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P・V・ミュッセンブルーク
【ライデン瓶を発明し静電気の基礎を確立】-5/22改訂

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。
では、ご覧ください。内容を整理し、
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現時点での英訳も考えています。
(以下原稿です)v

ライデン瓶発電機
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【1692年3月14日生まれ-1761年9月19日没】
像画:1741年制作、画家 Hieronymus van der Mij、
所蔵:ライデン大学(University of Leiden)コレクション。The Linda Hall Library+1

 ライデン瓶を考案したミュッセンブルーク

その名はピーテル・ファン・ミュッセンブルーク

;Pieter van Musschenbroek。

ライデン瓶の発明で知られているオランダの物理学者です。

ポンプや顕微鏡、望遠鏡を作る職人の子として生まれます。

何より、最初の蓄電器であるライデン瓶

を作ったことで知られています。

ミュッセンブルークはラテン語学校でギリシア語・ラテン語・フランス語・ドイツ語などを修めた後、Leiden University(ライデン大学)で医学博士号(1715年)を取得しました。当時の学識の付け方は今と大きく異なっていたようですね。そして、ロンドンで当時の大物である物理学者ニュートンの講義を受けています。

その後、ミュッセンブルークは数学、哲学、医学、占星術の教授を歴任します。占星術は当時の教養の中で合理的な学問体系であると考えられていて、少し前の時代には王家に使えていたノストラダムスが天文学と占星術を修めていたという史実もあります。そして、ミュッセンブルークが1726年に刊行した「Elementa Physica」では広くニュートンの理論をヨーロッパに広めています。

 ミュッセンブルークと帯電現象の理解

その後、その後ミュッセンブルークは、
静電気の性質に強い関心を持つようになります。

特に有名なのが、
ガラス瓶に水を入れて電荷を蓄える
「ライデン瓶(Leyden jar)」の研究です。

これは後の蓄電器(コンデンサ)の原型となる装置であり、
人類が初めて「電気を蓄える」という概念を
実験的に扱えるようになった重要な発明でした。

当時の研究者たちは、
帯電した物体同士が反発・吸引する現象を観察していましたが、
ミュッセンブルークらは、
水やガラスを利用することで微弱な電気作用を
より安定して観測しようと試みました。

こうした研究は、
後のクーロンの法則や電磁気学へと繋がっていきます。

ニュートン力学が「力」を定量化した時代の後に、
電気という新しい“見えない力”を扱う流れが生まれていったのです。

 

また、支点を介した二つの棒が重力と直角方向に開いていくので
開いた角度がθの時に重力の分力が

Sinθで考えられるのです。

数学上、θが0の近傍ではSinθが殆ど0なのです。

上記の数学的な仕組みで、①荷電現象で生じた力と②ニュートンの明確にした力が釣り合い、平衡を保っています。その様子は少し感動できます。後の時代に動的な電磁気学が発展していきますがミュッセンブルークは静電磁気学の土台を作ったのです。

理論で期待される効果が目視で確認できます。浮力が重力を打ち消す効果と分力でSinθだけ考えればよい事情が相まって電気による微細な反発力が目に見える効果として現れます。開き角度が狭い時点では殆ど重力の効果がない形で帯電に起因する力が可視化出来るのです。

 

それまで帯電棒をこすり続けたりしなければ示せなかった「静電容量に起因する力」をミュッセンブルークによって示しました。後の電磁気学の発展に繋がる成果です。確かな一歩が残されたと言えるでしょう。

記事末テンプレ(ミュッセンブルーク版)
関連する科学者の系譜(静電気学と実験物理)

◀ 前の人物:アイザック・ニュートン(1643-1727)

▶ 次の人物:シャルル・クーロン(1736-1806)

この分野の科学者(静電気学・電磁気学)
P・V・ミュッセンブルーク
ロバート・ボイル
ベンジャミン・フランクリン
C・A・クーロン
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(2021年8月時点での対応英訳)

About Musschenbrook

Its name is Pieter van Musschenbrook

; Pieter van Musschenbroek.

Musschenbruck is a Dutch physicist as we know for the invention of the Leyden jar. He was born as a child of a craftsman who makes pumps, microscopes and telescopes. He had best known for making his first capacitor, the Leyden jar.

He had become a Doctor of Medicine at Leiden University after studying Greek, Latin, French, English, German, etc. at a Latin school. It seems that his way of learning at that time was very different from that of now. And he had taken a lecture in London by the then-big physicist Newton.

After that, Musschenbrook was a professor of mathematics, philosophy, medicine and astrology. Astrology is considered to be a rational academic system in the culture of the time, and there is a historical fact that Nostradamus, who was used for the royal family a while ago, studied astronomy and astrology. And in “Elementa Physica” published by Musschenbrook in 1726, Newton’s theory had widely spreaded in Europe.

Method of Musschenbrook

After that, Musschenbrook deepened his interest around the force of static electricity, and formed a phenomenon in which charged rods repel each other in the water filled in a glass bottle. By conducting experiments in water with a very effective device, the effect of gravity can be canceled by buoyancy and with a minute repulsive force, we had be able to  capture.

Also, since the two rods that pass through the fulcrum open in the direction perpendicular to gravity, we had been able to consider the component force of gravity in Sinθ when the opening angle is θ.

Mathematically, Sin θ is almost 0 near θ of 0.

You can visually confirm the effect expected in theory.

The effect of buoyancy canceling gravity and the fact that only Sinθ needs to be considered as a component force combine to make a minute repulsive force due to electricity appear as a visible effect. When the opening angle is narrow, the force caused by charging can be visualized with almost no effect of gravity.

Work of Musschenbrook

Musschenbrook showed the “force due to capacitance” that could only be shown by rubbing the charging rod until then. It will lead to the later development of electromagnetism.

It can be said that Musschenbrook has left a solid step.

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建部賢弘(たけべ かたひろ)_
【江戸時代に生まれ和算を大成_円周率 41桁】‐5/21改訂

こんにちはコウジです。

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建部堅弘の数学
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和算の大成者である健部賢弘

建部賢弘は日本の数学者で、和算を大成した人物です。
江戸時代1664年生まれです。

関ヶ原の合戦が1600年で江戸太平の世が200年ほど
だったことを思い返せば建部はまさに江戸時代の中期
に活躍したと言えますね。

時は享保の時代で8代将軍の暴れん坊将軍「徳川吉宗」
の信頼を得ます。そして享保四年(1719年)「日本総図」
を作成します。また、
師である関孝和の業績に関する著作を多数残しました。

その内容は歴史的な記述というよりも内容に深く入り込んでいます。
いわば
数学の側面からの解説書であったようです。

関孝弘の考察を建部が補う 

そもそも、関孝和は沢口一之が残した『古今算法記』での
未解決問題を関さん独自の点竄術を使って解決していました。

そこで「関さんの悪い所」なのですが、
省略し過ぎで難しい本だったのです。

関孝和の考察を建部が補う

そもそも関孝和は、沢口一之『古今算法記』に残されていた
未解決問題を、自身の「点竄術」によって解決しました。

しかし関孝和の著述は、数学的発想の飛躍が大きく、
途中計算や説明を大胆に省略する傾向がありました。
そのため、当時の和算家たちの間でも
「理解が難しい」という声があったようです。

そこで建部賢弘は、師の理論を丁寧に整理し、
後世の学習者にも理解できる形へ体系化していきました。

特に『大成算経』では、
関孝和・建部賢弘・建部賢明らによって、
江戸時代和算の集大成とも言える内容がまとめられています。

「大成算経」は当時の和算をまとめ上げた
秀作として評価され続けています。

円に対しての建部の業績

建部賢弘の大きな業績として円に対しての
定量的な追及があります。物凄い精度で
円について考えていったのです。

ヨーロッパでは同時代にニュートンやライプニッツが
微積分学を発展させていましたが、
日本では建部賢弘が独自に円周率計算を深化させていました。
アイザック・ニュートン(1643-1727)

そもそも、精度の高い真円が描けたとしても
その円での半径とこの長さの関係は自明ではありません。

今でこそ、子供たちも3.14…と記憶していけるのですが
理論的に真円が描けたと考えた時の弧の長さは
「三角関数を使って級数を作り極限」
を求めていくしかありません。

三角関数、級数、極限といった概念を和算の中で
正確に使っていくデリケートさが求められるのです。

建部賢弘は丁寧に言葉を選んで誰でもわかる
表現をして未知の世界に挑んでいったのです。

建部以前の時代から使われていた正多角形を
円が囲む近似から考えていきました。

建部は逆に正多角形に円が囲まれた部分を想像して、
円の面積がA以上B以下であると証明していくのです。

そして円弧の長さがα以上β以下であると証明していったのです。

建部賢弘は、和算において円周率および円弧の長さの計算法を深め、
少なくとも小数点以下41桁近くまで算出したとされます。
江戸時代の和算家としては極めて高精度な数値解法であり、
当時としても突出した成果でした。

その他の建部の業績

その他にも建部賢弘は多くの業績を日本に残しましたが、
以下備忘録的に羅列します。

・指数1/2の二項級数の近似解法を紹介
・ディオファントス方程式の近似解法を紹介
・帰納法に基づいた数値解析の方法論を紹介
・無限の概念を「不尽」として導入
・三角関数の内容を表の形で明示

そして今、
日本数学会では建部賢弘特別賞や建部賢弘奨励賞
という形で若手数学者を奨励する賞を設けています。
建部賢弘のように若かりし人が
新しい分野を開いていく姿を数学会は期待しています。

🔍 補足・一次情報調査

  • 建部賢弘(たけべ かたひろ)は、寛文4年(1664年)6月(江戸)生まれ、
    元文4年(1739年8月24日)没とされています。 ウィキペディア+2コトバンク+2

  • 彼は、関孝和(せき たかかず)の門人であり、円理
    (円周率・円弧長さに関する理論)において大きな足跡を残しました。 mathsoc.jp+1

  • 記録によれば、建部賢弘は「累遍増約術」という方法を用い、
    円周率を多角形近似法によって詳細に求めたとされています。 mathsoc.jp+1

  • ただし「点竄術」「傍書法」などと関係づけて高次方程式や行列式にまで言及する部分については、
    明確に「行列式」という語を和算当時が使っていた史料は確認できていません。
    より慎重に「行列類似の考え方」「多変数未知数の処理法」などと記す方が学術的です。

関連する科学者の系譜(和算と数学史)

◀ 前の人物:関孝和(1642?-1708)

▶ 次の人物:アイザック・ニュートン(1643-1727)

この分野の科学者(和算・数学史)
関孝和
建部賢弘
沢口一之
ライプニッツ
ニュートン

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(2022年10月時点での対応英訳)

Katahiro Tatebe was a Japanese mathematician and a great exponent of Japanese arithmetic.
He was born in 1664 during the Edo period.

The Battle of Sekigahara took place in 1600, and the Edo period lasted about 200 years.
If we recall that the Battle of Sekigahara took place in 1600,we underground the peaceful Edo period lasted for about 200 years
The time was the Kyoho period, and he was active in the MiddleEdo generation.

The time was in the Kyoho period, and Takebe gained the trust of the 8th shogun, “Tokugawa Yoshimune,” the ruffian and tyrant shogun.
And Tatebe produced the “General Map of Japan” in 1719.

In addition
Tatebe also wrote many works on the achievements of his mentor, Seki Takakazu.
The contents of these works are not so much historical descriptions as commentaries .
The contents of these works seem to have been commentaries from a mathematical point of view rather than historical descriptions.

Seki and Takebe

To begin with, Seki Takakazu solved the unsolved problems in Sawaguchi Kazuyuki’s “Kokin Keiken” by using Seki’s original point-falsification technique. However, the book was difficult to read because of the excessive “omissions” as “Seki’s bad point.

What is interesting here is the fact that Kansai mathematical persons had criticized Takebe . The stubborn old man from Edo was getting flack from the Kansai people, but

Mr. Tatebe was able to give a polite explanation and say, “Isn’t that right? He was able to speak in a way that made the Kansai people understand.

I am sure the Kansai people must convinced. It was a moment of great clarity, even for Kansai people.

And then, his master Seki Takakazu, Tatebe Masahiro, and Tatebe Tatebe Kenmei together produced a 20-volume book, “The Great Calculation Sutra,” which they had published in 1949.
The “Taisei Keikyo”,Everybody had highly regarded as an excellent work that summarized the Japanese mathematics of those time.

One of Tatebe’s major achievements was his quantitative pursuit of the circle. He thought about the circle with tremendous precision. Even if a highly accurate circle could be drawn, the relationship between the radius and the length of the circle would not be self-evident.

Nowadays, children can memorize the rate,3.14…, but theoretically, when a perfect circle is drawn, the length of the arc can only be obtained by using trigonometric functions to create a series and finding the limit.

Rate of circle

The concepts of trigonometric functions, series, and limits must be used with delicacy and precision in Japanese arithmetic.

Kenhiro Tatebe carefully chose his words to express them in a way that anyone could understand, challenging the unknown.

Tatebe began by considering the approximation of a circle enclosing a regular polygon, which had been used since the pre-Tatebe era, and then, conversely, imagined the area of a circle enclosed by a regular polygon, proving that the area of the circle is greater than A and less than or equal to B.

Takebe then used a circle with an arc length of at least α and less than or equal to B. He then proved that the length of the arc is greater than or equal to α and less than or equal to β.

How many obtained

Then, Kenhiro Tatebe obtained pi to exactly 41 digits. This was an outstanding achievement in numerical solving, even when considered on a global scale.

Other wiorks of Takebe

Kenhiro Tatebe also left many other achievements in Japan, which are listed below as a reminder.

Introduced a forbidden solution method for binomial series with exponent 1/2.
Introduced an approximate solution method for Diophantine equation.
Introduction of a methodology for numerical analysis based on induction
Introduces the concept of infinity as “inexhaustibility
・Contents of trigonometric functions are clearly stated in the form of tables.

Kenhiro Tatebe Encouragement Award.

The Mathematical Society of Japan now offers prizes to encourage young mathematicians in the form of the  Katahiro Tatebe Special Prize and the Katahiro Tatebe Encouragement Prize.
We hope to see young people like Katahiro Tatebe
to open up new fields of study.

Translated with www.DeepL.com/Translator (free version)

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関孝和【 1637年1642年生まれ_傍書法と点竄術で和算を革新した“算聖”の生涯と業績】‐5/19改訂

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。
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現時点での英訳も考えています。
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江戸時代を代表する数学者 ― 関孝和(せき たかかず)
【1637年1642年生まれ1708年12月5日没】

関孝和の肖像画

出典:
Wikimedia Commons
(Public Domain)

関孝和(1642年頃〜1708年)は、日本の数学史において最も重要な人物の一人として知られています。
江戸時代中期に活躍し、「和算(わさん)」と呼ばれる日本独自の数学体系を大成させました。特に、
「円理(えんり)」や「筆算」の改良、そして行列式に相当する「行列法(こうれつほう)」を
早期に取り入れた点で、世界的にも高く評価されています。

彼の著書『解伏題之法』『発微算法』などは、後世の和算家たちに大きな影響を与え、
日本数学の黄金期を築きました。特に「高次方程式の数値解法」や「算額(数学的奉納板)」の普及により、
数学が庶民の文化の一部として定着する契機を作ったことは特筆に値します。

関孝和の功績は、単なる技術的進歩に留まりません。彼は「独立した知の体系」を築きました。
当時ヨーロッパで発展しつつあった代数学・解析学と比較しも、
独自性の高い数学体系を、日本語と算木・筆算によって構築した点は特筆に値します。その革新性は、
近代以降の数学史研究でも再評価されています。

参考文献:
・島田徹『和算の世界』岩波書店, 1998年
・日本数学史学会『関孝和の数学的遺産』2005年
Wikipedia – 関孝和

彼は独自の記号法「傍書法」と、
筆算術を応用した「点竄術」を生み出し、それまで解けなかった
高次方程式を扱えるようにしました。この革新は、連立方程式や
行列式、さらには微積分に相当する問題まで取り組める新しい数学の地平を
切り開きます。和算の枠を大きく広げた功績により、後世の和算家は関の流れを
「関流」と称し、彼を「算聖」と仰ぎました。本記事では、関孝和の人物像と
研究の中核に迫り、その意義を現代的な視点から解説します。


関孝和の生涯と和算の登場

出自と生涯の背景

関孝和は江戸時代前期、武士の家に生まれ、幕府の勘定役を務めたと伝わります。
生年や前半生には不明点が多いものの、確かなのは彼が数学的才能を発揮し、
和算を飛躍的に発展させたことです。和算は中国から伝わった数学を基盤と
しながらも、日本独自の発展を遂げていました。孝和の登場は、まさに和算の
「成熟期」を象徴する出来事でした。

中国数学からの影響

当時の日本数学は、中国の『算数書』や『天元術』を受け継いでいました。
しかし、中国式の天元術は未知数が一つしか扱えず、問題解決には
限界がありました。孝和はこの制約を打破する方法を模索し、
傍書法や点竄術を通じて、未知数を複数扱う革新的な
アプローチを生み出したのです。

算聖と呼ばれるまで

関の業績は弟子や後継者に継承され、18世紀には「算聖」と称されるほどの
尊敬を集めました。「関孝和は、江戸時代において『算聖』と称され、
和算を通じて学問と文化の融合を象徴する存在となりました。」


数学的革新 ― 傍書法と点竄術の深堀り

傍書法の誕生と意義

傍書法とは、数式を紙面の傍らに記号として書き込む独自の表記法です。
これにより、複数の未知数を同時に扱えるようになり、数式の整理が飛躍的に
簡単になりました。現代の代数記号の先駆けともいえる画期的な発明であり、
数学を抽象的に操作する力を高めました。

点竄術による計算革命

点竄術は、筆算のように符号や記号を操作して高次方程式を解く方法でした。
未知数を扱う複雑な問題を体系的に処理できるため、和算における「計算技術革命」
とも呼べます。連立方程式の消去法や行列式の萌芽がここに見られる点は、
特筆すべきです。

天元術の応用拡大

従来の天元術は一次元的な問題に限定されていましたが、傍書法と
点竄術の導入により、複数未知数や高次方程式にも応用可能になりました。
例えば、孝和は正三角形から正20角形に至る多角形の面積計算を体系化し、
数学を幾何・代数の両面から進化させました。


和算の発展と関流の形成

後世の和算家への影響

孝和の技術革新により、和算は多くの分野に応用されました。彼の方法は
計算を効率化し、後世の和算家が新しい公式を導き出す基盤を築きました。
この恩恵は18世紀を通じて広がり、日本独自の数学文化の成熟を支えました。

関流という学派の誕生

18世紀後半になると、孝和を中心とする和算家の系譜は「関流」と称されました。
和算家たちは系譜を誇りとし、孝和の記号法や計算法を標準として学びました。
関流は、和算を日本全国に普及させる大きな原動力となったのです。

算聖としての文化的地位

関孝和は単なる数学者にとどまらず、日本文化の象徴的存在へと昇華しました。
和算は学問としてだけでなく、文化・芸術と並ぶ知的営みとみなされ、
孝和の名は「算聖」として歴史に刻まれました。


まとめ

関孝和は、日本の数学史において決定的な役割を果たした革新者でした。
傍書法と点竄術によって、和算は未知数を複数扱える新たな地平に到達し、
連立方程式や高次方程式を体系的に解く力を獲得しました。この成果は
後世の和算家に継承され、「関流」として全国に広がり、和算を文化的にも
学術的にも高みに押し上げました。俳聖・茶聖と並ぶ「算聖」としての
関孝和の名は、今もなお日本数学史に燦然と輝いています。


関連する科学者の系譜(和算・数学史)

◀ 前の人物:アイザック・バロー(1630-1677)

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この分野の数学者(和算・数学史)

ブレーズ・パスカル

ゴットフリート・ライプニッツ

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In 17th-century Japan, Takakazu Seki (Seki Takakazu) was an innovator who brought wasan—traditional Japanese mathematics—to unprecedented heights.
He created a unique symbolic notation called the bōsho-hō (“marginal notation”) and developed tenzan-jutsu, a method of symbolic manipulation inspired by written arithmetic. These techniques enabled him to solve higher-degree equations that had previously been intractable. His innovations opened a new mathematical horizon capable of addressing systems of equations, determinants, and even problems equivalent to those of calculus.

Thanks to his extraordinary contributions, later Japanese mathematicians referred to his school as the Seki-ryū (“Seki School”) and honored him with the title “Sansei” (Mathematical Saint).
This article explores Seki’s life and the core of his research, explaining its significance from a modern perspective.


Life of Takakazu Seki and the Rise of Wasan

Origins and Background
Takakazu Seki was born in the early Edo period into a samurai family and is said to have served as a kanjō-yaku (official accountant) for the shogunate.
Although details about his birth and early life remain uncertain, what is clear is that he demonstrated remarkable mathematical ability and greatly advanced wasan.
While wasan had its roots in Chinese mathematics, it developed its own uniquely Japanese character. Seki’s emergence marked the beginning of wasan’s mature period, symbolizing a high point in the intellectual culture of the Edo era.

Influence of Chinese Mathematics
At the time, Japanese mathematics was heavily influenced by Chinese classics such as the Suan Shu Shu and the Tian Yuan Shu (method of the celestial element).
However, the traditional Chinese method could only handle a single unknown variable, which limited its range of problems. Seki sought to overcome this limitation, and through his bōsho-hō and tenzan-jutsu, he developed a revolutionary approach capable of treating multiple unknowns simultaneously.

The Path to Becoming the “Mathematical Saint”
Seki’s achievements were passed down through his disciples and successors, and by the 18th century he was revered as the “Sansei”, or “Saint of Mathematics.”
He became a cultural giant comparable to the poet Matsuo Bashō or the tea master Sen no Rikyū, securing an enduring place in Japan’s intellectual history.


Mathematical Innovations — Bōsho-hō and Tenzan-jutsu

The Birth and Significance of Bōsho-hō
The bōsho-hō (“marginal notation”) was a unique system in which symbols and numbers were written along the margins of the page.
This allowed mathematicians to handle multiple unknowns simultaneously and greatly simplified the organization of complex formulas.
It was a groundbreaking innovation, a forerunner of modern algebraic notation, and significantly enhanced the ability to manipulate abstract mathematical symbols.

Tenzan-jutsu and the Revolution in Calculation
Tenzan-jutsu was a symbolic computational method similar to written arithmetic, used to solve higher-order polynomial equations.
It made it possible to handle complex problems involving multiple variables systematically, representing a true computational revolution in wasan.
This method contained the seeds of modern elimination theory and determinants, marking an important step toward later algebraic concepts.

Expanding the Application of Tian Yuan Shu
The original Tian Yuan Shu method had been limited to one-dimensional problems, but Seki’s introduction of bōsho-hō and tenzan-jutsu extended its application to equations with multiple variables and higher degrees.
For example, Seki systematized the calculation of the areas of regular polygons ranging from equilateral triangles to regular 20-gons, advancing mathematics in both algebraic and geometric directions.


The Development of Wasan and the Formation of the Seki School

Influence on Later Wasan Scholars
Seki’s technical innovations allowed wasan to expand into many fields. His methods streamlined computation and provided a foundation upon which later mathematicians could develop new formulas.
This influence spread throughout the 18th century, supporting the flourishing of Japan’s unique mathematical culture.

The Birth of the Seki-ryū (Seki School)
By the late 18th century, the lineage of mathematicians who followed Seki’s methods became known as the Seki-ryū.
Members of this school took pride in their intellectual heritage and adopted Seki’s notational and computational techniques as their standard.
The Seki-ryū became a major force in spreading wasan across Japan, ensuring its survival and growth for generations.

Cultural Status as the “Mathematical Saint”
Takakazu Seki transcended the role of mathematician to become a symbol of Japanese intellectual culture.
Wasan came to be regarded not only as a scholarly pursuit but as a form of artistic and cultural expression, alongside poetry and the tea ceremony.
In this context, Seki’s name was enshrined in history as the “Sansei,” the Saint of Mathematics.


Conclusion

Takakazu Seki was an innovator who played a decisive role in the history of Japanese mathematics.
Through his bōsho-hō and tenzan-jutsu, he opened a new era in which wasan could handle multiple unknowns and systematically solve systems of linear and higher-degree equations.
These achievements were carried on by later mathematicians, spreading throughout Japan as the Seki-ryū, and elevating wasan both as a scholarly discipline and a cultural tradition.

Like Bashō in poetry and Rikyū in tea, Seki Takakazu stands as Japan’s “Mathematical Saint”, his name still shining brightly in the annals of Japanese mathematical history.

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昨夜の「数学白熱教室」 【2015-11-28投稿分_谷山氏_フェルマーの定理】

NHKのEテレの「数学白熱教室」第三回を見た。いつもの通りで途中で少し眠ったようだが、多分後半の重要なところは見た。

フェルマーの定理から、谷山・志村・ヴェイユ予想へと話が進む前の数論と方程式の解の話もおもしろかった。よくわかったというわけではないが、不思議なものがそこにあるという感覚は感じ取れた。

ワイルズともう一人の研究者のフェルマーの最終定理の解決も実は谷山・志村・ヴェイユ予想の解決であり、それとフェルマーの定理とが密接に関係しているという話も興味深かった。またこれはフレンケルが現在研究しているラングランズ・プログラムの一例になっているという。

もともとフェルマーの定理はピタゴラス数の拡張として考えられたとの説明は数学がどうやって広がっていくかを示した話であったと思う。ピタゴラス数として3, 4, 5のつぎは13,12, 5であるが、そこらあたりまでなら誰でも知っているだろう。だが、それらよりも大きい数にもピタゴラス数はある。

谷山さんは自ら命を絶った数学者であるが、彼は不思議な予想能力があった人だったという。一方、志村さんは今でも生きていて、ちくま学芸文庫に数冊本を書き下ろしている。

でも妻によれば私の眠っていたときの話は素数にある種の対称性があるという話だったという。そういう話だとフレンケルさんの話でなくとも誰か数学者が本に書いてあってもいいはずだと思う。だから、どれかの数学の本で読むことができるかもしれない。

(2024.3.23付記)その後、志村さんも亡くなったが、いつなくなったのかは覚えていない。だが、最近まで存命だったことは確かである。

 

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2025/11/03_初版投稿

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あけましてオメデトウございます。今年も宜しくお願い致します。【@2025元旦】_1/1投稿

こんにちはコウジです。
「オメデトウございます」の原稿を投稿します。

投稿前に誤字がありました。
細かい文章も再考しています。しっかり正確に。
そして沢山情報が伝わるように努めます。
(以下原稿)

あけましておめでとうございます。

今年も宜しくお願い致します。

個人として今年は新しいことを色々と始める積りですので
物理学の考察には時間を使わなくなってくると思えます。

昨年度のノーベル賞受賞を思い出してみても、
AI関連での発展が顕著なので、そうした考察を追いかけます。

先ずは新しい知見である「プログラム学習」を身に付け、
次々と最新トレンドを追いかけられるように体制を整えます。

その中で、進展に合わせて過去の科学史を振り返り
新しい意義を考察していきたいと思うのです。
(年初は書評の再考、サイト内リンクの確認をします)

実際、A8が運営するFanBlogが4月で閉鎖するという情報があるので
本ブログからのリンクをチェックしていかないといけませんね。

今年も宜しくお願い致します。

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以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
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2025/01/01_初稿投稿

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【改訂】東大が量子コンピューターを2023年秋に導入
(IBM社製‗127量子ビット)

東大

こんにちはコウジです!
「東大が量子コンピューター」の原稿を改定します。
今回の主たる改定は新規追記分の補完です。
大分長いこと改定していませんでしたね。

初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように再推敲します。

SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。

(写真は従来の基盤の写真です)

以下投稿の内容は2023/04/22の
日経新聞記載の情報メインです。
現代の情報だと考えて下さい。

新聞記事を離れた所で冷静に考えていくと
税金の使い道の話でもあります。

日本国民の皆様が一緒になって考えて、
出来れば知恵を出し合えたら
より良い展開に
つながる類の話題なのです。しかし、
実のところ、大多数の日本国民は
「量子コンピュータ?言葉は聞くけれども…」
って感じで内容が議論されていません。
議論を喚起しましょう。

本記事では私論を中心に語ります。但し、
記載した量子ビット数は何度も確認しています。

ニュースのアナウンサーも語れる内容が少ない
のでしょう。
そんな中で東大本郷キャンバスでは
記者会見が開かれ、IBM社のフェローが
「有用な量子コンピューターの世界がすぐそこまで来ている」
と語っています。

物理学を専攻していた私でも多分野において下調べが必要です。
当面、「ラビ振動」、「共振器と量子ビットの間の空間」
「ミアンダの線路」、「量子誤り訂正」といった概念を
改めて理解し直さないと最新の性能が評価できません。

特に理化学研究所に導入された機種は
色々な情報が出ていて教育的です。対して
東大が導入するIBM社製の量子コンピューターは
トヨタ自動車やソニーグループなど日本企業12社での
協議会による利用を想定していて、
利益享受を受ける団体が限られています。
今後の課題として利用の解放(促進)が望まれます。 

東京大学が川崎拠点に導入

既に27量子ビットを導入している川崎拠点に2023年の秋に
127量子ビットの新鋭機を導入する予定です。
経済産業省は42億円の支援を通じて計算手法等の
実用面へ向けての課題を解決していく予定です。

一例としてJSR(素材メーカー)が「半導体向け材料の開発」
を想定して活用する方針を打ち出しているようですが
具体的にプロジェクトに参加する事で得られるメリットを
明確にする作業は大変そうです。

現時点での量子コンピューターの国内体制

報道では「量子ビット」の数に着目した表現が多いです。
実際に理化学研究所では2023年の3月に64量子ビットの
装置を導入して研究を進めています。

また、英国のオックスフォード・クァン・サーキッツ
は都内のデータセンターに今年の後半に量子コンピューター
を設置予定で外部企業の利用も想定しています。

対して米国のIBMでは433量子ビットのプロセッサーが開発
されていて、2023年度中には1000量子ビットの実現、
2025年度には4000量子ビット以上の実現を計画しています。 

EV電池開発に革新的貢献ができるか

一例としてIonQ社とHyundai Motor社は共同で
量子コンピューターに対する
バッテリー化学モデル
を開発しています。(2022年2月発表~)

実際に同社は新しい変分量子固有値ソルバー法
(VQE:Variational Quantum Eigensolver)を共同で開発してます。
開発目的はバッテリー化学におけるリチウム化合物や
化学的相互作用の研究への適用です。

 特定の最適化問題を解決するVQEは原理的に
量子コンピューターと親和性が良いです。
変分原理を使用し、ハミルトニアンの基底状態エネルギー、
動的物理システムの状態の時間変化率を考えていくのです。
計算上の限界で、既存システムでは精度に制約がりました。

 具体的に酸化リチウムの構造やエネルギーのシミュレーション
に使用する、量子コンピュータ上で動作可能な
バッテリー化学モデルを共同開発しています

リチウム電池の性能や安全性の向上、コストの低減が進めば
EV開発における最重要課題の解決に向けて効果は大きいです。
【実際、EV価格の半分くらいはバッテリーの価格だと言われています】

ハイブリット英会話スタイルで伸ばす「アクエス」
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2023/04/23_初稿投稿
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【Topic_2021/05/17投稿_9/25改定】
次世代加速器計画【ILC】

2021/5/10の日経新聞記事の情報を基本として
トピックをお知らせします。

日米欧の計画で進む国際リニアコライダー(ilc)
は新しい物性物理学の理論において
突破口を開くと期待されます。
また経済面でも期待され、
「科学のオリンピックを30年続ける」
ような効果があると評価する人々もいます。

また、日本学術会議は「事故対策」「不確定要素」
を懸念しています。そんな中で、宇宙が誕生した
状態を再現することを目的としていて
新しい理論に繋がる実験を計画しています。実際に
建設する予定は東北地方の北上山地が予定地
となっており2035年ころの稼働を目指しています。
総建設費は8000億円となります。

大きさは全長最大で20キロメートルで
小柴
氏・梶田氏がノーベル賞を受けたヒッグス粒子を
大量に作ります。

実験の姿としては
両側から+とー(プラスとマイナス)の
電荷を其々帯びた電子と陽電子を発射して
光速度近くまで加速した上で衝突する事で
大量のヒッグス粒子が発生する姿を観測
しようというものです。

ヒッグス粒子は物質に質量を与える
素粒子であると考えられていて
欧州合同原子核研究機関(cern)にある
巨楕円形加速器「lhc」で2012年に観測されています。

現代物理学で注目される微粒子なのです。

その数は理論的には1種類とも5種類とも言われ、
実際の実験結果が期待されます。また、
全宇宙の1/4を占めると言われるダークマター
の発見も期待されます。

同様な計画は中国でも進んでいるようで、
こちらの動きも注目されます。

アニメのエバンゲリオンに出てくるような
未知の粒子が制御出来るとしたら
素晴らしいですね。

新聞を読んだ時は計画の推進面だけしか
分かりませんでしたが、実際問題を含んでいて、
乗り越えるべき障壁もあります。

今後の情報をもって再度、
話題を改定したいと思います。



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2021/05/17_初回投稿
2022/09/25_改定投稿

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