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長岡半太郎‗【日本物理学の黎明期に、ボルツマンに学び原子構造の土星モデルを提唱】-7/25改訂

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。 では、ご覧ください。内容を整理し、 主にリンクを見直しました。 現時点での英訳も考えています。 (以下原稿です)

長岡半太郎(人間の記録) 【スポンサーリンク】

【1865年8月19日生まれ ~ 1950年12月11日没】

画像引用:長岡半太郎| 近代日本人の肖像 | 国立国会図書館

長岡半太郎の豊かな人脈

長岡半太郎は、日本で最初に世界水準の原子模型を提唱した 物理学者として知られています。1904年に発表した 「土星型原子模型」は、後のラザフォード模型や ボーア模型へと続く原子物理学の重要な一歩 となりました。その背景には、田中舘愛橘、ボルツマン、 本多光太郎らとの豊かな交流がありました。

この長岡半太郎は大村藩の流れに生まれます。 学生時代は東大で山川 健次郎田中舘愛橘に学び、 助教授としてドイツ留学していた時期に ボルツマンに学びます。それだから実証主義の 考え方も、留学以後は頭の片隅にあった筈です。

どう考えて、どこまで核心に迫っていったか

論じる際には当時の日本における量子論での

現象把握を考えると良いでしょう。そんな事を考えながら、

科学史の観点から論文を読んでみたくなりました。

別の面から調べてみたら話は進む時があると 思えるからです。そして長岡半太郎の子供時代は 学業成績は芳しくなかったようです。

この点は同時期の本多光太郎を思い出します。因みに、 二人に加わえて鈴木梅太郎の三人は 「理化学研究所の三太郎」 と呼ばれていたそうです。 携帯電話のコマーシャルで似たような人達居ましたね。

長岡半太郎の研究業績

土星型原子模型とは何か

土星型原子模型とは、1904年に長岡半太郎が提唱した原子構造のモデルです。 当時はJ・J・トムソンが提案した「ブドウパン模型」が有力視されており、 正電荷が広がった球の中に電子が埋め込まれていると考えられていました。 しかし長岡は、この考え方では原子の安定性や電子の運動を十分に説明できないと考え、 重い中心の周囲を軽い電子が高速で回転するという、新しい原子像を提案しました。 その姿が土星の周囲を取り巻く環に似ていたことから、 「土星型原子模型」と呼ばれるようになりました。

この模型では、原子の中心に大きな質量と正電荷が集中し、その周囲を電子が 公転するという考え方を採用しています。現在の知識から見ると、 中心に「原子核」という言葉はまだ存在していませんでしたが、 長岡は原子の質量が中心付近に集まっているという発想に到達していました。 これは後にラザフォードが金箔散乱実験によって原子核の存在を実証するよりも 数年前のことであり、その先見性は現在でも高く評価されています。

もっとも、この模型は古典力学に基づいていたため限界もありました。 電磁気学によれば、加速度運動をする電子は電磁波を放射して エネルギーを失い、やがて原子核へ落下してしまうはずです。 また、原子スペクトルの離散的な性質も説明できませんでした。 そのため土星型原子模型は最終的な理論にはなりませんでしたが、 「原子内部には中心構造が存在する」という大胆な着想は、 当時の物理学者に大きな刺激を与えました。

その後1911年にはラザフォードが原子核模型を提唱し、 1913年にはニールス・ボーアが電子軌道へ量子条件を導入して ボーア模型を完成させます。さらに20世紀後半には ハイゼンベルクの不確定性原理やシュレーディンガーの波動方程式によって、 電子は古典的な軌道を回る粒子ではなく、確率的に存在する波動関数として 理解されるようになりました。 このように長岡半太郎の土星型原子模型は、 今日の量子力学とは異なる古典的モデルではありますが、 原子構造を具体的な形で世界へ示した最初期の理論の一つであり、 日本から世界へ発信された画期的な原子模型として、 近代原子物理学の発展に大きな足跡を残したのです。

長岡半太郎は田中舘愛橘と地震の論文を纏めたり、

本多光太郎と磁気の論文を纏めたりしていますが、

長岡半太郎の研究業績として大きいのは、

なんと言っても原子モデルでしょうボルツマン仕込みで

ミクロへの探求を進めていたのです。トムソン

ブドウパンの中のブドウのような形で

中心からの距離や軌跡と無関係に

電子の存在を仮定していたのに対し、

長岡半太郎は原子の周りを電子が回転する

土星のようなモデルを提唱しました。

この話は、不確定性関係をふまえて論じてみたいと思います。後に確立された不確定性関係では対象粒子の位置と運動量の関係が論じられます。この二要素が関連して論じられる訳です。

長岡の土星型原子模型は1904年に提唱された古典的な原子像で、土星の環のように陽子(あるいは陽電荷)を中心に電子が回転するイメージを提示しました。しかしこのモデルは古典力学に基づくものです。 のちに確立される量子力学とは理論的枠組みが異なります。ハイゼンベルクの不確定性原理(1927年)は、位置と運動量を同時に厳密に決定できないという量子論固有の性質を示したものであり、「電子の軌道が古典的に確定できない」という点で古典的な軌道像の限界を指摘します。 したがって、長岡の模型は当時の原子イメージ構築に大きな貢献をした一方で、後の量子論が示す粒子の確率的・波動的性質とは根本的に扱い方が異なる、という位置づけで論じるのが適切です。

現代的に考えて、不確定性の考え方の枠組みでは運動量が確定している電子に対して位置は不確定であって当然です。具体的には個体原子の位置は止まっていると見なせそうですが、動き回る電子の位置の確定が難しいのです。「運動量」の観測精度を高めている電子に対して位置情報はどんどんぼやけてきてしまいます。

当時すでに原子という概念そのものは広く受け入れられていましたが、原子内部が どのような構造になっているかは、まだ誰にも分かっていませんでした。

長岡半太郎は、その未知の世界に対して土星の環になぞらえた 原子模型を提案し、電子の運動を理論的に考えるための最初の本格的な 枠組みを与えたのです。そのモデルをもとに 帯電物質である電子の挙動が議論できたのです。

素晴らしいパラダイムシフトでした。

関連する物理学者

◀ 前の人物:J・J・トムソン 電子を発見し、ブドウパン模型を提唱しました。

▶ 次の人物:アーネスト・ラザフォード 長岡半太郎の模型にも着想を得ながら、 原子核模型を提唱しました。

この分野の物理学者(原子物理学・量子論)

ルートヴィヒ・ボルツマン

J・J・トムソン

長岡半太郎

アーネスト・ラザフォード

マックス・プランク

ニールス・ボーア

ヴェルナー・ハイゼンベルク

エルヴィン・シュレーディンガー

〆最後に〆

以上、間違いやご意見があれば 以下アドレスまでお願いします。 改定や返信を致します。

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(2021年9月時点での対応英訳)

Hantaro Nagaoka’s rich personal connections

This Hantaro Nagaoka was born in the flow of the Omura domain as well as Hideki Yukawa. He studied with Kenjiro Yamakawa and Aikitsu Tanaka at the University of Tokyo when he was a student, and with Boltzmann when he was studying abroad in Germany as an assistant professor. So did he discuss the idea of ​​positivism based on his study abroad? When discussing how close he was to the core, it would be good to consider the phenomenon grasp in quantum theory in Japan at that time. With that in mind, I wanted to read the treatise from the perspective of the history of science. If you look at it from another side, it seems that there are times when the story goes on. And it seems that his academic performance was not good when he was a child of Hantaro Nagaoka.

This point reminds me of Kotaro Honda at the same time. By the way, in addition to these two people, Umetaro Suzuki was called Santaro of RIKEN. There were similar people in mobile phone commercials.

Research achievements of Hantaro Nagaoka

Hantaro Nagaoka has compiled papers on earthquakes with Tanakadate Aikitsu and papers on magnetism with Kotaro Honda, but the major research achievement of Hantaro Nagaoka is probably the atomic model. I was pursuing a quest for the micro. Whereas Thomson assumed the existence of electrons in the shape of grapes in grape bread regardless of the distance or trajectory from the center, Hantaro Nagaoka created a Saturn-like model in which electrons rotate around an atom. Advocated.

I would like to discuss this story together with the uncertainty relation. The uncertainty relation established later discusses the relationship between the position of the target particle and the momentum. These two factors are discussed in relation to each other. In the framework of that idea, it is natural that the position is uncertain with respect to the electron whose momentum is fixed. Specifically, it seems that the position of a solid atom is stopped, but it is difficult to determine the position of moving electrons. The position information becomes more and more blurred for the electrons that improve the observation accuracy of “momentum”.

Considering going back in time

and observing electrons in the time of Hantaro Nagaoka, even if we imagine a charged substance that captures the behavior of electrons, we cannot stop the movement of electrons moving around in the charged body. Because an electron is an object that is always moving. That’s why it’s difficult to model at the beginning.

Although it can be said that it is an incomplete model in today’s physics, especially in quantum mechanics, Hantaro Nagaoka’s model can be highly evaluated because it changed the atomic model at that time. I was able to create an initial image of the existence of an atom that I had no knowledge of. Based on that model, we were able to discuss the behavior of electrons, which are charged substances. It was a wonderful paradigm shift.

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W・C・ヴィーン
【黒体放射の研究やウィーンの法則をもたらした物性研究の先駆者】‐7/23改訂

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。
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(以下原稿です)

輻射電磁流体シミュレーション
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W・C・ヴィーン【1864年1月13日生まれ ~ 1928年8月30日没】


Photo: Wilhelm Wien (Public Domain / Wikimedia Commons)

その名を正確に記すと
ヴィルヘルム・カール・ヴェルナー・オットー・フリッツ・フランツ・ヴィーン
:Wilhelm Carl Werner Otto Fritz Franz Wien

熱力学における黒体放射の研究で有名です。ヴィーンは東プロイセンで
農夫の子として生まれ、ベルリン大学でヘルツの元で学位を取ります。
そこでの学位論文は光の回析特性に関する論文でした。

その後ヴィーンはレントゲンの後任としてヴュルツブルク大学で教鞭を
とっています。またヴィーンはドイツ物理学会で会長を努めていて、
前任はゾンマーフェルトでした。

さて、今日までヴィーンの業績・人となりを
調べていて断片的な印象を持ってしまいました。
それだから、ヴィーンの「人柄」が伝えられないのです。
実際の性格もあるのでしょうが、考えてみてたら、
当時の時代背景も大きいと思えてきました。
ヴィーンはドイツで生まれドイツで亡くなっています。
ヴィーンが生きた時代のドイツとヨーロッパは、
第一次世界大戦とその前後の政治的不安定さの渦中にあり、
国際的な科学交流もいまほど自由ではありませんでした。

ゲルマン圏の科学者はしばしば政治的背景の影響を受け、
その中でヴィーンもまた独自の立場や慎重さを持って
国際会議や学会活動に関わっていたと考えられます。

そんな時代にヴィーンはソルベーユ会議に出ていて
国を代表して物理学会に関わっていたでしょうが、
政治絡みの考えは他のメンバーと独自のものとなって
いたと考えられます。時節柄、修業を兼ねて他国へ
留学したり協同研究をしたりする環境とは
大きく異なっていたのでしょう。ドイツ帝国の人ですから。
ヴィーンは現代とは異なった環境に生きていたのです。

ヴィーンの法則とは何か

ヴィーンの法則とは、黒体放射において「物体の温度が高くなるほど、
最も強く放射される電磁波の波長は短くなる」ことを示す法則です。
1893年にヴィルヘルム・ヴィーンによって導かれ、
熱を持つ物体がどのような色や波長の光を放射するのかを
定量的に表す最初の理論の一つとなりました。

例えば、比較的温度の低い物体は赤外線を多く放射しますが、
温度が上昇するにつれて赤色、橙色、黄色、そして青白い光へと
放射の中心が移っていきます。鉄を加熱すると赤く光り始め、
さらに高温になると白熱して見える現象や、太陽より高温の恒星ほど
青白く見える現象も、この法則によって説明することができます。

ヴィーンの法則は黒体放射の性質を見事に表現しましたが、
すべての波長域で完全に一致する理論ではありませんでした。
その後、マックス・プランクはヴィーンの成果を受け継ぎ、
エネルギー量子という新しい概念を導入することで、
黒体放射全体を説明する「プランクの法則」を完成させます。
つまり、ヴィーンの法則は量子論誕生への重要な橋渡しとなった
歴史的な法則であり、20世紀物理学の幕開けを支えた
大きな一歩だったのです。

ヴィーンの業績について考えてみると、

ヴィーンの法則は、黒体放射において
「温度が高くなるほど、最も強く放射される電磁波の波長は短くなる」
ことを示した法則です。
太陽が赤く見えたり青白く見えたりする恒星の違いも、
この法則で理解できます。後にプランクは、この
ヴィーンの法則を含む形で
黒体放射全体を説明する
「プランクの法則」を導き、
量子論誕生への道を切り開きました。

この法則は反応を起こす物質の温度と放出される
電磁波の波長を関連付けますが、
対象物質の内部構造迄、踏み込んだ議論
を垣間見る事は出来ません。現象の
不完全な定式化であって独自の理論です。

考えを進めさせて頂くと、
マッハとボルツマンの考え方の
対立も思い起こされます。

ソルベー会議に出席する中で
ヴィーンもまた従来の考え方を守る立場で、
伝統的な枠組みの中で葛藤していたのでしょうか。

はっきりと確定して言える内容に悩み、
使っている推論の妥当性に対して悩みます。
ミクロの現象に対するモデルが大きく変更される
時代に当事者達は大胆かつ慎重に
判断せねばならなかった筈です。
いつかまた考えてみたいと思っています。

それにつけても、
ヴィーンの法則は我々に新しい知見を
もたらしていて、物質内部での反応に対し
変化を定量的議論の枠組みに乗せて
次なる議論の礎を作っています。
確かな一歩でした。

前後の人物

◀ 前の人物:ハインリヒ・ヘルツ
電磁波の存在を実験で証明し、ヴィーンが学んだベルリン大学の師

▶ 次の人物:マックス・プランク
ヴィーンの法則を発展させ、黒体放射を量子論として完成

この分野の科学者(熱力学・量子論)

グスタフ・キルヒホッフ

ヘルマン・ヘルムホルツ

ルートヴィヒ・ボルツマン

ハインリヒ・ヘルツ

ヴィルヘルム・ヴィーン

マックス・プランク

アルベルト・アインシュタイン

ニールス・ボーア

 

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(2021年9月時点での対応英訳)

The exact name is Wilhelm Carl Werner Otto Fritz Franz Wien.

He is famous for his work on blackbody radiation in thermodynamics. Wien was born in East Prussia as a child of a farmer and holds a degree from Hertz at the University of Berlin. His bachelor’s thesis there was a treatise on the diffractive properties of light. Wien has since taught at the University of Würzburg as a successor to Roentgen. Wien was also chairman of the German Physical Society, and his predecessor was Sommerfeld.

By the way, until today, I have been investigating Veen’s achievements and personality, and I have a fragmentary impression. That is why Veen’s “personality” cannot be conveyed. He may have an actual personality, but when I think about it, I think he has a big historical background at that time. Vein was born in Germany and died in Germany. There was a great war in Europe at that time. Germany, in particular, persecuted Jews, with a number of Jewish physicists operating in an anti-German regime. It was at that time that Veen lived.

At that time, Veen would have been involved in the Physical Society of Japan on behalf of the country at the Solbeille Conference, but it is probable that his political ideas were unique to the other members. Perhaps it was very different from the environment in which students study abroad or collaborate in research in other countries for the purpose of training. He is from the German Empire. Veen lived in a different environment than it is today.

Considering Wien’s achievements

 

, Wien’s law can be thought of as the limit of Planck’s law. This law associates the temperature of the substance that causes the reaction with the wavelength of the emitted electromagnetic wave, but we cannot get a glimpse of the in-depth discussion of the internal structure of the target substance. It is an incomplete formulation of the phenomenon and is an original theory.

As I move forward, I also recall the conflict between Mach and Boltzmann’s ideas. Was Veen also struggling within the traditional framework in attending the Solvay Conferences, in a position to uphold his traditional thinking? He is worried about what he can say clearly and definitely, and about the validity of the reasoning he is using. The parties would have had to make bold and careful decisions in an era when the model for microscopic phenomena changed drastically. I would like to think about it again someday.

Even so, Wien’s law brings us new insights, laying the foundation for the next debate by putting changes in the reaction within matter within the framework of a quantitative debate. It was a solid step.

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マックス・プランク【実証主義に対して実在論を展開してプランク定数を定めました】

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マックス・プランク【1858年4月23日生まれ ~ 1947年10月4日没】

Scherl Bilderdienst:
Berliner Nobelpreisträger. Professor Dr. Max Planck erhielt den Nobelpreis 1918 für Chemie
ADN-ZB
Planck, Max
theoretischer Physiker, geb. 23.4.1858 in Kiel, gest. 4.10.1947 in Göttingen, seit 1885 Professor in Kiel, seit 1889 in Berlin, 1930/37 Präsident der Kaiser-Wilhelm-Gesellschaft zur Förderung der Wissenschaften. Er erhielt 1918 den Nobelpreis.
21015-01

出典:Wikimedia Commons / Public Domain
Max Planck (1933)

その名は正確には


マックス・カール・エルンスト・ルートヴィヒ・プランク
(Max Karl Ernst Ludwig Planck)

【現在の国で言えば】ドイツ生まれのプランクは

前期量子論の主要メンバーの一人です。

ベルリン大学でヘルムホルツと共に教授職を務めた際には、当時の
重鎮だったヘルムホルツと同列に話が出来る事に対してプランクは
大変な名誉を感じていたそうです。ヘルムホルツから評価を受けた時
などはとても嬉しかったとこぼしていたと言われています。因みに、
この時のプランクの教授就任はキルヒホッフの死去に伴うもので、
就任前に大学側はボルツマンヘルツに打診をしていたそうです。
そしてプランクは黒体放射の研究からエネルギーと輻射波の関係を導き、
プランクの法則として理論化します。

学問的方法論の観点から語れば、

エルンスト・マッハの実証主義に対し

プランクは実在論を展開しています。

量子論の扉を開いたプランク

19世紀末の物理学では、加熱した物体が放つ光(黒体放射)
の性質を
理論的に説明できないという大きな問題がありました。
プランクはこの難問に挑む中で、

「エネルギーは連続ではなく最小単位ごとにやり取りされる」

と仮定します。最小単位とは量子です。この考え方によって
黒体放射を正しく説明できることが分かり、

1900年、量子論の出発点となる「プランクの法則」が誕生しました。
この発想は後のアインシュタイン、ボーア、
シュレーディンガー、ハイゼンベルクらによって発展し、
現代量子力学へとつながっていきます。

明記しておきたい点は量子に対しての認識です。

プランク自身は当初、この離散性を
“現象上の数学的仮定”
とみなしており、
量子の物理的実在を
積極的に主張したわけではありません。

エネルギー量子の実在性を明確に示したのは、
1905年に光量子論を発表したアインシュタインでした。

プランクは微視的な物理公式を特徴づける定数である「プランク定数」
を提唱
しています。即ち微視的な知見において、不連続な物理量を
上手に理論に取り入れて
微細な定数を導入して体系化しているのです。
最終的に
プランクが提唱した一連の考え方はとても大事な概念で、量子力学の
根幹をなしています。現代の我々が
後付けで考えてみると、取り得る状態が
不連続だから
行列力学で使えます。そして状態の時間発展が量子力学体系の中で
記述出来て、微視的な
状態間の遷移が「定量的に」表せるのです。
こうした様々な新概念が提唱されたのです。そんな、

プランクらの時代における改革には、まさに
「パラダイムシフト」という言葉が使えます。

思想体系において大きな変換が起きました。
まず、考え方のハードルをクリア出来た事は
物理学にとって大きな一歩であったと言えます。

そして明記しておきたいのはボルツマンのプランクに対する評価です。
秀逸なブログを見つけましたので引用させて頂きます。
https://jmedia.wiki/温度とエネルギーに関するボルツマン定数/Boltzmann_constant より引用】

「(以下引用)
1920年、プランクはノーベル賞受賞講演で次のように書いている。[13]
この定数はしばしばボルツマン定数と呼ばれますが、私の知る限り、
ボルツマン自身はこれを導入したことがありません。これは奇妙な状況で、
ボルツマンが時折発した発言からわかるように、この定数の正確な測定を
実行する可能性について考えたことがなかったという
事実によって説明できます。(ここまで引用)」
ボルツマンの没後にその仕事の意義が深められ、評価された事実は
人々の心に残るストーリーです。明記していなくて御免なさい。
【以上12行、2025年7月の改定で追記しました】

そしてプランクは戦争の時代を生きたので幾多の悲劇を味わいました。

人道的見地から、アインシュタインへのユダヤ人迫害に対して当時の
独裁者である
ヒットラーに直接意見を述べています。そして、プランクの長男は
第一次世界大戦で戦死しています。
プランクの二男はヒットラーを暗殺に加担したので
処刑されてしまいました。加えてプランク自身も国賊の親として批難を受けていました。
更には、、
他にプランクには二人の娘さんが居ましたが、共に孫娘を産んだ後に亡くなっています。

プランクが1900年に提唱した量子仮説は、当時は黒体放射を説明するための
一つの仮定に過ぎませんでした。しかし、その発想は20世紀物理学を根本から変え、
半導体、レーザー、MRI、量子コンピューターなど、現代科学技術の礎となっています。
プランク定数は今日でも物理学の基本定数として世界中の研究者に用いられ、
その名を冠したマックス・プランク研究所群は、21世紀の最先端研究を牽引し続けています。


関連する物理学者

この分野の物理学者(量子論・現代物理学)

グスタフ・キルヒホッフ

ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ

ルートヴィッヒ・ボルツマン

マックス・プランク

アルベルト・アインシュタイン

ニールス・ボーア

マックス・ボルン

エルヴィン・シュレーディンガー

ヴェルナー・ハイゼンベルク

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To be exact, its name is
Max Karl Ernst Ludwig Planck.

[Speaking in the current country] German-born Planck is one of the main members of the early quantum theory.

When he was a professor with Helmholtz at the University of Berlin, Planck was very honored to be able to talk with Helmholtz, who was a major figure at the time. He is said to have complained that he was very happy when he was evaluated by Helmholtz. By the way, Planck’s appointment as a professor at this time was due to Kirchhoff’s death, and it seems that the university side had consulted with Boltzmann and Hertz before his appointment. Planck then derives the relationship between energy and radiant waves from the study of blackbody radiation and theorizes it as Planck’s law.

From an academic methodology perspective

, Planck develops realism against Ernst Mach’s positivism. Planck advocates the “Planck’s constant,” which is a constant that characterizes microscopic physical formulas. That is, in microscopic knowledge, he skillfully incorporates discontinuous physical quantities into theory and introduces minute constants to systematize them.

The series of ideas proposed by Planck is a very important concept and forms the basis of quantum mechanics. When we think about it later, it can be used in matrix mechanics because the possible states are discontinuous. And the time evolution of states can be described in the quantum mechanical system, and the transition between microscopic states can be expressed “quantitatively”.

You can use the term paradigm shift. A major transformation has occurred in the ideological system. First of all, it can be said that clearing the hurdle of thinking was a big step for physics.

And since Planck lived in the era of war

 

, he experienced many tragedy. From his humanitarian point of view, he speaks directly to Hitler, the dictator of the time, about the persecution of Jews against Einstein and others. And Planck’s eldest son was killed in action in World War I. Planck’s second son helped Hitler assassinate and he was executed. In addition, Planck himself was criticized as a parent of national bandits. In addition, Planck had two other daughters, both of whom died after giving birth to a granddaughter.

In this way, Planck’s life has changed, but his achievements have never disappeared. Planck’s constant, which retains Planck’s name, is still used in discussions around the world, and his institute continues to do cutting-edge research into the 21st century.

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ディーゼル
【Rudolf Diesel、1858/3/18 – 1913/9/29】‐7/19改訂

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HONDA製エンジン
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Portrait of Rudolf Diesel(Public Domain:Wikipedia)

パリ生まれのルドルフ・ディーゼル
― 近代エンジン史を変えた異才の発明家

ディーゼルはフランスの製本業を営んでいた父のもとに
パリで生まれます。1870年の普仏戦争勃発に伴い、
多くのドイツ人はフランスから退去させられました。
ディーゼル一家もロンドンに移住します。

12歳の時にルドルフは、ドイツ語の教育を
受ける為にアウクスブルクの母方の叔父と叔母の下へ
送られました。1873年にトップの成績で学校を卒業し、
工業学校を経てミュンヘン工科大学へ進みます。

そもそも、私は
太田氏の小説「ほかほかのパン」で
ディーゼルの名前を思い出しました。

ルドルフ・ディーゼルに対するイメージは
ヤンマー社の彦根研究所で初期型のエンジン
を見た時の思い出しかありませんでした。

調べてみると、実の所は色々な足跡を残しています。
ルドルフ・ディーゼルは、ディーゼルエンジン
の発明者として知られていますが、彼の足跡は
その発明にとどまりません。以下に、
彼の主な業績や足跡を紹介します。

ディーゼルエンジンの発明:

ディーゼルエンジンは何が画期的だったのか

19世紀後半の工場では蒸気機関が主役でした。しかし蒸気機関は、
一度ボイラーで水を沸騰させてから動力へ変換するため、
熱エネルギーの多くが失われ、決して効率の良い機械ではありませんでした。

ルドルフ・ディーゼルは「もっと熱を無駄なく仕事へ変えられないか」
と考えます。その答えが、高温・高圧まで圧縮した空気へ燃料を噴射し、
自然着火させる圧縮着火方式でした。
点火プラグを必要とせず、高い熱効率を実現できるこの方式は、
蒸気機関の時代から内燃機関の時代への大きな転換点となりました。

1892年に特許を取得し、その後の改良を経て実用化された
ディーゼルエンジンは、船舶・鉄道・大型トラック・発電設備など、
大きな力を必要とする分野へ急速に普及しました。
現代でも物流や発電を支える重要な原動機として活躍しています。

 

技術革新の推進: ディーゼルは、燃料の消費を最小限に抑えつつエネルギーを効率的に
変換する方法を探求しました。彼の発明は産業革命以降の技術革新に大きな影響を与えました。

ディーゼルエンジンとは何か

ディーゼルエンジンとは、燃料を高温・高圧に圧縮した空気へ噴射し、自然着火させて
動力を得る内燃機関
です。一般的なガソリンエンジンが点火プラグで燃料に火をつける
のに対し、ディーゼルエンジンは圧縮によって発生した熱を利用して燃料を燃焼させます。
この仕組みは「圧縮着火方式」と呼ばれ、1892年にルドルフ・ディーゼルが特許を取得し、
その後の改良によって実用化されました。

ディーゼルエンジン最大の特徴は、熱エネルギーを効率よく機械的な仕事へ変換
できる点にあります。圧縮比を高く設定できるため熱効率が高く、同じ燃料から
より多くの動力を取り出せます。そのため燃料消費量を抑えられ、大きな力を
長時間発揮する用途に適しています。大型トラックやバス、船舶、建設機械、
鉄道車両、非常用発電機などで現在でも広く利用されているのは、
この優れた燃費性能と耐久性によるものです。

また、ディーゼルエンジンの登場は、蒸気機関が主流だった産業社会に大きな転換
をもたらしました。ボイラーで水を沸かす必要がある蒸気機関に比べ、燃料を直接
シリンダー内で燃焼させる内燃機関は設備を小型化でき、効率も飛躍的に向上しました。
その結果、輸送機械や産業機械の性能が大きく向上し、20世紀の物流や産業発展を支える
重要な原動力となったのです。近年では排出ガス浄化技術やバイオディーゼル燃料
の研究も進み、環境性能を高めながら、社会インフラを支えるエンジンとして
進化を続けています。

 

産業界への貢献:

ルドルフ・ディーゼルは、彼の発明を実用化するために努力し、産業界にその技術を普及させました。これにより、機械化された生産プロセスが可能となり、産業の発展に寄与しました。

教育活動:

ディーゼルは後進の育成にも力を注ぎました。
ディーゼルは正式な教育機関で教える立場ではなかったものの、
自身の研究や著作を通じ、効率的なエネルギー利用の考え方を広めました。
特に著書『合理的な熱機関理論』は多くの技術者に影響を与えました。。

社会的影響:

ルドルフ・ディーゼルの発明は、エネルギーの効率的な利用によって社会に大きな影響を与えました。それにより、交通手段や産業活動の発展が促進され、経済の成長に寄与しました。

遺産と認識:

ディーゼルエンジンの普及と彼の業績に対する認識は、
世界中で広く認識されています。彼の名前は、
エンジンや自動車産業、エネルギー分野など、
多くの分野で永遠に記憶されるでしょう。
私が彦根で見た遺産は一端に過ぎません。

これらは、ルドルフ・ディーゼルが残した
主な足跡の一部です。
彼の業績は、
現代の産業社会においても
重要な役割を果たしています。

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熱力学・絶対温度・エネルギー保存へ繋がります。

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蒸気から電動機の時代へという流れになります。

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(2024/4/12時点での対応英訳)

Diesel born in Paris

Diesel was born to his father who was a bookbinder in France.
Born in Paris. With the outbreak of the Franco-Prussian War in 1870,
Many Germans were expelled from France.
The Diesel family also moves to London.

At the age of 12 Rudolf received a German education.
I went to my maternal uncle and aunt in Augsburg to receive the test.
Sent. He graduated from school at the top of his class in 1873,
After attending technical school, he entered the Technical University of Munich.
In the first place, I
In Mr. Ota’s novel “Hot other bread”
I remembered the name Diesel.

What is your impression of Rudolf Diesel?
Early engine at Yanmar’s Hikone Research Institute
All I could remember was when I saw it.

If you look into it, you’ll find that it actually leaves a lot of footprints.
Rudolf Diesel is a diesel engine
Although he is known as the inventor of
It’s not just his invention. less than,
We will introduce his main achievements and footprints.

Invention of the diesel engine:

Rudolf Diesel patented the first diesel engine in 1892. This is a type of internal combustion engine that has higher efficiency and consumes less fuel than a steam engine. Diesel engines are used in a wide range of industries, including automobiles, ships, and power plants.

Driving innovation: Diesel explored ways to efficiently convert energy while minimizing fuel consumption. His inventions had a major impact on technological innovation after the Industrial Revolution.

Contribution to industry:

Rudolf Diesel worked hard to put his invention into practice and popularized it in industry. This enabled mechanized production processes and contributed to the development of industry.

Educational activities:

Diesel also focused on training the next generation. He was passionate about engineering education and mentored many students and engineers.

Social impact:

Rudolf Diesel’s invention had a huge impact on society through the efficient use of energy. This facilitated the development of transportation and industrial activities, contributing to economic growth.

Heritage and recognition:

The spread of diesel engines and recognition of his achievements were
Widely recognized all over the world. his name is,
engines, automobile industry, energy field, etc.
It will be forever remembered in many fields.
The heritage that I saw in Hikone is just one part of it.

These were left behind by Rudolf Diesel
Some of the main footprints. His achievements are
Even in modern industrial society
plays an important role.

 

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ハインリヒ・R・ヘルツ
【電磁現象の実用化の為に送受信の装置を実現した先駆者】-7/18改訂

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。
では、ご覧ください。内容を整理し、
主にリンクを見直しました。
現時点での英訳も考えています。
(以下原稿です)

電磁気学入門
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ハインリヒ・R・ヘルツ【1857年2月22日生まれ ~ 1894年1月1日没】


Heinrich Hertz portrait
Public Domain (Wikimedia Commons)

独逸のヘルツ

ハインリヒ・R・ヘルツのRは
ルドルフ(Rudolf )のRです。

もともと、ヘルツは気象学に関心を持っていました。
1878年ミュンヘン工科大学では指導教官が気象学者のベゾル
でしたが、そこではさしたる業績を残していないようです。
その後の師ヘルムホルツのもとで
液体の蒸発の論文や新型の温度計に関する
論文をまとめた程度だと言われてす。

エーテルに対する理解の変遷

所で、19世紀終わり頃迄は電磁波の伝達物質としてエーテルという物質
想定していました。確かに
波を伝える伝達物質、別の言葉を使うと
媒質といった物があり波は伝わります。

水という媒質があり表面で波紋が伝わり、空気という媒質があって音が伝わる訳です。
1881年のマイケルソンの実験や、1887年のマイケルソン=モーリー実験では
期待された「エーテル風」が検出されませんでした。これらの結果を受けて、
ヘルツはマクスウェル方程式を改めて考察し、電磁波が真空中を伝わることを
裏付ける実験へと進んでいきました。
ヘルツはマクスウェルの方程式を再度
考え直します。
電磁波の存在を煎じ詰めて実用的なアンテナを考案しました。

現代の整理された考え方によると、電磁波は真空中であっても伝わります。例えば
太陽光は大気圏に届く前に
真空中を伝わってくるのです。そこにはエーテルは
存在しません。
エーテルの仮定は観測にかからないばかりか、
地球の自転運動・公転運動に対して説明がつかないのです。

ヘルツ最大の功績

ヘルツ最大の功績は、ジェームズ・クラーク・マクスウェルが
理論的に予言していた「
電磁波」の存在を、世界で初めて
実験によって証明したことです。

電気と磁気は時間的に変化すると互いを生み出しながら
空間を伝わる――マクスウェルは数学によってそう導きました。
しかし当時は実際に電磁波を見た人はいませんでした。

ヘルツは火花放電を利用した送信器と、
金属リング状の受信器を製作し、
離れた場所へ電磁波が伝わることを実験で確認しました。

この成果によって、電磁波は単なる理論ではなく
現実に存在する自然現象であることが証明され、
後の無線通信やラジオ、テレビ、携帯電話へとつながる
歴史的な第一歩となったのです。

電磁波とは何か

電磁波とは、電場と磁場が互いに影響し合いながら空間を伝わっていく
波のことです。
光も電波も赤外線も紫外線もX線も、すべて同じ
電磁波の仲間であり、
波長や周波数が異なるだけです。

ヘルツが実験によって存在を証明した電磁波は、
現在ではラジオ放送、テレビ放送、Wi-Fi、Bluetooth、
携帯電話、GPS、
人工衛星との通信など、
社会インフラのほぼすべてを支えています。
現代人が毎日利用している無線通信は、
ヘルツの実験の延長線上にあると言っても
決して大げさではありません。

ヘルツのその他の業績 

何よりも、ヘルツが大事な「時代を担っていた一人」である
という点を強調します。その時代には実験が繰り返され、
電磁気学の分野で光と電磁波をつなぐ

理論がもやもや生み出されていたのです。
それを支える手段が模索されていたのです。

ヘルツは電磁波を発信する
装置を開発して電磁波の送受信
の実験を繰り返しました。
マクスウェルの理論を現実の生活の中の仕組みと
関連させることを考えてみると、
電波を発信する仕組みと受信する仕組みが必要です。

例えば、磁場中で帯電体が振動運動をした時に
電場と磁場が生成されて、光速度に近い
伝番をする筈です。それを観測にかけるには
「出来るだけ簡単で解析しやすい送信部と受信部」
を設計してシステムの構築をしなければいけません。
ヘルツはそうしたシステムを構築したと言えるのです。
その過程では例えば、

送受信間にガラスを置くと
電磁波が通じ難くなると確認しました。即ち、
電磁波というものがあって、それを使うと離れた
空間の間を送受信出来て、電磁波が透過しやすいもの
とし難いものがあると示したのです。大きな一歩でした。

そして、実験で人々にガウスマクスウェル
の理論を現実の世界とより近づけました。
ヘルツは周波数の単位に名を残しています。

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Hertz of Germany

Heinrich R. Hertz’s R is Rudolf’s R.

Originally, Hertz was interested in meteorology. At the Technische Universität München in 1878, the instructor was the meteorologist Bezor, but he does not seem to have made much of a mark there. It is said that he only compiled a treatise on liquid evaporation and a new thermometer under his teacher Helmholtz after him.

At the transition of understanding of ether

Until the end of the 19th century,People had assumed The Existance,Ether  as a transmitter of electromagnetic waves. surely

There is a transmitter that transmits waves, or in other words, a medium, and waves are transmitted. There is a medium called water, and ripples are transmitted on the surface, and there is a medium called air, and sound is transmitted.

Hertz reconsiders Maxwell’s equations when Michaelson denies ether in an experiment in 1881. He devised a practical antenna by decocting the existence of electromagnetic waves.

According to modern organized thinking, electromagnetic waves are transmitted even in a vacuum. For example, sunlight travels through a vacuum before it reaches the atmosphere. There is no ether there. Not only is the assumption of ether unobservable, but it cannot explain the rotation and revolution of the earth.

Other achievements of Hertz

Separately, Hertz developed a device for transmitting electromagnetic waves and repeated experiments to send and receive electromagnetic waves.
Considering the relationship between Maxwell’s theory and the mechanism in real life, we need a mechanism to transmit and a mechanism to receive radio waves. For example, when a charged body vibrates in a magnetic field, an electric field and a magnetic field are generated, and the number should be close to the light velocity. In order to observe it, it is necessary to design a “transmitter and receiver that are as simple and easy to analyze as possible” and build a system.

It can be said that Hertz built such a system. In the process, for example, I confirmed that placing glass between transmission and reception makes it difficult for electromagnetic waves to pass through. In other words, he showed that there are electromagnetic waves that can be used to send and receive between distant spaces, making it easy for electromagnetic waves to pass through and difficult for them to pass through. It was a big step.

And in his experiments he brought Gauss Maxwell’s theory closer to the real world. Hertz has left its name in the unit of frequency.

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100年を迎える東京大学地震研究所(ERI)が築いた地震学とこれからのAI時代

東大

本記事は11/9付の日本経済新聞を起点に記載しています。東京大学地震研究所(ERI)は2025年11月13日で設立から100年を迎えます。1925年の設立以来、関東大震災を教訓に地震予知・観測体制を築き、日本が世界の地震研究を牽引してきました。英国人ジョン・ミルン(JohnMilne)による水平振子式地震計の開発、大森房吉・丸山卓男・津村健四郎らによる地震モーメントやマグニチュード理論の確立など、その歩みは日本科学史の一大軌跡といえます。本稿では、①地震研究100年の歴史、②技術革新、③AI時代の展望という三つの章で構成し、制度と技術の系譜をたどります。


第1章:100年の歴史に刻まれた制度と人

関東大震災(1923年9月1日)を契機に、地震観測と耐震研究を体系化する必要性が高まり、1925年に東京大学地震研究所が誕生しました。以来、ERIは観測網の整備、地震計の改良、断層運動理論の発展を通じて、国際的研究機関としての地位を築きました。

1.1 設立背景と制度整備

震災後、国の学術政策と建築基準が一体化し、地震学の社会的使命が明確化。地震予知研究、気象庁・大学・国立研究所の分業体制が整いました。

1.2 ジョン・ミルン来日から地震学基盤の構築

1876年、英国から招聘されたジョン・ミルンが来日し、世界初の近代的地震観測体制を整備。1880年の横浜地震観測を皮切りに、地震波形記録・震央推定などの方法論を導入しました。

1.3 大森房吉・丸山卓男・津村健四郎らの技術革新

大森房吉(1868–1923)は「地震学の父」と呼ばれ、震源距離と時間差の関係式を導出。丸山卓男(東大地震研)は地震モーメントの理論化で国際的評価を確立。津村健四郎は地震継続時間を基にマグニチュード推定式を改良しました。

【地震研究の主要年表】

出来事関連人物・機関
1876年ジョン・ミルン来日、地震観測開始東京帝国大学
1880年日本地震学会創設ミルン・大森房吉
1923年関東大震災内務省震災予防調査会
1925年東京大学地震研究所設立初代所長 今村明恒
1960年代地震モーメント理論確立丸山卓男
2020年代AI・機械学習を導入した観測解析ERI・JAMSTEC

第2章:技術革新と地震学の転機

地震学の進化は「観測技術」「理論」「応用設計」という三段階で展開されてきました。ジョン・ミルンが水平振子式地震計を開発し、丸山卓男が地震モーメントを定義。こうした発展は、1980年代以降の地震カタログ整備や防災工学に波及しています。

2.1 観測技術の進化 — 地震計から海底観測網へ

地震計は機械式からデジタル式、さらに海底光ファイバー式へ。現在では海洋研究開発機構(JAMSTEC)が展開するDONET・S-netが、リアルタイム地震波を高精度で解析しています。

2.2 理論モデルの深化 — 地震モーメント・マグニチュードの普及

地震の規模を「モーメント」で表す考え方は、1960年代に丸山卓男氏が提唱。その後、カナダのカナメ研究者ハスキンスらとともに国際標準となり、現在のMw表記へと進化しました。

2.3 耐震・社会実装 — 地震防災・建築基準の変化

1981年の建築基準法改正により、耐震設計は「損傷制御型」に転換。ERIの研究成果が防災都市計画、ライフライン設計、自治体のハザード評価などに組み込まれました。


第3章:AI時代の地震研究と未来展望

AIとビッグデータの時代、地震研究も転換期にあります。観測データの自動解析、異常波形の自動検出、AIによる震源推定モデルなど、研究領域が広がっています。ERIでは近年、地震波動場の機械学習解析を用いて、スロー地震の検出精度を高めています。

3.1 AI/機械学習の導入例と研究成果

ERI・東北大・防災科研などが共同で開発した「AI地震波分類システム」は、地震波形を0.1秒単位で自動判別。発生直後の緊急通報制度(EEW)に応用されています。

3.2 国際共同研究・データ共有の潮流

米国USGSや欧州EPOSなどと連携し、データ形式を共通化。AIモデルによる世界規模の震源パターン分析が進んでいます。

3.3 課題と未来像 — AGI時代の地震科学

完全自律型AI(AGI)による地震予測はまだ理論段階ですが、モデル間比較(AGIモデル1号 vs 2号)を通じてリスク推定精度が向上する可能性があります。

【用語解説】

  • 地震モーメント:断層のずれ量と面積を用いて地震の規模を表す物理量。
  • AI地震波解析:機械学習を使い、ノイズと実地震波を自動で判別する技術。
  • DONET/S-net:日本が展開する海底地震観測網。リアルタイム観測を可能にする。

まとめ

東京大学地震研究所100年の歴史は、単なる学術機関の記念ではなく、地震研究が国家・社会・技術の全体を変えた軌跡そのものです。AI時代のいま、観測・理論・防災が再統合されようとしています。100年前に始まった「人命を守る科学」は、これからの100年でも進化を止めないでしょう。

参考文献:
・日本経済新聞(2024年11月9日朝刊)
・東京大学地震研究所公式サイト(ERI
・Nature / Springer / ScienceDirect 各誌掲載論文(Maruyama, T., Tsunemura, K., Kato, S., 2019–2024)

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F. J. Dysonの死 【2020-03-02‗95歳_ノーベル賞 】

(以下全て転載内容)

2020-03-02 ・

昨日の新聞でF. J. Dysonが亡くなったのを知った。95歳だったという。

朝永、Schwinger, Feynmanの量子電磁気学の理論をまとめた理論をつくった人として知られている。

同じ年代の物理学者C. N. YangはDysonが上の3人と一緒にノーベル賞をもらえなかったことについて上記3人にだけノーベル賞を授与した委員会の批判的であった。

同じ業績に対して3人までの受賞者とするノーベル賞委員会の不文律があるのをC.N. Yangが知らないはずはない。だが、そういう不文律を破ることも、また意味があるくらい量子電磁気学のくりこみ理論に対するDysonの寄与は大きかったとYangは評価していたのだろうと思う。

Yangももう高齢だと思うが、彼はまだ生存しているのではないかと思うが、定かではない。

Dysonと聞くと、私の妻などはどうも自動で掃除する電気掃除機のようだねと言っていた。最近ではDysonという名前の自動掃除機が販売されている。

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テラー 【2019-08-09‗オッペンハイマー_ダイソン 】

(以下全て転載内容)

2019-08-09 ・テラーとは水爆をつくったエドワード・テラーのことである。

NHKの昨夜の「フランケンシュタインの誘惑」ではオッペンハイマーを権力の座から追い落して、自分が表にでて、水爆をつくったのはよかったが、オッペンハイマーを追い落とす査問委員会の証言で彼に不利な証言をしたために、その後の科学者社会とのつきあいがなくなって、晩年はとてもさびしかったのではないかとの話であった。

ピアノを弾くのが好きであったから、晩年はピアノを弾いて過ごしたという。それでもあからさまにつきあいはなかったかもしれないが、ノーベル賞学者のヤンはテラーの支持でシカゴ大学で学位をとったので、少しはテラーに同情的であった。

量子電気力学の業績で知られる、ダイソンもそれほどテラーを嫌ってはいなかったらしい。でも昔からの友だちはみんなテラーから離れてしまったことはたぶん間違いがない。

テラーは山登りも好きであった。若いときに、これはたぶんハンガリーにいたときの話だが、電車にはねられて脚を折ったとか聞いている。だから脚がわるかったはずだ。

なかなか直観的な理解をする人だとも聴いている。テラーの群論の理解が直観的であったとかヤンの書いた文章で読んだことがある。

ただ権力的なところがあり、ちょっと科学者仲間からは人生の途中から大いに敬遠された。

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エディトンとチャンドラセカール 【2019-06-21 _星の一生_プリンキピア】

(以下全て転載内容)

2019-06-21 ・エディトンとチャンドラセカールとの奇しき因縁を昨夜のNHKのテレビの放送ではじめて知った。エディトンは1916年だったかに観測隊を指揮してアフリカに出かけて、日食のときの星の位置を観測して、それを普通のときの星の位置ときに見える位置と比較して、一般相対性理論の重力による光の曲り方が相対論の予言と一致することを示した。

一般相対性理論では3つの実験的検証があるが、そのうちの一つである。ちなみに一般相対論の残り二つの実験的検証は「水星の近日点の移動」と「光のスペクトルの赤方偏移」である。

それはさておき、星の一生を研究したエディントンは星の最後は白色矮星になることであると結論した。ところがチャンドラセカールはもし星が太陽の30倍以上の質量をもつと星の最後は白色矮星にはならず、ブラックホールになると予言した。

エディントンはこの仮説を認めず、チャンドラをイギリスから追い払った。チャンドラは優秀な人であったから、アメリカに行き、そこでブラックホールとは関係のない,星の研究をしていたが、水爆実験か何かの折に出てくる光か何かの電磁波のスぺクトルが、チャンドラの予言したブラックホールの予想した電磁波のスペクトルに類似しているとの手紙を若い学者から受け取り、約40年前の自分の理論が正しかったことを知るようになった。

シカゴの郊外の天文台に勤めていたチャンドラはシカゴ大学の大学院の講義にでかけてきていたが、彼の教えていたクラスからはヤンやリーとかノーベル賞受賞者が続出していたという。その後、彼自身もノーベル賞を受賞した。

何年間かあるテーマについてチャンドラは研究するが、そのおしまいに、その分野の研究についてのテクストを書いて、その研究を終わりにするという習慣があった。

彼の人生の最後の研究はニュートンのプリンキピアであった。それはプリンキピアの命題を読んで、その証明は読まずに、自分でその命題を証明して、そのあとでプリンキピアの証明を読むという方法である。その本は読んだことはないが、日本語での訳本が講談社から、中村誠太郎訳で出ている。

この訳本は定価が1万円以上するもので、1冊公費で購入して大学の在職時代にはもっていたが、退職時に図書館に返却したので、現在は手元にはもっていない。暇ができたら、大学の図書館から借り出して読んでみたいと思っているが、そんな機会が私に来るかどうかはわからない。

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Gemさんの部屋【2025/11/09‗改訂投稿】

本稿では別ブログでの記録を残していきます。

きっかけはGooブログの終了です。

Gemさんは20世紀初頭から20年程の長きにわたり
様々な情報を展開しててくれて、私も毎日楽しみにしてました。
毎日、昔馴染みのご近所さんに挨拶をする感覚で覗いていたのです。

毎日毎日、楽しみにしていたブログを少しでも長く残そうと
本稿を起こしています。以下、週末ごとに補記する予定なので
皆さんも呑気にご覧下さい。

実際には、ご本人に了承を頂けましたので
クローラーを潜り込ませて出来るだけ情報が残しています。
7000記事以上と情報が膨大なので展開は後程考察します。
ワードプレス内にPython等でキーワード検索機能をつけ
キーワードごとに抽出が出来たらよいと考えています。

先ずは抜粋をご覧下さい。

ガロアのノートにあった詩 【2015-11-18 投稿分_岩田義一_偉大な数学者】
昨夜の「数学白熱教室」 【2015-11-28投稿分_谷山氏_フェルマーの定理】

数学・物理通信6-3を発行 【2016-03-19投稿分_周期ポテンシャル_井戸型ポテンシャル】
伏見康治コレクション3 【2016-05-24投稿分‗伏見廉治_数学セミナー】
エ―レンフェストの定理 【2016-06-21投稿分_期待値_波束_古典力学】
ブログは消耗品である 【2016-12-24投稿分‗広重_共鳴粒子_坂田モデル】

遠山啓さんの心配 【2017-04-26投稿分‗水道方式_武谷三男】
cleverな人よりもwiseな人を 【2017-04-28投稿分 ‗湯川秀樹_ボルン】
complementary 【2017-12-07投稿分_ボーア_ソリトン_広田良吾】

四元数の流行を下火にした人 【2018-04-10投稿分 ‗ハミルトン‗ギッブス_へヴィーサイド】
『物理学天才列伝』下 【2018-08-20投稿分 プリンキピア_ブラックホール】
Diracの寡黙とGell-Manのライターズ・ブロック 【2018-08-27投稿分‗Dirac_gell-man】

エディトンとチャンドラセカール 【2019-06-21 _星の一生_プリンキピア】
テラー 【2019-08-09‗オッペンハイマー_ダイソン 】

F. J. Dysonの死 【2020-03-02‗95歳_ノーベル賞 】
C. N. Yangの方は 【2020-03-03‗97歳_清華大学】
小説『カード師』 【2020-06-09‗二重スリット_外村彰】
コンプトン効果を連立方程式の問題にしたら 【2020-12-02_シルビィアの量子力学】

花粉症 【2021-02-22 ‗Heisenberg_Bornに休暇】
大栗博司さんの本を手に入れた 【2021-07-13_中西襄先生 】
益川さんが亡くなった 【2021-07-30‗名古屋大学_81歳】
学士院賞をもらった後で 【2021-08-02‗topクォーク_CP破れ 】

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