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老人の呟きから8月末抜粋_・なおし魔 【2011-04-19】・Heisenbergがノーベル賞を単独受賞した訳 【2011-05-27】・「坂田昌一の生涯」を読む 【2011-11-04】・坂田昌一の寺田寅彦批判 【2011-11-12 】・久保亮五の統計力学 【2011-11-19】・Boltzmann 因子 【2012-02-16】・Yangの新しい論文 【2012-02-17】・「素粒子論研究」終刊号 【2012-02-28 】・遠山啓と武谷三男2 【2012-03-08】・Pauliの行列の導入 【2012-03-19 】・ライフログ 【2012-04-11】・外村彰氏の死 【2012-05-03 】・四元数と線形代数 【2012-05-07】・『千の太陽よりも明るく』 【2012-07-11】

なおし魔 【2011-04-19】

私は「なおし魔」である。だからこのブログでも誰かからアクセスされたブログを見て、再度自分で読んで、変な表現を自分でしていたと思ったら、どしどし文章を直している。

そういう意味では記録などおかまいなしである。もっとも後の時点での訂正とか付記であることをはっきりさせるために(何年何月何日付記)と書いていることもあるが、そういう付記をしないことも多い。

そういう文書の訂正をした人として私と比べるととてもおこがましいが、二人のとても有名な人がいる。一人は有名な中国の革命家、毛沢東で彼は自分の書いた文書を彼の毛沢東選集か何かに収録するときに大きくは変えなかったかもしれないが、細かな修正をしたといわれる。だから、ある意味では歴史的な記録としては具合が悪いところがあるかもしれない。

もう一人の方は日本人の物理学者である、朝永振一郎博士である。彼はみすず書房から出版した彼の論文集で、全部自分の書いた論文を修正をしたといわれる。そしてその論文の受理の年月日も消してしまった。このことは私は知らなかったのだが、筑波大学名誉教授の亀淵さんがどこかで書いておられた。それで朝永先生の完璧主義は貫徹をしたのだろうが、歴史的文献としての意義が失われたと書かれていた。

そういった優れた人と比べるのはおこがましいのであるが、私のブログではどうもおかしな表現をしたり、また書き損じをしたり、言葉が足りなかったりとかいろいろミスが多い。

それでそれとは明示をせずに修正をしたりしている。特に読んでくださる方を間違ったところへと導いてはまずいので自分で気がついたまずいところはいつでも直すことにしている。

それで、よく問題にされるのが武谷三男の文章で彼は戦後「広島に原爆が落とされて、日本の軍国主義の野蛮が吹き飛ばされた」(ここでの引用表現は正確ではないことを了解してください)というようなことを書いている。そしてそのことを修正はしないで彼の著作集にそのまま収録されている。

それは彼のある種の律儀さや率直さを示しているのだが、これが他の学者や評論家から原爆の悲惨さを指摘しなかったという意味で、非難の的になったりしていることである。

修正をしても、またはしなくても論争の的になったり、されたりする。私はここに挙げたような有名な人物ではないし、大したことをブログで述べているわけではないので、論争に巻き込まれることもないだろうが。

Heisenbergがノーベル賞を単独受賞した訳 【2011-05-27】

マトリックス力学とは今では量子力学といわれている、20世紀前半に展開された原子中の電子の力学である。もちろん量子力学は原子中の電子だけを対象にする力学ではないが、誤解を恐れずこう言っておく。

マトリックス力学はもちろんHeisenbergの卓抜なアイディアから始ったが、しかしその数学的な展開にはBornとJordanの貢献が大きかった。BornとJordanとのHeisenbergの論文の数学展開とその後のHeisenbergも含めた有名な三者論文で彼らはマトリックス力学を完成させた。

BornはHeisenbergの先生の一人である。

ところが、1932年にノーベル賞を受賞したのはHeisenberg一人で、BornとJordanははずれていた。そのことについてのBornの苦悩は大きかったことが彼の告白によってわかるのだが、BornはHeisenbergが優秀であることを自分で言い聞かせて自分を納得させたとどこかで読んだ。

その後、1956年にBornは単独で量子力学の確率解釈で、ノーベル賞を受賞するのだが、ここでも政治的な意図が働いていたと、ごく最近の研究でわかったらしい。

これら事情にはJordanがからんでいる。Jordanはナチドイツ下で、ナチの思想に共鳴していたのみならず、その重要な活動の一翼を担っていたらしい。

それで、Heisenbergのノーベル賞受賞のときにノーベル賞の委員会はBornとの同時受賞も考えたらしいのだが、Bornにノーベル賞を与えるとJordanにもノーベル賞を与えない訳には行かなくことになるとの理由で、それを阻止するためにHeisenberg一人の受賞と決定したらしい。

その後、第2次世界大戦後の1956年のBornの受賞のときにもJordanの関係しない業績に対してノーベル賞を授与することにしたらしいと、ごく最近にインターネットのサイトで読んだ。

1976年にアーヘンであったニュートリノ国際会議の際にはまだJordanは存命であったが、そのときに1976年2月1日に亡くなったHeisenbergの追悼講演をJordanがした。もっともこのときの講演はドイツ語でされたので、私にはほとんどわからなかった。

その後まもなくしてJordanは亡くなってしまって、もう歴史上の人物になってしまっている。

ノーベル賞とナチとは受賞者において関係がある。光電効果の実験で有名なLenardもそういう学者の一人であり、賞金を投資とかに使ってはいけないとかの賞金の規約があるらしいが、それに違反して物議を醸したことがあると昔読んだ記憶がある。

また、Stark効果で有名なStarkもノーベル賞の受賞者だが、彼もナチの思想の信奉者でドイツ主義運動とかに関与したとか言われる。そういうことがあったので、ノベール賞選考委員会としては慎重であったのかもしれない。

・「坂田昌一の生涯」を読む 【2011-11-04】

昨日、知人の西谷正さんから、彼の労作である「坂田昌一の生涯」を送ってもらった。

それで今朝の4時ごろまでかけて読んだ。とはいっても470ページを越す大著であるから、これは拾い読みにしかすぎない。

一言でこの本を評価することはできないし、またそれをすることは著者の西谷さんに失礼でもあるだろう。彼の多年にわたるご努力に感謝をしたい。

確かに益川さんの序文にもある通り一読に値する書であり、ほとんどなんでも書いてある。これは単に坂田の生涯だけではなく、彼と関係のあった、湯川、朝永、武谷等との交流の記録でもあるだろう。

私は武谷三男の伝記を書くとか、書きたいと言っているのだが、その作業は遅々として進まない。

ひょっとすると鶴見俊輔さんは武谷の伝記を書く気持ちがあったかもしれないのだが、私が書きたいといっているので、我慢をして書かないでおられるのかもしれない。

この書は坂田先生の物理についても述べてあり、また、社会活動についても書いてある。それもなかなか詳しく調べて描かれてある。

坂田はその門下生が多くて、それらの門下生に慕われていたので、坂田自身は自分についてはあまり語らなかったが、それでも坂田について語る方は多い。それがこの伝記の深みを与えている。

私個人は坂田の言説としては、「階層性の論理」とか「形の論理から物の論理へ」という主張が印象的であり、それらについてもう少し踏み込んだ考察が欲しかった気がする。

しかし、これは個人的な好みであって、それだからといってこの書が極めて優れた書であることには変わりがない。

・坂田昌一の寺田寅彦批判 【2011-11-12 】

「小屋掛け物理学」と寺田寅彦の物理学を批判する人はいう。

これは私の知る限り、原光雄とか武谷三男とかまた菅井準治とか唯物論の立場に立つ、物理学者等が言っていたことであり、坂田昌一も同じ批判をもっていたことが、西谷正さんの『坂田昌一の生涯』(鳥影社)でわかった。(ちなみに原光雄は化学者である)。

これは寺田物理学の一つの側面だとは思うのだが、寺田寅彦のやった研究にはその側面に限らずもう少し範囲が広いというのが、私の現在の判断である。それは絶対正しいということではなくて私の感じなので正しいかどうかわからない。

この判断は、岩波書店が寺田寅彦の科学論文の著作集を出したことがあり、そのときにそれを私は購入しなかったが、そこに出ていた論文のリストを見て思ったことであった。

ただ、普通の市民に卑近な物理学として受けのよかった寺田物理学には上の方々が与えた批判は当てはまるのかもしれない。だから寺田物理学の流れを汲む、中谷宇吉郎についても二つの評価の見解がありうると思う。

寺田寅彦の研究には、寺田小屋掛け物理学的な批判の当てはまる側面とそうでない側面があるという認識が必要だと思う。ロゲルギストについては私はこの別の側面があるのかはわからない。だから、これについては判断を保留しておきたい。

その寺田物理学の別の側面があったかどうかということに対する、西谷さんの見解の表明は『坂田昌一の生涯』には出ていなかったと思うし、この書は坂田の伝記であり、西谷さんの見解が問われている訳ではないから、この坂田の見解に西谷さんがどう思ったかを書く必要はないのだが、個人的にはどう思われているのだろうということは知人としては関心がある。

文学としての寺田寅彦全集が出たときに武谷三男も岩波書店の求めに応じて、推薦文を書いていたと思うが、彼は寺田物理学の批判と共に寺田寅彦は権力的ではなかったと、彼のいい側面の指摘もしていたように思うが、それはもう記憶が薄れてさだかではない。

(2013.2.11付記) 人の目に触れる文章は記憶で書かないでちゃんとしたことを書けということをコメントをもらった。

上の部分のどこがそうだったのかわからないが、最後の部分だとすれば、記憶が薄れて定かではないと書いたが、寺田が権力的ではなかったという指摘は間違いがないと思うので、そんなに無責任なことを言ったわけではない。一言お断りをしておく。

これが武谷の現代論集に載っていたのか、それとも論集には載っていなかったが、寺田寅彦全集の広告のためのパンフレットに載っていたのか調べたら、わかることだが、調べていない。

どうもコメントをされた人の指摘が具体的でないので、私の思い過しかもわからないが、上の文のどこかに問題があったとしても、ここは間違っていますよと指摘をすれば、すむことではないか。

もし私の記憶とかが間違っていたのなら、それは失礼をしました。ということになるだけであろう。

コメントも建設的にして頂きたい。

それにこれはいわゆる研究論文ではない。真偽のほども読む人の判断に委ねられる。これは論文との違いであろう。論文とエッセイとの違いを心得ないでいる人のコメントはそのままでは出せない。

また、自由な意見の表明もいけないという一種の言論統制だとも悪意をもってとれば、とれなくもない。そこまで意地悪く思っているわけではないけれども。

・久保亮五の統計力学 【2011-11-19】

久保亮五の『統計力学』というと、多分物理学を学んだ人は彼の『統計力学』(共立出版)を思い出すだろう。だが、ここではその有名な著書のことではない。

金曜日に古書でダイアモンド社の「新物理学講座」というシリーズ本を購入した。その中の1冊にこの表題の書があった。この書は100ページそこそこの小冊子なので、統計力学の考え方を中心に書いたとあとがきで書いている。

これの3章に気体の拡散について書いてあるが、いままで私がこういうことをなぜ統計力学の書で書かれてないのだろうと思っていたようなことが書いてある。まだ、十分に了解ができてはいないところもあるが、いままでの理解の隙間を埋めてくれるような気がしている。

これに近い書き方がされていることを私が知っているのは、和田純夫さんの『熱・統計力学のききどころ』(岩波書店)の第1章のはじめのところである。

それにチラッと見たことがあるのは横浜市立大学だったかに居られた都筑さんの著書に私の知りたいことが書いてあったように思う。その書の名は失念したが、森北出版から出された書であったと思う。

名著として有名な朝永振一郎の『物理学とはなんだろうか』(岩波新書)の中の熱力学と統計力学の項にもあまりヴィヴィッドには書かれていないことなので、少し欲求不満を起こしそうだった。とはいうものの、「物理学とはなんだろうか」が名著であることは間違いがないが。

M大学の薬学部でのリメディアル教育の数年前まで私が担当していた、物理講義でも熱力学については和田さんの本の一部を敷衍して講義をしていたが、あまり私の意図は学生には伝わらなかった。というのはたぶん、私とは熱力学とか統計力学とかでの問題意識が違ったからであろう。

私は「なぜ熱は高温から低温に流れるのか」を熱力学のテーマとして取り上げようとしたのだが、これは学生にとっては当然の経験的な事実であるから、それについて説明を必要とするという考え方はなかったに違いない。

もちろん、よく知られているように熱力学の範囲では、「系に何も仕事をしないと、熱は高温から低温に流れる」というのは熱力学の第2法則そのものであってその熱力学の範囲では説明できることではない。

しかし、熱力学のそういう側面を正面から統計力学の専門家は取り上げないのかと思っていたが、さすがに久保先生はそのことをわかりやすく説明する必要を感じておられたことがわかった。

私と同じ問題意識を物理を教えておられる方々が持っているかどうかはわからないが、高校等で熱力学や統計力学を真剣に教えようと思っておられる方には表題の書は役に立つに違いない。図書館等で見てみられることをお勧めしたい。

・Boltzmann 因子 【2012-02-16】

大学院生の頃だったかN教授のところへ、石原明先生だったか統計力学の専門の先生が来られて、そのときに簡単なBoltzmann 因子の導き方についてのそれほど長くはない話を聞いた気がする。

しかし、その頃Boltzmann因子などにまったく関心がなかったので、まったくどのような話だったかは覚えていない。ノートをとっておくべきだったかと今ごろになって思っているが、もう遅すぎる。

その後、Feynmanの講義録でBoltzmann因子とかBoltzmann分布に感心した覚えがある。そしてそのFeynmanの知見を私の講義のネタの一つにしていたとはこのブログで書いたことがある。

昨日、インターネットで検索してみたら、日本語のサイトではBoltzmann因子という項目では検索にはかからなかったが、Boltzmann分布ではかなりの数のサイトがあった。だが、英語ではさすがにBoltzmann Factorという語が検索にかかった。

私はこのfactorとか因子という語とか概念が大切であるという気がしている。普通にBoltzmann分布となるには正規化の定数が必要になるが、これは後から計算で決めてやればよい。大切なのはこのBoltzmann因子である。

もちろん、この正規化定数を決めるためには積分するとか和をとることが必要であるが、それはある数学的な手続き(*)をとれば、比較的簡単に決められるというようなことをエッセイに書こうと思っている。

(*)  被積分関数中に現れるパラメーターで微分して積分値を求める方法

定年退職の前の数年、熱力学を教えることになって、それを担当したが、そのときに「Boltzmann因子が大事なのだよ」と講義した。そのことをノートに書いてあるので、それをエッセイを書いておこうとしているが、そのためにはまたFeynmanの講義録を読み返したい。

だが、その気持ちがそのうちにその気が失せてしまうかもしれない。

・Yangの新しい論文 【2012-02-17】

C.N. Yangは1922年の生まれというからもう今年には90歳になるが、最近、物理の歴史についての論文を書いた。それがInternational Journal of Modern Physics Aの最近号に出ている。これはFermiのベータ崩壊の理論について書いたものでとても面白かった。

Yangは1970年代のあるときにWignerにあって、「Fermiの一番優れた仕事(研究)は何か」と尋ねたら、即座にそれはベータ崩壊の理論だとWignerから言われた。

Yangはベータ崩壊の理論がFermiの重要な業績であることには同意したが、それでもその頃にはすでにGlashow-Salam-Weinbergの電弱理論で、Fermiのベータ崩壊の理論は今から見ると過渡的な理論であったことがわかったので、Wignerの意見には心底からは同意できなかったらしい。

それでそういうことを趣旨のことをWignerに言った。そうすると、そのときにWignerはこのFermiのベータ崩壊の理論は当時の物理学者たちに与えた衝撃の大きさを語った。

それでこの感覚のジネレーション・ギャップを埋める話をこの論文に書いている。そしてやはりWignerのいうことが正しかったという。

そのYangの言い分を正しくわかってもらうには彼の論文を読んでもらうのがよい。ここで私が下手な要約をするよりは。

さらに、それに加えてYangらしさがこの論文の末尾に出ている。それはP. Jordanの業績の評価である。Jordanは量子力学に重要な寄与をしただけではなく、場の量子論にも重要な寄与をしたのに正当に評価されていないという。

現在ではJordanの評価が正しくなされなかったのはJordanがナチを政治的に支持したことによるものだということが言われており、このブログでもそのことがインタネットのサイトで言われているといつか述べたことがある。

科学者の政治的な立場はその業績の科学的評価にも及ぶ。しかし、Yangはそのことにはあまり賛成ではなく、評価をすべきは評価すべきだと考えたらしい。

他にもYangはOppenheimerのblack holeやneutron starの研究業績を評価していることやDysonが量子電気力学の研究でノーベル賞をもらえなかったことは、ノーベル賞は3人以内という内規があるとはいえ、残念だと他のところで述べている。

・「素粒子論研究」終刊号 【2012-02-28 】

昨日、帰宅すると部厚い郵便物が「素粒子論研究」編集部から届いていた。やけに厚いのでなんだろうと思ってその封を開けてみたら、3冊の「素粒子論研究」終刊号119号が入っていた。夕食後にはテレビを見ないでこの3冊を読んだ。

私たちが発行している『数学・物理通信』をご自分のサイトにリンクしてくださっている、名古屋大学の谷村省吾さんの書いた「ハイゼンベルク方程式はハイゼンベルクがはじめて書いたわけではない」というおもしろい題のエッセイは、実におもしろかった。実際の科学と後世の一般的な流布されていることはまったく違うことがわかる。

だから、その事実を忘れないようにしようというのが谷村さんの言いたいことらしかった。先日読んだYangの論文でもその時代に生きた人たちと後世の人たちとの受け取り方のずれを問題にしていた。

旧知の物理学者Kさんは素粒子論研究の編集長もされた方だが、「素粒子論研究」の65年を振り返っておられた。その中に私がまとめた『武谷三男博士の業績リスト』と『武谷三男博士の著作目録』にも言及されており、その資料の作成者としてはうれしかった。

Kさんは「素粒子論研究」は最後には280部くらいの発行部数であり、素粒子論グループのメンバー数からいうとあまりメンバーから注目を集めなかったというが、それでも興味深い記事がなかったわけではないという。

今後は「素粒子論研究」電子版が存続するが、冊子体の「素粒子論研究」は119号で終わりとなった。名残惜しいがしかたがあるまい。

最後の編集長となった笹倉さん、事務的な業務行った野坂さん有難うございました。

・遠山啓と武谷三男2 【2012-03-08】

前に「遠山啓と武谷三男」という題でブログを書いたことがあるので、今回は「その2」とする。

私が「日本の古本屋」古本の出品をときどきチェックしている人に武谷三男と遠山啓がいる。

そのチェックに最近引っかかったのが、岩波のPR誌「図書」の遠山についての記事(2009年11月号)で、仕事場の書棚を見に行ったら、その当該号があった。

それは野崎昭弘さんの「遠山啓と数学教育」というテーマのエッセイであった。これは前に多分読んだのだと思うが、読んだ記憶が残っていなかった。

2009年は遠山の生誕100年であった。それで岩波書店が野崎さんにその生誕100年を記念して寄稿をお願いしたのだろう。

野崎さんは生前遠山に会ったことはなかったと書いている。電話で多分雑誌「数学セミナー」の原稿を遠山さんから頼まれたらしいが、数値計算のことに関係していたので、専門ではないからと断ったと書いている。

(注: 遠山さんと矢野健太郎氏とは雑誌「数学セミナー」の共同編集人であった)

その後、野崎さんが数学教育協議会の委員長を引き受けたから、面識があったかと思ったがそうではなかったらしい。

私は野崎さんのような有名人物ではないし、二人きりで遠山さんに会ったことはないが、松山で数教協の全国大会があったときに松山市民会館での講演を聞きに行った。講演の後で、遠山さんに質問までした。

そのときの話は競争原理を教育の分野から追放しようという、遠山さんらしい主張であり、教師は「点眼鏡」をはずそうという趣旨の話であった。

そのころは私はまだ数学教育にはそれほど関心がなかった。これは1978年のことではなかったかと思う。この次の年の1979年に70歳で遠山さんは意外に早く亡くなった。

その後、私は1985年くらいから教育への関心が大きくなってきて、愛媛県の数学教育協議会の学習会に顔を出すようになった。もっとも熱心な出席者ではなく、気が向いて時間がとれるときという制限がある。

武谷についてだが、1965年だったか私が大学院生のころにO教授から「誰が集中講義に来てほしいか」といわれて「武谷さんはどうですか」と言ったら、その意見が取り入れられて、立教大学から集中講義に来られた。

「物理学の方法論」という題の講義だったが、実際にされたのは「ケプラーがどうやって火星の軌道を決めたか」という話であり、あまり方法論とはとかいうような大上段にかぶった話ではなかった。

その直後くらいに、「科学入門」(勁草文庫)が出されたが、そのPRもさりげなくされたと思う。

つぎに、武谷さんを見かけたのはその後1968年の夏だったか、それとも、もう秋だったかに京都大学の基礎物理学研究所に研究会か何かで来られているのを基礎研の共同利用事務室で見かけた。

白いワイシャツの袖を腕まくりしており、そのアンダーシャツが長袖でいかにもアンバランスだったのを覚えている。

50年くらい昔はワイシャツは長袖で夏になると、腕まくりして半袖風に折り返して着るというのが粋という感じだった。

今では夏には半袖のシャツを着るのが普通になっているが。私などは武谷さんとは親子ほど歳が違うのでもう大学院を出る頃には半袖のシャツを着ていた。

遠山も武谷も学校嫌いだったということは前に書いたし、文学好きであることも書いた。遠山は将棋が好きであり、将棋をよくしたらしい。一方、武谷は文学のみならず、音楽にも絵画や彫刻、演劇にもなかなか造詣が深かったらしい。

伝記的な材料としては武谷は自分の小さい頃からのことや研究についても回顧録が出ており、材料に事欠かないのだが、人間的にも魅力的だとの見方は、特に女性からされていたらしい。

武谷がご家族からどう思われていたかはわからないが、鶴見俊輔さんによれば武谷さんのそういう側面を非常に好んでいた人がおられることは間違いがない。

ただ、物理学者の間ではその同僚たちに対して武谷が研究上で批判が厳しかったことから、かつて長期間グループを組んで研究をしていた方々からは反感があっただろうということは想像に難くなく、その点で武谷の評価はそう単純ではない(もちろん、これらの研究者の方々からは武谷に対する反感の声は直接には記録に残るように語られてはいないが)。

もっとも晩年に武谷と研究を共にされたN教授とかF教授はその範疇には入らないであろう。

彼の伝記を書きたいなどと私が言ったとき、哲学者の鶴見俊輔さんはいまにでもそういう武谷ファンの女性を紹介してくれそうだったが、なかなかその気になれなくて鶴見さんのご好意を無にしている。

遠山と武谷は共に九州出身であり(2024.9.21注)、遠山は幼少時には朝鮮に住んでいたが、父親の死後に熊本に帰り、その後、福岡で旧制高校に行った。武谷は小学校から高校までを台湾で過ごして、大学は京都大学に入った。

一方、遠山は東京大学の数学科に入ったが、ある事情で退学をして、数年後に東北大学数学科に入りなおし、そこを卒業した。二人とも東京に住んだが、権力に反骨で、体制に批判的な人生を送った。

(2012.3.9 付記) 上で遠山が東大を退学したのを「ある事情」とのみ書いたが、もうその事情をここで書いてもいいだろう。

その当時の東大の数学科の試験で自分の教えた通りに解答を書かないと単位を出さないという教授がおられて、そのことは先輩から聞いて遠山は知っていたのだが、思わず試験のときに自分流の解答を書いてしまったらしい。その科目は必須科目であったから、あと何年数学科に在学しても卒業できないので、その教授の定年の年に退学をしたという。

退学をするときに尊敬していた高木貞治教授には「退学します」という挨拶に行ったとはどこかで読んだ。

また、その合格させなかった教授のイニシャルは高木さんと同じTであることはわかっている。遠山が東大嫌いであったかどうかは知らないが、そういういきさつがある(2023.11.23 注)。

ちなみに湯川秀樹博士の自伝『旅人』(朝日新聞社)に高校で、先生の教えた通りに解答しなかったために、その解答が間違っていたわけでないのにバツにされて、立体解析幾何学の点数が60点代だったことがあるという記述があった。

湯川博士が数学者にならなかったのはそのせいもあるかと思われる。

(2015.11.28注) 遠山は熊本県が父親の郷里だが、武谷は山口県光市が父親の郷里だという。坂田昌一の祖先の郷里は山口県の柳井市だったらしい。少なくとも坂田のお墓は柳井市にあるという。

(2020.12.4付記) 個人的には光市に行ったことはないが、大学時代の親友の出身地がこの光市であり、この親友は若くして亡くなってしまったが、光市と聞くと妙に懐かしく感じる。この光市も私の出身地の今治と同じく海岸の清松白砂がいいらしい。これは若くして亡くなった親友のH君の言であった。
(2023.11.23 注)上に「合格させなかった教授のイニシャルは高木さんと同じTであることはわかっている」と書いたが、これはまちがっているのかもしれない。遠山さんには坂井という教授のことを書いたエッセイがあり、この教授のご機嫌を損ねたことがこれほど祟るとは思わなかったと書いた文章がある。
(2024.9.21注) 上に武谷は九州の出身と書いた。福岡県大牟田市で生まれたことは事実だが、武谷の両親は現在の山口県光市の出身である。
・Pauliの行列の導入 【2012-03-19 】

先週の火曜日に京都産業大学の名誉教授のSさんの講演が愛媛大学であり、彼の新しい構想の理論を聞いた。その中味の正否はすぐにはなんともいえないが、ちょっとした壮大な構想の理論であった。

その話のいとぐちとして話をされたx^{2}+y^{2}+z^{2}の因数分解からPauliの行列がごく自然に導入されることが印象的だった。

これはSさんの話の単にほんのいとぐちの話題にすぎなかったのだが、私自身はどういう風にPauliのスピン行列を導入するかにいままで関心をもったことはなかったので、新鮮な感じがした。これについてはいつか因数分解というテーマで数学エッセイを書いてみたいと思う。

このx^[2}+y^{2}+z^{2}の因数分解ほど高尚なことではないが、私の子どもが大学の理工系学科の卒業生であるのにx^{3}-1の因数分解の公式を忘れてしまっていたという話を昨日聞いた。それで、今朝起きてから、もしこの公式を忘れてしまったら、どう対応したらいいかという数学エッセイの草稿を書いた。

すぐに思いつくx^{3}-1の因数分解を求める方法は因数定理を使うことであろう。

f(x)=x^{3}-1とするときx=1をf(x)に代入するとf(1)=0であるので、x-1という因数があることはすぐにわかる。したがって、x^{3}-1をx-1で代数的に割る演算を行えば、x^{3}-1=(x-1)(x^{2}+x+1)と因数分解できることはすぐにわかる。

割る算を直接しなくても、x^{3}-1をx-1で割ればその商は2次式であるから、その2次式を仮定して未定係数法で決めてもよい。そのような内容を数学エッセイの草稿に書いた。

しかし、私の子どもはこの因数定理を忘れていたのであろう。おいおい、高校の数学も身についていなかったのか。よく大学の理工系学部に合格したものだったな。

(2012.3.21付記)

Pauli行列 \sigma は物理を学んだ人は大抵知っている2行2列の行列である。京産大のSさんの話のPauli行列の話は結局

x^{2}+y^{2}+z^[2}=(x \sigma_{x}+y \sigma_{y}+z \sigma_{z])^{2}

となるような \sigma_{x}, \sigma_{y}, \sigma_{z} を求めることであり、

\sigma_{x}^{2}=1, etcとか \sigma_{x}\sigma\{y}+\sigma\{y}+\sigma_{x}=0

であるような \sigma行列を求めることであり、よく知られたPauli行列は確かにこのような関係を満たしている。かつ

\sigma_{x}\sigma\{y}-\sigma\{y}-\sigma_{x}=2i \sigma_{z}

のような交換関係も成り立つ。

このような代数をClifford代数という。いつだったかDirac方程式に出てくる、\gamma _{\mu}等の満たす代数がClifford代数の例であると理化学辞典を調べて書いたが、Pauliの行列もCliford代数の例であることを知った。あのときに \gamma 行列以外にClifford代数の例を知りたいと書いたが、その解答はPauli行列であった。

どうもClifford代数と聞くと難しいという印象をもつが、

x^{2}+y^{2}+z^[2}=(x \sigma_{x}+y \sigma_{y}+z \sigma_{z])^{2}

を満たすような代数だと知れば、それほど恐ろしくはなくなる。どうしてこのような数学の教え方があまりされないのであろうか。それとも私が知らないだけなのか。

・ライフログ 【2012-04-11】

先日、NHKのクローズアップ現代でライフログというのが流行っているという現象を取り上げていた。ほとんど時々刻々の自分の生活の記録をとる人が増えているという。「なんとせわしいことよ」と思う私は古代人であろうか。

そういえば、40年以上昔に知り合った、化学者のある先生は日記をつけるのを日課としていて、いつも日記帳を携帯しており、彼が当時滞在していた、イギリスのバーミンガムから彼の家族と共に当時私たちの住んでいたマインツにやって来たときに愛用の日記帳を携えていた。

とはいっても彼は別にイギリス人ではなく、日本人でそれも私の勤めていた大学の学部は違うが、先生であった。そして彼からゲッチンゲンを訪れたという話を聞いた。それはそこが量子力学発祥の地であるからということであった。そこで、彼は核分裂反応の発見者のオットー・ハーンの墓を訪れたと話してくれた。

それまで私は大学工学部で8年近く量子力学を教えていたが、在独中にゲッチンゲンに行ってみようという気はあまりなかった。それがこのK先生の話を聞いて一度はそこを訪ねたいと思った。

その後、今度は逆に8月の終わりに一家でバーミンガムの彼の家を訪問したが、そのときはまだゲッチンゲンには行っていなかった。

ゲッチンゲンが私に親しくなかったわけではない。学生のころにロベルト・ユンクの「千の太陽よりも明るく」の翻訳が出版されて、それをはじめ妹が大学の図書館から借りて来たのだったか、それを読んで自分でもその翻訳本を手に入れて読んだ。これは本当に心躍る物語であった。いまでもこの本の翻訳を文庫で読むことができる。

ユンクはジャーナリストであり、小説家でないが、多分この書が彼の最高傑作であろう。原子爆弾へと到る原子物理学の発展の人間ドラマをまた、その地ゲッチンゲンを生き生きと描いていた。

私たちが実際にゲッチンゲンを訪れたのは1976年12月のクリスマスの後の雪の季節であった。そしてそのときの記念として市の中心街で買ったゲッチンゲンの市街図は鮮明だったそのオレンジの色はあせてしまっているが、私の仕事場に架かっている。

・外村彰氏の死 【2012-05-03 】

物理学の分野で大きな業績を上げられた外村(とのむら)さんが亡くなられたと新聞で知った。ノーベル賞候補になっていたほどの研究者で、もしもっと長生きができれば、ノーベル賞を受賞できた可能性は大きかった。

彼はBohm-Aharanov効果(普通にはA-B効果という)の実験的な検証で有名である。

A-B効果は磁場を感じるのは磁束密度Bではなく、ベクトルポテンシャルAであるということを理論的に主張したものであったが、その効果を実験的検証したことで知られる。有名なFeynmanの講義録にもこのAB効果の話はでてくる。

日本の企業である、日立で行われたこの研究は日立で研究開発された電子線ホログラフィーの技術を用いたもので、優れたものであったらしい。

日立は彼のノーベル賞受賞を後押しするために量子力学の国際会議まで主宰したが、彼の受賞には間に合わなかった。残念である。最近は日本人のノーベル受賞者がたくさん出ているが、彼もその候補の一人と言ってよかったと思う。

もっとも日立からノーベル賞をもらうような研究が出たからといって、日立全体が優れた企業であり、その製品が優れたものであるかどうかは別問題として個別に検討すべきことであろうが、それでも企業イメージがとても上がることは請け合いであろう。

外村さんは亡くなったが、彼は数冊の著書を遺しており、私もそれらの全部ではないが、何冊かをもっている。量子力学の本としては『目で見る美しい量子力学」(サイエンス社)というのがある。この本は量子力学の本としてはとてもめずらしく、数式は最小限度で写真とか図が多いという量子力学の書である。

私もいつか量子力学の書を著すことがあれば、外村さんの写真を提供してもらいたいと考えていた(そういう機会があるかは別として)。私自身は外村さんにはついに面識はなかったが、優れた実験物理の研究者を日本は失った。

・四元数と線形代数 【2012-05-07】

Hamiltonが考えだした、四元数は線形代数の源をつくった。

ところがHamiltonが自分の見出した非交換の代数系の発見をあまりに重要と考えすぎたために四元数にこだわりすぎて、細かな発見はあったが、大きな線形代数という流れをつくることができなかった。

これはたとえば、森毅氏の「数学の歴史」にも書かれている。そのどこが線形代数に受け継がれ、非交換であることよりも重要であったことは何かを書いたものはないかと探していた。

先週の土曜日に市中のジュンク堂書店に行って、カッツの「数学の歴史」を立ち読みしたら、四元数の積から出てきたスカラー積とベクトル積がむしろ重要なのであり、その他のことはあまり有用ではないということを後の数学者は悟って、それでいわゆるベクトル解析がギッブスとかヘビサイドによってつくられたのだとあった。

Croweの書いた、A History of Vector Analysis (Dover)という書もあるので、それを読めばいろいろなことがわかるのであろうが、どうもやはり英語を読むのは日本語を読むほどには早く読めないので、難渋している。

Stillwellの「数学の歴史」(朝倉書店)の多元数の章は四元数のことを書いてあり、私も読んではじめて知ったこともあったが、これには四元数はテンソル解析にその思想が受け継がれたと書いてあった。

どの数学の歴史の書物にもHamiltonが非交換の代数系をあまりに過大に評価して、彼の後半生をその発展に尽くしたことには批判的である。

それは後世から見るとそういうことが言えるのだろうが、その渦中におり、人類の歴史上ではじめて非交換の代数系を発見したHamiltonにそのことを要求することはかなり過酷な要求でもあろう。

そのいきさつを詳しく知ることとか、線形代数の出てきたいきさつとか、そのどこがキーポイントであったかということを知りたいと思っている。私には出来上がった線形代数そのものよりもそういういきさつの方が関心がある。

いまの数学のテキストはあまりに天下りでその理論の形成過程をダイナミックに伝えるという風ではないことが不満である。

しかし、これは詳細な数学史の研究に私が関心があるということを意味してはいないから、なかなか他人からは理解してもらえないだろう。

・『千の太陽よりも明るく』 【2012-07-11】

ロベルト・ユンクの『千の太陽よりも明るく』(Heller als tausend Sonnen)は優れたノンフィクションである。

いまは平凡社ライブラリーに入っているが、私が学生のときに読んだときは文芸春秋社から発行されていた。

ロベルト・ユンクはスイスのジャーナリストだと思っていたが、ベルリン生まれであり、もとはドイツ人である。だから、ナチスに迫害を受けて、ドイツから亡命したジャーナリストである。

この本はいうまでもなく、原爆の製造や開発へと向った、物理学者を主とした原子科学者の運命というか歴史を回顧した優れた読み物である。

だが、それをどれくらい多くの日本人が読んでいるのかとなると心細くなる。本当は多くの人に読んでもらいたい書である。

学生のときに、これを一日か二日かけて勉強をほったらかして、息も切らせず読んだ覚えがある。ところがこの書を推奨するとかいった人を書物や雑誌の中で見かけたことがない。

現在の平凡社ライブラリーでも、1,600円の定価なので、そんなに価格が安い訳ではない。だが、それでも本当は多くの人に読んでほしいと願っている。

最近、妻が市民劇場の演劇で「東京原子核クラブ」という理研の仁科芳雄グループに集った人たちを巡るドラマを見てきた。

その内容を聞いたわけではないが、それなりに興味深い演劇であったはずだ。これは日本でも原爆をつくろうとしたグル-プがあったとか、朝永振一郎氏とその近傍の人を巡るドラマである。

そういえば、『千の太陽よりも明るく』にも記述があったと思うが、2次世界大戦中にコペンハーゲンのボーアのところへドイツのハイゼンベルクが訪ねるという話がある。

その議論の主題は原爆の製造を巡るものであり、2000年前後だったかに、史劇「コペンハーゲン」というドラマとなった。

これは「原爆の開発を世界の戦争をしている連合国と枢軸国との両方共にしないように」とのハイゼンベルクがボーアに申し出をするためにコペンハーゲンを訪れたと言われているが、そのときナチにその意図を悟られないにようにとハイゼンベルクは表現をとても曖昧にしたので、その意図はまったく通じなかったという。

ボーアはハイゼンベルクが「原爆の開発をする許可を求めに来た」と思ってしまった。

戦後も家族や親族をナチスの強制収容所のガス室で亡くした、ヨーロッパからアメリカに亡命していた科学者を含めた多くの人たちはドイツに残った、これらの科学者をナチスに協力をした咎で容易に許しはしなかった。それらのうちの幾分かは単なる誤解であったのかもしれないとしても。

日本ではドイツほど原爆の開発の可能性は高くなかったので、それほど問題にはならなかったが、それでもそういう日本の原爆開発の事情を書いた本も英語とかでは出版されているらしい。

現在ではなかなか『千の太陽よりも明るく』は手に入りにくいかもしれないが、まだ読まれてない方にはぜひ一読をお勧めしたい。私も最近書棚から取り出してきて、再読を始めたところである。

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