2025年10月16日2025年10月6日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す大カルノー【Lazare Nicolas Marguerite Carnot,_1753/5/13-1823/8/2_軍制改革から数学理論まで】‐10/16改訂 こんにちはコウジです。 半年ごとの新規記事投稿の中での草稿です。 今回は数学界の大御所をご紹介します。皆さんご存じのお名前ですよ。 では、ご覧ください。内容を整理し、リンクを見直しました。 現時点での英訳も考えています。(以下原稿)フランス革命とナポレオン時代を駆け抜けた一人の人物――ラザール・カルノー(1753–1823)。彼は「勝利の組織者(Organisateur de la Victoire)」と称され、革命期のフランス軍の再編を主導し、徴兵制の導入をはじめとする軍制改革で戦局を好転させました。一方で、政治家としては穏健な共和主義を堅持し、激動の時代にあって反対派からも尊敬を集めました。さらに、数学者・工学者としても、無限小解析の哲学的探求や幾何学・機械論の理論を残し、後世の技術者・数学者に影響を与えました。本稿では、彼の生い立ちから軍事・政治の実践、そして数学的業績と思想の融合までを、三章構成で丁寧に辿ります。第一章:出発点 ― 少年期から技術者への道幼年期・家庭背景と教育ラザール・カルノーは 1753年5月13日、ブルゴーニュ地方ノレー(Nolay) に生まれました。父親 Claude Carnot は弁護士・公証人で、 名門貴族とは言えないが地元で一定の社会的地位をもつ家柄でした。encyclopedia.com+2frenchempire.net+2 幼年期から読書好きで、哲学や古典に触れる環境があり、 古代ローマやストア哲学への親近感も育まれたとされます。encyclopedia.com+114歳頃にはオタン(Autun)の学院で哲学や古典を学び、その後、聖職者養成校で論理学・数学・神学を学ぶ機会もありました。ウィキペディア+2encyclopedia.com+2 そして 1771年、王立工兵学校 Mézières(École royale du génie de Mézières)に合格。工兵・砲兵技術・幾何学・水理学などを学び、工学技術と数学の融合的視点を養いました。Napoleon & Empire+3ウィキペディア+3Maths History+3軍務・技術者としての初期歩み1773年、学校を卒業し少尉(first lieutenant)として工兵隊に配属されます。ウィキペディア+2Maths History+2 以降、カレー(Calais)、シェルブール(Cherbourg)、ベトゥーヌ(Béthune)など各地で勤務しながら、砦設計・築城技術・要塞防衛理論に携わりました。Encyclopedia Britannica+3encyclopedia.com+3frenchempire.net+3この間にもカルノーは、学術的な興味を持ち続け、数理的・工学的論文を著すようになります。1783年には Essai sur les machines en général(機械一般に関する試論) を発表し、摩擦や動力伝達効率、運動の原理について論じ、後の工学力学の発展に先鞭をつけました。ウィキペディア+3Maths History+3encyclopedia.com+3 また、1784年には王立アカデミー(ベルリンやディジョンなど)主催の無限小解析に関する競技問題に応じ、後年 1797年に出版される 『Réflexions sur la métaphysique du calcul infinitésimal(無限小計算の形而上学的反省)』 の原型となる論考を提出。Maths History+2encyclopedia.com+2革命への関与と政治的意識1787年、カルノーは文学・哲学サロンや学会活動を通じてマクシミリアン・ロベスピエールらと知己になります。encyclopedia.com+2ウィキペディア+2 1789年のフランス革命勃発のころには、技術者・理論家としての地位を背景に、行政改革案や国防政策への関与を試みるようになります。Napoleon & Empire+2Encyclopedia Britannica+2 彼は革命期の混乱のなかで、工兵技術と国家防衛の結びつきを強く意識するようになり、以降、軍事・政治の交差点に立つ道を歩みはじめます。第二章:戦略改革者として ― 軍事理論と実践革命戦争下の危機と抜本改革革命期、フランスはヨーロッパ列強と多方面で戦火を交えることになります。多くの反乱勢力、外国軍の干渉などで国家存亡の危機に瀕しました。frenchempire.net+3Encyclopedia Britannica+3ウィキペディア+3 カルノーはこの危機下で、従来の募兵制・封建士官中心の軍隊を、国民全体を動員できる体制に変革する必要を痛感します。ウィキペディア+2Maths History+21789–1793 年代、カルノーは国民召集(levée en masse, 国民皆兵制度)や徴兵義務の構想を支持・主導し、敵対勢力に対抗できる数の兵力を確保する道筋を描きました。frenchempire.net+3ウィキペディア+3Maths History+3 また戦闘制度の刷新として、従来の一本道戦列(line)戦術を見直し、決戦点への集中攻撃や機動的運用を重視する戦略を採り入れます。encyclopedia.com+3Encyclopedia Britannica+3ウィキペディア+3「勝利の組織者」としての活動1793年、カルノーは革命政府の「公共安全委員会(Committee of Public Safety)」や「総防衛委員会(Committee of General Defence)」に加わり、軍事運営の中心人物となります。ウィキペディア+2Maths History+2 彼は軍隊の再編、補給・兵站の確立、戦力運用の戦略立案を担い、例えば諸戦線における統合司令系統や効率的な兵力配分を導入しました。Maths History+2Encyclopedia Britannica+2伝説的なエピソードとして、コーブルグ(Coburg)率いる連合軍がパリ方面に迫った際、カルノーが前線へ赴き、自ら銃を取って部隊を鼓舞したという話があります。Maths History+1 当時、これは戦場としても政治的象徴としても大きなインパクトを残し、敵を撤退に追い込む一助となりました。Maths History1794年、カルノーはロベスピエールら過激派と次第に距離を置き、テルミドール 9日 (9 Thermidor) のクーデタにも関与。ロベスピエール政権の崩壊後、カルノーは名声を得て「勝利の組織者」との呼び名を獲得します。Encyclopedia Britannica+2ウィキペディア+2ディレクトワール時代・追放と復帰ロベスピエール政権崩壊後、カルノーは 1795年に五人統領政府(ディレクトワール)に参加。彼は軍事政策・行政運営に関与しつつ、安定志向の方針を支持しました。ウィキペディア+2Encyclopedia Britannica+2 しかし 1797年「18 フリュクトイドのクーデタ(Coup of 18 Fructidor)」によって王党派系勢力排除の動きの中で、カルノーは立場を追われ、ドイツへ亡命します。ウィキペディア+2Maths History+2ナポレオン台頭後、カルノーは 1800年一時的に軍務に復帰し国防大臣(Minister of War)に就きますが、ナポレオンの帝政化に批判的な立場を取ったため、再び政治から距離を置きます。ウィキペディア+2Napoleon & Empire+2 晩年には再び呼び戻され、アンヴェル(Antwerp)の防衛を任されるなど、最後まで国家防衛に関わりました。frenchempire.net+2Encyclopedia Britannica+2 1815年、ワーテルロー戦敗北後、カルノーは王政復古政権下で追放され、ワルシャワ・マグデブルクを転々とし、1823年8月2日マグデブルクで没します。ウィキペディア+2Encyclopedia Britannica+2第三章:数学・思想・遺産数学・工学における理論的業績カルノーは軍事家としてだけでなく、理論工学・数学者としての側面も鮮明でした。1783年の Essai sur les machines en général は、機械運動・摩擦・伝動効率に関する理論的考察を含み、「動力伝達の連続性原理(principle of continuity)」という考えを打ち立てました。ウィキペディア+3encyclopedia.com+3Maths History+3 この考えは、のちに「仕事=力×距離」「エネルギー保存」の概念と整合する先駆的視点と評価されます。encyclopedia.com+2Maths History+21797年には Réflexions sur la métaphysique du calcul infinitésimal を出版し、無限小解析の根底にある哲学的・形而上学的問いを扱いました。Maths History+2encyclopedia.com+2 これは彼がかねて応募していたアカデミー課題の拡張版でもあり、彼の数学観と物理直感の融合を示す著作です。Maths History+1また、1803年には Géométrie de position(位置幾何学) を発表し、射影幾何学・相関図形の理論を展開。交比(クロス比, anharmonic ratio)を符号付きで扱うなど、幾何学の近代化に寄与しました。ウィキペディア+2Maths History+2 さらに、幾何学上の定理(カルノーの定理など)や流体力学における Borda–Carnot 方程式など、流体工学・力学理論にも名を残しています。ウィキペディア+2Maths History+2ナポレオン時代には、彼に仰せつけられて Traité de la Défense des Places Fortes(要塞防衛論) を 1810 年に著し、要塞設計・防衛理論を体系化しようとしました。frenchempire.net+2Encyclopedia Britannica+2 この著作には、当時の砦設計理論・包囲戦理論を再検討した要素が含まれます。frenchempire.net+1思想・政治観と理念カルノーは革命期を通じて、急進主義・審判と粛清重視の方法には慎重で、共和制・市民法・制度の安定を重んじる「穏健共和主義者」の立場を保ちました。encyclopedia.com+2ウィキペディア+2 ロベスピエールら過激派と折り合えない部分を持ち、9 Thermidor の反動勢力との距離を取るなど、権力闘争の渦中でも原理を重んじようとした姿勢が見られます。Encyclopedia Britannica+2Maths History+2また、彼は「教養」「市民道徳」「義務意識」といった理念を重視し、革命政府下において義務教育制度、公民義務としての兵役、憲法草案における市民義務条項などを提案しました。Maths History+3ウィキペディア+3encyclopedia.com+3 こうした考え方は、革命理念と市民国家建設の橋渡しを目指すものでもありました。encyclopedia.com+1晩年、ナポレオン統治下・帝政時代には抑制的立場を取り、帝政への反対・権威主義批判を繰り返しました。帝政期にも軍事理論・数学研究を続け、政治には距離を取る時期も長くあります。Maths History+3frenchempire.net+3ウィキペディア+3遺産と子孫、現代への影響カルノーの子孫には、熱力学の父とされる サディ・カルノー(Sadi Carnot, 1796–1832) がいます。frenchempire.net+4ウィキペディア+4encyclopedia.com+4 また、彼のもう一人の子、ヒッポリト・カルノー(Hippolyte Carnot, 1801–1888)は政治家として活躍しました。ウィキペディアカルノーの理論は、その後の機械論・力学・流体力学・幾何学の発展に影響を与えました。たとえば、彼の「動力伝達効率」・「連続性原理」の発想は、後のエネルギー概念・仕事/エネルギー保存論へとつながります。ウィキペディア+3encyclopedia.com+3Maths History+3 また、カルノーの幾何学的業績(位置幾何学など)は、射影幾何学・解析幾何学の発展に道を開いたとされます。ウィキペディア政治・軍事面でも、国家総動員体制、兵站制度、戦略的軍隊再編構想などは、近代戦・国民国家時代の軍制設計に影響を与えました。彼の生涯・思想の記憶は、第三共和制期に高く顕彰され、彼自身の遺骨は 1889年、パリのパンテオンに改葬されました。ウィキペディアEncyclopedia Britannica総括・結びに寄せてラザール・カルノーは、革命と帝政の激流を生き抜いた軍人・技術者・思想家であり、彼の業績は複合的かつ重層的です。幼年期から技術・数学に親しみ、フランス工兵制度で鍛えられた知性を背景に、革命期には軍制改革を通じて国を再建する中核を担い、その手腕から「勝利の組織者」と呼ばれるに至りました。同時に、数学・工学領域でも無限小計算の哲学的探究、力学・機械論・幾何学における理論的貢献を残し、技術と理論をつなぐ橋渡しを務めました。彼の政治観・市民意識もまた、激動の時代にあって異端でもありつつ説得力を持ち、後世への影響を絶やさないものとなりました。革命と国家、戦争と技術、思想と数学――これらを統合しながら時代を駆け抜けた大カルノーの物語は、ただの歴史上の人物紹介にとどまらず、近代国家・技術文明・知の構築をめぐる一つの叙事詩でもあります。彼の歩みをたどることで、近代のヨーロッパが抱えた緊張と可能性、そして技術と政治が交錯する場所の重みが、より深く感じられることでしょう。〆以上、間違い・ご意見は 次のアドレスまでお願いします。 問題点には適時、 返信改定を致しします。nowkouji226@gmail.com2025/10/09_初稿投稿 2026/10/16_改訂投稿纏めサイトTOPへ 舞台別のご紹介へ 時代別(順)のご紹介力学関係のご紹介へ【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】(2025年10月時点での対応英訳)A man who lived through the French Revolution and the Napoleonic era—Lazare Carnot (1753–1823). Known as the “Organizer of Victory” (Organisateur de la Victoire), he led the reorganization of the French army during the Revolution and turned the tide of war through military reforms such as the introduction of conscription. At the same time, as a politician, he upheld moderate republicanism, earning respect even from his opponents in an age of turmoil. Moreover, as a mathematician and engineer, he left behind philosophical explorations of infinitesimal analysis and theories of geometry and mechanics that influenced later generations of scientists and engineers. This article carefully follows his life—from childhood and military practice, to political involvement, and finally to his mathematical achievements and ideas—in three chapters.Chapter I: Beginnings — From Childhood to EngineerEarly Life, Family, and Education Lazare Carnot was born on May 13, 1753, in Nolay, Burgundy. His father, Claude Carnot, was a lawyer and notary. The family was not of high nobility but held a respectable social position locally. From a young age, Carnot was an avid reader, exposed to philosophy and the classics, and is said to have developed an affinity for ancient Rome and Stoic philosophy.Around the age of fourteen, he studied philosophy and the classics at the academy in Autun, later attending a clerical training school where he studied logic, mathematics, and theology. In 1771, he was admitted to the Royal Engineering School at Mézières (École royale du génie de Mézières), where he studied military engineering, artillery science, geometry, and hydraulics—training that sharpened his ability to combine engineering with mathematical thought.Early Career as an Engineer and Soldier In 1773, Carnot graduated and was commissioned as a first lieutenant in the engineering corps. He served in Calais, Cherbourg, Béthune, and elsewhere, working on fortress design, fortification, and defense theory.During this period, Carnot pursued scholarly interests, writing mathematical and engineering papers. In 1783, he published Essai sur les machines en général (“Essay on Machines in General”), where he discussed friction, efficiency of power transmission, and principles of motion—an early contribution to engineering mechanics. In 1784, he submitted a prize essay on infinitesimal analysis to European academies, which later evolved into his 1797 publication Réflexions sur la métaphysique du calcul infinitésimal (“Reflections on the Metaphysics of Infinitesimal Calculus”).Involvement in the Revolution and Political Awareness By 1787, through intellectual salons and scholarly activities, Carnot became acquainted with figures such as Maximilien Robespierre. At the outbreak of the Revolution in 1789, he began to contribute ideas on administrative reform and national defense policy, increasingly conscious of the link between engineering expertise and the defense of the state. From then on, he would walk the path between military affairs and politics.Chapter II: The Strategic Reformer — Military Theory and PracticeRevolutionary Wars and the Need for Reform During the Revolution, France faced wars on multiple fronts with European powers, rebellions, and foreign intervention, placing the nation in peril. Carnot recognized the necessity of replacing the old system of recruitment and aristocratic officers with a structure that mobilized the entire nation.Between 1789 and 1793, he advocated and helped implement the levée en masse—a mass national conscription—ensuring the manpower needed to resist enemies. He also reformed battle tactics, moving away from rigid line formations and emphasizing concentrated attacks on decisive points and flexible maneuvering.The “Organizer of Victory” In 1793, Carnot joined the Committee of Public Safety and the Committee of General Defence, becoming central to military planning. He reorganized the army, established supply lines and logistics, and devised strategies for effective deployment, introducing unified command structures and rational troop distribution.A legendary episode tells of him personally rallying troops at the front, musket in hand, when coalition forces under Prince of Coburg threatened Paris—a symbolic and morale-boosting act that contributed to repelling the enemy.By 1794, distancing himself from Robespierre and participating in the coup of 9 Thermidor, Carnot gained widespread acclaim and earned the title “Organizer of Victory.”Directory, Exile, and Return After Robespierre’s fall, Carnot joined the five-member Directory in 1795, where he played a role in military and administrative policy, favoring stability. But in 1797, during the Coup of 18 Fructidor, he was forced into exile in Germany.After Napoleon’s rise, Carnot briefly returned to public service in 1800 as Minister of War, but his opposition to the imperial regime soon led him to withdraw again. Later, he was recalled to defend Antwerp and remained committed to national defense until the end of his life. After Waterloo in 1815, he was exiled under the restored monarchy and died in Magdeburg on August 2, 1823.Chapter III: Mathematics, Thought, and LegacyTheoretical Achievements in Mathematics and Engineering Carnot was not only a military leader but also a significant mathematician and theorist. His 1783 Essai sur les machines en général introduced the principle of continuity in mechanical power transmission—an idea anticipating later concepts of work, energy, and conservation.In 1797, his Réflexions sur la métaphysique du calcul infinitésimal addressed the philosophical foundations of infinitesimal calculus, merging mathematical reasoning with physical intuition.In 1803, he published Géométrie de position (“Geometry of Position”), developing ideas in projective geometry, including the use of the cross-ratio with signs, advancing modern geometry. Other contributions include Carnot’s Theorem in geometry and the Borda–Carnot equation in fluid mechanics.In 1810, at Napoleon’s request, he wrote Traité de la Défense des Places Fortes (“Treatise on the Defense of Fortresses”), which systematized contemporary fortification theory and siege defense.Political Ideas and Civic Philosophy Throughout the Revolution, Carnot remained a moderate republican, cautious of extremism and purges, and prioritizing stability and civic institutions. He supported ideas of civic duty, public education, and mandatory military service as elements of a citizen’s responsibility to the republic. His proposals linked revolutionary ideals with the construction of a modern civic state.During the Napoleonic era, he often stood in opposition to authoritarian tendencies, maintaining a principled stance even as he continued his scientific work.Legacy and Descendants Carnot’s son, Sadi Carnot (1796–1832), became known as the “father of thermodynamics.” Another son, Hippolyte Carnot (1801–1888), was an influential politician.His theoretical contributions shaped the development of mechanics, geometry, and fluid dynamics. His principles of power transmission and continuity prefigured energy conservation, while his Geometry of Position influenced modern projective geometry.Militarily, his innovations in mobilization, logistics, and army reorganization influenced the structure of modern national armies. His memory was honored in the Third Republic, and in 1889 his remains were reinterred in the Panthéon in Paris.ConclusionLazare Carnot was a soldier, engineer, and thinker who navigated the turbulent currents of Revolution and Empire. Trained in mathematics and engineering, he played a central role in saving revolutionary France through military reform, earning the name “Organizer of Victory.” At the same time, he pursued deep inquiries into mathematics and mechanics, building bridges between theory and practice.His political vision, emphasizing moderation, civic duty, and republican values, gave him a distinct and enduring place in the tumult of his age.The story of Carnot—where revolution and state, war and technology, thought and mathematics intersect—is not only a historical biography but also an epic of how modern states, technological civilization, and scientific knowledge were forged. To trace his path is to glimpse the tensions and possibilities of modern Europe, and the weight of the crossroads where politics and science meet.
2025年10月15日2025年10月5日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残すP・ショーァ【Peter Williston Shor, 1959/8/14-量子暗号を揺るがす男】‐10/15改訂 こんにちはコウジです。 半年ごとの新規記事投稿の中での草稿です。 今回は量子コンピューターのソフトに関わっている 大御所をご紹介します。時代は進み応用理論も展開されています。 では、ご覧ください。内容を整理し、リンクを見直しました。 現時点での英訳も考えています。(以下原稿)量子計算の分野を語る上で、**ショーァ(Shor)**の名は欠かせません。 ショーァが1994年に発表した「ショーァのアルゴリズム」は、もし 実用化すれば現在の暗号社会を根本から揺るがす可能性を示し、 研究者から一気に注目を浴びました。しかし、彼自身の 生い立ちや人間としての側面は、意外と語られることが少ないのです。本稿では、幼少期から学究時代、そしてアルゴリズム発表に至る 道筋をたどりながら、研究者として・人としてのショーァ像を、 浮き彫りにしてゆきます。未だご存命の研究者で本ブログの方針から 少し外れますが、何よりも理論の内容を紹介したい。そして、 理論と情熱が交錯するその道のりを、 ひとつの物語として読んでいただければ幸いです。第一章:原点と学びの道程幼少期と家族背景ショーァ(Peter Williston Shor)は 1959年8月14日、アメリカ・ニューヨークに生まれました。彼の幼年期〜思春期に関する詳細な公開情報は限られていますが、数学や理論科学に向かう素養を持って育ったことが後年の業績につながったと考えられます。本人が後年振り返った講演などからは、「数学や計算機科学の美しさ」に惹かれる資質は、若い頃から徐々に育まれていたという雰囲気がうかがわれます。カリフォルニア工科大学での出発点1977〜80年代、ショーァはカリフォルニア工科大学(Caltech)で数学を学び、1981年に学士号(B.A. in Mathematics)を取得します。math.mit.edu+1Caltech での学びは、純粋数学だけでなく、理論計算機科学や物理との接点を持つ学問への視野を広げる土壌となりました。数学という枠を越えて、計算やアルゴリズムと理論物理との融合に関心を寄せていく芽も、こうした時代に育ったと考えられます。MIT における博士課程と初期研究学士課程修了後、ショーァはマサチューセッツ工科大学(MIT)に進み、応用数学(Applied Mathematics)を専攻。1985年には博士号(Ph.D.)を取得します。指導教員は Tom Leighton ら。math.mit.edu+1博士課程や前後の研究活動では、古典的アルゴリズム・計算複雑性理論・組合せ論・確率論などの領域に取り組み、量子計算の萌芽とも言えるテーマに種をまき始めていました。第二章:ベル研究所時代とアルゴリズムへの道AT&T/Bell Labs での業績と環境博士号取得後、ショーァはバークレーの MSRI(Mathematical Sciences Research Institute)でポスドク研究を行った後、1986年から AT&T(Bell Labs を含む研究所部門)に所属します。math.mit.edu+2minghsiehece.usc.edu+2Bell Labs は当時、情報理論、通信技術、数学・アルゴリズムの交点で巨人たちが集う場所であり、学際的刺激にあふれた環境でした。そこでは、古典アルゴリズム研究・組合せ最適化・計算幾何学など、量子以前の「通常計算機アルゴリズム」の研究が主戦場でした。math.mit.edu+2news.mit.edu+2量子情報理論との接点と転換点90年代後半、量子情報や量子計算という概念が徐々に注目を集め始めます。ショーァ自身もその流れに関心を寄せ、従来のアルゴリズム研究から徐々に量子的視点へシフトしてゆきました。AIP Publishing+2news.mit.edu+2彼は、物理学・量子力学の不思議さを「計算の道具」として使えないかと考え、エンタングルメント(量子もつれ)や量子フーリエ変換などの技術をアルゴリズム設計に導入する発想を育てていきます。news.mit.edu+2AIP Publishing+2この時期彼が多く語っているのは、「Simon のアルゴリズム(Daniel Simon による量子アルゴリズム)に触発された」というものです。Simon の問題設定は一見抽象的でしたが、ショーァはそこに「素因数分解」や「離散対数」といった、実社会でも意味を持つ問題への応用可能性を見出しました。news.mit.edu+2AIP Publishing+21994年、「ショーァのアルゴリズム」の劇的発表1994年、彼はついに「量子コンピュータによる素因数分解アルゴリズム(Shor’s algorithm)」を発表しました。これにより、かつては計算困難と考えられていた大きな整数を多項式時間で因数分解できる可能性が示され、暗号技術の根幹を揺るがす衝撃をもたらしました。macfound.org+5minghsiehece.usc.edu+5news.mit.edu+5MIT の Killian 講演で彼自身が語ったところでは、その発表セミナーは物理学者たちが質問を飛ばし合う熱気ある場であり、プレゼンテーション後、四日後には「彼は素因数分解もやった」とのうわさが一人歩きした、という逸話も残されています。news.mit.eduこのアルゴリズム発表は、それまで「量子コンピュータは架空のもの」という認識を一変させ、「実用性を真剣に考えるべき対象」へと転換させました。第三章:その後の研究、人格、そして影響量子耐性・誤り訂正技術への挑戦ショーァの仕事は、ただ素因数分解を高速化するアルゴリズムを提示するだけでは終わりませんでした。量子計算器はノイズや量子デコヒーレンス(量子状態の崩壊)に弱いため、どのように誤りを抑え、安定な計算を可能にするかが最大の課題となります。ショーァは量子誤り訂正符号(quantum error-correcting codes)に関する研究を進め、特定の符号化・冗長化技術を用いて、量子ビット(qubit)を複数まとめて冗長化し、誤りを検出・訂正できる枠組みを構築しました。news.mit.edu+2AIP Publishing+2これにより、「ノイズ下でもある程度信頼性を保てる量子演算器」を実現可能にする理論的基盤を打ち立てたと言われています。学界的評価と受賞歴・称号ショーァの業績は、数学・計算機科学・量子情報科学をまたいで高く評価されました。彼は、1998年にネヴァンリナ賞 (Nevanlinna Prize) を受賞。math.mit.edu+2macfound.org+2さらに 1999年にはアカデミー的な評価と自由研究助成を兼ねたマッカーサー助成金 (MacArthur Fellowship) を受賞。math.mit.edu+1他にも Gödel 賞、ディクソン賞 (Dickson Prize)、ファイサル賞 (King Faisal Prize)、IEEE 賞など、数々の国際的栄誉を受けています。minghsiehece.usc.edu+4math.mit.edu+4macfound.org+4また、2003年からは MIT の応用数学教授 (Morss Professor of Applied Mathematics) の地位に就き、量子アルゴリズム・量子情報理論の最前線で教鞭をとっています。news.mit.edu+3math.mit.edu+3minghsiehece.usc.edu+32025年には、IEEE Claude E. Shannon Award(情報理論分野での栄誉賞)を受賞予定との報道もあります。hpcwire.com+1人柄、講演・教えのスタイル、そして影響力ショーァ自身は公私にわたるエピソードをあまり自発的に語るタイプではないようですが、MIT の Killian 講演などで彼が交えた回想から、人柄の一端が垣間見えます。彼は、自身の研究が並行して進む他分野との対話を大切にし、物理学者・数学者・情報理論学者たちとの議論を積極的に交わしてきました。news.mit.edu+1また、彼は詩的なセンスも持ち合わせており、たとえば次のようなリメリック(五行詩)を自身のウェブページに投稿することもあります:“If computers that you build are quantum,Then spies of all factions will want ’em.Our codes will all fail,And they’ll read our email,Till we’ve crypto that’s quantum, and daunt ’em.”— Jennifer and Peter Shor hpcwire.comこのようなひとことからも、彼が数理・理論だけでなく言葉やユーモアの感覚も併せ持つことがうかがわれます。研究者的な影響力においても、ショーァの業績は、量子コンピューテーション研究を一気に活性化させ、量子アルゴリズム設計・誤り訂正理論・暗号理論・量子通信などの各分野に知的刺激を与え続けています。今日、多くの研究者が彼の成果を基盤に研究を展開しており、「量子暗号」や「ポスト量子暗号」の議論を牽引する存在となっています。総括・結語ショーァは単にアルゴリズムの名を残した天才というだけではありません。謙虚に、しかし大胆に理論と思考の境界を押し広げてきた研究者、その背後には理論とアルゴリズム、物理的直感と数学的厳密性を統合しようとする飽くなき志がありました。幼少期の素養、Caltech・MIT での学問的基盤、Bell Labs での環境、量子アルゴリズムへの転換、誤り訂正理論への貢献、豊かな受賞歴と穏やかな語り口、そして彼が後進に残した刺激……これらを通じて、ショーァという人物の輪郭が浮かび上がります。量子計算・量子情報理論の歴史を語る上で、ショーァの物語は欠かせない物語です。その歩みを知ることで、彼のアルゴリズムのもたらす意味だけでなく、学問者として・人間としての背景がより生き生きと感じられることでしょう。〆【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 問題点に対しては 適時、返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2025/10/08‗初稿投稿 2025/10/15‗改訂投稿舞台別のご紹介へ 時代別(順)のご紹介 力学関係へ 電磁気関係へ 熱統計関連のご紹介へ 量子力学関係へAIでの考察(参考)【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】(2025年10月時点での対応英訳)In the field of quantum computing, the name Shor is indispensable. In 1994, Peter Shor unveiled what is now known as Shor’s Algorithm, a discovery that, if realized in practice, could shake the foundations of our cryptographic society. It drew immediate and intense attention from researchers. Yet, surprisingly little has been said about his personal life, upbringing, or the human side of Shor himself.This article traces his path from childhood through his academic years to the presentation of his algorithm, portraying Shor not only as a researcher but also as a person. Although he is still alive today, which slightly deviates from this blog’s usual focus, the significance of his theory deserves to be highlighted. My intent is to present both his theory and the passion behind it as a story for readers to experience.Chapter I: Origins and the Path of LearningChildhood and Family Background Peter Williston Shor was born on August 14, 1959, in New York, USA. Although little public information exists regarding his early life and adolescence, it is believed that his innate talent for mathematics and theoretical science laid the foundation for his later achievements. From his later lectures and reflections, one can sense that his fascination with the beauty of mathematics and computer science gradually developed during his youth.Starting Point at Caltech From the late 1970s through the 1980s, Shor studied mathematics at the California Institute of Technology (Caltech), earning a B.A. in Mathematics in 1981. His time at Caltech expanded his academic horizons beyond pure mathematics, exposing him to theoretical computer science and physics. It was during this period that the seeds of his later interest—blending computation, algorithms, and theoretical physics—began to take root.Doctoral Studies at MIT and Early Research After graduating, Shor entered the Massachusetts Institute of Technology (MIT) to pursue a Ph.D. in Applied Mathematics, which he obtained in 1985 under the supervision of Tom Leighton and others. His doctoral work and subsequent early research focused on classical algorithms, computational complexity theory, combinatorics, and probability theory. In retrospect, these studies planted the seeds for what would later become the field of quantum computation.Chapter II: The Bell Labs Era and the Road to the AlgorithmAchievements and Environment at AT&T/Bell Labs After earning his Ph.D., Shor conducted postdoctoral research at the Mathematical Sciences Research Institute (MSRI) in Berkeley. In 1986, he joined AT&T, including its Bell Labs research division. At that time, Bell Labs was a vibrant hub where giants of information theory, communication technology, mathematics, and algorithms converged. There, Shor focused primarily on classical algorithmic research—combinatorial optimization, computational geometry, and related areas—long before quantum computation became his central concern.Connection with Quantum Information and a Turning Point By the early 1990s, quantum information and quantum computation began attracting scholarly attention. Shor, intrigued by this trend, gradually shifted from classical algorithm research toward quantum perspectives. He sought to harness the peculiarities of quantum mechanics—such as entanglement and the quantum Fourier transform—as tools for algorithm design.A key inspiration for him was Simon’s Algorithm (by Daniel Simon). Although Simon’s problem initially seemed abstract, Shor recognized its potential applications to real-world problems like integer factorization and discrete logarithms.The Dramatic Revelation of Shor’s Algorithm in 1994 In 1994, Shor presented his revolutionary Quantum Algorithm for Integer Factorization. For the first time, it was shown that large integers—once thought infeasible to factor efficiently—could be decomposed in polynomial time on a quantum computer. This revelation shook the very foundations of modern cryptography.In MIT’s Killian Lecture, Shor later recalled that the seminar where he unveiled the algorithm was electrified with physicists’ questions. Only four days later, rumors spread: “He has solved factorization.” This announcement transformed the perception of quantum computers from “purely theoretical constructs” into technologies whose practicality must be taken seriously.Chapter III: Later Research, Personality, and InfluenceChallenges in Quantum Error Correction Shor’s contributions extended beyond factorization. Quantum computers are inherently fragile, vulnerable to noise and decoherence. One of the greatest challenges was how to suppress errors and achieve stable computation. Shor pioneered research into quantum error-correcting codes, showing how redundancy and coding techniques could be used to detect and correct errors by encoding qubits into larger structures. This laid a theoretical foundation for building more reliable quantum processors.Academic Recognition and Awards Shor’s work was acclaimed across mathematics, computer science, and quantum information science. He received the Nevanlinna Prize in 1998, the MacArthur Fellowship in 1999, and numerous other prestigious awards such as the Gödel Prize, Dickson Prize, King Faisal Prize, and IEEE honors. Since 2003, he has served as the Morss Professor of Applied Mathematics at MIT, continuing to teach and guide research at the forefront of quantum computation. In 2025, he is also slated to receive the IEEE Claude E. Shannon Award, one of the field’s highest honors in information theory.Personality, Teaching Style, and Influence Although not particularly inclined to share personal anecdotes, glimpses of Shor’s character emerge from his lectures and writings. He has consistently valued interdisciplinary dialogue, engaging actively with physicists, mathematicians, and information theorists. He also displays a lighthearted side, sometimes composing limericks such as:“If computers that you build are quantum, Then spies of all factions will want ’em. Our codes will all fail, And they’ll read our email, Till we’ve crypto that’s quantum, and daunt ’em.”Such touches reveal his wit and poetic sense, complementing his theoretical rigor.His intellectual influence remains profound: Shor’s algorithm catalyzed research in quantum algorithms, error correction, cryptography, and quantum communication. Today, countless researchers build upon his legacy, and his work continues to inspire discussions on post-quantum cryptography and secure communication.ConclusionShor is not merely a genius who left behind a famous algorithm. He is a researcher who has humbly yet boldly expanded the boundaries of theory and thought. Behind his work lies a persistent drive to integrate mathematical rigor with physical intuition, and algorithms with theory.From his early talents and academic formation at Caltech and MIT, to his transformative years at Bell Labs, to his revolutionary contributions in quantum algorithms and error correction, and his rich career of recognition and mentorship—these facets together reveal the contours of Peter Shor as both a thinker and a person.In the history of quantum computation and quantum information, Shor’s story is indispensable. To know his journey is to grasp not only the meaning of his algorithm but also the human spirit and intellectual passion that brought it into being.
2025年10月13日2025年10月5日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す松山基範【1884年10月25日 – 1958年1月27日_地磁気の反転を兵庫県の玄武岩の磁気測定で発見】 地球の歴史は常に変化に満ちています。その中でも特に人々を驚かせたのが「地磁気の逆転」という現象です。コンパスの針が指す北と南が、ある時代には逆だったという事実。この重要な発見を最初に科学的に示したのが、日本の地球物理学者 松山基範(まつやま・もとのり)博士 でした。1926年、兵庫県豊岡市の「玄武洞」で採取した玄武岩を調べた松山博士は、その岩石の磁化方向が現在とは逆であることを突き止めました。1929年の論文発表は、世界で初めて地磁気逆転を証明したものとして知られています。その後、この研究は「チバニアン」認定の科学的根拠の一つともなり、古地磁気学という新しい学問分野を切り開くきっかけとなりました。本稿では、発見の経緯、玄武岩と磁化のメカニズム、地磁気逆転の仕組み、そして松山博士の人物像をたどりながら、この偉業の意義を改めて振り返ります。1. 発見の経緯とその意義1-1 玄武洞での観察1926年、京都大学の 松山基範博士 は、豊岡市にある「玄武洞」の約160万年前の玄武岩を調査しました。その結果、岩石の残留磁化が現在の地磁気と逆を向いていることを確認しました。この観察は当初、大きな注目を集めませんでしたが、1929年に論文として発表されると、地磁気が過去に反転していたことを示す最初の科学的報告となりました(Matsuyama, 1929)。1-2 その後の評価発表当時、学界は懐疑的でしたが、後の研究で裏付けられ、現在では地磁気逆転は確立した学説となっています。松山の名は「松山逆磁極期(Matuyama Reversed Chron)」として、地質学の標準的な時間区分に刻まれました。まとめ(約200字)松山博士が玄武洞で行った観察は、当時は小さな発見に見えましたが、のちに地球科学全体を変える基盤となりました。科学の進展は時に「時代が追いつくまで」評価されないことを示す好例でもあり、松山の研究はチバニアン認定にもつながる現代的な意義を持ち続けています。2. 地磁気逆転のメカニズム2-1 地球の磁場をつくる「ダイナモ作用」地球の磁場は、外核の液体金属(主に鉄とニッケル)の対流によって生じる「地球ダイナモ作用」で生み出されています。この流れが変動すると、磁場の強さや方向も変化し、時には逆転が起こると考えられています(Glatzmaier & Roberts, 1995)。2-2 逆転の周期性と特徴地磁気逆転は完全に周期的ではなく、不規則に発生します。例えば「松山逆磁極期」は約260万年前から78万年前にかけて続きました。逆転の間隔は数十万年から百万年以上に及ぶこともあり、近い将来の逆転可能性についても議論されています。2-3 現代観測との関連現在、地磁気は弱まりつつあり、これが「逆転の前兆ではないか」との議論も存在します。しかし研究者の間では「弱まってもすぐに逆転するとは限らない」とされています(NASA, 2018)。まとめ(約200字)地磁気逆転は地球ダイナモ作用の自然な結果として生じる現象であり、地球の歴史を刻む「周期的な鼓動」ともいえます。松山博士の発見は、単なる岩石観察にとどまらず、この地球規模のダイナミズムを示す先駆的証拠となったのです。3. 玄武岩と磁化のメカニズム3-1 岩石に残る「自然残留磁化」溶岩が冷えて固まるとき、岩石中の磁性鉱物(主に磁鉄鉱)が周囲の地磁気の方向に並び、その方向を保持します。これを「自然残留磁化(NRM)」と呼びます。3-2 玄武岩の特徴玄武洞の岩石は玄武岩であり、磁性鉱物を多く含むため、過去の地磁気を記録するのに適しています。玄武洞の柱状節理は景観的にも知られていますが、科学的にも「天然の磁気テープ」として大きな価値を持ちます。3-3 測定方法の進化松山博士の時代には限られた測定技術しかありませんでしたが、現在では高感度の磁力計や放射年代測定と組み合わせて、より正確な古地磁気解析が行われています。まとめ(約200字)玄武岩は地球の過去を記録する「天然の磁気メディア」といえる存在です。松山博士は、この岩石が示す微妙な磁化の向きに注目し、そこから地球規模の逆転現象を導き出しました。シンプルながらも深い洞察が科学の大発見につながった好例といえます。4. 松山基範の人物像4-1 学歴と経歴松山基範(1884–1958)は京都大学で地球物理学を学び、地磁気や地球電気学の研究に従事しました。1929年の発表によって世界的に名を残しましたが、日本国内では長らく過小評価されてきました。4-2 人柄と研究姿勢松山博士は慎重で実直な研究者として知られ、地味ながらも着実に観察と実験を重ねるタイプでした。その誠実な姿勢が、確かなデータをもとにした地磁気逆転の発見につながったといえます。4-3 功績と評価彼の業績は死後に再評価され、「松山逆磁極期」という名が国際的に採用されることで、その価値が世界的に認められることとなりました。まとめ(約200字)松山博士は名声を追うよりも観察と実証を重んじる研究者でした。彼の真摯な姿勢が時代を超えて評価され、現在では「古地磁気学の父」として世界的に知られる存在となっています。参考図版(イメージ)図版内容「出典:NASA」玄武洞の柱状節理(約160万年前の玄武岩)「出典:豊岡市公式サイト」地磁気逆転の概念図全体のまとめ松山基範博士が1926年に玄武洞で発見した「逆向きの磁化」は、やがて地球の磁場が反転するという壮大な事実を示す最初の証拠となりました。この研究は当時すぐには理解されませんでしたが、のちに古地磁気学という新しい分野を開き、チバニアン認定にもつながりました。地磁気逆転のメカニズム、玄武岩の残留磁化、そして松山博士の誠実な人柄をたどることで、科学における「一見小さな観察」がどれほど大きな発見を導くかを実感できます。松山の名は、今も地質年代の中に生き続けています。参考文献Matsuyama, M. (1929). “On the Direction of Magnetization of Basalt in Japan, Tyosen and Manchuria.” Proc. Imp. Acad. 5: 203–205.Glatzmaier, G. A., & Roberts, P. H. (1995). “A three-dimensional self-consistent computer simulation of a geomagnetic field reversal.” Nature, 377, 203–209.NASA (2018). Earth’s Magnetic Field Is Weakening. https://www.nasa.gov豊岡市公式サイト「玄武洞公園」 https://www.city.toyooka.lg.jp〆【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 問題点に対しては 適時、返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2025/10/13‗初稿投稿舞台別のご紹介へ 時代別(順)のご紹介 力学関係へ 電磁気関係へ 熱統計関連のご紹介へ 量子力学関係へ
2025年10月12日2025年10月2日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す近藤淳【1930年2月6日 – 2022年3月11日その生涯と研究者としての歩み⁻スピンを導入した低温電磁気特性・近藤効果】 こんにちはコウジです。 半年ごとの新規記事投稿の中での草稿です。 電子デバイス開発に関わっている 近藤淳をご紹介します。時代は進み応用理論も展開されています。 では、ご覧ください。(以下原稿)20世紀後半、日本の物理学における世界的な発見のひとつが「近藤効果」です。近藤淳(こんどう じゅん)は、希薄磁性合金において電気抵抗が低温で極小値を示す現象を理論的に解明し、スピンの概念を導入したことで、物性物理学に新しい地平を切り開きました。この現象は単なる材料特性ではなく、電子と磁性不純物の相互作用が量子力学的に織り成す複雑な効果であり、その後の低温物理やナノテクノロジー研究の基盤となっています。本記事では、近藤淳の生涯、研究者としての歩み、そして「近藤効果」の原理と意義を分かりやすく解説します。近藤淳の生涯と研究者としての歩み幼少期から東大時代へ1930年2月6日、東京府(現在の東京都)に生まれた近藤淳は、幼少期から理科や数学に強い関心を抱いていました。東京大学理学部物理学科に進学し、1954年に卒業。物理学の急速な発展期に青春を送りました。その後、東京大学大学院で物性物理を専攻し、1959年には理学博士を取得します。研究キャリアの始まり大学卒業後は日本大学理工学部助手を経て、東京大学物性研究所助手として研究の基盤を固めました。さらに、通商産業省工業技術院の電気試験所(のちの電子技術総合研究所、現・産業技術総合研究所)に勤務。ここで本格的に物性研究に取り組むことになります。晩年と学術的地位1990年には東邦大学理学部教授に就任し、教育と研究の両面で後進を育成しました。1997年には日本学士院会員に選任され、国内外から高い評価を受けます。2013年には産業技術総合研究所の名誉フェローとなり、その功績は生涯を通じて認められました。2022年、誤嚥性肺炎により92歳で逝去しましたが、彼の業績は今もなお生き続けています。近藤効果の発見と原理解説電気抵抗の「極小問題」1960年代、金属の電気抵抗が温度低下とともに単調に減少するはずなのに、希薄磁性合金においてはある温度で極小を示し、その後増加するという奇妙な現象が観測されていました。これは実験的には知られていたものの、長らく理論的な説明がつかない謎とされていました。スピンと電子散乱近藤淳は1964年、この現象を電子と磁性不純物の「スピン相互作用」による散乱として説明しました。金属中の自由電子は不純物原子の局在スピンと相互作用し、低温になるほど散乱が強まります。そのため、電気抵抗は減少し続けず、一定温度で極小を迎えた後に再び増加するのです。近藤効果の理論的意義近藤の理論は量子力学的散乱理論を応用し、摂動展開における対数的発散を初めて示しました。これは「多体問題」における画期的な突破口であり、その後の「リナーマリゼーション群(RG)」による解析、さらに強相関電子系の研究へと発展しました。近藤効果は単なる現象解明にとどまらず、物理学全体の方法論を進化させたのです。近藤効果の広がりと現代への影響低温物理学への貢献近藤効果は、低温における物質特性を理解する上で不可欠な概念となりました。特に超伝導や量子液体など、極低温環境でのみ顕著に現れる現象の解明において、その理論的枠組みが役立っています。ナノテクノロジーとの接点近年では、量子ドットやナノスケールデバイスにおいても近藤効果が観測されています。これらは「人工原子」とも呼ばれる構造で、単一電子とスピンの相互作用を精密に制御できる場として注目されています。近藤効果は、ナノエレクトロニクスの設計における基本原理の一つとなっています。近藤効果が残した学問的遺産近藤淳が解明した「スピンと電子の相互作用による抵抗異常」は、その後の強相関電子系、量子多体系研究、そしてトポロジカル物質の理論的基盤にも通じています。彼の発見は、物性物理学の中で今なお重要な「出発点」として引用され続けています。まとめ近藤淳は、希薄磁性合金の電気抵抗が低温で示す極小現象を理論的に解明し、世界に衝撃を与えました。「近藤効果」として知られるこの発見は、単なる材料の性質を超え、量子多体系の本質に迫る理論的成果として、今も物理学の最前線で生き続けています。研究者・教育者として日本の物性物理学を牽引し、算術的思考から量子論まで幅広くつなげた近藤の功績は、まさに世界に誇るべき知的遺産です。〆【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 問題点に対しては 適時、返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2025/10/12‗初稿投稿舞台別のご紹介へ 時代別(順)のご紹介 力学関係へ 電磁気関係へ 熱統計関連のご紹介へ 量子力学関係へAIでの考察(参考)【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】
2025年10月11日2025年10月1日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す関孝和【 1637年1642年生まれ1708年12月5日没_傍書法と点竄術で和算を革新した“算聖”の生涯と業績】 こんにちはコウジです。 半年ごとの新規記事投稿の中での草稿です。 今回は和算の改心者である関孝和をご紹介します。 時代を超えた考察が展開されています。 では、ご覧ください。(以下原稿)17世紀の日本において、関孝和(せき たかかず)は和算を飛躍的に発展させた革新者 でした。彼は独自の記号法「傍書法」と、筆算術を応用した「点竄術」を生み出し、 それまで解けなかった高次方程式を扱えるようにしました。この革新は、連立方程式や 行列式、さらには微積分に相当する問題まで取り組める新しい数学の地平を 切り開きます。和算の枠を大きく広げた功績により、後世の和算家は関の流れを 「関流」と称し、彼を「算聖」と仰ぎました。本記事では、関孝和の人物像と 研究の中核に迫り、その意義を現代的な視点から解説します。関孝和の生涯と和算の登場出自と生涯の背景関孝和は江戸時代前期、武士の家に生まれ、幕府の勘定役を務めたと伝わります。 生年や前半生には不明点が多いものの、確かなのは彼が数学的才能を発揮し、 和算を飛躍的に発展させたことです。和算は中国から伝わった数学を基盤と しながらも、日本独自の発展を遂げていました。孝和の登場は、まさに和算の 「成熟期」を象徴する出来事でした。中国数学からの影響当時の日本数学は、中国の『算数書』や『天元術』を受け継いでいました。 しかし、中国式の天元術は未知数が一つしか扱えず、問題解決には 限界がありました。孝和はこの制約を打破する方法を模索し、 傍書法や点竄術を通じて、未知数を複数扱う革新的な アプローチを生み出したのです。算聖と呼ばれるまで関の業績は弟子や後継者に継承され、18世紀には「算聖」と称されるほどの尊敬を集めました。俳句の松尾芭蕉や茶道の千利休に匹敵する文化的巨人として、日本数学史に確固たる地位を築いたのです。数学的革新 ― 傍書法と点竄術の深堀り傍書法の誕生と意義傍書法とは、数式を紙面の傍らに記号として書き込む独自の表記法です。これにより、複数の未知数を同時に扱えるようになり、数式の整理が飛躍的に簡単になりました。現代の代数記号の先駆けともいえる画期的な発明であり、数学を抽象的に操作する力を高めました。点竄術による計算革命点竄術は、筆算のように符号や記号を操作して高次方程式を解く方法でした。未知数を扱う複雑な問題を体系的に処理できるため、和算における「計算技術革命」とも呼べます。連立方程式の消去法や行列式の萌芽がここに見られる点は、特筆すべきです。天元術の応用拡大従来の天元術は一次元的な問題に限定されていましたが、傍書法と点竄術の導入により、複数未知数や高次方程式にも応用可能になりました。例えば、孝和は正三角形から正20角形に至る多角形の面積計算を体系化し、数学を幾何・代数の両面から進化させました。和算の発展と関流の形成後世の和算家への影響孝和の技術革新により、和算は多くの分野に応用されました。彼の方法は計算を効率化し、後世の和算家が新しい公式を導き出す基盤を築きました。この恩恵は18世紀を通じて広がり、日本独自の数学文化の成熟を支えました。関流という学派の誕生18世紀後半になると、孝和を中心とする和算家の系譜は「関流」と称されました。和算家たちは系譜を誇りとし、孝和の記号法や計算法を標準として学びました。関流は、和算を日本全国に普及させる大きな原動力となったのです。算聖としての文化的地位関孝和は単なる数学者にとどまらず、日本文化の象徴的存在へと昇華しました。和算は学問としてだけでなく、文化・芸術と並ぶ知的営みとみなされ、孝和の名は「算聖」として歴史に刻まれました。まとめ関孝和は、日本の数学史において決定的な役割を果たした革新者でした。傍書法と点竄術によって、和算は未知数を複数扱える新たな地平に到達し、連立方程式や高次方程式を体系的に解く力を獲得しました。この成果は後世の和算家に継承され、「関流」として全国に広がり、和算を文化的にも学術的にも高みに押し上げました。俳聖・茶聖と並ぶ「算聖」としての関孝和の名は、今もなお日本数学史に燦然と輝いています。〆【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 問題点に対しては 適時、返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2025/10/11‗初稿投稿舞台別のご紹介へ 時代別(順)のご紹介【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】
2025年10月10日2025年9月30日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残すジョゼフ・ブラック【Joseph Black_1728年4月16日 – 1799年12月6日】 こんにちはコウジです。 半年ごとの新規記事投稿の中での草稿です。 今回は熱容量の概念を作り上げていった一人をご紹介します。 では、ご覧ください。(以下原稿)ジョゼフ・ブラック(1728-1799)は、近代熱学と化学の黎明期を支えたスコットランドの思想家・実験科学者です。彼は、固体や液体の相変化時に加えられても温度変化を示さない「潜熱(latent heat)」の概念を打ち立て、物質ごとに異なる「熱容量(あるいは比熱)」の違いを定量化する道を切り拓きました。また、ブラックは、いわゆる「固定空気(fixed air)」、つまり現在の二酸化炭素(CO₂)の存在を明らかにし、ガスを定量的に扱う手法を取り入れることで、化学実験の定量性を普及させました。さらに、彼はスコットランド啓蒙主義の一員として、デイヴィッド・ヒューム、アダム・スミス、ジェームズ・ハットンらと交わり、科学・哲学・政治・医学の交差点で活動しました。本稿ではまず彼の生涯と思想的文脈を振り返り、次に潜熱・熱容量・CO₂ 発見の実験と理論を詳しく見て、最後に彼の教育・交流・影響を通じて、ブラックが後世に残したものを考察します。第一章:生涯と啓蒙主義の交錯幼年期・家族と初期教育ジョゼフ・ブラックは 1728年4月16日、フランス・ボルドーに生まれました。父ジョン・ブラックはスコットランド系でアイルランド(ベルファスト)出身、ワイン商人としてボルドーに拠点を構えていました。School of Chemistry+2EBSCO+2 母マーガレットもスコットランド・アバディーンシャー出身で、ワイン商人家系でした。ウィキペディア+2EBSCO+2 彼が12歳になると、ベルファストのグラマースクールへ送られ、ラテン語・ギリシャ語・古典教養の教育を受けます。undiscoveredscotland.co.uk+2EBSCO+2その後 1744年、16歳でグラスゴー大学に入学し、最初はリベラル・アーツ(人文・基礎教養)を中心に学びました。EBSCO+3School of Chemistry+3ウィキペディア+3 ただし、講義のなかでウィリアム・カレン(William Cullen、後年の化学・医学教授)による化学・医学への講義に触れ、強く惹かれたと伝えられています。School of Chemistry+2Encyclopedia Britannica+2医学・化学への方向転換と助教時代ブラックはグラスゴーで医学へ進む決意をし、化学実験にも深く関わるようになります。彼は数年間、カレンの実験助手を務め、化学実験技法・観察の訓練を積みました。School of Chemistry+2Encyclopedia Britannica+2 1752年にはエディンバラ大学へ移り、医学をさらに学び、1754年には医学博士(M.D.)号を取得しました。EBSCO+3School of Chemistry+3Encyclopedia Britannica+3博士論文では、化学物質(特にマグネシア・アルバ/炭酸マグネシウムなど)を扱った実験を含む定量的な研究を行い、後に「固定空気(fixed air)」と呼ばれるガス(現在の CO₂)を発見する基盤を築きます。EBSCO+4School of Chemistry+4Encyclopedia Britannica+4 1755年にはこの研究を「Experiments upon Magnesia Alba, Quicklime, and Some Other Alkaline Substances」としてエディンバラ哲学協会で発表し、化学に定量的手法を導入する契機となりました。Encyclopedia Britannica+3Encyclopedia Britannica+3School of Chemistry+3グラスゴー・エディンバラ教授としての地位1756年、ブラックはグラスゴー大学に戻り、解剖学と植物学の教授を局地的に務め、その翌年には医学教授に就任します。EBSCO+4School of Chemistry+4gla.ac.uk+4 その時期、彼は熱学・化学実験にも力を注ぎ、潜熱や比熱(heat capacity, specific heat)の概念を同時代の理論と実験の接点として発展させていきます。EBSCO+3gla.ac.uk+3Encyclopedia Britannica+31766年、ブラックはエディンバラ大学へ転じ、化学・医学の教授に着任。以後 30 年以上にわたって講義・研究を続け、多くの学生を育て、化学の普及に尽くしました。Royal College of Physicians of Edinburgh+4School of Chemistry+4Encyclopedia Britannica+4 彼の講義は実験指導を交えたもので、毎年 128 回にも及ぶ講義を提供し、英国・ヨーロッパ中から学生を惹きつけたといいます。gla.ac.uk+1ブラックはスコットランド啓蒙主義の知識人たちと広く交わり、デイヴィッド・ヒューム、アダム・スミス、ジェームズ・ハットンらと思想的・学問的交流を行いました。Encyclopedia Britannica+2EBSCO+2 また、彼は晩年には化学界での理論変化(特にラヴォアジエの酸素説の導入)にも慎重に対応し、変革期の科学社会で中庸を保つ姿勢を残しました。Encyclopedia Britannica+11799年12月6日、エディンバラにて亡くなり、灰色修道士墓地(Greyfriars Kirkyard)に葬られました。Encyclopedia Britannica+2Encyclopedia Britannica+2第二章:潜熱と熱容量——熱学概念の確立潜熱(latent heat)の発見とその実験ブラックの最も有名な功績の一つが「潜熱(latent heat)」という概念の発見です。これは、物質が相変化(氷⇄水、液体⇄蒸気など)を行う際、加えられた熱量のうち温度変化を伴わず内部で使われる「隠れた熱(latent)」を指すものです。Thoracic Key+4Physiology Journals+4Encyclopedia Britannica+4ブラックはグラスゴー時代、冬の寒さを利用して氷の融解・水の冷却・加熱実験を繰り返し、同一の熱源を使っても溶解・蒸発に異なる時間がかかること、温度の上昇を示さずに相変化が進む現象を記録しました。Science History Institute+3gla.ac.uk+3School of Chemistry+3 例えば、氷が溶けて水になる過程では、多くの熱が吸収されるけれども温度は 0 °C 近辺で止まり、温度変化が見られないという事実をもって、ブラックはこの熱変化を温度計では測れない「潜熱」と呼びました。Thoracic Key+3Encyclopedia Britannica+3Encyclopedia Britannica+3この発見は、蒸気機関技術において非常に重要でした。ジェームズ・ワット(James Watt)は、蒸気の凝縮時・蒸発時にかかる熱を理解する上で、ブラックの潜熱概念を参照し、効率的な蒸気機関設計に活かしました。Encyclopedia Britannica+4aps.org+4Science History Institute+4熱容量(比熱、specific heat)の定量化ブラックはまた、「物質ごとに温度を上げるために必要な熱量」は異なるという直感を、定量的実験で裏付けました。これは現代的には「熱容量(あるいは比熱、specific heat)」という考え方に相当します。EBSCO+4Encyclopedia Britannica+4Encyclopedia Britannica+4彼は、水や水銀など複数の物質について、同じ熱量を加えたときの温度上昇量を比較する実験を行い、水銀は温度変化が大きいが、水は変化が小さいことを示しました。これは、物質が熱を蓄える能力、すなわち熱容量の違いを示すものです。web.lemoyne.edu+2gla.ac.uk+2 たとえば、ブラック自身の例では、水と水銀(quicksilver)の混合で、温度平衡点が異なるという実験を通じて、熱容量比の違いを定性的に示しました。web.lemoyne.edu+2gla.ac.uk+2このような実験により、熱が単なる「温度変化」のみではないこと、物質内部での熱吸収・放出の挙動が異なることを理解する道が開け、後の熱力学理論の土台を築きました。Science History Institute+3TA Instruments+3Encyclopedia Britannica+3CO₂(固定空気)の発見と定量化ブラックはまた、「固定空気(fixed air)」という名で呼ばれたガス、すなわち二酸化炭素(CO₂)の発見者としても知られます。Physiology Journals+5Encyclopedia Britannica+5School of Chemistry+5彼の博士論文やその後の研究で、ブラックはマグネシア・アルバ(magnesia alba, 炭酸マグネシウム)や石灰(quicklime, 酸化カルシウム、炭酸カルシウム含有)を加熱・酸と反応させてガスを発生させ、そのガスが燃焼を消す、不活性である、また酸と反応性を持つ性質を持つことを示しました。Thoracic Key+5School of Chemistry+5Encyclopedia Britannica+5 彼はこのガスを「固定空気」と名付け、固体に「固定されていた空気」が分離されたという意味を込めました。Science History Institute+3School of Chemistry+3Encyclopedia Britannica+3さらにブラックはこの固定空気が燃焼を支えないこと、生命呼吸に適さないこと、肺呼気にも含まれていることを示しました。Thoracic Key+3Encyclopedia Britannica+3School of Chemistry+3 この発見はガス化学・気体論の発展に大きな刺激を与え、プリーストリー、キャベンディッシュ、ラヴォアジエらの時代の化学革命の基盤として評価されます。Encyclopedia Britannica+3Thoracic Key+3Science History Institute+3特筆すべきは、ブラックがただガスを発見しただけでなく、それを「定量的に測る」手法を持ち込んだことです。質量測定、化学反応の収支、無機化学実験における誤差管理など、定量実験を体系化する方向性を彼が導入しました。EBSCO+3School of Chemistry+3Encyclopedia Britannica+3これら三本柱(潜熱、熱容量、固定空気)は、ブラックを「熱化学」の初期パイオニアと位置づけさせる基盤となりました。第三章:教育・交流・影響――科学者ブラックの顔教育と普及:講義と実験精神ブラックは極めて熱心な教育者でした。グラスゴー時代から講義実験を積極的に取り入れ、学生を実験に引き込む手法を採りました。Encyclopedia Britannica+3gla.ac.uk+3School of Chemistry+3 エディンバラに移ってからも、講義回数は年間 128 回程度に及び、各地から学生を惹きつけました。gla.ac.uk+1 彼の講義ノートも多く残されており、実験装置・手順・理論説明を適切に組み込んだ構成が確認できます。gla.ac.uk+1彼の講義収入が教授職の給与とは別であったため、講義を人気あるものに保つインセンティブも働いたといいます。gla.ac.uk ブラックは、講義を通じて化学や熱学の重要性を広く伝える役割を果たしました。School of Chemistry+1啓蒙主義との交わりと人脈ブラックは、スコットランド啓蒙主義(Scottish Enlightenment)の中核的知識人たちと関係をもっていました。デイヴィッド・ヒューム、アダム・スミス、ジェームズ・ハットンといった思想家・科学者との交流が知られています。Encyclopedia Britannica+2EBSCO+2 彼はヒュームの主治医を務めたり、アダム・スミスの遺稿を編集したりする役割を果たしました。Encyclopedia Britannica+2EBSCO+2ブラック自身は結婚せず、社交的・文化的活動にも関心をもち、フルート演奏をするなど芸術的素養も併せ持っていたと伝えられます。Encyclopedia Britannica+1 彼は晩年、フランクリンら著名人を迎えることもあり、交流の広さを示しています。Encyclopedia Britannica+1また、科学界への保守性も見られ、ブラックは化学革命期の理論変化(たとえば、燃焼説や酸素理論の導入)については慎重な態度をとっていました。Encyclopedia Britannica+1 最終的には 1790 年ごろにラヴォアジエとの書簡によって酸素説を受け入れたという記録があります。Encyclopedia Britannica+1影響と遺産:後世への架け橋ブラックの手法と概念は、後の熱力学、化学、物理化学の基本構造を形作る礎となりました。潜熱・比熱の考え方は、19世紀以降の熱力学理論、カロリメトリ、化学熱力学等へと継承されます。Science History Institute+3TA Instruments+3Encyclopedia Britannica+3また、彼の定量実験・質量管理・収支分析など実験化学の手法導入は、化学革命期における「量的化学」(quantitative chemistry)への転換を促しました。EBSCO+3School of Chemistry+3Encyclopedia Britannica+3技術的には、彼と親交のあったジェームズ・ワットへの影響が大きく、潜熱理論をワットの蒸気機関改良に適用することで、蒸気効率の改善に寄与しました。School of Chemistry+3Science History Institute+3aps.org+3 この相互作用が産業革命の技術革新と結びついた点は、科学・技術史において重要視されます。Science History Institute+2Encyclopedia Britannica+2さらに、ブラックの名は、グラスゴー大学・エディンバラ大学の化学学部建物名としても残され、スコットランドの科学教育遺産の象徴とされています。undiscoveredscotland.co.uk+2School of Chemistry+2彼の死後、科学界は急速に進展を続けましたが、ブラックのような「概念と実験を結ぶ橋をかけた思想家」としての存在は、今日においても評価され続けています。総括・結びジョゼフ・ブラックは、ただ“実験をした人”ではありません。その業績は、熱学・化学理論・実験手法・教育・知的文化のすべてをつなぐものでした。彼は、相変化における潜熱という見えにくい熱の振る舞いを明らかにし、物質ごとの熱容量の違いを定量的に捉え、気体としての CO₂ を“固定空気”という観点で発見しました。同時に、スコットランド啓蒙主義の時代背景の中で、ヒュームやスミスらと知識の往還をし、化学・物理を市民社会へと開く役割を果たしました。ブラックが残したものは、単なる理論・実験知見だけではなく、「思考の枠組み」としての科学的態度と実践の伝統です。彼の生涯を通じて見えてくるのは、「観察・実験を重視しながらも、文化・思想と折り合う科学者像」です。ラヴォアジエ時代へと続く化学革命の橋渡し役であり、蒸気機関技術と熱力学理論の接点にも立ったブラックの足跡は、科学・技術・産業・啓蒙思想が交錯する時代の縮図でもあります。ブラックという名を通じて、熱とは何か、物質とは何か、実験とは何かという問いが、18世紀から 19世紀へと流れる知の河の中でどのように育まれ、受け継がれてきたかを感じ取っていただければ幸いです。〆テックアカデミー無料メンター相談 【スポンサーリンク】 間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 全て読んでいます。 適時、改定・返信をします。nowkouji226@gmail.com2025/12/10_初稿投稿纏めサイトTOPへ 舞台別のご紹介へ 力学関係へ 熱統計関連のご紹介へ
2025年10月7日2025年9月28日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す大栗博司【おおぐり ひろし‗1962年生まれ ~ ご存命中(2025/3月確認)】‐10/07改訂 こんにちはコウジです。 「大栗博司」の原稿を改訂します。主たる改定点はリンク切れ情報の確認です。 FanBlog閉鎖に伴いリンクは無効としてます。 また、リンク切れ情報も目立っており、改訂。 細かい文章も再考しています。しっかり正確に。 そして沢山情報が伝わるように努めます。 (以下原稿)はじめに今回、ご存命中の物理学者の紹介です。 思いっきり現役の学者さんをご紹介します。 カリフォルニア工科大学の大栗博司氏です。 特に個人的な面識はありませんが 研究内容・研究室運営・期待感が圧倒的に魅力的なのです。父から娘に贈る数学 【PR】その研究内容私にとって最も興味深い一面は研究内容です。大栗氏は 現代物理学での最先端だと言える「ひも理論」を研究しています。 竹内薫の「超ひも理論」を読んで、私が初めて理論を考え始めた時期には ひも理論が10次元の視点を持っている点が面白く思えました。相対性理論力学からが4次元までの拡張をしていった延長線上で、 10次元があるように思えたのです。その時期はひも理論は 詳しく追いかけていません。今でも理論を語れるとは 思えないほどですが、どうしても気になっていました。その後、 2023年の2月の終わりに日経新聞で改めて紹介されているのを見て 本記事の記載に至りました。この理論の紹介は外せません。特に初学者が分かり易い言葉を使ってご紹介いたします。 今も進んでいる物理学が伝われば幸いです。日経記事ではカリフォルニア工科大学のジョン·シュワルツらが 「超弦理論」で1984年に大きな成果を上げた時期に、大栗氏が「米国から3ヶ月遅れの船便で届く論文を心待ちにし、 むさぼるように読んで魅了されました」と伝えています。(カッコ内は大栗氏の言葉でしょう。) ご自身の関心を拡げたわけです。 新しい情報に食らいつくことは大事です! 【新聞からの引用部分は太字にしています(以下同様)】その後、大栗氏は東京大学に進み理論を極めていきます。大栗氏は語ります。「理論物理学者には実際に密接に関わって新現象や新粒子を見つけるタイプと、長い目で見て理論的枠組みや普遍的な数学的手法を開発するタイプが居ます。僕は後者の方です。」 そして、量子力学と相対性理論を合わせて考える究極の統一理論の考えだします。具体的には重力を量子力学に取り組んでいこうと考え、宇宙誕生のメカニズムを踏まえて、大栗氏は紐理論の研究を進めるのです。大栗氏の華麗な足跡大栗氏は京都大学でマスターをとり、東京大学でドクターをとります。 その後、プリンストン、シカゴ大、京都大、UCBなどを経て カリフォルニア工科大学で教鞭をとっています。 シカゴ大学で大栗氏を誘ったのは40歳も年が離れた南部陽一郎でした。(カリフォルニア工科大学では今でも教えています)また、 パリ第六大学で客員成就をされていた時期もあったそうです。終身理事等のタイトルを持ち、今も活国で活躍されています。 科学史の舞台となった場所が次々出てくるのです。 ご自身のブログで「PHYSIC TREE」と題して思考形成の流れ を記録していました。最善の仲間を作った様子が分かります。その研究室での活動は活発で現在でも各国から 研究者を受け入れて議論を進めています。 カリフォルニア工科大学内で ご自身のブログも開設されていて 数年前まではブログも頻繁に更新していたようです。 (カルテックでのブログは2021年3月頃まで確認してました)大栗氏は語っています。「超弦理論が究極の理論として正しい解であるかは分からない。 しかしこれまでに試された理論の中では最良である。」 と考えは変わらなかった。 「不易流行という言葉があります。」。『不易(本質的)なものを目指して「統一理論(重力と量子力学の統合)」 の世界に至る為に、超弦理論という「流行」へ飛び込んだ』 と大栗氏は述べています。もっとも正しい と思える道を突き進んでいるのです。〆【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 問題点に対しては 適時、返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2023/03/30‗初稿投稿 2025/10/07‗改訂投稿舞台別のご紹介へ 時代別(順)のご紹介 力学関係へ 電磁気関係へ 熱統計関連のご紹介へ 量子力学関係へ AIでの考察(参考)【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】
2025年10月5日2025年9月25日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残すブライアン・ハロルド・メイ【ロックスター・クィーンのブライアン】-10/5改定 こんにちはコウジです。 「ブライアン・ハロルド・メイ」の原稿を改訂します。主たる改定点はリンク切れ情報の確認です。 FanBlog閉鎖に伴いリンクは無効としてます。 また、リンク切れ情報も目立っており、改訂。 細かい文章も再考しています。しっかり正確に。 そして沢山情報が伝わるように努めます。 (以下原稿)クイーン・フォーエバー 【スポンサーリンク】 【1947年7月19日生まれ ~ ご存命】クイーンのブライアン有名なロックバンド・クィーンのブライアンですが、 その名を英語で書き下すと Brian Harold May、 CBEです。勲章を頂いているのでCBEがつきます。CBEって分かり辛いので補足しますと騎士団時代の 表現での司令官で、階級としてはナイトに次ぐ立場です。 部下に将校と団員がいる位置づけです。所謂、女王陛下を守る騎士団の仲間達ですね。 For God and the Empire がモットーです。ブライアンは学生時代に天文学、宇宙工学を専攻 していました。2007年に研究を再開して論文を 書き博士号をとったので物理学者として取り上げています。 【京大‗花山天文台訪問時のFacebook記事】ブライアンの音響へのアプローチヘルムホルツの時代から音響解析がより定量的なものとなり、振動数・音の振幅・増減比が記録可能な情報として共有されています。5セントコインでギターを奏でるブライアンは彼なりに物理学を駆使してギターの中での「音を出す仕組み」を解析していって作りこんでオリジナリティーを突き詰めていく作業をしています。無論、学者が同様の試みを今まで何度もしてきたと思いますがブライアンの取り組みは著名なロックバンドの主要メンバーとしての活動でした。楽器メーカーとのコラボレーションも可能ですし、一線級の技術者や職人との会話もブライアンの財産となっていった筈です。無名時代からギターを自作していた日々が最上級の経験の中で更に進化していったのです。他の誰にもできないい「音」を確立していったと感じています。ブライアンの天文学への取り組みロック活動で暫く研究活動を休止していたブライアンは天体に関する研究としてカナリア諸島の天文台で研究を進め、母校インペリアル・カレッジでの審査を通過して博士号を得ました。また、アメリカ航空宇宙局(NASA)による小惑星「ベンヌ」の試料回収に協力したと2023年に報じられていました。具体的には2016年に打ち上げられた探査機の着陸時のミッションでブライアンは貢献しています。ベンヌのデータから三次元情報を解析して安全に着陸できる為に尽力したのです。その結果、2023年の9月には探査機は惑星からサンプル資料を地球に持ち帰っています。〆【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 次のアドレスまでお願いします。 最近は返信出来ていませんが 全てのメールを読んでいます。 適時返信のうえ改定を致しします。nowkouji226@gmail.com2021/01/17_初版投稿 2025/10/05_改定投稿サイトTOPへ 舞台別のご紹介へ 時代別(順)のご紹介 イギリス関係のご紹介 力学関係のご紹介へ 熱統計関連のご紹介へAIでの考察(参考)【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】(2021年11月時点での対応英訳)Queen BrianBrian of the famous rock band Queen, but his name is written in English as Brian Harold May, CBE. He has a medal, so he gets a CBE. Since CBE is difficult to understand, I would like to add that he is a commander in the expression of the Knights era, and is in a position next to Knight as a class. It is positioned that there are officers and members under his subordinates. So-called members of the Knights who protect Her Majesty. For God and the Empire is our motto.Brian majored in astronomy and space engineering when he was a student. He has taken up as a physicist because he resumed his research in 2007, wrote a dissertation and earned a PhD.Brian’s approach to acousticsSince the time of Helmholtz, acoustic analysis has become more quantitative, and frequency, sound amplitude, and increase / decrease ratio are shared as recordable information. Brian, who plays the guitar with a nickel coin, uses physics in his own way to analyze and create the “mechanism that produces sound” in the guitar, and is working to pursue originality. Of course, I think scholars have made similar attempts many times, but Brian’s work was as a key member of a prominent rock band. Collaboration with musical instrument makers is possible, and conversations with first-class engineers and craftsmen should have become Brian’s property. The days of making his own guitar since his unknown days have evolved further in his top-notch experience. He feels that he has established a “sound” that no one else can.Brian’s commitment to astronomyBrian, who had been suspended from his research activities for a while due to his rock activities, proceeded with his research at the Canary Islands Observatory as a research on celestial bodies, passed the examination at his alma mater Imperial College, and obtained his PhD. rice field. He also wants to talk about him on another occasion.〆
2025年8月31日2025年8月3日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す老人の呟きから8月末抜粋_・なおし魔 【2011-04-19】・Heisenbergがノーベル賞を単独受賞した訳 【2011-05-27】・「坂田昌一の生涯」を読む 【2011-11-04】・坂田昌一の寺田寅彦批判 【2011-11-12 】・久保亮五の統計力学 【2011-11-19】・Boltzmann 因子 【2012-02-16】・Yangの新しい論文 【2012-02-17】・「素粒子論研究」終刊号 【2012-02-28 】・遠山啓と武谷三男2 【2012-03-08】・Pauliの行列の導入 【2012-03-19 】・ライフログ 【2012-04-11】・外村彰氏の死 【2012-05-03 】・四元数と線形代数 【2012-05-07】・『千の太陽よりも明るく』 【2012-07-11】なおし魔 【2011-04-19】私は「なおし魔」である。だからこのブログでも誰かからアクセスされたブログを見て、再度自分で読んで、変な表現を自分でしていたと思ったら、どしどし文章を直している。そういう意味では記録などおかまいなしである。もっとも後の時点での訂正とか付記であることをはっきりさせるために(何年何月何日付記)と書いていることもあるが、そういう付記をしないことも多い。そういう文書の訂正をした人として私と比べるととてもおこがましいが、二人のとても有名な人がいる。一人は有名な中国の革命家、毛沢東で彼は自分の書いた文書を彼の毛沢東選集か何かに収録するときに大きくは変えなかったかもしれないが、細かな修正をしたといわれる。だから、ある意味では歴史的な記録としては具合が悪いところがあるかもしれない。もう一人の方は日本人の物理学者である、朝永振一郎博士である。彼はみすず書房から出版した彼の論文集で、全部自分の書いた論文を修正をしたといわれる。そしてその論文の受理の年月日も消してしまった。このことは私は知らなかったのだが、筑波大学名誉教授の亀淵さんがどこかで書いておられた。それで朝永先生の完璧主義は貫徹をしたのだろうが、歴史的文献としての意義が失われたと書かれていた。そういった優れた人と比べるのはおこがましいのであるが、私のブログではどうもおかしな表現をしたり、また書き損じをしたり、言葉が足りなかったりとかいろいろミスが多い。それでそれとは明示をせずに修正をしたりしている。特に読んでくださる方を間違ったところへと導いてはまずいので自分で気がついたまずいところはいつでも直すことにしている。それで、よく問題にされるのが武谷三男の文章で彼は戦後「広島に原爆が落とされて、日本の軍国主義の野蛮が吹き飛ばされた」(ここでの引用表現は正確ではないことを了解してください)というようなことを書いている。そしてそのことを修正はしないで彼の著作集にそのまま収録されている。それは彼のある種の律儀さや率直さを示しているのだが、これが他の学者や評論家から原爆の悲惨さを指摘しなかったという意味で、非難の的になったりしていることである。修正をしても、またはしなくても論争の的になったり、されたりする。私はここに挙げたような有名な人物ではないし、大したことをブログで述べているわけではないので、論争に巻き込まれることもないだろうが。Heisenbergがノーベル賞を単独受賞した訳 【2011-05-27】マトリックス力学とは今では量子力学といわれている、20世紀前半に展開された原子中の電子の力学である。もちろん量子力学は原子中の電子だけを対象にする力学ではないが、誤解を恐れずこう言っておく。マトリックス力学はもちろんHeisenbergの卓抜なアイディアから始ったが、しかしその数学的な展開にはBornとJordanの貢献が大きかった。BornとJordanとのHeisenbergの論文の数学展開とその後のHeisenbergも含めた有名な三者論文で彼らはマトリックス力学を完成させた。BornはHeisenbergの先生の一人である。ところが、1932年にノーベル賞を受賞したのはHeisenberg一人で、BornとJordanははずれていた。そのことについてのBornの苦悩は大きかったことが彼の告白によってわかるのだが、BornはHeisenbergが優秀であることを自分で言い聞かせて自分を納得させたとどこかで読んだ。その後、1956年にBornは単独で量子力学の確率解釈で、ノーベル賞を受賞するのだが、ここでも政治的な意図が働いていたと、ごく最近の研究でわかったらしい。これら事情にはJordanがからんでいる。Jordanはナチドイツ下で、ナチの思想に共鳴していたのみならず、その重要な活動の一翼を担っていたらしい。それで、Heisenbergのノーベル賞受賞のときにノーベル賞の委員会はBornとの同時受賞も考えたらしいのだが、Bornにノーベル賞を与えるとJordanにもノーベル賞を与えない訳には行かなくことになるとの理由で、それを阻止するためにHeisenberg一人の受賞と決定したらしい。その後、第2次世界大戦後の1956年のBornの受賞のときにもJordanの関係しない業績に対してノーベル賞を授与することにしたらしいと、ごく最近にインターネットのサイトで読んだ。1976年にアーヘンであったニュートリノ国際会議の際にはまだJordanは存命であったが、そのときに1976年2月1日に亡くなったHeisenbergの追悼講演をJordanがした。もっともこのときの講演はドイツ語でされたので、私にはほとんどわからなかった。その後まもなくしてJordanは亡くなってしまって、もう歴史上の人物になってしまっている。ノーベル賞とナチとは受賞者において関係がある。光電効果の実験で有名なLenardもそういう学者の一人であり、賞金を投資とかに使ってはいけないとかの賞金の規約があるらしいが、それに違反して物議を醸したことがあると昔読んだ記憶がある。また、Stark効果で有名なStarkもノーベル賞の受賞者だが、彼もナチの思想の信奉者でドイツ主義運動とかに関与したとか言われる。そういうことがあったので、ノベール賞選考委員会としては慎重であったのかもしれない。・「坂田昌一の生涯」を読む 【2011-11-04】昨日、知人の西谷正さんから、彼の労作である「坂田昌一の生涯」を送ってもらった。それで今朝の4時ごろまでかけて読んだ。とはいっても470ページを越す大著であるから、これは拾い読みにしかすぎない。一言でこの本を評価することはできないし、またそれをすることは著者の西谷さんに失礼でもあるだろう。彼の多年にわたるご努力に感謝をしたい。確かに益川さんの序文にもある通り一読に値する書であり、ほとんどなんでも書いてある。これは単に坂田の生涯だけではなく、彼と関係のあった、湯川、朝永、武谷等との交流の記録でもあるだろう。私は武谷三男の伝記を書くとか、書きたいと言っているのだが、その作業は遅々として進まない。ひょっとすると鶴見俊輔さんは武谷の伝記を書く気持ちがあったかもしれないのだが、私が書きたいといっているので、我慢をして書かないでおられるのかもしれない。この書は坂田先生の物理についても述べてあり、また、社会活動についても書いてある。それもなかなか詳しく調べて描かれてある。坂田はその門下生が多くて、それらの門下生に慕われていたので、坂田自身は自分についてはあまり語らなかったが、それでも坂田について語る方は多い。それがこの伝記の深みを与えている。私個人は坂田の言説としては、「階層性の論理」とか「形の論理から物の論理へ」という主張が印象的であり、それらについてもう少し踏み込んだ考察が欲しかった気がする。しかし、これは個人的な好みであって、それだからといってこの書が極めて優れた書であることには変わりがない。・坂田昌一の寺田寅彦批判 【2011-11-12 】「小屋掛け物理学」と寺田寅彦の物理学を批判する人はいう。これは私の知る限り、原光雄とか武谷三男とかまた菅井準治とか唯物論の立場に立つ、物理学者等が言っていたことであり、坂田昌一も同じ批判をもっていたことが、西谷正さんの『坂田昌一の生涯』(鳥影社)でわかった。(ちなみに原光雄は化学者である)。これは寺田物理学の一つの側面だとは思うのだが、寺田寅彦のやった研究にはその側面に限らずもう少し範囲が広いというのが、私の現在の判断である。それは絶対正しいということではなくて私の感じなので正しいかどうかわからない。この判断は、岩波書店が寺田寅彦の科学論文の著作集を出したことがあり、そのときにそれを私は購入しなかったが、そこに出ていた論文のリストを見て思ったことであった。ただ、普通の市民に卑近な物理学として受けのよかった寺田物理学には上の方々が与えた批判は当てはまるのかもしれない。だから寺田物理学の流れを汲む、中谷宇吉郎についても二つの評価の見解がありうると思う。寺田寅彦の研究には、寺田小屋掛け物理学的な批判の当てはまる側面とそうでない側面があるという認識が必要だと思う。ロゲルギストについては私はこの別の側面があるのかはわからない。だから、これについては判断を保留しておきたい。その寺田物理学の別の側面があったかどうかということに対する、西谷さんの見解の表明は『坂田昌一の生涯』には出ていなかったと思うし、この書は坂田の伝記であり、西谷さんの見解が問われている訳ではないから、この坂田の見解に西谷さんがどう思ったかを書く必要はないのだが、個人的にはどう思われているのだろうということは知人としては関心がある。文学としての寺田寅彦全集が出たときに武谷三男も岩波書店の求めに応じて、推薦文を書いていたと思うが、彼は寺田物理学の批判と共に寺田寅彦は権力的ではなかったと、彼のいい側面の指摘もしていたように思うが、それはもう記憶が薄れてさだかではない。(2013.2.11付記) 人の目に触れる文章は記憶で書かないでちゃんとしたことを書けということをコメントをもらった。上の部分のどこがそうだったのかわからないが、最後の部分だとすれば、記憶が薄れて定かではないと書いたが、寺田が権力的ではなかったという指摘は間違いがないと思うので、そんなに無責任なことを言ったわけではない。一言お断りをしておく。これが武谷の現代論集に載っていたのか、それとも論集には載っていなかったが、寺田寅彦全集の広告のためのパンフレットに載っていたのか調べたら、わかることだが、調べていない。どうもコメントをされた人の指摘が具体的でないので、私の思い過しかもわからないが、上の文のどこかに問題があったとしても、ここは間違っていますよと指摘をすれば、すむことではないか。もし私の記憶とかが間違っていたのなら、それは失礼をしました。ということになるだけであろう。コメントも建設的にして頂きたい。それにこれはいわゆる研究論文ではない。真偽のほども読む人の判断に委ねられる。これは論文との違いであろう。論文とエッセイとの違いを心得ないでいる人のコメントはそのままでは出せない。また、自由な意見の表明もいけないという一種の言論統制だとも悪意をもってとれば、とれなくもない。そこまで意地悪く思っているわけではないけれども。・久保亮五の統計力学 【2011-11-19】久保亮五の『統計力学』というと、多分物理学を学んだ人は彼の『統計力学』(共立出版)を思い出すだろう。だが、ここではその有名な著書のことではない。金曜日に古書でダイアモンド社の「新物理学講座」というシリーズ本を購入した。その中の1冊にこの表題の書があった。この書は100ページそこそこの小冊子なので、統計力学の考え方を中心に書いたとあとがきで書いている。これの3章に気体の拡散について書いてあるが、いままで私がこういうことをなぜ統計力学の書で書かれてないのだろうと思っていたようなことが書いてある。まだ、十分に了解ができてはいないところもあるが、いままでの理解の隙間を埋めてくれるような気がしている。これに近い書き方がされていることを私が知っているのは、和田純夫さんの『熱・統計力学のききどころ』(岩波書店)の第1章のはじめのところである。それにチラッと見たことがあるのは横浜市立大学だったかに居られた都筑さんの著書に私の知りたいことが書いてあったように思う。その書の名は失念したが、森北出版から出された書であったと思う。名著として有名な朝永振一郎の『物理学とはなんだろうか』(岩波新書)の中の熱力学と統計力学の項にもあまりヴィヴィッドには書かれていないことなので、少し欲求不満を起こしそうだった。とはいうものの、「物理学とはなんだろうか」が名著であることは間違いがないが。M大学の薬学部でのリメディアル教育の数年前まで私が担当していた、物理講義でも熱力学については和田さんの本の一部を敷衍して講義をしていたが、あまり私の意図は学生には伝わらなかった。というのはたぶん、私とは熱力学とか統計力学とかでの問題意識が違ったからであろう。私は「なぜ熱は高温から低温に流れるのか」を熱力学のテーマとして取り上げようとしたのだが、これは学生にとっては当然の経験的な事実であるから、それについて説明を必要とするという考え方はなかったに違いない。もちろん、よく知られているように熱力学の範囲では、「系に何も仕事をしないと、熱は高温から低温に流れる」というのは熱力学の第2法則そのものであってその熱力学の範囲では説明できることではない。しかし、熱力学のそういう側面を正面から統計力学の専門家は取り上げないのかと思っていたが、さすがに久保先生はそのことをわかりやすく説明する必要を感じておられたことがわかった。私と同じ問題意識を物理を教えておられる方々が持っているかどうかはわからないが、高校等で熱力学や統計力学を真剣に教えようと思っておられる方には表題の書は役に立つに違いない。図書館等で見てみられることをお勧めしたい。・Boltzmann 因子 【2012-02-16】大学院生の頃だったかN教授のところへ、石原明先生だったか統計力学の専門の先生が来られて、そのときに簡単なBoltzmann 因子の導き方についてのそれほど長くはない話を聞いた気がする。しかし、その頃Boltzmann因子などにまったく関心がなかったので、まったくどのような話だったかは覚えていない。ノートをとっておくべきだったかと今ごろになって思っているが、もう遅すぎる。その後、Feynmanの講義録でBoltzmann因子とかBoltzmann分布に感心した覚えがある。そしてそのFeynmanの知見を私の講義のネタの一つにしていたとはこのブログで書いたことがある。昨日、インターネットで検索してみたら、日本語のサイトではBoltzmann因子という項目では検索にはかからなかったが、Boltzmann分布ではかなりの数のサイトがあった。だが、英語ではさすがにBoltzmann Factorという語が検索にかかった。私はこのfactorとか因子という語とか概念が大切であるという気がしている。普通にBoltzmann分布となるには正規化の定数が必要になるが、これは後から計算で決めてやればよい。大切なのはこのBoltzmann因子である。もちろん、この正規化定数を決めるためには積分するとか和をとることが必要であるが、それはある数学的な手続き(*)をとれば、比較的簡単に決められるというようなことをエッセイに書こうと思っている。(*) 被積分関数中に現れるパラメーターで微分して積分値を求める方法定年退職の前の数年、熱力学を教えることになって、それを担当したが、そのときに「Boltzmann因子が大事なのだよ」と講義した。そのことをノートに書いてあるので、それをエッセイを書いておこうとしているが、そのためにはまたFeynmanの講義録を読み返したい。だが、その気持ちがそのうちにその気が失せてしまうかもしれない。・Yangの新しい論文 【2012-02-17】C.N. Yangは1922年の生まれというからもう今年には90歳になるが、最近、物理の歴史についての論文を書いた。それがInternational Journal of Modern Physics Aの最近号に出ている。これはFermiのベータ崩壊の理論について書いたものでとても面白かった。Yangは1970年代のあるときにWignerにあって、「Fermiの一番優れた仕事(研究)は何か」と尋ねたら、即座にそれはベータ崩壊の理論だとWignerから言われた。Yangはベータ崩壊の理論がFermiの重要な業績であることには同意したが、それでもその頃にはすでにGlashow-Salam-Weinbergの電弱理論で、Fermiのベータ崩壊の理論は今から見ると過渡的な理論であったことがわかったので、Wignerの意見には心底からは同意できなかったらしい。それでそういうことを趣旨のことをWignerに言った。そうすると、そのときにWignerはこのFermiのベータ崩壊の理論は当時の物理学者たちに与えた衝撃の大きさを語った。それでこの感覚のジネレーション・ギャップを埋める話をこの論文に書いている。そしてやはりWignerのいうことが正しかったという。そのYangの言い分を正しくわかってもらうには彼の論文を読んでもらうのがよい。ここで私が下手な要約をするよりは。さらに、それに加えてYangらしさがこの論文の末尾に出ている。それはP. Jordanの業績の評価である。Jordanは量子力学に重要な寄与をしただけではなく、場の量子論にも重要な寄与をしたのに正当に評価されていないという。現在ではJordanの評価が正しくなされなかったのはJordanがナチを政治的に支持したことによるものだということが言われており、このブログでもそのことがインタネットのサイトで言われているといつか述べたことがある。科学者の政治的な立場はその業績の科学的評価にも及ぶ。しかし、Yangはそのことにはあまり賛成ではなく、評価をすべきは評価すべきだと考えたらしい。他にもYangはOppenheimerのblack holeやneutron starの研究業績を評価していることやDysonが量子電気力学の研究でノーベル賞をもらえなかったことは、ノーベル賞は3人以内という内規があるとはいえ、残念だと他のところで述べている。・「素粒子論研究」終刊号 【2012-02-28 】昨日、帰宅すると部厚い郵便物が「素粒子論研究」編集部から届いていた。やけに厚いのでなんだろうと思ってその封を開けてみたら、3冊の「素粒子論研究」終刊号119号が入っていた。夕食後にはテレビを見ないでこの3冊を読んだ。私たちが発行している『数学・物理通信』をご自分のサイトにリンクしてくださっている、名古屋大学の谷村省吾さんの書いた「ハイゼンベルク方程式はハイゼンベルクがはじめて書いたわけではない」というおもしろい題のエッセイは、実におもしろかった。実際の科学と後世の一般的な流布されていることはまったく違うことがわかる。だから、その事実を忘れないようにしようというのが谷村さんの言いたいことらしかった。先日読んだYangの論文でもその時代に生きた人たちと後世の人たちとの受け取り方のずれを問題にしていた。旧知の物理学者Kさんは素粒子論研究の編集長もされた方だが、「素粒子論研究」の65年を振り返っておられた。その中に私がまとめた『武谷三男博士の業績リスト』と『武谷三男博士の著作目録』にも言及されており、その資料の作成者としてはうれしかった。Kさんは「素粒子論研究」は最後には280部くらいの発行部数であり、素粒子論グループのメンバー数からいうとあまりメンバーから注目を集めなかったというが、それでも興味深い記事がなかったわけではないという。今後は「素粒子論研究」電子版が存続するが、冊子体の「素粒子論研究」は119号で終わりとなった。名残惜しいがしかたがあるまい。最後の編集長となった笹倉さん、事務的な業務行った野坂さん有難うございました。・遠山啓と武谷三男2 【2012-03-08】前に「遠山啓と武谷三男」という題でブログを書いたことがあるので、今回は「その2」とする。私が「日本の古本屋」古本の出品をときどきチェックしている人に武谷三男と遠山啓がいる。そのチェックに最近引っかかったのが、岩波のPR誌「図書」の遠山についての記事(2009年11月号)で、仕事場の書棚を見に行ったら、その当該号があった。それは野崎昭弘さんの「遠山啓と数学教育」というテーマのエッセイであった。これは前に多分読んだのだと思うが、読んだ記憶が残っていなかった。2009年は遠山の生誕100年であった。それで岩波書店が野崎さんにその生誕100年を記念して寄稿をお願いしたのだろう。野崎さんは生前遠山に会ったことはなかったと書いている。電話で多分雑誌「数学セミナー」の原稿を遠山さんから頼まれたらしいが、数値計算のことに関係していたので、専門ではないからと断ったと書いている。(注: 遠山さんと矢野健太郎氏とは雑誌「数学セミナー」の共同編集人であった)その後、野崎さんが数学教育協議会の委員長を引き受けたから、面識があったかと思ったがそうではなかったらしい。私は野崎さんのような有名人物ではないし、二人きりで遠山さんに会ったことはないが、松山で数教協の全国大会があったときに松山市民会館での講演を聞きに行った。講演の後で、遠山さんに質問までした。そのときの話は競争原理を教育の分野から追放しようという、遠山さんらしい主張であり、教師は「点眼鏡」をはずそうという趣旨の話であった。そのころは私はまだ数学教育にはそれほど関心がなかった。これは1978年のことではなかったかと思う。この次の年の1979年に70歳で遠山さんは意外に早く亡くなった。その後、私は1985年くらいから教育への関心が大きくなってきて、愛媛県の数学教育協議会の学習会に顔を出すようになった。もっとも熱心な出席者ではなく、気が向いて時間がとれるときという制限がある。武谷についてだが、1965年だったか私が大学院生のころにO教授から「誰が集中講義に来てほしいか」といわれて「武谷さんはどうですか」と言ったら、その意見が取り入れられて、立教大学から集中講義に来られた。「物理学の方法論」という題の講義だったが、実際にされたのは「ケプラーがどうやって火星の軌道を決めたか」という話であり、あまり方法論とはとかいうような大上段にかぶった話ではなかった。その直後くらいに、「科学入門」(勁草文庫)が出されたが、そのPRもさりげなくされたと思う。つぎに、武谷さんを見かけたのはその後1968年の夏だったか、それとも、もう秋だったかに京都大学の基礎物理学研究所に研究会か何かで来られているのを基礎研の共同利用事務室で見かけた。白いワイシャツの袖を腕まくりしており、そのアンダーシャツが長袖でいかにもアンバランスだったのを覚えている。50年くらい昔はワイシャツは長袖で夏になると、腕まくりして半袖風に折り返して着るというのが粋という感じだった。今では夏には半袖のシャツを着るのが普通になっているが。私などは武谷さんとは親子ほど歳が違うのでもう大学院を出る頃には半袖のシャツを着ていた。遠山も武谷も学校嫌いだったということは前に書いたし、文学好きであることも書いた。遠山は将棋が好きであり、将棋をよくしたらしい。一方、武谷は文学のみならず、音楽にも絵画や彫刻、演劇にもなかなか造詣が深かったらしい。伝記的な材料としては武谷は自分の小さい頃からのことや研究についても回顧録が出ており、材料に事欠かないのだが、人間的にも魅力的だとの見方は、特に女性からされていたらしい。武谷がご家族からどう思われていたかはわからないが、鶴見俊輔さんによれば武谷さんのそういう側面を非常に好んでいた人がおられることは間違いがない。ただ、物理学者の間ではその同僚たちに対して武谷が研究上で批判が厳しかったことから、かつて長期間グループを組んで研究をしていた方々からは反感があっただろうということは想像に難くなく、その点で武谷の評価はそう単純ではない(もちろん、これらの研究者の方々からは武谷に対する反感の声は直接には記録に残るように語られてはいないが)。もっとも晩年に武谷と研究を共にされたN教授とかF教授はその範疇には入らないであろう。彼の伝記を書きたいなどと私が言ったとき、哲学者の鶴見俊輔さんはいまにでもそういう武谷ファンの女性を紹介してくれそうだったが、なかなかその気になれなくて鶴見さんのご好意を無にしている。遠山と武谷は共に九州出身であり(2024.9.21注)、遠山は幼少時には朝鮮に住んでいたが、父親の死後に熊本に帰り、その後、福岡で旧制高校に行った。武谷は小学校から高校までを台湾で過ごして、大学は京都大学に入った。一方、遠山は東京大学の数学科に入ったが、ある事情で退学をして、数年後に東北大学数学科に入りなおし、そこを卒業した。二人とも東京に住んだが、権力に反骨で、体制に批判的な人生を送った。(2012.3.9 付記) 上で遠山が東大を退学したのを「ある事情」とのみ書いたが、もうその事情をここで書いてもいいだろう。その当時の東大の数学科の試験で自分の教えた通りに解答を書かないと単位を出さないという教授がおられて、そのことは先輩から聞いて遠山は知っていたのだが、思わず試験のときに自分流の解答を書いてしまったらしい。その科目は必須科目であったから、あと何年数学科に在学しても卒業できないので、その教授の定年の年に退学をしたという。退学をするときに尊敬していた高木貞治教授には「退学します」という挨拶に行ったとはどこかで読んだ。また、その合格させなかった教授のイニシャルは高木さんと同じTであることはわかっている。遠山が東大嫌いであったかどうかは知らないが、そういういきさつがある(2023.11.23 注)。ちなみに湯川秀樹博士の自伝『旅人』(朝日新聞社)に高校で、先生の教えた通りに解答しなかったために、その解答が間違っていたわけでないのにバツにされて、立体解析幾何学の点数が60点代だったことがあるという記述があった。湯川博士が数学者にならなかったのはそのせいもあるかと思われる。(2015.11.28注) 遠山は熊本県が父親の郷里だが、武谷は山口県光市が父親の郷里だという。坂田昌一の祖先の郷里は山口県の柳井市だったらしい。少なくとも坂田のお墓は柳井市にあるという。(2020.12.4付記) 個人的には光市に行ったことはないが、大学時代の親友の出身地がこの光市であり、この親友は若くして亡くなってしまったが、光市と聞くと妙に懐かしく感じる。この光市も私の出身地の今治と同じく海岸の清松白砂がいいらしい。これは若くして亡くなった親友のH君の言であった。(2023.11.23 注)上に「合格させなかった教授のイニシャルは高木さんと同じTであることはわかっている」と書いたが、これはまちがっているのかもしれない。遠山さんには坂井という教授のことを書いたエッセイがあり、この教授のご機嫌を損ねたことがこれほど祟るとは思わなかったと書いた文章がある。(2024.9.21注) 上に武谷は九州の出身と書いた。福岡県大牟田市で生まれたことは事実だが、武谷の両親は現在の山口県光市の出身である。・Pauliの行列の導入 【2012-03-19 】先週の火曜日に京都産業大学の名誉教授のSさんの講演が愛媛大学であり、彼の新しい構想の理論を聞いた。その中味の正否はすぐにはなんともいえないが、ちょっとした壮大な構想の理論であった。その話のいとぐちとして話をされたx^{2}+y^{2}+z^{2}の因数分解からPauliの行列がごく自然に導入されることが印象的だった。これはSさんの話の単にほんのいとぐちの話題にすぎなかったのだが、私自身はどういう風にPauliのスピン行列を導入するかにいままで関心をもったことはなかったので、新鮮な感じがした。これについてはいつか因数分解というテーマで数学エッセイを書いてみたいと思う。このx^[2}+y^{2}+z^{2}の因数分解ほど高尚なことではないが、私の子どもが大学の理工系学科の卒業生であるのにx^{3}-1の因数分解の公式を忘れてしまっていたという話を昨日聞いた。それで、今朝起きてから、もしこの公式を忘れてしまったら、どう対応したらいいかという数学エッセイの草稿を書いた。すぐに思いつくx^{3}-1の因数分解を求める方法は因数定理を使うことであろう。f(x)=x^{3}-1とするときx=1をf(x)に代入するとf(1)=0であるので、x-1という因数があることはすぐにわかる。したがって、x^{3}-1をx-1で代数的に割る演算を行えば、x^{3}-1=(x-1)(x^{2}+x+1)と因数分解できることはすぐにわかる。割る算を直接しなくても、x^{3}-1をx-1で割ればその商は2次式であるから、その2次式を仮定して未定係数法で決めてもよい。そのような内容を数学エッセイの草稿に書いた。しかし、私の子どもはこの因数定理を忘れていたのであろう。おいおい、高校の数学も身についていなかったのか。よく大学の理工系学部に合格したものだったな。(2012.3.21付記)Pauli行列 \sigma は物理を学んだ人は大抵知っている2行2列の行列である。京産大のSさんの話のPauli行列の話は結局x^{2}+y^{2}+z^[2}=(x \sigma_{x}+y \sigma_{y}+z \sigma_{z])^{2}となるような \sigma_{x}, \sigma_{y}, \sigma_{z} を求めることであり、\sigma_{x}^{2}=1, etcとか \sigma_{x}\sigma\{y}+\sigma\{y}+\sigma_{x}=0であるような \sigma行列を求めることであり、よく知られたPauli行列は確かにこのような関係を満たしている。かつ\sigma_{x}\sigma\{y}-\sigma\{y}-\sigma_{x}=2i \sigma_{z}のような交換関係も成り立つ。このような代数をClifford代数という。いつだったかDirac方程式に出てくる、\gamma _{\mu}等の満たす代数がClifford代数の例であると理化学辞典を調べて書いたが、Pauliの行列もCliford代数の例であることを知った。あのときに \gamma 行列以外にClifford代数の例を知りたいと書いたが、その解答はPauli行列であった。どうもClifford代数と聞くと難しいという印象をもつが、x^{2}+y^{2}+z^[2}=(x \sigma_{x}+y \sigma_{y}+z \sigma_{z])^{2}を満たすような代数だと知れば、それほど恐ろしくはなくなる。どうしてこのような数学の教え方があまりされないのであろうか。それとも私が知らないだけなのか。・ライフログ 【2012-04-11】先日、NHKのクローズアップ現代でライフログというのが流行っているという現象を取り上げていた。ほとんど時々刻々の自分の生活の記録をとる人が増えているという。「なんとせわしいことよ」と思う私は古代人であろうか。そういえば、40年以上昔に知り合った、化学者のある先生は日記をつけるのを日課としていて、いつも日記帳を携帯しており、彼が当時滞在していた、イギリスのバーミンガムから彼の家族と共に当時私たちの住んでいたマインツにやって来たときに愛用の日記帳を携えていた。とはいっても彼は別にイギリス人ではなく、日本人でそれも私の勤めていた大学の学部は違うが、先生であった。そして彼からゲッチンゲンを訪れたという話を聞いた。それはそこが量子力学発祥の地であるからということであった。そこで、彼は核分裂反応の発見者のオットー・ハーンの墓を訪れたと話してくれた。それまで私は大学工学部で8年近く量子力学を教えていたが、在独中にゲッチンゲンに行ってみようという気はあまりなかった。それがこのK先生の話を聞いて一度はそこを訪ねたいと思った。その後、今度は逆に8月の終わりに一家でバーミンガムの彼の家を訪問したが、そのときはまだゲッチンゲンには行っていなかった。ゲッチンゲンが私に親しくなかったわけではない。学生のころにロベルト・ユンクの「千の太陽よりも明るく」の翻訳が出版されて、それをはじめ妹が大学の図書館から借りて来たのだったか、それを読んで自分でもその翻訳本を手に入れて読んだ。これは本当に心躍る物語であった。いまでもこの本の翻訳を文庫で読むことができる。ユンクはジャーナリストであり、小説家でないが、多分この書が彼の最高傑作であろう。原子爆弾へと到る原子物理学の発展の人間ドラマをまた、その地ゲッチンゲンを生き生きと描いていた。私たちが実際にゲッチンゲンを訪れたのは1976年12月のクリスマスの後の雪の季節であった。そしてそのときの記念として市の中心街で買ったゲッチンゲンの市街図は鮮明だったそのオレンジの色はあせてしまっているが、私の仕事場に架かっている。・外村彰氏の死 【2012-05-03 】物理学の分野で大きな業績を上げられた外村(とのむら)さんが亡くなられたと新聞で知った。ノーベル賞候補になっていたほどの研究者で、もしもっと長生きができれば、ノーベル賞を受賞できた可能性は大きかった。彼はBohm-Aharanov効果(普通にはA-B効果という)の実験的な検証で有名である。A-B効果は磁場を感じるのは磁束密度Bではなく、ベクトルポテンシャルAであるということを理論的に主張したものであったが、その効果を実験的検証したことで知られる。有名なFeynmanの講義録にもこのAB効果の話はでてくる。日本の企業である、日立で行われたこの研究は日立で研究開発された電子線ホログラフィーの技術を用いたもので、優れたものであったらしい。日立は彼のノーベル賞受賞を後押しするために量子力学の国際会議まで主宰したが、彼の受賞には間に合わなかった。残念である。最近は日本人のノーベル受賞者がたくさん出ているが、彼もその候補の一人と言ってよかったと思う。もっとも日立からノーベル賞をもらうような研究が出たからといって、日立全体が優れた企業であり、その製品が優れたものであるかどうかは別問題として個別に検討すべきことであろうが、それでも企業イメージがとても上がることは請け合いであろう。外村さんは亡くなったが、彼は数冊の著書を遺しており、私もそれらの全部ではないが、何冊かをもっている。量子力学の本としては『目で見る美しい量子力学」(サイエンス社)というのがある。この本は量子力学の本としてはとてもめずらしく、数式は最小限度で写真とか図が多いという量子力学の書である。私もいつか量子力学の書を著すことがあれば、外村さんの写真を提供してもらいたいと考えていた(そういう機会があるかは別として)。私自身は外村さんにはついに面識はなかったが、優れた実験物理の研究者を日本は失った。・四元数と線形代数 【2012-05-07】Hamiltonが考えだした、四元数は線形代数の源をつくった。ところがHamiltonが自分の見出した非交換の代数系の発見をあまりに重要と考えすぎたために四元数にこだわりすぎて、細かな発見はあったが、大きな線形代数という流れをつくることができなかった。これはたとえば、森毅氏の「数学の歴史」にも書かれている。そのどこが線形代数に受け継がれ、非交換であることよりも重要であったことは何かを書いたものはないかと探していた。先週の土曜日に市中のジュンク堂書店に行って、カッツの「数学の歴史」を立ち読みしたら、四元数の積から出てきたスカラー積とベクトル積がむしろ重要なのであり、その他のことはあまり有用ではないということを後の数学者は悟って、それでいわゆるベクトル解析がギッブスとかヘビサイドによってつくられたのだとあった。Croweの書いた、A History of Vector Analysis (Dover)という書もあるので、それを読めばいろいろなことがわかるのであろうが、どうもやはり英語を読むのは日本語を読むほどには早く読めないので、難渋している。Stillwellの「数学の歴史」(朝倉書店)の多元数の章は四元数のことを書いてあり、私も読んではじめて知ったこともあったが、これには四元数はテンソル解析にその思想が受け継がれたと書いてあった。どの数学の歴史の書物にもHamiltonが非交換の代数系をあまりに過大に評価して、彼の後半生をその発展に尽くしたことには批判的である。それは後世から見るとそういうことが言えるのだろうが、その渦中におり、人類の歴史上ではじめて非交換の代数系を発見したHamiltonにそのことを要求することはかなり過酷な要求でもあろう。そのいきさつを詳しく知ることとか、線形代数の出てきたいきさつとか、そのどこがキーポイントであったかということを知りたいと思っている。私には出来上がった線形代数そのものよりもそういういきさつの方が関心がある。いまの数学のテキストはあまりに天下りでその理論の形成過程をダイナミックに伝えるという風ではないことが不満である。しかし、これは詳細な数学史の研究に私が関心があるということを意味してはいないから、なかなか他人からは理解してもらえないだろう。・『千の太陽よりも明るく』 【2012-07-11】ロベルト・ユンクの『千の太陽よりも明るく』(Heller als tausend Sonnen)は優れたノンフィクションである。いまは平凡社ライブラリーに入っているが、私が学生のときに読んだときは文芸春秋社から発行されていた。ロベルト・ユンクはスイスのジャーナリストだと思っていたが、ベルリン生まれであり、もとはドイツ人である。だから、ナチスに迫害を受けて、ドイツから亡命したジャーナリストである。この本はいうまでもなく、原爆の製造や開発へと向った、物理学者を主とした原子科学者の運命というか歴史を回顧した優れた読み物である。だが、それをどれくらい多くの日本人が読んでいるのかとなると心細くなる。本当は多くの人に読んでもらいたい書である。学生のときに、これを一日か二日かけて勉強をほったらかして、息も切らせず読んだ覚えがある。ところがこの書を推奨するとかいった人を書物や雑誌の中で見かけたことがない。現在の平凡社ライブラリーでも、1,600円の定価なので、そんなに価格が安い訳ではない。だが、それでも本当は多くの人に読んでほしいと願っている。最近、妻が市民劇場の演劇で「東京原子核クラブ」という理研の仁科芳雄グループに集った人たちを巡るドラマを見てきた。その内容を聞いたわけではないが、それなりに興味深い演劇であったはずだ。これは日本でも原爆をつくろうとしたグル-プがあったとか、朝永振一郎氏とその近傍の人を巡るドラマである。そういえば、『千の太陽よりも明るく』にも記述があったと思うが、2次世界大戦中にコペンハーゲンのボーアのところへドイツのハイゼンベルクが訪ねるという話がある。その議論の主題は原爆の製造を巡るものであり、2000年前後だったかに、史劇「コペンハーゲン」というドラマとなった。これは「原爆の開発を世界の戦争をしている連合国と枢軸国との両方共にしないように」とのハイゼンベルクがボーアに申し出をするためにコペンハーゲンを訪れたと言われているが、そのときナチにその意図を悟られないにようにとハイゼンベルクは表現をとても曖昧にしたので、その意図はまったく通じなかったという。ボーアはハイゼンベルクが「原爆の開発をする許可を求めに来た」と思ってしまった。戦後も家族や親族をナチスの強制収容所のガス室で亡くした、ヨーロッパからアメリカに亡命していた科学者を含めた多くの人たちはドイツに残った、これらの科学者をナチスに協力をした咎で容易に許しはしなかった。それらのうちの幾分かは単なる誤解であったのかもしれないとしても。日本ではドイツほど原爆の開発の可能性は高くなかったので、それほど問題にはならなかったが、それでもそういう日本の原爆開発の事情を書いた本も英語とかでは出版されているらしい。現在ではなかなか『千の太陽よりも明るく』は手に入りにくいかもしれないが、まだ読まれてない方にはぜひ一読をお勧めしたい。私も最近書棚から取り出してきて、再読を始めたところである。
2025年8月6日2025年8月6日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残すPapers about Fermi @ 2023 フェルミ 22023-02-21 13:31:17 | 物理学これは「技術と科学の歴史を考える」というタイトルの講義の後半を私が担当したときの「原爆製造と原子核物理学」というサブタイトルの講義の中の人物評伝の一部のエンリコ・フェルミの後半である。Fermiの講義録である『原子核物理学』は内容が少し古くなってきたが、原著はシカゴ大学出版局から、訳書は吉岡書店からいまも出版されており、読者に読み継がれている。日本版の訳者小林稔氏(京都大学名誉教授、故人)は訳者まえがきでつぎのように述べている。「イタリヤの生んだ鬼才Enrico Fermi教授はいうまでもなく原子核物理学の第一人者であり、人類が第二の火、すなわち、原子力を発見したのも主として彼の研究に負うものであって、彼は歴史上永久に名をとどめる数少ない物理学者の一人であることは疑いのないところである。 Fermi教授は実験及び理論の両方面に卓越した才能をもち、その業績も有名なフェルミ統計、べータ線崩壊の理論、量子電磁気学など理論的なものから、中性子衝撃による人工放射能、遅い中性子の選択吸収、さらに原子力解放の緒となった核分裂の現象、その連鎖反応など行くとして可ならざるものはなく、しかもいずれも物理学の根本問題を衝き、その自然認識の深さの非凡さは驚嘆のほかない。イタリヤにおいては僅かの放射性物質とパラフィンのみの実験室でよく世界の原子核研究に伍し、中性子の性質の探求にあざやかな業績を挙げており、アメリカに移ってからはまさに鬼に金棒、現在もシカゴ大学の大サイクロトロンを主宰し、有能な同僚や弟子たちと共に原子核研究の推進に非凡の精力を注いでいる」これはFermiが亡くなる直前に書かれた彼のプロフィールである。ここにはFermiの業績についてほとんどあますところはない。しかし、Fermiの教育上の業績についてはまったく触れられていない。この点についてはFermiの優れた弟子の一人で、ノーベル賞物理学受賞者のC. N. Yangの文章から引用しておこう。(引用はじめ)「よく知られているように、Fermiは水際立ったすばらしい講義をした。これは彼の特徴的なやり方であるが、それぞれの題目について彼はいつでも、最初のところから出発して、単純な例をとりあげ、できるだけ「形式主義」を避けた(彼はよく込み入った理論形式は「えらいお坊さま」のものだと冗談をいった)。彼の論証は非常にすっきりしているので、ちっとも努力をしていない印象を与えた。しかし、この印象はまちがっている。すっきりしているのは、注意深い準備、いろいろの異なった表現の仕方のうちでどれを選ぶかを慎重に考慮した結果のためであった。・・・週に1~2回、大学院生のために非公式の、準備なしの講義をしてくれるのがFermiの習慣だった。グループは彼の部屋に集まり、Fermi 自身か、ときには学生の誰かが、その日の討論のために特別な題目を提起した。Fermi は、綿密に見出しのついた自分のノートを探し回って、その題目に関するノートを見つけ出し、われわれに講義してくれるのだった。・・・討論は初歩的水準に保たれた。題目の本質的、実質的部分が強調された。大抵いつも、分析的でなく、直観的、幾何学的な取り組みであった」(引用終わり)(2024.3.1付記)ここにFermiの特質が述べられていて、あますところがない感じである。そういえば、これを書いたYangはまだ中国で健在なのだろうか。ひょっとして100歳を越えているか、または、100歳にとても近いかのどちらかであろう。