ニールス・ボーア【概念構築|新たな原子模型の提唱を通じて原子モデルを洗練化】ボーア来日時【スポンサーリンク】 【1885年10月7日生まれ ~ 1962年11月18日没】【Wikimedia Commons:「Niels Bohr portrait」】ボーアの生い立ちボーアは量子力学の発展で重要な役割を果たしました。ソルベー会議でも議論の中心に居て、TOP画で使っている写真では中列右端に立っています。そんなボーアは北海に面したユトランド半島および、 その近辺の多くの島々からなる、立憲君主制国家である、 デンマーク王国にボーアは生まれました。若い時代にはアマチュアサッカー選手リーグの ABコペンハーゲンでゴールキーパーを務めていた という一面もあります。 ボーアはそんな人でもあるのです。ボーアと原子論そしてボーアは前期量子論形成に於いて 先駆的な理論を提供し続けました。 ボーアは当時、不完全であった原子像を洗練させて 独自の原子模型を提唱します。議論の渦中に飛び込んで 色々な人々と切磋琢磨して新しい「かたち」 を作り上げたのです。 先ず1911年にイギリスへ留学し、J・J・トムソンや ラザフォード_の元で原子核に対する基礎知識を吸収 して先進的な考察の土台を作っていきます。そもそも光学顕微鏡で見えないほど 小さい領域にまで議論が進んでいくのですが、 その世界に対して考察を止めることなく 幾多の議論を重ね、 量子力学を確立していきます。例えば今でも原子の大きさを議論する時に 「ボーア半径」という言葉を使います。この言葉はボーアの時代に確立されていった概念です。その後、ボーアはイギリスから帰国後に 幾多の仲間をコペンハーゲンに集め、 コペンハーゲン学派と呼ばれた仲間を形成します。コペンハーゲンでまとまった解釈は コペンハーゲン解釈と呼ばれるようになり、 それまでの物理学でのスタイルを変えていきます。ボーアとコペンハーゲン解釈 コペンハーゲン解釈は微視的世界での「観測に対する考え方」です。光学顕微鏡で微細な世界を覗いても分解能の問題で どうしても画像がぼやけてしまう「限界」にいきつきます。アルファー線やベータ―線といった粒子線を 純度の高い物質に当てて、光路から 内部構造を予想しようとする試みも 色々な形で繰り広げられました。日本では寺田寅彦の時代にそうした解析が 行われています。解析の蓄積を辻褄(つじつま)の合う 総合理論で結びつける体系が必要とされていたのです。目で見てとれる現象は顕微鏡の分解能の範囲で 終わってしまいます。実際にはそれ以下の大きさで 繰り広げられる現象が存在していて、 観測しようとして光を当てると(光子を作用させると)、 「観測する事情」で「状態をかき乱してしまう」のです。位置と運動量の微視的分解能の限界をA・アインシュタインと ボーアが論じた話などが今に残っています。また段々に分かってくるのですが、後にパウリが示す スピンの自由度も電子は持っていて「軌道半径だけを イメージして議論すれば話が終わる」訳ではないのです。その中でボーアは本質的な「ボーアの量子化条件」を用いて 様々な現象を新しい議論の枠組みで説明してみせます。長さスケールで10の−10乗メートル程度の微視的領域では、「位置等の観測値」が「とびとびの値」を示すのですが、 その事象を現実世界での本質的な性質であると提唱したのです。原子半径、磁気的性質も現代では、その形式で考えるが方が わかりやすい訳です。師であるラザフォードの原子モデルに 改良を加えてボーアモデルを作りあげます。第2次大戦時のボーア第二次世界大戦が始まると、ボーアの人生も大きく揺さぶられます。 1940年4月、ドイツ軍がデンマークを占領しました。 ボーアはすぐに国外へ逃れるのではなく、占領下のコペンハーゲンに残り、 研究所と研究者たちを守ろうとしました。ボーアは1930年代から、ナチス政権によって迫害された科学者たちの 国外脱出を支援していました。第二次世界大戦が始まった後も、 科学者としての立場を利用しながら、研究者を守る活動を続けています。この時期のボーアを語るうえで興味深いのが、 「Maud Ray Kent」という言葉をめぐる逸話です。 1940年、ボーアが英国側へ送った電文の末尾には 「Cockcroft and Maud Ray Kent」という名前が記されていました。英国側では、この「Maud Ray Kent」が何を意味するのか分かりませんでした。 そこで秘密の暗号ではないかと考えられ、 文字を組み替えることで「radium taken(ラジウムが取られた)」 という意味になるのではないか、と解釈されたのです。 この出来事が、後に英国の原子爆弾研究委員会 MAUD Committeeの名称につながったとされています。ところが戦後になって、この「Maud Ray」は暗号ではなく、 ボーア家で子どもたちの英語を教えていた女性 Maud Rayであり、彼女がKent出身だったことが分かりました。 つまり、歴史的な秘密情報と思われた言葉には、 実はボーア家の日常生活に関係する人物の名前が含まれていたのです。リーゼ・マイトナーはイギリスにいる甥に手紙を出します。その中で 「最近 ボーア夫妻に 会い、 二 人 とも 元気 だ が 事態 に は 悲んでいる。 核物理学者 と モード ・ レイ ・ ケント ( Maud Ray Kent ) に 知らせて 」 という 電文 を打ちました。 受け取っ た 英国の物理学者達は モード ・ レイ ・ ケント( Maud Ray Kent ) に 心当たり が なかっ た ため 、 それ を 何 か の 秘密 の メッセージ だ と 考え て 一 か所 “ y ” を “ i ” と 読み替えるました。つまりそれ が 「 ラジウム とら れた 」( radium taken ) の アナグラム だ と 解釈 できる こと に 気がつい たのです 。イギリスの G・P・トムソン のグループは この アナグラム から事態の深刻さを受け止めたのです。 (ノーマン・マクレイ著「フォン・ノイマンの生涯」より太字部抜粋)この逸話は、第二次世界大戦下で科学者同士がどのように情報を 伝えようとしていたのかを考えるうえでも興味深い出来事です。 同時に、核物理学の研究が戦争と急速に結びついていった時代背景を 象徴するエピソードでもあります。占領下のデンマークからスウェーデンへボーアは1940年のデンマーク占領後もしばらく国内に留まりました。 しかし戦争が激しくなり、ナチスによるユダヤ人迫害が デンマークにも及ぶようになると、状況は急速に危険になります。1943年、ボーアはついにデンマークから脱出することになります。 まずスウェーデンへ逃れ、その後イギリスへ渡りました。 さらにアメリカへ移り、核兵器開発に関係する研究にも接することになります。ただし、ここで重要なのは、ボーアが単純に核兵器開発を推進した人物 というわけではないことです。彼は戦後の核兵器による国際的な対立を 強く懸念し、科学情報を国家間で閉ざすのではなく、 国際的な透明性を高める必要があると考えていました。この考え方は、戦後にボーアが「開かれた世界」を訴えた活動にも つながっていきます。核物理学の発展によって科学と国家安全保障の 関係が大きく変化した時代に、科学者にはどのような責任があるのか。 ボーアは晩年まで、この問題を考え続けました。そして晩年ボーアはデンマーク最高の勲章である エレファント勲章を受けています。 その際には東洋密教で使う陰陽のマーク を模してボーア家の紋章を デザインしたと言われています。また、英国の王立協会では 外国人会員の栄誉を受けていました。ボーアとつながる物理学者たちニールス・ボーアの仕事は、ボーア一人だけで完成したものではありません。 ラザフォードの原子核模型を出発点として、ボーアが原子模型を発展させ、 その後の量子力学へと議論が受け継がれていきました。 ここでは、ボーアを中心とした物理学史上のつながりを整理しておきます。原子模型から量子力学へ◀ 前の人物:アーネスト・ラザフォード 原子核を発見し、原子の中心に小さな原子核が存在するという 原子模型を提示しました。ボーアはラザフォードのもとで研究し、 この原子核模型を量子論によって発展させました。▶ 次の人物:ヴォルフガング・パウリ 電子のスピンや排他原理などを通じて、 ボーアの原子論をさらに量子力学へと発展させました。 ボーアを取り巻いた量子力学者 アルベルト・アインシュタイン ボーアとは量子力学の解釈をめぐって激しく議論しました。 特にソルベー会議での議論は、量子力学における 「観測とは何か」という問題を考える上で重要です。 マックス・ボルン 波動関数に対する確率解釈を提示した人物です。 ボーアが中心となった量子論の議論と、 量子力学の数学的・確率的な解釈を結びつける重要人物です。 ヴェルナー・ハイゼンベルク 行列力学を構築し、不確定性関係を提唱しました。 ボーアのもとで議論を重ねながら、 量子力学を数学的に完成させていった重要人物です。 ポール・ディラック 量子力学をさらに数学的に発展させ、 相対論的量子力学を構築しました。 ボーアの時代に始まった量子論が、 次の段階へ進んでいく過程を考える上で重要な人物です。 エルヴィン・シュレーディンガー 波動力学を構築し、シュレーディンガー方程式によって 量子状態を記述する新しい方法を提示しました。 ボーアの原子模型から現代量子力学へ移行する流れを理解する上で 欠かせない人物です。 ポール・エーレンフェスト ボーア、アインシュタイン、ローレンツらを結びつけ、 量子力学と統計力学をめぐる議論を深めた人物です。 物理学者同士の議論をつなぐ存在としても注目できます。ボーア以前の物理学を知る マックス・プランク エネルギー量子の考え方を導入し、 量子論の出発点を作った人物です。 ボーアの前期量子論を理解するためにも重要です。 J・J・トムソン 電子を発見し、原子がさらに小さな構成要素からなることを 示しました。ボーアが原子構造を考える前段階の 物理学を理解する上で重要な人物です。 寺田寅彦 日本の物理学黎明期を代表する研究者の一人です。 X線や結晶などをめぐる研究を通じて、 日本における近代物理学の発展にも貢献しました。量子力学の人間関係をたどるボーアの研究を理解する面白さは、 一人の物理学者の業績だけを見るのではなく、 誰から何を受け取り、誰と議論し、 次の世代へ何を渡したのかを追えるところにあります。ラザフォードの原子核模型からボーアの原子模型へ。 そこからパウリ、ハイゼンベルク、シュレーディンガー、 ボルン、ディラックらによって量子力学が形作られていきます。 さらにアインシュタインとの議論は、 量子力学そのものだけでなく、 「観測するとは何か」という物理学の根本問題へとつながりました。この流れを人物ごとに追っていくと、 20世紀初頭に物理学の世界で起きた 大きなパラダイムシフトが見えてきます。関連する物理学者: ラザフォード → ボーア → パウリ → ハイゼンベルク → ディラックこの分野の物理学者: プランク、 J・J・トムソン、 アインシュタイン、 ボルン、 シュレーディンガー、 エーレンフェスト、 寺田寅彦 〆|コスパ最強・タイパ最強・テックジム| プログラミング教室の無料カウンセリング【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 適時、返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2020/08/31_初版投稿 2026/08/22_改定投稿サイトTOP 舞台別のご紹介 時代別(順)のご紹介 デンマーク関係へ イギリス関係 ケンブリッジ関連 熱統計関連のご紹介へ 量子力学関係へAIでの考察(参考)【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】(2021年10月時点での対応英訳)Bohr’s upbringingBohr played a demanding role in the development of quantum mechanics. He was also at the center of the discussion at the Solvay Conferences, standing at the right end of the middle row in the photo used in the TOP picture.Bohr was born in the Kingdom of Denmark, a constitutional monarchy of the Jutland Peninsula facing the North Sea and many of its surrounding islands. On the one hand, he was a goalkeeper in the amateur soccer player league, AB Copenhagen, when he was young. Bohr is also such a person.Bohr and AtomismAnd Bohr continued to provide pioneering theories in old quantum theory. Bohr refines the imperfect atomic image at the time and proposes his own atomic model.He first studied abroad in England in 1911, and under the guidance of JJ Thomson and Rutherford, he absorbed basic knowledge about atomic nuclei and proceeded with advanced consideration. In the first place, the discussion goes to a level that is too small to be seen with an optical microscope.He continues to discuss the world with many discussions and establish quantum mechanics. For example, he still uses the term “Bohr radius” when discussing the size of an atom. This word is a concept established in this era.After returning from England, Bohr gathered many friends in Copenhagen to form a group called the Copenhagen School. The collective interpretation came to be called the Copenhagen interpretation, changing the style of physics up to that point.Bohr and Copenhagen InterpretationThe Copenhagen Interpretation is the “thinking about observation” in the microscopic world. Even if you look into the minute world with an optical microscope, you will reach the “limit” where the image will be blurred due to the problem of resolution.Attempts to predict the internal structure from the optical path by applying particle beams such as alpha rays and beta rays to high-purity substances have also been made in various forms. In Japan, such an analysis was carried out during the time of Torahiko Terada. There was a need for a system that would connect such accumulations with a theory that fits Tsujitsuma.Phenomena that are visible to the eye end up within the resolution of the microscope. Actually, there is a phenomenon that unfolds in a size smaller than that, and when light is applied to observe it (when photons act), it “disturbs the state” due to “observation circumstances”. There is a story that discusses the limit of microscopic resolution of position and momentum with A. Einstein.Also, as we gradually understand, electrons also have the degree of freedom of spin that Pauli shows later, and the discussion does not end if we discuss only by imagining the orbital radius.In it, Bohr explains various phenomena using the essential “Bohr’s quantization condition”. In the discussion on the scale of 10-23 meters on the length scale, “observed values such as position” indicate “staggered values”, but we propose that the phenomenon is an essential property in the real world. I did.In modern times, it is easier to understand the atomic radius and magnetic properties in that format. He will improve the atomic model of his teacher, Rutherford, to create the Bohr model.And his later yearsBohr has received the Order of the Elephant, Denmark’s highest medal. At that time, he is said to have designed the coat of arms of the Bohr family, imitating the Yin-Yang mark used in Oriental esoteric Buddhism. He also received the honor of a foreign member at the Royal Society of England.〆FacebookXBlueskythreadsHatenaCopy