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大森房吉_【1868/10/30 ~ 1923/11/8‗その研究遺産と今:地震学と火山観測を未来へ】

東大

この稿は、2025年1月19日付の日本経済新聞記事「大森房吉――“地震学の父”のもう一つの夢」を起点としつつ、著作権を尊重する立場から別視点を再構成したものです。大森房吉(1868–1923)は、揺れを常時とらえる「大森式地震計」の開発、震源距離を求める公式の発案など、日本地震学の礎を築いた人物として知られています。また彼は、地震のみならず火山観測の重要性を早くから主張し、浅間山に我が国最初の火山観測所設立を後押ししました。彼の業績は単なる過去の足跡にとどまらず、地震・火山分野での科学技術や災害対応、さらにはこれからの AI・データ技術と融合する可能性を秘めています。本稿では大森の人物像と業績、火山観測への情熱、そして「科学は道具」という視点を通じて、日本を AI で変えていく展望と課題を探ります。地元・小諸市などでは彼を“偉人”として語り継ぐ動きがあるだけに、現在との接点にも視線を向けたいと思います。

大森房吉(おおもり ふさきち)
1868年10月30日(明治元年9月15日) – 1923年(大正12年)11月8日)

1 地震学の確立と大森式地震計

大森式地震計の開発

大森房吉は揺れを常時記録できる「大森式地震計」を考案した。地震計はそれ以前から存在したが、大森の設計は観測精度と耐久性に優れ、世界的に評価された。これは日本が近代科学の国際舞台に登場するきっかけともなった。

震源距離公式の発案

大森は地震波の伝わる速度差を利用して震源までの距離を算出する「震源距離公式」を導入した。現代の地震観測の基本となる原理であり、地震学が「数理科学」として確立される端緒となった。

今村明恒との論争

東京を襲う大地震の危険性について、大森と今村明恒助教授の論争は有名だ。今村は「近い将来に大地震が首都を襲う」と予言的警告を発し、大森は科学的根拠を重視して慎重論を唱えた。この論争は科学者の社会的責任を問う出来事として後世に残る。


2 火山防災の先駆けと浅間山観測所

三宅島噴火の衝撃(1902年)

伊豆諸島三宅島の噴火では全島民125人が死亡した。大森は報告書で「人家に接近する大活火山に観測所を設立することは最も必要」と記し、常時観測の必要性を強調した。

浅間山観測所の設立(1911年)

天明大噴火(1783年)の記憶を背景に、長野県の資金協力を得て浅間山麓・湯野平に観測所を建設。20坪の施設に所員を常駐させ、火山活動を継続的に監視する体制を整えた。これは日本初の本格的火山観測所であった。

観測所の閉鎖とその後

1929年の噴火時、偶然近くに隕石が落下し、施設は閉鎖を余儀なくされた。しかしその精神は後の火山観測体制へ受け継がれ、今日の気象庁火山監視システムの源流とされる。


3 地元小諸市に残る記憶と科学史的評価

火山防災の日と小諸市の取り組み

浅間山観測が始まった8月26日は「火山防災の日」と制定され、小諸市では観測所跡が史跡として保存されている。市主催の見学ツアーは、地域における科学遺産の活用例である。

大森の科学史的位置づけ

大森は技術開発(地震計)、防災実践(観測所)、制度化(地震研究所設立)という三層構造で日本科学史に足跡を残した。以下の表は彼の活動領域を整理したものである。

領域代表的業績歴史的意義
技術開発大森式地震計・震源距離公式地震学の数理化と国際的認知
防災実践浅間山観測所の創設火山防災の先駆け、地域住民保護
制度化東京帝大地震研究所の設立科学研究の社会的基盤形成

現代への示唆

大森が果たした「科学と社会の橋渡し」という役割は、今日のAIや防災科学の発展においても重要な示唆を与える。科学は道具であり、その真価は社会にどう活かされるかにある。


活動領域マップ

以下の図は、大森の活動を三つの軸(技術・防災・制度)で整理したものである。
(独自作成・概念図)

大森房吉 活動領域マップ


結論

大森房吉の科学史的意義は、「地震学の父」という肩書きを超えて、災害科学を社会に根付かせた点にある。彼は研究者としての理論的業績に加え、住民の安全を守る観測所設立や研究所制度の構築を通じて、科学の社会的役割を先取りしていた。地元小諸市で語り継がれる偉人像は、地域と科学をつなぐ象徴であり、科学遺産の継承が未来の防災文化を支えることを教えている。
本稿が示したように、大森の歩みは単なる過去の歴史ではなく、現代の私たちに「科学は社会を守る道具である」という普遍的なメッセージを伝えているのである。

〆最後に〆

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大カルノー【Lazare Nicolas Marguerite Carnot,_1753/5/13-1823/8/2_軍制改革から数学理論まで】

フランス革命とナポレオン時代を駆け抜けた一人の人物――ラザール・カルノー(1753–1823)。彼は「勝利の組織者(Organisateur de la Victoire)」と称され、革命期のフランス軍の再編を主導し、徴兵制の導入をはじめとする軍制改革で戦局を好転させました。一方で、政治家としては穏健な共和主義を堅持し、激動の時代にあって反対派からも尊敬を集めました。さらに、数学者・工学者としても、無限小解析の哲学的探求や幾何学・機械論の理論を残し、後世の技術者・数学者に影響を与えました。本稿では、彼の生い立ちから軍事・政治の実践、そして数学的業績と思想の融合までを、三章構成で丁寧に辿ります。


第一章:出発点 ― 少年期から技術者への道

幼年期・家庭背景と教育

ラザール・カルノーは 1753年5月13日、ブルゴーニュ地方ノレー(Nolay)
に生まれました。父親 Claude Carnot は弁護士・公証人で、
名門貴族とは言えないが地元で一定の社会的地位をもつ家柄でした。encyclopedia.com+2frenchempire.net+2
幼年期から読書好きで、哲学や古典に触れる環境があり、
古代ローマやストア哲学への親近感も育まれたとされます。encyclopedia.com+1

14歳頃にはオタン(Autun)の学院で哲学や古典を学び、その後、聖職者養成校で論理学・数学・神学を学ぶ機会もありました。ウィキペディア+2encyclopedia.com+2 そして 1771年、王立工兵学校 Mézières(École royale du génie de Mézières)に合格。工兵・砲兵技術・幾何学・水理学などを学び、工学技術と数学の融合的視点を養いました。Napoleon & Empire+3ウィキペディア+3Maths History+3

軍務・技術者としての初期歩み

1773年、学校を卒業し少尉(first lieutenant)として工兵隊に配属されます。ウィキペディア+2Maths History+2 以降、カレー(Calais)、シェルブール(Cherbourg)、ベトゥーヌ(Béthune)など各地で勤務しながら、砦設計・築城技術・要塞防衛理論に携わりました。Encyclopedia Britannica+3encyclopedia.com+3frenchempire.net+3

この間にもカルノーは、学術的な興味を持ち続け、数理的・工学的論文を著すようになります。1783年には Essai sur les machines en général(機械一般に関する試論) を発表し、摩擦や動力伝達効率、運動の原理について論じ、後の工学力学の発展に先鞭をつけました。ウィキペディア+3Maths History+3encyclopedia.com+3 また、1784年には王立アカデミー(ベルリンやディジョンなど)主催の無限小解析に関する競技問題に応じ、後年 1797年に出版される 『Réflexions sur la métaphysique du calcul infinitésimal(無限小計算の形而上学的反省)』 の原型となる論考を提出。Maths History+2encyclopedia.com+2

革命への関与と政治的意識

1787年、カルノーは文学・哲学サロンや学会活動を通じてマクシミリアン・ロベスピエールらと知己になります。encyclopedia.com+2ウィキペディア+2 1789年のフランス革命勃発のころには、技術者・理論家としての地位を背景に、行政改革案や国防政策への関与を試みるようになります。Napoleon & Empire+2Encyclopedia Britannica+2 彼は革命期の混乱のなかで、工兵技術と国家防衛の結びつきを強く意識するようになり、以降、軍事・政治の交差点に立つ道を歩みはじめます。


第二章:戦略改革者として ― 軍事理論と実践

革命戦争下の危機と抜本改革

革命期、フランスはヨーロッパ列強と多方面で戦火を交えることになります。多くの反乱勢力、外国軍の干渉などで国家存亡の危機に瀕しました。frenchempire.net+3Encyclopedia Britannica+3ウィキペディア+3 カルノーはこの危機下で、従来の募兵制・封建士官中心の軍隊を、国民全体を動員できる体制に変革する必要を痛感します。ウィキペディア+2Maths History+2

1789–1793 年代、カルノーは国民召集(levée en masse, 国民皆兵制度)や徴兵義務の構想を支持・主導し、敵対勢力に対抗できる数の兵力を確保する道筋を描きました。frenchempire.net+3ウィキペディア+3Maths History+3 また戦闘制度の刷新として、従来の一本道戦列(line)戦術を見直し、決戦点への集中攻撃や機動的運用を重視する戦略を採り入れます。encyclopedia.com+3Encyclopedia Britannica+3ウィキペディア+3

「勝利の組織者」としての活動

1793年、カルノーは革命政府の「公共安全委員会(Committee of Public Safety)」や「総防衛委員会(Committee of General Defence)」に加わり、軍事運営の中心人物となります。ウィキペディア+2Maths History+2 彼は軍隊の再編、補給・兵站の確立、戦力運用の戦略立案を担い、例えば諸戦線における統合司令系統や効率的な兵力配分を導入しました。Maths History+2Encyclopedia Britannica+2

伝説的なエピソードとして、コーブルグ(Coburg)率いる連合軍がパリ方面に迫った際、カルノーが前線へ赴き、自ら銃を取って部隊を鼓舞したという話があります。Maths History+1 当時、これは戦場としても政治的象徴としても大きなインパクトを残し、敵を撤退に追い込む一助となりました。Maths History

1794年、カルノーはロベスピエールら過激派と次第に距離を置き、テルミドール 9日 (9 Thermidor) のクーデタにも関与。ロベスピエール政権の崩壊後、カルノーは名声を得て「勝利の組織者」との呼び名を獲得します。Encyclopedia Britannica+2ウィキペディア+2

ディレクトワール時代・追放と復帰

ロベスピエール政権崩壊後、カルノーは 1795年に五人統領政府(ディレクトワール)に参加。彼は軍事政策・行政運営に関与しつつ、安定志向の方針を支持しました。ウィキペディア+2Encyclopedia Britannica+2 しかし 1797年「18 フリュクトイドのクーデタ(Coup of 18 Fructidor)」によって王党派系勢力排除の動きの中で、カルノーは立場を追われ、ドイツへ亡命します。ウィキペディア+2Maths History+2

ナポレオン台頭後、カルノーは 1800年一時的に軍務に復帰し国防大臣(Minister of War)に就きますが、ナポレオンの帝政化に批判的な立場を取ったため、再び政治から距離を置きます。ウィキペディア+2Napoleon & Empire+2 晩年には再び呼び戻され、アンヴェル(Antwerp)の防衛を任されるなど、最後まで国家防衛に関わりました。frenchempire.net+2Encyclopedia Britannica+2 1815年、ワーテルロー戦敗北後、カルノーは王政復古政権下で追放され、ワルシャワ・マグデブルクを転々とし、1823年8月2日マグデブルクで没します。ウィキペディア+2Encyclopedia Britannica+2


第三章:数学・思想・遺産

数学・工学における理論的業績

カルノーは軍事家としてだけでなく、理論工学・数学者としての側面も鮮明でした。1783年の Essai sur les machines en général は、機械運動・摩擦・伝動効率に関する理論的考察を含み、「動力伝達の連続性原理(principle of continuity)」という考えを打ち立てました。ウィキペディア+3encyclopedia.com+3Maths History+3 この考えは、のちに「仕事=力×距離」「エネルギー保存」の概念と整合する先駆的視点と評価されます。encyclopedia.com+2Maths History+2

1797年には Réflexions sur la métaphysique du calcul infinitésimal を出版し、無限小解析の根底にある哲学的・形而上学的問いを扱いました。Maths History+2encyclopedia.com+2 これは彼がかねて応募していたアカデミー課題の拡張版でもあり、彼の数学観と物理直感の融合を示す著作です。Maths History+1

また、1803年には Géométrie de position(位置幾何学) を発表し、射影幾何学・相関図形の理論を展開。交比(クロス比, anharmonic ratio)を符号付きで扱うなど、幾何学の近代化に寄与しました。ウィキペディア+2Maths History+2 さらに、幾何学上の定理(カルノーの定理など)や流体力学における Borda–Carnot 方程式など、流体工学・力学理論にも名を残しています。ウィキペディア+2Maths History+2

ナポレオン時代には、彼に仰せつけられて Traité de la Défense des Places Fortes(要塞防衛論) を 1810 年に著し、要塞設計・防衛理論を体系化しようとしました。frenchempire.net+2Encyclopedia Britannica+2 この著作には、当時の砦設計理論・包囲戦理論を再検討した要素が含まれます。frenchempire.net+1

思想・政治観と理念

カルノーは革命期を通じて、急進主義・審判と粛清重視の方法には慎重で、共和制・市民法・制度の安定を重んじる「穏健共和主義者」の立場を保ちました。encyclopedia.com+2ウィキペディア+2 ロベスピエールら過激派と折り合えない部分を持ち、9 Thermidor の反動勢力との距離を取るなど、権力闘争の渦中でも原理を重んじようとした姿勢が見られます。Encyclopedia Britannica+2Maths History+2

また、彼は「教養」「市民道徳」「義務意識」といった理念を重視し、革命政府下において義務教育制度、公民義務としての兵役、憲法草案における市民義務条項などを提案しました。Maths History+3ウィキペディア+3encyclopedia.com+3 こうした考え方は、革命理念と市民国家建設の橋渡しを目指すものでもありました。encyclopedia.com+1

晩年、ナポレオン統治下・帝政時代には抑制的立場を取り、帝政への反対・権威主義批判を繰り返しました。帝政期にも軍事理論・数学研究を続け、政治には距離を取る時期も長くあります。Maths History+3frenchempire.net+3ウィキペディア+3

遺産と子孫、現代への影響

カルノーの子孫には、熱力学の父とされる サディ・カルノー(Sadi Carnot, 1796–1832) がいます。frenchempire.net+4ウィキペディア+4encyclopedia.com+4 また、彼のもう一人の子、ヒッポリト・カルノー(Hippolyte Carnot, 1801–1888)は政治家として活躍しました。ウィキペディア

カルノーの理論は、その後の機械論・力学・流体力学・幾何学の発展に影響を与えました。たとえば、彼の「動力伝達効率」・「連続性原理」の発想は、後のエネルギー概念・仕事/エネルギー保存論へとつながります。ウィキペディア+3encyclopedia.com+3Maths History+3 また、カルノーの幾何学的業績(位置幾何学など)は、射影幾何学・解析幾何学の発展に道を開いたとされます。ウィキペディア

政治・軍事面でも、国家総動員体制、兵站制度、戦略的軍隊再編構想などは、近代戦・国民国家時代の軍制設計に影響を与えました。彼の生涯・思想の記憶は、第三共和制期に高く顕彰され、彼自身の遺骨は 1889年、パリのパンテオンに改葬されました。ウィキペディアEncyclopedia Britannica


総括・結びに寄せて

ラザール・カルノーは、革命と帝政の激流を生き抜いた軍人・技術者・思想家であり、彼の業績は複合的かつ重層的です。幼年期から技術・数学に親しみ、フランス工兵制度で鍛えられた知性を背景に、革命期には軍制改革を通じて国を再建する中核を担い、その手腕から「勝利の組織者」と呼ばれるに至りました。同時に、数学・工学領域でも無限小計算の哲学的探究、力学・機械論・幾何学における理論的貢献を残し、技術と理論をつなぐ橋渡しを務めました。彼の政治観・市民意識もまた、激動の時代にあって異端でもありつつ説得力を持ち、後世への影響を絶やさないものとなりました。

革命と国家、戦争と技術、思想と数学――これらを統合しながら時代を駆け抜けた大カルノーの物語は、ただの歴史上の人物紹介にとどまらず、近代国家・技術文明・知の構築をめぐる一つの叙事詩でもあります。彼の歩みをたどることで、近代のヨーロッパが抱えた緊張と可能性、そして技術と政治が交錯する場所の重みが、より深く感じられることでしょう。

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2025/10/09_初稿投稿

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ボルン
T-B稿【アインシュタインと「神はサイコロを振らない」と語った男】

SolvayConf-1927

ボルンについての別サイトを見つけました。

トラックバックの為に再度、更新履歴を残します。

https://blog.goo.ne.jp/kayamatetsu/e/8aef2e3e60c14b5f4ff842d2a0cb223e

是非、トラックバック許可頂き、併せて読んでいただけたらと存じます。

(以下原稿です)


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【1882年12月11日 ~1970年1月5日】

マックスボルンと確率解釈

M・ボルンはユダヤ系ドイツ人なので、

第二次世界大戦時は大変苦労しています。

そんな中でボルンは形成時の量子論において本質的な

概念である「確率解釈」を提唱しています。

私なりに確率解釈を考えてみると、
微視的な現象の観測では一意的に全ての値が定まる事実は無く、
観測する行為は
一定の確率で観測値を得る統計的な行為である
とする
解釈です。
【古典物理学での観測値に対応する物理量は量子論では期待値です。】

特定の観測値を持つ場合は確率で表現されます。
1930年に初版が書かれた教科書
【dirac「量子力学」】から一文を引用します。
「観測結果の計算には避けられない不定さがあり、そして理論のなしうることは、一般には我々が観測をする時にある特定の結果が得られる事の確率を計算するだけである」

ボルンの人間関係

ボルンはドイツ本国で教授職を解雇されたりしていて、
反戦の姿勢、非核の姿勢を貫き
ラッセル=アインシュタイン宣言にも参加しています。

この点ではドイツに残り、原爆開発に参加
していたハイゼンベルクとは全く別の人生を歩んでいます。

ちなみに、

ハイゼンベルクはボルンの門下生です。
オッペンハイマーもまた弟子にあたります。
オッペンハイマーとは
「ボルン・オッペンハイマー近似」と呼ばれる業績を残し、
共に研究していた時代があります。

共にユダヤ系でしたのでボルンはイギリス、
オッペンハイマーはアメリカへと追われていきます。
ユダヤ人排斥運動の中でボルンは教授職を奪われたのです。
戦時下でのどうしようもない事情でした。

彼の解釈で有名なやり取りがあります。

ボルンの考え方である確率解釈に対して反論した

アインシュタインが量子力学の解釈を

サイコロ遊びに例えたのです。

【Wikipedeaより引用:アインシュタインの有名な言葉
「彼(神)はサイコロを遊びをしない」は1926年
にボルンに当てた手紙の中で述べられたものである。】

さいころ遊びに例えた手紙が交わされた翌年の
1927年に
ハイゼンベルグが不確定性関係を定め、
このサイトTOPで写真を使っている
第五回ソルベー会議が開かれます。【於10月】

其処で本質に対して真剣な議論が交わされるのです。
人類の理解が大きく変化していった時代でした。

確率解釈は人類の思想にとって大きなパラダイムシフトです。

ボルンの考え方は、それまでの発想を大きく変えました。

最後にトリビア話

ボルンの孫の一人に歌手であるオリヴィア・ニュートン・ジョン
が居ました。私も初稿を書く際に分かったのですが意外ですね。

勝手に想像するとボルンは如何にもドイツ人らしい人
だったのでしょうね。アインシュタインとのやり取りは、
そんな彼を偲ばせます。

イギリスに亡命後にドイツへ帰国しており、
プランクと同じゲッティンゲン市立墓地に眠っているそうです。
母国の土に帰りたい想いもあったのでしょう。
そしてきっと、
お孫さんのオリビア・ニュートンジョンも墓参りに来るのでしょう。

関連URL(YouTubeへ:)
https://www.youtube.com/watch?v=E-JGTk_WM1k

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2020/08/30_初版投稿
2023/01/15_改定投稿

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(2021年10月時点での対応英訳)

Max Born and Probabilistic Interpretation

Since M. Born is a Jewish German, he had a lot of trouble during World War II. Under such circumstances, he advocates “probabilistic interpretation”, which is an essential understanding of phenomena in the early quantum theory. To express the probability interpretation simply, it is an interpretation that the phenomenon related to the observation includes not only the uniquely obtained object but also the event observed with a certain probability. In other words, the observed value is multiplied by the certain probability. It is permissible if it is a match.

Born Relationships

Born has been dismissed as a professor in Germany, and he has been involved in the Russell-Einstein Declaration with an anti-war and non-nuclear stance. In this respect, he remains in Germany and lives a completely different life from Heisenberg, who participated in the development of the atomic bomb. By the way, Heisenberg is a student of Born. Oppenheimer is also a disciple. There was a time when Oppenheimer left a work called “Born-Oppenheimer approximation” and studied together. Both were of Jewish descent, so Born was chased by England and

Oppenheimer was chased by the United States. Born was deprived of his professorship during the Jewish exclusion movement. It was a terrible situation during the war. There is a well-known exchange in his interpretation. Einstein, who argued against Born’s idea of ​​stochastic interpretation, likened the interpretation of quantum mechanics to dice play.

[Quoted from Wikipedea: Einstein’s famous words
“He (God) does not play dice” is 1926
It was stated in a letter to Born. ]

In 1927, the year after this letter was exchanged, Heisenberg established an uncertainty relationship, and the 5th Solvay Conference using photographs will be held on the top of this site. [October] There is a serious discussion about the essence. It was an era when human understanding changed drastically. Probabilistic interpretation is a major paradigm shift for human thought. Born’s thinking changed his way of thinking.

Finally the trivia story

One of Born’s grandchildren was the singer Olivia Newton-John. I also found out when writing the first draft, but it’s surprising. Imagine that Born was a German person. The interaction with Einstein is reminiscent of him. He returned to Germany after his exile in England and is sleeping in the same Göttingen Cemetery as Planck. Perhaps he also wanted to return to his homeland. And I’m sure his grandson Olivia Newton-John will come to visit the grave.