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小説『カード師』 【2020-06-09‗二重スリット_外村彰】

2020-06-09・

小説『カード師』は朝日新聞に現在連載中の新聞小説である。作者は中村文則さん。

カード師の私の体験を書いている小説だが、ある人の遺書を私が読んでいるというところらしい。

らしいとしか言えないのは私にはちょっと面倒な設定であるので、途中から読むのを諦めたからである。

ところが今日は光とは電子とかの波と粒子の2重性の話が出てくる。これは量子力学をまじめに学ぶ人は一度は聞くテーマである。

いわゆる二重スリットの話といえば、ああ、あの話なのと分かるくらい有名な話である。もっとも一般の人にこの話がどのくらいわかるかはわからない。

朝永振一郎さんのエッセイにこれを簡明に説明したエッセイがあった。「光子の裁判」というタイトルだったか。

光は波と思われていたが、これが粒子性をもつものであることは光電効果かとかCompton効果からわかってきた。それで20世紀初頭にこの光の2重性の解釈に物理学者は苦しむことになる。

古典物理学的に言うと粒子であるものは波動であるとはいえないし、波動であるものは粒子であるとはいえない。だが、量子力学では光とか電子はその両者の性質をもつものとしてとらえる。

それはどういう実験的観測をするかによる。粒子としての位置を測定すると、それは粒子性を示すし、光の運動量をきっちり定めようとする実験をすると波動性が得られる。だったかな?

光は波動でも粒子でもない、両方の性質を併せ持つものであるという理解である。これは古典物理学の範疇ではその両方の特性をあわせもつことなどできないが、量子力学ではそれが可能である。いわゆる弁証的統合的理解が必要である。

いわゆる、2重スリットでは2重スリットのところで光の位置を観測しないかぎり波として振る舞う。ここを通過した後で光を粒子として観測したときにはその過去が変えられるという風に小説では書いてあったが、2重スリットのところでは何の観測もしていないならば、それは波であったのか粒子であったのかは判定することが出来ないという風に考えると理解している。

この話は何十年も量子力学の講義をした来た私にもわからない。

私のいまの理解では波としての性質は確率波として理解しており、1個1個は粒子性をもっているのではないかと思っていたが、それも私の思い込みで観測しないときには光が粒子性をもっていたか波動性をもっていたかは何も確定的にいうことができないというのが公式の見解であろう。

こういう事実を目に見えるように実験してくれたのが亡くなった、外村彰さんであった(注)。

光の粒子は一個一個粒子のようにスクリーン(または写真フィルム)上にやってくるが、それが長時間露光されていると、波動的なふるまいの光の干渉縞が観測される。

(注) 外村彰 『目で見る美しい 量子力学』(サイエンス社)は量子力学のテクストとしてはあまり数式の多くない写真の多いすばらしいテクストである。

特に66-67ぺージの写真が今回の内容と関係している。この本の価格も2,800円とリーゾナブルである。

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C. N. Yangの方は 【2020-03-03‗97歳_清華大学】

(以下全て転載内容)2020-03-03・

昨日F. J. Dysonが95歳で亡くったというニュースを書いた。一方、C. N. Yang(楊振寧)の方は現在97歳でまだ生きておられるらしい。

彼は若いときに中国国籍からアメリカ国籍をとったが、2005年にまた中国国籍を再度取得したとインターネットに書いてあった。

奥さんをなくされてか、54歳も年の離れた大学院生と再婚したと話題になったとあった。

Yangには何度か国際会議で見かけたり、大学院時代に当時在学していたH大学のコロキュウム室で会ったことがある。

小さな黒板に散乱論のセミナーの期日が書いてあったので、scattering theoryのセミナーをしているだねとO教授とY助教授にいわれていた(注)。

このときにはイギリス人のKemmerも一緒に来られていたと思う。Yangはきりりとひきしまった顔の人であった。

その後、1年後か2年後に大学院をおえてK大学の研究所で非常勤講師を数か月したが、ここで出会った女性の秘書さんがえらくこのYangさんのファンだと言われていたのが、さもありなんと思った。

Yangは勤勉な研究者であり、hard workerという定評がある。これはアメリカの物理学会というか、物理学者の世界ではよく知られた事実であったらしい。ベンジャミンフランクリンが大好きで、C.N. Franklin Yangという名前をつけておられる。

彼のお父さんは数学者であり、若いときにはアメリカに留学された方であったとか聞いた。

中国が中華人民共和国になった後も清華大学に勤められていたとかで、Yangはときどき人民共和国に帰省したりしており、どちらかといえば、中華民国よりも中華人民共和国寄りであると聞いたことがある。

これは共同研究者で、ノーベル賞の共同受賞者でもあった、T. D. Lee(李政道)が中華民国寄りであるのと対照的であるとか聞いていた。

(注)この訪問後にYangの自著の小さな本を研究室の図書に寄贈するために送ってこられた。こういう細かな配慮がYangが好かれる原因の一つであるのかもしれない。

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F. J. Dysonの死 【2020-03-02‗95歳_ノーベル賞 】

(以下全て転載内容)

2020-03-02 ・

昨日の新聞でF. J. Dysonが亡くなったのを知った。95歳だったという。

朝永、Schwinger, Feynmanの量子電磁気学の理論をまとめた理論をつくった人として知られている。

同じ年代の物理学者C. N. YangはDysonが上の3人と一緒にノーベル賞をもらえなかったことについて上記3人にだけノーベル賞を授与した委員会の批判的であった。

同じ業績に対して3人までの受賞者とするノーベル賞委員会の不文律があるのをC.N. Yangが知らないはずはない。だが、そういう不文律を破ることも、また意味があるくらい量子電磁気学のくりこみ理論に対するDysonの寄与は大きかったとYangは評価していたのだろうと思う。

Yangももう高齢だと思うが、彼はまだ生存しているのではないかと思うが、定かではない。

Dysonと聞くと、私の妻などはどうも自動で掃除する電気掃除機のようだねと言っていた。最近ではDysonという名前の自動掃除機が販売されている。

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テラー 【2019-08-09‗オッペンハイマー_ダイソン 】

(以下全て転載内容)

2019-08-09 ・テラーとは水爆をつくったエドワード・テラーのことである。

NHKの昨夜の「フランケンシュタインの誘惑」ではオッペンハイマーを権力の座から追い落して、自分が表にでて、水爆をつくったのはよかったが、オッペンハイマーを追い落とす査問委員会の証言で彼に不利な証言をしたために、その後の科学者社会とのつきあいがなくなって、晩年はとてもさびしかったのではないかとの話であった。

ピアノを弾くのが好きであったから、晩年はピアノを弾いて過ごしたという。それでもあからさまにつきあいはなかったかもしれないが、ノーベル賞学者のヤンはテラーの支持でシカゴ大学で学位をとったので、少しはテラーに同情的であった。

量子電気力学の業績で知られる、ダイソンもそれほどテラーを嫌ってはいなかったらしい。でも昔からの友だちはみんなテラーから離れてしまったことはたぶん間違いがない。

テラーは山登りも好きであった。若いときに、これはたぶんハンガリーにいたときの話だが、電車にはねられて脚を折ったとか聞いている。だから脚がわるかったはずだ。

なかなか直観的な理解をする人だとも聴いている。テラーの群論の理解が直観的であったとかヤンの書いた文章で読んだことがある。

ただ権力的なところがあり、ちょっと科学者仲間からは人生の途中から大いに敬遠された。

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エディトンとチャンドラセカール 【2019-06-21 _星の一生_プリンキピア】

(以下全て転載内容)

2019-06-21 ・エディトンとチャンドラセカールとの奇しき因縁を昨夜のNHKのテレビの放送ではじめて知った。エディトンは1916年だったかに観測隊を指揮してアフリカに出かけて、日食のときの星の位置を観測して、それを普通のときの星の位置ときに見える位置と比較して、一般相対性理論の重力による光の曲り方が相対論の予言と一致することを示した。

一般相対性理論では3つの実験的検証があるが、そのうちの一つである。ちなみに一般相対論の残り二つの実験的検証は「水星の近日点の移動」と「光のスペクトルの赤方偏移」である。

それはさておき、星の一生を研究したエディントンは星の最後は白色矮星になることであると結論した。ところがチャンドラセカールはもし星が太陽の30倍以上の質量をもつと星の最後は白色矮星にはならず、ブラックホールになると予言した。

エディントンはこの仮説を認めず、チャンドラをイギリスから追い払った。チャンドラは優秀な人であったから、アメリカに行き、そこでブラックホールとは関係のない,星の研究をしていたが、水爆実験か何かの折に出てくる光か何かの電磁波のスぺクトルが、チャンドラの予言したブラックホールの予想した電磁波のスペクトルに類似しているとの手紙を若い学者から受け取り、約40年前の自分の理論が正しかったことを知るようになった。

シカゴの郊外の天文台に勤めていたチャンドラはシカゴ大学の大学院の講義にでかけてきていたが、彼の教えていたクラスからはヤンやリーとかノーベル賞受賞者が続出していたという。その後、彼自身もノーベル賞を受賞した。

何年間かあるテーマについてチャンドラは研究するが、そのおしまいに、その分野の研究についてのテクストを書いて、その研究を終わりにするという習慣があった。

彼の人生の最後の研究はニュートンのプリンキピアであった。それはプリンキピアの命題を読んで、その証明は読まずに、自分でその命題を証明して、そのあとでプリンキピアの証明を読むという方法である。その本は読んだことはないが、日本語での訳本が講談社から、中村誠太郎訳で出ている。

この訳本は定価が1万円以上するもので、1冊公費で購入して大学の在職時代にはもっていたが、退職時に図書館に返却したので、現在は手元にはもっていない。暇ができたら、大学の図書館から借り出して読んでみたいと思っているが、そんな機会が私に来るかどうかはわからない。

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Gemさんの部屋【2025/11/09‗改訂投稿】

本稿では別ブログでの記録を残していきます。

きっかけはGooブログの終了です。

Gemさんは20世紀初頭から20年程の長きにわたり
様々な情報を展開しててくれて、私も毎日楽しみにしてました。
毎日、昔馴染みのご近所さんに挨拶をする感覚で覗いていたのです。

毎日毎日、楽しみにしていたブログを少しでも長く残そうと
本稿を起こしています。以下、週末ごとに補記する予定なので
皆さんも呑気にご覧下さい。

実際には、ご本人に了承を頂けましたので
クローラーを潜り込ませて出来るだけ情報が残しています。
7000記事以上と情報が膨大なので展開は後程考察します。
ワードプレス内にPython等でキーワード検索機能をつけ
キーワードごとに抽出が出来たらよいと考えています。

先ずは抜粋をご覧下さい。

ガロアのノートにあった詩 【2015-11-18 投稿分_岩田義一_偉大な数学者】
昨夜の「数学白熱教室」 【2015-11-28投稿分_谷山氏_フェルマーの定理】

数学・物理通信6-3を発行 【2016-03-19投稿分_周期ポテンシャル_井戸型ポテンシャル】
伏見康治コレクション3 【2016-05-24投稿分‗伏見廉治_数学セミナー】
エ―レンフェストの定理 【2016-06-21投稿分_期待値_波束_古典力学】
ブログは消耗品である 【2016-12-24投稿分‗広重_共鳴粒子_坂田モデル】

遠山啓さんの心配 【2017-04-26投稿分‗水道方式_武谷三男】
cleverな人よりもwiseな人を 【2017-04-28投稿分 ‗湯川秀樹_ボルン】
complementary 【2017-12-07投稿分_ボーア_ソリトン_広田良吾】

四元数の流行を下火にした人 【2018-04-10投稿分 ‗ハミルトン‗ギッブス_へヴィーサイド】
『物理学天才列伝』下 【2018-08-20投稿分 プリンキピア_ブラックホール】
Diracの寡黙とGell-Manのライターズ・ブロック 【2018-08-27投稿分‗Dirac_gell-man】

エディトンとチャンドラセカール 【2019-06-21 _星の一生_プリンキピア】
テラー 【2019-08-09‗オッペンハイマー_ダイソン 】

F. J. Dysonの死 【2020-03-02‗95歳_ノーベル賞 】
C. N. Yangの方は 【2020-03-03‗97歳_清華大学】
小説『カード師』 【2020-06-09‗二重スリット_外村彰】
コンプトン効果を連立方程式の問題にしたら 【2020-12-02_シルビィアの量子力学】

花粉症 【2021-02-22 ‗Heisenberg_Bornに休暇】
大栗博司さんの本を手に入れた 【2021-07-13_中西襄先生 】
益川さんが亡くなった 【2021-07-30‗名古屋大学_81歳】
学士院賞をもらった後で 【2021-08-02‗topクォーク_CP破れ 】

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2025/11/03_初版投稿
2025/11/09‗改訂投稿

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関孝和【 1637年1642年生まれ_傍書法と点竄術で和算を革新した“算聖”の生涯と業績】‐11/9改訂

こんにちはコウジです。
半年ごとの既存記事見直しの作業です。
今回は中世に概念・手法を確立していった偉人を紹介します。
では、ご覧ください。内容を整理し、リンクを見直しました。
現時点での英訳も考えています。

(以下原稿)

江戸時代を代表する数学者 ― 関孝和(せき たかかず)
【1637年1642年生まれ1708年12月5日没】

関孝和の肖像画

出典:
Wikimedia Commons
(Public Domain)

関孝和(1642年頃〜1708年)は、日本の数学史において最も重要な人物の一人として知られています。
江戸時代中期に活躍し、「和算(わさん)」と呼ばれる日本独自の数学体系を大成させました。特に、
「円理(えんり)」や「筆算」の改良、そして行列式に相当する「行列法(こうれつほう)」を
早期に取り入れた点で、世界的にも高く評価されています。

彼の著書『解伏題之法』『発微算法』などは、後世の和算家たちに大きな影響を与え、
日本数学の黄金期を築きました。特に「高次方程式の数値解法」や「算額(数学的奉納板)」の普及により、
数学が庶民の文化の一部として定着する契機を作ったことは特筆に値します。

関孝和の功績は、単なる技術的進歩に留まりません。彼は「独立した知の体系」を築き、
当時ヨーロッパで進展していた解析幾何や微積分に匹敵する思想を、日本語と算木・筆算を
用いて表現しました。その革新性は、近代以降の数学史研究でも再評価されています。

参考文献:
・島田徹『和算の世界』岩波書店, 1998年
・日本数学史学会『関孝和の数学的遺産』2005年
Wikipedia – 関孝和

彼は独自の記号法「傍書法」と、
筆算術を応用した「点竄術」を生み出し、それまで解けなかった
高次方程式を扱えるようにしました。この革新は、連立方程式や
行列式、さらには微積分に相当する問題まで取り組める新しい数学の地平を
切り開きます。和算の枠を大きく広げた功績により、後世の和算家は関の流れを
「関流」と称し、彼を「算聖」と仰ぎました。本記事では、関孝和の人物像と
研究の中核に迫り、その意義を現代的な視点から解説します。


関孝和の生涯と和算の登場

出自と生涯の背景

関孝和は江戸時代前期、武士の家に生まれ、幕府の勘定役を務めたと伝わります。
生年や前半生には不明点が多いものの、確かなのは彼が数学的才能を発揮し、
和算を飛躍的に発展させたことです。和算は中国から伝わった数学を基盤と
しながらも、日本独自の発展を遂げていました。孝和の登場は、まさに和算の
「成熟期」を象徴する出来事でした。

中国数学からの影響

当時の日本数学は、中国の『算数書』や『天元術』を受け継いでいました。
しかし、中国式の天元術は未知数が一つしか扱えず、問題解決には
限界がありました。孝和はこの制約を打破する方法を模索し、
傍書法や点竄術を通じて、未知数を複数扱う革新的な
アプローチを生み出したのです。

算聖と呼ばれるまで

関の業績は弟子や後継者に継承され、18世紀には「算聖」と称されるほどの
尊敬を集めました。「関孝和は、江戸時代において『算聖』と称され、
和算を通じて学問と文化の融合を象徴する存在となりました。」


数学的革新 ― 傍書法と点竄術の深堀り

傍書法の誕生と意義

傍書法とは、数式を紙面の傍らに記号として書き込む独自の表記法です。これにより、複数の未知数を同時に扱えるようになり、数式の整理が飛躍的に簡単になりました。現代の代数記号の先駆けともいえる画期的な発明であり、数学を抽象的に操作する力を高めました。

点竄術による計算革命

点竄術は、筆算のように符号や記号を操作して高次方程式を解く方法でした。未知数を扱う複雑な問題を体系的に処理できるため、和算における「計算技術革命」とも呼べます。連立方程式の消去法や行列式の萌芽がここに見られる点は、特筆すべきです。

天元術の応用拡大

従来の天元術は一次元的な問題に限定されていましたが、傍書法と点竄術の導入により、複数未知数や高次方程式にも応用可能になりました。例えば、孝和は正三角形から正20角形に至る多角形の面積計算を体系化し、数学を幾何・代数の両面から進化させました。


和算の発展と関流の形成

後世の和算家への影響

孝和の技術革新により、和算は多くの分野に応用されました。彼の方法は計算を効率化し、後世の和算家が新しい公式を導き出す基盤を築きました。この恩恵は18世紀を通じて広がり、日本独自の数学文化の成熟を支えました。

関流という学派の誕生

18世紀後半になると、孝和を中心とする和算家の系譜は「関流」と称されました。和算家たちは系譜を誇りとし、孝和の記号法や計算法を標準として学びました。関流は、和算を日本全国に普及させる大きな原動力となったのです。

算聖としての文化的地位

関孝和は単なる数学者にとどまらず、日本文化の象徴的存在へと昇華しました。和算は学問としてだけでなく、文化・芸術と並ぶ知的営みとみなされ、孝和の名は「算聖」として歴史に刻まれました。


まとめ

関孝和は、日本の数学史において決定的な役割を果たした革新者でした。傍書法と点竄術によって、和算は未知数を複数扱える新たな地平に到達し、連立方程式や高次方程式を体系的に解く力を獲得しました。この成果は後世の和算家に継承され、「関流」として全国に広がり、和算を文化的にも学術的にも高みに押し上げました。俳聖・茶聖と並ぶ「算聖」としての関孝和の名は、今もなお日本数学史に燦然と輝いています。

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2025/10/11‗初稿投稿
2025/11/09_改訂投稿

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(2025/10月時点での対応英訳)

In 17th-century Japan, Takakazu Seki (Seki Takakazu) was an innovator who brought wasan—traditional Japanese mathematics—to unprecedented heights.
He created a unique symbolic notation called the bōsho-hō (“marginal notation”) and developed tenzan-jutsu, a method of symbolic manipulation inspired by written arithmetic. These techniques enabled him to solve higher-degree equations that had previously been intractable. His innovations opened a new mathematical horizon capable of addressing systems of equations, determinants, and even problems equivalent to those of calculus.

Thanks to his extraordinary contributions, later Japanese mathematicians referred to his school as the Seki-ryū (“Seki School”) and honored him with the title “Sansei” (Mathematical Saint).
This article explores Seki’s life and the core of his research, explaining its significance from a modern perspective.


Life of Takakazu Seki and the Rise of Wasan

Origins and Background
Takakazu Seki was born in the early Edo period into a samurai family and is said to have served as a kanjō-yaku (official accountant) for the shogunate.
Although details about his birth and early life remain uncertain, what is clear is that he demonstrated remarkable mathematical ability and greatly advanced wasan.
While wasan had its roots in Chinese mathematics, it developed its own uniquely Japanese character. Seki’s emergence marked the beginning of wasan’s mature period, symbolizing a high point in the intellectual culture of the Edo era.

Influence of Chinese Mathematics
At the time, Japanese mathematics was heavily influenced by Chinese classics such as the Suan Shu Shu and the Tian Yuan Shu (method of the celestial element).
However, the traditional Chinese method could only handle a single unknown variable, which limited its range of problems. Seki sought to overcome this limitation, and through his bōsho-hō and tenzan-jutsu, he developed a revolutionary approach capable of treating multiple unknowns simultaneously.

The Path to Becoming the “Mathematical Saint”
Seki’s achievements were passed down through his disciples and successors, and by the 18th century he was revered as the “Sansei”, or “Saint of Mathematics.”
He became a cultural giant comparable to the poet Matsuo Bashō or the tea master Sen no Rikyū, securing an enduring place in Japan’s intellectual history.


Mathematical Innovations — Bōsho-hō and Tenzan-jutsu

The Birth and Significance of Bōsho-hō
The bōsho-hō (“marginal notation”) was a unique system in which symbols and numbers were written along the margins of the page.
This allowed mathematicians to handle multiple unknowns simultaneously and greatly simplified the organization of complex formulas.
It was a groundbreaking innovation, a forerunner of modern algebraic notation, and significantly enhanced the ability to manipulate abstract mathematical symbols.

Tenzan-jutsu and the Revolution in Calculation
Tenzan-jutsu was a symbolic computational method similar to written arithmetic, used to solve higher-order polynomial equations.
It made it possible to handle complex problems involving multiple variables systematically, representing a true computational revolution in wasan.
This method contained the seeds of modern elimination theory and determinants, marking an important step toward later algebraic concepts.

Expanding the Application of Tian Yuan Shu
The original Tian Yuan Shu method had been limited to one-dimensional problems, but Seki’s introduction of bōsho-hō and tenzan-jutsu extended its application to equations with multiple variables and higher degrees.
For example, Seki systematized the calculation of the areas of regular polygons ranging from equilateral triangles to regular 20-gons, advancing mathematics in both algebraic and geometric directions.


The Development of Wasan and the Formation of the Seki School

Influence on Later Wasan Scholars
Seki’s technical innovations allowed wasan to expand into many fields. His methods streamlined computation and provided a foundation upon which later mathematicians could develop new formulas.
This influence spread throughout the 18th century, supporting the flourishing of Japan’s unique mathematical culture.

The Birth of the Seki-ryū (Seki School)
By the late 18th century, the lineage of mathematicians who followed Seki’s methods became known as the Seki-ryū.
Members of this school took pride in their intellectual heritage and adopted Seki’s notational and computational techniques as their standard.
The Seki-ryū became a major force in spreading wasan across Japan, ensuring its survival and growth for generations.

Cultural Status as the “Mathematical Saint”
Takakazu Seki transcended the role of mathematician to become a symbol of Japanese intellectual culture.
Wasan came to be regarded not only as a scholarly pursuit but as a form of artistic and cultural expression, alongside poetry and the tea ceremony.
In this context, Seki’s name was enshrined in history as the “Sansei,” the Saint of Mathematics.


Conclusion

Takakazu Seki was an innovator who played a decisive role in the history of Japanese mathematics.
Through his bōsho-hō and tenzan-jutsu, he opened a new era in which wasan could handle multiple unknowns and systematically solve systems of linear and higher-degree equations.
These achievements were carried on by later mathematicians, spreading throughout Japan as the Seki-ryū, and elevating wasan both as a scholarly discipline and a cultural tradition.

Like Bashō in poetry and Rikyū in tea, Seki Takakazu stands as Japan’s “Mathematical Saint”, his name still shining brightly in the annals of Japanese mathematical history.

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Diracの寡黙とGell-Manのライターズ・ブロック 【2018-08-27投稿分‗Dirac_gell-man】

2018-08-27・これらは天才的な学者であった、二人の家庭環境から来ているらしい。

Diracの父親はスイス出身のフランス語教師であり、夕食のときにDiracにフランス語を話すように強制したために、英語でもDiracはほとんど話さないようになったと言われている。

誰かがフランス語圏からDiracに会いにやってきたときに、フランス語をDiracが解しないと思って一生懸命に英語で話そうとしたとかいう話があり、そのあとでDiracがランス語が話せることを知っておどろいたとか読んだことがある。またフランス語で書かれたDiracの論文もあったはずだ。

同じようにGell-Manも心理的要因から文章が書けなくなるという症状をもっていたらしい。卒業論文は完成するどころか、書き出すこともできなかったというから、Gell-Manのライターズ・ブロックは重症である。そういう病気があるとは私自身は聞いたことがない。

Yale大学では大学院には進めなかったので、MITに進んだという。そこで、Weiskopfにつく。
Wesikopfからは実践的な物理学を学んだという。「数学的洗練さよりも、証拠と一致するかどうかを重んじろ。できる限り単純さを追い求め、決まり文句やもったいぶった言い方は避けろ」

これはなかなかいいアドバイスである。こういうアドバイスをする人はその当時はほとんどいなかったのではないか。私などが育ってきた研究雰囲気と似通っているが、それは横道にそれる。

Gell-Manの優れた点は問題の表面的な細部に惑わされずに、「分析的な目」で、その裏に隠されたパータンを見抜く才能にあったという。

ただ、列伝の著者も彼が少し嫌な性格の持ち主であったことをほのめかしているようだ。

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『物理学天才列伝』下 【2018-08-20投稿分 プリンキピア_ブラックホール】

2018-08-20 ・ブルーバックス(講談社)を図書館から借りてかえって、その一部を拾い読みしている。

私がおもしろかったのはチャンドラ・セカールであった。南部さんの『素粒子』(ブルーバックス)だったかに天文台からシカゴ大学まで大学院のセミナーをするために出てきていたとか書いてあって、彼のクラスの全員がノーベル賞をとったと説明があった。

これはリーとかヤンとかがその直後にノーベル賞をとったことを意味してもいた。そのうちにチャンドラー自身がノーベル賞をとる。

わたしが関心をもったのはチャンドラーの最後の研究である、ニュートンのプリンピアの話であった。彼はプリンキピアをはじめからは読まないで、自分で力学の定理を書いてそれを現代的に証明して、それからその点をニュートンがどう書いているかをプリンキピアを読むことで比較したという。そして、どのようにニュートンがうまく力学のことを書いているかを痛感したという。

この研究はいつものチャンドラの流儀で本にした。すなわち、チャンドラーは自分の研究の総括としていつもその分野の専門書を書いて、その分野の研究を終わりにしていた。このチャンドラーの最後の研究書は中村誠太郎さんの訳で講談社から出されている。もっともこの本は一万円を超える定価がついていたと思う。

もっともこの説明で私もこの訳本を読んでみたくなった。

もう数十年も昔のことだが、日本にチャンドラがやってきて、ブラックホールについて物理学会で講演した。その講演の訳が物理学会誌にでていたのだが、その最初の部分のアイディアを使って、試験問題をつくったという思い出がある。

入試の問題になるくらいのやさしい話にしたのである。

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ブログは消耗品である 【2016-12-24投稿分‗広重_共鳴粒子_坂田モデル】

・新聞が消耗品であるようにブログも消耗品である。だから日々新たな気持ちで書くことが大切で、昔書いたことが大事なわけではない。

とはいうものの日々の自分の考えたことを書いているので、ときどきはそれを見直すのがいいと思っている。思想と言えるほどのものが私のブログにあるのかどうかはわからないが、どういう本を読んであんなことを思ったとかそういう風なことは書いていないことが多いけれどもやはり何かを考える動機に読書がなっていることは確かである。

最近ではコタツで夜に読んでいるのは図書館で借りて来た「昭和後期の科学技術思想史」である。これに岡本拓司さんが書いている広重徹論は大部なものである。多分日本で書かれた最大の広重徹論であろう。

私の不満に思うのは現代科学の発展の歴史をふり返って広重の言ったことが当たっていたのかどうかという視点が欲しいような気がしている。広重徹が亡くなったのは1975年であり、彼が思っていたことがどれほど正しかったかは広重徹論を書く一つの視点ではなかろうか。

(2016.12.26付記)  広重は70年代に素粒子で多くの共鳴粒子が見つかったりでして、数百個になったことにいらだっていたと、この岡本拓司さんの広重論にある。そこが私などは不思議に思うところだが、多数の素粒子が見つかったときにすでにそれらを複合粒子として考えるという考えが出ていたのだから、いわゆる本質的な力学としてはまだきっかけもつかまれていないとしても素粒子の研究としてつぎの段階への手がかりは出ていたことになる。

それはFermi-Yangの論文に始まり、坂田モデルとつながり、IOO対称性とか1960年代の初頭にはそういうことが出ていた。それがGell-MannとN’eemanの八道説につながり、その後のクォークモデルとなる。

そして電弱理論とかQCDにつながっている。Weinberg-Salam理論は1968年には出ているが、くりこみ可能性を’t Hooftが証明したのが1971年というから広重の亡くなる前にはすでに新しい理論の芽はあったのだ。

そこらの評価が広重にはできていなかったと思われる。最後の段階への評価はできなかったにしても複合モデルを評価できなかったのは広重としては大きなミスではなかろうか。そういうことは岡本拓司さんの広重論にはもちろん出てこないのだが。

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2025/11/08_初版投稿

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