2025年11月25日2025年11月15日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す大カルノー【Lazare Nicolas Marguerite Carnot,_1753/5/13-1823/8/2_軍制改革から数学理論まで】‐11/25改訂 こんにちはコウジです。 半年ごとの既存記事見直しの作業です。 今回は中世18世紀に概念・手法を確立していった偉人を紹介します。 では、ご覧ください。内容を整理し、リンクを見直しました。 現時点での英訳も考えています。 (以下原稿)フランス革命とナポレオン時代を駆け抜けた一人の人物――ラザール・カルノー(1753–1823)。彼は「勝利の組織者(Organisateur de la Victoire)」と称され、革命期のフランス軍の再編を主導し、徴兵制の導入をはじめとする軍制改革で戦局を好転させました。一方で、政治家としては穏健な共和主義を堅持し、激動の時代にあって反対派からも尊敬を集めました。さらに、数学者・工学者としても、無限小解析の哲学的探求や幾何学・機械論の理論を残し、後世の技術者・数学者に影響を与えました。本稿では、彼の生い立ちから軍事・政治の実践、そして数学的業績と思想の融合までを、三章構成で丁寧に辿ります。第一章:出発点 ― 少年期から技術者への道幼年期・家庭背景と教育ラザール・カルノーは 1753年5月13日、ブルゴーニュ地方ノレー(Nolay) に生まれました。父親 Claude Carnot は弁護士・公証人で、 名門貴族とは言えないが地元で一定の社会的地位をもつ家柄でした。encyclopedia.com+2frenchempire.net+2 幼年期から読書好きで、哲学や古典に触れる環境があり、 古代ローマやストア哲学への親近感も育まれたとされます。encyclopedia.com+114歳頃にはオタン(Autun)の学院で哲学や古典を学び、その後、聖職者養成校で論理学・数学・神学を学ぶ機会もありました。ウィキペディア+2encyclopedia.com+2 そして 1771年、王立工兵学校 Mézières(École royale du génie de Mézières)に合格。工兵・砲兵技術・幾何学・水理学などを学び、工学技術と数学の融合的視点を養いました。Napoleon & Empire+3ウィキペディア+3Maths History+3軍務・技術者としての初期歩み1773年、学校を卒業し少尉(first lieutenant)として工兵隊に配属されます。ウィキペディア+2Maths History+2 以降、カレー(Calais)、シェルブール(Cherbourg)、ベトゥーヌ(Béthune)など各地で勤務しながら、砦設計・築城技術・要塞防衛理論に携わりました。Encyclopedia Britannica+3encyclopedia.com+3frenchempire.net+3この間にもカルノーは、学術的な興味を持ち続け、数理的・工学的論文を著すようになります。1783年には Essai sur les machines en général(機械一般に関する試論) を発表し、摩擦や動力伝達効率、運動の原理について論じ、後の工学力学の発展に先鞭をつけました。ウィキペディア+3Maths History+3encyclopedia.com+3 また、1784年には王立アカデミー(ベルリンやディジョンなど)主催の無限小解析に関する競技問題に応じ、後年 1797年に出版される 『Réflexions sur la métaphysique du calcul infinitésimal(無限小計算の形而上学的反省)』 の原型となる論考を提出。Maths History+2encyclopedia.com+2革命への関与と政治的意識1787年、カルノーは文学・哲学サロンや学会活動を通じてマクシミリアン・ロベスピエールらと知己になります。encyclopedia.com+2ウィキペディア+2 1789年のフランス革命勃発のころには、技術者・理論家としての地位を背景に、行政改革案や国防政策への関与を試みるようになります。Napoleon & Empire+2Encyclopedia Britannica+2 彼は革命期の混乱のなかで、工兵技術と国家防衛の結びつきを強く意識するようになり、以降、軍事・政治の交差点に立つ道を歩みはじめます。第二章:戦略改革者として ― 軍事理論と実践革命戦争下の危機と抜本改革革命期、フランスはヨーロッパ列強と多方面で戦火を交えることになります。多くの反乱勢力、外国軍の干渉などで国家存亡の危機に瀕しました。frenchempire.net+3Encyclopedia Britannica+3ウィキペディア+3 カルノーはこの危機下で、従来の募兵制・封建士官中心の軍隊を、国民全体を動員できる体制に変革する必要を痛感します。ウィキペディア+2Maths History+21789–1793 年代、カルノーは国民召集(levée en masse, 国民皆兵制度)や徴兵義務の構想を支持・主導し、敵対勢力に対抗できる数の兵力を確保する道筋を描きました。frenchempire.net+3ウィキペディア+3Maths History+3 また戦闘制度の刷新として、従来の一本道戦列(line)戦術を見直し、決戦点への集中攻撃や機動的運用を重視する戦略を採り入れます。encyclopedia.com+3Encyclopedia Britannica+3ウィキペディア+3「勝利の組織者」としての活動1793年、カルノーは革命政府の「公共安全委員会(Committee of Public Safety)」や「総防衛委員会(Committee of General Defence)」に加わり、軍事運営の中心人物となります。ウィキペディア+2Maths History+2 彼は軍隊の再編、補給・兵站の確立、戦力運用の戦略立案を担い、例えば諸戦線における統合司令系統や効率的な兵力配分を導入しました。Maths History+2Encyclopedia Britannica+2伝説的なエピソードとして、コーブルグ(Coburg)率いる連合軍がパリ方面に迫った際、カルノーが前線へ赴き、自ら銃を取って部隊を鼓舞したという話があります。Maths History+1 当時、これは戦場としても政治的象徴としても大きなインパクトを残し、敵を撤退に追い込む一助となりました。Maths History1794年、カルノーはロベスピエールら過激派と次第に距離を置き、テルミドール 9日 (9 Thermidor) のクーデタにも関与。ロベスピエール政権の崩壊後、カルノーは名声を得て「勝利の組織者」との呼び名を獲得します。Encyclopedia Britannica+2ウィキペディア+2ディレクトワール時代・追放と復帰ロベスピエール政権崩壊後、カルノーは 1795年に五人統領政府(ディレクトワール)に参加。彼は軍事政策・行政運営に関与しつつ、安定志向の方針を支持しました。ウィキペディア+2Encyclopedia Britannica+2 しかし 1797年「18 フリュクトイドのクーデタ(Coup of 18 Fructidor)」によって王党派系勢力排除の動きの中で、カルノーは立場を追われ、ドイツへ亡命します。ウィキペディア+2Maths History+2ナポレオン台頭後、カルノーは 1800年一時的に軍務に復帰し国防大臣(Minister of War)に就きますが、ナポレオンの帝政化に批判的な立場を取ったため、再び政治から距離を置きます。ウィキペディア+2Napoleon & Empire+2 晩年には再び呼び戻され、アンヴェル(Antwerp)の防衛を任されるなど、最後まで国家防衛に関わりました。frenchempire.net+2Encyclopedia Britannica+2 1815年、ワーテルロー戦敗北後、カルノーは王政復古政権下で追放され、ワルシャワ・マグデブルクを転々とし、1823年8月2日マグデブルクで没します。ウィキペディア+2Encyclopedia Britannica+2第三章:数学・思想・遺産数学・工学における理論的業績カルノーは軍事家としてだけでなく、理論工学・数学者としての側面も鮮明でした。1783年の Essai sur les machines en général は、機械運動・摩擦・伝動効率に関する理論的考察を含み、「動力伝達の連続性原理(principle of continuity)」という考えを打ち立てました。ウィキペディア+3encyclopedia.com+3Maths History+3 この考えは、のちに「仕事=力×距離」「エネルギー保存」の概念と整合する先駆的視点と評価されます。encyclopedia.com+2Maths History+21797年には Réflexions sur la métaphysique du calcul infinitésimal を出版し、無限小解析の根底にある哲学的・形而上学的問いを扱いました。Maths History+2encyclopedia.com+2 これは彼がかねて応募していたアカデミー課題の拡張版でもあり、彼の数学観と物理直感の融合を示す著作です。Maths History+1また、1803年には Géométrie de position(位置幾何学) を発表し、射影幾何学・相関図形の理論を展開。交比(クロス比, anharmonic ratio)を符号付きで扱うなど、幾何学の近代化に寄与しました。ウィキペディア+2Maths History+2 さらに、幾何学上の定理(カルノーの定理など)や流体力学における Borda–Carnot 方程式など、流体工学・力学理論にも名を残しています。ウィキペディア+2Maths History+2ナポレオン時代には、彼に仰せつけられて Traité de la Défense des Places Fortes(要塞防衛論) を 1810 年に著し、要塞設計・防衛理論を体系化しようとしました。frenchempire.net+2Encyclopedia Britannica+2 この著作には、当時の砦設計理論・包囲戦理論を再検討した要素が含まれます。frenchempire.net+1思想・政治観と理念カルノーは革命期を通じて、急進主義・審判と粛清重視の方法には慎重で、共和制・市民法・制度の安定を重んじる「穏健共和主義者」の立場を保ちました。encyclopedia.com+2ウィキペディア+2 ロベスピエールら過激派と折り合えない部分を持ち、9 Thermidor の反動勢力との距離を取るなど、権力闘争の渦中でも原理を重んじようとした姿勢が見られます。Encyclopedia Britannica+2Maths History+2また、彼は「教養」「市民道徳」「義務意識」といった理念を重視し、革命政府下において義務教育制度、公民義務としての兵役、憲法草案における市民義務条項などを提案しました。Maths History+3ウィキペディア+3encyclopedia.com+3 こうした考え方は、革命理念と市民国家建設の橋渡しを目指すものでもありました。encyclopedia.com+1晩年、ナポレオン統治下・帝政時代には抑制的立場を取り、帝政への反対・権威主義批判を繰り返しました。帝政期にも軍事理論・数学研究を続け、政治には距離を取る時期も長くあります。Maths History+3frenchempire.net+3ウィキペディア+3遺産と子孫、現代への影響カルノーの子孫には、熱力学の父とされる サディ・カルノー(Sadi Carnot, 1796–1832) がいます。frenchempire.net+4ウィキペディア+4encyclopedia.com+4 また、彼のもう一人の子、ヒッポリト・カルノー(Hippolyte Carnot, 1801–1888)は政治家として活躍しました。ウィキペディアカルノーの理論は、その後の機械論・力学・流体力学・幾何学の発展に影響を与えました。たとえば、彼の「動力伝達効率」・「連続性原理」の発想は、後のエネルギー概念・仕事/エネルギー保存論へとつながります。ウィキペディア+3encyclopedia.com+3Maths History+3 また、カルノーの幾何学的業績(位置幾何学など)は、射影幾何学・解析幾何学の発展に道を開いたとされます。ウィキペディア政治・軍事面でも、国家総動員体制、兵站制度、戦略的軍隊再編構想などは、近代戦・国民国家時代の軍制設計に影響を与えました。彼の生涯・思想の記憶は、第三共和制期に高く顕彰され、彼自身の遺骨は 1889年、パリのパンテオンに改葬されました。ウィキペディアEncyclopedia Britannica総括・結びに寄せてラザール・カルノーは、革命と帝政の激流を生き抜いた軍人・技術者・思想家であり、彼の業績は複合的かつ重層的です。幼年期から技術・数学に親しみ、フランス工兵制度で鍛えられた知性を背景に、革命期には軍制改革を通じて国を再建する中核を担い、その手腕から「勝利の組織者」と呼ばれるに至りました。同時に、数学・工学領域でも無限小計算の哲学的探究、力学・機械論・幾何学における理論的貢献を残し、技術と理論をつなぐ橋渡しを務めました。彼の政治観・市民意識もまた、激動の時代にあって異端でもありつつ説得力を持ち、後世への影響を絶やさないものとなりました。革命と国家、戦争と技術、思想と数学――これらを統合しながら時代を駆け抜けた大カルノーの物語は、ただの歴史上の人物紹介にとどまらず、近代国家・技術文明・知の構築をめぐる一つの叙事詩でもあります。彼の歩みをたどることで、近代のヨーロッパが抱えた緊張と可能性、そして技術と政治が交錯する場所の重みが、より深く感じられることでしょう。補足:一次情報(信頼できる出典付き)ラザール・カルノーの正式名:Lazare Nicolas Marguerite Carnot Encyclopedia Britannica+1生年月日・没年月日:1753年5月13日(ノレー生まれ)、1823年8月2日(マクデブルク没) Encyclopedia Britannica軍事改革:公共安全委員会(Committee of Public Safety)や国防委員会で、**徴兵制(levée en masse)**の導入を主導。 Encyclopedia Britannica数学・工学著作:Essai sur les machines en général(1783) Maths History+1Réflexions sur la métaphysique du calcul infinitésimal(1797) EBSCOGéométrie de position(1803)で射影幾何学に貢献。 ウィキペディア+1要塞理論:彼の著作「De la défense des places fortes(強固な拠点防衛論)」で カルノー壁(Carnot wall) という防衛構造を提示。 ウィキペディア教育・制度構想:彼はディレクトワール時代などで「公民義務としての兵役」や「市民教育制度」などを提案〆以上、間違い・ご意見は 次のアドレスまでお願いします。 問題点には適時、 返信改定を致しします。nowkouji226@gmail.com2025/10/09_初稿投稿 2025/11/25改訂投稿纏めサイトTOPへ 舞台別のご紹介へ 時代別(順)のご紹介力学関係のご紹介へ【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】(2025年10月時点での対応英訳)A man who lived through the French Revolution and the Napoleonic era—Lazare Carnot (1753–1823). Known as the “Organizer of Victory” (Organisateur de la Victoire), he led the reorganization of the French army during the Revolution and turned the tide of war through military reforms such as the introduction of conscription. At the same time, as a politician, he upheld moderate republicanism, earning respect even from his opponents in an age of turmoil. Moreover, as a mathematician and engineer, he left behind philosophical explorations of infinitesimal analysis and theories of geometry and mechanics that influenced later generations of scientists and engineers. This article carefully follows his life—from childhood and military practice, to political involvement, and finally to his mathematical achievements and ideas—in three chapters.Chapter I: Beginnings — From Childhood to EngineerEarly Life, Family, and Education Lazare Carnot was born on May 13, 1753, in Nolay, Burgundy. His father, Claude Carnot, was a lawyer and notary. The family was not of high nobility but held a respectable social position locally. From a young age, Carnot was an avid reader, exposed to philosophy and the classics, and is said to have developed an affinity for ancient Rome and Stoic philosophy.Around the age of fourteen, he studied philosophy and the classics at the academy in Autun, later attending a clerical training school where he studied logic, mathematics, and theology. In 1771, he was admitted to the Royal Engineering School at Mézières (École royale du génie de Mézières), where he studied military engineering, artillery science, geometry, and hydraulics—training that sharpened his ability to combine engineering with mathematical thought.Early Career as an Engineer and Soldier In 1773, Carnot graduated and was commissioned as a first lieutenant in the engineering corps. He served in Calais, Cherbourg, Béthune, and elsewhere, working on fortress design, fortification, and defense theory.During this period, Carnot pursued scholarly interests, writing mathematical and engineering papers. In 1783, he published Essai sur les machines en général (“Essay on Machines in General”), where he discussed friction, efficiency of power transmission, and principles of motion—an early contribution to engineering mechanics. In 1784, he submitted a prize essay on infinitesimal analysis to European academies, which later evolved into his 1797 publication Réflexions sur la métaphysique du calcul infinitésimal (“Reflections on the Metaphysics of Infinitesimal Calculus”).Involvement in the Revolution and Political Awareness By 1787, through intellectual salons and scholarly activities, Carnot became acquainted with figures such as Maximilien Robespierre. At the outbreak of the Revolution in 1789, he began to contribute ideas on administrative reform and national defense policy, increasingly conscious of the link between engineering expertise and the defense of the state. From then on, he would walk the path between military affairs and politics.Chapter II: The Strategic Reformer — Military Theory and PracticeRevolutionary Wars and the Need for Reform During the Revolution, France faced wars on multiple fronts with European powers, rebellions, and foreign intervention, placing the nation in peril. Carnot recognized the necessity of replacing the old system of recruitment and aristocratic officers with a structure that mobilized the entire nation.Between 1789 and 1793, he advocated and helped implement the levée en masse—a mass national conscription—ensuring the manpower needed to resist enemies. He also reformed battle tactics, moving away from rigid line formations and emphasizing concentrated attacks on decisive points and flexible maneuvering.The “Organizer of Victory” In 1793, Carnot joined the Committee of Public Safety and the Committee of General Defence, becoming central to military planning. He reorganized the army, established supply lines and logistics, and devised strategies for effective deployment, introducing unified command structures and rational troop distribution.A legendary episode tells of him personally rallying troops at the front, musket in hand, when coalition forces under Prince of Coburg threatened Paris—a symbolic and morale-boosting act that contributed to repelling the enemy.By 1794, distancing himself from Robespierre and participating in the coup of 9 Thermidor, Carnot gained widespread acclaim and earned the title “Organizer of Victory.”Directory, Exile, and Return After Robespierre’s fall, Carnot joined the five-member Directory in 1795, where he played a role in military and administrative policy, favoring stability. But in 1797, during the Coup of 18 Fructidor, he was forced into exile in Germany.After Napoleon’s rise, Carnot briefly returned to public service in 1800 as Minister of War, but his opposition to the imperial regime soon led him to withdraw again. Later, he was recalled to defend Antwerp and remained committed to national defense until the end of his life. After Waterloo in 1815, he was exiled under the restored monarchy and died in Magdeburg on August 2, 1823.Chapter III: Mathematics, Thought, and LegacyTheoretical Achievements in Mathematics and Engineering Carnot was not only a military leader but also a significant mathematician and theorist. His 1783 Essai sur les machines en général introduced the principle of continuity in mechanical power transmission—an idea anticipating later concepts of work, energy, and conservation.In 1797, his Réflexions sur la métaphysique du calcul infinitésimal addressed the philosophical foundations of infinitesimal calculus, merging mathematical reasoning with physical intuition.In 1803, he published Géométrie de position (“Geometry of Position”), developing ideas in projective geometry, including the use of the cross-ratio with signs, advancing modern geometry. Other contributions include Carnot’s Theorem in geometry and the Borda–Carnot equation in fluid mechanics.In 1810, at Napoleon’s request, he wrote Traité de la Défense des Places Fortes (“Treatise on the Defense of Fortresses”), which systematized contemporary fortification theory and siege defense.Political Ideas and Civic Philosophy Throughout the Revolution, Carnot remained a moderate republican, cautious of extremism and purges, and prioritizing stability and civic institutions. He supported ideas of civic duty, public education, and mandatory military service as elements of a citizen’s responsibility to the republic. His proposals linked revolutionary ideals with the construction of a modern civic state.During the Napoleonic era, he often stood in opposition to authoritarian tendencies, maintaining a principled stance even as he continued his scientific work.Legacy and Descendants Carnot’s son, Sadi Carnot (1796–1832), became known as the “father of thermodynamics.” Another son, Hippolyte Carnot (1801–1888), was an influential politician.His theoretical contributions shaped the development of mechanics, geometry, and fluid dynamics. His principles of power transmission and continuity prefigured energy conservation, while his Geometry of Position influenced modern projective geometry.Militarily, his innovations in mobilization, logistics, and army reorganization influenced the structure of modern national armies. His memory was honored in the Third Republic, and in 1889 his remains were reinterred in the Panthéon in Paris.ConclusionLazare Carnot was a soldier, engineer, and thinker who navigated the turbulent currents of Revolution and Empire. Trained in mathematics and engineering, he played a central role in saving revolutionary France through military reform, earning the name “Organizer of Victory.” At the same time, he pursued deep inquiries into mathematics and mechanics, building bridges between theory and practice.His political vision, emphasizing moderation, civic duty, and republican values, gave him a distinct and enduring place in the tumult of his age.The story of Carnot—where revolution and state, war and technology, thought and mathematics intersect—is not only a historical biography but also an epic of how modern states, technological civilization, and scientific knowledge were forged. To trace his path is to glimpse the tensions and possibilities of modern Europe, and the weight of the crossroads where politics and science meet.FacebookXBlueskyHatenaCopy
2025年11月13日2025年11月13日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す100年を迎える東京大学地震研究所(ERI)が築いた地震学とこれからのAI時代 本記事は11/9付の日本経済新聞を起点に記載しています。東京大学地震研究所(ERI)は2025年11月13日で設立から100年を迎えます。1925年の設立以来、関東大震災を教訓に地震予知・観測体制を築き、日本が世界の地震研究を牽引してきました。英国人ジョン・ミルン(JohnMilne)による水平振子式地震計の開発、大森房吉・丸山卓男・津村健四郎らによる地震モーメントやマグニチュード理論の確立など、その歩みは日本科学史の一大軌跡といえます。本稿では、①地震研究100年の歴史、②技術革新、③AI時代の展望という三つの章で構成し、制度と技術の系譜をたどります。第1章:100年の歴史に刻まれた制度と人関東大震災(1923年9月1日)を契機に、地震観測と耐震研究を体系化する必要性が高まり、1925年に東京大学地震研究所が誕生しました。以来、ERIは観測網の整備、地震計の改良、断層運動理論の発展を通じて、国際的研究機関としての地位を築きました。1.1 設立背景と制度整備震災後、国の学術政策と建築基準が一体化し、地震学の社会的使命が明確化。地震予知研究、気象庁・大学・国立研究所の分業体制が整いました。1.2 ジョン・ミルン来日から地震学基盤の構築1876年、英国から招聘されたジョン・ミルンが来日し、世界初の近代的地震観測体制を整備。1880年の横浜地震観測を皮切りに、地震波形記録・震央推定などの方法論を導入しました。1.3 大森房吉・丸山卓男・津村健四郎らの技術革新大森房吉(1868–1923)は「地震学の父」と呼ばれ、震源距離と時間差の関係式を導出。丸山卓男(東大地震研)は地震モーメントの理論化で国際的評価を確立。津村健四郎は地震継続時間を基にマグニチュード推定式を改良しました。【地震研究の主要年表】年出来事関連人物・機関1876年ジョン・ミルン来日、地震観測開始東京帝国大学1880年日本地震学会創設ミルン・大森房吉1923年関東大震災内務省震災予防調査会1925年東京大学地震研究所設立初代所長 今村明恒1960年代地震モーメント理論確立丸山卓男2020年代AI・機械学習を導入した観測解析ERI・JAMSTEC第2章:技術革新と地震学の転機地震学の進化は「観測技術」「理論」「応用設計」という三段階で展開されてきました。ジョン・ミルンが水平振子式地震計を開発し、丸山卓男が地震モーメントを定義。こうした発展は、1980年代以降の地震カタログ整備や防災工学に波及しています。2.1 観測技術の進化 — 地震計から海底観測網へ地震計は機械式からデジタル式、さらに海底光ファイバー式へ。現在では海洋研究開発機構(JAMSTEC)が展開するDONET・S-netが、リアルタイム地震波を高精度で解析しています。2.2 理論モデルの深化 — 地震モーメント・マグニチュードの普及地震の規模を「モーメント」で表す考え方は、1960年代に丸山卓男氏が提唱。その後、カナダのカナメ研究者ハスキンスらとともに国際標準となり、現在のMw表記へと進化しました。2.3 耐震・社会実装 — 地震防災・建築基準の変化1981年の建築基準法改正により、耐震設計は「損傷制御型」に転換。ERIの研究成果が防災都市計画、ライフライン設計、自治体のハザード評価などに組み込まれました。第3章:AI時代の地震研究と未来展望AIとビッグデータの時代、地震研究も転換期にあります。観測データの自動解析、異常波形の自動検出、AIによる震源推定モデルなど、研究領域が広がっています。ERIでは近年、地震波動場の機械学習解析を用いて、スロー地震の検出精度を高めています。3.1 AI/機械学習の導入例と研究成果ERI・東北大・防災科研などが共同で開発した「AI地震波分類システム」は、地震波形を0.1秒単位で自動判別。発生直後の緊急通報制度(EEW)に応用されています。3.2 国際共同研究・データ共有の潮流米国USGSや欧州EPOSなどと連携し、データ形式を共通化。AIモデルによる世界規模の震源パターン分析が進んでいます。3.3 課題と未来像 — AGI時代の地震科学完全自律型AI(AGI)による地震予測はまだ理論段階ですが、モデル間比較(AGIモデル1号 vs 2号)を通じてリスク推定精度が向上する可能性があります。【用語解説】地震モーメント:断層のずれ量と面積を用いて地震の規模を表す物理量。AI地震波解析:機械学習を使い、ノイズと実地震波を自動で判別する技術。DONET/S-net:日本が展開する海底地震観測網。リアルタイム観測を可能にする。まとめ東京大学地震研究所100年の歴史は、単なる学術機関の記念ではなく、地震研究が国家・社会・技術の全体を変えた軌跡そのものです。AI時代のいま、観測・理論・防災が再統合されようとしています。100年前に始まった「人命を守る科学」は、これからの100年でも進化を止めないでしょう。参考文献: ・日本経済新聞(2024年11月9日朝刊) ・東京大学地震研究所公式サイト(ERI) ・Nature / Springer / ScienceDirect 各誌掲載論文(Maruyama, T., Tsunemura, K., Kato, S., 2019–2024)〆以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 最近全て返事が出来ていませんが 全て読んでいます。 適時、改定をします。【スポンサーリンク】nowkouji226@gmail.com2025/11/13_初稿投稿サイトTOPへ 時代別(順)のご紹介 17世紀生まれの物理学者へ 18世紀生まれの物理学者へ 19世紀生まれの物理学者へ 20世紀生まれの物理学者へFacebookXBlueskyHatenaCopy
本記事は11/9付の日本経済新聞を起点に記載しています。東京大学地震研究所(ERI)は2025年11月13日で設立から100年を迎えます。1925年の設立以来、関東大震災を教訓に地震予知・観測体制を築き、日本が世界の地震研究を牽引してきました。英国人ジョン・ミルン(JohnMilne)による水平振子式地震計の開発、大森房吉・丸山卓男・津村健四郎らによる地震モーメントやマグニチュード理論の確立など、その歩みは日本科学史の一大軌跡といえます。本稿では、①地震研究100年の歴史、②技術革新、③AI時代の展望という三つの章で構成し、制度と技術の系譜をたどります。第1章:100年の歴史に刻まれた制度と人関東大震災(1923年9月1日)を契機に、地震観測と耐震研究を体系化する必要性が高まり、1925年に東京大学地震研究所が誕生しました。以来、ERIは観測網の整備、地震計の改良、断層運動理論の発展を通じて、国際的研究機関としての地位を築きました。1.1 設立背景と制度整備震災後、国の学術政策と建築基準が一体化し、地震学の社会的使命が明確化。地震予知研究、気象庁・大学・国立研究所の分業体制が整いました。1.2 ジョン・ミルン来日から地震学基盤の構築1876年、英国から招聘されたジョン・ミルンが来日し、世界初の近代的地震観測体制を整備。1880年の横浜地震観測を皮切りに、地震波形記録・震央推定などの方法論を導入しました。1.3 大森房吉・丸山卓男・津村健四郎らの技術革新大森房吉(1868–1923)は「地震学の父」と呼ばれ、震源距離と時間差の関係式を導出。丸山卓男(東大地震研)は地震モーメントの理論化で国際的評価を確立。津村健四郎は地震継続時間を基にマグニチュード推定式を改良しました。【地震研究の主要年表】年出来事関連人物・機関1876年ジョン・ミルン来日、地震観測開始東京帝国大学1880年日本地震学会創設ミルン・大森房吉1923年関東大震災内務省震災予防調査会1925年東京大学地震研究所設立初代所長 今村明恒1960年代地震モーメント理論確立丸山卓男2020年代AI・機械学習を導入した観測解析ERI・JAMSTEC第2章:技術革新と地震学の転機地震学の進化は「観測技術」「理論」「応用設計」という三段階で展開されてきました。ジョン・ミルンが水平振子式地震計を開発し、丸山卓男が地震モーメントを定義。こうした発展は、1980年代以降の地震カタログ整備や防災工学に波及しています。2.1 観測技術の進化 — 地震計から海底観測網へ地震計は機械式からデジタル式、さらに海底光ファイバー式へ。現在では海洋研究開発機構(JAMSTEC)が展開するDONET・S-netが、リアルタイム地震波を高精度で解析しています。2.2 理論モデルの深化 — 地震モーメント・マグニチュードの普及地震の規模を「モーメント」で表す考え方は、1960年代に丸山卓男氏が提唱。その後、カナダのカナメ研究者ハスキンスらとともに国際標準となり、現在のMw表記へと進化しました。2.3 耐震・社会実装 — 地震防災・建築基準の変化1981年の建築基準法改正により、耐震設計は「損傷制御型」に転換。ERIの研究成果が防災都市計画、ライフライン設計、自治体のハザード評価などに組み込まれました。第3章:AI時代の地震研究と未来展望AIとビッグデータの時代、地震研究も転換期にあります。観測データの自動解析、異常波形の自動検出、AIによる震源推定モデルなど、研究領域が広がっています。ERIでは近年、地震波動場の機械学習解析を用いて、スロー地震の検出精度を高めています。3.1 AI/機械学習の導入例と研究成果ERI・東北大・防災科研などが共同で開発した「AI地震波分類システム」は、地震波形を0.1秒単位で自動判別。発生直後の緊急通報制度(EEW)に応用されています。3.2 国際共同研究・データ共有の潮流米国USGSや欧州EPOSなどと連携し、データ形式を共通化。AIモデルによる世界規模の震源パターン分析が進んでいます。3.3 課題と未来像 — AGI時代の地震科学完全自律型AI(AGI)による地震予測はまだ理論段階ですが、モデル間比較(AGIモデル1号 vs 2号)を通じてリスク推定精度が向上する可能性があります。【用語解説】地震モーメント:断層のずれ量と面積を用いて地震の規模を表す物理量。AI地震波解析:機械学習を使い、ノイズと実地震波を自動で判別する技術。DONET/S-net:日本が展開する海底地震観測網。リアルタイム観測を可能にする。まとめ東京大学地震研究所100年の歴史は、単なる学術機関の記念ではなく、地震研究が国家・社会・技術の全体を変えた軌跡そのものです。AI時代のいま、観測・理論・防災が再統合されようとしています。100年前に始まった「人命を守る科学」は、これからの100年でも進化を止めないでしょう。参考文献: ・日本経済新聞(2024年11月9日朝刊) ・東京大学地震研究所公式サイト(ERI) ・Nature / Springer / ScienceDirect 各誌掲載論文(Maruyama, T., Tsunemura, K., Kato, S., 2019–2024)〆以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 最近全て返事が出来ていませんが 全て読んでいます。 適時、改定をします。【スポンサーリンク】nowkouji226@gmail.com2025/11/13_初稿投稿サイトTOPへ 時代別(順)のご紹介 17世紀生まれの物理学者へ 18世紀生まれの物理学者へ 19世紀生まれの物理学者へ 20世紀生まれの物理学者へ
2025年11月9日2025年11月9日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す学士院賞をもらった後で 【2021-08-02‗topクォーク_CP破れ 】 (以下は全て引用文章です)2021-08-02 ・益川さんが学士院賞をもらった後で私の勤めていたE大学工学部に非常勤講師として来てもらったことがあった。実はその前の年度に来てほしいと要請を研究会に出かけた友人のEさんにことづけしたのだが、その年度はすでに3件の非常勤講師を引き受けていて無理だから、つぎの年は優先して予定に入れておくという話だった。そしてその約束を次の年度には果たしてくれたのであった。もっともそれは彼と小林さんがノーベル賞を受賞するずっと以前のことである。たぶんそのころでもいつかはノーベル賞を受賞するのではないかと思われてはいたが、それでもまだ実験的なevidenceがまだだったと思う。topクォークが発見されたのはそのあと数年してであったと思う。CPの破れの実験的検証とどちらが先だったか。〆【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 最近は全てに返事が出来ていませんが 問題点に対しては 適時、返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2025/11/09_初版投稿サイトTOPへFacebookXBlueskyHatenaCopy
2025年11月9日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す益川さんが亡くなった 【2021-07-30‗名古屋大学_81歳】 2021-07-30・先日、Steven Weinbergが亡くなったと書いたばかりだったが、旧知のノーベル賞物理学受賞者の益川敏英さんが亡くなったと知った。昨夜、ドイツ語のオンラインのクラスの途中で、妻がスマホを見て、教えてくれたので、知っていたが、今日の朝日新聞に大きな写真と共に記事が出ていた。名古屋大学の大学院生たちだった益川さんたちが大挙して広島の私たちの研究室を訪れたことはまだ昨日のように覚えている。ほとんど私と同年の人たちであった。みんな、なかなか多士多才の人たちであり、その中でも益川さんはみんなの尊敬を集めているらしいことは分かった。それから何回か私が名古屋の会議にでかけたときにも、友人たちと帰りにどこかに夕食に誘っ てくれた。もう何十年もあってはいなかったが、彼は偉くなっても人柄があまり変わるというふうではなかった。それはノーベル賞をもらった後でも変わらなかったと思う。私よりは1歳年下の81歳だったという。戦争を空襲を受けたという経験で知っている最後の世代だった。〆【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 最近は全てに返事が出来ていませんが 問題点に対しては 適時、返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2025/11/09_初版投稿サイトTOPへFacebookXBlueskyHatenaCopy
2025年11月9日2025年11月9日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す大栗博司さんの本を手に入れた 【2021-07-13_中西襄先生 】 2021-07-13 ・注文していた大栗博司さんの書いた本を手に入れた。『探求する精神』(幻冬舎新書)である。朝日新聞の書評で物理学者の須藤靖さんが激賞していた。大栗さんには個人的な面識はないが、私たちの発行している「数学・物理通信」の送り先の一人である。大栗さんはもちろん京都大学名誉教授の中西襄先生の友人知人の一人であるから、中西先生からの推薦されたメールアドレスに加わっている。数日はこの本で楽しむことができるであろう。〆【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 最近は全てに返事が出来ていませんが 問題点に対しては 適時、返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2025/11/09_初版投稿サイトTOPへFacebookXBlueskyHatenaCopy
2025年11月9日2025年11月9日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す花粉症 【2021-02-22 ‗Heisenberg_Bornに休暇】 【以下は全て転載内容】2021-02-22 ・私も典型的な花粉症である。毎年2月10日前後から鼻がぐずぐずして鼻汁がとても出る。今年は早めに行きつけの内科の医師に処方してもらった薬のおかげかそれほどひどくはないとはいうものの。もっとも今年は暖かい日もあるので、いずれひどい花粉症の症状に悩まされるであろう。40歳すぎからの花粉症とのつきあいであり、はじめは花粉症という言葉も知らなかったので、風邪にかかったと思っていた。もっとも熱は出ない風邪だが。hey feverという語がヨーロッパにはあることをそのころ知ったのだが、これが日本での花粉症にあたるとは知らなかった。物理学者のハイゼンベルクが若いときからアレルギーに悩まされており、1925年の5月にもひどいHeyfeverにかかった。それでついていた先生のボルンに休暇をもらってHelgoland島に逃避の旅行に出かける。ここで、ハイゼンベルクは量子力学の端緒となるアイディアをつかんで、それをすぐに論文にまとめる。これを読んだ先生のボルンはそこで使われた数学が奇妙であることに悩むが、それはボルンが若い大学生のとき数学で学んだマトリックスであることに気がつく。そして、ハイゼンベルクの論文を発展させる論文を学生のヨルダンと論文を書く。その後休暇から帰ってきたハイゼンベルクと3人でいわゆる三者論文 (drei M”annerarbeit) を書く。これが行列力学と呼ばれた、量子力学のはじまりであった。これは1925年のことである。年が明けて1926年にはド・ブロイの発想に触発されたシュレディンガーの波動力学と呼ばれた、また別の量子力学の論文が発表されることになる。天才は数学だって必要とあれば創り出す。ハイゼンベルクは行列の算法をそれが数学としてすでにあるということを、知らずに発明したのであった。ボルンとかシュレディンガーとかは40歳代であったが、他のハイゼンベルク、ヨルダンとか、また行列力学でも波動力学でもない独自の量子力学を発展させたイギリス人の若い学者ディラックもハイゼンベルクの一年先輩の物理学者パウリもみんな20歳代の前半の研究者であった。それで量子力学はKnabenphysik(少年の物理学)と呼ばれた。ちなみにKnabenは雅語であり、普通の日常生活で話される言葉としてはKnabenという語は使われない。日常での若者という意味のドイツ語はJungeである。いうならば、Knabenはゲーテの詩に出てくるような語である。〆【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 最近は全てに返事が出来ていませんが 問題点に対しては 適時、返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2025/11/09_初版投稿サイトTOPへFacebookXBlueskyHatenaCopy
2025年11月9日2025年11月9日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残すコンプトン効果を連立方程式の問題にしたら 【2020-12-02_シルビィアの量子力学_ウラン235】 (以下は全て転載内容)2020-12-02・以前から考えておりながら、なかなか実現しないのが高校数学の連立方程式の練習問題に、コンプトン効果のX線の波長のずれの計算をいれたらどうかと思っている。これは朝永の『量子力学 I』(みすず書房)にこのテーマが取り上げられており、昔一生懸命計算した覚えがある。なかなか計算ができなかったと思う。以前に購入していた『シルヴィアの量子力学』(岩波書店)があるのに日曜に気がついて、その個所だけを読んでみた。面倒そうな式がたくさん出てはいたけれど、それほど難しい計算ではない。どうしてこの問題が難しいと思ったのかはわからない。どうも数学では単に練習問題として出題される無味乾燥な問題が多いが、物理的にも意味のある演習問題であれば、解く人も身が入るのではなかろうかと思う。実は大学を定年退職した後の2年ほどはそういう方式のe-Learningのコンテンツをつくっていた時期があった(注1)。このe-Learningのコンテンツは高校程度だが、理系の大学生で落ちこぼれそうになった人を救うという名目でつくっていた。だが、このe-Learningのコンテンツには三角関数が全く入っていないので、そこを何とかしたいと思いながら、まだうまく三角関数の部分が書けていない。前につくっていた、e-Learningのコンテンツで中性子と原子核との衝突の問題を演習問題として取り上げたことがある。その問題を見て、技術者だった義弟が関心をもってくれた。これは中性子は水の原子と衝突して熱中性子になるための衝突回数だったかに関係している。現在の原発の中性子の減速材としては普通の水を使っている(注2)。どうも原子力だとかだと今はちょっと時代遅れの技術的な問題であるが、80年前くらいはホットな問題であった。(注1)これは私が80歳を越えていて、高校生のことを考えてはいないことの反映である。長い老後生活を楽しむために高校数学だって学んだら、興味深いのではないかという気持ちが強いからである。現役の高校生さん、すみません。現役のときにはこういう楽しさはわからないのは仕方がない。(注2)普通の水と普通でない水があるのかということだが、重水というのがある。これは陽子の代わりに重陽子D_{2}Oでできた水である。高速中性子の減速材としては普通の水(軽水)よりも中性子の衝突回数が少なく熱中性子になる。それで原子炉の減速材として重要視された(注3)。第2次世界大戦中にノールウェイに重水工場があったが、ここをナチスドイツが差し押さえたというので原爆開発をし始めるのではないかという恐れをもった連合国がこの重水工場を襲撃するという映画がある。タイトルは「テレマークの要塞」だったと思う。本当にあった話かどうかは知らない。重水は原爆の材料に直接になることはないと思うが、一般の人は原爆の材料と聞くと納得してしまうところがあるだろう。あくまで原子炉の減速材としての役割だと思う。もっともその原子炉を動かしてプルトニウム239をつくれば、このプルトニウムは原爆の材料になる。日本でも原子炉がたくさん原発での稼働していたので、プルトニウムが蓄積している。これは原爆の材料となる。それで日本の多量のプルト二ウムの蓄積は国際的には日本は原爆をつくるのではないかと、大いに危険視されている。(注3)ウラン235は核分裂するが、これは速度がおそい熱中性子といわれるものによる核分裂の断面積が大きい。天然のウランの99.3%はウラン238でこれは核分裂しない。だが、この多量にあるウラン238が中性子を1個吸収してプルトニウム239となると、これは高速の中性子によって核分裂する。だから、原子炉の中にある一定の割合でプルトニウムを混ぜて高速中性子で核分裂を起こさせることが考えられた。これは普通にはプルサーマルと呼ばれている。こうして蓄積したプルトニウムを消費しようと試みられている。ところが熱中性子による原子炉の制御に比べて高速中性子による原子炉の制御は難しいと言われており、それで原発への信用度が下がっているのが、現状である。原発の燃料のウラン235を燃やした(化学反応で燃やす燃焼とはちがう)後の核廃棄物の半減期が数万年とかと言われているので、この核廃棄物を安全に2万年も保管するかということが問題になるのだが、これはまだまったく技術的に解決していない。特に日本ではどうしたらいいかいいアディアがない。普通に考えられているのは核廃棄物をガラス状に焼結させて、地下深くに貯蔵することである。しかし、その2万年の間にその放射能に汚染された地下水がでて来ないという保証は誰もできない。原発はトイレ無きマンションだと言われる所以である。〆【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 最近は全てに返事が出来ていませんが 問題点に対しては 適時、返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2025/11/09_初版投稿サイトTOPへFacebookXBlueskyHatenaCopy
2025年11月9日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す小説『カード師』 【2020-06-09‗二重スリット_外村彰】 2020-06-09・小説『カード師』は朝日新聞に現在連載中の新聞小説である。作者は中村文則さん。 カード師の私の体験を書いている小説だが、ある人の遺書を私が読んでいるというところらしい。 らしいとしか言えないのは私にはちょっと面倒な設定であるので、途中から読むのを諦めたからである。 ところが今日は光とは電子とかの波と粒子の2重性の話が出てくる。これは量子力学をまじめに学ぶ人は一度は聞くテーマである。 いわゆる二重スリットの話といえば、ああ、あの話なのと分かるくらい有名な話である。もっとも一般の人にこの話がどのくらいわかるかはわからない。 朝永振一郎さんのエッセイにこれを簡明に説明したエッセイがあった。「光子の裁判」というタイトルだったか。 光は波と思われていたが、これが粒子性をもつものであることは光電効果かとかCompton効果からわかってきた。それで20世紀初頭にこの光の2重性の解釈に物理学者は苦しむことになる。 古典物理学的に言うと粒子であるものは波動であるとはいえないし、波動であるものは粒子であるとはいえない。だが、量子力学では光とか電子はその両者の性質をもつものとしてとらえる。 それはどういう実験的観測をするかによる。粒子としての位置を測定すると、それは粒子性を示すし、光の運動量をきっちり定めようとする実験をすると波動性が得られる。だったかな? 光は波動でも粒子でもない、両方の性質を併せ持つものであるという理解である。これは古典物理学の範疇ではその両方の特性をあわせもつことなどできないが、量子力学ではそれが可能である。いわゆる弁証的統合的理解が必要である。 いわゆる、2重スリットでは2重スリットのところで光の位置を観測しないかぎり波として振る舞う。ここを通過した後で光を粒子として観測したときにはその過去が変えられるという風に小説では書いてあったが、2重スリットのところでは何の観測もしていないならば、それは波であったのか粒子であったのかは判定することが出来ないという風に考えると理解している。 この話は何十年も量子力学の講義をした来た私にもわからない。 私のいまの理解では波としての性質は確率波として理解しており、1個1個は粒子性をもっているのではないかと思っていたが、それも私の思い込みで観測しないときには光が粒子性をもっていたか波動性をもっていたかは何も確定的にいうことができないというのが公式の見解であろう。 こういう事実を目に見えるように実験してくれたのが亡くなった、外村彰さんであった(注)。 光の粒子は一個一個粒子のようにスクリーン(または写真フィルム)上にやってくるが、それが長時間露光されていると、波動的なふるまいの光の干渉縞が観測される。 (注) 外村彰 『目で見る美しい 量子力学』(サイエンス社)は量子力学のテクストとしてはあまり数式の多くない写真の多いすばらしいテクストである。特に66-67ぺージの写真が今回の内容と関係している。この本の価格も2,800円とリーゾナブルである。FacebookXBlueskyHatenaCopy
2025年11月9日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残すC. N. Yangの方は 【2020-03-03‗97歳_清華大学】 (以下全て転載内容)2020-03-03・昨日F. J. Dysonが95歳で亡くったというニュースを書いた。一方、C. N. Yang(楊振寧)の方は現在97歳でまだ生きておられるらしい。彼は若いときに中国国籍からアメリカ国籍をとったが、2005年にまた中国国籍を再度取得したとインターネットに書いてあった。奥さんをなくされてか、54歳も年の離れた大学院生と再婚したと話題になったとあった。Yangには何度か国際会議で見かけたり、大学院時代に当時在学していたH大学のコロキュウム室で会ったことがある。小さな黒板に散乱論のセミナーの期日が書いてあったので、scattering theoryのセミナーをしているだねとO教授とY助教授にいわれていた(注)。このときにはイギリス人のKemmerも一緒に来られていたと思う。Yangはきりりとひきしまった顔の人であった。その後、1年後か2年後に大学院をおえてK大学の研究所で非常勤講師を数か月したが、ここで出会った女性の秘書さんがえらくこのYangさんのファンだと言われていたのが、さもありなんと思った。Yangは勤勉な研究者であり、hard workerという定評がある。これはアメリカの物理学会というか、物理学者の世界ではよく知られた事実であったらしい。ベンジャミンフランクリンが大好きで、C.N. Franklin Yangという名前をつけておられる。彼のお父さんは数学者であり、若いときにはアメリカに留学された方であったとか聞いた。中国が中華人民共和国になった後も清華大学に勤められていたとかで、Yangはときどき人民共和国に帰省したりしており、どちらかといえば、中華民国よりも中華人民共和国寄りであると聞いたことがある。これは共同研究者で、ノーベル賞の共同受賞者でもあった、T. D. Lee(李政道)が中華民国寄りであるのと対照的であるとか聞いていた。(注)この訪問後にYangの自著の小さな本を研究室の図書に寄贈するために送ってこられた。こういう細かな配慮がYangが好かれる原因の一つであるのかもしれない。〆【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 最近は全てに返事が出来ていませんが 問題点に対しては 適時、返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2025/11/09_初版投稿サイトTOPへFacebookXBlueskyHatenaCopy
2025年11月9日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残すF. J. Dysonの死 【2020-03-02‗95歳_ノーベル賞 】 (以下全て転載内容)2020-03-02 ・昨日の新聞でF. J. Dysonが亡くなったのを知った。95歳だったという。朝永、Schwinger, Feynmanの量子電磁気学の理論をまとめた理論をつくった人として知られている。同じ年代の物理学者C. N. YangはDysonが上の3人と一緒にノーベル賞をもらえなかったことについて上記3人にだけノーベル賞を授与した委員会の批判的であった。同じ業績に対して3人までの受賞者とするノーベル賞委員会の不文律があるのをC.N. Yangが知らないはずはない。だが、そういう不文律を破ることも、また意味があるくらい量子電磁気学のくりこみ理論に対するDysonの寄与は大きかったとYangは評価していたのだろうと思う。Yangももう高齢だと思うが、彼はまだ生存しているのではないかと思うが、定かではない。Dysonと聞くと、私の妻などはどうも自動で掃除する電気掃除機のようだねと言っていた。最近ではDysonという名前の自動掃除機が販売されている。〆【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 最近は全てに返事が出来ていませんが 問題点に対しては 適時、返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2025/11/09_初版投稿サイトTOPへFacebookXBlueskyHatenaCopy