2026年9月21日2026年9月11日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す伏見康治【原子力三原則|対象の美・折り紙を考察した物理学者|国会議員】9/21改訂 こんにちはコウジです。半年ごとの記事見直しです。 では、ご覧ください。内容を整理し、 主にリンクを見直しました。 現時点での英訳も考えています。 (以下原稿です)紋様の科学【伏見康治著】 【スポンサーリンク】【1909年6月29日 ~ 2008年5月8日】 【画像出典:Koji Fushimi Wikimedia Commons】伏見先生の多彩な活躍伏見康治の歩みを日本の物理学史の中で見ると、 仁科芳雄、朝永振一郎、湯川秀樹らから続く、 日本の物理学研究の形成過程ともつながっています。日本の物理学者を生年順に追う場合は、 日本人物理学者のまとめ もご覧ください。 伏見康治(こうじ)は愛知県名古屋市に生まれます。 そして東京で育ちます。 名古屋に生まれ東京で育った伏見先生の経歴は、一見すると特別な出自を 強調するものではありません。しかし、その後の歩みは、日本の科学史 そのものと重なっていきます。伏見先生は20世紀の生まれの人ですから、 それはそれで納得です。そして、その後の動きが活発です。伏見康治の多彩な活躍伏見康治(ふしみ・こうじ)は1909年、愛知県名古屋市に生まれ、 1933年に東京帝国大学理学部物理学科を卒業しました。卒業後は東京帝国大学の助手を経て大阪帝国大学へ移り、1940年には教授となります。 大阪では原子核物理学や統計物理学を研究するとともに、戦後の日本の 物理学研究を支える組織づくりにも深く関わりました。1956年には大阪大学理学部附属原子核実験所長、1959年には大阪大学理学部長 を務め、1961年から1973年までは名古屋大学プラズマ研究所長を務めました。 大阪大学と名古屋大学の名誉教授となったのも、こうした長い研究・教育活動の延長にあります。さらに伏見先生の活動は大学の中だけにとどまりません。1977年から1982年までは 日本学術会議会長を務め、1983年から1989年までは参議院議員として科学政策にも関わりました。こうして見ると、伏見康治は単に統計物理学で業績を残した理論物理学者 というだけではありません。研究、教育、研究機関の運営、科学政策、そして科学の社会への 伝達までを横断した人物として捉えるほうが、その多彩な活動を理解しやすいでしょう。 以下では国会議員も勤めた「伏見先生」について語っていきたいと思います。 「先生お願いします!」って感じです。一貫した科学者サイドの見識科学者として伏見先生は 「原子力の平和利用」を推進し、大きな役割を果たしました。 日本における原子力の研究がとても大事であると認識しています。 被爆国である日本独自の視点から平和利用を考えていました。 具体的に「原子力三原則」でまとめています。伏見康治を語るうえで重要なのが、茅誠司とともに提唱した 「自主、民主、公開」の原子力三原則です。これは原子力研究を日本の自主性のもとで進め、民主的に扱い、その内容を 公開するという考え方でした。1954年に日本学術会議が決定した 「原子力の三原則」は、その後の原子力基本法にも取り入れられています。戦後の日本で原子力研究をどう進めるのかという問題は、単なる科学技術上の 問題ではありませんでした。広島・長崎への原爆投下を経験した日本で、 科学者が原子力にどう向き合うのかという社会的・倫理的問題でもありました。対称の美物理学を研究・体感する中で伏見先生は 「対称の美」に対する美学を持っていました。 特に、その数式的な表現と万人受けする印象に着目しています。例えば自分の子供が幾何学模様に対して関心を抱いたら、 そこを掘り下げて「どこまで習ったの?」とか 「何で学校で教えないんだろう?」とか色々な視点で 議論していったのです。1960年代には 「紋様の科学」としてまとめています。水素エネルギーの推進朝日新聞が水素エネルギー開発の全面的に バックアップを表明したタイミングで、 伏見先生は原子力開発に関わっていきます。1952年に朝日新聞の木村部長(科学部の部長)から 声をかけられたことがきっかけです。伏見先生は2月に朝日講堂で開催された公開講演会で講師として 「核融合の現状と問題点」と題して講演しました。その時の御縁と元来、伏見先生が 水素エネルギーを支持していたこともあり 次世代燃料として水素を勧めておられました。 クリーンなエネルギーだと考えていたのです。科学と社会をつなぐ役割伏見先生の特徴は、純粋な理論物理学者でありながら、科学を研究室の中に閉じ込めなかった点にあります。20世紀中盤、日本では科学技術が国家政策と密接に結びつき始めました。戦後復興、高度経済成長、そして原子力利用という流れの中で、「科学者は社会に対して何を語るべきか」という問いが現実の問題として現れます。伏見先生は、この問いに対して明確に科学は公開され、民主的に議論されなければならないという立場を取りました。原子力三原則における「公開」という理念は、単なる情報公開ではなく、科学技術を専門家だけのものにしない市民が理解できる形で説明するという思想でもありました。この姿勢は、今日の科学コミュニケーションやリスクガバナンスの考え方に先行するものだったと言えるでしょう。科学者が政策に関与することの難しさと責任を、伏見先生は実践を通じて示したのです。関連する物理学者◀ 前の人物:ネイサン・ローゼン▶ 次の人物:ニコライ・N・ボゴリューボフこの分野の物理学者(日本の物理学・統計物理学・原子核物理学)仁科芳雄朝永振一郎湯川秀樹伏見康治ニコライ・N・ボゴリューボフ中嶋貞雄日本の物理学者を生年順にたどる場合は、 日本人物理学者のまとめ もご覧ください。東京大学から日本の物理学研究の流れをたどる場合は、 東京大学関連の物理学者 も参考になります。〆【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 問題点に対しては 適時、返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2023/04/02‗初稿投稿 2026 /09/21‗改訂投稿舞台別のご紹介へ 時代別(順)のご紹介 力学関係へ 電磁気関係へ 熱統計関連のご紹介へ 量子力学関係へAIでの考察(参考)【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】(2023年4月時点での対応英訳)Dr.Fushimi’s Diverse ActivitiesKoji Fushimi was born in Nagoya, Aichi Prefecture. And he grows up in Tokyo. I somehow imagine that he was born and raised in an ordinary office worker family. Fushimi-sensei was born in the 20th century, so that makes sense.However, there has been a lot of activity since then. After graduating from the University of Tokyo with a degree in physics and working as an assistant at the University of Tokyo, He joined the newly established Osaka University and in 1934 he became the Dean of the Faculty of Science.In 1936, he assumed the post of Director of the newly established Nagoya University Plasma Research Institute. as a result He will serve as an emeritus professor at two old-system universities.He also served as president of the Science Council of Japan from 1952. For six years from 1958, he was involved in policy as a member of the House of Councilors belonging to the New Komeito Party from the standpoint of a scientist.Below, I would like to talk about Mr. Fushimi, who also served as a Diet member. It’s like, “Teacher, please!”Consistent Scientist InsightProfessor Fushimi played a major role in promoting the “peaceful use of nuclear energy.” He recognizes that nuclear research in Japan is very important. He was thinking about peaceful uses from the unique perspective of Japan, a country that suffered atomic bombings. He specifically sums it up in the “Three Principles of Atomic Energy.”He drafted the three principles of “independence, democracy, and openness”, and jointly with Seiji Kaya, he considered “three principles of nuclear power of Kaya and Fushimi”.beauty of symmetryFushimi-sensei had an aesthetic for “symmetrical beauty.” In particular, he focuses on its mathematical expression and universal impression.For example, if my child was interested in geometric patterns, I would delve into it and discuss things from various perspectives, such as “How much did you learn?” is. In the 1960s he summarized it as “The Science of Patterns”.Promotion of hydrogen energyWhen the Asahi Shimbun announced its full support for hydrogen energy development, Professor Fushimi became involved in nuclear power development.In 1952, he was approached by the head of the Asahi Shimbun, Mr. Kimura (head of the science department).In February, Prof. Fushimi gave a lecture titled “Current Status and Problems of Nuclear Fusion” at a public lecture held at the Asahi Auditorium.At that time, Dr. Fushimi originally supported hydrogen energy, and he recommended hydrogen as a next-generation fuel. He was clean energy, he thought.