2026年7月14日2026年7月4日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す山川 健次郎【後進を育てた日本物理学黎明期の先駆者・東大総長】‐7/14改訂 こんにちはコウジです。半年ごとの記事見直しです。 では、ご覧ください。内容を整理し、 主にリンクを見直しました。 現時点での英訳も考えています。 (以下原稿です)難しくない物理学 【スポンサーリンク】山川 健次郎【1854年9月9日生まれ ~ 1931年6月26日没】画像提供WikipediaCommons山川健次郎の人生山川 健次郎は日本人初の大学物理学教授です。その家は会津藩の家老家で戊辰戦争では 健次郎は白虎隊に所属していました。自刀していった仲間もいた中で、 山川健次郎は落ち延びました。その後に米国へ国費留学を果たし、イェール大学で 物理学を修めます。日本に戻り、最終的には東大総長・京大総長を務めます。山川健次郎と辰野金吾私の家祖が会津藩・彰義隊でしたので個人的に彼になんとなく親近感と敬意を 持っていました。山川健次郎は国費留学生として イェール大学で学位を修めます。 また、東京駅の設計に携わった建築家・辰野金吾とは奥様を通じて親戚関係となっています。山川健次郎が日本初の大学物理学教授が残したもの山川健次郎は、日本人初の大学物理学教授として、 近代日本の物理学教育の出発点を築きました。当時の日本では、欧米の最先端研究を直接学べる研究者は まだ極めて少なく、物理学そのものが発展途上でした。 山川はイェール大学で学んだ知識を持ち帰り、 東京帝国大学で教育と研究体制の整備を進めます。現在、日本から多くの物理学者が世界で活躍していますが、 その土台は山川健次郎ら明治初期の教育者たちによって 築かれたと言っても過言ではありません。 山川健次郎のお人柄と研究成果山川健次郎のお人柄を表すエピソードとして 日露戦争に関するものがあります。当時、 彼は東大で総長を務めていましたが、 愛国心に満ちた健次郎は陸軍に詰め寄り、 「一兵卒として従軍させろ」と担当を困らせたそうです。 個人・家族・所属国家と意識が繋がっていたのですね。 その時にはもはや、賊軍だった頃の意識は無いのでしょう。山川健次郎の時期の物理学会は諸外国との交流を感じさせません。特に コペンハーゲン学派が中心となって次々と新しい知見をもたらしていた時代に 日本の物理学は黎明期にありました。欧州よりもむしろ日本に開国を促した 米国に目を向けていたのです。それが精一杯だったのでしょう。 「お雇い外人」は殆ど米国人です。そして山川の時代まで欧州は遠く、新大陸はまだ 未開の部分が今より多い時代です。 米国の独立戦争が1861年から1865年だったことも 思い返してみましょう。後の時代に原子核内の相互作用を解き明かしていく若者達を 育てていく時代だったのです。山川健次郎と同年代の カメリー・オネスやローレンツは師に恵まれ論敵に恵まれて、 マッハ、ボルツマンの構築した知見の中で考えを進めていたのです。 大きく異なる環境から日本の物理学はスタートしています。山川健次郎は、現在のように多数の研究論文を残した研究者というより、 日本に近代物理学の教育・研究体制そのものを築いた教育者でした。 欧米で学んだ最新の物理学を日本へ導入し、東京帝国大学・京都帝国大学の 教育を通じて後進を育成したことこそ、最大の功績と言えるでしょう。 研究内容をまとめた論文も広く知られていません。あるのでしょうか。 それよりも寧ろ、後輩達を育てながら次の時代への為の土壌を育んでいたと考えるべきでしょう。また、この時代に千里眼を巡る話題が世間を騒がせていましたがそれに対して 山川健次郎は批判的で冷静な立場をとっていたと伝えられています。今も昔も 千里眼という不可思議な現象は「議論して解明できる内容ではない」と考える方が良いようです。前後の人物◀ 前の人物:トーマス・コーウィン・メンデンホール (東京大学で近代物理学・気象学・地震学の教育を開始した、お雇い外国人)▶ 次の人物:田中舘愛橘 (山川健次郎の時代に育ち、日本の地球物理学・測地学を発展させた物理学者)この分野の物理学者トーマス・コーウィン・メンデンホール山川健次郎田中舘愛橘長岡半太郎寺田寅彦湯川秀樹 〆最後に〆コスパ最強・テックジム|プログラミング教室の無料カウンセリング【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 最近全て返事が出来ていませんが 全て読んでいます。 適時、改定をします。nowkouji226@gmail.com2020/09/23_初回投稿 2026/07/14_改定投稿サイトTOPへ 舞台別のご紹介へ 時代別(順)のご紹介 日本関連のご紹介 東大関連のご紹介 京大関連のご紹介 イェール大学関連のご紹介AIでの考察(参考)【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】(2021年9月時点での対応英訳)Yamakawa Kenjiro’s lifeKenjiro Yamakawa is Japan’s first physicist. The house was the old family of the Aizu clan, and Kenjiro belonged to Byakkotai during the Boshin War. Kenjiro Yamakawa fell asleep while he had his own sword. He then went on to study abroad in the United States and studied physics at Yale University. He will return to Japan and eventually serve as President of the University of Tokyo and President of Kyoto University.Kenjiro Yamakawa and Kingo TatsunoMy ancestor was the Aizu clan Shogitai, so I personally had a sense of familiarity with him. Kenjiro Yamakawa is a government-sponsored international student and he completes his degree at Yale University. He also has a relative relationship with the architect Tatsuno Kingo, who was involved in the design of Tokyo Station, through his wife.Yamakawa Kenjiro’s personality and research resultsThere is an episode about the Russo-Japanese War as an episode that shows the personality of Kenjiro Yamakawa. At that time, he was the president of the University of Tokyo, but the patriotic Kenjiro rushed to the Army and asked him to serve as a soldier. Your consciousness was connected to your individual, your family, and your nation. At that time, I wouldn’t be aware of what I was when I was a thief.The Physical Society of Japan during Kenjiro Yamakawa’s time does not make us feel any interaction with other countries. In particular, Japanese physics was in its infancy at a time when the Copenhagen school was playing a central role in bringing in new knowledge one after another.It was an era of nurturing young people who would unravel the interactions within the nucleus in later times. Kamerlingh Ones and Lorenz, who were of the same age as Kenjiro Yamakawa, were blessed with teachers and controversial opponents, and were advancing their thoughts based on the knowledge built by Mach and Boltzmann. Japanese physics starts from a very different environment.Kenjiro Yamakawa’s own research results have not been reported. A paper summarizing his research is also not widely known. Is there? Rather, it should be considered that he was raising his juniors and nurturing the soil for the next era. In addition, it is said that Kenjiro Yamakawa took a critical and calm position against the topic of clairvoyance that was making a noise in this era. Even now and in the past, it seems better to think that the mysterious phenomenon of clairvoyance is “not something that can be discussed and clarified.”
2026年7月12日2026年7月2日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す実験から超電導を示した稀代の実験家・カメリー・オネス【低温物理学への道を】-7/12改訂 こんにちはコウジです。半年ごとの記事見直しです。 では、ご覧ください。内容を整理し、 主にリンクを見直しました。 現時点での英訳も考えています。 (以下原稿です物性物理学講義 【スポンサーリンク】カメリー・オネス【1853年9月21生まれ ~ 1926年2月21日没】“Heike Kamerlingh Onnes 1913.jpg”(ノーベル賞受賞者ポートレート)Public domain(著作権切れ) ライデン大学のカメリー・オネスその名はより正確にはヘイケ・カマリン・オンネス(Heike Kamerlingh Onnes)今日、 日本ではカーメルリング・オンネス、カマリン・オンネスや、カマリン・オネスなど数パターンでカタカナ表記されていますが、本稿ではカメリー・オネスとします。 「ライデン大学実験物理学教授」この称号がカメリー・オネスの人生をよく表しています。彼は生涯オランダのライデン大学で教鞭をとり、実験によって新しい世界を切り開きました。また、ライデン大学には同じ年に生まれた理論家のローレンツ_が居ます。理論・実験でライデン大学は時代を切り開いたのです。後に、ボルツマンの弟子のエーレンフェストやアインシュタインがライデン大学に集います。カメリー・オネスはドイツのハイデルベルク大学 に留学してキルヒホッフ等の師事を受けたと 言われていますが、特に帰国後にライデン大学で 「ファン・デル・ワールスと出会い、彼との 議論を通じ、低温における物理現象に 興味を抱くようになった」【Wikipediaより】 と言われていて、ライデン大学での繋がりが 低温物理学に興味を抱く大きなきっかけ だったようです。低温電子物性の幕開け特に温度を下げていく過程で電子の振る舞いが どうなるか。それに対しての回答として カメリー・オネスは超電導現象を示しました。超電導は現代科学を支える重要技術カメリー・オネスが発見した超電導現象は、100年以上を経た 現在でも最先端科学を支える重要な基盤技術となっています。 電気抵抗がゼロになるという性質を利用し、MRI(磁気共鳴画像診断装置) の超電導磁石、高エネルギー加速器、核融合実験装置、リニア中央新幹線 (超電導リニア)など、多くの最先端技術へ応用されています。また近年では量子コンピュータにも超電導回路が採用され、 極低温環境で動作する超電導量子ビットの研究が世界中で進められています。 一人の実験物理学者がライデン大学で示した実験結果は、 現代の医療・交通・情報科学へと受け継がれ、 21世紀の社会を支える技術へと発展し続けているのです。格子間を運動する電子が電気的性質、磁気的特性を 温度変化に応じてどう変えていくか考えが異なりました。 異なる考えがあった時にカメリー・オネスは 事実を実験によって明確に示したのです。 特に温度を下げていく過程で電子の振る舞いがどうなるか。カメリー・オネスは水銀を用いた実験により、 ある臨界温度(約4.2K)を境に電気抵抗が突然 ゼロになる超電導現象を示しました。これは「金属は冷やせば抵抗が滑らかに減る」という 当時の予想を覆し、再現性ある実験事実として 提示されたことで、後の理論の土台を築いたのです。 一つの予想を実験結果で証明したのです。〆コスパ最強・テックジム|プログラミング教室の無料カウンセリング【スポンサーリンク】 以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 時問題点に対して適時、 返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2020/09/05_初回投稿 2026/07/12_改定投稿舞台別のまとめへ 時代別(順)のご紹介 オランダ関係のご紹介へ ライデン大学のご紹介へ 熱統計関連のご紹介へ 量子力学関係へ AIでの考察(参考)【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】 (2021年9月時点での対応英訳)To be more precise, the name is Heike Kamerlingh Onnes. Today, in Japan, it is written in katakana in several patterns such as Carmelling Onnes, Kamerlingh Onnes, and Kamerlingh Onnes, but in this article, Kamerlingh Onnes is written in katakana. will do.“Professor of Experimental Physics, University of Leiden” This title is a good representation of Kamerlingh Ones’ life. He taught at Leiden University in the Netherlands throughout his life and opened up a new world through his experiments.Leiden University also has a theorist, Lorenz, who was born in the same year. Leiden University opened the era with theory and experimentation. Then, Boltzmann’s disciples Ehrenfest and Einstein gather at Leiden University.Kamerlingh Ones is said to have studied at Heidelberg University in Germany and studied under Kirchhof and others. Especially after returning to Japan, he said, “I met Van der Waals and through discussions with him, physical phenomena at low temperatures. “I became interested in Cryogenics” [Wikipedia], and it seems that the connection at Leiden University was a big reason for my interest in cryogenic physics.behavior of electronsWhat happens to the behavior of electrons, especially in the process of lowering the temperature? In response, Kamerlingh Ones showed the superconducting phenomenon. He laid the foundation for further theory by showing it as an experimentally reproducible phenomenon.They had a different idea of how electrons moving between lattices change their electrical and magnetic properties in response to changes in temperature. Kamerlingh Ones made the facts clear through his experiments when he had different ideas. At absolute zero, the resistance is zero. He proved one conjecture with experimental results.〆
2026年7月8日2026年6月28日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残すジョン・A・フレミング【マクスウェルの弟子は真空管を発明しました】‐7/8改訂 こんにちはコウジです。半年ごとの記事見直しです。 では、ご覧ください。内容を整理し、 主にリンクを見直しました。 現時点での英訳も考えています。 (以下原稿です)ミルスペック真空管 【スポンサーリンク】ジョン・A・フレミング【1849年11月29日 ~ 1945年4月18日】Wikimedia Commons “John Ambrose Fleming 1910s portrait” ライセンス:Public Domainマクスウェル仕込みのフレミングまず、イギリスに生まれたフレミングはケンブリッジでマクスウェルの師事を受けました。フレミング曰く、マクスウェルの講義は「逆説的で暗示的な言い方」(Wikipediaより引用)を含んでいて非常に分かり辛くて不明瞭であったそうです。当然、そんな講義は学生に不人気で時には講義を聴いていたのはフレミング一人の時もあったそうです。物理屋さんにありがちな、とぼけた類のエピソードですね。酷いと言えば酷い話です。こんな人達。でも、大事。 フレミングの業績フレミングは左手の法則で有名です。簡単に言えば「左手で直交3軸を作った時に、長い指から・ 電(でん)・磁(じ)・力(りょく)です。より、細かく説明すると磁場中に電気が流れているとその電気導線に対して力が生じます。フレミングは「左手の法則」でよく知られています。モーターの回転原理を、**電流(親指)・磁場(人差し指)・力(中指)** の三方向で直感的に示す整理法です。一方で「F = q(v × B)」は、 磁場中を運動する荷電粒子に働く力(ローレンツ力)を表す物理式で、 左手の法則とは関連しますが、厳密には別の概念です。読み物としては高校で習う式を無理に並べるより、 「電流と磁場が交わると力が生まれる」 という直感を重視した方が理解がスムーズかもしれません。フレミングは「左手の法則」で広く知られています。モーターの回転原理を、 電流・磁場・力という三つの方向で直感的に理解できるよう整理したものです。 物理学的に見ると、この現象の背景にはローレンツ力があります。磁場中を運動する荷電粒子にはF = q(v × B)で表される力が働きます。 フレミングの左手の法則は、この複雑な数式を実際のモーターや 発電機で直感的に理解するための優れた整理法だったのです。電(でん)・磁(じ)・力(りょく)をそれぞれ q(でん)・B(じ)・F(りょく)で考えて荷電粒子の速度をvとして考えてください。高校レベルの天下り的な覚え方ですが、 現象として実験事実に即していると考えると 非常に洗練された結果であるとも言えますね。一方、発電機では逆向きの現象が起こります。 導体を動かすことで電流が生まれるため、 こちらでは右手の法則が用いられます。モーターと発電機は正反対の働きをする装置ですが、 どちらも電磁誘導やローレンツ力という 同じ電磁気学の法則の上に成り立っています。 高校物理では暗記項目として扱われることもありますが、 実際には現代の電気自動車や産業用ロボット、 発電所に至るまで幅広く利用されている重要な考え方なのです。フレミングは実験で自然界から事実をひき出しています。また、真空管の発明者としても有名です。 今日の電子工学の始まりだとも言われています。真空管は現在では半導体に置き換えられましたが、初期のラジオ、 テレビ、電話交換機、レーダー、初期コンピューター(ENIACなど)は すべて真空管によって動作していました。現代の電子工学は半導体の時代へ 移りましたが、その出発点となった技術の一つがフレミングの真空管だったのです。工学の世界で色々な発明を重ねました。そんなフレミングは 子供にこそ恵まれませんでしたが2度の結婚をして、 アメリカテレビジョン学会の初代会長を務めたりしながら 余生を過ごしました。原稿改定の際に気付いたのですが、 晩年ナイトの叙されています。更には IEEE(アイ・トリプル・イィ)の前身団体で 評価を受けています。 そんな昔話でした。真空管から半導体へ――電子工学の出発点フレミングの発明した真空管(二極真空管)は、 現代の電子工学の原点とも言える存在です。 真空中を電子が移動する現象を利用し、 電流を一方向へ流す整流作用を実現しました。この技術は無線通信の発展を支え、ラジオ放送、 長距離電話、テレビ放送、レーダーなど、 20世紀を代表する通信技術の基盤となりました。 さらに真空管は初期の電子計算機にも大量に利用され、 ENIACをはじめとする世界最初期のコンピューターは 数千本から数万本もの真空管によって構成されていました。その後、1947年にトランジスタが発明されると、 電子回路は小型化・省電力化・高信頼化を実現します。 さらに集積回路(IC)、LSI、マイクロプロセッサへと発展し、 今日のスマートフォンやAIサーバーにまでその技術は受け継がれています。 つまり、フレミングの真空管は、 現在のコンピューター社会の最初の一歩だったと言えるでしょう。フレミングから始まる電子・通信技術の系譜科学の歴史を振り返ると、 一人の発見だけで技術が完成することはほとんどありません。 先人が築いた理論を次の世代が受け継ぎ、 さらに発展させることで現在の科学技術が形作られてきました。フレミングもその代表例です。 恩師であるマクスウェルが電磁場理論を完成させ、 その理論を工学へ応用したのがフレミングでした。 さらにベルは電磁気学を利用して電話を発明し、 テスラは交流送電と交流モーターを完成させます。 J・J・トムソンは電子そのものを発見し、 20世紀にはシャノンが情報理論を打ち立て、 今日のデジタル通信へとつながっていきました。こうして眺めると、フレミングは 物理学と工学を橋渡しした人物だったと言えます。 理論だけでも、発明だけでもありません。 自然法則を社会で利用できる技術へと変えていったことこそ、 彼の最大の功績だったのでしょう。◀ 前の人物:ジェームズ・クラーク・マクスウェル 電磁場理論を確立し、フレミングの恩師として近代電磁気学の基礎を築きました。▶ 次の人物:アレクサンダー・グラハム・ベル 電磁気学を応用して電話を実用化し、世界の通信革命を切り開きました。この分野の物理学者(電磁気学・電子工学・通信工学)マイケル・ファラデー 電磁誘導を発見し、発電機・モーターの原理を築く。ジェームズ・クラーク・マクスウェル 電磁場理論を完成させ、近代電磁気学を確立。ウィリアム・トムソン(ケルビン卿) 電磁気学と熱力学を数学的に体系化した。ジョン・アンブローズ・フレミング 左手の法則・真空管を発明し電子工学を切り開いた。アレクサンダー・グラハム・ベル 電話を発明し、音声通信を実現した。ニコラ・テスラ 交流送電・交流モーターを実用化した。オリバー・ヘヴィサイド ベクトル解析を整備し通信理論を発展させた。J・J・トムソン 電子を発見し、電子工学の基礎を築いた。クロード・シャノン 情報理論を創始し、デジタル通信時代を切り開いた。 〆【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 時間がかかるかもしれませんが 必ず返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2020/09/23_初稿投稿 2026/07/08_改定投稿サイトTOPへ 舞台別のご紹介へ 時代別(順)のご紹介 イギリス関係 ケンブリッジ関連 電磁気関係へAIでの考察(参考) (2021年9月時点での対応英訳)Fleming prepared by MaxwellFirst, born in England, Fleming studied at Maxwell in Cambridge. According to Fleming, lecture of Maxwell’s lecture was very confusing and unclear, including “paradoxical and suggestive language” (quoted from Wikipedia). Naturally, such lectures were quite unpopular with students, and it seems that Fleming was the only one who sometimes listened to the lectures. It’s a kind of blurry episode that is common in physicists. It is a surely terrible story.Fleming’s achievementsFleming is famous for his left-hand rule. Simply put, “When you make three orthogonal axes with your left hand, it is from a long finger, electricity, magnetism, and force. To explain it in more detail, electricity flows in the magnetic field. If so, a force will be generated on the electric conductor.Considering electricity, magnetism, and force in q (electrivity), B (magnetism), and F (force), respectively, and letting the velocity of the charged particle be v, the outer product: F = q (v × B) using ×. It’s an AMAKUDARI way of remembering at the high school level, but it can be said that it is a very sophisticated result considering that it is in line with the experimental facts as a phenomenon.Fleming is also famous as the inventor of vacuum tubes. He is said to be the beginning of today’s electronics. He made various inventions in the engineering world. Fleming wasn’t blessed with children, but he got married twice and spent the rest of his life as the first president of the American Television Society.
2026年7月7日2026年6月27日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残すアレクサンダー・グラハム・ベル【Alexander Graham Bell‗1847年3月3日 ~1922年8月2日】 — 声を「距離」から解放した発明家 —7/7改訂 こんにちはコウジです。半年ごとの記事見直しです。 では、ご覧ください。内容を整理し、 主にリンクを見直しました。 現時点での英訳も考えています。 (以下原稿です) 【Alexander Graham Bell portrait public domain】 私たちは日常的に、遠く離れた相手と音声で会話をしています。 しかし、この当たり前の行為は、かつては不可能と考えられていたものでした。音を電気信号として伝えるという発想を現実のものとし、 「電話」という革新的な装置を生み出した人物がいます。アレクサンダー・グラハム・ベルは、通信技術の歴史を根本から変えた だけでなく、聴覚や音声に関する研究を通じて、人間のコミュニケーション そのものに新たな可能性を開きました。本記事では、ベルの「業績」「人物像」「後世への影響」を軸に、 その研究人生と知的遺産を丁寧に読み解いていきます。アレクサンダー・グラハム・ベルの業績概略 — 電話の発明と通信革命音声を電気に変えるという発想ベルの最大の業績は、音声を電気信号へと変換し、 それを連続的な波として遠距離に伝送する技術の確立にあります。これは単なる発明ではなく、 音という物理現象(振動) を電磁気現象へ写像する試みでした。この発想は、後の通信工学や信号処理、さらには 情報理論へとつながる重要な転換点となります。従来の電信はモールス信号のような単純な信号 しか送ることができませんでしたが、ベルは 「人間の声そのものを伝える」という新しい課題に挑みました。その結果として誕生したのが電話であり、1876年に特許を取得 したこの発明は、世界中の通信のあり方を一変させました。なお、ベルと同時期にはエリシャ・グレイも類似の技術を開発しており、 電話の発明をめぐっては特許争いが存在したことでも知られています。 電話の実用化と普及ベルは単に発明を行うだけでなく、その実用化にも尽力しました。 電話会社の設立や技術改良を通じて、通信網の整備が進み、 音声通信は急速に社会へと広がっていきました。これにより、人と人との距離は大きく縮まり、 現代社会の基盤となるコミュニケーション手段が確立されていきます。聴覚研究と教育への貢献ベルは電話の発明者として知られていますが、 もともとは聴覚や発声に関する研究者でした。特に聴覚障害者の教育に強い関心を持ち、音声教育の方法を 研究し続けました。この研究は、単なる工学的成果にとどまらず、 人間の感覚とコミュニケーションの理解を深めるものでもありました。アレクサンダー・グラハム・ベルの人物像 — 研究と社会をつないだ実践者スコットランドからアメリカへベルはスコットランドのエディンバラに生まれました。その後、 家族とともにカナダを経てアメリカへ移住し、新しい環境の中で 研究と教育の活動を開始します。彼の国際的な移動は、 当時の科学と産業の中心地へと接続する重要な要素となりました。ボストンでの研究と教育活動ベルはアメリカのボストンにおいて、聴覚障害者の教育に従事しながら 研究を進めました。ボストン大学では音声生理学の講師として活動し、 この時期に音と電気の関係についての研究を深めていきます。 電話の発明は、まさにこの研究環境の中から生まれたものでした。発明家としての実行力ベルの特徴は、理論だけでなく実際の装置として完成させる実行力にありました。 彼は研究成果を社会に実装することを重視し、その結果として 電話という形で世界に影響を与えることになります。この姿勢は、 研究と社会を結びつける重要性を示していると言えるでしょう。後世への影響 — 現代通信社会の原点通信インフラの基盤形成ベルの発明した電話は、現代の通信インフラの出発点となりました。 その後のインターネットやモバイル通信も、「情報を遠距離に伝える」 という基本思想の延長線上にあります。電話は「音」を電気へ変換した最初の情報機械私たちは日常生活の中で、スマートフォンやパソコンを使い、 遠く離れた相手と当たり前のように会話をしています。 しかし、その技術の出発点には、 「音を電気に置き換える」という大胆な発想がありました。 この発想を初めて実用的な装置として完成させた人物が、 アレクサンダー・グラハム・ベルです。人の声は、空気中を伝わる音波(空気の振動)です。 私たちが話すと声帯が振動し、その振動が空気を押したり引いたりしながら 波として周囲へ広がります。人間の耳は鼓膜を振動させることで この波を感じ取り、脳が「音」として認識しています。 ベルは、この空気の振動をそのまま遠くへ届けることはできないかと考え、 音の波を別の物理現象へ置き換える方法を模索しました。ベルが着目したのは、薄い振動板(ダイヤフラム)でした。 話し声によって振動板が前後に動くと、その動きを利用して 電流の強弱を連続的に変化させることができます。 つまり、音の振動を電気信号の変化へ変換したのです。 受信側では逆に電流の変化によって振動板を動かし、 再び空気を振動させることで、人の耳に聞こえる音声を再現しました。 電話とは、「音 → 電気 → 音」という変換を行う装置だったのです。この仕組みは現在では「アナログ信号」と呼ばれています。 音の強弱や高さを途切れることなく連続的な電流の変化として表現する方法であり、 ベルの電話はその代表例でした。 当時は電子回路やコンピュータなど存在していませんでしたが、 物理現象を別の物理現象へ写像して情報を伝えるという考え方は、 まさに現代の情報通信技術の原点だったと言えるでしょう。その後、この考え方は電話だけに留まりませんでした。 ラジオ放送では音楽や音声が電波へ変換され、 レコードでは音の振動が溝として記録されます。 マイクは空気の振動を電気信号へ変換し、 スピーカーはその逆の働きを担います。 さらに現代では、インターネットを利用した音声通話や オンライン会議、動画配信なども、一度は音声を電気信号として扱い、 途中でデジタルデータへ変換しながら世界中へ届けています。 通信方式は大きく進歩しましたが、 「音を電気信号へ変換して遠くへ届ける」という基本思想は、 ベルの電話から現在まで一貫して受け継がれているのです。このように見ると、ベルが発明した電話は単なる便利な機械ではありません。 人間の声という自然現象を情報として扱い、 距離を越えて再現するという新しい概念を世界へ示した発明でした。 その意味で電話は、現代の情報社会を支える 最初期の情報機械の一つであり、 ベルは情報通信時代の扉を開いた先駆者だったと言えるでしょう。 情報社会への転換音声通信の普及は、人間のコミュニケーションのあり方を大きく変えました。 距離による制約が緩和されることで、 経済活動や社会構造にも大きな影響を与えたと考えられます。科学と社会の関係への示唆ベルの人生は、科学的発見が社会と結びつくことで初めて 大きな価値を持つことを示しています。現代においても、技術革新を どのように社会へ実装するかという課題は重要であり続けています。まとめ:声をつなぐことで世界を変えた発明家アレクサンダー・グラハム・ベルは、音声という人間の最も基本的な コミュニケーション手段を、距離の制約から解放しました。その成果は、単なる技術的発明にとどまらず、 社会の構造そのものに影響を与えるものでした。彼の研究は、理論・実践・社会の三者を結びつけることで、 新しい価値が生まれることを示しています。そしてその影響は、現代の情報社会においても なお続いていると言えるでしょう。◀ 前の人物: J・C・マクスウェル (電磁気学の確立。音声の電気信号化の理論的基盤)▶ 次の人物: クロード・シャノン(掲載検討中) (情報理論の創始者。通信の数学的基礎を確立)この分野の物理学者(通信・電磁気・情報理論)J・C・マクスウェル マイケル・ファラデー ニコラ・テスラ_ クロード・シャノン(掲載検討中)〆さいごに〆以上、間違いやご意見などがございましたら、 以下のアドレスまでご連絡ください。 内容については確認のうえ、 適宜返信・改定を行わせていただきます。nowkouji226@gmail.com 2026/04/06_初版投稿 2026/07/07_改訂投稿サイトTOPへ 舞台別のご紹介へ 時代別(順)のご紹介 量子力学関係へ AIでの考察(参考)【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】(以下、2026年4月時点での対応英訳)Date of Birth: March 3, 1847Date of Death: August 2, 1922Today, we routinely speak with people far away through voice communication. However, this seemingly ordinary act was once considered impossible.There was a man who turned the idea of transmitting sound as electrical signals into reality and created the revolutionary device known as the telephone.Alexander Graham Bell not only fundamentally transformed the history of communication technology, but also opened new possibilities for human communication itself through his research on hearing and speech.In this article, we will carefully examine Bell’s research life and intellectual legacy through three key perspectives: his achievements, his character, and his influence on later generations.Overview of Alexander Graham Bell’s Achievements — The Invention of the Telephone and the Communication RevolutionThe Idea of Converting Sound into ElectricityBell’s greatest achievement lies in establishing the technology to convert sound into electrical signals and transmit them over long distances.Traditional telegraph systems could only send simple signals such as Morse code. Bell, however, took on the entirely new challenge of transmitting the human voice itself.The result was the telephone. Patented in 1876, this invention dramatically transformed communication around the world.Practical Implementation and Spread of the TelephoneBell did not stop at invention; he also worked toward practical implementation.Through the establishment of telephone companies and continuous technological improvements, communication networks expanded rapidly, and voice communication spread throughout society.As a result, the distance between people was greatly reduced, and a fundamental communication method of modern society was established.Contributions to Hearing Research and EducationAlthough Bell is best known as the inventor of the telephone, he was originally a researcher of hearing and speech.He had a strong interest in the education of people with hearing impairments and continuously studied methods of speech education.This work went beyond engineering achievements, contributing to a deeper understanding of human perception and communication.Character of Alexander Graham Bell — A Practitioner Who Bridged Research and SocietyFrom Scotland to AmericaBell was born in Edinburgh, Scotland.He later emigrated with his family to the United States via Canada, where he began his work in research and education within a new environment.His international movement connected him to the centers of science and industry at the time.Research and Teaching in BostonIn Boston, Bell conducted research while working in the education of the hearing impaired.At Boston University, he served as a lecturer in vocal physiology, deepening his research on the relationship between sound and electricity.The invention of the telephone emerged precisely from this research environment.Execution as an InventorOne of Bell’s defining traits was his ability to transform theory into practical devices.He placed great importance on implementing research outcomes in society, ultimately influencing the world through the invention of the telephone.This approach highlights the importance of linking research with real-world application.Influence on Later Generations — The Origin of Modern Communication SocietyFoundation of Communication InfrastructureThe telephone invented by Bell became the starting point of modern communication infrastructure.Later developments such as the internet and mobile communication can be seen as extensions of the fundamental idea of transmitting information over distance.Transition to the Information SocietyThe spread of voice communication significantly transformed the nature of human interaction.By reducing the constraints of distance, it also had a major impact on economic activity and social structures.Implications for the Relationship Between Science and SocietyBell’s life demonstrates that scientific discoveries gain their full value when they are connected to society.Even today, the challenge of how to implement technological innovation in society remains highly important.Conclusion — The Inventor Who Changed the World by Connecting VoicesAlexander Graham Bell freed one of humanity’s most fundamental means of communication—voice—from the constraints of distance.His achievement was not merely a technological invention, but one that transformed the very structure of society.His work shows that new value emerges when theory, practice, and society are brought together.And its influence continues even in today’s information-driven world.
2025年11月13日2026年4月29日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す100年を迎える東京大学地震研究所(ERI)が築いた地震学とこれからのAI時代 本記事は11/9付の日本経済新聞を起点に記載しています。東京大学地震研究所(ERI)は2025年11月13日で設立から100年を迎えます。1925年の設立以来、関東大震災を教訓に地震予知・観測体制を築き、日本が世界の地震研究を牽引してきました。英国人ジョン・ミルン(JohnMilne)による水平振子式地震計の開発、大森房吉・丸山卓男・津村健四郎らによる地震モーメントやマグニチュード理論の確立など、その歩みは日本科学史の一大軌跡といえます。本稿では、①地震研究100年の歴史、②技術革新、③AI時代の展望という三つの章で構成し、制度と技術の系譜をたどります。第1章:100年の歴史に刻まれた制度と人関東大震災(1923年9月1日)を契機に、地震観測と耐震研究を体系化する必要性が高まり、1925年に東京大学地震研究所が誕生しました。以来、ERIは観測網の整備、地震計の改良、断層運動理論の発展を通じて、国際的研究機関としての地位を築きました。1.1 設立背景と制度整備震災後、国の学術政策と建築基準が一体化し、地震学の社会的使命が明確化。地震予知研究、気象庁・大学・国立研究所の分業体制が整いました。1.2 ジョン・ミルン来日から地震学基盤の構築1876年、英国から招聘されたジョン・ミルンが来日し、世界初の近代的地震観測体制を整備。1880年の横浜地震観測を皮切りに、地震波形記録・震央推定などの方法論を導入しました。1.3 大森房吉・丸山卓男・津村健四郎らの技術革新大森房吉(1868–1923)は「地震学の父」と呼ばれ、震源距離と時間差の関係式を導出。丸山卓男(東大地震研)は地震モーメントの理論化で国際的評価を確立。津村健四郎は地震継続時間を基にマグニチュード推定式を改良しました。【地震研究の主要年表】年出来事関連人物・機関1876年ジョン・ミルン来日、地震観測開始東京帝国大学1880年日本地震学会創設ミルン・大森房吉1923年関東大震災内務省震災予防調査会1925年東京大学地震研究所設立初代所長 今村明恒1960年代地震モーメント理論確立丸山卓男2020年代AI・機械学習を導入した観測解析ERI・JAMSTEC第2章:技術革新と地震学の転機地震学の進化は「観測技術」「理論」「応用設計」という三段階で展開されてきました。ジョン・ミルンが水平振子式地震計を開発し、丸山卓男が地震モーメントを定義。こうした発展は、1980年代以降の地震カタログ整備や防災工学に波及しています。2.1 観測技術の進化 — 地震計から海底観測網へ地震計は機械式からデジタル式、さらに海底光ファイバー式へ。現在では海洋研究開発機構(JAMSTEC)が展開するDONET・S-netが、リアルタイム地震波を高精度で解析しています。2.2 理論モデルの深化 — 地震モーメント・マグニチュードの普及地震の規模を「モーメント」で表す考え方は、1960年代に丸山卓男氏が提唱。その後、カナダのカナメ研究者ハスキンスらとともに国際標準となり、現在のMw表記へと進化しました。2.3 耐震・社会実装 — 地震防災・建築基準の変化1981年の建築基準法改正により、耐震設計は「損傷制御型」に転換。ERIの研究成果が防災都市計画、ライフライン設計、自治体のハザード評価などに組み込まれました。第3章:AI時代の地震研究と未来展望AIとビッグデータの時代、地震研究も転換期にあります。観測データの自動解析、異常波形の自動検出、AIによる震源推定モデルなど、研究領域が広がっています。ERIでは近年、地震波動場の機械学習解析を用いて、スロー地震の検出精度を高めています。3.1 AI/機械学習の導入例と研究成果ERI・東北大・防災科研などが共同で開発した「AI地震波分類システム」は、地震波形を0.1秒単位で自動判別。発生直後の緊急通報制度(EEW)に応用されています。3.2 国際共同研究・データ共有の潮流米国USGSや欧州EPOSなどと連携し、データ形式を共通化。AIモデルによる世界規模の震源パターン分析が進んでいます。3.3 課題と未来像 — AGI時代の地震科学完全自律型AI(AGI)による地震予測はまだ理論段階ですが、モデル間比較(AGIモデル1号 vs 2号)を通じてリスク推定精度が向上する可能性があります。【用語解説】地震モーメント:断層のずれ量と面積を用いて地震の規模を表す物理量。AI地震波解析:機械学習を使い、ノイズと実地震波を自動で判別する技術。DONET/S-net:日本が展開する海底地震観測網。リアルタイム観測を可能にする。まとめ東京大学地震研究所100年の歴史は、単なる学術機関の記念ではなく、地震研究が国家・社会・技術の全体を変えた軌跡そのものです。AI時代のいま、観測・理論・防災が再統合されようとしています。100年前に始まった「人命を守る科学」は、これからの100年でも進化を止めないでしょう。参考文献: ・日本経済新聞(2024年11月9日朝刊) ・東京大学地震研究所公式サイト(ERI) ・Nature / Springer / ScienceDirect 各誌掲載論文(Maruyama, T., Tsunemura, K., Kato, S., 2019–2024)〆以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 最近全て返事が出来ていませんが 全て読んでいます。 適時、改定をします。【スポンサーリンク】nowkouji226@gmail.com2025/11/13_初稿投稿サイトTOPへ 時代別(順)のご紹介 17世紀生まれの物理学者へ 18世紀生まれの物理学者へ 19世紀生まれの物理学者へ 20世紀生まれの物理学者へ
本記事は11/9付の日本経済新聞を起点に記載しています。東京大学地震研究所(ERI)は2025年11月13日で設立から100年を迎えます。1925年の設立以来、関東大震災を教訓に地震予知・観測体制を築き、日本が世界の地震研究を牽引してきました。英国人ジョン・ミルン(JohnMilne)による水平振子式地震計の開発、大森房吉・丸山卓男・津村健四郎らによる地震モーメントやマグニチュード理論の確立など、その歩みは日本科学史の一大軌跡といえます。本稿では、①地震研究100年の歴史、②技術革新、③AI時代の展望という三つの章で構成し、制度と技術の系譜をたどります。第1章:100年の歴史に刻まれた制度と人関東大震災(1923年9月1日)を契機に、地震観測と耐震研究を体系化する必要性が高まり、1925年に東京大学地震研究所が誕生しました。以来、ERIは観測網の整備、地震計の改良、断層運動理論の発展を通じて、国際的研究機関としての地位を築きました。1.1 設立背景と制度整備震災後、国の学術政策と建築基準が一体化し、地震学の社会的使命が明確化。地震予知研究、気象庁・大学・国立研究所の分業体制が整いました。1.2 ジョン・ミルン来日から地震学基盤の構築1876年、英国から招聘されたジョン・ミルンが来日し、世界初の近代的地震観測体制を整備。1880年の横浜地震観測を皮切りに、地震波形記録・震央推定などの方法論を導入しました。1.3 大森房吉・丸山卓男・津村健四郎らの技術革新大森房吉(1868–1923)は「地震学の父」と呼ばれ、震源距離と時間差の関係式を導出。丸山卓男(東大地震研)は地震モーメントの理論化で国際的評価を確立。津村健四郎は地震継続時間を基にマグニチュード推定式を改良しました。【地震研究の主要年表】年出来事関連人物・機関1876年ジョン・ミルン来日、地震観測開始東京帝国大学1880年日本地震学会創設ミルン・大森房吉1923年関東大震災内務省震災予防調査会1925年東京大学地震研究所設立初代所長 今村明恒1960年代地震モーメント理論確立丸山卓男2020年代AI・機械学習を導入した観測解析ERI・JAMSTEC第2章:技術革新と地震学の転機地震学の進化は「観測技術」「理論」「応用設計」という三段階で展開されてきました。ジョン・ミルンが水平振子式地震計を開発し、丸山卓男が地震モーメントを定義。こうした発展は、1980年代以降の地震カタログ整備や防災工学に波及しています。2.1 観測技術の進化 — 地震計から海底観測網へ地震計は機械式からデジタル式、さらに海底光ファイバー式へ。現在では海洋研究開発機構(JAMSTEC)が展開するDONET・S-netが、リアルタイム地震波を高精度で解析しています。2.2 理論モデルの深化 — 地震モーメント・マグニチュードの普及地震の規模を「モーメント」で表す考え方は、1960年代に丸山卓男氏が提唱。その後、カナダのカナメ研究者ハスキンスらとともに国際標準となり、現在のMw表記へと進化しました。2.3 耐震・社会実装 — 地震防災・建築基準の変化1981年の建築基準法改正により、耐震設計は「損傷制御型」に転換。ERIの研究成果が防災都市計画、ライフライン設計、自治体のハザード評価などに組み込まれました。第3章:AI時代の地震研究と未来展望AIとビッグデータの時代、地震研究も転換期にあります。観測データの自動解析、異常波形の自動検出、AIによる震源推定モデルなど、研究領域が広がっています。ERIでは近年、地震波動場の機械学習解析を用いて、スロー地震の検出精度を高めています。3.1 AI/機械学習の導入例と研究成果ERI・東北大・防災科研などが共同で開発した「AI地震波分類システム」は、地震波形を0.1秒単位で自動判別。発生直後の緊急通報制度(EEW)に応用されています。3.2 国際共同研究・データ共有の潮流米国USGSや欧州EPOSなどと連携し、データ形式を共通化。AIモデルによる世界規模の震源パターン分析が進んでいます。3.3 課題と未来像 — AGI時代の地震科学完全自律型AI(AGI)による地震予測はまだ理論段階ですが、モデル間比較(AGIモデル1号 vs 2号)を通じてリスク推定精度が向上する可能性があります。【用語解説】地震モーメント:断層のずれ量と面積を用いて地震の規模を表す物理量。AI地震波解析:機械学習を使い、ノイズと実地震波を自動で判別する技術。DONET/S-net:日本が展開する海底地震観測網。リアルタイム観測を可能にする。まとめ東京大学地震研究所100年の歴史は、単なる学術機関の記念ではなく、地震研究が国家・社会・技術の全体を変えた軌跡そのものです。AI時代のいま、観測・理論・防災が再統合されようとしています。100年前に始まった「人命を守る科学」は、これからの100年でも進化を止めないでしょう。参考文献: ・日本経済新聞(2024年11月9日朝刊) ・東京大学地震研究所公式サイト(ERI) ・Nature / Springer / ScienceDirect 各誌掲載論文(Maruyama, T., Tsunemura, K., Kato, S., 2019–2024)〆以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 最近全て返事が出来ていませんが 全て読んでいます。 適時、改定をします。【スポンサーリンク】nowkouji226@gmail.com2025/11/13_初稿投稿サイトTOPへ 時代別(順)のご紹介 17世紀生まれの物理学者へ 18世紀生まれの物理学者へ 19世紀生まれの物理学者へ 20世紀生まれの物理学者へ
2025年11月9日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残すF. J. Dysonの死 【2020-03-02‗95歳_ノーベル賞 】 (以下全て転載内容)2020-03-02 ・昨日の新聞でF. J. Dysonが亡くなったのを知った。95歳だったという。朝永、Schwinger, Feynmanの量子電磁気学の理論をまとめた理論をつくった人として知られている。同じ年代の物理学者C. N. YangはDysonが上の3人と一緒にノーベル賞をもらえなかったことについて上記3人にだけノーベル賞を授与した委員会の批判的であった。同じ業績に対して3人までの受賞者とするノーベル賞委員会の不文律があるのをC.N. Yangが知らないはずはない。だが、そういう不文律を破ることも、また意味があるくらい量子電磁気学のくりこみ理論に対するDysonの寄与は大きかったとYangは評価していたのだろうと思う。Yangももう高齢だと思うが、彼はまだ生存しているのではないかと思うが、定かではない。Dysonと聞くと、私の妻などはどうも自動で掃除する電気掃除機のようだねと言っていた。最近ではDysonという名前の自動掃除機が販売されている。〆【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 最近は全てに返事が出来ていませんが 問題点に対しては 適時、返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2025/11/09_初版投稿サイトTOPへ
2025年11月9日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残すテラー 【2019-08-09‗オッペンハイマー_ダイソン 】 (以下全て転載内容)2019-08-09 ・テラーとは水爆をつくったエドワード・テラーのことである。NHKの昨夜の「フランケンシュタインの誘惑」ではオッペンハイマーを権力の座から追い落して、自分が表にでて、水爆をつくったのはよかったが、オッペンハイマーを追い落とす査問委員会の証言で彼に不利な証言をしたために、その後の科学者社会とのつきあいがなくなって、晩年はとてもさびしかったのではないかとの話であった。ピアノを弾くのが好きであったから、晩年はピアノを弾いて過ごしたという。それでもあからさまにつきあいはなかったかもしれないが、ノーベル賞学者のヤンはテラーの支持でシカゴ大学で学位をとったので、少しはテラーに同情的であった。量子電気力学の業績で知られる、ダイソンもそれほどテラーを嫌ってはいなかったらしい。でも昔からの友だちはみんなテラーから離れてしまったことはたぶん間違いがない。テラーは山登りも好きであった。若いときに、これはたぶんハンガリーにいたときの話だが、電車にはねられて脚を折ったとか聞いている。だから脚がわるかったはずだ。なかなか直観的な理解をする人だとも聴いている。テラーの群論の理解が直観的であったとかヤンの書いた文章で読んだことがある。ただ権力的なところがあり、ちょっと科学者仲間からは人生の途中から大いに敬遠された。〆【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 最近は全てに返事が出来ていませんが 問題点に対しては 適時、返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2025/11/09_初版投稿サイトTOPへ
2025年11月9日2025年11月9日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残すエディトンとチャンドラセカール 【2019-06-21 _星の一生_プリンキピア】 (以下全て転載内容)2019-06-21 ・エディトンとチャンドラセカールとの奇しき因縁を昨夜のNHKのテレビの放送ではじめて知った。エディトンは1916年だったかに観測隊を指揮してアフリカに出かけて、日食のときの星の位置を観測して、それを普通のときの星の位置ときに見える位置と比較して、一般相対性理論の重力による光の曲り方が相対論の予言と一致することを示した。一般相対性理論では3つの実験的検証があるが、そのうちの一つである。ちなみに一般相対論の残り二つの実験的検証は「水星の近日点の移動」と「光のスペクトルの赤方偏移」である。それはさておき、星の一生を研究したエディントンは星の最後は白色矮星になることであると結論した。ところがチャンドラセカールはもし星が太陽の30倍以上の質量をもつと星の最後は白色矮星にはならず、ブラックホールになると予言した。エディントンはこの仮説を認めず、チャンドラをイギリスから追い払った。チャンドラは優秀な人であったから、アメリカに行き、そこでブラックホールとは関係のない,星の研究をしていたが、水爆実験か何かの折に出てくる光か何かの電磁波のスぺクトルが、チャンドラの予言したブラックホールの予想した電磁波のスペクトルに類似しているとの手紙を若い学者から受け取り、約40年前の自分の理論が正しかったことを知るようになった。シカゴの郊外の天文台に勤めていたチャンドラはシカゴ大学の大学院の講義にでかけてきていたが、彼の教えていたクラスからはヤンやリーとかノーベル賞受賞者が続出していたという。その後、彼自身もノーベル賞を受賞した。何年間かあるテーマについてチャンドラは研究するが、そのおしまいに、その分野の研究についてのテクストを書いて、その研究を終わりにするという習慣があった。彼の人生の最後の研究はニュートンのプリンキピアであった。それはプリンキピアの命題を読んで、その証明は読まずに、自分でその命題を証明して、そのあとでプリンキピアの証明を読むという方法である。その本は読んだことはないが、日本語での訳本が講談社から、中村誠太郎訳で出ている。この訳本は定価が1万円以上するもので、1冊公費で購入して大学の在職時代にはもっていたが、退職時に図書館に返却したので、現在は手元にはもっていない。暇ができたら、大学の図書館から借り出して読んでみたいと思っているが、そんな機会が私に来るかどうかはわからない。〆【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 最近は全てに返事が出来ていませんが 問題点に対しては 適時、返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2025/11/09_初版投稿サイトTOPへ
2025年11月8日2025年11月8日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残すエ―レンフェストの定理 【2016-06-21投稿分_期待値_波束_古典力学】 ・というと量子力学でその位置の期待値から波束が古典力学の運動方程式の形をみたすという定理である。この定理が難しいと思ったことはなかった。が、私自身はこの定理の意義を軽視してきたが、このところその意義に目覚めている。もっともこの計算は学生のときにも苦手だったが、どうもいまでも苦手であることを発見した。学部の4年生になって量子力学のセミナーがはじまり、その初めごろにセミナーでこの計算で立ち往生してしまい、S 先生から叱られたことがあった。その後のセミナーではその汚名を挽回するように努めたけれども。その思い出よみがえってきたのだが、何十年もたってこれくらいの計算はなんてことはないはずなのにやはり苦手である。もっともきちんとやればなんてこともないはずだ。だが、どうも逃げ腰なのがいけないのではないかと思う。きちんと落ち着いてやれば、なんてことはないはずだが、ちょろちょろしてしまう。この姿勢がよくない。〆【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 最近は全てに返事が出来ていませんが 問題点に対しては 適時、返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2025/11/08_初版投稿サイトTOPへ
2025年11月8日2025年11月8日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す伏見康治コレクション3 【2016-05-24投稿分‗伏見康治‗数学セミナー】 ・『物理学者の描く世界像』(日本評論社)に中性子の減速の話題が取り上げられている。これは原子炉内での核分裂で発生した中性子を減速させる話である。伏見康治先生もやはり原爆研究か原子炉の理論の一環として中性子の減速の問題を考えられていたらしい。あまりこれは現在では学問的な内容ではないのかもしれないが、それでも原子炉工学を学ぶときには基礎知識であろうか。数年の間 E 大学工学部で原子力の基礎知識を講義したことがあり、そのときに中性子の減速の数学というか物理を自学自習したことがあった。これは講義をするためには当然のことであった。伏見先生は雑誌「数学セミナー」の編集部の要望に応えて「やはり微積分は役に立った」という記事を3か月にわたってかかれた。それが、この本に掲載されている中性子の減速である。私はこれらの章をまだ読んではいないが、それほど難しい数学も用いていないので、読んでみようかと思っている。私が昔テクストを読んでつくったノートも役に立つかもしれないなどと考えている。などと多寡をくくったことを書いたが、さらにちらっとこの記事をながめたところではどうもノートが役に立つのは連載3回の1回目だけらしい。〆【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 最近は全てに返事が出来ていませんが 問題点に対しては 適時、返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2025/11/08_初版投稿サイトTOPへ