2026年9月26日2026年9月16日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す武谷三男 【利益・便益と それに伴う被曝の有害さ・リスクを考察|三段階理論での現象把握を考察】‐9/26改訂 こんにちはコウジです。半年ごとの記事見直しです。 では、ご覧ください。内容を整理し、 主にリンクを見直しました。 現時点での英訳も考えています。 (以下原稿です)原爆の秘密【スポンサーリンク】 【1911年10月2日生まれ – 2000年4月22日没】 【出典:Wikimedia Commons‗MitsuoTaketani】武谷三男の研究基盤武谷三男は京大理学部で理論物理学の基礎を修めました。武谷三男の主な関心は原子核の振る舞いや素粒子論です。湯川秀樹や坂田昌一と共同で研究を進めていった時代の人です。 反ファシズムの立場だった武谷は原子核関連の開発と 発展についての発言で政治的ともいえる言葉を 残しています。原爆や水爆の 開発に対しての是非について発言しています。また会津に亡命していたロシア人女性と結婚したという 私生活上のエピソードも興味深いものがあります。 「まさかあの人と!」 とかいった話が出てきそうです。いずれにしても武谷は未だ曖昧だった原子核に対して 形を与えていった時代の人なのです。一つ一つ現象を見ていき、定式化していったのです。 何より武谷は独自の方法論を駆使したのです。科学哲学としての武谷三男武谷三男の三段階理論は、単なる物理学の説明方法ではありません。それは科学そのものの発展過程を説明する「科学方法論」 として構想されたものでした。武谷は、自然科学の理論は突然完成するのではなく、観測された現象を整理する段階その背後にある実体を想定する段階それらを統合して数学的理論を構築する段階という過程を経て発展すると考えました。この考え方は、 量子力学成立の歴史にもよく当てはまります。例えばスペクトル線の観測(現象論)原子模型の導入(実体論)量子力学の数式化(本質論)という形で、物理学は段階的に発展してきました。武谷の三段階理論は、こうした科学史の分析から導き出された方法論でもあり、物理学だけではなく科学哲学の議論でも取り上げられています。(更に後述します)湯川理論の理解者/坂田昌一との関係武谷は湯川秀樹の中間子理論を早い段階から評価した理論物理学者でした。当時はまだ実験で確認されていませんでしたが、理論の重要性を理解していた数少ない研究者の一人です。 また武谷は坂田昌一とも関係が深く、日本の素粒子理論の形成期に 関わっています。坂田の「坂田模型」は後のクォーク模型の先駆とも言われます。武谷は日本科学者会議の創設に関わるなど、科学者の社会的責任について積極的に発言した人物です。戦後日本の科学者倫理議論では欠かせません。科学方法論としての武谷三段階論武谷三男の名前を理解するうえで重要なのが、1942年に提示した「三段階論」です。 これは単なる物理学の計算方法ではなく、自然科学の認識がどのように発展していくのか を考えるための科学方法論でした。武谷は、自然を理解する過程を現象論的段階・実体論的段階・本質論的段階 という三つの段階から捉えました。現象論的段階まず、実験や観測によって得られた現象を整理し、その特徴を把握します。まだ 現象の背後にある実体を十分に説明できなくても、 観測された事実を整理することが出発点になります。実体論的段階次に、現象を生み出していると考えられる実体や模型を想定します。 原子や粒子など、直接観測される現象の背後にあるものを考えることで、 個々の現象をより統一的に理解しようとします。本質論的段階そして、現象と実体について得られた理解を、理論や数学的な体系 として統合していきます。武谷にとって重要だったのは、 単に最後に数式を作ることではなく、 科学の認識が歴史の中でどのような段階を経て深まっていくのかを捉えることでした。この方法論は、武谷自身の湯川理論への理解や、日本の素粒子論研究の発展 とも結びついています。坂田昌一は武谷三段階論の重要な理解者の一人であり、 両者は素粒子論グループの中で交流を続けました。日本物理学会の研究でも、 坂田が武谷の三段階論を深く理解し、その考え方を自身の素粒子論研究に 生かしていたことが紹介されています。:したがって武谷三段階論は、武谷個人の哲学にとどまらず、湯川秀樹・坂田昌一ら による日本の素粒子論研究を考えるための方法論として見ることができます。 (以下ウィキペディアから引用)①現象論的段階 量子力学の範疇に入る現象で 「測定にかかるもの」を そのまま記述する (第一)段階 ②実体論的段階 上記現象の方程式を作る前に、 現象論的段階に出てこない実体 (模型、粒子など)を知る (場合によっては新たに導入する) (第二)段階 ③本質論的段階 現象論的段階で記述される現象を、 実体論的段階で導入した実体も含めて、 方程式など主として 数学的手法で記述する (第三)段階 【引用ここまで】 その時代から数十年遡って思い返せば、 量子力学創設の時代以前にはすべての段階が 意識化されていなかったのです。また、米国のビキニ環礁での水爆実験に際し、 問題点を掘り下げて定量的な指標を考察して 放射線の許容量(がまん量とも表現しました)を 議論していきました。具体的に「急性の放射線障害」と「長期的に蓄積される効果」 を明確に区別して議論すべきだと主張していきました。 昨今の福島原発での処理水放出でこうした議論が 生かされているでしょうか。一考の価値ありです。当時、立教大学の教授であった武谷は、 放射線防護の概念を考え直し、 「自然科学的な対象の概念」 に留まらず、 放射線利用の「利益・便益と それに伴う被曝の有害さ・リスク ともいえる社会的概念」 として考え直した功績も指摘されています。また、別の方のブログで武谷の業績について 記載されているブログがあるのでご紹介しておきます。 武谷は本当に「色々な足跡」を残していますね。武谷三男と科学者の社会的責任武谷三男の活動は、素粒子論や科学方法論だけにとどまりません。 戦後には、核兵器や原子力をめぐる問題についても積極的に発言しました。特に1954年のビキニ水爆実験と第五福竜丸の被災は、武谷の科学者としての 社会的発言を考えるうえで重要な出来事です。武谷は『死の灰』を著し、放射線による 健康影響について、急性の影響だけでなく長期的な影響を含めて考える必要性を論じました。ここには、科学を単に自然現象の理解に限定せず、科学技術が社会に与える 影響まで考えようとした武谷の姿勢を見ることができます。ただし、現在の放射線防護の考え方はその後も大きく発展しています。そのため、 武谷の議論をそのまま現在の放射線防護基準に当てはめるのではなく、 科学的知識と社会的判断をどのように結びつけるかという問題提起として読むのが 適切でしょう。現在の放射線防護では、線量概念そのものも歴史的に変化してきています。武谷三男と湯川秀樹・坂田昌一武谷三男を単独の科学哲学者として見るだけでは、その研究の位置づけは十分に 理解できません。武谷は、湯川秀樹の中間子理論や、坂田昌一らによる 素粒子論研究と密接に関わりながら、自身の方法論を発展させていきました。湯川の中間子理論は、原子核を結びつける力を新しい粒子によって説明しようと するものでした。武谷はこの理論を早くから評価し、湯川や坂田と共同研究を進めました。特に坂田昌一との関係は重要です。日本物理学会の研究によれば、坂田は 武谷三段階論の理解者の一人であり、両者は日本の素粒子論グループの形成期から交流を続けていました。この関係をたどると、武谷三段階論は単なる科学哲学上の議論ではなく、 当時の日本の素粒子論研究を支えた研究方法論としても見ることができます。関連する物理学者武谷三男の研究は、湯川秀樹の中間子理論、坂田昌一の素粒子論、そして 戦後日本の科学方法論へとつながる流れの中で理解すると、その位置づけがより明確になります。◀ 前の人物:坂田昌一この分野の物理学者(素粒子論・科学方法論・日本の理論物理学)湯川秀樹 ― 中間子理論朝永振一郎 ― 量子電磁力学・くりこみ理論坂田昌一 ― 坂田模型・素粒子論武谷三男 ― 三段階論・科学方法論日本の物理学者をさらに年代順にたどる場合は、 日本の物理学者や20世紀生まれの物理学者もご覧ください。また、京都大学を中心とした日本の理論物理学の系譜については、 京都大学に関連する物理学者から関連人物をたどることができます。 〆最後に〆【スポンサーリンク】 以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 最近全て返事が出来ていませんが 全て読んでいます。 適時、改定をします。nowkouji226@gmail.com2018/01/01_初回投稿 2026/09/26_改定投稿サイトTOPへ 舞台別のご紹介へ 時代別(順)のご紹介 日本関連のご紹介 京大関連のご紹介 力学関係のご紹介へ 量子力学関係へAIでの考察(参考)【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】【2022年1月時点での対応英訳】 Base of TaketaniTaketani Mitsuo studied the basics of theoretical physicsat the Faculty of Science, Kyoto University.His main interests are nuclear behavior and particle physics.He is in collaboration with Hideki Yukawa and Shoichi SakataHe is a man of the era when he was advancing research. T aketani, who was in an anti-fascist positionRemarks on nuclear-related development and developmentHe leaves behind words that can be called political.He is about the pros and cons of atomic and hydrogen bombs.Also, a Russian wife who was in exile in AizuI am also interested in the relationship with. No way, with that personThere seems to be a story like that.In any case, Takeya was still ambiguousHe was a man of the era that gave shape to the atomic nucleus.He looked at the phenomena one by one and formulated them.Above all, Takeya established a methodology.Three step of TaketaniHere, as a methodology, a three-step theoryBecause Takeya used the reasoning calledI will introduce you. (Quoted from Wikipedia below)① Phenomenon stage A phenomenon that falls into the category of quantum mechanics “What is measured” Describe as it is (the first stage② Realistic stage Before making the equation of the above phenomenon Entities that do not appear in the phenomenological stage Know (models, particles, etc.) (In some cases, newly introduced) (Second) stage③ Essentialist stage Phenomena described at the phenomenological stage, Including the substance introduced at the realist stage, Mainly equations etc. Describe with mathematical methods (Third) stage [Quote so far]This Takeya’s theory is based on the measurement method.It can be said that the theory is conscious of the limitation of the observation problem.Looking back decades from that era,All stages before the era of quantum mechanicsWas not conscious.Also, during a hydrogen bomb test at Bikini Atoll in the United States,Dig into the problem and consider quantitative indicatorsRadiation allowance (also referred to as the amount of radiation)I continued to discuss.Specifically, “acute radiation injury”A clear distinction between “long-term accumulated effects”I insisted that it should be discussed.Takeya, who was a professor at Rikkyo University at that time,Rethinking the concept of radiation protection,Beyond the “concept of natural science objects”“Benefits / benefits of radiation use and the harmful effects of radiation exposure /As a “social concept that can be called a risk”His rethinking achievements have also been pointed out.FacebookXBlueskythreadsHatenaCopy
2026年9月25日2026年9月15日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す坂田 昌一【相互作用の過程を議論|電磁場の量子化を行った先駆者】‐9/25改訂 こんにちはコウジです。半年ごとの記事見直しです。 では、ご覧ください。内容を整理し、 主にリンクを見直しました。 現時点での英訳も考えています。 (以下原稿です)星新一ショートショート 【スポンサーリンク】 【1911年1月18日生まれ ~ 1970年10月16日没】 【”画像Wikipedia:坂田昌一(1949年)”アサヒグラフ(1949年5月4日号)】坂田昌一の生きた時代 坂田昌一は、日本の素粒子論の発展に 重要な役割を果たした理論物理学者です。湯川秀樹、朝永一郎らと同じ時代を生き、議論を交わしながら 日本の理論物理学の発展を支えた人物でもあります。京都帝国大学を卒業した後、名古屋帝国大学(現在の名古屋大学) で研究と教育に携わりました。 名古屋大学はその後、日本の素粒子研究の重要拠点となり、 多くの研究者を育てることになります。また意外な縁として知られているのが、 坂田昌一の妻・信子さん が SF作家の星新一と親族関係にあるという点です。 日本のSF文学を代表する作家と、日本の素粒子物理学を 代表する研究者が家族としてつながっていたというのは 興味深い話でしょう。その中で重要な役割を果たした人物の一人が、理論物理学者・坂田昌一です。 彼は素粒子論の発展に大きな影響を与えた「坂田モデル」を提唱し、 日本の素粒子研究の方向性を決定づけました。坂田昌一の名前は、一般的にはそれほど広く知られていないかもしれません。 しかし彼の理論は、後のクォークモデルや標準模型に至る 研究の流れの中で重要な役割を果たしています。また私生活では、SF作家・星新一の親族とも縁があるなど、 意外なエピソードも残されています。本記事では、坂田昌一の生きた 時代背景と研究、そして素粒子物理学への影響について整理していきます。坂田昌一の生きた時代坂田昌一は、日本の理論物理学が大きく発展していく時代に活動した 物理学者です。20世紀前半、日本の物理学界は急速に国際水準へと到達し、 多くの優れた研究者が登場しました。 坂田昌一もまた、その中心にいた研究者の一人でした。湯川秀樹・朝永振一郎と同時代の物理学者坂田昌一は、湯川秀樹や朝永振一郎と同じ時代を生きた理論物理学者です。 彼らは互いに議論を交わしながら、日本の物理学研究を発展させていきました。特に素粒子論の分野では、湯川秀樹が提唱した「中間子理論」が大きな 影響を与えます。この理論は、原子核内で働く強い力を説明するために 提唱されたものであり、日本の理論物理学が世界的に評価される契機となりました。坂田昌一もまた、この研究の流れの中で活躍した研究者であり、 湯川の中間子理論をめぐる議論にも深く関わっていました。京都帝国大学から名古屋帝国大学へ坂田昌一は京都帝国大学(現在の京都大学)で学びました。 当時の京都帝国大学は、日本の理論物理学研究の中心的な拠点であり、 多くの優れた研究者が集まっていました。その後、坂田昌一は名古屋帝国大学(現在の名古屋大学)で研究と教育に携わる ことになります。名古屋大学はその後、日本の素粒子研究の重要な拠点となり、 多くの研究者を輩出することになります。坂田昌一の研究と量子電磁力学坂田昌一の研究は、当時急速に発展していた量子論と素粒子論の分野において 重要な役割を果たしました。特に量子電磁力学(QED)の問題に対する 理論的な取り組みは、日本の物理学界の研究水準の高さを示すものでもあります。電磁場の量子化という問題当時の物理学では、電磁場を量子論でどのように扱うかという問題が 大きな課題となっていました。電子と電磁場の相互作用を理論的に 説明しようとすると、計算の途中で電子の質量が無限大に発散するという 問題が生じてしまうのです。この問題は量子電磁力学の根本的な困難の一つであり、 多くの研究者が解決を試みていました。坂田昌一の研究と量子電磁力学坂田昌一の研究は、素粒子の構造だけでなく、当時発展途上にあった 場の量子論の問題にも及んでいました。特に戦後の坂田は、 量子電磁力学(QED)における電子の自己エネルギーの発散という難問に取り組みました。坂田の理論的アプローチとくりこみ理論坂田昌一は、こうした発散の問題に対して、中間子を含む相互作用の構造から 問題を理解しようとする独自の理論的アプローチを試みました。坂田らは電子の自己エネルギーの発散を取り除くためにC中間子を導入する 理論を研究しました。この研究は、後に朝永振一郎らによって体系化される 「くりこみ理論」へ至る研究の流れの一つとして位置づけられます。ここで重要なのは、坂田昌一が「くりこみ理論を完成させた」 ということではありません。発散という難問に独自の物理的解釈を 与えようとした研究が、その後の場の量子論の発展と接続している点にあります。この時期の研究を朝永振一郎のくりこみ理論と並べて見ると、坂田と朝永が同じ時代の 異なる角度から素粒子論の根本問題に取り組んでいたことが分かります。 最終的には、この量子電磁力学の問題は朝永振一郎らによる 「くりこみ理論」によって体系的に整理されます。 この理論は後にノーベル賞の対象となり、現代物理学の基礎理論の一つとなりました。坂田昌一の研究もまた、この理論的発展の流れの中に位置づけられるものです。坂田モデルと素粒子論への影響坂田昌一の名前を最も有名にした業績が「坂田モデル」です。 これは現在のクォークモデルに先立つ素粒子の構造モデルであり、 素粒子物理学の発展に重要な役割を果たしました。坂田モデルとは何か坂田モデルでは、陽子・中性子・ラムダ粒子の三つを基本粒子と考え、 それらの組み合わせによって他の粒子が構成されると考えました。現在の標準模型ではクォークが基本粒子として扱われますが、 当時はまだその概念は存在していませんでした。 その意味で坂田モデルは、粒子の内部構造を考える 先駆的な試みだったと言えるでしょう。次世代の理論へとつながる研究坂田モデルはその後、素粒子論の発展の中でより 洗練された理論へと発展していきます。特に日本の理論物理学者である小林誠、益川敏英らの研究にも影響を与え、 日本の素粒子論の研究伝統の中で重要な役割を果たしました。このように坂田昌一の研究は、単独の理論としてだけでなく、 後の世代の研究者たちが新しい理論を構築するための基盤として機能したのです。関連する物理学者坂田昌一の研究は、湯川秀樹の中間子論、朝永振一郎のくりこみ理論、そして 坂田モデルからクォーク模型へと続く、日本の素粒子論の流れの中で見ると、より深く理解できます。◀ 前の人物:スブラマニアン・チャンドラセカール▶ 次の人物:武谷三男この分野の物理学者(素粒子論・量子場理論・日本の理論物理学)湯川秀樹 ― 中間子理論朝永振一郎 ― 量子電磁力学・くりこみ理論西島和彦 ― ストレンジネス小林誠 ― 小林・益川理論坂田昌一 ― 坂田モデル日本の理論物理学の流れをさらにたどる場合は、 京都大学関連の物理学者 も参考になります。また、20世紀の物理学者を生年順にたどる場合は、 20世紀生まれの物理学者のまとめ をご覧ください。坂田昌一から名古屋大学の素粒子論へ続く研究の系譜を考える場合は、 小林誠や 西島和彦 の記事へ進むことで、その後の素粒子論の展開を見ることができます。参考書籍素粒子物理学入門(Amazon) 湯川秀樹と日本の理論物理学(Amazon)〆最後に〆【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 最近全て返事が出来ていませんが 全て読んでいます。 適時、改定をします。nowkouji226@gmail.com2020/10/12_初稿投稿 2026/09/25_改定投稿サイトTOPへ 舞台別のご紹介へ 時代別(順)のご紹介 日本関連のご紹介 京大関連のご紹介 力学関係のご紹介へ 量子力学関係へAIでの考察(参考)【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】(2021年11月時点での対応英訳)The time when Dr. Sakata livedShoichi Sakata is a physicist who studied elementary particles. He lived in the same era as Hideki Yukawa and Ichiro Tomonaga, exchanged discussions, and opened the Physical Society of Japan.He is a graduate of Kyoto Imperial University and teaches at Nagoya Imperial University. In addition, Shoichi Sakata’s wife, Nobuko, is a cousin of science fiction writer Shinichi Hoshi.Dr. Sakata of Sakata modelShoichi Sakata’s achievements in theoretical physics are related to the quantization of electromagnetic fields. At that time, the problem was that the mass of the electron diverged when the field was quantized.Shoichi Sakata tries to solve the problem by using the concept of mesons. Finally, this problem in quantum electrodynamics will be explained by Shinichiro Tomonaga using renormalization theory. Shoichi Sakata is also a co-author of a paper on Hideki Yukawa’s mesons.It should be noted that Shoichi Sakata’s achievements are that he considered protons, neutrons, and lambda particles as elementary particles, and proposed a “Sakata model” for their composition. The Sakata model became the next theoretical foundation for Yoshiro Onuki, Toshihide Maskawa, and Makoto Kobayashi, and discussions proceeded. These are solid results that have led to discussions for the next generation.〆FacebookXBlueskythreadsHatenaCopy
2026年9月24日2026年9月14日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残すチャンドラセカール【1910年10月19日 ~1995年8月21日】 — 宇宙の運命を数式で描いた理論物理学者 —9/24改訂 こんにちはコウジです。半年ごとの記事見直しです。 では、ご覧ください。内容を整理し、 主にリンクを見直しました。 現時点での英訳も考えています。 (以下原稿です) 【チャンドラセカールの講義‗AMAZON(PR)】(Credit:Wikipedia)生年月日:1910年10月19日 没年月日:1995年8月21日宇宙に存在する星は、永遠に輝き続けるわけではありません。 やがて燃料を使い果たし、その最期を迎えます。 その「星の死の運命」を理論的に解き明かした人物がいます。スブラマニアン・チャンドラセカールは、 若くして恒星の進化に関する本質的な問題に挑み、 白色矮星の質量限界という画期的な概念を導きました。しかしその理論は当初、権威ある学者から強い批判を受け、 長い間正当に評価されませんでした。それでも彼は研究を続け、 やがて現代宇宙論の基盤を築く存在となっていきます。本記事では、チャンドラセカールの 「業績」「人物像」「後世への影響」を軸に、 その静かな情熱と知的探究の軌跡を丁寧に読み解いていきます。チャンドラセカールの業績概略 — 星の運命を決めた理論白色矮星と重力崩壊の問題チャンドラセカールが取り組んだのは、 燃え尽きた星がどのような状態になるのかという問題でした。恒星は核融合によってエネルギーを生み出していますが、 その燃料が尽きると重力によって収縮しようとします。 その結果として形成されるのが「白色矮星」です。しかし、どの星でも白色矮星として安定するわけではありません。 ある条件を超えると、さらに崩壊が進むと考えられていました。チャンドラセカール限界とは何かチャンドラセカールは、量子力学と相対論を組み合わせることで、 白色矮星が安定して存在できる質量の上限を理論的に導きました。この限界は現在「チャンドラセカール限界」と呼ばれ、 一般に太陽質量の約1.4倍として知られています。白色矮星では、電子の縮退圧が重力による収縮を支えています。しかし、 質量がこの限界に近づくと、電子の運動は相対論的な領域に入り、 従来の縮退圧だけでは安定性を保てなくなります。重要なのは、チャンドラセカール限界が 「すべての星が1.4太陽質量を超えると同じ運命をたどる」 という境界ではないことです。 これはあくまで白色矮星が安定して存在できる質量の上限です。その後に何が起こるかは、恒星の質量や内部構造、核融合の進行などによって 異なります。重い恒星では、最終的に重力崩壊や超新星爆発が起こり、 その残骸として中性子星やブラックホールが形成される場合があります。こうして見ると、チャンドラセカール限界の本当の意味は、 「星の最期を直接決定する数字」というよりも、 恒星が白色矮星という終着点にとどまれるかどうかを考えるための重要な境界にあります。この考え方は、恒星の進化だけでなく、重力崩壊やブラックホール研究へと つながる重要な入口になりました。ブラックホール理論への発展チャンドラセカールの研究は、後のブラックホール理論にもつながっていきます。彼は晩年に至るまで、一般相対性理論や重力崩壊の問題に取り組み続け、ブラックホールの数学的性質を詳細に研究しました。その成果は、宇宙論と理論物理学の発展に大きく寄与しています。チャンドラセカールの人物像 — 静かな情熱と孤独な探究若き天才と航海中の発見チャンドラセカールは若い頃、インドからイギリスへ向かう 船の中で、すでに質量限界のアイデアに到達したとされています。限られた資料と自身の思考のみで理論を構築していく姿は、非常に印象的です。権威との対立と長い沈黙彼の理論は当初、著名な天文学者アーサー・エディントンによって強く批判されました。この批判により、チャンドラセカールの研究は長い間主流から外れることとなります。それでも彼は研究をやめることなく、別の分野へと探究を広げていきました。一貫した美意識と研究姿勢チャンドラセカールは、理論の「美しさ」を非常に重視する研究者でした。数学的に整った構造や一貫性を追求する姿勢は、彼の多くの著作にも表れています。その態度は、単なる問題解決を超えた「科学的美学」とも言えるものです。後世への影響 — 宇宙論・物理学・科学思想への貢献宇宙論への決定的影響チャンドラセカール限界は、恒星の進化理論の基礎として現在も用いられています。超新星爆発やブラックホール形成の理解において、この概念は不可欠なものとなっています。理論物理学への方法論的影響彼の研究スタイルは、数学的厳密性と物理的直観を統合するものでした。このアプローチは、現代の理論物理学においても重要な指針となっています。現代における再評価と示唆チャンドラセカールは1983年にノーベル物理学賞を受賞し、その業績が広く認められました。彼の人生は、新しい理論がすぐに受け入れられるとは限らないこと、そして長期的な視点での探究の重要性を示しています。現代においても、未知の領域に挑戦する研究者にとって重要な示唆を与える存在です。まとめ:宇宙の限界を見抜いた静かな革命者チャンドラセカールは、若き日に宇宙の根本的な問題に挑み、その後も生涯にわたって理論物理学の発展に貢献しました。彼の導いた「質量限界」という概念は、星の運命を決定づける重要な鍵となりました。その人生は、困難や批判に直面しながらも、知的探究を続けることの価値を静かに示しています。そしてその成果は、現在の宇宙理解の基盤として、私たちの世界観を支え続けています。 関連する物理学者(思考の系譜)◀ 前の人物:アーサー・エディントン(掲載検討中)(チャンドラセカール限界を批判した歴史的関係)▶ 次の人物: スティーヴン・ホーキング (ブラックホール理論を極限まで発展)この分野の物理学者(宇宙論・重力理論)A・アインシュタイン(一般相対性理論の創始者)J・R・オッペンハイマー(重力崩壊研究・ブラックホール前史)ロジャー・ペンローズ(特異点定理・ブラックホールの数学的基礎)(恒星・宇宙物理学・理論物理学の視点)レフ・ランダウ ― 理論物理学・宇宙物理学マックス・ボルン ― 量子力学と理論物理学20世紀の物理学者を生年順にたどる場合は、 20世紀生まれの物理学者のまとめ もご覧ください。また、物理学者を年代順に追っていく場合は、 時代別の物理学者一覧 から関連する人物を探すことができます。ブラックホール理論への発展チャンドラセカールの研究は、後のブラックホール理論にもつながっていきます。彼は晩年に至るまで、一般相対性理論や重力崩壊の問題に取り組み、 ブラックホールの数学的性質を詳細に研究しました。この研究を理解するためには、まず アインシュタイン が構築した一般相対性理論が重要になります。また、恒星の内部構造や極限状態を考える理論物理学の流れでは、 ランダウ などの研究者とも関連づけて見ることができます。このように、チャンドラセカールの研究は「白色矮星の質量限界」だけで 完結するものではなく、恒星進化、重力崩壊、そしてブラックホールという 現代宇宙物理学の大きな問題へと広がっていきました。 〆さいごに〆以上、間違いやご意見などがございましたら、 以下のアドレスまでご連絡ください。 内容については確認のうえ、 適宜返信・改定を行わせていただきます。nowkouji226@gmail.com 2026/04/03_初版投稿 2026/09/25_改訂投稿舞台別のご紹介へ 時代別(順)のご紹介 アメリカ関連へ イギリス関連へ ケンブリッジのご紹介へ※本記事にはAIによる考察を含みます。 ※当サイトはAmazonアソシエイト・プログラムに参加しています(2026年春時点での対応英訳)Stars in the universe do not shine forever.Eventually, they exhaust their fuel and meet their end.There was a scientist who theoretically unraveled this “fate of dying stars.”Subrahmanyan Chandrasekhar tackled fundamental problems in stellar evolution at a young age and introduced the groundbreaking concept of a mass limit for white dwarfs.However, his theory initially faced strong criticism from leading authorities and remained unrecognized for a long time. Nevertheless, he continued his research and eventually became a foundational figure in modern cosmology.In this article, we will carefully trace his quiet passion and intellectual journey through three key perspectives: his achievements, his character, and his influence on later generations.Overview of Chandrasekhar’s Achievements — A Theory That Determined the Fate of StarsWhite Dwarfs and the Problem of Gravitational CollapseChandrasekhar focused on the question of what happens to stars after they burn out.Stars generate energy through nuclear fusion, but once their fuel is depleted, gravity causes them to contract. The result of this process is the formation of a white dwarf.However, not all stars can remain stable as white dwarfs. Beyond certain conditions, further collapse is expected to occur.What Is the Chandrasekhar Limit?By combining quantum mechanics and relativity, Chandrasekhar theoretically derived the upper mass limit at which a white dwarf can remain stable.This limit, now known as the Chandrasekhar limit, is approximately 1.4 times the mass of the Sun.Beyond this threshold, electron degeneracy pressure can no longer counteract gravity, and the star is expected to collapse further, potentially becoming a neutron star or a black hole.This discovery played a crucial role in understanding stellar evolution and the structure of the universe.Toward Black Hole TheoryChandrasekhar’s research later extended into the theory of black holes.Throughout his life, he continued to study general relativity and gravitational collapse, examining the mathematical properties of black holes in great detail.His contributions significantly advanced both cosmology and theoretical physics.Character of Chandrasekhar — Quiet Passion and Solitary InquiryA Young Genius and Discovery at SeaAs a young man traveling from India to England by ship, Chandrasekhar is said to have already conceived the idea of the mass limit.The image of him constructing a theory using only limited resources and his own reasoning is striking.Conflict with Authority and Long SilenceHis theory was initially strongly criticized by the prominent astronomer Arthur Eddington.As a result, Chandrasekhar’s work remained outside the mainstream for a long time.Even so, he did not abandon his research and instead expanded his inquiries into other fields.A Consistent Sense of Aesthetic in ResearchChandrasekhar placed great importance on the beauty of theory.His pursuit of mathematical elegance and internal consistency is evident throughout his many works.This attitude can be seen as a form of scientific aesthetics that goes beyond mere problem-solving.Influence on Later Generations — Contributions to Cosmology, Physics, and Scientific ThoughtDecisive Impact on CosmologyThe Chandrasekhar limit remains a fundamental concept in stellar evolution theory.It is indispensable for understanding phenomena such as supernova explosions and black hole formation.Methodological Influence on Theoretical PhysicsHis research style integrated mathematical rigor with physical intuition.This approach continues to serve as an important guiding principle in modern theoretical physics.Modern Reappraisal and ImplicationsChandrasekhar was awarded the Nobel Prize in Physics in 1983, and his achievements gained widespread recognition.His life demonstrates that new theories are not always immediately accepted, and highlights the importance of long-term intellectual pursuit.Even today, he provides valuable inspiration for researchers who venture into unknown fields.Conclusion — A Quiet Revolutionary Who Discovered the Limits of the UniverseChandrasekhar challenged fundamental questions about the universe at a young age and continued to contribute to theoretical physics throughout his life.The concept of the mass limit he established became a key to determining the fate of stars.His life quietly illustrates the value of continuing intellectual inquiry despite difficulties and criticism.And his achievements continue to support our understanding of the universe as a fundamental part of modern scientific thought.FacebookXBlueskythreadsHatenaCopy
2026年9月22日2026年9月12日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残すニコライ・N・ボゴリューボフ【固有値を使い定常状態を表現したロシア人】-9/22改訂 こんにちはコウジです。半年ごとの記事見直しです。 では、ご覧ください。内容を整理し、 主にリンクを見直しました。 現時点での英訳も考えています。 (以下原稿です)カピッツァの手紙 【スポンサーリンク】 【1909年8月21日 ~ 1992年2月13日】 【写真出典:Nikolay Bogoliubov Wikimedia Commons】ロシアの物理学者名前から分かるかとおもいますが、ボゴリューボフはロシアの物理学者です。本稿を記載するにあたり改めて ボゴリューボフの「人となり」 を調べてみましたが伝わっていません。 ボゴリューコフの名で検索をかけると 私のブログが上位に出てきてしまう有様です。ボゴリューボフという人物それでも出来るだけボゴリューボフの人となりを知る資料を追っていくと、 単なる「数学に強い理論物理学者」という人物像では収まりません。JINR(合同原子核研究所)の記録では、ボゴリューボフは物理学や数学だけでなく、 歴史、文学、言語学などにも広い教養を持ち、7つの言語を自在に扱う人物 だったと紹介されています。また、約70年に及ぶ研究活動の中で 300本以上の科学論文を残しました。さらに重要なのは、研究者としてだけでなく科学研究の組織を作る側にも回ったことです。 ボゴリューボフはJINRの理論物理学研究所を創設し、初代所長を務め、その後1965年から 1989年までJINRの所長を務めました。研究そのものだけでなく、 次世代の研究者が活動する場を作った人物でもあったのです。こうした経歴を見ると、ボゴリューボフの「人となり」は、個人の逸話だけではなく、 数学的な理論を作り、物理学へ応用し、さらに研究者が集まる場まで作った科学者 というところに現れているように思います。参考リンク JINR公式「Remembering founders: Nikolay Bogoliubov」 JINR公式:Nikolay Bogoliubovの人物紹介 このページには、人物像についてかなり使える情報があります。特に、 数学・物理だけでなく歴史、言語学、文学にも広い知識があった 7言語を扱った、300本以上の論文を残した、 JINR理論物理学研究所を創設、JINR所長を務めた、 「開かれた人柄」で、研究者・弟子を多数育てた という内容があり、今回の記事の**「人となりが伝わらない」 問題を補う資料として非常に適しています**。 さらに、生い立ちまで踏み込みたいなら、JINRの100周年記念人物伝もあります。 JINR「N. N. Bogoliubov: Life and Works」 JINR公式:Bogoliubovの生涯と業績 こちらは、1909年のニジニ・ノヴゴロド生まれ、キエフへの移住、学校教育を十分に 受けられなかった少年期、13歳からN. M.クリロフのセミナーで学んだこと、1924年に 最初の論文を書いたことなど、「人物伝」として面白い材料がかなりあります。 ボゴリューコフは20世紀初頭の生まれなので 革命前後のソビエト連邦で青年期を迎え政治的制約は存在しましたが、 理論物理学の分野では極めて高い水準が維持され、 独自の学派が形成されていました。因みに、プランクメダルを受けていますので ドイツ関係の画像を使っています。◆ ソ連理論物理学の中心人物ボゴリューボフは単なる理論家ではなく、ソビエト連邦 における理論物理学の制度的形成に大きく貢献した人物でした。革命後のソ連では、西側との学術交流が制限される時期もありましたが、それでも独自に高度な理論物理学の伝統が築かれます。その中心にいたのがレフ・ランダウニコライ・ボゴリューボフでした。ランダウが物理的直観と大胆な理論構築を得意としたのに対し、ボゴリューボフはより数学的厳密性を重視したといわれます。この二つの流れが交差することでソ連理論物理は 「物理的洞察」と「数学的構造」の 両輪を持つ学派へと発展しました。◆ ボゴリューボフ変換の本質いわゆる「ボゴリューボフ変換」は、生成消滅演算子を 線形変換することでハミルトニアンを対角化する手法です。これは単なる計算テクニックではなく、「どの状態が物理的に安定なのか」を定義し直す操作とも言えます。超流動ヘリウムでは励起スペクトルを導き、BCS理論ではクーパー対の準粒子記述を与えます。つまりボゴリューボフ変換は、ボース系(超流動)フェルミ系(超伝導)の両方に適用できる「普遍的道具」なのです。この普遍性こそが、彼の理論的影響力の大きさを示しています。ボゴリューボフの業績先の程「人となり」が伝わらないと記載しましたが、 実際には有益な活動をしていたようです。 ネット上で「超伝導の微視的理論の構築に重要な貢献」を ボゴリューボフがしているという指摘を見つけました、 また、「コペンハーゲン学派、Bogoliubov学派、ランダウ学派」 としてロシア人が評価する文章を見つけました。 “Influence of N. N. Bogoliubov on the Development of Theoretical Physics in the Soviet Union” (ランダウの孫弟子、Bogoliubovの弟子である V. G. Solovievの記載) 何よりも、数学的にボゴリューボフ変換と呼ばれる 考えを打ち出し行列形式で表される 状態遷移を対角化する事で表現していると言えるでしょう。ボゴリューボフは再正規化群散乱行列の公理化・量子場理論の厳密化にも貢献しています。 特に再正規化群の発展は、後の高エネルギー物理・臨界現象理論に大きな影響を与えました。ボゴリューボフ変換が物理学で果たした役割ボゴリューボフ変換の重要性は、単に数学的な行列を対角化することではありません。 量子多体系では、もとの粒子をそのまま扱うよりも、系の中で実際に現れる準粒子を 導入した方が、物理的な励起状態を理解しやすくなる場合があります。そこでボゴリューボフ変換では、生成・消滅演算子を別の演算子へ線形変換し、 ハミルトニアンを新しい準粒子の自由度で表現します。適切な変換を行うことで、 複雑な相互作用を含む問題から、 励起エネルギーや基底状態を読み取りやすい形へ整理することができます。この考え方は、1947年の弱く相互作用するボース気体の理論で重要な役割を果たしました。 ボゴリューボフは超流動ヘリウムの低エネルギー励起を説明する理論を構築し、 そこから得られるフォノン的な励起スペクトルは、後の超流動研究にも 大きな影響を与えました。:contentReferenceさらにこの考え方はフェルミ系にも拡張され、超伝導では電子と正孔の混合からなる 準粒子を扱うボゴリューボフ・バレンティン型の記述につながります。 南部陽一郎のノーベル講演でも、BCS理論に対してボゴリューボフとバレンティンが 準粒子の概念を独立に導入したことが説明されています。:contentReferenceつまり、ボゴリューボフ変換の本質は「定常状態を数学的に作ること」ではありません。 複雑な量子多体系を、物理的に意味のある準粒子と励起状態の問題として捉え直すこと にあります。 これが、ボース系の超流動からフェルミ系の超伝導まで、同じ数学的手法が広く使われる理由なのです。 この定常状態を使い、ボゴリューボフは現実にヘリウムの超流動状態を表しました。ボーズ粒子の超流動をボゴリューボフ変換で示しフェルミ粒子の超電導をボゴリューボフ変換で示す訳です。役にたちますね。〆 【スポンサーリンク】関連する物理学者◀ 前の人物:伏見康治▶ 次の人物:次の1909年生まれの物理学者この分野の物理学者(低温物理学・超伝導・統計物理学・量子場理論)レフ・ランダウニコライ・N・ボゴリューボフジョン・バーディーンレオン・クーパーカメルリング・オネス20世紀の物理学者を生年順にたどる場合は、 20世紀生まれの物理学者 もご覧ください。 〆以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 最近全て返事が出来ていませんが 全て読んでいます。 適時、改定をします。nowkouji226@gmail.com2020/10/08_初稿投稿 2026/09/22_改定投稿サイトTOPへ 舞台別のご紹介へ 時代別(順)のご紹介 ドイツ関連のご紹介へ 熱統計関連のご紹介へ 量子力学関係へAIでの考察(参考)【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】(2021年11月時点での対応英訳)Russian physicistAs you can see from the name, Bogoliubov is a Russian physicist. In writing this article, I re-examined Bogoliubov’s “becoming a person”, but it has not been conveyed. If you search by that name, my blog will appear at the top.Since Bogoryukov was born in the early 20th century, it should be considered that he was adolescent in the Soviet Union before and after the revolution and was conducting his research in a closed academic environment. By the way, he has received a Planck medal, so he uses images related to Germany.Bogoliubov achievementsAbove all, it can be said that he mathematically expresses the idea called Bogoliubov transformation by diagonalizing the state transitions expressed in the form of a matrix.In other words, the steady state of observation It is created using mathematical methods. In other words, reduce it to the mathematical eigenvalue problem. It represents a steady state.The result of doing mathematical work What kind of phenomenon is supported It can be explained physically. TwiceUsing this steady state, Bogoliubov He actually represented the superfluid state of helium. Bogoliubov transformation shows the superfluidity of boson particles Superconductivity of fermions by Bogoliubov transformation It is a translation to show. It will be useful.〆FacebookXBlueskythreadsHatenaCopy
2026年9月21日2026年9月11日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す伏見康治【原子力三原則|対象の美・折り紙を考察した物理学者|国会議員】9/21改訂 こんにちはコウジです。半年ごとの記事見直しです。 では、ご覧ください。内容を整理し、 主にリンクを見直しました。 現時点での英訳も考えています。 (以下原稿です)紋様の科学【伏見康治著】 【スポンサーリンク】【1909年6月29日 ~ 2008年5月8日】 【画像出典:Koji Fushimi Wikimedia Commons】伏見先生の多彩な活躍伏見康治の歩みを日本の物理学史の中で見ると、 仁科芳雄、朝永振一郎、湯川秀樹らから続く、 日本の物理学研究の形成過程ともつながっています。日本の物理学者を生年順に追う場合は、 日本人物理学者のまとめ もご覧ください。 伏見康治(こうじ)は愛知県名古屋市に生まれます。 そして東京で育ちます。 名古屋に生まれ東京で育った伏見先生の経歴は、一見すると特別な出自を 強調するものではありません。しかし、その後の歩みは、日本の科学史 そのものと重なっていきます。伏見先生は20世紀の生まれの人ですから、 それはそれで納得です。そして、その後の動きが活発です。伏見康治の多彩な活躍伏見康治(ふしみ・こうじ)は1909年、愛知県名古屋市に生まれ、 1933年に東京帝国大学理学部物理学科を卒業しました。卒業後は東京帝国大学の助手を経て大阪帝国大学へ移り、1940年には教授となります。 大阪では原子核物理学や統計物理学を研究するとともに、戦後の日本の 物理学研究を支える組織づくりにも深く関わりました。1956年には大阪大学理学部附属原子核実験所長、1959年には大阪大学理学部長 を務め、1961年から1973年までは名古屋大学プラズマ研究所長を務めました。 大阪大学と名古屋大学の名誉教授となったのも、こうした長い研究・教育活動の延長にあります。さらに伏見先生の活動は大学の中だけにとどまりません。1977年から1982年までは 日本学術会議会長を務め、1983年から1989年までは参議院議員として科学政策にも関わりました。こうして見ると、伏見康治は単に統計物理学で業績を残した理論物理学者 というだけではありません。研究、教育、研究機関の運営、科学政策、そして科学の社会への 伝達までを横断した人物として捉えるほうが、その多彩な活動を理解しやすいでしょう。 以下では国会議員も勤めた「伏見先生」について語っていきたいと思います。 「先生お願いします!」って感じです。一貫した科学者サイドの見識科学者として伏見先生は 「原子力の平和利用」を推進し、大きな役割を果たしました。 日本における原子力の研究がとても大事であると認識しています。 被爆国である日本独自の視点から平和利用を考えていました。 具体的に「原子力三原則」でまとめています。伏見康治を語るうえで重要なのが、茅誠司とともに提唱した 「自主、民主、公開」の原子力三原則です。これは原子力研究を日本の自主性のもとで進め、民主的に扱い、その内容を 公開するという考え方でした。1954年に日本学術会議が決定した 「原子力の三原則」は、その後の原子力基本法にも取り入れられています。戦後の日本で原子力研究をどう進めるのかという問題は、単なる科学技術上の 問題ではありませんでした。広島・長崎への原爆投下を経験した日本で、 科学者が原子力にどう向き合うのかという社会的・倫理的問題でもありました。対称の美物理学を研究・体感する中で伏見先生は 「対称の美」に対する美学を持っていました。 特に、その数式的な表現と万人受けする印象に着目しています。例えば自分の子供が幾何学模様に対して関心を抱いたら、 そこを掘り下げて「どこまで習ったの?」とか 「何で学校で教えないんだろう?」とか色々な視点で 議論していったのです。1960年代には 「紋様の科学」としてまとめています。水素エネルギーの推進朝日新聞が水素エネルギー開発の全面的に バックアップを表明したタイミングで、 伏見先生は原子力開発に関わっていきます。1952年に朝日新聞の木村部長(科学部の部長)から 声をかけられたことがきっかけです。伏見先生は2月に朝日講堂で開催された公開講演会で講師として 「核融合の現状と問題点」と題して講演しました。その時の御縁と元来、伏見先生が 水素エネルギーを支持していたこともあり 次世代燃料として水素を勧めておられました。 クリーンなエネルギーだと考えていたのです。科学と社会をつなぐ役割伏見先生の特徴は、純粋な理論物理学者でありながら、科学を研究室の中に閉じ込めなかった点にあります。20世紀中盤、日本では科学技術が国家政策と密接に結びつき始めました。戦後復興、高度経済成長、そして原子力利用という流れの中で、「科学者は社会に対して何を語るべきか」という問いが現実の問題として現れます。伏見先生は、この問いに対して明確に科学は公開され、民主的に議論されなければならないという立場を取りました。原子力三原則における「公開」という理念は、単なる情報公開ではなく、科学技術を専門家だけのものにしない市民が理解できる形で説明するという思想でもありました。この姿勢は、今日の科学コミュニケーションやリスクガバナンスの考え方に先行するものだったと言えるでしょう。科学者が政策に関与することの難しさと責任を、伏見先生は実践を通じて示したのです。関連する物理学者◀ 前の人物:ネイサン・ローゼン▶ 次の人物:ニコライ・N・ボゴリューボフこの分野の物理学者(日本の物理学・統計物理学・原子核物理学)仁科芳雄朝永振一郎湯川秀樹伏見康治ニコライ・N・ボゴリューボフ中嶋貞雄日本の物理学者を生年順にたどる場合は、 日本人物理学者のまとめ もご覧ください。東京大学から日本の物理学研究の流れをたどる場合は、 東京大学関連の物理学者 も参考になります。〆【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 問題点に対しては 適時、返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2023/04/02‗初稿投稿 2026 /09/21‗改訂投稿舞台別のご紹介へ 時代別(順)のご紹介 力学関係へ 電磁気関係へ 熱統計関連のご紹介へ 量子力学関係へAIでの考察(参考)【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】(2023年4月時点での対応英訳)Dr.Fushimi’s Diverse ActivitiesKoji Fushimi was born in Nagoya, Aichi Prefecture. And he grows up in Tokyo. I somehow imagine that he was born and raised in an ordinary office worker family. Fushimi-sensei was born in the 20th century, so that makes sense.However, there has been a lot of activity since then. After graduating from the University of Tokyo with a degree in physics and working as an assistant at the University of Tokyo, He joined the newly established Osaka University and in 1934 he became the Dean of the Faculty of Science.In 1936, he assumed the post of Director of the newly established Nagoya University Plasma Research Institute. as a result He will serve as an emeritus professor at two old-system universities.He also served as president of the Science Council of Japan from 1952. For six years from 1958, he was involved in policy as a member of the House of Councilors belonging to the New Komeito Party from the standpoint of a scientist.Below, I would like to talk about Mr. Fushimi, who also served as a Diet member. It’s like, “Teacher, please!”Consistent Scientist InsightProfessor Fushimi played a major role in promoting the “peaceful use of nuclear energy.” He recognizes that nuclear research in Japan is very important. He was thinking about peaceful uses from the unique perspective of Japan, a country that suffered atomic bombings. He specifically sums it up in the “Three Principles of Atomic Energy.”He drafted the three principles of “independence, democracy, and openness”, and jointly with Seiji Kaya, he considered “three principles of nuclear power of Kaya and Fushimi”.beauty of symmetryFushimi-sensei had an aesthetic for “symmetrical beauty.” In particular, he focuses on its mathematical expression and universal impression.For example, if my child was interested in geometric patterns, I would delve into it and discuss things from various perspectives, such as “How much did you learn?” is. In the 1960s he summarized it as “The Science of Patterns”.Promotion of hydrogen energyWhen the Asahi Shimbun announced its full support for hydrogen energy development, Professor Fushimi became involved in nuclear power development.In 1952, he was approached by the head of the Asahi Shimbun, Mr. Kimura (head of the science department).In February, Prof. Fushimi gave a lecture titled “Current Status and Problems of Nuclear Fusion” at a public lecture held at the Asahi Auditorium.At that time, Dr. Fushimi originally supported hydrogen energy, and he recommended hydrogen as a next-generation fuel. He was clean energy, he thought.FacebookXBlueskythreadsHatenaCopy
2026年9月20日2026年9月10日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残すネイサン・ローゼン【ワームホールを考案|EPRパラドックスで相関を追及】‐9/20改訂 こんにちはコウジです。半年ごとの記事見直しです。 では、ご覧ください。内容を整理し、 主にリンクを見直しました。 現時点での英訳も考えています。 (以下原稿です)【Nathan Rosen, 1909年3月22日 – 1995年12月18日】パラドックス大図鑑 【スポンサーリンク】 【1909年3月22日 – 1995年12月18日】【Photo:Nathan Rosen Wikimedia Commons】ユダヤ人物理学者ローゼンその名前は Nathan Rosen。 ローゼンはイスラエル建国後はイスラエルでも活動しました。 ニューヨーク出身のユダヤ人物理学者。MITで学んでいます。ローゼンはいわゆるワーム・ホールの発案者でもあり、 EPRパラドックスを考えた三人のひとりです。それは EPRとは Einstein–Podolsky–Rosen の頭文字から名付けられています。量子的ふるまいの局所性を独自の視点で展開しました。ユダヤ人物理学者ローゼンその名前はNathan Rosen、ネイサン・ローゼンです。ローゼンはニューヨークに生まれ、MITで学んだ後、アインシュタインとの 共同研究によって物理学史に名前を残しました。イスラエル建国後には イスラエルでも研究・教育活動を行っています。ローゼンはいわゆる「アインシュタイン=ローゼン橋」の研究者であり、 さらにEPRパラドックスを考えた三人の一人です。EPRとは、Einstein–Podolsky–Rosenの頭文字です。1935年にアインシュタイン、 ボリス・ポドルスキー、ネイサン・ローゼンが発表した論文では、量子力学が 物理的実在を完全に記述しているのかという根本的な問題が提起されました。簡単に言えば、空間的に離れた二つの粒子について、一方を測定すると、 もう一方の測定結果との間に強い相関が現れるという量子力学の性質が 問題になったのです。EPRは、局所性を前提に考えるならば、量子力学だけでは 物理的実在を十分に記述できないのではないか、と論じました。ここから「量子もつれとは何なのか」「物理量は観測される前から決まっているのか」 「量子力学には隠れた変数を追加する必要があるのか」という問題が生まれます。 そして後にジョン・ベルが、この問題を実験的に検証可能な形へと発展させました。 簡単に言えば「もつれた状態」で空間的 距離を置いたスピン(別の議論では光子) が妙なふるまいを示すのです。量子的なもつれ(エンタングルメント)の 記載に修正の必要があるのか、 相対論での記述に修正が出来るのか、 突き詰めていく手掛かりになります。EPRパラドックスにおいてはもつれ (エンタングルメント) の状態が議論され、「EPRの 前提の下では量子力学の確率的手法を 再現で きない場合がある」と考えると良いです。または 「統計的な条件設定をしなければいけない」 特殊な場合があって、量子もつれが背景にあり 「理解しにくい現象もあるんだなぁ。」 という前提から話始めた方が良い、 と考えた方が良いです。◆ アインシュタインとの共同研究ネイサン・ローゼンの名が物理史に残る最大の理由は、 アルベルト・アインシュタインとの共同研究にあります。1935年、アインシュタインとローゼンは一般相対性理論の方程式を 解析する中で、空間の異なる領域を数学的に接続する解を発見しました。これが後に「アインシュタイン=ローゼン橋」と呼ばれ、 現在ではワームホールの原型として知られています。当時の目的はSF的な空間移動ではなく、ブラックホール特異点を 物理的に理解できる形に書き直すことでした。しかしこの研究は、 後に宇宙論・量子重力理論・情報理論へと広がる重要な出発点となります。◆ EPR論文の目的同じ1935年、アインシュタイン、ボリス・ポドルスキー、 ローゼンの三人は有名なEPR論文を発表しました。この論文の目的は、量子もつれを肯定することではなく、「量子力学は未完成ではないか?」と問いかけることでした。アインシュタインは量子力学の確率的解釈に強い違和感を持ち、 遠く離れた粒子が瞬時に関連する情報が光速制限を超えるように 見えるという点を問題視しました。この議論は後に量子情報科学の基礎問題へと発展していきます。◆ 現代物理への影響EPRパラドックスは長い間「哲学的議論」と見なされていました。しかし 1960年代にジョン・ベルがベルの不等式を導入したことで、この問題は 哲学的な議論だけではなく、実験によって検証できる問題へと変わりました。その後のベルテストでは、量子力学が予測する相関がベルの不等式を破ることが 確認され、局所的な隠れた変数理論では量子力学の予測を説明できない ことが示されていきました。ただし、ここから直ちに「超光速通信が可能になった」という意味ではありません。 量子もつれには非常に強い相関がありますが、 それを利用して光速を超えて任意の情報を送れるわけではありません。実験によって、局所的実在論・量子力学 のどちらかを放棄せざるを得ないことが問われています。現在では量子もつれは、 量子暗号・量子コンピュータ・量子テレポーテーション の基礎原理として利用されています。つまりローゼンの問題提起は、「量子論の欠陥指摘」から「未来技術の基盤」へと意味を変えていったのです。新しい理解生成ベルの不等式が成り立ち、 量子テレポーテーションが議論される昨今、 基礎理論の解釈は完全になされているか 色々な側面で説明がなされています。量子論も相対論も其々で様々な説明(効果)を 可能にしているのですが、完全に全てを 記述できると言えないのでしょうか。 この記載をするとどうしても 歯切れの悪い文章になってしまいます。 「局所的実在論」という言葉がありますが、 物理量の把握には究極の難しさがあります。私もこの場でうまく説明が出来ているとは思えません。 ただ、物理の記載であることは確かで、 発展していく可能性を含めた議論ではあります。関連する物理学者◀ 前の人物:アルベルト・アインシュタイン▶ 次の人物:ジョン・スチュワート・ベルこの分野の物理学者(量子力学・量子もつれ・量子情報)アルベルト・アインシュタインネイサン・ローゼンジョン・スチュワート・ベルニールス・ボーアヴェルナー・ハイゼンベルクポール・ディラック量子力学の発展を物理学者の生年順にたどる場合は、 時代別の物理学者 もご覧ください。 〆 【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 最近は全て返事できていませんが 問題点に対しては適時、返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2022/01/04_初稿投稿 2026/09/20_改定投稿舞台別のご紹介へ 時代別(順)のご紹介 アメリカ関連のご紹介へ 電磁気関係へ 量子力学関係へAIでの考察(参考)【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】(2022年1月時点での対応英訳)Jewish physicist RosenIts name is Nathan Rosen. Rosen was also active in Israel after the founding of Israel. He is a Jewish physicist from New York. He had studyied at MIT.Rosen was also the inventor of the so-called wormhole, He is one of the three in the EPR paradox. Relativistically complete locality of quantum behavior It was pointed out that it could not be explained (it would be inconsistent), The description in the quantum mechanical model and the relativistic model It cannot be described at the same time. Quantum entanglement Is it necessary to correct the description? Is it possible to correct the description in relativity? It will be a clue to the end.Various explanations (effects) for both quantum theory and relativity It’s possible, but it’s completely everything Can’t you say that you can describe it? If you make this description, The text will be crisp. There is a word “local realism”, Understanding the physical quantity is the ultimate difficulty. However, it is certain that it is a description of physics, It is a discussion that includes the possibility of development.〆FacebookXBlueskythreadsHatenaCopy
2026年9月19日2026年9月9日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残すジョン・バーディーン【トランジスタの発明とBCS理論で二度のノーベル賞受賞】‐9/19改訂 こんにちはコウジです。半年ごとの記事見直しです。 では、ご覧ください。内容を整理し、 主にリンクを見直しました。 現時点での英訳も考えています。 (以下原稿です)金属絶縁体転移 【スポンサーリンク】 【1908年5月23日 ~ 1991年1月30日】 【出典:John Bardeen Wikimedia Commons】超電導現象の理論的基礎を与えたバーディン本稿は何度も追記したいです。それは私にとって、関心のある低温電子物性の話だからです。今回は極低温での現象理解を進めたバーディンについて ご紹介致します。バーディンは二回のノーベル賞を受けています。 ジョン・バーディーンは、ノーベル物理学賞を2度受賞した唯一の人物です。1956年にはベル研究所でのトランジスタ効果の研究によって、 ウィリアム・ショックレー、ウォルター・ブラッテンとともに受賞しました。そして1972年には、レオン・クーパー、ロバート・シュリーファーとともに 超伝導のBCS理論を確立した功績で、二度目のノーベル物理学賞を受賞しています。(※マリー・キュリーは異分野での受賞でした。) 一回目はベル研での仲間とのトランジスタの発明、 二回目はイリノイ大学の仲間たちと確立したBCS理論です。前述したカメリー・オネスの超電導現象の発見以後、その現象を説明する為に色々な理論が試みられたでしょうが、イリノイ大学のバーディンを中心とした3人がBCS理論を確立します。バーディン、レオン・クーパー、ロバート・シュリーファー 3人の名前の頭文字を並べてBCS理論と呼ばれます。このコンビの始まりはバーディンがクーパーを招聘する事から始まります。そこにバーディン研究室の大学院生、シュリーファー が加わり研究が進みます。後に話す中嶋氏とのエピソードやベル研での仲間たちとのトランジスタの 発明を考えてみて下さい。物理で理論を切り開いていく楽しさが感じられる のではないでしょうか。(他の専門分野の方でも感じられるでしょう。) 自分自身で思索にふける時間を経て、 議論をすることで理論が発展していくのです。 特にバーディンは議論の上手い人だったといえます。バーディンは議論をして「興奮する時間」 を大事に使えたのです。また別ブログで少しバーディンについてつぶやいてみました。◆ 静かな天才 ― バーディンの研究スタイルジョン・バーディーンは、20世紀物理学者の中でも 極めて珍しいタイプの研究者でした。多くの理論物理学者が強烈な個性やカリスマ性で知られるのに対し、 バーディンは控えめで穏やかな人物として知られています。議論では相手を否定するのではなく、相手の考えを最後まで聞く問題の核心だけを静かに指摘する数式より物理的直観を重視するという姿勢を貫きました。ベル研究所でもイリノイ大学でも、多くの若手研究者が自然に 彼の周囲へ集まった理由は、この「議論の安心感」にあったと言われています。 超伝導は前出の2人と議論をまとめ、トランジスタ発明のチームはベル研の仲間 であるウィリアム・ショックレーとウォルター・ブラッテンでした。BCS理論も、強烈なひらめきというより、長期間の 対話と試行錯誤の積み重ねから生まれた理論でした。◆ なぜBCS理論は革命だったのかBCS理論の本質は、単に超伝導を説明したことではありません。それまで物理学では、フェルミ粒子(電子)とボース粒子は根本的に異なる存在 として扱われていました。しかしBCS理論では、電子がペア(クーパー対)を 形成することで集団的にボース粒子的振る舞いを示すことが明らかになりました。これは、個々の粒子ではなく「集団状態」が物理現象を決定するという 考え方を確立した出来事でした。この視点は後に、超流動原子核物理中性子星内部量子情報科学へと広がっていきます。BCS理論とは BCS理論の内容はフォノン(音子)を介した電子が対になった結果(クーパ対の考え方)、そのコンビがスピンを打ち消し合って結合するという理論でした。相転移温度をその理論で説明し、今日、超伝導を考えるうえで理論の基礎となっています。このBCS理論の重要な点は、フェルミ粒子である電子が単独で凝縮するのではなく、 電子同士がクーパー対を形成し、その対が集団として量子力学的にコヒーレントな 状態をつくるところにあります。電子はフェルミ粒子なので、同じ量子状態を単純に 共有することはできません。しかし、フォノンを介した有効な引力によって、 反対向きの運動量と反対向きのスピンをもつ電子が対を形成します。 この「クーパー対」は全体としてボソン的な性質を持つ複合粒子として 扱うことができ、多数の対が集団的な量子状態を形成します。その結果、個々の電子の運動だけでは説明できない巨視的な量子状態が生まれ、 超伝導という現象として観測されます。BCS理論の重要性は、超伝導を単なる 「抵抗がゼロになる現象」としてではなく、電子の集団的な量子状態として説明したことにあります。 そもそも、金属中を移動する電子を単純な質点のモデルで考えると 単純な古典的粒子モデルでは、電子は格子振動や散乱の影響を受け必ず電気抵抗が生じます。 何らかの相互作用が起きて金属内での抵抗が生じます。ところが、電子の波動関数を考え、 波動的側面が顕著に現れる状態を考えていくのが超伝導現象だと言えます。そして現象発現の条件として大事な尺度の一つが 温度だったのです。2023年時点での関心は 遷移を起こす温度のメカニズムを解明する事です。 そして1986年に発見された高温超伝導体は、従来のBCS理論だけでは 完全に説明できず、現在も物性物理学最大級の未解決問題となっています。。現在での転移温度は「高温超電導」 と言ってもマイナス百℃以下ですので 転移温度に至るまでは液体ヘリウムや 液体窒素を使って冷却しなければいけません。超電導現象の応用 実用化しているリニアモーターカーや量子コンピューター等の応用技術も冷却した上で超電導現象を実現しているので、コストと安定性が課題となっています。転移温度が変わっていって、より常温に近い温度で現象を起こすことが出来ればメリットは非常に大きいです。温度に関わるメカニズムとして中嶋貞雄がバーディンに与えたヒントが繰り込み理論の応用でした。バーディーンと中嶋貞雄――日本での議論がBCS理論につながるバーディーンの超伝導研究を考えるうえで、私が特に興味深いと感じるのが、 中嶋貞雄とのつながりです。1953年の東京・京都で開催された国際理論物理学会議で、バーディーンは中嶋の 電子・フォノン相互作用に関する研究に注目しました。その後、 バーディーンは中嶋の研究資料を持ち帰り、さらに中嶋をイリノイ大学へ招いています。1957年に発表されたBCS理論の論文にも、中嶋の1953年の研究が参考文献として記載 されています。もちろん、BCS理論そのものはバーディーン、クーパー、シュリーファー による共同研究です。しかし、こうした国際的な議論と研究交流の積み重ねを見ると、 超伝導理論が一人の天才のひらめきだけで生まれたものではないことが分かります。私自身が興味を持っている低温電子物性という視点から見ると、この 「研究者同士が議論し、手法や問題意識を交換する過程」こそ、 バーディーンの研究史で特に面白い部分なのです。そのヒントは手法だったともいえますが、電気伝導に関わる要素(素粒子)が 「どういった条件で」、「どういった役割を果たすか」が重要です。 その手掛かりの一つが「ゆらぎ」に関するメカニズムではないか と考えている人が居ます。今後の大きな課題です。また、最後に一つ気付きました。バーディンはランダウと同じ年に生まれています。 そして、没年は大きく違います。二人の人生を比べてしまうのは失礼ですが、 バーディンは「色々な人と沢山議論した人」だという事は出来るでしょう。 きっと、 バーディンは色々な視点で長く考えていました。関連する物理学者◀ 前の人物:レフ・ランダウ▶ 次の人物:レオン・クーパーこの分野の物理学者(低温物理学・超伝導・凝縮系物理学)カメリー・オネス ― 超伝導現象の実験的発見レフ・ランダウ ― 低温・凝縮系の理論ジョン・バーディーン ― BCS理論・トランジスタレオン・クーパー ― クーパー対ロバート・シュリーファー ― BCS理論中嶋貞雄 ― 電子・フォノン相互作用と超伝導研究低温物理学や電子の集団的な振る舞いをさらに追う場合は、 熱・統計力学のまとめ も参考になります。20世紀の物理学者を生年順にたどる場合は、 20世紀生まれの物理学者 もご覧ください。〆以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 時間がかかるかもしれませんが 必ず返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2020/09/15_初稿投稿 2026/09/19_改定投稿【スポンサーリンク】舞台別のご紹介へ 時代別(順)のご紹介 アメリカ関連のご紹介へ 熱統計関連のご紹介へ 量子力学関係へAIでの考察(参考)【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】(2021年11月時点での対応英訳)Theoretical basis of superconducting phenomenonI would like to add this article many times. That’s because it’s about the low-temperature electronic characteristics that I’m interested in. This time, I would like to introduce Birdin, who has advanced the understanding of the phenomenon at extremely low temperatures.Birdin has received two Nobel Prizes. The first is the invention of the transistor with his colleagues at Bell Labs, and the second is the BCS theory described below. Since the discovery of the superconducting phenomenon of Camery Ones mentioned above, various theories may have been tried to explain the phenomenon, but three people led by Birdin of the University of Illinois establish the BCS theory. Bardeen, Leon Cooper, and Robert Schrieffer are called BCS theory by arranging the initials of the three names.The beginning of this duo begins with Birdin inviting Cooper. Schrieffer, a graduate student from the Badin laboratory, will join the group to advance the research.What is BCS theory?The content of BCS theory was the theory that as a result of pairing electrons via phonons (sounds) (the idea of Cooper pairs), the combinations cancel each other out and combine. The phase transition temperature is explained by the theory, and today it is the basis of the theory when considering superconductivity. The mystery of this BCS theory is that the fermion electrons take a condensed state. Originally, electrons that cannot take the same state are paired and bosonized, and the superconducting phenomenon observed as a macroscopic phenomenon is realized.In the first place, considering the electrons moving in a metal as a simple mass model, it is impossible for a negative charge to move around freely and without resistance between nuclei with a positive charge. Some interaction occurs and leads to resistance. However, it can be said that the superconducting phenomenon is to create a state in which the wave function appears prominently by considering the wave function of electrons.One of the important measures for that condition was temperature. At this time, the interest is to elucidate the temperature mechanism that causes the transition. At present, the transition temperature is less than minus 100 ° C even if it is called high-temperature superconductivity, so it is necessary to cool it with liquid helium or liquid nitrogen until the transition temperature is reached.Application of superconducting phenomenonSince the superconducting phenomenon is realized after cooling the applied technologies such as linear motor cars and quantum computers that have been put into practical use, cost and stability are issues. If the transition temperature changes and the phenomenon can occur at a temperature closer to room temperature, the merit is very great.The hint given to Bardeen by Sadao Nakajima as a mechanism related to temperature was an application of renormalization theory. It can be said that the hint was a method, but “under what conditions” and “what role” the elements (elementary particles) involved in electrical conduction play are important. Some people think that one of the clues is the mechanism related to “fluctuation”. This is a big issue for the future.FacebookXBlueskythreadsHatenaCopy
2026年9月18日2026年9月8日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残すレフ・D・ランダウ【反磁性の研究を行い優れた教科書を残した天才】‐9/18改訂 こんにちはコウジです。半年ごとの記事見直しです。 では、ご覧ください。内容を整理し、 主にリンクを見直しました。 現時点での英訳も考えています。 (以下原稿です)マグネット・ベース 【スポンサーリンク】 【1908年1月22日生まれ ~ 1968年4月1日没】 【Photo:Lev Landau In Wikimedia Commons】レフ・ダヴィドヴィッチ・ランダウその名をフルネームで表記すると、 レフ・ダヴィドヴィッチ・ランダウです。 日本では教科書でその名を目にしてる人が 多いのではないでしょうか。ランダウは20世紀を代表する理論物理学者の一人です。 1962年には「凝縮物質、特に液体ヘリウムについての先駆的な理論」 によってノーベル物理学賞を受賞しました。ランダウの仕事は液体ヘリウムだけにとどまりません。 量子力学、統計物理学、原子核物理学、素粒子物理学、プラズマ物理学など 非常に広い分野で研究を行い、さらに多くの理論物理学者を育てました。 その意味では、ランダウは一つの研究成果だけで評価するよりも、 20世紀の理論物理学そのものを体系化した人物として見る方が その全体像を理解しやすいでしょう。ノーベル賞受賞の前年、ランダウは交通事故で重傷を負いました。 そのため1962年の授賞式には出席できず、ノーベル賞のメダルと賞状は モスクワの病院でスウェーデン大使から手渡されました。 ノーベル賞の授賞式でも、ランダウが事故から完全には回復していないことが 紹介されています。 そして何より、ランダウは天才です。個人的には、 アインシュタイン、ランダウ、ノイマン、ディラックらが 20世紀理論物理学を象徴する天才群であったように思えます。 パウリも仲間に入れたい気がしますが、情熱溢れる イメージが私の中ではあるのでパウリは何となく別枠。 ⇔パウリは情熱の理論家です。さて、 ランダウは石油技術者の父と教育者の母から生まれます。 12歳で微分法を理解し、14歳で国立大学に入学、 物理数学科と化学学科を同時に履修します。19歳で学士の称号を得るとレニングラード物理工学研究所で 電磁場の中での電子性質である量子電磁気学を研究していきます。 そしてコペンハーゲンにあるボーアの研究所で大きな影響を受けました。◆ ランダウ学派という教育革命レフ・ダヴィドヴィッチ・ランダウの功績は研究成果 だけではありません。彼は20世紀でも特異な 「教育者」でもありました。ランダウは独自の教育制度「ランダウ・ミニマム」 と呼ばれる試験制度を作ります。これは理論物理学を学ぶ学生に対して、古典力学電磁気学量子力学統計力学連続体力学など広範囲の分野を徹底的に理解しているかを口頭試問で 確認するもので、合格できる学生は極めて少数でした。しかし、この厳格な教育からソ連物理学を代表する多くの理論家が育ち、 「ランダウ学派」と呼ばれる強力な研究コミュニティが形成されました。研究者個人ではなく「知的共同体」を作った点も、 ランダウの大きな遺産と言えるでしょう。◆ 『理論物理学教程』という巨大プロジェクトランダウは弟子のエフゲニー・リフシッツとともに 『理論物理学教程(Course of Theoretical Physics)』を執筆しました。このシリーズは、理論物理学を体系として完全に再構成するという野心的な試みでした。現在でも世界中の大学院で使用されており、 多くの物理学者にとって「理論物理学の共通言語」となっています。ランダウの主な業績その後、ケンブリッジでディラック・カピッツァと 共同研究を進め所謂「ランダウ反磁性」の研究をまとめます。その後にチューリッヒでパウリと共同研究をした後に ランダウはレニングラードに戻りました。こうした海外の研究者との交流はとても大事で、 互いに刺激を与えあって自分の研究性の方向を 確認する為の経験を積んでいくことが出来ます。単純には他大学のゼミに参加して普段交流しない人達と 議論出来るだけでも自分の成長につながるのです。また、自分の作った意見(理論)が他人の目から見て 色々な整合性を持っているか、 問いかけることが出来るのです。 自分の言葉を発信する「界隈(かいわい)」 を出来るだけ早く理解していきましょう。物理学者は初学者に限らず、 常に向上していく機会を作るべきだと思います。ランダウの幸せだった時期を中心に記載しましたが モスクワの研究所で要職を務めていながらスターリン批判 をしたことで刑務所に服役したりしています。ランダウは単なる批判ではなく、反スターリン的ビラ作成独裁批判を行った為、1938年逮捕されました。 そしてランダウを救ったのはピョートル・カピッツァでした。ランダウの逮捕とカピッツァしかし、ランダウの人生は研究上の成功だけで構成されていた訳ではありません。 1938年、スターリン体制下のソ連で逮捕され、約1年間拘束されました。 ランダウの釈放には、物理問題研究所を率いていた ピョートル・カピッツァの働きが大きな役割を果たしました。その後のランダウは、政治的な圧力の中でも研究を続け、 液体ヘリウムの超流動理論をはじめとする重要な成果を残しました。 この経験を考えると、ランダウを単純に「天才物理学者」としてだけ描くのではなく、 20世紀の政治と科学の緊張関係の中で研究を続けた人物として見ることができます。そして交通事故にあったりもしています。 水素爆弾の製造にも不本意ながら加担しています。 そして60歳でこの世を去ります。ただ、ランダウの業績は不変です。準粒子・フェルミ流体やギンツブルグ&ランダウ理論は 低温凝縮系の世界を大きく進ませました。ヴィタリー・ギンツブルグと提唱した ギンツブルグ=ランダウ理論は、超伝導を秩序変数という概念で説明し、 後の凝縮系物理学の基礎となったのです。関連する物理学者◀ 前の人物:エドワード・テラー▶ 次の人物:ジョン・バーディーンこの分野の物理学者(低温物理学・凝縮系物理学・理論物理学)エドワード・テラーレフ・ダヴィドヴィッチ・ランダウジョン・バーディーンニールス・ボーアヴォルフガング・パウリポール・ディラックさらに、20世紀の物理学者を生年順にたどる場合は、 20世紀生まれの物理学者もご覧ください。 〆AIがライティング【Catchy】 【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 問題点に関しては適時、 返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2020/09/24_初稿投稿 2026/09/18_改定投稿サイトTOPへ 舞台別のご紹介へ 時代別(順)のご紹介 アメリカ関係のご紹介へ ケンブリッジ大学のご紹介へ イギリス関係のご紹介 デンマーク関係へ 熱統計関連のご紹介へ 量子力学関係へAIでの考察(参考)【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】 (2021年11月時点での対応英訳)Lev Davidovich LandauThe full name is Lev Davidovich Landau. Landau is a well-known Jewish-Russian scientist who may have seen textbooks in Japan. He received the Nobel Prize in Physics in 1962 for his “Theoretical Study of Helium Near Absolute Zero”. Now, Landau is born of a father of oil engineers and a mother of educators.He understood differential calculus at the age of 12, entered a national university at the age of 14, and he took both physical mathematics and chemistry at the same time. When he earned his bachelor’s degree at the age of 19, he studied quantum electrodynamics, which is an electronic property in an electromagnetic field, at the Leningrad Institute of Physical Engineering. And I was greatly influenced by Bohr’s laboratory in Copenhagen.Landau’s main achievementsHe then collaborated with Dirac Kapitsa in Cambridge to conclude his so-called “Landau diamagnetism” research. Landau then returned to Leningrad after collaborating with Pauli in Zurich.I mainly described Landau’s happy times, but he was sentenced to jail for criticizing Stalin while he was in a key position at a research institute in Moscow. And he is also in a car accident. He is also reluctantly involved in the production of hydrogen bombs. And he died at the age of 60.However, Landau’s performance remains unchanged. Quasiparticle-Fermi liquid theory and Ginzburg-Landau theory have made great strides in the world of low-temperature condensate systems.〆FacebookXBlueskythreadsHatenaCopy
2026年9月17日2026年9月7日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残すエドワード・テラー【ハイゼンベルグに学ぶ|原爆開発推進・水爆の父】-9/17改訂 こんにちはコウジです。半年ごとの記事見直しです。 では、ご覧ください。内容を整理し、 主にリンクを見直しました。 現時点での英訳も考えています。 (以下原稿です)オッペンハイマーとテラー 【スポンサーリンク】 【1908年1月15日生まれ ~ 2003年9月9日没】 【Wikimedia Commons「Edward Teller」】水爆の父・テラーエドワード・テラーは「水爆の父」と呼ばれることの多い物理学者です。 しかし、水素爆弾の開発はテラー一人の仕事ではありません。 理論物理学者、実験物理学者、技術者、そして国家の研究機関が参加した 巨大な研究開発の結果として実現しました。テラーはその中でも、第二次世界大戦中から熱核兵器の可能性を追究し、 戦後には水素爆弾開発を強く推進した中心人物でした。1950年代初頭には J・ロバート・オッペンハイマーら 慎重派との対立を深めながら、熱核兵器の研究を強く主張しました。テラーはソ連における政治的抑圧を身近な問題として受け止めていました。 友人であったレフ・ランダウが ソ連当局に逮捕されたことも、テラーの政治的な考え方に影響を与えた出来事の一つです。ただし、テラーとオッペンハイマーの対立はこの一つの出来事だけで説明できません。 水爆開発、核兵器政策、科学者の国家への関与など、複数の問題が重なっていました。 その後、水素爆弾の実現には、テラーの構想を含む複数の研究者の仕事が 組み合わされました。特にスタニスワフ・ウラムらのアイデアと結びついた 構成は、後に「テラー=ウラム方式」として知られるようになります。 1952年11月には、米国が最初の本格的な熱核実験「アイビー・マイク」を行いました。したがってテラーを理解するときには、「一人で水爆を作った人物」と考えるよりも、 熱核兵器という新しい研究目標を強く推進し、その後の米国の核兵器研究体制にも 大きな影響を与えた物理学者と捉える方が適切です。エドワード・テラーはハンガリーのブタペストで弁護士の父と 4か国語を使う母から生まれました。ユダヤ系であったエドワード・テラーの父は職を追われ、 ハンガリー・ドイツ・アメリカと移住を重ねました。ただ、学問の世界では良い出会いに恵まれています。 ハイゼンベルクの下で博士論文を書き、 ボーアの居たコペンハーゲンで有益な時間を過ごします。有益な時代に原子核物理学や分子物物理で多くの業績を残しました。 ヤーン・テラー効果やBETの吸着等温式は その時代のエドワード・テラーの業績です。◆ テラーと「冷戦科学」という時代エドワード・テラーの研究人生を理解するためには、 第二次世界大戦後に始まった「冷戦」という時代背景を避けて通ることはできません。戦後、アメリカとソ連は核兵器を中心とした軍事的緊張関係に入り、 科学者は純粋研究者であると同時に国家安全保障の担い手となりました。エドワード・テラーにとって核兵器開発は、単なる軍事研究ではなく 「独裁国家への抑止力」という意味を持っていました。ナチズムから逃れ、さらにスターリン体制下の粛清を知った彼にとって、 全体主義は現実的な恐怖だったのです。そのためテラーは、強力な兵器こそ戦争を防ぐ科学は国家防衛に奉仕すべきという立場を生涯維持しました。この思想は多くの物理学者と対立を生みますが、 同時に冷戦期アメリカの科学政策を大きく方向づけることにもなりました。◆ ロスアラモス以後のテラー水素爆弾開発後、テラーはカリフォルニアに設立された ローレンス・リバモア国立研究所の創設に深く関わります。ここは単なる研究所ではなく、核抑止戦略を科学的に支える拠点として設計されました。テラーは理論家でありながら政策提言にも積極的で、 後年にはレーザー兵器や宇宙防衛構想(SDI)にも関与します。科学者が国家戦略へ直接関わるという姿は、 20世紀後半の新しい研究者像を象徴していました。。マンハッタン計画とテラーアインシュタインと共にエドワード・テラーは 原爆の研究をアメリカ政府に働きかけ、 実際にその計画は進んでいきます。政治的な思想ではドイツ時代に資本主義の崩壊を 目の当たりにしたテラーは共産主義に対して 当初は関心を抱いていたようです。ところが、友人のランダウがソ連政府に 逮捕された時期に反共思想を強めます。反共思想と新兵器の開発にかける 熱意が結びついていくのです。 そしてまた、 核兵器に対して考えていきます。テラーとオッペンハイマーテラーを語るうえで避けられないのが、 J・ロバート・オッペンハイマーとの対立です。第二次世界大戦中、二人はマンハッタン計画に関わりましたが、 戦後の水素爆弾開発をめぐって立場が大きく分かれていきます。 テラーはソ連の核兵器開発を背景として熱核兵器の開発を強く主張しました。 一方、オッペンハイマーは水爆開発について慎重な立場を取り、 核兵器競争そのものがもたらす危険性を問題視するようになります。この対立は単なる二人の物理学者の個人的な確執ではありません。 「科学者は国家安全保障のためにどこまで兵器開発へ関わるべきなのか」 という、核時代の科学者が直面した大きな問題でもありました。1954年のオッペンハイマー安全保障聴聞会では、テラーが政府側の質問に対して 証言したことが、二人の関係を決定的に悪化させました。 そのためテラーとオッペンハイマーの対立は、現在でも 「科学・国家・安全保障・倫理」を考える象徴的な出来事として語られています。テラーとローレンス・リバモア戦後のテラーを理解するうえで重要なのが、 アーネスト・ローレンスとの関係です。 二人は第二の核兵器研究所を必要と考え、1952年に現在の ローレンス・リバモア国立研究所につながる研究拠点の創設を推進しました。リバモアは、ロスアラモスとは異なる研究拠点として、 熱核兵器を含む核兵器研究を担うようになります。 ここには、テラーが「水爆の父」と呼ばれる背景と、 彼が単なる一人の理論物理学者から国家的な研究体制を動かす人物へと 変化していった過程を見ることができます。 実際に、エドワード・テラーは原爆・水爆と兵器の 開発の中心に居ました。水爆を「My・Baby」 と呼んでいたと言われています。その立場は変わらず、 生涯その事を悔いることはなかったと言われています。 エドワード・テラーはそんな研究人生を歩みました。関連する物理学者◀ 前の人物:湯川秀樹▶ 次の人物:マックス・ボルンこの分野の物理学者(量子力学・原子核物理学・核兵器研究)湯川秀樹エドワード・テラーJ・ロバート・オッペンハイマーヴェルナー・ハイゼンベルクニールス・ボーアレフ・ランダウハンス・ベーテエンリコ・フェルミ〆【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 時間がかかるかもしれませんが 必ず返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2020/09/22_初稿投稿 2026/09/17_改定投稿舞台別のご紹介 時代別(順)のご紹介 ドイツ関係のご紹介へ イギリス関係のご紹介へ アメリカ関係のご紹介へ UCBのご紹介へ デンマーク関係へ 量子力学関係へAIでの考察(参考)【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】(2021年10月時点での対応英訳)Teller, the father of the hydrogen bombThis main person,Edward Teller, called the father of the hydrogen bomb, confronts Oppenheimer in his later years. Edward Teller was born in Budapest, Hungary, to a lawyer’s father and a four-language mother. Edward Teller’s father, who was of Jewish descent, was forced out of work and emigrated to Hungary, Germany, and the United States. However, I am blessed with good encounters in the academic world. He writes his dissertation under Heisenberg and spends a useful time in Copenhagen, where Bohr was. Under such circumstances, he made many achievements in nuclear physics and molecular physics. The Jahn-Teller effect and the adsorption isotherm of BET are the achievements of Edward Teller.Manhattan Project and TellerSo,Edward Teller, along with Einstein, urged the US government to study the atomic bomb, and the plan actually goes on. In political terms, Teller, who witnessed the collapse of capitalism during the German era, seemed initially interested in communism. However, when his friend Landau was arrested by the Soviet government, he intensified his anti-communism. His anti-communist ideas and enthusiasm for the development of new weapons are linked. and again,Teller and OppenheimerAfter that time, the feud between Edward Teller and Oppenheimer began. Edward Teller and Oppenheimer are at the other end of the spectrum, especially when it comes to the use of the atomic bomb as a weapon. Edward Teller was a proponent of atomic bomb development, and Oppenheimer was a denial.In fact, Edward Teller was at the center of the development of atomic and hydrogen bombs and weapons. He is said to have called the hydrogen bomb “My Baby”. His position has not changed and it is said that he never regretted it throughout his life. Edward Teller went through such a research life.〆FacebookXBlueskythreadsHatenaCopy
2026年9月16日2026年9月7日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す湯川秀樹【電子の数百倍の質量を持つ中間子の仮説を提唱しノーベル賞を受賞】‐9/16改訂 こんにちはコウジです。半年ごとの記事見直しです。 では、ご覧ください。内容を整理し、 主にリンクを見直しました。 現時点での英訳も考えています。 (以下原稿です)【1907年1月23日生まれ ~ 1981年9月8日没】 【Photo: Wikimedia Commons / Public Domain】湯川秀樹の生きた時代旅人 【スポンサーリンク】湯川秀樹の書いた本「旅人」は湯川秀樹の自伝です。その湯川秀樹は朝永振一郎と同じ時代を生きています。互いに刺激しあう関係を築き、共に時代のテーマに取り組んでいます。伝記を読んでいくと湯川秀樹が情熱を持って物理学に取り組んでいた様子が分かります。色々な所で引用されているのですが「アイデアの秘訣は、執念である。」と湯川秀樹は明言しています。一見不可解な 現象を紐解き、単純明快な原理を抽出 する仕事をしてきたのです。湯川秀樹の興味そもそも、湯川秀樹の関心は物質の相互作用であって、 その世界は全く目に見えません。湯川秀樹は情熱で綿密に話を組み立てます。 重力・電磁力以外の微細粒子間の相互作用を 引き起こす「強い力」に着目して議論を進めました。湯川秀樹の時代には場の考えが発展していく過程で 原子の中での相互作用を湯川秀樹は中間子という概念で 相互作用を紐解いたのです。湯川秀樹のアイディアは 「場を担う粒子」という考え方です。そもそも、重力(万有引力)を考えると二つの質点が 存在した時にその質点同士が互いを引き合い 現象が説明されます。この明快なモデルに反して、「電子の数百倍の質量をもつ中間子の仮定」は当時の観測とは別に設定されていて、 ボーアやハイゼンベルクは内容の吟味を求めていたと言われます。湯川秀樹のノーベル物理学賞は1949年で、受賞理由は 「核力についての理論的研究に基づく中間子の存在予言」です。 パウエルのπ中間子発見は、湯川理論を強く裏付けた重要な 出来事ですが、「発見が契機となって受賞した」と 単純化しない方が正確でしょう。 「物理での概念確立の危うさ」を感じてしまう歴史です。 理論的な要請と言えなくはないですが、 辻褄合わせの為の概念は色々な角度から 真剣に議論されなければいけません。別の言い方をすれば、その概念を磨き上げて 納得のいく説明をすることが出来た時に 「大きな仕事をした」と言えるのではないでしょうか。湯川の中間子は、現代の意味での「強い相互作用の基本的な力の媒介粒子=グルーオン」 そのものではありません。現在は、クォーク間の強い相互作用を媒介する基本粒子は グルーオンであり、π中間子は陽子・中性子間に働く核力を記述する有効的な交換粒子 として理解されます。京都大学の解説でも、π中間子による湯川の描像は核子間の距離が 離れた領域では有効ですが、近距離ではそれだけでは説明できないことが示されています。 【参考:京都大学オープンキャンパス情報】湯川秀樹はボゾンの一つとして中間子を 「仮定」して強い力を説明してみせたのです。 この仮定での中間子が物理的にどういった意義を持つか 一般の人々にも分かりづらいと思えます。◆ 湯川秀樹と「日本発の理論物理」という転換点湯川秀樹の受賞は、日本人初のノーベル賞であり、日本の基礎科学研究が 世界的水準に到達した象徴的出来事でもありました。湯川秀樹の業績が持つ本当の意味は、単なるノーベル賞受賞にとどまりません。それは「日本から世界標準の理論物理が生まれた」という歴史的転換点でした。20世紀前半まで、物理学の中心はヨーロッパにありました。理論はドイツ、実験は英国という構図の中で、日本の研究者は 主に「学ぶ側」に位置していたのです。しかし、湯川秀樹の中間子理論は違いました。それは既存理論の改良ではなく、未観測の粒子を理論から予言し自然界の力の構造を説明し後に実験が理論を追認するという、アインシュタイン以来の理論物理の王道的成功でした。この出来事によって、日本の物理学は「輸入学問」から「創造する学問」へと変わります。そして同時代には、朝永振一郎が量子電磁気学の 理論を発展させ、日本の理論物理は世界との競争の中で 大きく成長していきました。つまり二人は、日本物理学の“創世記”を完成させた存在だったと言えるでしょう。湯川秀樹こぼれ話 湯川秀樹の業績は京都大学の原子力研究を初めとして 日本の物理学者たちに引き継がれています。個人的なご縁としては私が幼少時代を過ごした東京板橋にあった 理化学研究所の分室でも研究をしていたようです。少し時代がずれますが、私の故郷で彼が活動していたと思うと 不思議な気持ちです。ノーベル賞受賞者の朝永振一郎もそこに居ました。一昔前は、理化学研究所は本駒込にも拠点があり、 今でもホンダ朝霞の近くに拠点があります。何故か、と調べを続けていったら埼玉県にある平林寺に 創始者の一人である大河内氏の墓所があります。そんな歴史的背景を知ると、理化学研究所が 単なる研究機関ではなく、日本の科学史の 連続性を象徴する場所であるようにも感じられました。また、湯川秀樹は ラッセル=アインシュタイン宣言にも参加しています。 この宣言は後のパグウォッシュ会議へと発展し、 科学者による核軍縮運動の原点となりました。 以前のブログでもこの関連の話は盛り込んでいますが 私は研究者が異議を唱えても社会が破滅的な兵器を作る現実を 大変、問題だと思っています。政治家の暴走をとめないと。アインシュタインであれ湯川秀樹であれアシモフであれ 社会が叡智を集結して対応することを私は夢見ています。関連する物理学者◀ 前の人物:朝永振一郎▶ 次の人物:エドワード・テラーこの分野の物理学者(素粒子物理学・原子核物理学・日本の理論物理学)朝永振一郎湯川秀樹セシル・パウエル坂田昌一仁科芳雄ヴェルナー・ハイゼンベルクニールス・ボーア〆【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 全て返信は出来ていませんが 適時、返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2020/09/07_初稿投稿 2026/09/16_改定投稿サイトTOPへ 舞台別のご紹介へ 時代別(順)のご紹介 日本関連のご紹介 京大関連のご紹介 纏めサイトTOPへ 電磁気関係へ 量子力学関係へAIでの考察(参考)【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】(2021年10月時点での対応英訳)The time when Hideki Yukawa livedThe book “Traveler” introduced at the beginning is an autobiography of Hideki Yukawa. Hideki Yukawa lives in the same era as Shinichiro Tomonaga. We build relationships that inspire each other and work together on the themes of the times. As you read the biography, you can see that Hideki Yukawa was passionate about physics.Although quoted in various places, Hideki Yukawa clearly states, “The secret of the idea is obsession.” At first glance, he has worked to unravel mysterious phenomena and extract simple and clear principles.Hideki Yukawa’s interestIn the first place, Hideki Yukawa’s interest is in the interaction of matter, and the world is completely invisible. He assembles the story with passion.He focused on the “strong force” that causes the interaction between fine particles other than gravitational and electromagnetic forces. In the days of Hideki Yukawa, Hideki Yukawa unraveled the interaction in atoms with the concept of mesons in the process of developing the idea of the field.Hideki Yukawa’s idea is the idea of ”particles that carry the field.” In the first place, considering gravity (universal gravitational force), when two mass points exist, the mass points attract each other and the phenomenon is explained.Contrary to this clear model, the “assuming of a meson with a mass several hundred times that of an electron” was set separately from the observations at that time, and it is said that Bohr and Heisenberg sought scrutiny of the content.Eventually, Hideki Yukawa received the Nobel Prize, triggered by “Meson Observation” by British physicist C. Powell in 1947. It is a history that makes us feel “the danger of establishing a concept in physics”.It can be said that it is a theoretical request, but the concept for Tsuji matching must be seriously discussed from various angles. In other words, when you can refine the concept and give a convincing explanation, you can say that you have done a big job.Hideki Yukawa explained the strong force by assuming a meson as one of the bosons.Hideki Yukawa Spill StoryHideki Yukawa’s achievements have been handed down to Japanese physicists, including nuclear research at Kyoto University. As a personal connection, it seems that I was doing research in a branch office of RIKEN in Itabashi, Tokyo, where I spent my childhood. It’s a little out of date, but it’s strange to think he was active in my hometown.Nobel laureate Shinichiro Tomonaga was also there. Until recently, RIKEN also had a base in Hon-Komagome, and it still has a base near Honda Asaka. If you continue to investigate why, there is a graveyard of Mr. Okochi, one of the founders, at Heirinji Temple in Saitama Prefecture. Knowing such a spiritual aspect of RIKEN, I somehow convinced myself.Hideki Yukawa also participates in the Russell-Einstein Declaration. I’ve included this related story in my previous blog, but I think the reality of society making catastrophic weapons is a big problem, even if researchers disagree. Whether it’s Einstein, Hideki Yukawa or Asimov, I dream of society gathering wisdom and responding.FacebookXBlueskythreadsHatenaCopy