間量子化」、すなわち原子の磁気モーメントが
連続的な値ではなく量子化された方向をとる現象として解釈されました。

その後、電子スピンの概念が登場し、量子力学が体系化されることで、
シュテルン=ゲルラッハ実験は電子スピンの二つの状態を
理解するための代表的な実験
として位置づけられるようになります。

つまり、この実験の価値は「最初からスピンを証明した」ことだけではなく、
古典物理では説明しにくい量子化された状態を実験によって明確に示した
ところにあります。

実際の現象とし「磁場に対する軌跡」が異なるのです。

この実験はゲルラッハが実現したようですが
シュテルンがドイツから亡命していた事情と、
政治絡みの判断、が相まって当初は
ゲルラッハの名は表に出ませんでした。

後日談 

さて、話を現代に近づけると、
2012年に日本で半導体内部に対して
同じ原理を使い同じ結果を得てます。

アイディアの種は色々な所にありますね。

強磁性体外部磁場を用いずに電子のスピン
揃えることに世界で初めて成功_2012年12月

https://www.ntt.co.jp/journal/1212/files/jn201212058.pdf

この実験の理解
まずゼーマンローレンツ
による研究を知っておくと、より面白く見えてきます。

ゼーマン効果では原子から放出される光のスペクトルが磁場によって
分裂する現象を調べました。一方、シュテルン=ゲルラッハ実験では、
銀原子そのもののビームが磁場によって分離されます。

つまり、
光のスペクトルを見る方法から、原子そのものの運動を見る方法へ
視点を変えることで、微視的な世界の量子化を探っていったとも考えられます。

なお、シュテルン=ゲルラッハ実験を実現したもう一人の研究者が
オットー・シュテルンです。
シュテルンについては、ナチス政権下でドイツを離れた経歴や、
ゲルラッハとの共同研究について別の記事で詳しく紹介しています。


関連する物理学者

この分野の物理学者

 

|コスパ最強・タイパ最強・テックジム|
プログラミング教室の無料カウンセリング【スポンサーリンク】

以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をします。

nowkouji226@gmail.com

2020/10/31_初稿投稿
2026/08/16_改定投稿

舞台別の纏め
時代別(順)のご紹介
ドイツ関係のご紹介へ
量子力学関係

AIでの考察(参考)

【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】

(2021年10月時点での対応英訳)

Famous experimenter Gerlach

Gerlach is famous for his experiments with Stern. The introduction of Stern was centered around related people, and the content of the experiment was not communicated. I would like to talk about Gerlach and his experiments. The experiment has some similarities to the experiment by Zeeman and Lorenz. It leads to the conclusion that it is necessary to consider the degeneracy of quantum mechanical states that cannot be explained by classical ideas alone.

In the Zeeman effect, electromagnetic waves from Natrim atoms are targeted, and the phenomenon can be understood from the wave side. On the other hand, in the Gerlach experiment, the target is silver particles that have been heated and evaporated, and the phenomenon can be understood from the particle side. It is observed that the degeneracy is released when a magnetic field is applied to each experimental object. The classical prediction is that the bright spots will be wider. The phenomenon of splitting into two bright spots cannot be explained classically.

Historical significance of the experiment

Specifically, in the experiments conducted by Gerlach and Stern, the electron spins in the silver particles are separated by a magnetic field. When the heated silver particles are radiated in a beam shape, a magnetic field is applied perpendicular to the beam path. When you look at the bright spots of the beam that hits the wall, there is only one bright spot in classical theory. However, in the experiments of Gerlach and Stern, two points that were “degenerate” were clearly visible.

According to quantum mechanics, electrons have spins, and there are spins in the same direction and spins in the opposite direction to the magnetic field. Therefore, the trajectory with respect to the magnetic field is different. This experiment seems to have been realized by Gerlach, but the name of Gerlach was not revealed at the beginning due to the combination of Stern’s exile from Germany and political judgment.

Later talk

Now, let’s get closer to the present age. In 2012, we used the same principle inside semiconductors in Japan and obtained the same results. There are many seeds of ideas.

World’s first success in aligning electron spins without using ferromagnets or external magnetic fields_December 2012

https://www.ntt.co.jp/journal/1212/files/jn201212058.pdf

に投稿 コメントを残す

オットー・シュテルン
【アインシュタインと同じくドイツを逃れた実験家】‐8/24改訂

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。
では、ご覧ください。内容を整理し、
主にリンクを見直しました。
現時点での英訳も考えています。
(以下原稿です)

https://amzn.to/47qJYot
【スポンサーリンク】
【1888年2月17日生まれ ~ 1969年8月17日没】

【Wikimedia Commons:Otto Stern portrait】

戦時下の物理学者シュテルン

オットー・シュテルンは1888年にドイツで生まれた物理学者です。
若い頃にはプラハでアインシュタインと研究上の接点を持ち、
その後チューリッヒでもアインシュタインと活動しました。
Nobel Prizeの経歴によれば、1912年にプラハでアインシュタインと合流し、
翌年にはチューリッヒ工科大学でも研究生活を送っています。

シュテルンは理論物理学から出発しましたが、1919年頃から実験物理学へ
研究の重点を移し、分子線法を発展させました。
原子や分子を細いビームとして飛ばし、その運動や磁気的性質を測定する方法です。
この方法によって、直接見ることのできない原子の性質を、
実験データから定量的に調べることが可能になりました。

1923年にはハンブルク大学の教授となり、研究室を率いて分子線法を発展させます。
そしてヴァルター・ゲルラッハとの
共同研究によって、1922年のシュテルン=ゲルラッハ実験へとつながります。

しかし1933年、ナチス政権の成立によってシュテルンはドイツでの地位を失い、
アメリカへ移ります。移住後はカーネギー工科大学で研究を続け、
戦後はカリフォルニア大学バークレー校で名誉教授となりました。

この人生を見ると、シュテルンの研究史には二つの流れがあります。
一つは、原子線という実験手法によって量子の世界を測定可能なものにしていった
科学史としての流れです。
もう一つは、ナチスによって研究者が国境を越えて移動することになった
20世紀の科学者史です。

そのためシュテルンの本記事は、量子力学の記事としてだけでなく、
アインシュタイン
リーゼ・マイトナー
オットー・ハーンなど、
戦時下の科学者を考える入口にもできます。

彼らは同じ恐怖と憤りを感じて反体制の話もしていたことでしょう。

シュテルンはドイツ本国で当時の感心事であった
原子線の研究をします。実験の様子としては、
温度をどんどんあげていって金属が光り出して
その後も、更に温度をあげていきます。

例えば、具体的に金属を恒温槽の中にいれて
小さな窓から出てくる光の様子を見るのです。

シュテルンの実験の様子 

その窓から連続して特定の粒子を放出する事で
粒子の性質を明らかにしていきます。

結果としてヴァルター・ゲルラッハと共に
歴史的な実験を完成させました。

この実験で注目したのは「個別粒子の磁気的性質」です。
加熱して蒸発させた銀の粒子をビーム状に放出した時に
その粒子線に対して磁界をかけたのです。

すると、
放出粒子は二つに分かれて一点だった輝点
(粒子の当たった場所)が
二点の輝点となります。
この事実は新しい知見へとつながるのです。

シュテルン=ゲルラッハ実験

シュテルンの代表的な業績として、ヴァルター・ゲルラッハ
ともに行った
シュテルン=ゲルラッハ実験があります。
1922年、二人は加熱した炉から銀原子のビームを作り、
それを不均一な磁場の中を通過させました。

古典物理学から単純に考えれば、原子が持つ磁気モーメントの向きは
連続的に分布し、検出器には幅のある連続的な像が現れると予想されます。
ところが実際には、銀原子のビームは二つの明瞭な成分に分かれました
この結果は、原子の磁気的性質が古典的な連続量だけでは説明できず、
量子化された状態を持つことを示す重要な証拠となりました。

現在では、この実験は角運動量の量子化やスピンの理解につながる
歴史的な実験
として知られています。
ただし、
1922年の実験をそのまま「電子スピンを発見した実験」と表現するより、

まずは空間量子化を実験的に示した研究と捉える方が歴史的には正確です。
その後、量子力学の発展とともにスピンという概念が整理され、
シュテルン=ゲルラッハ実験はスピンを理解する代表的な実験として
教科書に登場するようになります。

ここには、このサイトで紹介しているボーア
ハイゼンベルクらによる量子化の議論
ともつながる重要なポイントがあります。

目で直接見ることのできない原子の内部に対して、
原子そのものを「見る」のではなく、

原子ビームと磁場との相互作用から推測していったのです。

つまりシュテルンの仕事は、
「見えないミクロの世界を、実験によってどこまで確かめられるのか」
という20世紀物理学の大きな課題に対する、一つの答えでもありました。

つまり、放出粒子自体が磁気的な性質を
初めから持っているのです。

そして戦争に伴い、ナチスにハンブルグ大学の
地位を追われたシュテルンはアインシュタインと共に
1933年アメリカに亡命します。

戦後ナチス政権下で教授を続けたゲルラッハと対照的ですね。
最終的にはUCB(カリフォルニア大学バークレー校)
名誉教授を務めます。81歳の生涯でした。

シュテルンとつながる物理学者

シュテルンの研究は、原子線を利用して目に見えないミクロの世界を
実験的に調べるという方向へ発展しました。
その研究はシュテルン=ゲルラッハ実験を通じて、
量子化やスピンの理解にもつながっています。

◀ 前の人物:アインシュタイン

▶ 次の人物:ヴァルター・ゲルラッハ

この分野の物理学者:
ボーア
ハイゼンベルク
パウリ
シュレディンガー
マックス・ボルン
アインシュタイン

実験から量子力学を考える:
ゲルラッハ
ボーア
ハイゼンベルク

【スポンサーリンク】

以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
問題点には返信・改定をします。

nowkouji226@gmail.com

2020/10/31_初版投稿
2026/08/24_改定投稿

舞台別のご紹介へ
時代別(順)のご紹介
アメリカ関連のご紹介へ
カリフォルニア大学関連のご紹介へ
ドイツ関連のご紹介

量子力学関係

AIでの考察(参考)

【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】

(2021年10月時点での対応英訳)

Wartime physicist Stern

Stern is a German-born physicist who is chased by the Nazis and moves to the United States. Stern first met Einstein at the University of Prague in Poland and moved to the ETH Zurich together. Was he a friendly debate? As he proceeded with his investigation, I felt that he was of Jewish descent. Above all, it was the time when the Holocaust was actually taking place. He would have felt the same fear and resentment and talked about the dissident.

Stern will study atomic beams in Germany, which was a sensation at the time. In his experiment, he keeps raising the temperature even after the metal shines. For example, he specifically puts metal in a constant temperature bath and sees it coming out of a small window.

Stern’s experiment

We will clarify the properties of particles by continuously emitting specific particles from the window. As a result, he completed his historic experiment with Walther Gerlach. The focus of this experiment is on the “magnetic properties of individual particles.” When the heated and evaporated silver particles are emitted in the form of a beam, a magnetic field is applied to the particle beams. Then, the particle is divided into two and the bright spot (the place where the particle hits), which was one point, becomes two bright spots. This fact can be explained by the fact that the particles have spin.

Stern, who was displaced by the Nazis from the University of Hamburg due to the war, went into exile in the United States in 1933 with Einstein. This is in contrast to Gerlach, who continued to teach under the Nazi regime after the war.

He will eventually be an emeritus professor at UCB (University of California, Berkeley). He was 81 years old.

 

に投稿 コメントを残す

エルヴィン・シュレディンガー
【仮想の猫を使った思考実験で量子的に実在を考察】-8/23改訂

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。
では、ご覧ください。内容を整理し、
主にリンクを見直しました。
現時点での英訳も考えています。
(以下原稿です)

シュレディンガー方程式【スポンサーリンク】
【1887年8月12日生まれ ~ 1961年1月4日没】

Scientific Identity, Portrait of Erwin Schršdinger

【出典:Wikimedia CommonsErwin Schrödinger portrait】

シュレディンガーの生い立ち

その名は Erwin Rudolf Josef Alexander Schrödinger 。
シュレディンガーはオーストリア=ハンガリー帝国
に生まれました。量子力学の発展史で欠かせない人物です。
20世紀初頭での議論の中で議論の中心に居た
という印象があります。確率波としての
「波動関数」を提唱し、1935年の論文では
「エンタングルメント」を言語化しています。

コペンハーゲン学派とは一定の距離を置きながら
概念形成で重要な役割を果たしました。
シュレディンガーの猫として例えられる話
や、エンタングルメントの議論でも
シュレディンガーは本質に
ぐんぐん迫っていきます。

目で見えないものに対して議論する時に
必要とされる大事なものを
シュレディンガーは考え続けました。

シュレディンガーはその父に影響を受けたと
言われていますが、その父とはバイエルン王国
に生まれ広い教養をもった人だったようです。その点が、
シュレディンガーの性格に影響しているかと思われます。

色々知るにつけ分かってくるのですが、
シュレディンガーの考えは物理学の枠囚われない所があります。
未知の事象を捕まえていく際に、
また対象を色々な視野から
洗い出していく際に、
活用できるような「考え方のモデル」
沢山作られていったのでしょう。

そもそも、
他の人が作りえないような独自のモデルを作るという
大きな目標が物理学にはあります。

シュレディンガーの猫

シュレディンガーは猫の例えで有名です。
具体的には「量子力学的現象」と連動して
「猫を毒殺する仮想実験」を議論しました。

議論の帰結として、ミクロな物理現象を
確率的に扱う量子力学の解釈が、
マクロな世界に適用されたときの違和感

鮮烈に示す思考実験となったのです。

具体的には空間的に広がる確率波を数学的に考えていきます。
確率波の時間発展はシュレディンガー方程式と呼ばれ
量子力学の基礎方程式となるのです。

私は大学院時代にそこから考え始めて超伝導現象に挑みました。
新しい現象理解に繋がっていったのです。
今もその枠組みで議論がされています。
世界中で議論がされています。

シュディンガ―音頭

こぼれ話となりますが、
若手の物理学者の
勉強会である「物性若手夏の学校」では
シュレディンガー音頭という歌があり
Ψ(ぷさい)とφ(ふぁぃ)
を取り入れて楽しげに、形の違いを確認出来ます。

英文で表記したりする時にこの二つは似ていて混同しがち
なのですが、直ぐに思い出せます。

シュレディンガー音頭で手のひらを上にあげる方がΨです。
一度踊ると踊った人は一生忘れません。 

シュレディンガー形式 

そうした量子力学の表現形式としては、
ハイゼンベルク形式(描像)とシュレディンガー形式があり、
その2つは完全に等価です。

数学の側面から大まかに表現すると、
ハイゼンベルク形式は
ヒルベルト空間上の行列とベクトルを使い、
シュレディンガー形式では同空間での演算子と波動関数を使います。

共に直感に響く側面を持ち相補して全体を補い合うのですが、
私には「粒子の二面性を感じる時などに初学者がイメージを
「作る段階」ではシュレディンガー形式が適していると思われました。
そんな記述をシュレディンガーは纏めたのです。

ボルツマンとシュレディンガー

最後に、もう一度シュレディンガーの人となりに話を戻したいと思います。
シュレディンガー
はウィーン大学でボルツマンの後任である
ハゼノール
の教えを受けていて、ボルツマンと関わりが出来たのです。

彼はボルツマンの示した道筋を受け継いでいた人でした
彼はボルツマンに対して
い想いを持っていました。曰く、

「ボルツマンの考えた道こそ
科学に於ける
私の初恋
と言っても良い亅_

【万有百科大事典 16 物理・数学の章より引用しました。】

いわば、ボルツマンが完全に確立出来なかった原子論を

シュレディンガーは彼らしい表現方法で具現化したのです。

ボルツマンからシュレディンガーへ

シュレディンガーの物理学を理解するうえで、ルートヴィヒ・ボルツマンとの
思想的なつながりは重要です。
シュレディンガー自身が
ボルツマンの考え方に強い影響を受けたことを語っており、
その熱力学・統計力学的な発想は、後の量子力学への関心にもつながっていきました。

ただし、ここは「ボルツマンの弟子」という単純な師弟関係として捉えるよりも、
ボルツマンが開いた物理学の道を、次の世代の研究者たちが
それぞれの方法で受け継いだ
と考える方が分かりやすいでしょう。

シュレディンガーの場合には、ウィーン大学でフリードリヒ・ハーゼノールらの
影響を受けながら、
ボルツマンにつながる理論物理学の流れを受け継ぎ、
最終的には波動力学という独自の表現方法へ進んでいきました。

一方、ポール・エーレンフェストも、
統計力学と量子力学の橋渡しを考えた重要な人物です。
エーレンフェストの定理では、量子力学的な期待値の時間発展と
古典力学的な運動との関係が整理されます。

つまり、ボルツマンから始まる統計力学的な考え方は、
一人の研究者によってそのまま受け継がれたのではありません。
シュレディンガーは波動力学という方向から、
エーレンフェストは統計力学と期待値という方向から、
それぞれ原子・量子の世界を理解しようとしました。

そして1920年代になると、この流れはハイゼンベルクの行列力学、
マックス・ボルンの確率解釈、
ポール・ディラックの量子力学へと広がっていきます。

こうして見ると、シュレディンガーの波動力学は突然現れたものではありません。
プランクによる量子論の出発点、
ボルツマンらによる統計力学、そしてボーアによる原子論など、
多くの研究者が積み重ねてきた議論の上に登場したものだったのです。

エーレンフェストの定理は個別粒子の運動を分かり易い形で記述する
と思えます。それまでの物理学と量子力学を上手くつなげています。
他方でシュレディンガーは波動的側面から
原子の表現に挑みました。

量子力学の初学者がこの二人のどちらを先に知るかといえば
シュレディンガーでしょう。
量子力学の議論の範囲で説明出来るからです。

大学ごとの教育カリキュラムで別途統計関係の講義との兼ね合い
も考えなければいけません。ただ、
歴史的にはシュレディンガーの理解が後なのです。

そして二人ともボルツマンの考えを受け継いでいるのです。

 

シュレディンガーとつながる物理学者

シュレディンガーの波動力学を理解すると、
量子力学が一人の天才によって突然生まれたものではなく、
多くの物理学者が議論を重ねて形成されたことが見えてきます。

 

〆最後に〆

|コスパ最強・タイパ最強・テックジム|
プログラミング教室の無料カウンセリング【スポンサーリンク】

以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近は全て返信出来てませんが
必要箇所は適時、改定をします。

nowkouji226@gmail.com

2020/08/16_初稿投稿
2026/08/23‗原稿改定

舞台別のご紹介
時代別(順)のご紹介

オーストリア関連のご紹介
ウィーン大関連のご紹介
量子力学関係
グラーツ大学関連へ

AIでの考察(参考)

【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】

(2021年10月時点での対応英訳)

Schrodinger’s upbringing

Schrodinger was born in the Austro-Hungarian Empire. He is said to have been influenced by his father, who seems to have been born in the Kingdom of Bavaria and well-educated. It seems that this influences Schrodinger’s personality. As you can see from various investigations, Schrodinger’s idea is not bound by the framework of physics. It seems that many “models of thinking” have been created that can be used when capturing unknown events and when identifying objects from various perspectives. Physics has the big goal of creating unique models that no one else can.

Schrodinger’s cat

Schrodinger is famous for the analogy of cats. Specifically, we discussed “a virtual experiment to poison cats” in conjunction with “quantum mechanical phenomena”. As a result of the argument, Schrodinger’s interpretation that microscopic physical phenomena can be expressed as stochastic reality has been completed. Specifically, he mathematically considers the probability waves that spread spatially. The time evolution of stochastic waves is called the Schrodinger equation and becomes the basic equation of quantum mechanics. When I was in graduate school, I started thinking about it and challenged the superconducting phenomenon. It led to a new understanding of the phenomenon. Discussions are still being held within that framework. There is debate all over the world.

Shudinger Ondo

It’s a spillover story, but at the study session for young physicists in Japan, “Schrödinger Young Summer School,” there is a song called Schrodinger Dance, and Ψ (Psi) and φ (Phi) are incorporated to happily confirm the difference in shape. can. When writing in English, the two are similar and often confused, but I can easily remember them. It is Ψ to raise the palm up with Schrodinger dance. Once you dance, you will never forget the person who danced. Twice

Schrodinger format

There are two forms of expression of such quantum mechanics, the Heisenberg form (picture) and the Schrodinger form, and the two are completely equivalent. Roughly speaking from a mathematical point of view, the Heisenberg form uses matrices and vectors in Hilbert space, and the Schrodinger form uses operators and wavefunctions in the same space. Both have intuitive aspects and complement each other to complement each other, but I think that the Schrodinger format is suitable for “the stage where beginners create images when they feel the duality of particles”. rice field. Schrodinger put together such a description.

Boltzmann and Schrodinger

Finally, I would like to return to Schrodinger’s personality. Schrodinger was taught by Hazenor, Boltzmann’s successor, at the University of Vienna, and was able to get involved with Boltzmann. He was the one who inherited the path Boltzmann showed. He had a passion for Boltzmann. He says

“The way Boltzmann thought
In science
My first love
You can say that _

[Encyclopedia of Banyu 16 Quoted from the chapter on physics and mathematics. ]

So to speak, Schrodinger embodied the atomism that Boltzmann could not completely establish in his own way of expression. Also, when we think about Boltzmann, I think of another disciple, Ehrenfest. He challenged the expression of atoms from the perspective of statistical mechanics. Ehrenfest’s theorem seems to describe the motion of individual particles in an easy-to-understand manner. Schrodinger, on the other hand, challenged the expression of atoms from the wave side.

Schrödinger is the first to know which of these two scholars of quantum mechanics knows first. This is because it can be explained within the scope of the discussion of quantum mechanics. In the educational curriculum of each university, it is necessary to consider the balance with the lectures related to statistics. However, historically, Schrodinger’s understanding was later. And both of them inherit the idea of ​​Boltzmann.

に投稿 コメントを残す

ニールス・ボーア
【概念構築|新たな原子模型の提唱を通じて原子モデルを洗練化】-8/22改訂

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。
では、ご覧ください。内容を整理し、
主にリンクを見直しました。
現時点での英訳も考えています。
(以下原稿です)

ボーア来日時【スポンサーリンク】
【1885年10月7日生まれ ~ 1962年11月18日没】

【Wikimedia Commons:「Niels Bohr portrait」】

ボーアの生い立ち

ボーアは量子力学の発展で重要な役割を果たしました。

ソルベー会議でも議論の中心に居て、TOP画で

使っている写真では中列右端に立っています。

そんなボーアは北海に面したユトランド半島および、
その近辺の
多くの島々からなる、立憲君主制国家である、
デンマーク王国にボーアは生まれました。

若い時代にはアマチュアサッカー選手リーグの
ABコペンハーゲンでゴールキーパーを務めていた
という一面もあります。
ボーアはそんな人でもあるのです。

ボーアと原子論

そしてボーアは前期量子論形成に於いて
先駆的な理論
を提供し続けました。
ボーアは当時、不完全であった
原子像を洗練させて
独自の原子模型を提唱します。議論の渦中に飛び込んで
色々な人々と切磋琢磨して新しい「かたち」
を作り上げたのです。

先ず1911年にイギリスへ留学し、J・J・トムソン
ラザフォード_の元で原子核に対する基礎知識を吸収
して
先進的な考察の土台を作っていきます。

そもそも光学顕微鏡で見えないほど
小さい領域にまで議論が進んでいくのですが、
その世界に対して考察を止めることなく
幾多の議論を重ね、
量子力学を確立していきます。

例えば今でも原子の大きさを議論する時に
「ボーア半径」という言葉を使います。

この言葉はボーアの時代に確立されていった概念です。

その後、ボーアはイギリスから帰国後に
幾多の仲間を
コペンハーゲンに集め、
コペンハーゲン学派と呼ばれた仲間を形成します。

コペンハーゲンでまとまった解釈は
コペンハーゲン解釈と呼ばれるようになり、
それまでの物理学でのスタイルを変えていきます。

ボーアとコペンハーゲン解釈 

コペンハーゲン解釈は微視的世界での

「観測に対する考え方」です。

光学顕微鏡で微細な世界を覗いても分解能の問題で
どうしても
画像がぼやけてしまう「限界」にいきつきます。

アルファー線やベータ―線といった粒子線を
純度の高い物質に当てて、光路から
内部構造を予想しようとする試みも
色々な形で繰り広げられました。

日本では寺田寅彦の時代にそうした解析が
行われています。解析の蓄積を辻褄(つじつま)の合う
総合理論で結びつける体系が必要とされていたのです。

目で見てとれる現象は顕微鏡の分解能の範囲で
終わってしまいます。実際にはそれ以下の大きさで
繰り広げられる現象が存在していて、
観測しようとして光を当てると(光子を作用させると)、
「観測する事情」で「状態をかき乱してしまう」のです。

位置と運動量の微視的分解能の限界をA・アインシュタイン
ボーアが論じた話などが今に残っています。

また段々に分かってくるのですが、後にパウリが示す
スピンの自由度も電子は持っていて「軌道半径だけを
イメージして議論すれば話が終わる」訳ではないのです。

その中でボーアは本質的な「ボーアの量子化条件」を用いて
様々な現象を新しい議論の枠組みで説明してみせます。

長さスケールで10の−10乗メートル程度の微視的領域では、
「位置等の観測値」が「とびとびの値」を示すのですが、
その事象を現実世界での本質的な性質であると提唱したのです。

原子半径、磁気的性質も現代では、その形式で考えるが方が
わかりやすい訳です。師であるラザフォードの原子モデルに
改良を加えてボーアモデルを作りあげます。

第2次大戦時のボーア

第二次世界大戦が始まると、ボーアの人生も大きく揺さぶられます。
1940年4月、ドイツ軍がデンマークを占領しました。
ボーアはすぐに国外へ逃れるのではなく、占領下のコペンハーゲンに残り、
研究所と研究者たちを守ろうとしました。

ボーアは1930年代から、ナチス政権によって迫害された科学者たちの
国外脱出を支援していました。第二次世界大戦が始まった後も、
科学者としての立場を利用しながら、研究者を守る活動を続けています。

この時期のボーアを語るうえで興味深いのが、
「Maud Ray Kent」という言葉をめぐる逸話です。
1940年、ボーアが英国側へ送った電文の末尾には
「Cockcroft and Maud Ray Kent」という名前が記されていました。

英国側では、この「Maud Ray Kent」が何を意味するのか分かりませんでした。
そこで秘密の暗号ではないかと考えられ、
文字を組み替えることで「radium taken(ラジウムが取られた)」
という意味になるのではないか、と解釈されたのです。
この出来事が、後に英国の原子爆弾研究委員会
MAUD Committeeの名称につながったとされています。

ところが戦後になって、この「Maud Ray」は暗号ではなく、
ボーア家で子どもたちの英語を教えていた女性
Maud Rayであり、彼女がKent出身だったことが分かりました。
つまり、歴史的な秘密情報と思われた言葉には、
実はボーア家の日常生活に関係する人物の名前が含まれていたのです。

リーゼ・マイトナーはイギリスにいる甥に手紙を出します。その中で
「最近 ボーア夫妻に 会い、 二 人 とも 元気 だ が 事態 に は 悲んでいる。

核物理学者 と モード ・ レイ ・ ケント ( Maud Ray Kent ) に 知らせて 」
という 電文 を打ちました。 受け取っ た 英国の物理学者達は
モード ・ レイ ・ ケント( Maud Ray Kent )

に 心当たり が なかっ た ため 、 それ を 何 か の 秘密 の メッセージ
だ と 考え て 一 か所 “ y ” を “ i ” と 読み替えるました。つまりそれ が
「 ラジウム とら れた 」( radium taken ) の アナグラム だ と 解釈 できる
こと に 気がつい たのです 。イギリスの G・P・トムソン のグループは
この アナグラム から事態の深刻さを受け止めたのです。
ノーマン・マクレイ著「フォン・ノイマンの生涯」より太字部抜粋)

この逸話は、第二次世界大戦下で科学者同士がどのように情報を
伝えようとしていたのかを考えるうえでも興味深い出来事です。
同時に、核物理学の研究が戦争と急速に結びついていった時代背景を
象徴するエピソードでもあります。

占領下のデンマークからスウェーデンへ

ボーアは1940年のデンマーク占領後もしばらく国内に留まりました。
しかし戦争が激しくなり、ナチスによるユダヤ人迫害が
デンマークにも及ぶようになると、状況は急速に危険になります。

1943年、ボーアはついにデンマークから脱出することになります。
まずスウェーデンへ逃れ、その後イギリスへ渡りました。
さらにアメリカへ移り、核兵器開発に関係する研究にも接することになります。

ただし、ここで重要なのは、ボーアが単純に核兵器開発を推進した人物
というわけではないことです。彼は戦後の核兵器による国際的な対立を
強く懸念し、科学情報を国家間で閉ざすのではなく、
国際的な透明性を高める必要があると考えていました。

この考え方は、戦後にボーアが「開かれた世界」を訴えた活動にも
つながっていきます。核物理学の発展によって科学と国家安全保障の
関係が大きく変化した時代に、科学者にはどのような責任があるのか。
ボーアは晩年まで、この問題を考え続けました。

そして晩年

ボーアはデンマーク最高の勲章である
エレファント勲章を受けています。
その際には東洋密教で使う陰陽のマーク
を模してボーア家の紋章を
デザインしたと言われています。

また、英国の王立協会では
外国人会員の栄誉を受けていました。

ボーアとつながる物理学者たち

ニールス・ボーアの仕事は、ボーア一人だけで完成したものではありません。
ラザフォードの原子核模型を出発点として、ボーアが原子模型を発展させ、
その後の量子力学へと議論が受け継がれていきました。
ここでは、ボーアを中心とした物理学史上のつながりを整理しておきます。

 

 

 

|コスパ最強・タイパ最強・テックジム|
プログラミング教室の無料カウンセリング【スポンサーリンク】

以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
適時、返信・改定をします。

nowkouji226@gmail.com

2020/08/31_初版投稿
2026/08/22_改定投稿

サイトTOP
舞台別のご紹介
時代別(順)のご紹介
デンマーク関係
イギリス関係

ケンブリッジ関連
熱統計関連のご紹介
量子力学関係

AIでの考察(参考)

【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】

(2021年10月時点での対応英訳)

Bohr’s upbringing

Bohr played a demanding role in the development of quantum mechanics. He was also at the center of the discussion at the Solvay Conferences, standing at the right end of the middle row in the photo used in the TOP picture.

Bohr was born in the Kingdom of Denmark, a constitutional monarchy of the Jutland Peninsula facing the North Sea and many of its surrounding islands. On the one hand, he was a goalkeeper in the amateur soccer player league, AB Copenhagen, when he was young. Bohr is also such a person.

Bohr and Atomism

And Bohr continued to provide pioneering theories in old quantum theory. Bohr refines the imperfect atomic image at the time and proposes his own atomic model.

He first studied abroad in England in 1911, and under the guidance of JJ Thomson and Rutherford, he absorbed basic knowledge about atomic nuclei and proceeded with advanced consideration. In the first place, the discussion goes to a level that is too small to be seen with an optical microscope.

He continues to discuss the world with many discussions and establish quantum mechanics. For example, he still uses the term “Bohr radius” when discussing the size of an atom. This word is a concept established in this era.

After returning from England, Bohr gathered many friends in Copenhagen to form a group called the Copenhagen School. The collective interpretation came to be called the Copenhagen interpretation, changing the style of physics up to that point.

Bohr and Copenhagen Interpretation

The Copenhagen Interpretation is the “thinking about observation” in the microscopic world. Even if you look into the minute world with an optical microscope, you will reach the “limit” where the image will be blurred due to the problem of resolution.

Attempts to predict the internal structure from the optical path by applying particle beams such as alpha rays and beta rays to high-purity substances have also been made in various forms. In Japan, such an analysis was carried out during the time of Torahiko Terada. There was a need for a system that would connect such accumulations with a theory that fits Tsujitsuma.

Phenomena that are visible to the eye end up within the resolution of the microscope. Actually, there is a phenomenon that unfolds in a size smaller than that, and when light is applied to observe it (when photons act), it “disturbs the state” due to “observation circumstances”. There is a story that discusses the limit of microscopic resolution of position and momentum with A. Einstein.

Also, as we gradually understand, electrons also have the degree of freedom of spin that Pauli shows later, and the discussion does not end if we discuss only by imagining the orbital radius.

In it, Bohr explains various phenomena using the essential “Bohr’s quantization condition”. In the discussion on the scale of 10-23 meters on the length scale, “observed values ​​such as position” indicate “staggered values”, but we propose that the phenomenon is an essential property in the real world. I did.

In modern times, it is easier to understand the atomic radius and magnetic properties in that format. He will improve the atomic model of his teacher, Rutherford, to create the Bohr model.

And his later years

Bohr has received the Order of the Elephant, Denmark’s highest medal. At that time, he is said to have designed the coat of arms of the Bohr family, imitating the Yin-Yang mark used in Oriental esoteric Buddhism. He also received the honor of a foreign member at the Royal Society of England.

に投稿 コメントを残す

西川 正治
【植物由来の構造体|X線解析で現象論を確立し後進を育てた偉人】-8/21改訂

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。
では、ご覧ください。内容を整理し、
主にリンクを見直しました。
現時点での英訳も考えています。
(以下原稿です)

https://amzn.to/4aQaJG6【スポンサーリンク】
【1884年12月5日生まれ ~ 1952年1月5日没】

 

Order of Culture award
ceremony (Tokyo, 1951).jpg

From left, Kensuke Mitsuda, Saneatsu Mushanokōji, Kunio Yanagita, Nakamura Kichiemon I,
Mokichi Saitō, and Shōji Nishikawa, receiving the Order of Culture,
pose for a commemorative photo at the Imperial Palace.

Unknown photographer_Wikimedia Commons に Public Domain

## **食物繊維と西川**

西川正治は[寺田寅彦](https://www.nowkouji226.com/terada_1878/)の指導を受け、
物理学を学んでいきます。
西川が取り組んだ重要なテーマの一つが、
**X線を使って結晶や繊維状物質の内部構造を調べること**でした。

竹や麻などの繊維状物質は、一見すると単純な植物材料に見えます。しかし、
その内部には分子が規則的に並んだ構造があり、X線を照射すると、
その構造に応じた回折像が得られます。

西川正治は、こうしたX線回折を利用して、目で直接見ることの
できない物質内部の構造を読み取ろうとしました。

このような研究は、後にセルロースなどの高分子物質の構造を
X線回折によって調べる研究ともつながる、**繊維状物質の構造解析
という重要な流れの一部**として位置づけることができます。

ここで重要なのは、「見えないものを見る」という物理学の方法です。

X線そのものを目で見るのではなく、物質にX線を当て、その結果として
現れる回折像を測定します。そして、そのパターンを解析することで、
物質内部の原子や分子の規則的な配列を推定していくのです。

手法としては「X線回折」を駆使して
スピネル群結晶内の電子配置を決定しています。

X線解析での問題

そもそも「電子」は不可視の存在ですが、
電磁波に対して作用して結果を残すので
その結果を画像で解析できます。

解析をすることで、
結晶内での微視的な電子配置の情報が得られるのです。

初学者は単純なモデルから学ぶので電子が個々の性質を見せる
と思いがちです。実際はそんな事は無くて電子単体で
「観測にかかる」事象はなかなか見当たりません。

たとえば相互作用を考えていって
「輝点」の議論をしている時でも、
話の中には色々な要素があって、どこまでが観測事実か、
はたまた勝手な想像であるか、判断に迷うことがあります。

万人に説得力を持つ議論を進めるのはとても大変な作業です。
加えて、当時の時点での知識で原子からの寄与と、
電子からの寄与を明確にしていくには
多くの知見が必要だったと思われます。

X線情報の精度を考えるだけで大変で、
一つ一つ推論を裏付けていった筈です。

**見えない電子をどうやって知るのか**

電子を直接目で見ることはできません。しかし、
電子は電磁場やX線などと相互作用します。

その相互作用によって生じた「結果」を測定すれば、そこから電子や
原子の状態について推論することができます。
X線回折も、
その代表的な方法です。
X線を結晶に照射すると、結晶中の規則的な
原子配列によって回折が起こります。観測される回折強度は、
結晶内部の電子密度分布と関係しています。

したがって研究者は、単に「写真に写ったもの」を見ているわけではありません。

**測定された回折データ → 数学的な解析 → 原子・電子の配置に関する推論**

という段階を踏んで、目には見えない物質内部の構造を明らかにしていきます。

ここにX線結晶学の面白さがあります。

観測できるのは回折という現象ですが、そこから直接見ることのできない
物質内部の構造を推定するのです。
西川正治の研究も、この
「観測できる現象から見えない構造を読み解く」という物理学の方法の中に
位置づけることができます。

 

そうした「新しい計測手法」を手掛かりに

西川正治は解析していったのです。

西川正治はそうした業績を残しながら

二人のお子様を育て、其々が学者として

名を残しています。また、同時に

幾人もの弟子を育て、日本物理学会に

今も続く、大きな足跡を残しています。

西川正治とつながる物理学者

西川正治の研究を理解するには、一人の物理学者だけを見る
のではなく、
誰から学び、誰と同じ時代を生き、どのような研究分野へ
つながっていったのか
を見ることも重要です。

ここでは、人物の生年による「前後の流れ」と、研究テーマによる
「関連人物」の二つの方向から、
私のサイト;nowkouji226.com
の記事をたどれるようにしています。

前後の人物

◀ 前の人物:松山基範

西川正治(1884–1952)

▶ 次の人物:次の物理学者を年代順に読む

師・寺田寅彦から西川正治へ

西川正治を知るうえで、まず読んでおきたい人物が
寺田寅彦です。

西川正治は寺田寅彦の指導を受けて物理学を学びました。
そのため、西川正治の記事だけでなく、
寺田寅彦がどのような人物で、
どのような科学観を持っていたのかを知ることで、
西川の研究者としての背景も見えてきます。


寺田寅彦の記事を読む →

X線回折からつながる物理学者

西川正治の研究をさらに深く理解するなら、
X線回折がどのように生まれ、
結晶構造の研究へ発展していったのかをたどるのがおすすめです。

  • マックス・フォン・ラウエ
    X線と結晶の相互作用を研究し、
    X線回折という研究手法の発展に大きく貢献した物理学者です。
  • ウィリアム・ヘンリー・ブラッグ
    X線を利用した結晶構造解析を発展させた物理学者です。
  • ウィリアム・ローレンス・ブラッグ
    父ウィリアム・ヘンリー・ブラッグとともに
    X線結晶学を大きく発展させました。

西川正治の研究を入口として、
ラウエやブラッグ父子へ進むと、
「X線を使って、目に見えない物質内部の構造をどう調べるのか」
という研究の流れを理解しやすくなります。

1884年前後に生まれた物理学者

西川正治は1884年生まれです。
同じ時代には、地球物理学、物性物理学、
原子物理学など、さまざまな分野で研究を進めた人物がいました。

例えば、同じ1884年生まれの
松山基範は、
岩石に残された磁化を手掛かりとして
地磁気逆転を研究した地球物理学者です。

X線回折によって「物質内部」を探った西川正治と、
岩石の磁化から「地球の過去」を探った松山基範。
研究対象は異なりますが、
直接見ることのできない対象を観測データから推論する
という点では共通するものがあります。


松山基範の記事を読む →

物理学者を年代からたどる

西川正治の記事を読み終えたら、
同じ時代に生きた物理学者を年代順にたどってみるのもおすすめです。

一人の人物を起点にして、
師弟関係、研究分野、同時代の人物へと進んでいくと、
個々の人物の業績だけでは見えにくい
物理学の歴史そのものが見えてきます。


物理学者を年代順に読む →

 

【スポンサーリンク】

以上、間違い・ご意見は
次のアドレスまでお願いします。
適時、返信・改定を致します。

nowkouji226@gmail.com

2020/12/13_初稿投稿
2026/08/12_改定投稿

サイトTOP
舞台別のご紹介
時代別(順)のご紹介
日本関連のご紹介
東大関連のご紹介
力学関係のご紹介
熱統計関連のご紹介へ
量子力学関係

AIでの考察(参考)

【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】

(2021年10月時点他の対応英訳)

Dietary fiber and Nishikawa

Shoji Nishikawa will study physics under the guidance of Torahiko Terada. In particular, he focused on plant-derived structures such as bamboo and hemp and considered how electromagnetic waves act on fibrous structural materials. As a method, the electron configuration in the spinel group crystal is determined by making full use of X-ray diffraction.

Problems with X-ray analysis

In the first place, electrons are invisible, but they act on electromagnetic waves and leave results, so if you analyze the results with images, you can obtain information on the microscopic electron configuration in the crystal. Beginners tend to think that electrons show individual properties because they learn from simple models. Actually, there is no such thing, and it is difficult to find an event that “observes” an electron alone. For example, even when thinking about interaction and discussing “bright spots”, there are various elements in the story, and it is judged how far the observation facts are, or whether it is a selfish imagination.

You may get lost. Proceeding with a convincing discussion for everyone is a daunting task. In addition, it seems that a lot of knowledge was needed to clarify the contribution from atoms and the contribution from electrons with the knowledge at that time. It was difficult just to think about the accuracy of X-ray information, and it should have supported the inference one by one.

Shoji Nishikawa analyzed using such a “new measurement method” as a clue. Shoji Nishikawa raised two children while leaving such achievements, and each of them has left his name as a scholar. At the same time, he raised a number of disciples and left a large footprint that continues to the Physical Society of Japan.

に投稿 コメントを残す

F・W・マイスナー
【ベルリン生まれの物理学者|磁性を使って超電導現象を説明】-8/17改訂

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。
では、ご覧ください。内容を整理し、
主にリンクを見直しました。
現時点での英訳も考えています。
(以下原稿です)

マイスナー
【スポンサーリンク】
【1882年12月16日生まれ ~ 1974年11月16日没】

【出典:Wikimedia Commons Fritz Walther Meißner (1882–1974)】

その名は正確には

フリッツ・ヴァルター・マイスナー_

Fritz Walther Meißner (Meissner)。

  ドイツ・ベルリン生まれの物理学者です。

ミュンヘン工科大学でプランクの師事を
受けた後に物理工学院で研究を進めます。

マイスナーが関心を持っていたのは
超伝導でした。1920年頃に色々な物質で
転移が起きる事を確認しています。

タンタル、化学記号はTa、転移温度4.47K。
ニオブ、化学記号はNb、転移温度は9.25K。
チタン、化学記号はTi、転移温度は0.4K。
トリウム、化学記号はTh、転移温度は1.38K。
に対して相転移を確認した後に化合物に
着目してNbCにおいて10ケルビンを超える
転移温度を確認しています。
なお温度の単位K(ケルビン)は、
0Kが絶対零度(−273℃)に対応する温度尺度です。
摂氏温度と同じ幅で目盛られていますが、
「ゼロの位置」だけが異なります。

超伝導とは何か

超伝導とは、ある物質を極低温まで冷却したときに、
電気抵抗が突然ゼロになる現象です。
1911年にオランダの物理学者ヘイケ・カメルリング・オネスが
水銀を冷却する実験の中で発見しました。

通常、電流は金属中を流れる途中で原子と衝突し、
少しずつ熱へと変わります。
そのため電気抵抗が発生し、送電線でも電力の一部は失われます。
しかし超伝導状態では、この抵抗が理論上ゼロとなり、
一度流した電流は外部から電力を与えなくても
長時間流れ続けます。

現在ではMRI(磁気共鳴画像診断装置)や
粒子加速器、大型核融合実験装置、
リニア中央新幹線などにも超伝導技術が利用されています。
強力な磁場を効率よく発生できるため、
現代科学・医療・エネルギー分野を支える重要技術となっています。

しかし1920年代当時は、
「なぜ抵抗が完全になくなるのか」
という理論はまだ分かっていませんでした。
その謎を理解する重要な手掛かりとなったのが、
フリッツ・マイスナーが発見した
マイスナー効果だったのです。

マイスナー効果

1933年、フリッツ・マイスナーは
ローベルト・オクセンフェルトとの共同研究によって、
超伝導体が単に電気抵抗を失うだけではなく、
内部から磁場そのものを排除する
という不思議な現象を発見しました。
現在では
マイスナー=オクセンフェルト効果
とも呼ばれています。

普通の金属では磁場をかけても磁力線は内部を通過します。
しかし超伝導体を転移温度以下まで冷却すると、
磁力線は内部へ侵入できなくなります。
磁力線が押し出されることで、
超伝導体は完全反磁性という性質を示します。

この現象こそが、
「電気抵抗がゼロである金属」と
「本当の意味での超伝導体」
を区別する決定的な特徴となりました。
磁石の上で超伝導体が浮上する実験は、
このマイスナー効果によって実現しています。
現在でも超伝導研究の最も重要な基本現象として知られています。

よく、超電導の説明で不自然な磁力線の図が見られますが、実際の
計測結果としても通常の磁力線と全く異なる形が現れるのです。

また性質の側面から完全反磁性
とも呼ばれます。磁性を使って超電導現象を特徴
づけているとも言えます。
マイスナーの業績は大きな成果でした。


関連記事・関連する物理学者

◀ 前の人物:ヘイケ・カメルリング・オネス

(超伝導の発見)

▶ 次の人物:ジョン・バーディーン

(BCS理論・超伝導理論)

この分野の物理学者

マックス・プランク

アルベルト・アインシュタイン

ヴェルナー・ハイゼンベルク

エルヴィン・シュレディンガー

マックス・ボルン

リーゼ・マイトナー

オットー・ハーン

 

|コスパ最強・タイパ最強・テックジム|
プログラミング教室の無料カウンセリング【スポンサーリンク】

以上、間違い・ご意見は
次のアドレスまでお願いします。
最近は返信出来ていませんが
全てのメールを読んでいます。
適時返信のうえ改定を致しします。

nowkouji226@gmail.com

2020/12/19_初回投稿
2026/08/17_改定投稿

舞台別の纏め
時代別(順)のご紹介

ドイツ関係のご紹介
量子力学関係

AIでの考察(参考)

【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】

(2021年10月時点での対応英訳)

The name is exactly

Fritz Walther Meißner (Meissner).
He is a physicist born in Berlin, Germany.

After studying Planck at the Technische Universität München, he goes on to study at the Institute of Applied Physics. Meissner had  interested in superconductivity . Meissner has confirmed that various supplies will cause metastasis around 1920.
Tantalum ,and chemical symbol is Ta, transition temperature 4.47K.
Niobium ,chemical symbol is Nb, transition temperature is 9.25K.
Titanium , and it’s symbol is Ti, transition temperature is 0.4K.
Thorium ,it’s symbol is Th, transition temperature is 1.38K.
After confirming the phase transition, we focused on the compound and confirmed the transition temperature exceeding 10 Kelvin in NbC.
[As a reminder, Kelvin (K) has a relationship with -273 ° C = 0K and 0 ° C = 273K, which are often used in one unit system.]

Meissner effect

Since then, Meissner has discovered the so-called Meissner effect. This phenomenon is sometimes referred to as the Meissner-Ochsenfeld effect, in conjunction with the name of his collaborator Ochsenfeld.

Often, in the explanation of superconductivity, you can see a figure of an unnatural field line, but even in the actual measurement result, a shape completely different from the normal field line appears.

Some people called completely anti-magnetic because of its nature. It can be said that it uses magnetism to characterize the superconducting phenomenon. It was a big achievement.

に投稿 コメントを残す

マックス・ボルン
【アインシュタインに「神はサイコロを振らない」と言わせた男】-8/16改訂

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。
では、ご覧ください。内容を整理し、
主にリンクを見直しました。
現時点での英訳も考えています。
(以下原稿です)

確立統計(ニュートン編)
【スポンサーリンク】

【1882年12月11日 ~1970年1月5日】

【Wikimedia Commons ‗Public Domain:Max Born (1882–1970)】

マックスボルンと確率解釈

M・ボルンはユダヤ系ドイツ人なので、

第二次世界大戦時は大変苦労しています。

そんな中でボルンは形成時の量子論において本質的な

概念である「確率解釈」を提唱しています。

ボルンの「確率解釈」とは何か

マックス・ボルンが提唱した「確率解釈」は、
量子力学を理解する上で最も重要な考え方の一つです。
古典物理学では、物体の位置や速度は観測しなくても
一意に決まっていると考えられていました。
しかし量子力学では事情が異なります。
電子などのミクロな粒子は、
観測されるまでは「どこに存在するか」を
一つの値として決めることはできません。

波動関数が与えるのは、粒子そのものではなく
「その場所で観測される確率」です。
つまり量子力学は未来を完全に予言する理論ではなく、
観測結果の確率を計算する理論なのです。

現在では当たり前となったこの考え方ですが、
当時としてはニュートン以来の決定論的な世界観を
覆す革命的な発想でした。
そのためアインシュタインをはじめ、
多くの物理学者との激しい議論を生み出すことになります。

私自身は、この確率解釈を
「観測という行為そのものが統計的な現象である」
という考え方として理解しています。
つまり、観測によって得られるのは
唯一の答えではなく、
一定の確率で現れる結果なのです。
古典力学の決定論とは、
ここが大きく異なっています。

別言すれば、ボルンの「確率解釈」とは、
“粒子は観測されるまで、どこにあるか・どんな
値を持つかが一意には決まらない”

という考え方です。
我々が観測できるのは、
「ある結果がどの程度の確率で現れるか」
だけだ――これが量子力学の基本的な世界観になります。
古典物理では「物理量は必ず一つの値を持つ」ものでしたが、
量子論では「期待値(確率的平均)」として表されます。

古典物理学での観測値に対する物理量は量子論では期待値

特定の観測値を持つ場合は確率で表現されます。
1930年に初版が書かれた教科書
【dirac「量子力学」】から一文を引用します。
「観測結果の計算には避けられない不定さがあり、そして理論のなしうることは、
一般には我々が観測をする時にある特定の結果が得られる事の確率を計算するだけである」

ボルンの人間関係

ボルンはドイツ本国で教授職を解雇されたりしていて、
反戦の姿勢、非核の姿勢を貫き
ラッセル=アインシュタイン宣言にも参加しています。

この点ではドイツに残り、原爆開発に参加
していたハイゼンベルクとは全く別の人生を歩んでいます。

ちなみに、

ハイゼンベルクはボルンの門下生です。
オッペンハイマーもまた弟子にあたります。
オッペンハイマーとは
「ボルン・オッペンハイマー近似」と呼ばれる業績を残しました。
共に研究していた時代があります。

共にユダヤ系でしたのでボルンはイギリス、
オッペンハイマーはアメリカへと追われていきます。
ユダヤ人排斥運動の中でボルンは教授職を奪われたのです。
戦時下でのどうしようもない事情でした。

彼の解釈で有名なやり取りがあります。

ボルンの考え方である確率解釈に対して反論した

アインシュタインが量子力学の解釈を

サイコロ遊びに例えたのです。

【(Wikipedeaより引用:)アインシュタインの有名な言葉
「彼(神)はサイコロを遊びをしない」は1926年
にボルンに当てた手紙の中で述べられたものである。】

さいころ遊びに例えた手紙が交わされた翌年の
1927年に
ハイゼンベルグが不確定性関係を定め、
このサイトTOPで写真を使っている
第五回ソルベー会議が開かれます。【於10月】

量子の本質に対して真剣な議論が交わされるのです。
人類の理解が大きく変化していった時代でした。

確率解釈は人類の思想にとって大きなパラダイムシフトです。

ボルンの考え方は、それまでの発想を大きく変えました。

最後にトリビア話

ボルンの孫の一人に歌手であるオリヴィア・ニュートン・ジョン
が居ました。私も初稿を書く際に調べ分かったのですが意外ですね。

勝手に想像するとボルンは如何にもドイツ人らしい人
だったのでしょうね。アインシュタインとのやり取りは、
そんな彼を偲ばせます。

イギリスに亡命後にドイツへ帰国しており、
プランクと同じゲッティンゲン市立墓地に眠っているそうです。
母国の土に帰りたい想いもあったのでしょう。
そしてきっと、
お孫さんのオリビア・ニュートンジョンも
墓参りに来ていたのでしょう。
原稿の改定が進む中で2022年の8月に
オリビアも亡くなり国葬が行われました。

関連URL(YouTubeへ:)
https://www.youtube.com/watch?v=E-JGTk_WM1k

関連URL(私の別ブログ:ダイエット日記)
https://ameblo.jp/nowkouji226/entry-12813195931.html


関連記事

◀ 前の物理学者:エルヴィン・シュレディンガー

▶ 次の物理学者:ヴェルナー・ハイゼンベルク

この分野の物理学者(量子力学)

マックス・プランク

アルベルト・アインシュタイン

ニールス・ボーア

エルヴィン・シュレディンガー

マックス・ボルン

ヴェルナー・ハイゼンベルク

ポール・ディラック

ポール・エーレンフェスト

ヴォルフガング・パウリ

|コスパ最強・タイパ最強・テックジム|
プログラミング教室の無料カウンセリング【スポンサーリンク】

以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
問題点に対しては適時、
返信・改定をします。

nowkouji226@gmail.com

2020/08/30_初版投稿
2026/08/16_改定投稿

舞台別のご紹介
時代別(順)のご紹介
イギリス関係のご紹介
ドイツ関連のご紹介

量子力学関係

AIでの考察(参考)

【このサイトはAmazonアソシエイト参加しています】

(2021年10月時点での対応英訳)

Max Born and Probabilistic Interpretation

Since M. Born is a Jewish German, he had a lot of trouble during World War II. Under such circumstances, he advocates “probabilistic interpretation”, which is an essential understanding of phenomena in the early quantum theory. To express the probability interpretation simply, it is an interpretation that the phenomenon related to the observation includes not only the uniquely obtained object but also the event observed with a certain probability. In other words, the observed value is multiplied by the certain probability. It is permissible if it is a match.

Born Relationships

Born has been dismissed as a professor in Germany, and he has been involved in the Russell-Einstein Declaration with an anti-war and non-nuclear stance. In this respect, he remains in Germany and lives a completely different life from Heisenberg, who participated in the development of the atomic bomb. By the way, Heisenberg is a student of Born. Oppenheimer is also a disciple. There was a time when Oppenheimer left a work called “Born-Oppenheimer approximation” and studied together. Both were of Jewish descent, so Born was chased by England and

Oppenheimer was chased by the United States. Born was deprived of his professorship during the Jewish exclusion movement. It was a terrible situation during the war. There is a well-known exchange in his interpretation. Einstein, who argued against Born’s idea of ​​stochastic interpretation, likened the interpretation of quantum mechanics to dice play.

[Quoted from Wikipedea: Einstein’s famous words
“He (God) does not play dice” is 1926
It was stated in a letter to Born. ]

In 1927, the year after this letter was exchanged, Heisenberg established an uncertainty relationship, and the 5th Solvay Conference using photographs will be held on the top of this site. [October] There is a serious discussion about the essence. It was an era when human understanding changed drastically. Probabilistic interpretation is a major paradigm shift for human thought. Born’s thinking changed his way of thinking.

Finally the trivia story

One of Born’s grandchildren was the singer Olivia Newton-John. I also found out when writing the first draft, but it’s surprising. Imagine that Born was a German person. The interaction with Einstein is reminiscent of him. He returned to Germany after his exile in England and is sleeping in the same Göttingen Cemetery as Planck. Perhaps he also wanted to return to his homeland. And I’m sure his grandson Olivia Newton-John will come to visit the grave.

に投稿 コメントを残す

マリ・キュリー
【ウラン含有量に注目|特定原子の遷移を示し物理学に殉じたフランスの偉人】-7/26改訂

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。
では、ご覧ください。内容を整理し、
主にリンクを見直しました。
現時点での英訳も考えています。
(以下原稿です)

キューリ夫人伝
【スポンサーリンク】

【1867年11月7日生れ ~ 1934年7月4日没】


マリー・キュリー(1867–1934)
出典:Wikimedia Commons(Public Domain)

マリア・スクウォドフスカ=キュリー

:Maria Salomea Skłodowska-Curieですが

フランス語でマリ・キューリと呼ばれる事が多いです。

彼女は物理学と化学で2度ノーベル賞を受けています。マリ・キューリの父は研究者
でしたが貴族階級の出身だった為に、帝政ロシアの支配下の元で教壇に立つこと
を禁じられていました。マリ・キューリは10歳をなる前に大変苦労します。父の
非合法の講義が発覚して職・住を失い、母の結核による他界があり、更には
投機での失敗もあり、
マリーは親戚等の世話になります。

 

そんな苦しい時期にマリ・キューリにも

恋をした時間がありました。

当時、マリ・キューリは家庭教師を生業としていましたが、カジュミェシュ・ゾラフスキ
という青年と恋仲に落ちます。
共に避暑旅行に出かけたりして幸せな時間を過ごしますが、
最終的には破局を迎えました。この事がマリ・キューリのパリ行きに繋がった様です。

パリでもマリ・キューリは苦労します

屋根裏部屋に住んで、寒い時には持っている全ての服を着ながら勉学に励みます。
パトロンが居たという話も聞きません。地方から出てきた若いマリはただ勉強を続け、
自分の知見の方向性を模索します。人生をかけて取り組む分野を切り開いていくのです。
そんなパリ生活は大学の学部を卒業する迄、続きました。

 

そんなマリ・キューリに

光明がさします。知り合いを通じて

ピエール・キューリと出会ったのです。

 

そのピエール・キューリは国外で評価を受けていて1893年には英国の
ケルヴィン卿が訪ねてくる程でした。
ところが、ピエール・キューリは
勲章を辞退してしまうような性格でひたすら研究に励んでいました。

そんな二人が惹かれ合い、認め合い、マリの帰国後もピエールは
恋文を
贈り続け、遂にはマリの心が動き、2人は簡素な結婚式をあげます。

幸せな結婚だったと思います。

祝いの宴もなく、結婚指輪も無い、

つつましい形式でしたが

祝い金で買った自転車に乗り、

フランスの片田舎へと新婚旅行に旅立ちます。

ピエールが自転車をこぎ、

その後ろにマリが乗り、長閑な道を

語りながら進んでいった事でしょう。

料理・洗濯などの家事で頑張り、長女に恵まれながら学問を続け、ベクレルの見出した放射線に対して二人は研究していきました。そこで。光や温度といったパラメターではなくウラン含有量の「量」が放射現象には本質的であるとの結論を得ます。
その後、マリとピエールの夫妻は元素の精製に心血を注ぎます。純度をあげる事で同位体の存在に近づいていったのです。関心のある精製にキューリー夫妻は全てを注ぎ込みます。結果として、夫ピエールは度重なる発作に苦しみ、妻マリは神経衰弱から睡眠時遊行症に陥ります。
そんな中で第2子を流産してしましました。そうした犠牲を払い、夫婦は物理学で大きな成果をあげます。

放射能とは何か

放射能とは、不安定な原子核がより安定した状態へ移り変わる際に、
自発的に放射線を放出する性質のことです。現在では原子核物理学の
基本概念として知られていますが、19世紀末までは原子は変化しない
存在であると考えられていました。その常識を覆すきっかけとなったのが、
アンリ・ベクレルによる天然ウランの放射線の発見と、それを受けて
マリ・キュリーが「放射能(Radioactivité)」という概念を提唱し、
体系化した研究でした。マリ・キュリーは、放射線の強さが光や温度ではなく、
物質そのものに由来することを実験によって示し、放射能が原子固有の性質で
あることを明らかにしました。

放射線にはアルファ線、ベータ線、ガンマ線など複数の種類があります。
アルファ線はヘリウム原子核、ベータ線は電子や陽電子、
ガンマ線は非常に高いエネルギーを持つ電磁波です。
これらは原子核が崩壊する過程で放出され、後にラザフォードらによって
詳しい性質が解明されました。こうした研究は原子核物理学の誕生につながり、
現代の量子物理学や素粒子物理学へと発展していきます。

現在では放射能は医療・工業・科学研究など幅広い分野で利用されています。
例えば、がん治療で用いられる放射線治療、PET検査などの核医学、
年代測定、材料検査などは放射性元素の性質を利用した技術です。
一方で、放射線は過度に被ばくすると人体へ悪影響を及ぼすことも
分かっており、
厳格な安全管理のもとで利用されています。
マリ・キュリー夫妻が命がけで切り開いた放射能研究は、
現代医学や原子核科学の礎となり、21世紀の科学技術にも受け継がれているのです。

 

新しい概念の提唱に至ります

マリ・キューリ最大の功績は、
単にラジウムやポロニウムを発見したことではありません。

「放射能(Radioactivity)」という現象そのものを体系化し、
それが原子そのものの性質であることを実験で示したことです。

それまで原子は変化しない存在と考えられていました。
しかしマリ・キューリの研究は、原子が自らエネルギーを
放出し、
別の元素へ変化する可能性を示しました。

この発見は20世紀物理学の出発点となり、後の
ラザフォードによる原子核研究、
ボーアの原子模型、
さらには量子力学へとつながっていきます。

―この事実は、原子を不変と考えていた当時の物理学に対する根本的な挑戦でしたー

放射線の放出は一見するとエネルギー保存則に反するかのように見えましたが、
後にラザフォードらによって原子核内部の構造と崩壊過程が研究され、問題は
より深い階層のエネルギー変換として理解されていきます。当時はまだ手探りの
段階でしたが、原子が変化し得る存在であるという認識そのものが、
物理学の地平を大きく押し広げたのです。

そして、その過程で放射線を放出して一見、エネルギー保存の法則に
相反する変化を起こしますが、それを追ってラザフォードらが
研究成果を次々と発表します。原子核の崩壊過程では素粒子の結合に関わる
様々なエネルギーが関与します。現在では簡素にダイヤグラムで理解する手法が
確立されていますが、当時は手探りの状況理解でした。
そして夫ピエールが放射線に医学的効果を期待出来ると発見をしていくのです。ラジウムの効果でした。微量のラジウムならば古くから「ラジウム温泉」の効果は広く知られていました(ただし、明確に「ラジウム」という言葉は使われていませんでした)。

また、現在では分かっているのですが過度のラジウムは身体に悪影響を与えます。放射線の影響を直接・装置で患者に対して考慮し始めたのです。ピエールの発見は大きな人類の知見へと繋がっていきます。

当初は、妻マリーの博士学位習得が放射線研究の目的であったのですが最終的にはマリー・ピエール・ベクレルの3人に対してノーベル賞が贈られます。苦労してきた二人にとって、まさに栄誉の極みでした。

所が、その後突然の不幸が訪れました。夫ピエールが46歳の若さにして交通事故で命を落とすのです。妻マリーは悲痛にくれます。当然でした。その後、傷が癒えるまでに多くの言葉と時間が必要でしたが、最終的に妻マリーは夫ピエールの大学での職位と実験室の後任を引き継ぎます。研究者として活動を始めたのです。

ケルビン卿との議論

マリー・キューリ―はケルヴィン卿と対峙します。夫を認めてくれていた恩人でもあるのですがケルビン卿はラジウムを元素ではなく化合物であると考えていたのです。マリーは実験事実で論破してケルビン卿の誤りを正しました。そしてカメリーオネスと低温状態のラジウム放射線を研究していこうと話を進めます。

また第一回ソルベー会議で論文を発表していた若き日のアインシュタインを評価して、チューリッヒ大学教職への推薦状を書いています。そうした当時の綺羅星の物理学者が彼女と交流を持ちました。反面、ゴシップ騒動に追われていた部分も有、マリーはマスコミを嫌います。二度目のノーベル賞を受ける際にはスウェーデン側からも授与を見合せる打診がありましたがマリーは毅然と対応して、ゴシップネタとされた関係を「成果をあげた関係」であると語りました。
旦那様の教え子、ランジュバンとの成果でした。

そして、、、語らなければなりません。何より悲しかったのは放射線のもたらした弊害です。研究の過程で放射線被曝が重なりマリーは頭痛・耳鳴り・怪我がなかなか治らないといった障害に悩まされ続けます。そして終には死に至りますが、当時はまだその関連性が明確ではなかったようです。

波乱に満ちたマリー・キューリの人生は幕を閉じましたがその後人々は彼女の残した物を高く評価しています。1995年、夫妻の墓はパリのパンテオンに移されました。フランス史の偉人の一人として今でも祭られています。そして、物理の世界の偉人として世界中で語り継がれています。


関連する物理学者

この分野の物理学者(放射能・原子物理学)

ピエール・キュリー

アンリ・ベクレル

J・J・トムソン

長岡半太郎

アーネスト・ラザフォード

ニールス・ボーア

マックス・プランク

アルベルト・アインシュタイン

|コスパ最強・テックジム|
プログラミング教室の無料カウンセリング
【スポンサーリンク】

以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をします。

nowkouji226@gmail.com

2020/10/14_初稿投稿
2026/07/26_改定投稿

サイトTOP
舞台別のご紹介
時代別(順)のご紹介
フランス関連のご紹介
熱統計関連のご紹介
量子力学関係

力学関係のご紹介

AIでの考察(参考)

【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】

 

(2021年9月時点での対応英訳)

Maria Salomea Skłodowska-Curie
She is often called Mari Curie in French.

She has received two Nobel Prizes in physics and chemistry. Mari Curie’s father was a researcher, but because he was from the aristocratic class, he was forbidden to teach under the rule of imperial Russia. Mari Curie has a hard time before she turns 10. Marie takes care of her relatives and others as her father’s illegal lectures are discovered and she loses her job and residence, her mother died of tuberculosis, and her speculative failure. Become.

I had a time when I fell in love with Mari Curie during such a difficult time. At the time, Mari Curie was a tutor, but she fell in love with a young man named Kajumjesh Zorafski. She spends a happy time together on a summer trip, but in the end it was catastrophic. This seems to have led to Mari Curie going to Paris.

Mari Curie has a hard time even in Paris. She lives in the attic and works hard at her studies while wearing all her clothes she has when it’s cold. Her life in Paris continued until she graduated from college.

Her light shines on such Mari . She had met Pierre Curie through her acquaintance. The Pierre Curie was well received abroad, and in 1893, Sir Kelvin of England visited him. However, Pierre Curie was devoted to his research with a personality that would decline his medal.

The two were attracted to each other and acknowledged each other, and even after her return to Paris, Pierre continued to give her a love story, and finally Mali’s heart moved, and the two had a simple wedding ceremony. I think it was a happy marriage. There was no celebration party, no wedding ring, and although it was a humble format, I rode a bicycle I bought for the celebration and set out on my honeymoon to a remote country in France. Pierre would ride a bicycle, and Mali would ride behind him, talking about a quiet road. They worked hard on cooking, continued their studies while being blessed with her eldest daughter, and studied the radiation found by Becquerel.

Therefore. We conclude that the “amount” of uranium content, rather than parameters such as light and temperature, is essential for radiation phenomena. After that, Mari and Pierre devoted themselves to the purification of the elements. By increasing the purity, we approached the existence of isotopes.

Mr Curie and his wife put everything into the refinement of interest. As a result, her husband Pierre suffers from repeated seizures and his wife Mari suffers from sleepwalking due to memory weakness. Meanwhile, I had a miscarriage of my second child. At that cost, we come up with a new concept. That is, “a specific element changes to another element”
The fact is.

Then, in the process, it emits radiation and causes changes that seemingly contradict the law of conservation of energy, but Rutherford et al. Will announce their research results one after another. Various energies involved in the bonding of elementary particles are involved in the decay process of atomic nuclei. Nowadays, a simple method of understanding with a diagram has been established, but at that time it was a fumbling understanding of the situation.

And her husband Pierre discovers that radiation can be expected to have a medical effect. It was the effect of radium. The effect of “radium hot springs” has long been widely known for trace amounts of radium (although the word “radium” was not explicitly used). Also, as we now know, excessive radium has a negative effect on the body. We began to consider the effects of radiation on patients directly and with equipment. The discovery of Pierre will lead to great human knowledge.

Initially, the purpose of radiation research was to obtain a doctoral degree from his wife Marie, but in the end, the Nobel Prize will be given to three people, Marie Pierre Becquerel. It was a great honor for the two who had a hard time.

However, sudden misfortune came after that. Her husband, Pierre, died in a car accident at the young age of 46. Her wife Marie is in pain. It was natural. After that, it took a lot of words and time for her wounds to heal, but eventually her wife Marie took over her husband Pierre’s college position and laboratory successor. She started her career as a researcher.

Discussion with Sir Kelvin

Marie Curie confronts Sir Kelvin. Sir Kelvin, who was also her benefactor who acknowledged her husband, considered radium to be a compound rather than an element. Marie argued with her experimental facts and corrected Sir Kelvin’s mistakes. She then goes on to study Cameriones and cold radium radiation. She wrote a letter of recommendation for the University of Zurich teaching profession in recognition of her youthful Einstein, who had published her treatise at the first Solvay Conferences. The physicist of Kirasei at that time had an exchange with her.

On the other hand, Marie Curie has been chased by the gossip turmoil, and Marie hates the media. When sMari received her second Nobel Prize, the Swedish side also asked her to forgo her award, but Marie responded resolutely and described her relationship as her gossip story as “successful.” “It’s a relationship,” she said.
It was an achievement with her husband’s student, Langevin.

And … I have to talk. The most sad thing was the harmful effects of radiation. In the process of her research, radiation exposure overlaps and Marie continues to suffer from disabilities such as her headaches, tinnitus and injuries that are difficult to heal. She and she eventually died, but it seems that the relevance was not yet clear at the time.

Her turbulent life with Marie Curie ended, but people have since appreciated her leftovers. In 1995, the tombs of the couple were moved to the Pantheon in Paris. She is still celebrated as one of the great men of French history. And she has been handed down all over the world as she is a great man in the physical world.