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オックスフォード大学(OXFORD)

ニューカッスル生れ

ピーター・ヒッグス-Peter Ware Higgsは2024年4月8日にエレインバラ大学のヒッグスしが亡くなりました。享年94才。謹んでお悔やみ申し上げます。

ヒッグス氏は1929年に英国中部のニューカッスルに生まれてます。

ピーター・ヒッグス氏は理論物理学者であり、特に素粒子物理学の分野で知られています。ヒッグスは、ヒッグス粒子(またはヒッグス・ボソン)の存在を予測しました。この粒子は、物質の質量を与える役割を果たすとされ、素粒子の標準模型において重要な位置を占めています。

2013年、ヒッグスはその業績に対してノーベル物理学賞を受賞しました。彼の理論の確証を示す実験結果が得られたことにより、ヒッグス粒子の発見は科学界に大きな影響を与え、標準模型の確立と理解を深める上で重要な一歩となりました。

キングス・カレッジ時代

ヒッグス氏はロンドン大学キングスカレッジで学びます。1950年頃から研究生活をしていたと考えたら、当時の宇宙論はどうだったのでしょうか??素粒子論はどうだったのでしょうか??

1950年代当時の宇宙論と素粒子論は、まだ発展途上の段階でしたが、重要な発展を遂げていました。

宇宙論に関しては、一般相対性理論に基づいた大局的な宇宙モデルが提案され、宇宙が膨張していることが広く受け入れられていました。エドウィン・ハッブルによる銀河の赤方偏移の観測結果が、宇宙膨張の証拠として重要な役割を果たしました。しかし、宇宙初期の状態や大爆発理論はまだ完全に確立されていなかったため、この時期の宇宙論はさまざまな理論が提案されるなかで進化していました。

一方、素粒子論は量子力学と場の理論の枠組みの中で発展していましたが、まだ標準模型のような包括的な理論が確立される前でした。1950年代には、素粒子の発見や特性の理解が進みつつありました。たとえば、1956年には中性子と陽子が弱い相互作用によって相互作用することが示され、弱い相互作用の理論が発展しました。また、量子電磁力学や量子色力学など、素粒子間の相互作用を記述する理論が次第に発展していった時期でもあります。

つまり、ヒッグス氏が研究活動を始めた1950年代には、宇宙論と素粒子論はまだ発展途上であり、様々な新しい発見や理論が提案される時代でした。

南部陽一郎との繋がり

1964年にヒッグス粒子の概念をヒッグス氏は提唱しています。実際に理論の正しさが明らかにされたのは2012年のCERN(欧州原子核研究機構)の加速器による実験でした。ヒッグス粒子の存在については同国のホーキング氏と議論を交わしました。ホーキング氏は存在を否定していたようです。

ヒッグス粒子そもそものアイディアは南部陽一郎の「自発的対称性の破れ」だと言われています。ヒッグス氏は質量の起源も素粒子にあると考えたのです!

自発的対称性の破れは、物理学の概念であり、シンメトリーが物理的な状態や系の性質に対して破れる現象を指します。例えば、氷の結晶構造や磁性体の磁化などがこの概念に基づいています。この理論は、シンメトリーが存在する状態よりも低いエネルギー状態が存在することを示唆しています。

ヒッグスは、素粒子が質量を持つメカニズムを理解するために、自発的対称性の破れの概念を応用しました。具体的には、ヒッグスは素粒子が場と相互作用する際に、対称性が自発的に破れることで、質量を持つようになると考えました。これは、ヒッグス場と呼ばれる場の存在を仮定することで実現されます。

ヒッグス場は、宇宙全体を満たしており、素粒子がこの場と相互作用することで質量を獲得します。ヒッグス場の効果が弱い領域では、素粒子は高いエネルギーを持ち、質量がほぼ無視できるように見えます。しかし、ヒッグス場が強い領域では、素粒子はヒッグス場と相互作用し、その結果として質量を持つことになります。

ヒッグス場とその相互作用が素粒子の質量を与えるメカニズムは、標準模型と呼ばれる素粒子物理学の理論の中核をなしています。2012年のCERNの大型ハドロン衝突型加速器(LHC)による実験で、ヒッグス粒子の存在が観測され、これが素粒子の質量を与えるメカニズムの一部を確認する重要な証拠となりました。

エディンバラ大より悼辞

エディンバラ大学はヒッグス氏に次のような評価を捧げています。

(ヒッグス氏は)「偉大な教師、指導者でもあり何世代もの和解科学者に刺激を与えた」

〆最後に〆

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20214/04/15_初回投稿

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アマーリエ・エミー・ネーター Amalie Emmy Noether‗4/13改訂‗1882/3/23 – 1935/4/14

deutuland

ユダヤ系ドイツ人エミー・ネータ

エミー・ネータの名前は‗太田氏浩一の本
「ほかほかパン 物理学者のいた街」で知りました。

出来立てのパンのように温かいイメージです。

そして早口で話すユダヤ系のドイツ人。それが
「代数学の母」エミー・ネーターだと言えましょう。

アマーリエ・エミー・ネーターは、数学における
重要な概念である環、体、多元環の理論を発展させる
ことで、その名声を確立しました。以下に、彼女の
主な貢献として挙げられるものを具体的に説明します:

環の理論の発展:

ネーターは環の理論を深く探究し、その構造や性質に関する重要な結果を示しました。環は数学的構造の一般化であり、整数環、多項式環などの重要な例が含まれます。彼女の業績は、環論の基礎を確立し、この分野の発展に大きく貢献しました。

体の理論の貢献:

ネーターは体の理論にも重要な貢献をしました。体は、加法と乗法の演算が定義され、特定の性質を持つ集合です。彼女の研究は、体の拡大、体の構造、そして体の理論における重要な定理の証明に焦点を当てました。

多元環の理論の発展:

多元環は、環の一般化であり、スカラーの積によって要素を乗算する代数的構造です。ネーターは多元環の理論を探求し、その基礎を築きました。特に非可換多元環に関する彼女の業績は、数学の理論の発展において重要な役割を果たしました。

これらの業績は、ネーターが抽象代数学の分野において
先駆的な研究を行い、その成果が数学の基礎理論や
応用分野に大きな影響を与えたことを示しています。

また、物理学においては現象理解を対称形から考える
「ネーターの定理」が重要です。

最後に、ネーターの人柄が伝わるエピソードをご紹介します。:

大学の建物が州の祝日で閉まっていた時の話です。
ネーターは外にあるの階段に
そのクラスの生徒たち
を集めました。連絡の行き違いでしょうか。生徒さんと

ネーターが教室に入れない日があったのです。
そんな日にはネーターは森を通って

地元の喫茶店で講義をしていたそうです。

また、第三帝国がユダヤ人迫害を始めた
時期には、大学に入れないのでネーターは
自宅に生徒を集めて講義をしていました。
そんな風にしてエミー・ネーターは
数学を発展させ続けていました。

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ボルン
T-B稿【アインシュタインと「神はサイコロを振らない」と語った男】

SolvayConf-1927

ボルンについての別サイトを見つけました。

トラックバックの為に再度、更新履歴を残します。

https://blog.goo.ne.jp/kayamatetsu/e/8aef2e3e60c14b5f4ff842d2a0cb223e

是非、トラックバック許可頂き、併せて読んでいただけたらと存じます。

(以下原稿です)


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【1882年12月11日 ~1970年1月5日】

マックスボルンと確率解釈

M・ボルンはユダヤ系ドイツ人なので、

第二次世界大戦時は大変苦労しています。

そんな中でボルンは形成時の量子論において本質的な

概念である「確率解釈」を提唱しています。

私なりに確率解釈を考えてみると、
微視的な現象の観測では一意的に全ての値が定まる事実は無く、
観測する行為は
一定の確率で観測値を得る統計的な行為である
とする
解釈です。
【古典物理学での観測値に対応する物理量は量子論では期待値です。】

特定の観測値を持つ場合は確率で表現されます。
1930年に初版が書かれた教科書
【dirac「量子力学」】から一文を引用します。
「観測結果の計算には避けられない不定さがあり、そして理論のなしうることは、一般には我々が観測をする時にある特定の結果が得られる事の確率を計算するだけである」

ボルンの人間関係

ボルンはドイツ本国で教授職を解雇されたりしていて、
反戦の姿勢、非核の姿勢を貫き
ラッセル=アインシュタイン宣言にも参加しています。

この点ではドイツに残り、原爆開発に参加
していたハイゼンベルクとは全く別の人生を歩んでいます。

ちなみに、

ハイゼンベルクはボルンの門下生です。
オッペンハイマーもまた弟子にあたります。
オッペンハイマーとは
「ボルン・オッペンハイマー近似」と呼ばれる業績を残し、
共に研究していた時代があります。

共にユダヤ系でしたのでボルンはイギリス、
オッペンハイマーはアメリカへと追われていきます。
ユダヤ人排斥運動の中でボルンは教授職を奪われたのです。
戦時下でのどうしようもない事情でした。

彼の解釈で有名なやり取りがあります。

ボルンの考え方である確率解釈に対して反論した

アインシュタインが量子力学の解釈を

サイコロ遊びに例えたのです。

【Wikipedeaより引用:アインシュタインの有名な言葉
「彼(神)はサイコロを遊びをしない」は1926年
にボルンに当てた手紙の中で述べられたものである。】

さいころ遊びに例えた手紙が交わされた翌年の
1927年に
ハイゼンベルグが不確定性関係を定め、
このサイトTOPで写真を使っている
第五回ソルベー会議が開かれます。【於10月】

其処で本質に対して真剣な議論が交わされるのです。
人類の理解が大きく変化していった時代でした。

確率解釈は人類の思想にとって大きなパラダイムシフトです。

ボルンの考え方は、それまでの発想を大きく変えました。

最後にトリビア話

ボルンの孫の一人に歌手であるオリヴィア・ニュートン・ジョン
が居ました。私も初稿を書く際に分かったのですが意外ですね。

勝手に想像するとボルンは如何にもドイツ人らしい人
だったのでしょうね。アインシュタインとのやり取りは、
そんな彼を偲ばせます。

イギリスに亡命後にドイツへ帰国しており、
プランクと同じゲッティンゲン市立墓地に眠っているそうです。
母国の土に帰りたい想いもあったのでしょう。
そしてきっと、
お孫さんのオリビア・ニュートンジョンも墓参りに来るのでしょう。

関連URL(YouTubeへ:)
https://www.youtube.com/watch?v=E-JGTk_WM1k

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2020/08/30_初版投稿
2023/01/15_改定投稿

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(2021年10月時点での対応英訳)

Max Born and Probabilistic Interpretation

Since M. Born is a Jewish German, he had a lot of trouble during World War II. Under such circumstances, he advocates “probabilistic interpretation”, which is an essential understanding of phenomena in the early quantum theory. To express the probability interpretation simply, it is an interpretation that the phenomenon related to the observation includes not only the uniquely obtained object but also the event observed with a certain probability. In other words, the observed value is multiplied by the certain probability. It is permissible if it is a match.

Born Relationships

Born has been dismissed as a professor in Germany, and he has been involved in the Russell-Einstein Declaration with an anti-war and non-nuclear stance. In this respect, he remains in Germany and lives a completely different life from Heisenberg, who participated in the development of the atomic bomb. By the way, Heisenberg is a student of Born. Oppenheimer is also a disciple. There was a time when Oppenheimer left a work called “Born-Oppenheimer approximation” and studied together. Both were of Jewish descent, so Born was chased by England and

Oppenheimer was chased by the United States. Born was deprived of his professorship during the Jewish exclusion movement. It was a terrible situation during the war. There is a well-known exchange in his interpretation. Einstein, who argued against Born’s idea of ​​stochastic interpretation, likened the interpretation of quantum mechanics to dice play.

[Quoted from Wikipedea: Einstein’s famous words
“He (God) does not play dice” is 1926
It was stated in a letter to Born. ]

In 1927, the year after this letter was exchanged, Heisenberg established an uncertainty relationship, and the 5th Solvay Conference using photographs will be held on the top of this site. [October] There is a serious discussion about the essence. It was an era when human understanding changed drastically. Probabilistic interpretation is a major paradigm shift for human thought. Born’s thinking changed his way of thinking.

Finally the trivia story

One of Born’s grandchildren was the singer Olivia Newton-John. I also found out when writing the first draft, but it’s surprising. Imagine that Born was a German person. The interaction with Einstein is reminiscent of him. He returned to Germany after his exile in England and is sleeping in the same Göttingen Cemetery as Planck. Perhaps he also wanted to return to his homeland. And I’m sure his grandson Olivia Newton-John will come to visit the grave.