2026年3月12日2026年3月2日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す伏見康治【原子力三原則|対象の美・折り紙を考察した物理学者|国会議員】-3/12改訂 こんにちはコウジです。 半年ごとの既存記事見直しの作業です。 今回は近世20世紀に概念・手法を確立していった偉人を紹介します。 では、ご覧ください。内容を整理し、リンクを見直しました。 現時点での英訳も考えています。 (以下原稿です)紋様の科学【伏見康治著】 【スポンサーリンク】【1909年6月29日 ~ 2008年5月8日】 【画像出典:Koji Fushimi Wikimedia Commons】伏見先生の多彩な活躍伏見康治(こうじ)は愛知県名古屋市に生まれます。 そして東京で育ちます。 名古屋に生まれ東京で育った伏見先生の経歴は、一見すると特別な出自を 強調するものではありません。しかし、その後の歩みは、日本の科学史 そのものと重なっていきます。伏見先生は20世紀の生まれの人ですから、 それはそれで納得です。そして、その後の動きが活発です。 東大の 理物を卒業し東大で助手を務めた後に、 新設された阪大に着任して1934年には理学部長を務めます。 日本の理論物理コミュニティ形成者でした。更には1936年には年には名古屋大学プラズマ研究所の新設に伴い、 所長として就任しています。結果として 二つの旧制大学の名誉教授を務める事となります。 本来の研究分野である物理学では統計力学での業績が 顕著であるとされていますが、そうした業績よりも寧ろ 人に仕事を任せて育てていく、という業績の方が 大きかったのではないでしょうか。そんな偉人です。併せて1952年からは日本学術会議会長、 1958年から6年間は公明党所属の参議院議員として科学者の立場で政策に関わっています。以下では国会議員も勤めた「伏見先生」について語っていきたいと思います。 「先生お願いします!」って感じです。一貫した科学者サイドの見識科学者として伏見先生は 「原子力の平和利用」を推進し、大きな役割を果たしました。 日本における原子力の研究がとても大事であると認識しています。 被爆国である日本独自の視点から平和利用を考えていました。 具体的に「原子力三原則」でまとめています。「自主、民主、公開」の三原則を起草して茅誠司と連名で 伏見先生は「茅・伏見の原子力三原則」を考えています。対称の美物理学を研究・体感する中で伏見先生は 「対称の美」に対する美学を持っていました。 特に、その数式的な表現と万人受けする印象に着目しています。例えば自分の子供が幾何学模様に対して関心を抱いたら、 そこを掘り下げて「どこまで習ったの?」とか 「何で学校で教えないんだろう?」とか色々な視点で 議論していったのです。1960年代には 「紋様の科学」としてまとめています。水素エネルギーの推進朝日新聞が水素エネルギー開発の全面的に バックアップを表明したタイミングで、 伏見先生は原子力開発に関わっていきます。1952年に朝日新聞の木村部長(科学部の部長)から 声をかけられたことがきっかけです。伏見先生は2月に朝日講堂で開催された公開講演会で講師として 「核融合の現状と問題点」と題して講演しました。その時の御縁と元来、伏見先生が 水素エネルギーを支持していたこともあり 次世代燃料として水素を勧めておられました。 クリーンなエネルギーだと考えていたのです。科学と社会をつなぐ役割伏見先生の特徴は、純粋な理論物理学者でありながら、科学を研究室の中に閉じ込めなかった点にあります。20世紀中盤、日本では科学技術が国家政策と密接に結びつき始めました。戦後復興、高度経済成長、そして原子力利用という流れの中で、「科学者は社会に対して何を語るべきか」という問いが現実の問題として現れます。伏見先生は、この問いに対して明確に科学は公開され、民主的に議論されなければならないという立場を取りました。原子力三原則における「公開」という理念は、単なる情報公開ではなく、科学技術を専門家だけのものにしない市民が理解できる形で説明するという思想でもありました。この姿勢は、今日の科学コミュニケーションやリスクガバナンスの考え方に先行するものだったと言えるでしょう。科学者が政策に関与することの難しさと責任を、伏見先生は実践を通じて示したのです。〆【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 問題点に対しては 適時、返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2023/04/02‗初稿投稿 2026 /03/12‗改訂投稿舞台別のご紹介へ 時代別(順)のご紹介 力学関係へ 電磁気関係へ 熱統計関連のご紹介へ 量子力学関係へAIでの考察(参考)【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】(2023年4月時点での対応英訳)Dr.Fushimi’s Diverse ActivitiesKoji Fushimi was born in Nagoya, Aichi Prefecture. And he grows up in Tokyo. I somehow imagine that he was born and raised in an ordinary office worker family. Fushimi-sensei was born in the 20th century, so that makes sense.However, there has been a lot of activity since then. After graduating from the University of Tokyo with a degree in physics and working as an assistant at the University of Tokyo, He joined the newly established Osaka University and in 1934 he became the Dean of the Faculty of Science.In 1936, he assumed the post of Director of the newly established Nagoya University Plasma Research Institute. as a result He will serve as an emeritus professor at two old-system universities.He also served as president of the Science Council of Japan from 1952. For six years from 1958, he was involved in policy as a member of the House of Councilors belonging to the New Komeito Party from the standpoint of a scientist.Below, I would like to talk about Mr. Fushimi, who also served as a Diet member. It’s like, “Teacher, please!”Consistent Scientist InsightProfessor Fushimi played a major role in promoting the “peaceful use of nuclear energy.” He recognizes that nuclear research in Japan is very important. He was thinking about peaceful uses from the unique perspective of Japan, a country that suffered atomic bombings. He specifically sums it up in the “Three Principles of Atomic Energy.”He drafted the three principles of “independence, democracy, and openness”, and jointly with Seiji Kaya, he considered “three principles of nuclear power of Kaya and Fushimi”.beauty of symmetryFushimi-sensei had an aesthetic for “symmetrical beauty.” In particular, he focuses on its mathematical expression and universal impression.For example, if my child was interested in geometric patterns, I would delve into it and discuss things from various perspectives, such as “How much did you learn?” is. In the 1960s he summarized it as “The Science of Patterns”.Promotion of hydrogen energyWhen the Asahi Shimbun announced its full support for hydrogen energy development, Professor Fushimi became involved in nuclear power development.In 1952, he was approached by the head of the Asahi Shimbun, Mr. Kimura (head of the science department).In February, Prof. Fushimi gave a lecture titled “Current Status and Problems of Nuclear Fusion” at a public lecture held at the Asahi Auditorium.At that time, Dr. Fushimi originally supported hydrogen energy, and he recommended hydrogen as a next-generation fuel. He was clean energy, he thought.
2026年3月10日2026年2月28日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残すジョン・バーディーン【トランジスタの発明とBCS理論で二度のノーベル賞受賞】-3/10改訂 こんにちはコウジです。 半年ごとの既存記事見直しの作業です。 今回は近世20世紀に概念・手法を確立していった偉人を紹介します。 では、ご覧ください。内容を整理し、リンクを見直しました。 現時点での英訳も考えています。 (以下原稿です)金属絶縁体転移 【スポンサーリンク】 【1908年5月23日 ~ 1991年1月30日】 【出典:John Bardeen Wikimedia Commons】超電導現象の理論的基礎を与えたバーディン本稿は何度も追記したいです。それは私にとって、関心のある低温電子物性の話だからです。今回は極低温での現象理解を進めたバーディンについて ご紹介致します。バーディンは二回のノーベル賞を受けています。 バーディンは現在までに物理学賞を二度受賞した唯一の人物です。 (※マリー・キュリーは異分野での受賞でした。) 一回目はベル研での仲間とのトランジスタの発明、 二回目はイリノイ大学の仲間たちと確立したBCS理論です。前述したカメリー・オネスの超電導現象の発見以後、その現象を説明する為に色々な理論が試みられたでしょうが、イリノイ大学のバーディンを中心とした3人がBCS理論を確立します。バーディン、レオン・クーパー、ロバート・シュリーファー 3人の名前の頭文字を並べてBCS理論と呼ばれます。このコンビの始まりはバーディンがクーパーを招聘する事から始まります。そこにバーディン研究室の大学院生、シュリーファー が加わり研究が進みます。後に話す中嶋氏とのエピソードやベル研での仲間たちとのトランジスタの 発明を考えてみて下さい。物理で理論を切り開いていく楽しさが感じられる のではないでしょうか。(他の専門分野の方でも感じられるでしょう。) 自分自身で思索にふける時間を経て、 議論をすることで理論が発展していくのです。 特にバーディンは議論の上手い人だったといえます。バーディンは議論をして「興奮する時間」 を大事に使えたのです。また別ブログで少しバーディンについてつぶやいてみました。◆ 静かな天才 ― バーディンの研究スタイルジョン・バーディーンは、20世紀物理学者の中でも 極めて珍しいタイプの研究者でした。多くの理論物理学者が強烈な個性やカリスマ性で知られるのに対し、 バーディンは控えめで穏やかな人物として知られています。議論では相手を否定するのではなく、相手の考えを最後まで聞く問題の核心だけを静かに指摘する数式より物理的直観を重視するという姿勢を貫きました。ベル研究所でもイリノイ大学でも、多くの若手研究者が自然に 彼の周囲へ集まった理由は、この「議論の安心感」にあったと言われています。 超伝導は前出の2人と議論をまとめ、トランジスタ発明のチームはベル研の仲間 であるウィリアム・ショックレーとウォルター・ブラッテンでした。BCS理論も、強烈なひらめきというより、長期間の 対話と試行錯誤の積み重ねから生まれた理論でした。◆ なぜBCS理論は革命だったのかBCS理論の本質は、単に超伝導を説明したことではありません。それまで物理学では、フェルミ粒子(電子)とボース粒子は根本的に異なる存在 として扱われていました。しかしBCS理論では、電子がペア(クーパー対)を 形成することで集団的にボース粒子的振る舞いを示すことが明らかになりました。これは、個々の粒子ではなく「集団状態」が物理現象を決定するという 考え方を確立した出来事でした。この視点は後に、超流動原子核物理中性子星内部量子情報科学へと広がっていきます。BCS理論とは BCS理論の内容はフォノン(音子)を介した電子が対になった結果(クーパ対の考え方)、そのコンビがスピンを打ち消し合って結合するという理論でした。相転移温度をその理論で説明し、今日、超伝導を考えるうえで理論の基礎となっています。このBCS理論の妙はフェルミオンである電子が凝縮状態をとるところにあります。本来、同じ状態(位相等を考えた時のパラメター)をとる事が出来ない電子が対になってボゾン化することで巨視的な現象にとして観察される超伝導現象が実現するのです。そもそも、金属中を移動する電子を単純な質点のモデルで考えると 単純な古典的粒子モデルでは、電子は格子振動や散乱の影響を受け必ず電気抵抗が生じます。何らかの相互作用が起きて金属内での抵抗が生じます。ところが、電子の波動関数を考え、波動的側面が顕著に現れる状態を考えていくのが超伝導現象だと言えます。そして現象発現の条件として大事な尺度の一つが 温度だったのです。2023年時点での関心は 遷移を起こす温度のメカニズムを解明する事です。 そして1986年に発見された高温超伝導体は、従来のBCS理論だけでは 完全に説明できず、現在も物性物理学最大級の未解決問題となっています。。現在での転移温度は「高温超電導」 と言ってもマイナス百℃以下ですので 転移温度に至るまでは液体ヘリウムや 液体窒素を使って冷却しなければいけません。超電導現象の応用 実用化しているリニアモーターカーや量子コンピューター等の応用技術も冷却した上で超電導現象を実現しているので、コストと安定性が課題となっています。転移温度が変わっていって、より常温に近い温度で現象を起こすことが出来ればメリットは非常に大きいです。温度に関わるメカニズムとして中嶋貞雄がバーディンに与えたヒントが繰り込み理論の応用でした。そのヒントは手法だったともいえますが、電気伝導に関わる要素(素粒子)が「どういった条件で」、「どういった役割を果たすか」が重要です。その手掛かりの一つが「ゆらぎ」に関するメカニズムではないかと考えている人が居ます。今後の大きな課題です。また、最後に一つ気付きました。バーディンはランダウと同じ年に生まれています。 そして、没年は大きく違います。二人の人生を比べてしまうのは失礼ですが、 バーディンは「色々な人と沢山議論した人」だという事は出来るでしょう。 きっと、 バーディンは色々な視点で長く考えていました。〆以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 時間がかかるかもしれませんが 必ず返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2020/09/15_初稿投稿 2026/03/10_改定投稿【スポンサーリンク】舞台別のご紹介へ 時代別(順)のご紹介 アメリカ関連のご紹介へ 熱統計関連のご紹介へ 量子力学関係へAIでの考察(参考)【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】(2021年11月時点での対応英訳)Theoretical basis of superconducting phenomenonI would like to add this article many times. That’s because it’s about the low-temperature electronic characteristics that I’m interested in. This time, I would like to introduce Birdin, who has advanced the understanding of the phenomenon at extremely low temperatures.Birdin has received two Nobel Prizes. The first is the invention of the transistor with his colleagues at Bell Labs, and the second is the BCS theory described below. Since the discovery of the superconducting phenomenon of Camery Ones mentioned above, various theories may have been tried to explain the phenomenon, but three people led by Birdin of the University of Illinois establish the BCS theory. Bardeen, Leon Cooper, and Robert Schrieffer are called BCS theory by arranging the initials of the three names.The beginning of this duo begins with Birdin inviting Cooper. Schrieffer, a graduate student from the Badin laboratory, will join the group to advance the research.What is BCS theory?The content of BCS theory was the theory that as a result of pairing electrons via phonons (sounds) (the idea of Cooper pairs), the combinations cancel each other out and combine. The phase transition temperature is explained by the theory, and today it is the basis of the theory when considering superconductivity. The mystery of this BCS theory is that the fermion electrons take a condensed state. Originally, electrons that cannot take the same state are paired and bosonized, and the superconducting phenomenon observed as a macroscopic phenomenon is realized.In the first place, considering the electrons moving in a metal as a simple mass model, it is impossible for a negative charge to move around freely and without resistance between nuclei with a positive charge. Some interaction occurs and leads to resistance. However, it can be said that the superconducting phenomenon is to create a state in which the wave function appears prominently by considering the wave function of electrons.One of the important measures for that condition was temperature. At this time, the interest is to elucidate the temperature mechanism that causes the transition. At present, the transition temperature is less than minus 100 ° C even if it is called high-temperature superconductivity, so it is necessary to cool it with liquid helium or liquid nitrogen until the transition temperature is reached.Application of superconducting phenomenonSince the superconducting phenomenon is realized after cooling the applied technologies such as linear motor cars and quantum computers that have been put into practical use, cost and stability are issues. If the transition temperature changes and the phenomenon can occur at a temperature closer to room temperature, the merit is very great.The hint given to Bardeen by Sadao Nakajima as a mechanism related to temperature was an application of renormalization theory. It can be said that the hint was a method, but “under what conditions” and “what role” the elements (elementary particles) involved in electrical conduction play are important. Some people think that one of the clues is the mechanism related to “fluctuation”. This is a big issue for the future.
2026年3月9日2026年2月28日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残すレフ・D・ランダウ【反磁性の研究を行い優れた教科書を残した天才】‐3/9改訂 こんにちはコウジです。 半年ごとの既存記事見直しの作業です。 今回は近世20世紀に概念・手法を確立していった偉人を紹介します。 では、ご覧ください。内容を整理し、リンクを見直しました。 現時点での英訳も考えています。 (以下原稿です)マグネット・ベース 【スポンサーリンク】 【1908年1月22日生まれ ~ 1968年4月1日没】 【Photo:Lev Landau In Wikimedia Commons】レフ・ダヴィドヴィッチ・ランダウその名をフルネームで表記すると、レフ・ダヴィドヴィッチ・ランダウです。ランダウは有名なユダヤ系ロシア人の科学者で 日本では教科書でその名を目にしてる人が 多いのではないでしょうか。1962年に「絶対零度近傍でのヘリウムの理論的研究」でノーベル物理学賞を受けています。 ノーベル賞受賞時、ランダウは交通事故による重傷のため 入院中であり、賞は病室で授与されました。 そして何より、ランダウは天才です。個人的には、 アインシュタイン、ランダウ、ノイマン、ディラックらが 20世紀理論物理学を象徴する天才群であったように思えます。 パウリも仲間に入れたい気がしますが、情熱溢れる イメージが私の中ではあるのでパウリは何となく別枠。 ⇔パウリは情熱の理論家です。さて、 ランダウは石油技術者の父と教育者の母から生まれます。 12歳で微分法を理解し、14歳で国立大学に入学、 物理数学科と化学学科を同時に履修します。19歳で学士の称号を得るとレニングラード物理工学研究所で 電磁場の中での電子性質である量子電磁気学を研究していきます。 そしてコペンハーゲンにあるボーアの研究所で大きな影響を受けました。◆ ランダウ学派という教育革命レフ・ダヴィドヴィッチ・ランダウの功績は研究成果 だけではありません。彼は20世紀でも特異な 「教育者」でもありました。ランダウは独自の教育制度「ランダウ・ミニマム」 と呼ばれる試験制度を作ります。これは理論物理学を学ぶ学生に対して、古典力学電磁気学量子力学統計力学連続体力学など広範囲の分野を徹底的に理解しているかを口頭試問で 確認するもので、合格できる学生は極めて少数でした。しかし、この厳格な教育からソ連物理学を代表する多くの理論家が育ち、 「ランダウ学派」と呼ばれる強力な研究コミュニティが形成されました。研究者個人ではなく「知的共同体」を作った点も、 ランダウの大きな遺産と言えるでしょう。◆ 『理論物理学教程』という巨大プロジェクトランダウは弟子のエフゲニー・リフシッツとともに 『理論物理学教程(Course of Theoretical Physics)』を執筆しました。このシリーズは、理論物理学を体系として完全に再構成するという野心的な試みでした。現在でも世界中の大学院で使用されており、 多くの物理学者にとって「理論物理学の共通言語」となっています。ランダウの主な業績その後、ケンブリッジでディラック・カピッツァと 共同研究を進め所謂「ランダウ反磁性」の研究をまとめます。その後にチューリッヒでパウリと共同研究をした後に ランダウはレニングラードに戻りました。こうした海外の研究者との交流はとても大事で、 互いに刺激を与えあって自分の研究性の方向を 確認する為の経験を積んでいくことが出来ます。単純には他大学のゼミに参加して普段交流しない人達と 議論出来るだけでも自分の成長につながるのです。また、自分の作った意見(理論)が他人の目から見て 色々な整合性を持っているか、 問いかけることが出来るのです。 自分の言葉を発信する「界隈(かいわい)」 を出来るだけ早く理解していきましょう。物理学者は初学者に限らず、 常に向上していく機会を作るべきだと思います。ランダウの幸せだった時期を中心に記載しましたが モスクワの研究所で要職を務めていながらスターリン批判 をしたことで刑務所に服役したりしています。ランダウは単なる批判ではなく、反スターリン的ビラ作成独裁批判を行った為、1938年逮捕されました。 そしてランダウを救ったのはピョートル・カピッツァでした。そして交通事故にあったりもしています。 水素爆弾の製造にも不本意ながら加担しています。 そして60歳でこの世を去ります。ただ、ランダウの業績は不変です。準粒子・フェルミ流体やギンツブルグ&ランダウ理論は 低温凝縮系の世界を大きく進ませました。ヴィタリー・ギンツブルグと提唱した ギンツブルグ=ランダウ理論は、超伝導を秩序変数という概念で説明し、 後の凝縮系物理学の基礎となったのです。〆AIがライティング【Catchy】 【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 問題点に関しては適時、 返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2020/09/24_初稿投稿 2026/03/09_改定投稿サイトTOPへ 舞台別のご紹介へ 時代別(順)のご紹介 アメリカ関係のご紹介へ ケンブリッジ大学のご紹介へ イギリス関係のご紹介 デンマーク関係へ 熱統計関連のご紹介へ 量子力学関係へAIでの考察(参考)【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】 (2021年11月時点での対応英訳)Lev Davidovich LandauThe full name is Lev Davidovich Landau. Landau is a well-known Jewish-Russian scientist who may have seen textbooks in Japan. He received the Nobel Prize in Physics in 1962 for his “Theoretical Study of Helium Near Absolute Zero”. Now, Landau is born of a father of oil engineers and a mother of educators.He understood differential calculus at the age of 12, entered a national university at the age of 14, and he took both physical mathematics and chemistry at the same time. When he earned his bachelor’s degree at the age of 19, he studied quantum electrodynamics, which is an electronic property in an electromagnetic field, at the Leningrad Institute of Physical Engineering. And I was greatly influenced by Bohr’s laboratory in Copenhagen.Landau’s main achievementsHe then collaborated with Dirac Kapitsa in Cambridge to conclude his so-called “Landau diamagnetism” research. Landau then returned to Leningrad after collaborating with Pauli in Zurich.I mainly described Landau’s happy times, but he was sentenced to jail for criticizing Stalin while he was in a key position at a research institute in Moscow. And he is also in a car accident. He is also reluctantly involved in the production of hydrogen bombs. And he died at the age of 60.However, Landau’s performance remains unchanged. Quasiparticle-Fermi liquid theory and Ginzburg-Landau theory have made great strides in the world of low-temperature condensate systems.〆
2026年3月4日2026年2月24日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残すJ・ロバート・オッペンハイマー【あだ名はオッピーとか原爆の父とか】‐3/4改訂 こんにちはコウジです。 半年ごとの既存記事見直しの作業です。 今回は近世20世紀に概念・手法を確立していった偉人を紹介します。 では、ご覧ください。内容を整理し、リンクを見直しました。 現時点での英訳も考えています。 (以下原稿です)Blu-ray ※日本語無し](輸入版) OPPENHEIMER 【スポンサーリンク】 【1904年4月22日生まれ~1967年2月18日没】 【Photo: J. Robert Oppenheimer / Wikimedia Commons (Public Domain)】 原爆の父オッペンハイマーオッペンハイマーは原爆の父と呼ばれている側面も ありますが、UCB(カリフォルニア大学バークレー校) では学生からオッピーという愛称で呼ばれていた 側面もありました。オッペンハイマーの人生は 喜怒哀楽に満ちています。オッペンハイマーの人生を理解する上で重要なのは、20世紀前半 という激動の時代背景です。彼がユダヤ系家庭に生まれたことも、 当時の政治状況と無関係ではありませんでした。 ヒットラーが民族としてのユダヤ人達に焦点を当て迫害し、 敵視していた現実は動かしがたい事実です。 強制収容所に連行されるような世相の中で ユダヤ人達は非常な危機感を感じていたはずです。ユダヤ人たちが抱く危機感の中で20世紀初頭の歴史は進み、 天才達が育ち・団結して新しい物を生み出していた という側面があるのだと言えます。そんな時代に兵器製造の行為は肯定される話ではないのですが、 当時の論客達はユダヤ人迫害から話を初めて、 マンハッタン計画に進む流れを紹介していき、 大衆に納得し易い話を組み立てられたでしょう。ユダヤ系の物理学者達世界大戦終結後、100年近くがたとうとしています。 ユダヤ人に対しての考えは幾多の人が繰り広げてきた のではないかと思えますが、再度、私も強調します。具体的な物理の世界での登場人物はアインシュタイン 、 シュテルン、マックス・ボルン、ネイサン・ローゼン、 D・J・ボーム 、E・パウリ 、ランダウ、ファインマン、 ハンスベーテそして今回ご紹介するオッペンハイマーです。(今は此処迄しか思い浮かびませんが 後日、思い付くたびに補記します。)ユダヤ人メンバー中心に居てがもたらした今世紀初頭の 物理学の進展は急速でした。その進展は物理学に留まらず、工学、産業、 果ては政治体制に繋がっていきました。1917年ロシア革命に始まった社会体制の変化とも 同期していた、と言えるのでは無いでしょうか。20世紀初頭の閉塞感は、それを打ち破る様々な努力によって 大きく様変わりしていたと思えます。そして、昨今コロナで 不満が高まり、米中関係が緊張していく世相は、やもすれば 危ない世界に近づいてるようにも思えます。各人で理性的な判断・発言をしましょう。 今、方向付けが重要です。 オッペンハイマーの関心さて実際、オッパンハイマーは経済的に恵まれた 家庭で育ち、沢山のお小遣いをもらいながら すくすくと育ちます。そして、 オッペンハイマーは最終的に6つの言葉を操ります。 少年時代には鉱物学・数学・地質学・化学に関心を示し ハーバードを3年で終えてケンブリッジに留学します。そこから理論物理学のゲッティンゲン大学に進み ボルンと出会います。オッペンハイマーはボルンの指導の下で 研究を進め共同でボルン・オッペンハイマー近似等の業績を上げます。若い時代にボルンと近似に関する仕事をする以外に 一度帰国した後に二度目の訪欧でエーレンフェスト・パウリ・ボーア 等と交流し物理学での知見を育みます。暖かい人々が 次の時代の人材を育てたのです。 (2023年に別記事にまとめました)。その後、アメリカに戻りカリフォルニア工科大学やUCBで 教鞭をとりますが、第二次大戦勃発に伴い、オッペンハイマーは ロスアラモス国立研究所の初代所長に任命されます。ロスアラモス国立研究所で原爆を開発したのです。 この仕事は、世界のパワー・バランスを変え、 後の世界を大きく変えました。大国の力が強まったのです。晩年のオッペンハイマー晩年、オッペンハイマーは成し遂げた仕事の意味を自問し、 後悔の言葉さえ残しています。戦争時代の原爆開発・使用は国としての アメリカの中で必要と判断されていましたが、 それ以後の時代では原爆を使わなくても各国が 持つだけで攻撃対象とされたりしますし、 外交で原爆が脅迫の道具として使われていたりします。そういったことにつながった発明をオッペンハイマーは 「罪」として捉えていて、水爆の開発には反対していたりもしました。オッペンハイマーには別の罪(?)もあります。 オッペンハイマーの時代は冷戦時代なので 学生時代からの共産党とのつながりを指摘され、 最終的には赤狩りの標的とされ続けていました。常時FBI(司法省管轄のアメリカ連邦捜査局)の 監視下にあったのです。1965年、がんの為に ニュージャージーの自宅で静かに生涯を終えました。合掌。 そして、2023/8/19に追記します。 映画宣伝の思惑でこの夏に「バーベンハイマー騒動」 が起きました。オッペンハイマーの伝記映画と バービー人形の映画が同日に放映されていました。 その中で、 米国の配給会社が「忘れられない夏になりそう!」 と発言した事に日本法人は遺憾の意を示しています。 米国の商戦主義が終戦記念日を控えた日本人の 感性に「カチン」ときたわけです。〆【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 最近は全て返信出来てませんが 必要箇所は適時、改定をします。nowkouji226@gmail.com舞台別のご紹介 時代別(順)のご紹介 アメリカ関係のご紹介へ イギリス関係のご紹介へ ドイツ関連のご紹介へ ケンブリッジ大学のご紹介へ UCBのご紹介へ 量子力学関係へAIでの作業(参考)2020/09/21_初稿投稿 2026/03/04 _改定投稿 【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】(2021年10月時点での対応英訳)Atomic bomb father OppenheimerOppenheimer was sometimes called the father of the atomic bomb, but at UCB (University of California, Berkeley), he was also nicknamed Oppenheim by students. Oppenheimer’s life is full of emotions. When thinking about Oppenheimer’s life, the first point to look at is that he also has Jewish blood.The reality that Hitler focused on and persecuted the Jews as an ethnic group and was hostile to them is an immovable fact. The Jews must have felt a great sense of crisis in the world of being taken to concentration camps. In that sense of crisis, the history of the early 20th century may have been that geniuses grew up and united to create new things. The act of manufacturing weapons is not affirmed in such an era, but the debaters at that time also started talking about the persecution of Jews and introduced the flow to the Manhattan Project, and assembled a story that is easy for the public to understand. Probably.Jewish physicistsAlmost 100 years have passed since then, and I suspect that many people have developed this idea, but I would like to emphasize it again. The characters in the concrete world of physics are Einstein, Stern, Max Born, DJ Baume, E. Pauli, Landau, Feynman,And this is Oppenheimer. (I can only think of it here now, but I will add it later whenever I come up with it.) The progress of physics at the beginning of this century brought about by such members was rapid. Its progress went beyond physics to engineering, industry, and even the political system.It can be said that it was in sync with the changes in the social system that began in the Russian Revolution in 1917. It seems that the feeling of obstruction at the beginning of this century was greatly changed by various efforts to overcome it. And it seems that the world, where dissatisfaction with Corona has increased and US-China relations have become tense these days, is approaching a dangerous world. Let’s make rational judgments and remarks by each person. Direction is important now.Oppenheimer’s interestWell, in fact, Oppanheimer finally manipulates six words. As a boy, he became interested in mineralogy, mathematics, geology and chemistry, finishing Harvard in three years and studying abroad in Cambridge. From there he goes to the University of Göttingen in theoretical physics and meets Born.Oppenheimer conducts research under the guidance of Born and jointly achieves achievements such as the Born-Oppenheimer approximation. He then returned to the United States to teach at the California Institute of Technology and UCB, but with the outbreak of World War II, Oppenheimer was appointed as the first director of the Los Alamos National Laboratory. So he developed the atomic bomb. This work changed the power balance of the world and changed the world later.Oppenheimer in his later yearsIn his later years, Oppenheimer asked himself what the work he had accomplished and even left a word of regret. It was judged that the development and use of the atomic bomb during the war was necessary in the United States as a country, but in the subsequent era, even if each country did not use the atomic bomb, it would be the target of attack, and diplomacy. The atomic bomb is used as a threatening tool. Oppenheimer saw the invention that led to that as a “sin,” and he even opposed the development of the hydrogen bomb.Oppenheimer also has another sin (?). Since Oppenheimer’s era was the Cold War era, he was pointed out that he had a connection with the Communist Party since he was a student, and eventually continued to be the target of the Red Scare. He was always under the supervision of the FBI (Federal Bureau of Investigation under the Department of Justice). In 1965, he quietly ended his life at his home in New Jersey because of cancer. Gassho.2025/5/5のメモ オッペンハイマー原稿メモP54.Fファーガンとハーバード P67.ボーアがラザフォードの紹介でオッペンハイマーに会う 「二体問題で困っている」⇒That’s BAT! P68.1926年にボルンがケンブリッジに来た時に連続スペクトルの 仕事を評価しゲッチンゲン大学での共同研究が始まる P109.歴史として完全に記録されることになるだろう。ByOpy P119.アンダーソン P136.現代物理学の父ニールスB P135.オッペン像「事実の歪んだ写像」 P224.トリニティーの意味? P238.消防車ベーテの実験分析での助言が格別 P240.論文は数多く・・・しかしロバートはトリニティー。。。 P246.ナチスドイツが原爆を持てないと1944年11月に、、 P269.聖者フランクのフランク報告書 P311.Prudenceを「オッピーは持っていない。それはすなわち、世の中でやっていくため、あるいは落伍しないための賢明な兵法」←オッピーは自身の知的・道徳的・審美的規範で置き換えてきた」By.N.R.デイヴィウス P344.4年後にロシア P347.ホールデンの文 P336.IAEA P340.我々と共に P353.1950年フックスの告白 P408.ゲッチンゲンでのボルンとの関係_ボルン⇒オッピー責任回避を試みるまた、2023年3/26のメモに追記します。現時点でこれが確定メモ。凡そ2年前からの作業なのですね。『3/26・ダイエットとオッペンハイマーのメモ+ミッキーマウスの歌』ダイエットまず初めに、ダイエットで忘れたくないことは、ユックリお食事、少しでも噛み噛み、楽しく食べて、食後はまったり。そして、2022年3月末にまとめ直した事…ameblo.jp追記分)<オッペンハイマー原稿> オッペンハイマーは内的な考察を処理しきれない;トラブルを意識的に避けたかった。 オッペンハイマーの非宗教的な倫理観に起因し問題が出てくる。 ・ユダヤ、キリスト、イスラム、ヒンズーと親和性がない ・ハーバード大学でのユダヤと反左 ・三年間で最優秀で卒業する ・1922年文学での奇跡の年にユリシーズ ・1935年の物理学での奇跡の年に量子力学誕生 (ロバートは1922年9月~1925年6月に11) ・プリンキピア・マセマティカ (アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド と バートランド・ラッセル によって書かれ、1910年から1913年に出版) ・1931年K.ゲーテル(不確定性原理) ・ポアンカレの「現代物理学」 ・ギブスの「非同一系の非平衡論」 ・ジールス「気体分子運動論」 ・ゾンマーフェルトの「原子構造とスペクトル」 (ハーバードの理論屋ケンプルへの手紙) ・クロムイエロー、(ロバートフランシス・ポールのトロクロ?) ・ボルンの連続スペクトル論理
『3/26・ダイエットとオッペンハイマーのメモ+ミッキーマウスの歌』ダイエットまず初めに、ダイエットで忘れたくないことは、ユックリお食事、少しでも噛み噛み、楽しく食べて、食後はまったり。そして、2022年3月末にまとめ直した事…ameblo.jp
2025年11月13日2025年11月13日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す100年を迎える東京大学地震研究所(ERI)が築いた地震学とこれからのAI時代 本記事は11/9付の日本経済新聞を起点に記載しています。東京大学地震研究所(ERI)は2025年11月13日で設立から100年を迎えます。1925年の設立以来、関東大震災を教訓に地震予知・観測体制を築き、日本が世界の地震研究を牽引してきました。英国人ジョン・ミルン(JohnMilne)による水平振子式地震計の開発、大森房吉・丸山卓男・津村健四郎らによる地震モーメントやマグニチュード理論の確立など、その歩みは日本科学史の一大軌跡といえます。本稿では、①地震研究100年の歴史、②技術革新、③AI時代の展望という三つの章で構成し、制度と技術の系譜をたどります。第1章:100年の歴史に刻まれた制度と人関東大震災(1923年9月1日)を契機に、地震観測と耐震研究を体系化する必要性が高まり、1925年に東京大学地震研究所が誕生しました。以来、ERIは観測網の整備、地震計の改良、断層運動理論の発展を通じて、国際的研究機関としての地位を築きました。1.1 設立背景と制度整備震災後、国の学術政策と建築基準が一体化し、地震学の社会的使命が明確化。地震予知研究、気象庁・大学・国立研究所の分業体制が整いました。1.2 ジョン・ミルン来日から地震学基盤の構築1876年、英国から招聘されたジョン・ミルンが来日し、世界初の近代的地震観測体制を整備。1880年の横浜地震観測を皮切りに、地震波形記録・震央推定などの方法論を導入しました。1.3 大森房吉・丸山卓男・津村健四郎らの技術革新大森房吉(1868–1923)は「地震学の父」と呼ばれ、震源距離と時間差の関係式を導出。丸山卓男(東大地震研)は地震モーメントの理論化で国際的評価を確立。津村健四郎は地震継続時間を基にマグニチュード推定式を改良しました。【地震研究の主要年表】年出来事関連人物・機関1876年ジョン・ミルン来日、地震観測開始東京帝国大学1880年日本地震学会創設ミルン・大森房吉1923年関東大震災内務省震災予防調査会1925年東京大学地震研究所設立初代所長 今村明恒1960年代地震モーメント理論確立丸山卓男2020年代AI・機械学習を導入した観測解析ERI・JAMSTEC第2章:技術革新と地震学の転機地震学の進化は「観測技術」「理論」「応用設計」という三段階で展開されてきました。ジョン・ミルンが水平振子式地震計を開発し、丸山卓男が地震モーメントを定義。こうした発展は、1980年代以降の地震カタログ整備や防災工学に波及しています。2.1 観測技術の進化 — 地震計から海底観測網へ地震計は機械式からデジタル式、さらに海底光ファイバー式へ。現在では海洋研究開発機構(JAMSTEC)が展開するDONET・S-netが、リアルタイム地震波を高精度で解析しています。2.2 理論モデルの深化 — 地震モーメント・マグニチュードの普及地震の規模を「モーメント」で表す考え方は、1960年代に丸山卓男氏が提唱。その後、カナダのカナメ研究者ハスキンスらとともに国際標準となり、現在のMw表記へと進化しました。2.3 耐震・社会実装 — 地震防災・建築基準の変化1981年の建築基準法改正により、耐震設計は「損傷制御型」に転換。ERIの研究成果が防災都市計画、ライフライン設計、自治体のハザード評価などに組み込まれました。第3章:AI時代の地震研究と未来展望AIとビッグデータの時代、地震研究も転換期にあります。観測データの自動解析、異常波形の自動検出、AIによる震源推定モデルなど、研究領域が広がっています。ERIでは近年、地震波動場の機械学習解析を用いて、スロー地震の検出精度を高めています。3.1 AI/機械学習の導入例と研究成果ERI・東北大・防災科研などが共同で開発した「AI地震波分類システム」は、地震波形を0.1秒単位で自動判別。発生直後の緊急通報制度(EEW)に応用されています。3.2 国際共同研究・データ共有の潮流米国USGSや欧州EPOSなどと連携し、データ形式を共通化。AIモデルによる世界規模の震源パターン分析が進んでいます。3.3 課題と未来像 — AGI時代の地震科学完全自律型AI(AGI)による地震予測はまだ理論段階ですが、モデル間比較(AGIモデル1号 vs 2号)を通じてリスク推定精度が向上する可能性があります。【用語解説】地震モーメント:断層のずれ量と面積を用いて地震の規模を表す物理量。AI地震波解析:機械学習を使い、ノイズと実地震波を自動で判別する技術。DONET/S-net:日本が展開する海底地震観測網。リアルタイム観測を可能にする。まとめ東京大学地震研究所100年の歴史は、単なる学術機関の記念ではなく、地震研究が国家・社会・技術の全体を変えた軌跡そのものです。AI時代のいま、観測・理論・防災が再統合されようとしています。100年前に始まった「人命を守る科学」は、これからの100年でも進化を止めないでしょう。参考文献: ・日本経済新聞(2024年11月9日朝刊) ・東京大学地震研究所公式サイト(ERI) ・Nature / Springer / ScienceDirect 各誌掲載論文(Maruyama, T., Tsunemura, K., Kato, S., 2019–2024)〆以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 最近全て返事が出来ていませんが 全て読んでいます。 適時、改定をします。【スポンサーリンク】nowkouji226@gmail.com2025/11/13_初稿投稿サイトTOPへ 時代別(順)のご紹介 17世紀生まれの物理学者へ 18世紀生まれの物理学者へ 19世紀生まれの物理学者へ 20世紀生まれの物理学者へ
本記事は11/9付の日本経済新聞を起点に記載しています。東京大学地震研究所(ERI)は2025年11月13日で設立から100年を迎えます。1925年の設立以来、関東大震災を教訓に地震予知・観測体制を築き、日本が世界の地震研究を牽引してきました。英国人ジョン・ミルン(JohnMilne)による水平振子式地震計の開発、大森房吉・丸山卓男・津村健四郎らによる地震モーメントやマグニチュード理論の確立など、その歩みは日本科学史の一大軌跡といえます。本稿では、①地震研究100年の歴史、②技術革新、③AI時代の展望という三つの章で構成し、制度と技術の系譜をたどります。第1章:100年の歴史に刻まれた制度と人関東大震災(1923年9月1日)を契機に、地震観測と耐震研究を体系化する必要性が高まり、1925年に東京大学地震研究所が誕生しました。以来、ERIは観測網の整備、地震計の改良、断層運動理論の発展を通じて、国際的研究機関としての地位を築きました。1.1 設立背景と制度整備震災後、国の学術政策と建築基準が一体化し、地震学の社会的使命が明確化。地震予知研究、気象庁・大学・国立研究所の分業体制が整いました。1.2 ジョン・ミルン来日から地震学基盤の構築1876年、英国から招聘されたジョン・ミルンが来日し、世界初の近代的地震観測体制を整備。1880年の横浜地震観測を皮切りに、地震波形記録・震央推定などの方法論を導入しました。1.3 大森房吉・丸山卓男・津村健四郎らの技術革新大森房吉(1868–1923)は「地震学の父」と呼ばれ、震源距離と時間差の関係式を導出。丸山卓男(東大地震研)は地震モーメントの理論化で国際的評価を確立。津村健四郎は地震継続時間を基にマグニチュード推定式を改良しました。【地震研究の主要年表】年出来事関連人物・機関1876年ジョン・ミルン来日、地震観測開始東京帝国大学1880年日本地震学会創設ミルン・大森房吉1923年関東大震災内務省震災予防調査会1925年東京大学地震研究所設立初代所長 今村明恒1960年代地震モーメント理論確立丸山卓男2020年代AI・機械学習を導入した観測解析ERI・JAMSTEC第2章:技術革新と地震学の転機地震学の進化は「観測技術」「理論」「応用設計」という三段階で展開されてきました。ジョン・ミルンが水平振子式地震計を開発し、丸山卓男が地震モーメントを定義。こうした発展は、1980年代以降の地震カタログ整備や防災工学に波及しています。2.1 観測技術の進化 — 地震計から海底観測網へ地震計は機械式からデジタル式、さらに海底光ファイバー式へ。現在では海洋研究開発機構(JAMSTEC)が展開するDONET・S-netが、リアルタイム地震波を高精度で解析しています。2.2 理論モデルの深化 — 地震モーメント・マグニチュードの普及地震の規模を「モーメント」で表す考え方は、1960年代に丸山卓男氏が提唱。その後、カナダのカナメ研究者ハスキンスらとともに国際標準となり、現在のMw表記へと進化しました。2.3 耐震・社会実装 — 地震防災・建築基準の変化1981年の建築基準法改正により、耐震設計は「損傷制御型」に転換。ERIの研究成果が防災都市計画、ライフライン設計、自治体のハザード評価などに組み込まれました。第3章:AI時代の地震研究と未来展望AIとビッグデータの時代、地震研究も転換期にあります。観測データの自動解析、異常波形の自動検出、AIによる震源推定モデルなど、研究領域が広がっています。ERIでは近年、地震波動場の機械学習解析を用いて、スロー地震の検出精度を高めています。3.1 AI/機械学習の導入例と研究成果ERI・東北大・防災科研などが共同で開発した「AI地震波分類システム」は、地震波形を0.1秒単位で自動判別。発生直後の緊急通報制度(EEW)に応用されています。3.2 国際共同研究・データ共有の潮流米国USGSや欧州EPOSなどと連携し、データ形式を共通化。AIモデルによる世界規模の震源パターン分析が進んでいます。3.3 課題と未来像 — AGI時代の地震科学完全自律型AI(AGI)による地震予測はまだ理論段階ですが、モデル間比較(AGIモデル1号 vs 2号)を通じてリスク推定精度が向上する可能性があります。【用語解説】地震モーメント:断層のずれ量と面積を用いて地震の規模を表す物理量。AI地震波解析:機械学習を使い、ノイズと実地震波を自動で判別する技術。DONET/S-net:日本が展開する海底地震観測網。リアルタイム観測を可能にする。まとめ東京大学地震研究所100年の歴史は、単なる学術機関の記念ではなく、地震研究が国家・社会・技術の全体を変えた軌跡そのものです。AI時代のいま、観測・理論・防災が再統合されようとしています。100年前に始まった「人命を守る科学」は、これからの100年でも進化を止めないでしょう。参考文献: ・日本経済新聞(2024年11月9日朝刊) ・東京大学地震研究所公式サイト(ERI) ・Nature / Springer / ScienceDirect 各誌掲載論文(Maruyama, T., Tsunemura, K., Kato, S., 2019–2024)〆以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 最近全て返事が出来ていませんが 全て読んでいます。 適時、改定をします。【スポンサーリンク】nowkouji226@gmail.com2025/11/13_初稿投稿サイトTOPへ 時代別(順)のご紹介 17世紀生まれの物理学者へ 18世紀生まれの物理学者へ 19世紀生まれの物理学者へ 20世紀生まれの物理学者へ
2025年11月9日2025年11月9日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す学士院賞をもらった後で 【2021-08-02‗topクォーク_CP破れ 】 (以下は全て引用文章です)2021-08-02 ・益川さんが学士院賞をもらった後で私の勤めていたE大学工学部に非常勤講師として来てもらったことがあった。実はその前の年度に来てほしいと要請を研究会に出かけた友人のEさんにことづけしたのだが、その年度はすでに3件の非常勤講師を引き受けていて無理だから、つぎの年は優先して予定に入れておくという話だった。そしてその約束を次の年度には果たしてくれたのであった。もっともそれは彼と小林さんがノーベル賞を受賞するずっと以前のことである。たぶんそのころでもいつかはノーベル賞を受賞するのではないかと思われてはいたが、それでもまだ実験的なevidenceがまだだったと思う。topクォークが発見されたのはそのあと数年してであったと思う。CPの破れの実験的検証とどちらが先だったか。〆【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 最近は全てに返事が出来ていませんが 問題点に対しては 適時、返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2025/11/09_初版投稿サイトTOPへ
2025年11月9日2025年11月9日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す大栗博司さんの本を手に入れた 【2021-07-13_中西襄先生 】 2021-07-13 ・注文していた大栗博司さんの書いた本を手に入れた。『探求する精神』(幻冬舎新書)である。朝日新聞の書評で物理学者の須藤靖さんが激賞していた。大栗さんには個人的な面識はないが、私たちの発行している「数学・物理通信」の送り先の一人である。大栗さんはもちろん京都大学名誉教授の中西襄先生の友人知人の一人であるから、中西先生からの推薦されたメールアドレスに加わっている。数日はこの本で楽しむことができるであろう。〆【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 最近は全てに返事が出来ていませんが 問題点に対しては 適時、返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2025/11/09_初版投稿サイトTOPへ
2025年11月9日2025年11月9日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す花粉症 【2021-02-22 ‗Heisenberg_Bornに休暇】 【以下は全て転載内容】2021-02-22 ・私も典型的な花粉症である。毎年2月10日前後から鼻がぐずぐずして鼻汁がとても出る。今年は早めに行きつけの内科の医師に処方してもらった薬のおかげかそれほどひどくはないとはいうものの。もっとも今年は暖かい日もあるので、いずれひどい花粉症の症状に悩まされるであろう。40歳すぎからの花粉症とのつきあいであり、はじめは花粉症という言葉も知らなかったので、風邪にかかったと思っていた。もっとも熱は出ない風邪だが。hey feverという語がヨーロッパにはあることをそのころ知ったのだが、これが日本での花粉症にあたるとは知らなかった。物理学者のハイゼンベルクが若いときからアレルギーに悩まされており、1925年の5月にもひどいHeyfeverにかかった。それでついていた先生のボルンに休暇をもらってHelgoland島に逃避の旅行に出かける。ここで、ハイゼンベルクは量子力学の端緒となるアイディアをつかんで、それをすぐに論文にまとめる。これを読んだ先生のボルンはそこで使われた数学が奇妙であることに悩むが、それはボルンが若い大学生のとき数学で学んだマトリックスであることに気がつく。そして、ハイゼンベルクの論文を発展させる論文を学生のヨルダンと論文を書く。その後休暇から帰ってきたハイゼンベルクと3人でいわゆる三者論文 (drei M”annerarbeit) を書く。これが行列力学と呼ばれた、量子力学のはじまりであった。これは1925年のことである。年が明けて1926年にはド・ブロイの発想に触発されたシュレディンガーの波動力学と呼ばれた、また別の量子力学の論文が発表されることになる。天才は数学だって必要とあれば創り出す。ハイゼンベルクは行列の算法をそれが数学としてすでにあるということを、知らずに発明したのであった。ボルンとかシュレディンガーとかは40歳代であったが、他のハイゼンベルク、ヨルダンとか、また行列力学でも波動力学でもない独自の量子力学を発展させたイギリス人の若い学者ディラックもハイゼンベルクの一年先輩の物理学者パウリもみんな20歳代の前半の研究者であった。それで量子力学はKnabenphysik(少年の物理学)と呼ばれた。ちなみにKnabenは雅語であり、普通の日常生活で話される言葉としてはKnabenという語は使われない。日常での若者という意味のドイツ語はJungeである。いうならば、Knabenはゲーテの詩に出てくるような語である。〆【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 最近は全てに返事が出来ていませんが 問題点に対しては 適時、返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2025/11/09_初版投稿サイトTOPへ
2025年11月9日2025年11月9日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残すコンプトン効果を連立方程式の問題にしたら 【2020-12-02_シルビィアの量子力学_ウラン235】 (以下は全て転載内容)2020-12-02・以前から考えておりながら、なかなか実現しないのが高校数学の連立方程式の練習問題に、コンプトン効果のX線の波長のずれの計算をいれたらどうかと思っている。これは朝永の『量子力学 I』(みすず書房)にこのテーマが取り上げられており、昔一生懸命計算した覚えがある。なかなか計算ができなかったと思う。以前に購入していた『シルヴィアの量子力学』(岩波書店)があるのに日曜に気がついて、その個所だけを読んでみた。面倒そうな式がたくさん出てはいたけれど、それほど難しい計算ではない。どうしてこの問題が難しいと思ったのかはわからない。どうも数学では単に練習問題として出題される無味乾燥な問題が多いが、物理的にも意味のある演習問題であれば、解く人も身が入るのではなかろうかと思う。実は大学を定年退職した後の2年ほどはそういう方式のe-Learningのコンテンツをつくっていた時期があった(注1)。このe-Learningのコンテンツは高校程度だが、理系の大学生で落ちこぼれそうになった人を救うという名目でつくっていた。だが、このe-Learningのコンテンツには三角関数が全く入っていないので、そこを何とかしたいと思いながら、まだうまく三角関数の部分が書けていない。前につくっていた、e-Learningのコンテンツで中性子と原子核との衝突の問題を演習問題として取り上げたことがある。その問題を見て、技術者だった義弟が関心をもってくれた。これは中性子は水の原子と衝突して熱中性子になるための衝突回数だったかに関係している。現在の原発の中性子の減速材としては普通の水を使っている(注2)。どうも原子力だとかだと今はちょっと時代遅れの技術的な問題であるが、80年前くらいはホットな問題であった。(注1)これは私が80歳を越えていて、高校生のことを考えてはいないことの反映である。長い老後生活を楽しむために高校数学だって学んだら、興味深いのではないかという気持ちが強いからである。現役の高校生さん、すみません。現役のときにはこういう楽しさはわからないのは仕方がない。(注2)普通の水と普通でない水があるのかということだが、重水というのがある。これは陽子の代わりに重陽子D_{2}Oでできた水である。高速中性子の減速材としては普通の水(軽水)よりも中性子の衝突回数が少なく熱中性子になる。それで原子炉の減速材として重要視された(注3)。第2次世界大戦中にノールウェイに重水工場があったが、ここをナチスドイツが差し押さえたというので原爆開発をし始めるのではないかという恐れをもった連合国がこの重水工場を襲撃するという映画がある。タイトルは「テレマークの要塞」だったと思う。本当にあった話かどうかは知らない。重水は原爆の材料に直接になることはないと思うが、一般の人は原爆の材料と聞くと納得してしまうところがあるだろう。あくまで原子炉の減速材としての役割だと思う。もっともその原子炉を動かしてプルトニウム239をつくれば、このプルトニウムは原爆の材料になる。日本でも原子炉がたくさん原発での稼働していたので、プルトニウムが蓄積している。これは原爆の材料となる。それで日本の多量のプルト二ウムの蓄積は国際的には日本は原爆をつくるのではないかと、大いに危険視されている。(注3)ウラン235は核分裂するが、これは速度がおそい熱中性子といわれるものによる核分裂の断面積が大きい。天然のウランの99.3%はウラン238でこれは核分裂しない。だが、この多量にあるウラン238が中性子を1個吸収してプルトニウム239となると、これは高速の中性子によって核分裂する。だから、原子炉の中にある一定の割合でプルトニウムを混ぜて高速中性子で核分裂を起こさせることが考えられた。これは普通にはプルサーマルと呼ばれている。こうして蓄積したプルトニウムを消費しようと試みられている。ところが熱中性子による原子炉の制御に比べて高速中性子による原子炉の制御は難しいと言われており、それで原発への信用度が下がっているのが、現状である。原発の燃料のウラン235を燃やした(化学反応で燃やす燃焼とはちがう)後の核廃棄物の半減期が数万年とかと言われているので、この核廃棄物を安全に2万年も保管するかということが問題になるのだが、これはまだまったく技術的に解決していない。特に日本ではどうしたらいいかいいアディアがない。普通に考えられているのは核廃棄物をガラス状に焼結させて、地下深くに貯蔵することである。しかし、その2万年の間にその放射能に汚染された地下水がでて来ないという保証は誰もできない。原発はトイレ無きマンションだと言われる所以である。〆【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 最近は全てに返事が出来ていませんが 問題点に対しては 適時、返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2025/11/09_初版投稿サイトTOPへ
2025年11月9日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す小説『カード師』 【2020-06-09‗二重スリット_外村彰】 2020-06-09・小説『カード師』は朝日新聞に現在連載中の新聞小説である。作者は中村文則さん。 カード師の私の体験を書いている小説だが、ある人の遺書を私が読んでいるというところらしい。 らしいとしか言えないのは私にはちょっと面倒な設定であるので、途中から読むのを諦めたからである。 ところが今日は光とは電子とかの波と粒子の2重性の話が出てくる。これは量子力学をまじめに学ぶ人は一度は聞くテーマである。 いわゆる二重スリットの話といえば、ああ、あの話なのと分かるくらい有名な話である。もっとも一般の人にこの話がどのくらいわかるかはわからない。 朝永振一郎さんのエッセイにこれを簡明に説明したエッセイがあった。「光子の裁判」というタイトルだったか。 光は波と思われていたが、これが粒子性をもつものであることは光電効果かとかCompton効果からわかってきた。それで20世紀初頭にこの光の2重性の解釈に物理学者は苦しむことになる。 古典物理学的に言うと粒子であるものは波動であるとはいえないし、波動であるものは粒子であるとはいえない。だが、量子力学では光とか電子はその両者の性質をもつものとしてとらえる。 それはどういう実験的観測をするかによる。粒子としての位置を測定すると、それは粒子性を示すし、光の運動量をきっちり定めようとする実験をすると波動性が得られる。だったかな? 光は波動でも粒子でもない、両方の性質を併せ持つものであるという理解である。これは古典物理学の範疇ではその両方の特性をあわせもつことなどできないが、量子力学ではそれが可能である。いわゆる弁証的統合的理解が必要である。 いわゆる、2重スリットでは2重スリットのところで光の位置を観測しないかぎり波として振る舞う。ここを通過した後で光を粒子として観測したときにはその過去が変えられるという風に小説では書いてあったが、2重スリットのところでは何の観測もしていないならば、それは波であったのか粒子であったのかは判定することが出来ないという風に考えると理解している。 この話は何十年も量子力学の講義をした来た私にもわからない。 私のいまの理解では波としての性質は確率波として理解しており、1個1個は粒子性をもっているのではないかと思っていたが、それも私の思い込みで観測しないときには光が粒子性をもっていたか波動性をもっていたかは何も確定的にいうことができないというのが公式の見解であろう。 こういう事実を目に見えるように実験してくれたのが亡くなった、外村彰さんであった(注)。 光の粒子は一個一個粒子のようにスクリーン(または写真フィルム)上にやってくるが、それが長時間露光されていると、波動的なふるまいの光の干渉縞が観測される。 (注) 外村彰 『目で見る美しい 量子力学』(サイエンス社)は量子力学のテクストとしてはあまり数式の多くない写真の多いすばらしいテクストである。特に66-67ぺージの写真が今回の内容と関係している。この本の価格も2,800円とリーゾナブルである。