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ロバート・フック【ばねの運動に働く力学を法則化した英国人】-10/18改訂

こんばんは、コウジです。半年ごとの改定です。
今回の改定は英訳部の削除が主です。
ご覧ください。(以下原稿です)

「ニュートンに消された男(中島秀人著)」
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【1635年7月28日生まれ ~ 1703年3月3日没】

ロバート・フック(Robert Hooke, 1635–1703)
― 忘れられた万能科学者 ―

肖像画(再建) | 出典 : Wikimedia Commons
「Portrait of Robert Hooke (reconstruction, 2004)」 (Wikipedia 英語版)

 

第1章 生い立ちと初期教育

ロバート・フックは1635年7月18日、イギリス南部ワイト島の
フレッシュウォーター村に生まれました。父ジョン・フックは
英国国教会の牧師で、家庭は敬虔で教育熱心でした。幼い頃から
機械細工に興味を持ち、模型を作る手先の器用さで周囲を驚かせたといいます。

その才能を見抜かれたフックはロンドンのウェストミンスター校で学び、
数学と物理の基礎を修めた後、オックスフォード大学
クライスト・チャーチ校に進みました。

クライスト・チャーチ校(オックスフォード大学) | 出典 : Wikimedia Commons

 

第2章 ボイルとの出会いと科学者としての出発

フックは在学中に哲学者・科学者ロバート・ボイルと出会い、
助手として空気ポンプの実験に携わります。二人は空気の弾性と
圧力の関係を研究し、ボイルの法則(Boyle’s Law)確立の一翼を担いました。

この経験を通じてフックは、実験と理論を結びつける
近代科学的思考を身につけ、後の業績の基盤を築きました。
フックは単なる助手ではなく、実験装置の改良・観測技術・測定手法を
自ら作り上げた「実験科学の技術者」でもありました。

ボイルの空気ポンプ(1660年代) | 出典 : Wikimedia Commons 「Robert Boyle’s air pump」

 


第3章. 代表的業績

・「ばねの伸びが力に比例する」という関係、
いわゆるフックの法則を提唱しました。

・1665年出版の『Micrographia』では、
コルク片を顕微鏡観察した際、
小部屋状の構造を「cell(細胞)」と呼び、
後の細胞学の発展へ繋がる重要な視点を提示しました。

 


・1666年のロンドン大火後には、
建築・測量・都市復興計画にも関与し、
科学者としてだけではなく技術者としても活躍しました。

 


第4章. 人間的側面・評価

フックは非常に多才であった一方で、
同時代のアイザック・ニュートンとの対立でも知られています。

また、ロバート・フックには「確実な肖像画が残っていない」
という科学史上のミステリーも存在します。
そのため現在知られる肖像の多くは、
後世の想像図や復元画である可能性があります。

若年期から背骨が徐々に曲がっていったという記録もあり、
外見への強いコンプレックスを抱えていたとも言われています。

しかしその苦悩の一方で、
フックは実験装置・顕微鏡観察・建築・力学など
多方面に巨大な足跡を残しました。

関連する科学者の系譜(実験科学と力学)

◀ 前の人物:ロバート・ボイル(1627-1691)

▶ 次の人物:アイザック・ニュートン(1643-1727)


この分野の科学者(実験科学・顕微鏡)

〆

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2020/09/11_初版投稿
2026/10/18_改定投稿

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有馬朗人_
【ゆとり教育の推奨|複雑な原子核の状態を簡易に数式化】-10/17改訂

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。 では、ご覧ください。内容を整理し、 主にリンクを見直しました。 現時点での英訳も考えています。 (以下原稿です)

大学貧乏物語 【スポンサーリンク】 【1930年9月13日 ~ 2020年12月6日】

【出典:Wikimedia Commons‗Akito Arima】

 有馬氏へお悔やみ

東京大学総長を務めた有馬朗人氏が、2020年12月6日に亡くなりました。 享年90歳でした。謹んでお悔やみを申し上げます。

有馬朗人は原子核物理学の世界で業績をあげ、特に 有馬・堀江理論(配位混合の理論)、 相互作用するボゾン模型の提唱、 クラスター模型への貢献、の3つの業績が大きな業績です。

有馬朗人の業績

有馬朗人の原子核物理学における代表的な仕事として、有馬・堀江の配位混合理論、相互作用する ボソン模型、そして原子核のクラスター構造に関する研究が挙げられます。 日本物理学会も、有馬の初期の代表的仕事として有馬・堀江による配位混合理論を、 その後の重要な研究として相互作用するボソン模型を挙げています。

相互作用するボソン模型とは何か

特に有馬朗人の名前と結び付いているのが、相互作用するボソン模型(Interacting Boson Model)です。

原子核は陽子と中性子という多数の核子から構成されています。その一つ一つの運動を すべて追いかけようとすると、非常に複雑な量子多体系になります。そこで有馬らは、 原子核の低エネルギー状態を理解する際に重要となる核子対の自由度に着目し、 それらを有効的なボソンとして扱う方法を発展させました。

つまり、原子核を構成するすべての粒子を直接記述するのではなく、現象を支配する 自由度を取り出して、より少数の変数で原子核の集団運動を記述しようとしたわけです。

ここに有馬朗人の仕事の面白さがあります。複雑な原子核を単純化するだけではなく、 どの自由度を残せば、実際に観測される原子核の性質を説明できるのかを考えたのです。これは 理論物理学における「複雑な系から本質的な構造を取り出す」という考え方の一例として見ることができます。

有馬朗人の研究は、原子核を単純なニュートン力学で記述するという話ではありません。 量子力学的な多体系の中から、原子核の形状や集団運動を表す有効な自由度を取り出し、 対称性や数学的構造を利用して整理していきます。そのため、原子核物理学の専門的な 理論でありながら、複雑な現象を「見通しのよいモデル」に置き換えるという、 理論物理学らしい発想を見ることができます。

この研究は有馬朗人個人だけで完結したものではありません。海外の研究者との 共同研究を通じて発展した点も重要です。日本物理学会によれば、有馬は 1960年代から原子核物理学の理論研究を進め、1971年からはニューヨーク州立大学 ストーニーブルック校教授、1975年には東京大学教授となりました。 その後の研究と教育を通じて、日本の原子核物理学の発展にも大きな役割を果たしました。

以上の説明は一般の人には分かりづらいかもしれませんが 原子核の状態を記述するには古典的な(ニュートン的な)記載 では不十分で、波動関数を使うだけではなくて群論や 電磁気的な側面を考慮して議論を進めていきます。

有馬朗人の研究は、複雑な原子核の世界を「見通しのよい形」 に整理した点に大きな価値があります。

有馬朗人の人柄と教育への情熱

有馬朗人は、優れた理論物理学者であると同時に、 教育者・行政者としても強い信念を持った人物でした。

研究者としての顔だけでなく、東京大学総長や文部大臣を歴任し、 日本の教育政策にも深く関わっています。その根底にあったのは、 「知識を詰め込むだけではなく、広い視野を持つ人材を育てるべきだ」 という考え方でした。

特に知られている「ゆとり教育」に関しても、 単なる授業時間の削減ではなく、

  • 世界史と日本史を統合的に学ぶ

  • 知識の“つながり”を理解する

  • 自ら考える力を養う

といった理念が本来の意図でした。

また、人柄としては非常に温厚で、研究者としても後進の 育成に力を注いだことが知られています。若手研究者の 意見にも耳を傾け、議論を大切にする姿勢は、 多くの教え子に影響を与えました。

科学と社会をつなぐ存在として活動した点も、有馬朗人の 大きな特徴です。理論物理という高度に専門的な分野に 身を置きながら、その知見を社会に還元しようとした姿勢は、 現代の科学者にとっても示唆に富むものと言えるでしょう。

そして、有馬さんは現象を嚙砕いて数式化して 難しい原子の世界を簡単な数式で表現したのです。 

有馬朗人とゆとり教育

また、政界においても活躍され、 特にゆとり教育の推奨が知られています。

有馬朗人が勧めたかった当初の教育は 世界史と日本史を

共に学ぶ事で 知識をより豊かに身に着けていく様な 試みであって、 現場に話が伝わった時点では 全く別の解釈として伝わっていました。 有馬朗人はその解釈を非常に 遺憾に感じていたようです。

関連する物理学者(前後の流れ)

◀ 前の人物:湯浅年子 ▶ 次の人物:梶田隆章

この分野の物理学者(原子核物理学・量子多体系・日本の物理学)

坂田昌一、 仁科芳雄、 湯浅年子、 有馬朗人、 梶田隆章

もっと他にも色々と語りたかったでしょう。 ご冥福をお祈りします。

〆

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2020/12/07_初稿投稿
2026/10/17_改定投稿

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AIでの考察(参考)

(2021年11月時点での対応英訳)

Condolences to Mr. Arima

Akito Arima, the president of the University of Tokyo, died on December 8, 2020. He is 90 years old. We would like to express our deepest condolences. Akito Arima has made great achievements in the world of nuclear physics, and is particularly famous for his three achievements: Arima-Horie theory (theory of mixed coordination), proposal of interacting boson models, and contribution to cluster models.

Achievements of Akito Arima

In particular, the interacting boson model was announced by Akito Arima in 1974 when he was at a research institute in the Netherlands, and many of you may know it under the alias of “interacting boson approximation”. ..

Akito Arima’s approximation is used in the discussion of so-called “second quantization” for objects whose wavefunction signs do not invert with respect to particle replacement. It was

It is also active in the political world, and is especially known for recommending Yutori education. The initial education that Akito Arima wanted to recommend was an attempt to acquire more knowledge by studying both world history and Japanese history, and when the story was conveyed to the field, it was a completely different interpretation. It was transmitted as. Akito Arima seems to have felt very regretful about his interpretation.

He would have wanted to talk a lot more. He prays for souls.

〆

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100年を迎える東京大学地震研究所(ERI)が築いた地震学とこれからのAI時代

東大

本記事は11/9付の日本経済新聞を起点に記載しています。東京大学地震研究所(ERI)は2025年11月13日で設立から100年を迎えます。1925年の設立以来、関東大震災を教訓に地震予知・観測体制を築き、日本が世界の地震研究を牽引してきました。英国人ジョン・ミルン(JohnMilne)による水平振子式地震計の開発、大森房吉・丸山卓男・津村健四郎らによる地震モーメントやマグニチュード理論の確立など、その歩みは日本科学史の一大軌跡といえます。本稿では、①地震研究100年の歴史、②技術革新、③AI時代の展望という三つの章で構成し、制度と技術の系譜をたどります。


第1章:100年の歴史に刻まれた制度と人

関東大震災(1923年9月1日)を契機に、地震観測と耐震研究を体系化する必要性が高まり、1925年に東京大学地震研究所が誕生しました。以来、ERIは観測網の整備、地震計の改良、断層運動理論の発展を通じて、国際的研究機関としての地位を築きました。

1.1 設立背景と制度整備

震災後、国の学術政策と建築基準が一体化し、地震学の社会的使命が明確化。地震予知研究、気象庁・大学・国立研究所の分業体制が整いました。

1.2 ジョン・ミルン来日から地震学基盤の構築

1876年、英国から招聘されたジョン・ミルンが来日し、世界初の近代的地震観測体制を整備。1880年の横浜地震観測を皮切りに、地震波形記録・震央推定などの方法論を導入しました。

1.3 大森房吉・丸山卓男・津村健四郎らの技術革新

大森房吉(1868–1923)は「地震学の父」と呼ばれ、震源距離と時間差の関係式を導出。丸山卓男(東大地震研)は地震モーメントの理論化で国際的評価を確立。津村健四郎は地震継続時間を基にマグニチュード推定式を改良しました。

【地震研究の主要年表】

年出来事関連人物・機関
1876年ジョン・ミルン来日、地震観測開始東京帝国大学
1880年日本地震学会創設ミルン・大森房吉
1923年関東大震災内務省震災予防調査会
1925年東京大学地震研究所設立初代所長 今村明恒
1960年代地震モーメント理論確立丸山卓男
2020年代AI・機械学習を導入した観測解析ERI・JAMSTEC

第2章:技術革新と地震学の転機

地震学の進化は「観測技術」「理論」「応用設計」という三段階で展開されてきました。ジョン・ミルンが水平振子式地震計を開発し、丸山卓男が地震モーメントを定義。こうした発展は、1980年代以降の地震カタログ整備や防災工学に波及しています。

2.1 観測技術の進化 — 地震計から海底観測網へ

地震計は機械式からデジタル式、さらに海底光ファイバー式へ。現在では海洋研究開発機構(JAMSTEC)が展開するDONET・S-netが、リアルタイム地震波を高精度で解析しています。

2.2 理論モデルの深化 — 地震モーメント・マグニチュードの普及

地震の規模を「モーメント」で表す考え方は、1960年代に丸山卓男氏が提唱。その後、カナダのカナメ研究者ハスキンスらとともに国際標準となり、現在のMw表記へと進化しました。

2.3 耐震・社会実装 — 地震防災・建築基準の変化

1981年の建築基準法改正により、耐震設計は「損傷制御型」に転換。ERIの研究成果が防災都市計画、ライフライン設計、自治体のハザード評価などに組み込まれました。


第3章:AI時代の地震研究と未来展望

AIとビッグデータの時代、地震研究も転換期にあります。観測データの自動解析、異常波形の自動検出、AIによる震源推定モデルなど、研究領域が広がっています。ERIでは近年、地震波動場の機械学習解析を用いて、スロー地震の検出精度を高めています。

3.1 AI/機械学習の導入例と研究成果

ERI・東北大・防災科研などが共同で開発した「AI地震波分類システム」は、地震波形を0.1秒単位で自動判別。発生直後の緊急通報制度(EEW)に応用されています。

3.2 国際共同研究・データ共有の潮流

米国USGSや欧州EPOSなどと連携し、データ形式を共通化。AIモデルによる世界規模の震源パターン分析が進んでいます。

3.3 課題と未来像 — AGI時代の地震科学

完全自律型AI(AGI)による地震予測はまだ理論段階ですが、モデル間比較(AGIモデル1号 vs 2号)を通じてリスク推定精度が向上する可能性があります。

【用語解説】

  • 地震モーメント:断層のずれ量と面積を用いて地震の規模を表す物理量。
  • AI地震波解析:機械学習を使い、ノイズと実地震波を自動で判別する技術。
  • DONET/S-net:日本が展開する海底地震観測網。リアルタイム観測を可能にする。

まとめ

東京大学地震研究所100年の歴史は、単なる学術機関の記念ではなく、地震研究が国家・社会・技術の全体を変えた軌跡そのものです。AI時代のいま、観測・理論・防災が再統合されようとしています。100年前に始まった「人命を守る科学」は、これからの100年でも進化を止めないでしょう。

参考文献:
・日本経済新聞(2024年11月9日朝刊)
・東京大学地震研究所公式サイト(ERI)
・Nature / Springer / ScienceDirect 各誌掲載論文(Maruyama, T., Tsunemura, K., Kato, S., 2019–2024)

〆

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F. J. Dysonの死 【2020-03-02‗95歳_ノーベル賞 】

(以下全て転載内容)

2020-03-02 ・

昨日の新聞でF. J. Dysonが亡くなったのを知った。95歳だったという。

朝永、Schwinger, Feynmanの量子電磁気学の理論をまとめた理論をつくった人として知られている。

同じ年代の物理学者C. N. YangはDysonが上の3人と一緒にノーベル賞をもらえなかったことについて上記3人にだけノーベル賞を授与した委員会の批判的であった。

同じ業績に対して3人までの受賞者とするノーベル賞委員会の不文律があるのをC.N. Yangが知らないはずはない。だが、そういう不文律を破ることも、また意味があるくらい量子電磁気学のくりこみ理論に対するDysonの寄与は大きかったとYangは評価していたのだろうと思う。

Yangももう高齢だと思うが、彼はまだ生存しているのではないかと思うが、定かではない。

Dysonと聞くと、私の妻などはどうも自動で掃除する電気掃除機のようだねと言っていた。最近ではDysonという名前の自動掃除機が販売されている。

〆

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テラー 【2019-08-09‗オッペンハイマー_ダイソン 】

(以下全て転載内容)

2019-08-09 ・テラーとは水爆をつくったエドワード・テラーのことである。

NHKの昨夜の「フランケンシュタインの誘惑」ではオッペンハイマーを権力の座から追い落して、自分が表にでて、水爆をつくったのはよかったが、オッペンハイマーを追い落とす査問委員会の証言で彼に不利な証言をしたために、その後の科学者社会とのつきあいがなくなって、晩年はとてもさびしかったのではないかとの話であった。

ピアノを弾くのが好きであったから、晩年はピアノを弾いて過ごしたという。それでもあからさまにつきあいはなかったかもしれないが、ノーベル賞学者のヤンはテラーの支持でシカゴ大学で学位をとったので、少しはテラーに同情的であった。

量子電気力学の業績で知られる、ダイソンもそれほどテラーを嫌ってはいなかったらしい。でも昔からの友だちはみんなテラーから離れてしまったことはたぶん間違いがない。

テラーは山登りも好きであった。若いときに、これはたぶんハンガリーにいたときの話だが、電車にはねられて脚を折ったとか聞いている。だから脚がわるかったはずだ。

なかなか直観的な理解をする人だとも聴いている。テラーの群論の理解が直観的であったとかヤンの書いた文章で読んだことがある。

ただ権力的なところがあり、ちょっと科学者仲間からは人生の途中から大いに敬遠された。

〆

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エディトンとチャンドラセカール 【2019-06-21 _星の一生_プリンキピア】

(以下全て転載内容)

2019-06-21 ・エディトンとチャンドラセカールとの奇しき因縁を昨夜のNHKのテレビの放送ではじめて知った。エディトンは1916年だったかに観測隊を指揮してアフリカに出かけて、日食のときの星の位置を観測して、それを普通のときの星の位置ときに見える位置と比較して、一般相対性理論の重力による光の曲り方が相対論の予言と一致することを示した。

一般相対性理論では3つの実験的検証があるが、そのうちの一つである。ちなみに一般相対論の残り二つの実験的検証は「水星の近日点の移動」と「光のスペクトルの赤方偏移」である。

それはさておき、星の一生を研究したエディントンは星の最後は白色矮星になることであると結論した。ところがチャンドラセカールはもし星が太陽の30倍以上の質量をもつと星の最後は白色矮星にはならず、ブラックホールになると予言した。

エディントンはこの仮説を認めず、チャンドラをイギリスから追い払った。チャンドラは優秀な人であったから、アメリカに行き、そこでブラックホールとは関係のない,星の研究をしていたが、水爆実験か何かの折に出てくる光か何かの電磁波のスぺクトルが、チャンドラの予言したブラックホールの予想した電磁波のスペクトルに類似しているとの手紙を若い学者から受け取り、約40年前の自分の理論が正しかったことを知るようになった。

シカゴの郊外の天文台に勤めていたチャンドラはシカゴ大学の大学院の講義にでかけてきていたが、彼の教えていたクラスからはヤンやリーとかノーベル賞受賞者が続出していたという。その後、彼自身もノーベル賞を受賞した。

何年間かあるテーマについてチャンドラは研究するが、そのおしまいに、その分野の研究についてのテクストを書いて、その研究を終わりにするという習慣があった。

彼の人生の最後の研究はニュートンのプリンキピアであった。それはプリンキピアの命題を読んで、その証明は読まずに、自分でその命題を証明して、そのあとでプリンキピアの証明を読むという方法である。その本は読んだことはないが、日本語での訳本が講談社から、中村誠太郎訳で出ている。

この訳本は定価が1万円以上するもので、1冊公費で購入して大学の在職時代にはもっていたが、退職時に図書館に返却したので、現在は手元にはもっていない。暇ができたら、大学の図書館から借り出して読んでみたいと思っているが、そんな機会が私に来るかどうかはわからない。

〆

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2025/11/09_初版投稿

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Gemさんの部屋【2025/11/09‗改訂投稿】

本稿では別ブログでの記録を残していきます。

きっかけはGooブログの終了です。

Gemさんは20世紀初頭から20年程の長きにわたり
様々な情報を展開しててくれて、私も毎日楽しみにしてました。
毎日、昔馴染みのご近所さんに挨拶をする感覚で覗いていたのです。

毎日毎日、楽しみにしていたブログを少しでも長く残そうと
本稿を起こしています。以下、週末ごとに補記する予定なので
皆さんも呑気にご覧下さい。

実際には、ご本人に了承を頂けましたので
クローラーを潜り込ませて出来るだけ情報が残しています。
7000記事以上と情報が膨大なので展開は後程考察します。
ワードプレス内にPython等でキーワード検索機能をつけ
キーワードごとに抽出が出来たらよいと考えています。

先ずは抜粋をご覧下さい。

ガロアのノートにあった詩 【2015-11-18 投稿分_岩田義一_偉大な数学者】
昨夜の「数学白熱教室」 【2015-11-28投稿分_谷山氏_フェルマーの定理】

数学・物理通信6-3を発行 【2016-03-19投稿分_周期ポテンシャル_井戸型ポテンシャル】
伏見康治コレクション3 【2016-05-24投稿分‗伏見廉治_数学セミナー】
エ―レンフェストの定理 【2016-06-21投稿分_期待値_波束_古典力学】
ブログは消耗品である 【2016-12-24投稿分‗広重_共鳴粒子_坂田モデル】

遠山啓さんの心配 【2017-04-26投稿分‗水道方式_武谷三男】
cleverな人よりもwiseな人を 【2017-04-28投稿分 ‗湯川秀樹_ボルン】
complementary 【2017-12-07投稿分_ボーア_ソリトン_広田良吾】

四元数の流行を下火にした人 【2018-04-10投稿分 ‗ハミルトン‗ギッブス_へヴィーサイド】
『物理学天才列伝』下 【2018-08-20投稿分 プリンキピア_ブラックホール】
Diracの寡黙とGell-Manのライターズ・ブロック 【2018-08-27投稿分‗Dirac_gell-man】

エディトンとチャンドラセカール 【2019-06-21 _星の一生_プリンキピア】
テラー 【2019-08-09‗オッペンハイマー_ダイソン 】

F. J. Dysonの死 【2020-03-02‗95歳_ノーベル賞 】
C. N. Yangの方は 【2020-03-03‗97歳_清華大学】
小説『カード師』 【2020-06-09‗二重スリット_外村彰】
コンプトン効果を連立方程式の問題にしたら 【2020-12-02_シルビィアの量子力学】

花粉症 【2021-02-22 ‗Heisenberg_Bornに休暇】
大栗博司さんの本を手に入れた 【2021-07-13_中西襄先生 】
益川さんが亡くなった 【2021-07-30‗名古屋大学_81歳】
学士院賞をもらった後で 【2021-08-02‗topクォーク_CP破れ 】

〆

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Diracの寡黙とGell-Manのライターズ・ブロック 【2018-08-27投稿分‗Dirac_gell-man】

2018-08-27・これらは天才的な学者であった、二人の家庭環境から来ているらしい。

Diracの父親はスイス出身のフランス語教師であり、夕食のときにDiracにフランス語を話すように強制したために、英語でもDiracはほとんど話さないようになったと言われている。

誰かがフランス語圏からDiracに会いにやってきたときに、フランス語をDiracが解しないと思って一生懸命に英語で話そうとしたとかいう話があり、そのあとでDiracがランス語が話せることを知っておどろいたとか読んだことがある。またフランス語で書かれたDiracの論文もあったはずだ。

同じようにGell-Manも心理的要因から文章が書けなくなるという症状をもっていたらしい。卒業論文は完成するどころか、書き出すこともできなかったというから、Gell-Manのライターズ・ブロックは重症である。そういう病気があるとは私自身は聞いたことがない。

Yale大学では大学院には進めなかったので、MITに進んだという。そこで、Weiskopfにつく。
Wesikopfからは実践的な物理学を学んだという。「数学的洗練さよりも、証拠と一致するかどうかを重んじろ。できる限り単純さを追い求め、決まり文句やもったいぶった言い方は避けろ」

これはなかなかいいアドバイスである。こういうアドバイスをする人はその当時はほとんどいなかったのではないか。私などが育ってきた研究雰囲気と似通っているが、それは横道にそれる。

Gell-Manの優れた点は問題の表面的な細部に惑わされずに、「分析的な目」で、その裏に隠されたパータンを見抜く才能にあったという。

ただ、列伝の著者も彼が少し嫌な性格の持ち主であったことをほのめかしているようだ。

〆

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『物理学天才列伝』下 【2018-08-20投稿分 プリンキピア_ブラックホール】

2018-08-20 ・ブルーバックス(講談社)を図書館から借りてかえって、その一部を拾い読みしている。

私がおもしろかったのはチャンドラ・セカールであった。南部さんの『素粒子』(ブルーバックス)だったかに天文台からシカゴ大学まで大学院のセミナーをするために出てきていたとか書いてあって、彼のクラスの全員がノーベル賞をとったと説明があった。

これはリーとかヤンとかがその直後にノーベル賞をとったことを意味してもいた。そのうちにチャンドラー自身がノーベル賞をとる。

わたしが関心をもったのはチャンドラーの最後の研究である、ニュートンのプリンピアの話であった。彼はプリンキピアをはじめからは読まないで、自分で力学の定理を書いてそれを現代的に証明して、それからその点をニュートンがどう書いているかをプリンキピアを読むことで比較したという。そして、どのようにニュートンがうまく力学のことを書いているかを痛感したという。

この研究はいつものチャンドラの流儀で本にした。すなわち、チャンドラーは自分の研究の総括としていつもその分野の専門書を書いて、その分野の研究を終わりにしていた。このチャンドラーの最後の研究書は中村誠太郎さんの訳で講談社から出されている。もっともこの本は一万円を超える定価がついていたと思う。

もっともこの説明で私もこの訳本を読んでみたくなった。

もう数十年も昔のことだが、日本にチャンドラがやってきて、ブラックホールについて物理学会で講演した。その講演の訳が物理学会誌にでていたのだが、その最初の部分のアイディアを使って、試験問題をつくったという思い出がある。

入試の問題になるくらいのやさしい話にしたのである。

〆

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ブログは消耗品である 【2016-12-24投稿分‗広重_共鳴粒子_坂田モデル】

・新聞が消耗品であるようにブログも消耗品である。だから日々新たな気持ちで書くことが大切で、昔書いたことが大事なわけではない。

とはいうものの日々の自分の考えたことを書いているので、ときどきはそれを見直すのがいいと思っている。思想と言えるほどのものが私のブログにあるのかどうかはわからないが、どういう本を読んであんなことを思ったとかそういう風なことは書いていないことが多いけれどもやはり何かを考える動機に読書がなっていることは確かである。

最近ではコタツで夜に読んでいるのは図書館で借りて来た「昭和後期の科学技術思想史」である。これに岡本拓司さんが書いている広重徹論は大部なものである。多分日本で書かれた最大の広重徹論であろう。

私の不満に思うのは現代科学の発展の歴史をふり返って広重の言ったことが当たっていたのかどうかという視点が欲しいような気がしている。広重徹が亡くなったのは1975年であり、彼が思っていたことがどれほど正しかったかは広重徹論を書く一つの視点ではなかろうか。

(2016.12.26付記)  広重は70年代に素粒子で多くの共鳴粒子が見つかったりでして、数百個になったことにいらだっていたと、この岡本拓司さんの広重論にある。そこが私などは不思議に思うところだが、多数の素粒子が見つかったときにすでにそれらを複合粒子として考えるという考えが出ていたのだから、いわゆる本質的な力学としてはまだきっかけもつかまれていないとしても素粒子の研究としてつぎの段階への手がかりは出ていたことになる。

それはFermi-Yangの論文に始まり、坂田モデルとつながり、IOO対称性とか1960年代の初頭にはそういうことが出ていた。それがGell-MannとN’eemanの八道説につながり、その後のクォークモデルとなる。

そして電弱理論とかQCDにつながっている。Weinberg-Salam理論は1968年には出ているが、くりこみ可能性を’t Hooftが証明したのが1971年というから広重の亡くなる前にはすでに新しい理論の芽はあったのだ。

そこらの評価が広重にはできていなかったと思われる。最後の段階への評価はできなかったにしても複合モデルを評価できなかったのは広重としては大きなミスではなかろうか。そういうことは岡本拓司さんの広重論にはもちろん出てこないのだが。

〆

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