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リーゼ・マイトナー
【Lise Meitner_静かなる天才が刻んだ核物理学の礎】-1/28改訂

こんにちはコウジです。
半年ごとの既存記事見直しの作業です。
今回は中世19世紀に概念・手法を確立していった偉人を紹介します。
では、ご覧ください。内容を整理し、リンクを見直しました。
現時点での英訳も考えています。
(以下原稿です)

R・マイトナー
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【Lise Meitner、1878年11月7日 – 1968年10月27日】

Wikimedia Commons:File: Lise Meitner.jpg
出典:Österreichische Nationalbibliothek

ユダヤ系オーストリア人のマイトナー

リーゼ・マイトナーは、原子核分裂の発見に深く関わりながらも、
ナチス政権下の亡命で、歴史からその名を一時消された科学者です。

彼女はオットー・ハーンとの共同研究を通じて、
ウランが中性子で分裂する現象を理論的に解明しました。

しかし、功績は認められず、ノーベル賞も彼女を素通り。
女性であり、ユダヤ人という立場が壁となりました。
それでも彼女は科学の誠実さを貫き続け、
晩年にはようやく世界が彼女の偉業に気づき始めました。

静かに、しかし確かに世界を変えたマイトナーの人生は、
科学への真摯な姿勢と、困難な時代を生き抜いた強さの象徴です。

リーゼマイトナーの幼少時代ー音楽と政治の家に生まれー

リーゼ・マイトナーは「核分裂」という概念を初めて名づけた、
物理学界のパイオニアです。しかしその才能は、音楽と
政治に囲まれたウィーンの家庭で静かに芽吹いていました。
女性に高等教育の道が閉ざされていた19世紀末、
彼女は困難を乗り越え、自らの好奇心と粘り強さで
科学の世界へと飛び込んでいきます。


ユダヤ系家庭に育った少女の知的な環境

リーゼはウィーンで、弁護士の父とピアニストの母のもとに
生まれました。家は経済的に恵まれてはいませんでしたが、
音楽と知性にあふれた家庭環境でした。父は政治的にも
積極的で、作家や思想家を家に招くことも多く、
家族はまるで小さな文化サロンのような生活を送っていました。


女性に学問の道が閉ざされた時代の葛藤

当時のオーストリアでは、女性はギムナジウム(大学進学
を前提とした中等教育)に進むことができませんでした。
リーゼも例外ではなく、高等小学校にしか進学できませんでした。
それでも彼女は自然科学への情熱を持ち続け、
逆境のなかで知識を吸収し続けます。


核物理学への第一歩、そしてドイツへ

リーゼは努力を重ね、最終的にはウィーン大学で博士号を取得し、
1907年にはベルリンへ。そこから核物理学の世界に飛び込み、
放射線研究や新元素の発見、さらには「核分裂」
の命名という歴史的功績に至ります。

ベルリンでは約30年間研究に没頭しましたが、
ナチスの台頭により、やがて亡命を余儀なくされます。

物理学への道のりー偉大な師ボルツマンとの出会いー

リーゼ・マイトナーが物理学の道へ進む決断を下す
きっかけとなったのは、ウィーン大学で出会った
ルートヴィッヒ・ボルツマンの講義でした。
女性の進学が困難だった時代、彼女は
情熱と努力によって道を切り開いていきます。


教職の道を選びつつ、心は物理学へと傾いていた

高等小学校を卒業したリーゼは、当時女性でも就ける
数少ない職業のひとつであるフランス語教師を目指し
、試験に合格して収入を得ました。しかし彼女の心は、
なおも学問に強く惹かれていました。ちょうどその頃、
女性の大学進学を求める社会的な動きが高まり、
1897年には「マトゥーラ」と呼ばれる資格試験に
合格すれば女性にも入学が認められるようになります。
家族の支援を受け、彼女は再び学問の道に歩み始めました。


人生を変えたボルツマンの講義との出会い

1902年、ウィーン大学に赴任した熱力学の権威
ルートヴィッヒ・ボルツマンの講義は、
マイトナーの運命を大きく変えることになります。

彼の講義は情熱とユーモアにあふれ、聴く者を
魅了しました。マイトナーも例外ではなく、
熱心に通い詰め、後年になっても
「人生で最も感動を受けた講義だった」
と語っています。この出会いが、
彼女に物理学者としての道を決意させたのです。


博士号取得と進路の不安、そしてウィーンを離れる決意

1906年、リーゼ・マイトナーはウィーン大学で博士号を取得。
物理学で女性としては2人目の快挙でした。放射能の研究
に興味を持ち、α線やβ線の研究を行い論文も発表します。
しかし、指導者ボルツマンの自死や、マリ・キュリーへの
助手志願の不成立など、将来への不安が彼女を襲います。
ウィーンでは女性研究者としての展望が見えず、
彼女はついにドイツ・ベルリンへの移籍を決断するのです。

プランクとの出会い、そして戦争の中で見つけた使命

ウィーンからベルリンへ—マイトナーは物理学への情熱を胸に、
ヨーロッパ科学の中心地に飛び込みました。そこでは、偉大な理論物理学者
マックス・プランクとの出会い、信頼できる研究仲間オットー・ハーンとの
運命的な邂逅、そして戦争に翻弄されながらも科学者としての使命を
見出していく日々が待っていました。


プランクとの再会がもたらした新たな学び

1907年、リーゼ・マイトナーはベルリンへと旅立ちました。目的は、
かつて一度会ったことのある物理学の巨匠、マックス・プランクの
講義を受けること。ベルリン大学でのプランクの講義は、最初こそ
「ボルツマンに比べて無味乾燥」と感じたものの、
次第に彼の人間性に惹かれていきます。

プランクはマイトナーを自宅に招くなど親しく接し、
彼女もまたプランクの誠実な人格を深く尊敬するようになりました。


オットー・ハーンとの出会いと地下から始まる研究生活

研究の場を求めていたマイトナーは、実験物理学研究所の所長ルーベンスの紹介で若き化学者オットー・ハーンと出会います。年齢も近く、気さくなハーンに、マイトナーはすぐに心を開きました。しかし、当時はまだ女性の研究者が施設に立ち入ることが許されず、二人は研究所の地下にある木工作業所でひっそりと実験を始めることになります。

それでも二人はめきめきと成果を上げ、やがて1912年に設立されたカイザー・ヴィルヘルム研究所に移籍。最初は無給の客員研究員としてのスタートでしたが、プランクの計らいで助手に任命され、ようやく32歳にして安定した収入を得ることができました。1913年には正式な研究員に昇格し、キャリアは軌道に乗り始めます。


戦争がもたらした試練と科学者としての使命感

1914年、第一次世界大戦が勃発し、オットー・ハーンは予備兵として前線へ召集されます。マイトナーは一人ベルリンに残り研究を続けますが、翌年、自らもオーストリア軍のX線技師として戦地ポーランドに赴くことを決意。負傷兵の治療に携わり、戦争の悲惨さを目の当たりにします。

しかしやがて彼女は、「本当に自分が役立てる場所はここではないのではないか」と疑問を抱くようになります。科学者としての責任感が再び彼女を突き動かし、「私に与えられた義務は、カイザー・ヴィルヘルム研究所に戻ること」だと確信するに至ります。戦地での活動を経て、彼女は再び研究の最前線へと戻っていくのでした。

業績を積むマイトナー:研究者としての飛躍と試練

第一次世界大戦中も研究を続けたマイトナーは、1918年に新元素プロトアクチニウムを発見するという成果を上げました。この功績により、同年にはカイザー・ヴィルヘルム研究所の核物理部の責任者に任命され、ようやく安定した収入を得られるようになるのです。1920年にはハーンとの共同研究が終了し、マイトナーは独立した研究者として歩み始めました。さらに1922年には、女性にも大学教授の道が開かれたことにより、論文審査を免除されてベルリン大学の教授に就任。実力で道を切り開いた快挙であったのです。

ナチス政権下での苦悩と孤立

しかし1933年、ナチス政権の台頭によって研究環境は一変します。所長フリッツ・ハーバーの辞職に続き、マイトナーも教授職を失ったのです。オーストリア国籍であったため直ちには排除されなかったが、周囲の助言と過去の業績への執着から、彼女はドイツにとどまることを選びます。55歳という年齢もあり、築き上げたキャリアを捨てての亡命には踏み切れなかったのです。

ウラン研究と再びの共闘

1934年、エンリコ・フェルミによるウランへの中性子照射実験に関する論文を読み、マイトナーは再び好奇心に火をつけられます。物理と化学の融合が必要と考えた彼女は、旧友であるハーンに共同研究を持ちかけ、快諾されるのです。こうしてマイトナー、ハーン、そして助手のシュトラスマンとのトリオによる研究が始動。しかしその最中、オーストリアはドイツに併合され、マイトナーも正式にナチス体制下に置かれます。党員からの圧力も高まり、ついには「研究所の秩序を乱す存在」として辞職を迫られる。マイトナーは深く傷つき、「私を見殺しにした」とハーンに対して悲しみを吐露したのです

命がけの決断:マイトナーの亡命劇

迫るナチスの影と脱出の決意でした。

1938年、オーストリアの併合によりマイトナーはナチス政権の直接支配下に置かれます。身の危険を感じた彼女は、親交のあるパウル・シェラー(スイス)、ニールス・ボーア(デンマーク)、ジェイムズ・フランク(アメリカ)から亡命の誘いを受ける。とりわけ甥のフィリッシュもいるデンマーク行きを希望したが、すでにオーストリアのパスポートは無効とされ、出国は困難を極めた。新たな旅券もヒムラーの指示で却下され、マイトナーは完全に追い詰められました。

救いの手と行き先の選択

そんな折、オランダの物理学者ディルク・コスターが救援に動くのです。資金を集め、職探しまで申し出た彼は、マイトナーを直接迎えにベルリンへ赴きます。一方、スウェーデンのマンネ・シーグバーンの研究所からも受け入れの提案があり、マイトナーは最終的にスウェーデンでの再出発を決意する。生きるために、そして研究を続けるために。

偽装旅行と命懸けの脱出

1938年7月12日、ハーンから形見の指輪を受け取ったマイトナーは、「休暇旅行」を装いベルリンを後にする。翌日、コスターとともに列車でオランダへ向かうが、途中でナチスの国境警備隊に期限切れのパスポートを検分され、車内は緊張に包まれた。奇跡的に追及を免れた彼女は、無事にオランダ・フローニンゲンに到着。その後スウェーデンへと渡り、亡命生活を開始する。命からがらの脱出の裏で、ハーンとシュトラスマンによる実験は続き、マイトナーとは手紙でやり取りが続けられた。

亡命先でも輝いた知性:研究を続けるマイトナー

一通の手紙から始まった歴史的発見

1938年、スウェーデンに身を寄せていたマイトナーに、旧友ハーンから驚きの手紙が届く。「ウランに中性子を照射すると、なぜかバリウムが現れる——これは一体何なのか?」。その異常な実験結果は従来の物理学の枠組みでは説明がつかず、甥のフリッシュも当初は実験ミスを疑いました。しかしマイトナーは「ハーンがそんな初歩的な誤りをするはずがない」と語り、二人は慎重に理論的検討を重ねたのです。やがて彼女は、ウラン原子核が中性子を受けて二つの原子核に裂ける現象であることを突き止めることになります。

ハーンとシュトラスマンが「実験によって分裂を発見」し、マイトナーとフリッシュが「理論的にその意味を解明し、“核分裂(fission)”と名づけた」。

この実験と理論の結合こそが、人類が初めて原子核エネルギーの扉を開いた瞬間だった。

科学者としての倫理、爆弾との距離

核分裂の発見は、後に原爆開発へとつながっていく。だが、マイトナーは一貫して兵器開発への関与を拒否する。1943年、イギリスの科学者から協力を求められたときも、彼女は「爆弾に関わるつもりはありません」ときっぱりと断った。人類のための科学と、破壊のための科学の間で、彼女は明確な一線を引いた。発見者でありながら、破壊には手を染めなかったマイトナーの姿勢は、今も多くの科学者に問いを投げかけ続けている。

戦後の再会、そして決別

1946年、マイトナーは一時的にスウェーデンを離れ、客員教授としてアメリカに滞在したのち帰国。同年12月にはノーベル賞授賞式のためストックホルムを訪れたハーンと再会する。しかし、戦後のドイツをどう見るかで2人の意見は激しく対立。ハーンは祖国支援を訴えたが、マイトナーは「科学者たちはヒトラー政権に十分に抵抗しなかった」と厳しく指摘した。彼女はドイツに戻ることを拒み、生涯を通じて“人間としての責任”と“科学者としての良心”を貫いたともいえます。そしてハーンは彼の立場で祖国につくし、ハーンの良心に従い語っていたのです。それぞれ人生を背負って語っていたのです。

原子核の研究

マイトナーはプロとアクチュニューム・ベータ崩壊・核分裂の分野で
大きな成果を上げています。

〆最後に〆

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(2025年4月時点での対応英訳)

Jewish Austrian Scientist: Lise Meitner

(Lise Meitner, November 7, 1878 – October 27, 1968)

Lise Meitner was a scientist whose name was, for a time, erased from history due to her exile under the Nazi regime, despite her deep involvement in the discovery of nuclear fission.
Through her collaborative research with Otto Hahn, she theoretically explained the phenomenon of uranium splitting when struck by a neutron.

However, her achievements went unrecognized—she was passed over for the Nobel Prize.
Being both a woman and Jewish became insurmountable obstacles.
Even so, she remained steadfast in her scientific integrity, and in her later years, the world finally began to acknowledge the significance of her work.

Meitner’s life, which quietly yet undeniably changed the world, stands as a symbol of sincere devotion to science and the strength to endure a difficult era.


Lise Meitner’s Early Life — Born into a Home of Music and Politics

Lise Meitner was the first to name the concept of “nuclear fission,”
a true pioneer in the field of physics.
Yet her remarkable talent quietly blossomed in a Viennese household surrounded by music and political discussion.
In the late 19th century, when women were largely denied access to higher education,
she overcame these barriers through determination and curiosity,
leaping into the world of science on her own terms.

The Posthumous Legacy of Galois: Rediscovering a Lost Genius

Summary:
After Galois’s untimely death, his work and life were largely misunderstood. Over time, key figures revived his lost manuscripts and brought his groundbreaking ideas back into the spotlight, laying the foundation for modern algebra.

Revival Through Posthumous Publications

After Galois’s death, his friend Chevalier followed his will and, in 1832, published a “necrology” of Galois’s work in the Revue Encyclopédique. Together with his brother Alfred, Galois’s surviving papers were sent to several prominent mathematicians. Initially, however, no one could grasp their true meaning. Eventually, one of the copies reached Joseph Liouville, who dedicated himself to understanding the work and finally published it in his journal, Journal de Mathématiques Pures et Appliquées, in 1846. Liouville later suggested that the reason Galois’s work was unappreciated during his lifetime was due to an overly terse attempt at summarizing its significance.

Lectures and Comprehensive Expositions

Between 1855 and 1857, Richard Dedekind delivered the first lectures on Galois theory at the University of Göttingen. Later, in 1870, Camille Jordan published a monumental 667-page treatise, Traité des Substitutions et des Équations Algébriques, which remains the earliest comprehensive exposition of Galois theory. In his preface, Jordan humbly described his work as “nothing more than annotations on Galois’s papers,” highlighting both the depth of Galois’s original insights and the ongoing need to elucidate them.

Biographical Remembrances and Lasting Recognition

In 1848, an anonymous short biography of Galois appeared in the illustrated magazine Magasin Pittoresque, accompanied by a portrait drawn from the memories of his brother Alfred. Later, in 1872, Galois’s mother passed away at the age of 84, marking another poignant chapter in his personal history. Finally, in 1897, The Complete Works of Galois was published with a preface by Émile Picard, cementing his status as one of the founding figures of modern algebra.

Jewish-Austrian Intellectual Upbringing

Lise was born in Vienna to a lawyer father and a pianist mother. Although her family was not financially well-off, her home was filled with music and intellectual atmosphere. Her father was also politically active and often invited writers and intellectuals into their home, making their household resemble a small cultural salon.

The Struggles of an Era When Women Were Denied Education

In Austria at that time, women were not allowed to enter the gymnasium (a type of secondary education intended for university preparation). Lise was no exception; she was only able to attend a higher elementary school. Even so, she maintained her passion for the natural sciences and continued to absorb knowledge despite the adversities.

The First Step into Nuclear Physics and the Move to Germany

Through relentless effort, Lise eventually earned a doctorate from the University of Vienna and moved to Berlin in 1907. There, she plunged into the world of nuclear physics—conducting research on radiation, discovering new elements, and even naming the phenomenon “nuclear fission.” Although she dedicated nearly 30 years to research in Berlin, the rise of the Nazis eventually forced her into exile.

Meeting Otto Hahn and the Underground Beginnings of Meitner’s Research Life

Lise Meitner, in her quest for a place to conduct research, was introduced by the director of the Experimental Physics Institute, Lüben, to the young chemist Otto Hahn. Their similar ages and Hahn’s friendly demeanor quickly won her trust. However, as women researchers were not yet allowed to work in the main facilities, they had to start their experiments quietly in the woodworking workshop located in the institute’s basement.

The Meeting with Otto Hahn and Underground Research

Seeking a research venue, Meitner met Otto Hahn through an introduction by Lüben, the institute’s director. Being close in age and with Hahn’s approachable nature, Meitner immediately opened up to him. Yet, at that time, female researchers were not permitted to access the main facilities, so the two began their experimental work in a secluded basement woodworking shop.

Trials of War and a Renewed Sense of Duty

In 1914, with the outbreak of World War I, Otto Hahn was conscripted as a reservist and sent to the front lines. Meitner, remaining alone in Berlin, continued her research. The following year, she decided to join the Austrian army as an X-ray technician and went to the battlefields in Poland, where she witnessed firsthand the horrors of war. Eventually, she began to question whether she was truly able to make a difference in that environment. Driven by her sense of responsibility as a scientist, she resolved that her duty was to return to the Kaiser Wilhelm Institute, and after her experiences on the battlefield, she resumed her work at the forefront of research.

Advancing Her Career Amidst Challenges

Even during World War I, Meitner persisted with her research and, in 1918, made a groundbreaking discovery of a new element, protactinium. This achievement led to her appointment as the head of the nuclear physics division at the Kaiser Wilhelm Institute, finally providing her with stable income. In 1920, after concluding her collaborative work with Hahn, Meitner began to forge her own path as an independent researcher. Furthermore, in 1922, with new opportunities for women in academia, she was exempted from the usual paper reviews and was appointed as a professor at the University of Berlin—a remarkable achievement that she earned through her own merit.

Struggles Under the Nazi Regime

In 1933, the rise of the Nazi regime dramatically changed the research environment. Following the resignation of Fritz Haber, Meitner also lost her professorship. Although her Austrian nationality initially spared her immediate exclusion, the persistent pressure from her peers and an overreliance on her past achievements led her to remain in Germany. At the age of 55, she found herself unable to abandon the career she had so painstakingly built, ultimately deciding against emigration despite the mounting challenges.

Uranium Research and Renewed Collaboration

In 1934, after reading Enrico Fermi’s paper on neutron irradiation experiments on uranium, Meitner’s curiosity was once again ignited. Believing that a fusion of physics and chemistry was necessary, she approached her old friend Hahn for a joint research project, and he readily agreed. Thus, the collaborative research of Meitner, Hahn, and their assistant Strassmann began. However, during this time, Austria was annexed by Germany, and Meitner was formally placed under Nazi rule. With mounting pressure from party members, she was eventually forced to resign as she was labeled a “disruptive element” within the institute. Deeply hurt, she lamented to Hahn, “You left me to die.”

A Life-or-Death Decision: Meitner’s Flight

In 1938, following Austria’s annexation, Meitner found herself under direct Nazi control. Sensing imminent danger, she received asylum offers from her acquaintances Paul Scheller (Switzerland), Niels Bohr (Denmark), and James Frank (USA). She particularly hoped to go to Denmark, where her nephew Philisch resided, but her Austrian passport had already been declared invalid, making departure extremely difficult. Moreover, a new travel document was rejected on the orders of Himmler, leaving her completely cornered.

A Helping Hand and the Choice of a New Path

At that critical moment, Dutch physicist Dirk Koster stepped in to help. He gathered funds, offered to help her find employment, and even went to Berlin personally to pick her up. Simultaneously, an offer of acceptance came from the research institute of Manner Seigbourn in Sweden, and Meitner ultimately decided to make a fresh start in Sweden—for the sake of survival and to continue her research.

Disguised Travel and a Daring Escape

On July 12, 1938, after receiving a memento ring from Hahn, Meitner left Berlin under the guise of taking a “vacation.” The following day, accompanied by Koster, she boarded a train bound for the Netherlands. Along the way, Nazi border guards inspected her expired passport, and the train atmosphere grew tense. Miraculously, she evaded further scrutiny and safely arrived in Groningen, Netherlands. Soon after, she traveled to Sweden, where she began her life in exile. Despite the desperate circumstances, experiments by Hahn and Strassmann continued, and Meitner maintained regular correspondence with them.

A Historic Discovery from a Fateful Letter

While in Sweden in 1938, Meitner received a startling letter from her old friend Hahn: “When uranium is bombarded with neutrons, for some reason, barium appears—what on earth is happening?” Although her nephew Philisch initially suspected a measurement error, Meitner confidently replied, “Hahn could never have made such a rudimentary mistake.” Gradually, they deduced that this phenomenon was the fission of the atomic nucleus and, together, they were the first in the world to define the term “fission.”

Ethics as a Scientist, the Distance from Bombs

The discovery of nuclear fission later paved the way for atomic bomb development. However, Meitner consistently refused any involvement in weapons research. In 1943, when British scientists sought her collaboration, she firmly replied, “I have no intention of getting involved with bombs.” She drew a clear line between science for the benefit of humanity and science that leads to destruction. Even as the discoverer, her refusal to contribute to destructive purposes continues to challenge many scientists to this day.

Post-War Reunion and Final Separation

In 1946, Meitner temporarily left Sweden to serve as a visiting professor in the United States before returning home. In December of that year, she met with Hahn, who had come to Stockholm for the Nobel Prize ceremony. However, their views on post-war Germany sharply diverged—Hahn advocated supporting his homeland, while Meitner sternly criticized, “The scientists did not resist the Hitler regime sufficiently.” Consequently, she refused to return to Germany, steadfastly upholding her sense of responsibility as a human being and her conscience as a scientist throughout her life.

Advancements in Nuclear Physics

Meitner made significant contributions in nuclear physics, achieving major breakthroughs in the studies of actinium beta decay and nuclear fission.

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今後の更新方針について【①TOPICで個別人物②固定記事③投稿記事を拡充】

人物第一

先ず本稿はあくまで、このブログに対しての方針ですので
ご関心のない方は読み飛ばしてください。そんな内容です。
定期購読者の方に対してのメッセージなのです。
【ご意見を頂ければ幸いです。】
本稿は本ブログの今後の進め方を出来るだけ明確にしたい
という目的のもとに書いていきます。主題は「人物」です。

私にとって更新は目的へのステップです。
具体的には
「科学史を通じて考える事の楽しさを伝え、
少しでも各人の理解を進める手助けをして、
私自身も物理の理解を深めたい」 のです。

そんな私が愛すべき物理学者達を出来るだけ
本人に近い形で伝えていきたいと思っている
のです。人物の記載中心で地道に進めます。
そうした観点での投稿です。

固定記事の定期更新

忘れてはいけないと考えていることは
今まで伝えてきた記事の更新です。

書きっぱなしにするのではなくて内容を吟味し直す
作業を続ける事によって、色々なタイミングでの
視点から文章を見直し、補足できる内容がないか
考えていきます。

Topic記事を投稿に関連

上記の固定記事を考えてみたら、(私の観点で考えたら)
未来永劫にも更新を続ける機会を持ちたいと思います。
私が他界したらブログ自体は姪っ子か娘にあげます。

個別の物理学者に対して何時も知識をリフレッシュして
新しい情報を追加していきたいのです。その為には期毎の、
あるいは半年毎の更新が望ましいと思いつつ今に至ります。

最近読んだ本の中でエーレンファストが死の数日前に
涙ながらにディラックに語りかける場面がありました。
そうした小さな感情の場面を残す手立てが欲しいです。

また、関連事項、関連人物がどんどん出てきてくる事態は
嬉しいと言えば嬉しい状況なので盛り込みたいです。

そこで、Topic記事や書評記事を個別人物にリンクさせて
いこうと考えました。色々な記事は全て個別人物の更新時に
あわせて更新します。

具体的な更新計画

最後に(予告編的として)今後の計画を明示します。

3/20・今後の更新方針について(TOPICを個別人物に対応)
3/21・イギリス関係のリンク更新
3/22・記事の更新頻度に関して
3/23・オランダ関係のリンク更新
3/24・記事の相互リンクに対して
3/25・ドイツ関係のリンク更新
3/26・日本関係のリンク更新
3/27・フランス関係のリンク更新
3/28・Indexされな記事に対して更新
3/29・舞台別のご紹介の更新
3/30・ひも理論と現代の理解
3/31・時代順のご紹介更新

4月以降は時代別の更新再開です。

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以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
問題点には適時、返信・改定をします。

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2023/03/20_初回投稿

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【2021/03/18投稿_9/24改定】今後のサイト運営_特にツイッターと英訳

OJISAN

春に運営方針を決め改定を続けていますが、

ここでチェックをかけます。ご覧下さい。

【以下元原稿と追記です】 

 

春もどんどん進み暖かくなる今日この頃、季節変わりのタイミングで今後の運用方向を再度、考えてみたいと思います。内容はファンブログとSeeSaaとワードプレスで作成したブログの位置付けです。内容としては科学史に関するブログと生活の中での雑記なのです。 また、当ブログへのアクセスを増やしたいのでツイッターしてますが、4つのアカウントでフォロー制限受けてます。3/17(水)朝の時点で2日前とのフォロワー数と比べると、、、、 ①コウジ@kouji@SyvEgTqxNDfLBX_3167→3195_ ②バンドリ好き太郎@ev2Fz71Tr4x7b1k_2317→2361_ ③浩司@BLLpQ8kta98RLO9_2058→2075_ ④kouji kazeno@KazenoKouji_2147→2156_ ・合計で考えると4アカウント合計で_【9689⇒9787】 【合計で98垢/25単垢。9/15朝にまたフォロバで規制食らいましたので、こんなペースで小休止。】焦らず作業。【21/9/9追記@現時点では一万超えてます。営業マンが居るイメージでアクセス増に役立ってくれてます】

科学史のブログに関してはファンブログを全ての記事を残す書庫のような形で運用しています。それなので整理に従い、ワードプレスで作製したhtpps://wwwドメインのサイトでは固定ページに個別記事が残り、日々更新しているブログではトピック以外の記事は削除を進めています。トピック以外は一週間を目安に削除していく積りです。SeeSaaを対応したミラーサイトとして運用していましたが、最近更新を止めています。このミラーサイトは時期をみて全て英訳します。
【21/9/9追記@実際に英訳を始めていて、現在は19世紀の人物を英訳しています。外国からのアクセスも伸びています。削除も一週間を目途に進めています。トピックは整理しています。】
【22/9/24追記@トピックスの整理が進んでいて記事は年間10記事程度新規作成中_定期的に過去記事のリライトを心がけています。】

雑記はトピックスに残していますがファンブログ以外のサイトでは削除していきます。

斯様に考えて見やすいサイトを目指しますので、今後も宜しくお願い致します。

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2020/12/11_初稿投稿
2022/09/24_改定投稿

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【Topics】Indexされない問題の実例【このサイトで発生していて2022年度からは問題点だと考えています】_9/21改訂

こんにちはコウジです。「NoIndex」の原稿を改定します。投稿作業としては関連リンク、内部リンクの改定、個別の人物の追加をしています。今後もご覧下さい。また、ブログ宣伝でツイッター使います。
7/11(日)朝の時点でフォロワーは合計【11691】でした。半年後の2/9と7/3の時点で‗
①SyvEgTqxNDfLBX‗3385⇒3575‗②ev2Fz71Tr4x7b1k‗2717⇒3131
‗③BLLpQ8kta98RLO9‗2543⇒5477‗④KazenoKouji‗3422⇒6564
なので合計‗6102+5965=【12067@2/9】⇒6706+12041【19747@7/3】

作業としてフォロワー増は暢気に続けます。
それよりも紹介の内容を吟味します。【以下原稿です】

本稿はメモです(Noindexは問題です)

以前から気になっていて明文化できていなかった問題です。

Googleサーチ・コンソールに対して検索リクエストをした際に

「URL が Google に登録されていません」というメッセージが出て

その後、数か月後ににリクエストをしてもやはり同じメッセージ

が出てしまう問題です。私は2020年10月ごろから当サイトを運営していて

ドメインパワーも、そこそこ上がってきているので、今の私が

リクエストを受け付けてもらえないのなら、最近ブログを立ち上げた

人たちは尚更、この問題に問題を感じているのではないかと予想されます。

そんな関心からの記録です。

問題は文字数でしょうか。話題なのでしょうか。

具体的なIndexされないページの例

以下に当該メッセージの出た例を記載していき、

何か共通点・法則性が出てきたら纏め直して対応案を作ります。

オレンジに色を変えた部分は改善が出来ています。

ただ、結果的に「インデックスされている」という意味で問題解決

しているだけで「何が悪くてインデックスされないか」という

問題の本質が解決できていません。

デモクリトス・2022/3/22にGoogleへ再依頼⇒4/30にOK
コペルニクス・2022/3/24にGoogleへ再依頼⇒4/30に再依頼
アイザック・バロー・2022/04/01にGoogleへ再依頼
ベルヌーィ・2022/04/06にGoogleへ再依頼
エルステッド・2022/4/19にGoogleへ再依頼
フーコー・2022/4/30にGoogleへ再依頼
メイデンホール・2022/5/10にGoogleへ再依頼
マイケルソン・2022/5/16にGoogleへ再依頼
テスラ・2022/5/21にGoogkeへ再依頼
長岡半太郎・2022/02/24にGoogleへ再依頼⇒5/28にOK
中村清二・2022/06/01にGoogleへ再依頼
ヒルベルト・2022/06/06にGoogleへ初申請
M・ボルン・2022/03/10にGoogleへ再依頼⇒6/10にOK
ピカール・2022/06/12にGoogleへ再依頼
フォン・ノイマン・2022/04/02にGoogleへ再依頼⇒7/3にOK
H.A.ベーテ・2022/7/6にGoogleへ再依頼
エドワード・テラー・2022/7/8にGoogleへ再依頼
ランダウ・2022/7/9にGoogleへ再依頼
竹内均・2022/7/20にGoogleへ再依頼
ムツゴロウ・2022/03/03にGoogleへ再依頼⇒8/5にOK
益川敏英・2022/04/24にGoogleへ再依頼⇒8/8にOK
ホーキング・2022/4/25にGoogleへ再依頼⇒8/9にOK

Indexされない問題の要因と今後の対策

今回のIndexされない問題は、数j年来今話題になっている

「Google側のアルゴリズム対応」

が主因であると思われます。生活様式。情報習得様式が

大きく変化しているなかで、グーグルが対応に追われて、

個々のインデックスの優先順をつけて処理しているだけ、と言えます。

もっと言えば(Coolに考えたら)グーグルは昔と変わらないけれども

ネット社会が変わってきていて我々リクエストする側が

問題であると考えるようになってきているとも言えます。

定量的な指標として、検索リクエストしてから検索表示されるまでの時間

が明らかに定量化できる数字で、皆さんは昨今、その数字を問題視します。

状況としては直ぐに変わらないと思えるのでGoogleを超えた所で

ツイッターやコ・ワーキングスペースでの議題とするとか、

自分のブログから発信する仕組みを作るとかしていきたい

と考えています。

 

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以上、間違いやご意見があれば
以下アドレスまでお願いします。
問題点に対しては適時、
改定・訂正を致します。

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2022/02/24_初回投稿
2022/09/21‗改訂投稿

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【トピックス】語学関係の習得に関してと、物理学会での英語コミュニケーションについて_改訂

こんにちはコウジです。「語学関係」の原稿を改定します。投稿作業としては関連リンク、内部リンクの改定、個別の人物の追加をしています。今後もご覧下さい。また、ブログ宣伝でツイッター(現時点での名称は「X」)使います。
2022/7/11(日)朝の時点でフォロワーは合計【11691】でした。半年後の2/9と7/3の時点で‗
①SyvEgTqxNDfLBX‗3385⇒3575‗②ev2Fz71Tr4x7b1k‗2717⇒3131
‗③BLLpQ8kta98RLO9‗2543⇒5477‗④KazenoKouji‗3422⇒6564
なので合計‗6102+5965=【12067@2/9】⇒6706+12041【19747@2023/7/3】
⇒BLLpQ8kta98RLO9【8700@2024/10/30】

作業としてフォロワー増は暢気に続けます。
それよりも紹介の内容を吟味します。【以下原稿です】

英語にこだわっていた理由

このサイトでは第二外国語として

英語にこだわり、対応英訳を入れていました。

理由は明快で、日本における学術論文は英語で書き、

大学によっては物理のディスカッションも英語で行うからです。

歴史的に英語で記載するやり方が主流です。

私の英語は粗雑ですが何かを相手に伝えたいと

話し続けていることが大事なのです。そして内容修正。 

むろん、学術論文では不要な修辞語やあいさつ文は不要です。

その意味で学術論文は

英語学習の中でも特殊な文章といえるでしょう。

フランス語やドイツ語の魅力

一方で、医学ではドイツ語がつかわれ、古いお医者様は

ドイツ語でカルテを書いていました。関連機器メーカーも

ドイツ系のメーカーが強かった時代もありました。

私のブログの中での登場人物は多国にわたり、必ずしも英語で

議論をしていたか疑問に思える人々が多いです。

アルキメデス・ソクラテスの時代の人々は現地の言葉で話していて

英語で物事を考える土壌はなかったと思えます。

そこで、そんな国も人々のご紹介の際には英語の習得

に関するご紹介は意識して除いていこうと思います。

一方で文末につけている対応英訳は英語圏で

議論をする人が参照できるように残します。

別の考え方をすれば、ドイツ語やフランス語を習得できる

アフリエイトプログラムがあるといいですね。


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最近全て返事が出来ていませんが
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2022/02/09_初版投稿
2024/12/25‗原稿改訂

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【2020年度11月-トピック_改訂】
量子計算機実用化の波

こんにちはコウジです。「量子コンピューター」の原稿を改定します。投稿作業としては関連リンク、内部リンクの改定、個別の人物の追加をしています。今後もご覧下さい。また、ブログ宣伝でツイッター使います。
7/11(日)朝の時点でフォロワーは合計【11691】でした。半年後の2/9と7/3の時点で‗
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‗③BLLpQ8kta98RLO9‗2543⇒5477‗④KazenoKouji‗3422⇒6564
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それよりも紹介の内容を吟味します。【以下原稿です】

以下投稿の内容は
2020/11/11の日経新聞記載の情報メインです。

現代の情報だと考えて下さい。

 

量子コンピュータが企業活動の現場で
使われ始めてきました。事例として
キューピーでは惣菜工事の生産ライン
で最適なシフトを組む為に量子コンピュータ
を活用しています。今まで数百人のスタッフに
最適な勤務シフトを与えるのは大変な作業でした。
120種以上ある惣菜の品目に対して技量の
バラツキを考慮してシフトを与え現場に割り振ります。

キューピーでは現場を熟知した管理者が
30分以上かけてシフト配置をしていましたが
量子コンピュータを活用して一秒でシフト配置
を終える事が出来ています。導入メリットとして
時間短縮だけでなく不適切な配置に対する
ミスがなくなってきているという
利点も出ています。

現在、量子コンピュータはカナダのDウェーブ社
が先行して実用化していて、最適化問題に強い
メリットを享受しています。キューピーの事例
でも従来型コンピュータでは一日かかっても
最適拍位置が出来なかったのです。

また、日本郵便は配送ルートの最適化に量子コンピューターを使い
同僚の荷物に対して埼玉県での運搬量を8%減らせることを確認しました。
全国に展開すれば100億円規模のコストダウンにつながる見通しです。
デンソーはDウェーブの量子コンピューターでの制御により
無人搬送ロボットの稼働率を80%から95%まで向上させられるとしています。

ハイブリット英会話スタイルで伸ばす「アクエス」
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2020/11/11_初稿投稿
2022/09/18_改定投稿

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サイト立ち上げました【サイト運営方針再確認】_9/17改訂

こんにちはコウジです。「サイト立ち上げ」の原稿を改定します。投稿作業としては関連リンク、内部リンクの改定、個別の人物の追加をしています。今後もご覧下さい。また、ブログ宣伝でツイッター使います。
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なので合計‗6102+5965=【12067@2/9】⇒6706+12041【19747@7/3】

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本サイト立ち上げにあたり、2020年10月17日に

FanBlogで投稿した記事を残します。

初心に帰ってそれぞれのブログでの

位置付けを確認して今後も発展させていく所存です。

以後もご覧下さい。【以下原稿です】

ご覧頂いているサイトと連動する別サイト作りました。

新サイトです:https://www.nowkouji226.com/
【本サイトURL】

このサイト(ファンブロク)は最新の個別記事を記載して、
新しいサイト(WWWサイト)では包括的な纏め・検索
がし易いように作っていくつもりです。

また、その後の実態としてFANブログと

SEESAAブログが書庫の形で運営されてます。

それぞれのブログから本ブログへのリンクを設ける事で

ブログ界隈の需要を広く集める目的もあります。

別途、ツイッターを中心としたSNSでの世界も広げ、

其処との交流も図っていきます。ご覧下さい。

 


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2020/10/17_初稿投稿
2022/09/07_改定投稿

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トピック 室温超電動 _改訂
米ロチェスター大 高圧下

こんにちはコウジです。「超電導」の原稿を改定します。投稿作業としては関連リンク、内部リンクの改定、個別の人物の追加をしています。今後もご覧下さい。また、ブログ宣伝でツイッター使います。
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①SyvEgTqxNDfLBX‗3385⇒3575‗②ev2Fz71Tr4x7b1k‗2717⇒3131
‗③BLLpQ8kta98RLO9‗2543⇒5477‗④KazenoKouji‗3422⇒6564
なので合計‗6102+5965=【12067@2/9】⇒6706+12041【19747@7/3】

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科学史の観点からトピックスをお伝えします。
現在でも続いている物理学での進展です。

米ロチェスター大学のグループが室温超電導
を実現しました。2020年10月中頃に
ネイチャーに発表してます
。突然私も当時、
2020/11/02朝の新聞読んで知って、
びっくりしたのです。
一般人はびっくり。
基礎科学での現象実現と応用科学での応用技術の
確立迄には大きな壁があるのですが先ずは第一歩。

 

267万気圧という条件下でレーザーを使い
摂氏15℃での超電導状態を実現しています。

対象試料のサイズが数十マイクロメートル
の大きさだと言う事も気になります。
圧力条件も実用化の大きな壁でしょう。
とは言え、超電導状態の解明に向けた
大きな一歩と言える気がします。

特に、超電導では
現象発言時の温度を室温に近づけたいのです。

こうした事実の積み重ねはカメリー・オネス
の実験から始まりました。
絶対零度近くでの抵抗値損失は
再現性の高い事実で、その後、

アメリカで

ジョン・バーディーン

レオン・クーパー

ロバート・シュリーファー

によるBCS理論が提唱され現在に至ります。

 

私の研究時代にはイットリウムの系(YBCOの系)や
ランタンの系(RSCOの系)の酸化物で
高温を模索していました。

別途、青山大学の先生が
別種金属で高い転移温度を実現してます。

また、最近では東北大をはじめとするグループが「揺らぎ」
の考えを使って高圧下でより常温に近い現象発現を目指しています。今でも続いている追及です。

ほぼ室温超伝導を示す高圧下ランタン水素

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2020/11/02_初稿投稿
2022/09/16_改定投稿

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【トピック】
受勲について_改訂
【イギリスの叙勲・など】

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①SyvEgTqxNDfLBX‗3385⇒3575‗②ev2Fz71Tr4x7b1k‗2717⇒3131
‗③BLLpQ8kta98RLO9‗2543⇒5477‗④KazenoKouji‗3422⇒6564
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フランス人はエッフェル塔に名を残し、
イギリス人は勲章で名誉を称え爵位を授ける。
科学の歴史を整理していて私はそう感じます。

以下に気付く限りの叙勲を連ねますのでご参考に。


二代目コーク伯爵_
ロバート・ボイル

Sir Robert Boyle
_1627年1月25日 ~ 1691年12月31日


アイザック・ニュートン_Sir Isaac Newton

_1642年12月25日 ~ 1727年3月20日


ヴォルタ伯爵_アレッサンドロ・ジュゼッペ・

アントニオ・アナスターシオ・ヴォルタ

Il Conte Alessandro Giuseppe Antonio Anastasio Volta
_1745年2月18日 ~ 1827年3月5日(ナポレオン時代の叙勲)


マイケル・ファラデー_Michael Faraday

_1791年9月22日 ~ 1867年8月25日(叙勲を辞退)


初代ケルヴィン男爵_
ウィリアム・トムソン

William Thomson, 1st Baron Kelvin OM, GCVO, PC, PRS, PRSE
_1824年6月26日 ~ 1907年12月17日


第3代レイリー男爵_
J・W・ストラット

_John William Strutt, 3rd Baron Rayleigh
_1842年11月12日 ~ 1919年6月30日

J・A・フレミング
_Sir John Ambrose Fleming
_1849年11月29日 ~ 1945年4月18日


山川 健次郎男爵_1854年9月9日 ~ 1931年6月26日

 

J・J・トムソン_1856年12月18日~1940年8月30日


初代のネルソン卿__ラザフォード男爵_
アーネスト・ラザフォード

Ernest Rutherford, 1st Baron Rutherford of Nelson, OM, FRS,
_1871年8月30日 ~ 1937年10月19日

 

ブライアン・ハロルド・メイ_1947年7月19日~ご存命中

 

なお、ホーキング博士も大英勲章を得ていますが
爵位は受けていません。時の移り変わりでしょうか。

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2020/10/24_初回投稿
2022/09/15_改定投稿

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【2021/09/18初回投稿】今後のサイトの方向性についての問題点再考

このサイトも開設からそろそろ一年が

経とうとしていますが、段々と

読みやすくなってきていると自負しています。

ただ、課題もあるのでそういった点を

まとめていきたいと思います。

まず、記事だどんどん増えてきていますが、

其々の記事で次の物が求められます。

最低限のSEOを考えていくのです。

つまり、問題点は、

①文字数は最低でも3000文字欲しい。

満たせていない投稿が実際に1/3あると思えます。

②全ての項で小見出し「H2」が欲しい。

これは1/2以上の記事が未達です。

③他から独立した記事が出来てしまう。

特にトピックに注意します。

 

以上の問題を踏まえて今後は改善をしていき、

問題の少ないブログにしていきます。

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