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竹内均(ひとし)
【科学の啓蒙活動を続けた初代Newton編集長】-3/22改訂

こんにちはコウジです。
半年ごとの既存記事見直しの作業です。
今回は近世20世紀に概念・手法を確立していった偉人を紹介します。
では、ご覧ください。内容を整理し、リンクを見直しました。
現時点での英訳も考えています。
(以下原稿です)

科学雑誌NEWTON
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【1920年7月2日生まれ ~ 2004年4月20日没】

【出典:純歯科医院‗竹内均】
【https://www.jun-dental-office.com/2013/04/09/%E5%83%95%E3%81%AE%E5%B8%AB%E5%8C%A0-%EF%BC%91-%E7%AB%B9%E5%86%85%E5%9D%87%E5%85%88%E7%94%9F/】

 竹内均のメガネ

私の中での竹内均さんのイメージは

特徴的な眼鏡かけたTVコメンテーターでした。

実際、
竹内均さんは文筆活動中もあんな感じだったそうです。
沢山本を出していますが、多くの著作はテープレコーダーに口述した内容を
秘書が文章化する形で執筆されていました。
文章に起こす秘書さんが居て
一緒に作業します。独特の書き方ですね。

それでもお人柄から悪い印象は持ちません。
人から好かれる性格ですね。竹内均は自分に厳しくて
子供に優しい人だったと言われています。
独特の喋り口調が印象的で通り易い声で
聴きやすいリズムで人に語りかけていました。
子供向けの伝記を沢山、監修していて
キューリー夫人伝」とか「エジソン伝」とかの表紙に
小さく竹内均の名前が入っていたりしました。
そんな啓蒙活動を考え続けて初代NEWTON編集長
として日本の一般向け教育書を作っていきます。
ちなみに、
非常に名前が似ていると思える方で
竹内薫さん
という方が居まして、私は時々混同してしまいます。
失礼。。。
本人がツイッターでコメしているように
「親戚ではありません(笑)」

 民衆と竹内均

物理学の理解には個人の勉強も必要ですが、
学問の性質上、万物を人がどう考えるか
(モデル化していき理解するか)
という論点が欠かせません。

個人が理解するという考え方と同時に日本人が、
そして人類が理解していくというプロセスが欠かせません。

大衆にも理解出来る物理モデルが作れた時に理論は出来上がる
のです。ギブスの文章を書くときに協調しましたが
「数学者と物理学者の視点は異なる」のです。

数学は論理として完結しているモデルであれば
現実と対応が付かないでも問題がないです。
そんなものです。

物理学は絶えず現実と対応する理論を作らないと
意味がありません。特定の事例で有効でも
大衆が間違えやすい理論を構築できないのです。

竹内均はそういった民衆との対話をとても大事にしていました。

科学雑誌NEWTONの創刊

竹内均 が日本の科学啓蒙で特に大きな役割を果たしたのが、
科学雑誌 ニュートン の創刊です。

1981年に創刊されたこの雑誌は、一般の読者に向けて科学
をわかりやすく解説することを目的としていました。

それまで日本では、専門的な学術誌か、あるいは子供向けの科学雑誌が中心で、
大人向けの本格的な科学解説雑誌はあまり存在していませんでした。

竹内は、複雑な理論でも図解やイラストを用いれば理解できる
という考えを持っていました。
そのためNEWTONでは、
大胆な図解と分かりやすい解説を組み合わせる編集方針が採られました。

このスタイルは日本の科学出版に大きな影響を与え、
現在でも多くの読者に親しまれています。


竹内均の事実( 地球内部構造研究/プレートテクトニクス)

竹内均は地球物理学者として地震波・地球内部構造
の研究を行いました。地震波の解析から

地球の内部構造を理解する研究

を行ったのです。これは地球内部構造研究の重要分野です。


竹内均はプレートテクトニクスを日本で広めた一人です。1960年代~70年代に
この理論が確立した時、日本でも理解を広める役割を果たしました。

竹内均は東京大学の地球物理学教授でした。
研究者としての基盤はここです。

 竹内均と地球物理学

竹内均の仕事を考えていくと寺田寅彦の系譜です。
具体的には直接の講義・指導を受けていない孫弟子
にあたります。

地球物理学に関心を持って、特にプレートテクトニクス理論
を広く広めています。実際に地面が少しずつ動いていく様子
を伝える際に物理学者として地球の内部構造や
境界面での様子を伝えたのです。
深い知見を持って伝えたのです。

そして何より、

竹内均さんの独特の「優しい言葉」で伝えたのです。

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2021/07/04_初版投稿
2026/03/22_原稿改定

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Hitoshi Takeuchi’s glasses

The image of Hitoshi Takeuchi in me is

It is a commentator with characteristic glasses.

In fact, he was like that during his writing activities.

I have published a lot of books, but the work is a tape recorder

It’s all about recording to. There is a secretary who wakes up in the text

Work together It’s a unique way of writing.

 

Still, I don’t have a bad impression from my personality. It’s a personality that people like. Hitoshi Takeuchi is said to have been a strict and child-friendly person. His unique speaking tone was impressive, and he spoke to people with an easy-to-listen voice and an easy-to-listen rhythm. I supervised a lot of biographies for children, and there was a small name of Hitoshi Takeuchi on the cover of “Mrs. Curie’s biography” and “Edison’s biography”. Continuing to think about such enlightenment activities, as the first editor-in-chief of NEWTON, I will make educational books for the general public in Japan as well.

People and Hitoshi Takeuchi

Understanding physics requires individual study, but due to the nature of scholarship, the issue of how people think of everything (modeling and understanding) is indispensable. At the same time as the idea of ​​individual understanding, the process of understanding by the Japanese and humankind is indispensable. The theory is completed when a physical model that can be understood by the general public is created. I collaborated when writing Gibbs’ writing, but “the perspectives of mathematicians and physicists are different.” If mathematics is a model that is complete as logic, there is no problem even if it does not correspond to reality. That’s it. Physics is meaningless without constantly creating a theory that corresponds to reality. Hitoshi Takeuchi cherished such dialogue with the people.

Hitoshi Takeuchi and Geophysics

Considering Hitoshi Takeuchi’s achievements, it is the genealogy of Torahiko Terada. Specifically, he is his grandchild who has not received direct lectures or guidance. He has an interest in geophysics and is particularly widespread in plate tectonics theory. As a physicist, he told us about the internal structure and boundaries of the Earth when he actually told us how the ground was moving little by little. He conveyed it with deep knowledge. And above all, I conveyed it with Hitoshi Takeuchi’s unique “gentle words.”

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久保 亮五
【線形応答理論を使ったフーリエ変換NMR理論を展開】‐3/11改訂

こんにちはコウジです。
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(以下原稿です)

デジタルフーリエ変換
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【1920年2月15日生まれ ~ 1995年3月31没】


【出典:Wikimedia Commons‗久保亮五】

物理学者久保亮五

久保亮五と同名(漢字違い)の別人が居ますが、
以下記載は物理学者に関する文章で、ここでの
久保亮五は統計力学で
私が使った教科書の著者です。

私の指導教官は久保先生の講義を受けていたそうです。
そんな時代の
物理学者についての記載です。

久保亮五は学者肌の家で育ち、中国文学者であった
お父様の仕事で子供時代には台湾で生活しています。
高校まで台湾で過ごし、帰国後に旧制高校へ入学、
東大へ入学、その後に助手、助教授、教授をつとめました。

久保亮五の業績

 なにより先ず1957年に日本物理学会誌で発表した久保公式です。
原子や分子のミクロな現象を上手く説明します。その発表以降、
なんと12000回を超える引用が世界の物理学会でなされています。
(日経新聞2024年5月4日の記事「成果に名を刻んだ日本人」会員限定)
平衡状態にある系に対してハミルトニアンと密度行列を用い、そこに小さな
摂動を加えることで、時間発展する物理量の応答を記述することができます。。

その他に久保亮五の仕事で何より特筆すべきは
物性論での成果です。
ゴムの弾性に関する研究と、
線形応答理論を使ったフーリエ変換NMRへの応用研究
があげられます。その他のコンピューターシュミレーション
でも久保亮五が確立したモデルは有効です。

単純に「実験屋さん」とか「理論屋さん」と区別出来ません。
どちらも深く兼ね備えている研究を久保亮五はしたのです。
試料の純度が実験結果に大きく関わるような実験を
沢山の試行錯誤を重ねて一つ一つ成し遂げてきたのです。

久保亮五の理論と評価

久保亮五の代表的な業績として知られているのが
**線形応答理論(linear response theory)**です。

物理学では、外部から小さな刺激が加えられたときに
物質がどのように応答するかを調べることが重要になります。

例えば、

  • 電場を加えたときに電流が流れる

  • 磁場を加えたときに磁化が変化する

  • 温度差があると熱が流れる

といった現象です。久保亮五はこれらの現象を統計力学の立場から
統一的に記述できる理論を作りました。特に有名なのが

久保公式(Kubo formula)

と呼ばれる関係式です。この公式によって

  • 電気伝導率

  • 磁気応答

  • 熱輸送

といった物性の重要な量を
ミクロな量子力学から計算する道筋が示されました。

現在のナノ物性、量子輸送、スピントロニクスなどの研究でも、
この理論は基本的な枠組みとして使われています。また、
1957年論文
Statistical Mechanical Theory of Irreversible Processes

も特筆すべきです。統計力学の歴史的論文の一つです。久保亮五の理論は

ノーベル賞級の仕事

と言われることが多いです。

実際に線形応答理論や久保公式

統計物理の基礎理論

として現在も使われています。

さらに久保亮五は日本物理学会の会長も務めています。
また、東京大学では統計物理学の研究拠点を形成しました。

久保亮五とNMR

久保亮五の基礎理論を構築したNMRの概説を
一般の人向けに記し
てみたいと思います。
先ず
フーリエ変換理論は端的には
「時系列の波形を周波数を基準に考えた
波形に変換し
て解析する技術」です。

そうした「数学的に確立されているフーリエ変換」
を理論的基礎として電子回路で応用されています。
離散化された電気信号に対して回路上で
実質的に
マトリクス変換を加えます。

久保亮五とNMR 

診察で実際にNMRを使った経験のある人はNMRの中で
測定を受けている時を思い出してみてください。

(Credit:Pixabay)
頭の中を調べる時などに、強磁場を人間の頭部に
二次元的に与えます。
その時に大きな音がしますが、
音がしている時に「時系列でインパルス的な情報」
機械的に処理して「周波数応答に関する情報」を得ます。

作業として、吸収スペクトルを測定することで
各スピンの情報を集め、そこから
最終的には
断面の画像を処理します。
(Credit:Pixabay)

最終的な写真で見える画像は、
これらの処理の結果です。

そして今、久保亮五はこの世に居ませんが、
その仕事を応用したNMRは世界中の病院で
患者達の情報を集めています。きっと今、
この瞬間も医療行為の中
NMRの機械が動い
ています。

【参考:東大理学部での退官当時の広報

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(2021年11月時点での対応英訳)

Physicist Ryogo Kubo

There is another person with the same name (different Chinese characters) as Ryogo Kubo, but the following is a sentence about a physicist, and Ryogo Kubo here is the author of the textbook I used in statistical mechanics. My supervisor took a lecture. This is a description of physicists of that era. Ryogo Kubo grew up in a scholarly-skinned house and lived in Taiwan as his childhood for his father’s work. He spent his time in Taiwan until high school, and after returning to Japan he entered a high school, the University of Tokyo, and then an assistant, associate professor, and professor.

Achievements of Ryogo Kubo

The most notable thing about Ryogo Kubo’s work is the result of condensed matter theory. His research on the elasticity of rubber and his applied research to Fourier transform NMR using linear response theory can be mentioned. I would like to write an overview of NMR that Ryogo Kubo thought about for the general public. First of all, the Fourier transform theory is simply “a technology that converts a time-series waveform into a waveform that is considered based on frequency and analyzes it.” Such “mathematical established Fourier transform” is applied in electronic circuits as a theoretical basis. Substantially matrix transformation is applied on the circuit to the discretized electrical signal.

Ryogo Kubo and NMR

If you have actually used NMR in a medical examination, remember when you were taking measurements in it. A strong magnetic field is applied to the human head two-dimensionally when examining the inside of the head. There is a loud noise at that time, but the impulse-like information is mechanically processed in that time series to obtain information on the frequency response. As a result, the information of each spin is collected by measuring the absorption spectrum, and finally the image of the cross section is processed from there. The image you see in the final photo is the result of these processes.

And now, Ryogo Kubo is not in the world, but NMR, which applies his work, collects information on patients at hospitals around the world. I’m sure I’m collecting this moment as well.

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アイザック・アシモフ
【「ロボット3原則」で有名なSF作家】-3/20改訂

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ロボット戦士
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【1920年1月2日 ~ 1992年4月6日】


【出典:Wikimedia Commons‗アイザック・アシモフ】

アシモフの人物像

今回、少し物理から離れます。アシモフは

「ロボット3原則」で有名なSF作家です。

具体的に3原則とは、

第1条:ロボットは人間に危害を与えてはならない。
また、その危険を看過することによって人間に危害を及ぼしてはならない.

第2条:ロボットは人間に与えられた命令に服従しなければならない。

3条:ロボットは前掲第1条及び第2条に反する恐れがない限り、
自己を守らなければならない。

となります。

悪い人が善人を攻撃しなさいと命じたらどうなるか?
と考えていくと議論のネタになるのですが、
そうした考察を現代の我々は当然していかなければ
いけない段階に来ています。
鉄腕アトムも色々と悩んでいましたよね。

最近のウクライナ紛争ではドローンが強力な兵器となり、
白兵戦での戦局に影響を与えています。

平和利用として地雷探査ロボが活躍していますが、
殺傷能力を持ったロボットが戦う日も想定できます。
ロボットの動きは正確で素早く、人間よりもはるかに高い機動性を
持っています。そのため、もし殺傷能力を持つロボットが戦場に投入
された場合、その影響は極めて大きいものになる可能性があります。

何故ならロボットに殺されていく貧しい国の人々が
想像出来るからです。尚更無念な死が現実として
迫ってきているのです。

過去に、人類は核兵器を具現化して
暗黒の歴史を作りました。悲劇は繰返しありません。

ロボットのもう一つの懸念は判断です。
今やAIで判断が進み、更に進化していけば
人間が初期設定を誤る時点でロボット群が
人間に不利益を働くかもしれません。
ロボットに悪意が無くとも不利益を働きます。 

実際のアシモフの研究分野としては生化学なのですが、
作家としての顔
の方が有名ですね。

また調べてみるとアシモフはロシア生まれでした。
リニアモーターカー
が走る今日の世界を見せてあげたいと、
個人的には考えてしまいます。また、もはやロボットも日常的ですよね。

そんな未来をアシモフは20世紀の初めにに予見していました。

20世紀の知見で機械化が進む未来を描き、進んだら
どうなるだろうと考えますが、
好ましい方向性を指摘して
大衆に問いかける。
つまり、科学の夢を投げかけていたのです。

ロボット三原則の拡張

アイザック・アシモフは、後年になってロボット三原則の前に
新しい原則を追加しました。
それは次の「第0原則」です。

第0条:ロボットは人類に危害を与えてはならない。
また、その危険を看過することによって人類に危害を及ぼしてはならない。

この原則は、後の作品で登場します。つまり、

人間 individual より人類 humanity を優先する

という思想です。

この考え方は一見合理的に見えますが、重大な問題を含みます。
例えば、一部の人間を犠牲にすれば人類は救われるのか、
AIが人類の利益をどう定義するのか、という問題が生じるからです。

実際、アシモフ自身の小説では、この原則が原因でロボットが
複雑な倫理的ジレンマに陥ります。
現在議論されている

AI倫理・AIガバナンス

の問題は、実はすでにアシモフの作品の中で描かれていたとも言えます。


アシモフの事実


① ロボット三原則が初めて登場した作品

1942年の短編:Runaround

この作品で
初めて三原則が明文化されました。


② 「ロボット」という言葉の由来

「ロボット」という言葉は実はアシモフではなく

カレル・チャペックの戯曲R.U.R.(1920年)が起源です。

ただし、ロボット倫理を作ったのはアシモフです。


③ アシモフの最大のシリーズ

アシモフはSF史上最大級のシリーズを書いています。

Foundation series

このシリーズでは

数学で未来社会を予測する「心理歴史学」

という概念が登場します。

これは、ビッグデータ・社会シミュレーション
先取りしていたとも言われています。

アシモフの作家デビュー

アシモフは1938年に初めてのSF作品を雑誌に持ちかけて認められ、
1939年から作家デビュー
しています。

才能を認めるアメリカっぽいですね。
この年にコロンビア大学を卒業して大学院に進みます。

所謂、ロボット三原則などを提唱していますが、
時代は第二次大戦に向かう時代で
アシモフは学校を休学したりしています。

科学が知識を集めるスピードの速さにアシモフは驚愕していて、
社会が叡智を集結
する事を求めていました。
相変わらず分断
している世界をどう見るのでしょうか。

意外な結末

そして、意外な最後なのですが、アシモフは

1992年にHIV感染が元でこの世を去ってます。

心臓バイパス手術の時に使用された
輸血血液が感染源のようです。

本当に色々と経験されてきた人生だったと思います。

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(2021年11月時点での対応英訳)

Asimov’s portrait

This time, I’m a little away from physics. Asimov is a science fiction writer famous for “Three Laws of Robotics”. Biochemistry is the actual research field of Asimov, but his face as a writer is more famous. When I looked it up, Asimov was born in Russia. He personally wants to show us the world of today’s maglev trains. Also, robots are no longer commonplace. Asimov foresaw such a future in the 20th century. He envisions a future of mechanization with his knowledge of the 20th century, and wonders what will happen if it progresses, but he points out a favorable direction and asks the public. In short, he was throwing a dream of science.

Asimov’s writer debut

Asimov was recognized for his first science fiction work in a magazine in 1938, and has made his debut as a writer since 1939. He’s like America, who recognizes his talent. He graduated from Columbia University this year and went on to graduate school.

He advocates the so-called Three Laws of Robotics, but Asimov is taking a leave of absence from school in the era of World War II. Asimov was amazed at the speed at which science gathered knowledge, and he wanted society to gather wisdom. How does he see the world that is still divided?

Unexpected ending

And, surprisingly, Asimov died in 1992 due to HIV infection. He seems to be infected with the transfused blood used during heart bypass surgery. I think he really had a lot of experience in his life.

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武谷三男 
【利益・便益と それに伴う被曝の有害さ・リスクを考察|三段階理論での現象把握を考察】-3/16改訂

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原爆の秘密

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【1911年10月2日生まれ – 2000年4月22日没】


【出典:Wikimedia Commons‗MitsuoTaketani】

武谷三男の研究基盤

武谷三男は京大理学部で理論物理学の基礎を修めました。

武谷三男の主な関心は原子核の振る舞いや素粒子論です。

湯川秀樹や坂田昌一と共同で研究を進めていった時代の人です。
反ファシズムの立場だった武谷は原子核関連の開発と
発展についての発言で
政治的ともいえる言葉を
残しています。
原爆や水爆の
開発に対しての是非について発言しています。

また会津に亡命していたロシア人女性と結婚したという
私生活上のエピソードも興味深いものがあります。
「まさかあの人と!」
とかいった話が出てきそうです。

いずれにしても武谷は未だ曖昧だった原子核に対して
形を与えていった時代の人なのです。

一つ一つ現象を見ていき、定式化していったのです。
何より武谷は独自の方法論を駆使したのです。

科学哲学としての武谷三男

武谷三男の三段階理論は、単なる物理学の説明方法ではありません。
それは科学そのものの発展過程を説明する「科学方法論」
として構想されたものでした。

武谷は、自然科学の理論は突然完成するのではなく、

  1. 観測された現象を整理する段階

  2. その背後にある実体を想定する段階

  3. それらを統合して数学的理論を構築する段階

という過程を経て発展すると考えました。

この考え方は、
量子力学成立の歴史にもよく当てはまります。

例えば

  • スペクトル線の観測(現象論)

  • 原子模型の導入(実体論)

  • 量子力学の数式化(本質論)

という形で、物理学は段階的に発展してきました。

武谷の三段階理論は、こうした科学史の分析から導き出された方法論でもあり、
物理学だけではなく科学哲学の議論でも取り上げられています。(更に後述します)


湯川理論の理解者/坂田昌一との関係

武谷は湯川秀樹の中間子理論を早い段階から評価した理論物理学者でした。

当時はまだ実験で確認されていませんでしたが、
理論の重要性を理解していた数少ない研究者の一人です。


 また武谷は坂田昌一とも関係が深く、日本の素粒子理論の形成期に
関わっています。坂田の「坂田模型」は後のクォーク模型の先駆とも言われます。

武谷は日本科学者会議の創設に関わるなど、
科学者の社会的責任について積極的に発言した人物です。

戦後日本の科学者倫理議論では欠かせません。

武谷の三段階理論

ここで、方法論として三段階理論と呼ばれた
論法を用いて武谷は論拠としていましたので
ご紹介します。
(以下ウィキペディアから引用)

①現象論的段階
量子力学の範疇に入る現象で
「測定にかかるもの」を
そのまま記述する
(第一)段階

②実体論的段階
上記現象の方程式を作る前に、
現象論的段階に出てこない実体
(模型、粒子など)を知る
(場合によっては新たに導入する)
(第二)段階

③本質論的段階
現象論的段階で記述される現象を、
実体論的段階で導入した実体も含めて、
方程式など主として
数学的手法で記述する
(第三)段階
【引用ここまで】

この武谷の理論は測定方法の側面から考えたときに、

「観測問題の制限」を意識した理論だと言えるでしょう。

その時代から数十年遡って思い返せば、
量子力学創設の時代以前にはすべての段階
意識化されていなかったのです。

また、米国のビキニ環礁での水爆実験に際し、
問題点を掘り下げて定量的な指標を考察して
放射線の許容量(がまん量とも表現しました)
議論していきました。

具体的に「急性の放射線障害」と「長期的に蓄積される効果」
を明確に区別して
議論すべきだと主張していきました。
昨今の福島原発での処理水放出でこうした議論が
生かされているでしょうか。一考の価値ありです。

当時、立教大学の教授であった武谷は、
放射線防護の概念を考え直し、
「自然科学的な対象の概念」
に留まらず、
放射線利用の「利益・便益と
それに伴う被曝の有害さ・
リスク
ともいえる社会的概念」
として
考え直した功績も指摘されています。

また、別の方のブログで武谷の業績について
記載されているブログがあるのでご紹介しておきます。
武谷は本当に「色々な足跡」を残していますね。

〆最後に〆

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 Base of Taketani

Taketani Mitsuo studied the basics of theoretical physics

at the Faculty of Science, Kyoto University.

His main interests are nuclear behavior and particle physics.

He is in collaboration with Hideki Yukawa and Shoichi Sakata

He is a man of the era when he was advancing research.
T
aketani, who was in an anti-fascist position

Remarks on nuclear-related development and development

He leaves behind words that can be called political.

He is about the pros and cons of atomic and hydrogen bombs.

Also, a Russian wife who was in exile in Aizu

I am also interested in the relationship with. No way, with that person

There seems to be a story like that.

In any case, Takeya was still ambiguous

He was a man of the era that gave shape to the atomic nucleus.

He looked at the phenomena one by one and formulated them.

Above all, Takeya established a methodology.

Three step of Taketani

Here, as a methodology, a three-step theory

Because Takeya used the reasoning called

I will introduce you. (Quoted from Wikipedia below)

① Phenomenon stage
A phenomenon that falls into the category of quantum mechanics
“What is measured”
Describe as it is
(the first stage

② Realistic stage
Before making the equation of the above phenomenon
Entities that do not appear in the phenomenological stage
Know (models, particles, etc.)
(In some cases, newly introduced)
(Second) stage

③ Essentialist stage
Phenomena described at the phenomenological stage,
Including the substance introduced at the realist stage,
Mainly equations etc.
Describe with mathematical methods
(Third) stage
[Quote so far]

This Takeya’s theory is based on the measurement method.

It can be said that the theory is conscious of the limitation of the observation problem.

Looking back decades from that era,

All stages before the era of quantum mechanics

Was not conscious.

Also, during a hydrogen bomb test at Bikini Atoll in the United States,

Dig into the problem and consider quantitative indicators

Radiation allowance (also referred to as the amount of radiation)

I continued to discuss.

Specifically, “acute radiation injury”

A clear distinction between “long-term accumulated effects”

I insisted that it should be discussed.

Takeya, who was a professor at Rikkyo University at that time,

Rethinking the concept of radiation protection,

Beyond the “concept of natural science objects”

“Benefits / benefits of radiation use and the harmful effects of radiation exposure /

As a “social concept that can be called a risk”

His rethinking achievements have also been pointed out.

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坂田 昌一
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今回は近世20世紀に概念・手法を確立していった偉人を紹介します。
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現時点での英訳も考えています。
(以下原稿です)

星新一ショートショート
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【1911年1月18日生まれ ~ 1970年10月16日没】


【”画像Wikipedia:坂田昌一(1949年)”アサヒグラフ(1949年5月4日号)】

坂田晶一の生きた時代 

坂田昌一は、日本の素粒子論の発展に
重要な役割を果たした理論物理学者です。

湯川秀樹朝永一郎らと同じ時代を生き、議論を交わしながら
日本の理論物理学の発展を支えた人物でもあります。

京都帝国大学を卒業した後、名古屋帝国大学(現在の名古屋大学)
で研究と教育に携わりました。


名古屋大学はその後、日本の素粒子研究の重要拠点となり、
多くの研究者を育てることになります。

また意外な縁として知られているのが、 坂田昌一の妻・信子さん
が SF作家の星新一と親族関係にあるという点です。

 日本のSF文学を代表する作家と、日本の素粒子物理学を
代表する研究者が家族としてつながっていたというのは
興味深い話でしょう。

その中で重要な役割を果たした人物の一人が、理論物理学者・坂田昌一です。
彼は素粒子論の発展に大きな影響を与えた「坂田モデル」を提唱し、
日本の素粒子研究の方向性を決定づけました。

坂田昌一の名前は、一般的にはそれほど広く知られていないかもしれません。
しかし彼の理論は、後のクォークモデルや標準模型に至る
研究の流れの中で重要な役割を果たしています。

また私生活では、SF作家・星新一の親族とも縁があるなど、
意外なエピソードも残されています。
本記事では、坂田昌一の生きた
時代背景と研究、そして素粒子物理学への影響について整理していきます。

坂田昌一の生きた時代

坂田昌一は、日本の理論物理学が大きく発展していく時代に活動した
物理学者です。
20世紀前半、日本の物理学界は急速に国際水準へと到達し、
多くの優れた研究者が登場しました。

坂田昌一もまた、その中心にいた研究者の一人でした。

湯川秀樹・朝永振一郎と同時代の物理学者

坂田昌一は、湯川秀樹や朝永振一郎と同じ時代を生きた理論物理学者です。
彼らは互いに議論を交わしながら、日本の物理学研究を発展させていきました。

特に素粒子論の分野では、湯川秀樹が提唱した「中間子理論」が大きな
影響を与えます。
この理論は、原子核内で働く強い力を説明するために
提唱されたものであり、日本の理論物理学が世界的に評価される契機となりました。

坂田昌一もまた、この研究の流れの中で活躍した研究者であり、
湯川の中間子理論をめぐる議論にも深く関わっていました。

京都帝国大学から名古屋帝国大学へ

坂田昌一は京都帝国大学(現在の京都大学)で学びました。
当時の京都帝国大学は、日本の理論物理学研究の中心的な拠点であり、
多くの優れた研究者が集まっていました。

その後、坂田昌一は名古屋帝国大学(現在の名古屋大学)で研究と教育に携わる
ことになります。
名古屋大学はその後、日本の素粒子研究の重要な拠点となり、
多くの研究者を輩出することになります。

坂田昌一の研究と量子電磁力学

坂田昌一の研究は、当時急速に発展していた量子論と素粒子論の分野において
重要な役割を果たしました。
特に量子電磁力学(QED)の問題に対する
理論的な取り組みは、日本の物理学界の研究水準の高さを示すものでもあります。

電磁場の量子化という問題

当時の物理学では、電磁場を量子論でどのように扱うかという問題が
大きな課題となっていました。
電子と電磁場の相互作用を理論的に
説明しようとすると、計算の途中で電子の質量が無限大に発散するという
問題が生じてしまうのです。

この問題は量子電磁力学の根本的な困難の一つであり、
多くの研究者が解決を試みていました。

くりこみ理論と理論物理学の進展

坂田昌一もまた、この問題に対して理論的なアプローチを試みました。
彼は湯川秀樹の提唱した中間子の概念を利用しながら、相互作用の
問題を理解しようとしたのです。

最終的には、この量子電磁力学の問題は朝永振一郎らによる
「くりこみ理論」によって体系的に整理されます。

この理論は後にノーベル賞の対象となり、現代物理学の基礎理論の一つとなりました。

坂田昌一の研究もまた、この理論的発展の流れの中に位置づけられるものです。

坂田モデルと素粒子論への影響

坂田昌一の名前を最も有名にした業績が「坂田モデル」です。
これは現在のクォークモデルに先立つ素粒子の構造モデルであり、
素粒子物理学の発展に重要な役割を果たしました。

坂田モデルとは何か

坂田モデルでは、陽子・中性子・ラムダ粒子の三つを基本粒子と考え、
それらの組み合わせによって他の粒子が構成されると考えました。

現在の標準模型ではクォークが基本粒子として扱われますが、
当時はまだその概念は存在していませんでした。

その意味で坂田モデルは、粒子の内部構造を考える
先駆的な試みだったと言えるでしょう。

次世代の理論へとつながる研究

坂田モデルはその後、素粒子論の発展の中でより
洗練された理論へと発展していきます。

特に日本の理論物理学者である小林誠、益川敏英らの研究にも影響を与え、
日本の素粒子論の研究伝統の中で重要な役割を果たしました。

このように坂田昌一の研究は、単独の理論としてだけでなく、
後の世代の研究者たちが新しい理論を構築するための基盤として機能したのです。

参考書籍

素粒子物理学入門(Amazon)
湯川秀樹と日本の理論物理学(Amazon)

〆最後に〆

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以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
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(2021年11月時点での対応英訳)

The time when Dr. Sakata lived

Shoichi Sakata is a physicist who studied elementary particles. He lived in the same era as Hideki Yukawa and Ichiro Tomonaga, exchanged discussions, and opened the Physical Society of Japan.

He is a graduate of Kyoto Imperial University and teaches at Nagoya Imperial University. In addition, Shoichi Sakata’s wife, Nobuko, is a cousin of science fiction writer Shinichi Hoshi.

Dr. Sakata of Sakata model

Shoichi Sakata’s achievements in theoretical physics are related to the quantization of electromagnetic fields. At that time, the problem was that the mass of the electron diverged when the field was quantized.

Shoichi Sakata tries to solve the problem by using the concept of mesons. Finally, this problem in quantum electrodynamics will be explained by Shinichiro Tomonaga using renormalization theory. Shoichi Sakata is also a co-author of a paper on Hideki Yukawa’s mesons.

It should be noted that Shoichi Sakata’s achievements are that he considered protons, neutrons, and lambda particles as elementary particles, and proposed a “Sakata model” for their composition. The Sakata model became the next theoretical foundation for Yoshiro Onuki, Toshihide Maskawa, and Makoto Kobayashi, and discussions proceeded. These are solid results that have led to discussions for the next generation.

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湯浅年子(ゆあさやすこ)
【1909年12月11日 – 1980年2月1日_女性物理学者と物理教育】-3/14改訂

こんにちはコウジです。
半年ごとの既存記事見直しの作業です。
今回は近世20世紀に概念・手法を確立していった偉人を紹介します。
では、ご覧ください。内容を整理し、リンクを見直しました。
現時点での英訳も考えています。
(以下原稿です)

パリに生きた科学者湯浅年子
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【出典:Toshiko Yuasa Wikimedia Commons】

湯浅年子はパリのコレージュ・ド・フランス原子核科学研究所、
CNRS(フランス国立中央化学研究所)などで研究した女性で。日本国外で
本格的に研究活動を行った最初期の日本人女性物理学者の一人です。

女性物理学者への道が始まる
:湯浅年子の原点・発明家の父と、帝大一家に育つ

湯浅年子は1910年、東京・上野に生まれた。
父は日本初の完全自動製糸機を開発した発明家、
湯浅藤市郎。兄弟たちも東京帝国大学に進学するなど、
知性と技術に囲まれた家庭環境の中で育った。
幼い頃から病弱で外に出られず、布団の中でじっと考えごと
をする日々が、年子の観察力や好奇心を育んでいった。

災難と日常が育てた、科学への芽生え

火事で小学校が焼けたり、線路を越えて通学する危険性から
転校したりと、年子の幼少期は波乱に満ちていました。
しかし、氷から湯気が出る現象に興味を持ったり、
母のために摂氏と華氏の換算表を作ったりと、
日常の中で自然現象に目を向ける視点を持ってたのです。
裁縫や茶道には興味を持たず、家庭的な「女の子らしさ」から逸脱
していた彼女だが、それがむしろ科学の道への入り口となりました。

「一番わからないから」物理を選んだ少女

1927年、東京女子高等師範学校の理科に進学し、
保井コノらの指導を受けた湯浅は、
「物理が一番わからないから気になる」として、
自然と物理学に惹かれていった。
1931年、女性の大学進学がまだ非常に限られていた時代に、
母の意向を汲みつつも東京文理科大学に進学し、
日本初の「女子物理学専攻の大学生」となった。
こうして、女性科学者としての道が静かに、
しかし確かに始まったのである。

物理にすべてを賭けた決意とフランスへの旅立ち

湯浅年子が「女性物理学者」として歩みを進めるうえで、
内なる葛藤と運命的な出会い、そして
戦争の影響を受けながらも自らの意志で
道を切り開いていく姿は、今を生きる私たちに
多くの示唆を与えてくれます。

自問自答を乗り越えて、物理学に専念

大学時代の湯浅は、物理が難解であることに悩み、
さらには経済的に恵まれた自分の立場への戸惑いから、
当時流行していた共産主義にも関心を示していました。
しかし、恩師・保井コノから
「自然科学でこそ社会に貢献できる」
と諭され、湯浅は迷いを断ち切り、物理学に真剣に向き合う
ようになります。卒業研究では、原子分子分光学を選び、
着実に専門性を高めていきました。

教育職では満たされない、キュリー夫妻の論文に衝撃!

大学卒業後、東京女子大学や女子高等師範学校で
教鞭を執るも、「自分は教育者に向いていない」
と感じていた湯浅。さらに研究環境や分光学の
限界に息苦しさを覚えていたある日、
図書室で出会ったジョリオ=キュリー夫妻の
人工放射能に関する論文に深く感銘を受けます。
これをきっかけに、彼らのもとで研究したいという
新たな目標が芽生え、フランス留学に挑むことを決意します。

戦火と家族の病を乗り越え、つかんだ「魂の自由」

1939年、ついに留学試験にトップ合格し、
女性初のフランス政府派遣留学生に選ばれた湯浅。
しかし、渡航直前に第二次世界大戦が勃発し、
父の余命宣告という困難が彼女を襲います。
悩んだ末に、父の後押しでフランスへ。
戦時下の制限のなか、ジョリオ=キュリーらの支援で
研究機関への所属が叶い、彼女は念願の原子核研究に従事。
祖国では得られなかった「魂の自由」を感じながら、
物理学者としての新たな一歩を踏み出しました。

戦争下の研究生活

戦争勃発と避難生活

1940年5月、ドイツ軍のフランス進撃により、
パリの研究所は危険な状況となりました。

フレデリック・ジョリオ=キュリーの勧めで、
湯浅はボルドーへ避難しましたが、研究ができない
環境に耐えられず、5月31日にパリへ戻りました。

研究所の再開と戦時下の研究

ドイツ占領下の6月、研究所は一時閉鎖されましたが、
9月にドイツ人との共同研究などの条件で再開されました。
湯浅はジョリオの指導のもと、霧箱を用いて
原子核崩壊のエネルギーや運動量の変化を
調べる実験を行い、1941年には論文を発表しました。

戦争の影響とドイツでの研究

日本とドイツの同盟により、フランス国内での日本人の立場
は厳しくなりました。
1944年8月、大使館の要請で
日本人の引き揚げが始まり、湯浅もベルリンへ移動しました。

オットー・ハーンのもとでの研究を試みましたが戦線の接近で
叶わず、代わりにベルリン大学付属第一物理学研究所
でクリスチャン・ゲルツェン教授の指導のもと研究を行いました。

しかし、空襲の激化で研究所を離れ、5月のドイツ降伏後、
モスクワ経由で日本へ送還されました。

情報源:

FaviconJST‗第16回「フランスの科学技術力 「混成研究」が源泉」|科学技術の潮流 -日刊工業新聞連載-

FaviconCRDS_ パンデミックの時期にあってフランス研究界が果たす役割 « デイリーウォッチャー|(CRDS)

FaviconJST_フランスの科学技術情勢|戦略提案・報告書|研究開発戦略センター(CRDS)
FaviconTTS Press_ブラ・ル・コルプス!展19世紀のコレージュ・ド・フランスの科学者と器具! –
Faviconキッコーマン_酒のみの社会史 19世紀フランスにおけるアル中とアル中防止運動 |
Faviconソリティラパリ_ブラ・ル・コルプス!展19世紀のコレージュ・ド・フランスの科学者と器具!

 

焼け野原からの再出発—湯浅年子が歩んだ戦後復興の道


1945年、戦火を逃れて日本に帰国した湯浅年子は、
焦土と化した祖国の風景と、母の死という個人的な
悲しみに打ちのめされながらも、科学者としての
責務を貫いて歩み始めました。ヨーロッパで培った
先端科学の知識と使命感を胸に、研究と教育、そして
女性科学者としての社会的役割に尽力していく姿は、
戦後日本の科学復興と深く重なります。


焦土の祖国と最愛の母の死—静かに始まった苦難の帰国

戦後間もない1945年、湯浅年子はヨーロッパでの
研究生活を終えて帰国しました。彼女が目にしたのは、
空襲によって焼け野原となった東京の惨状でした。

かつて活気に満ちていた街は瓦礫と化し、
科学研究どころか生活すら困難な状況。
その衝撃は、理論物理学者として
冷静な目を持つ彼女にも深く刻まれました。

追い打ちをかけるように、帰国からわずか数週間後の

7月23日、最愛の母・よねが病の末に亡くなります。
若くして父を亡くした湯浅にとって、
母の存在は精神的な支えでした。
その喪失は、科学者としての使命感と同時に、
深い人間的な悲しみを背負わせました。


原子爆弾と科学者の責任—授業で伝えた「核の力」

湯浅は、戦災の激しかった東京を離れて、
長野県に疎開していた東京女子高等師範学校
(現在のお茶の水女子大学)に助教授として復職します。
戦火を逃れたその地で静かに教育活動を再開していた
彼女のもとに、1945年8月6日、広島に「新型爆弾」
が投下されたとの報せが届きました。

専門知識を持つ湯浅は、その報道内容から即座に
それが原子爆弾であると察知。翌日には、
学生たちに対して原子核分裂の原理や
核兵器の破壊力について講義を行い、
科学の力が人間社会に与える影響と責任
について語りました。この行動は
、科学者が単に研究を行うだけでなく、
社会的な責任を担うべきであるという信念の現れでした。


科学復興と女性の使命—封じられた実験と広がる活動

戦後、湯浅は再び東京に戻りますが、
そこでも生活環境は整っておらず、
校舎の一角で寝泊まりしながら
研究の再開を模索します。

彼女は、フランスで親交を結んだイレーヌ
・ジョリオ=キュリー(マリー・キュリーの娘)
から、日本にラジウム研究所を作るべき
という提案を受けており、帰国の際には
マリー・キュリーが測定した
「標準ラジウム塩」を託されていました。

この期待に応えるため、湯浅は日本国内での
ラジウム鉱石の分布調査を始め、さらに
ベルリンから持ち帰ったβ線分光器を使って
βスペクトルの研究も構想していました。
理化学研究所で仁科芳雄と共に準備を進めていましたが、
1945年11月25日、GHQの命令により理研のサイクロトロン
が破壊され、計画は無念の中止に追い込まれます。

しかし湯浅は挫けませんでした。実験の場を失っても、
彼女は講演、執筆、教育活動に力を注ぎます。とりわけ、
彼女が危機感を持っていたのは、日本における
女性科学者の地位の低さです。
フランスでは女性研究者が第一線で活躍していた一方、
日本では依然として偏見が根強く、研究環境も乏しい
ものでした。湯浅はこの状況を変えようと、
科学教育の機会を広げ、女性たちに夢と
希望を与える存在として活動を続けていきました。

パリへの再移住と研究の日々——湯浅年子の決断と貢献


戦後の混乱期を経て、湯浅年子は再びフランス・パリの
研究の現場に戻ります。彼女を迎えたのは、旧知の
フレデリック・ジョリオ=キュリーからの温かな電報でした。
1950年代、β崩壊の研究で国際的な評価を得ながら、
フランス国立科学研究センター(CNRS)の正式な研究員
となった湯浅。人生の選択に悩みながらも、科学者としての
使命に生きたその姿は、現在でも多くの
研究者に影響を与えています。


ジョリオ=キュリーからの電報と再出発の決意

1949年、湯浅年子のもとにフレデリック・ジョリオ=キュリーから一通の電報が届きました。「ご無事をよろこぶ。再び研究を始めましょう」――この言葉が、湯浅を再びフランスへと導きます。戦後の混乱、5年間の研究の空白、そして日本における困難な環境を乗り越え、湯浅はパリの研究室に戻ることを決意しました。

当初は、お茶の水女子大学からの「出張」という扱いで渡仏。フランスでは、原子核物理の最先端であるβ崩壊の研究を再開し、次第に成果を挙げるようになります。戦後の国際科学界では、量子力学や原子核物理が再び注目を集めており、湯浅はこの分野で次第に国際会議でも講演を務める存在へと成長していきました。


パリ残留の決断とCNRS研究員としての挑戦

1952年、大学からの出張期間が終了した湯浅は、その後「休職」というかたちでパリにとどまります。しかし1955年、休職期限も満了を迎え、岐路に立たされることになります。帰国して大学に戻るのか、それとも大学を辞し、フランスに残って研究者としての道を選ぶのか——。日本からは帰国を促す声も多く届きましたが、湯浅は「科学者としての継続性」を重視し、フランスに残る決断をします。

同年10月、湯浅は正式にCNRS(フランス国立科学研究センター)の研究員に就任。その後、1957年には主任研究員に昇格し、研究体制も大きく整っていきます。CNRSは現在でもヨーロッパ有数の公的研究機関であり、当時すでにフランス科学界の中心的存在でした。

一方で、湯浅を支えてきた恩師たちが次々と世を去ります。1956年にイレーヌ・ジョリオ=キュリー、1958年にフレデリック・ジョリオ=キュリーが亡くなり、湯浅は深い悲しみに包まれました。しかし、その教えと志は、彼女の中に強く残り続けました。


オルセー原子核研究所での晩年と日本との再接続

1959年、湯浅の研究拠点は、新設されたオルセー原子核研究所(Institut de physique nucléaire d’Orsay)に移されます。この研究所は、パリ第11大学とCNRSの共同運営によって創設されたフランス核物理研究の中心拠点であり、現在も欧州原子核研究機構(CERN)と連携する重要な機関です。

オルセーでは、研究だけでなく、日本からの若手研究者や留学生の支援、国際会議への出席など、多忙な日々が続きました。1967年、東京で開催された原子核国際会議に参加するため、湯浅は18年ぶりに日本に帰国。この訪問をきっかけに、CNRSと日本の大学・研究機関との交流が深まり、彼女自身にも日本の科学誌からエッセイや寄稿の依頼が次々と寄せられるようになります。

しかし、1970年頃から体調を崩すことが増え、1973年にはついに病院での精密検査を受け、胃と胆のうを摘出する手術を受けることになりました。それでも湯浅は、「体よりも仕事」を優先し続けたといいます。その姿勢からは、彼女の科学に対する執念と誠実さが伺えます。

「β崩壊研究の科学的意義」

湯浅年子が取り組んだβ崩壊研究は、単なる実験物理ではありません。

β崩壊は、原子核内で中性子が陽子へ変化する過程であり、
その理論的理解は量子力学と相対論の融合に関わる重要問題でした。

この理論的枠組みを整備したのが
エンリコ・フェルミ の理論です。

湯浅は霧箱や分光器を用いて、β線のエネルギースペクトル
/運動量分布/崩壊確率を実験的に解析しました。

彼女の仕事は、理論の検証という形で核物理学の基礎を
支えたものであり、
「女性初」だけではない、純粋な研究者としての実力
を示しています。


◆ 「コレージュ・ド・フランスでの意義」

湯浅が所属したコレージュ・ド・フランス
は、フランス最高峰の研究教育機関です。

ここは学位授与を目的とせず、
最先端研究の公開講義を行う特殊な機関

そこに日本人女性が戦前に在籍したこと自体が
国際科学史上きわめて特異です。

また、フランス国立科学研究センター
は現在も欧州最大級の研究機関です。


◆ 「湯浅年子の歴史的位置づけ」

彼女は単なる「海外で活躍した日本人女性」ではありません。

位置づけとしては:日本初の女性原子核物理学者/欧州核物理研究の一員/
戦前〜冷戦期を横断した科学者/女性科学者のロールモデル

日本側では

お茶の水女子大学/女性科学者育成の精神的支柱とも言えます。

晩年の湯浅年子――名誉研究員としての挑戦と最期の瞬間


1974年、フランス国立科学研究センター(CNRS)の定年制度により65歳で第一線から退くこととなった湯浅年子。しかし、その実績と貢献が認められ、特例として名誉研究員に任命され、研究を継続します。晩年は体調に悩まされながらも、日仏間の共同研究に尽力し続け、病に伏してもなお研究に情熱を注ぎました。最期の瞬間まで科学と向き合った湯浅の生き様は、真の研究者の姿を私たちに伝えています。


定年と名誉研究員としての新たなスタート

1974年、湯浅年子は65歳の誕生日を迎え、CNRSの規定により定年を迎えることになりました。CNRSでは、特別な役職である「研究長」であれば70歳まで勤務が可能でしたが、当時は組織の人員削減方針があり、湯浅は研究長に昇格することができませんでした。

それでも彼女の長年の貢献と科学的業績は非常に高く評価されており、CNRSは異例の措置として「名誉研究員(Directrice de recherche honoraire)」の称号を授与。これにより、湯浅は形式上は定年退職しながらも、研究を継続する道を確保することができました。名誉研究員とは、通常の給与や職務は持たないものの、研究施設の利用やプロジェクトへの参加が許される特別な立場です。

この措置は、湯浅がフランス科学界でどれほど尊敬されていたかを物語っています。


紫綬褒章受章と日本への再帰国

1976年、湯浅は日本政府から紫綬褒章を受章しました。この勲章は、学術・芸術・技術分野で功績を挙げた人物に贈られるものであり、「永年にわたるフランスでの学究生活」と「日仏文化交流への多大な貢献」が評価された結果でした。

翌1977年には、原子核構造国際会議に出席するため、10年ぶりに日本へ一時帰国します。手術を経た後の湯浅はすでに体力が落ちており、十分な食事もとれない状態でした。久々に再会した日本の友人や教え子たちも、彼女のやつれた様子に心を痛めたと記録されています。

それでも湯浅は、全国各地での講演や旧友たちとの交流を積極的にこなし、知的エネルギーに満ちた日々を送ります。この時期、彼女は病を押してでも伝えたい科学的メッセージを多く持っていたのでしょう。


最期まで科学を追い求めて

帰仏後の湯浅は、実験に加えて日仏共同研究の実現にも取り組みます。これは、フランスと日本の科学者たちが連携して原子核物理の最先端を切り拓くという試みでした。日本側の窓口は、東京大学原子核研究所の柳父琢治教授が務め、湯浅とは何度も電話や手紙でやり取りを重ねていました。

しかし、1979年ごろから湯浅の体調はさらに悪化。医師からは入院を勧められるも、「研究が中断するのは耐えられない」として、入院を頑なに拒否していました。代わりに食事療法や自宅療養で対応を試みます。

そして1980年1月30日、周囲の説得を受けてようやくアントワーヌ・ベクレル病院へ入院。この病院は、物理学者アンリ・ベクレルにちなんで名付けられた放射線医学の名門です。救急車の中でも、湯浅は「降ろしなさい」と言い、病院に行くことすら拒もうとしたと言われています。

2月1日、彼女は危篤状態に陥りますが、その前日、長年取り組んできた日仏共同研究に対してフランス政府から正式な許可が下りました。知らせを持って病室を訪れた坂井光夫教授(東大)は、意識のないように見えた湯浅にその朗報を告げます。すると湯浅はゆっくりと目を開き、うなずき、何かを語ろうと口を動かしたと伝えられています。

そのわずか数時間後、1980年2月1日午後4時25分、湯浅年子は70歳でその生涯を閉じました。彼女の生き方は、最期の瞬間まで「科学とともにあろう」とする、真の研究者の魂そのものでした。

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(2025年4月時点での対応英訳)

Toshiko Yuasa was a woman who conducted research at institutions such as the Collège de France’s Nuclear Chemistry Laboratory and the CNRS (French National Centre for Scientific Research).
She was the first Japanese female physicist to work abroad.


The Beginning of a Female Physicist’s Journey

Toshiko Yuasa’s Origins: Raised by an Inventor Father and a Family of Imperial University Graduates

Toshiko Yuasa was born in 1910 in Ueno, Tokyo.
Her father, Tōichirō Yuasa, was an inventor who developed Japan’s first fully automatic silk-reeling machine.
She was raised in an intellectually rich household, where her siblings also went on to study at the University of Tokyo.
Often sick and unable to go outside as a child, Toshiko spent much time lying in bed, quietly thinking—an experience that nurtured her powers of observation and curiosity.


Calamity and Daily Life Sparked a Scientific Mindset

Yuasa’s childhood was full of upheaval: her elementary school burned down in a fire, and she had to transfer schools due to the danger of crossing train tracks.
Yet she maintained a keen eye for the natural world—fascinated by how steam rose from ice, and once even creating a Celsius–Fahrenheit conversion chart for her mother.
She had no interest in sewing or tea ceremony, and did not fit the mold of a traditional “feminine” girl—traits that, instead of holding her back, led her naturally toward science.


“Because I Understand It the Least” — The Girl Who Chose Physics

In 1927, Yuasa entered the science division of Tokyo Women’s Higher Normal School, where she studied under the likes of Kono Yasui.
She said that she was drawn to physics because it was the subject she understood the least, and thus found the most intriguing.
In 1931, when women’s access to higher education was still extremely limited, she enrolled in Tokyo Bunrika University, becoming Japan’s first female university student majoring in physics.
Thus began her quiet yet determined journey as a woman scientist.


A Life Devoted to Physics — and the Decision to Go to France

As she forged her path as a “female physicist,” Yuasa overcame inner struggles, fateful encounters, and the harsh backdrop of war.
Her will to carve her own path offers powerful insights for us even today.


Overcoming Doubts and Dedicating Herself to Physics

While at university, Yuasa struggled with the difficulty of physics and also questioned her privileged upbringing.
She even took an interest in the then-popular ideology of communism.
However, her mentor Kono Yasui encouraged her by saying,
“It is through the natural sciences that one can truly contribute to society.”
That advice gave Yuasa clarity, and she dedicated herself seriously to physics.
For her graduation research, she chose atomic and molecular spectroscopy, steadily building her expertise.


Discontent with Teaching — A Life-Changing Encounter with the Curies’ Paper

After graduation, Yuasa taught at Tokyo Woman’s Christian University and the Women’s Higher Normal School, but felt she was unsuited for teaching.
She also felt stifled by the limitations of the research environment and of spectroscopy itself.
One day, in the library, she came across a paper by Irène and Frédéric Joliot-Curie on artificial radioactivity.
Deeply moved, she found a new dream: to study under the Joliot-Curies.
This marked the beginning of her decision to study in France.


Through War and Family Tragedy — Gaining “Freedom of the Soul”

In 1939, she passed the study-abroad exam at the top of her class and became the first woman sent to France as a government-sponsored student.
However, just before departure, WWII broke out, and her father was diagnosed with a terminal illness.
After much anguish, her father encouraged her to go—and she left for France.
Despite wartime restrictions, she joined a research institution with support from the Joliot-Curies and finally began her dream research in nuclear physics.
In France, she experienced a spiritual freedom she had never found in Japan, and took a new step forward as a physicist.


Life as a Researcher During Wartime

The Outbreak of War and Life in Refuge

In May 1940, as German forces advanced into France, Yuasa’s laboratory in Paris became unsafe.
At Frédéric Joliot-Curie’s urging, she evacuated to Bordeaux.
However, unable to tolerate the lack of a research environment, she returned to Paris on May 31.


Laboratory Reopens and Research Under Occupation

After a temporary closure in June under German occupation, the laboratory reopened in September under the condition of collaborative research with Germans.
Under Joliot’s guidance, Yuasa conducted experiments using a cloud chamber to study the energy and momentum of nuclear decay.
In 1941, she published a research paper.


War-Time Pressures and Research in Germany

Due to the alliance between Japan and Germany, the situation for Japanese nationals in France worsened.
In August 1944, under orders from the Japanese Embassy, Yuasa was relocated to Berlin.
Though she sought to study under Otto Hahn, the advancing frontlines made that impossible.
Instead, she conducted research at the First Institute of Physics of Berlin University under Professor Christian Gerthsen.
But with intensifying air raids, she had to leave the lab, and after Germany’s surrender in May, she was repatriated to Japan via Moscow.


Rebuilding from the Ashes — Yuasa’s Postwar Path to Scientific Recovery

Summary:
In 1945, Yuasa returned to Japan, fleeing the war-torn continent.
Though devastated by the charred ruins of her homeland and the personal tragedy of her mother’s death, she remained committed to her duty as a scientist.
Carrying with her both advanced scientific knowledge and a sense of mission, she dedicated herself to research, education, and the societal role of women in science—mirroring Japan’s own postwar scientific recovery.


A Shattered Homeland and the Death of Her Beloved Mother — The Quiet Start of a Difficult Return

Shortly after the war ended in 1945, Yuasa returned from Europe.
What she saw was Tokyo reduced to ashes by air raids.
The once-vibrant city had become a wasteland, and even basic living conditions were dire.
Even as a theoretical physicist with a calm perspective, the sight left a deep impression on her.

Just weeks later, on July 23, her beloved mother Yone passed away after illness.
Having lost her father early in life, Yuasa had relied deeply on her mother.
Her death left her carrying not only the mission of a scientist, but also profound personal sorrow.


The Atomic Bomb and a Scientist’s Responsibility — Teaching About the Power of the Nucleus

Yuasa relocated to Nagano Prefecture, away from the war-damaged Tokyo, to resume her post as associate professor at the Women’s Higher Normal School (now Ochanomizu University).
There, on August 6, 1945, she received word that a “new type of bomb” had been dropped on Hiroshima.

With her expertise, she immediately recognized it as an atomic bomb.
The very next day, she delivered a lecture to her students on the principles of nuclear fission and the destructive power of nuclear weapons, emphasizing the profound societal responsibility borne by science.
Her actions reflected her belief that scientists must not only conduct research, but also take responsibility for its implications in society.


Scientific Revival and the Role of Women — Blocked Experiments and Expanding Outreach

Postwar, Yuasa returned to Tokyo, though conditions remained difficult.
She stayed in a corner of the school building as she tried to resume her research.
Before returning from France, Irène Joliot-Curie had encouraged Yuasa to build a radium research institute in Japan and entrusted her with the “standard radium salt” measured by Marie Curie.

In response, Yuasa began surveying radium ore distribution in Japan.
She also planned to use a beta-ray spectrometer she had brought from Berlin for beta spectrum research.
She began preparations with Yoshio Nishina at RIKEN, but on November 25, 1945, GHQ ordered the destruction of RIKEN’s cyclotron, forcing the project to a regrettable halt.

But Yuasa did not give up.
Even without a lab, she devoted herself to giving lectures, writing, and educating others.

Returning to Paris and a Life of Research — Toshiko Yuasa’s Decision and Contribution

After the turmoil of postwar Japan, Toshiko Yuasa returned to the research world of Paris, France. Awaiting her was a warm telegram from her old acquaintance Frédéric Joliot-Curie. In the 1950s, Yuasa gained international recognition for her work on beta decay and became an official researcher at the French National Centre for Scientific Research (CNRS). Though she faced difficult life choices, she lived with a strong sense of mission as a scientist — a legacy that continues to inspire researchers today.


A Telegram from Joliot-Curie and a New Beginning

In 1949, Toshiko Yuasa received a telegram from Frédéric Joliot-Curie:
“Glad to know you are safe. Let’s begin research again.”
These words led her back to France. Overcoming the chaos of the war, a five-year hiatus from research, and the difficult environment in Japan, Yuasa made the decision to return to her laboratory in Paris.

Initially, she traveled to France as part of a “temporary assignment” from Ochanomizu University. There, she resumed cutting-edge research on nuclear beta decay and gradually achieved notable results. In the postwar international scientific community, quantum mechanics and nuclear physics once again drew attention, and Yuasa grew into a figure who was regularly invited to speak at international conferences.


Choosing to Stay in Paris — Her Challenge as a CNRS Researcher

In 1952, her official assignment period ended, but Yuasa remained in Paris under a “leave of absence” from the university. By 1955, that leave also expired, and she was forced to make a critical decision — should she return to Japan and resume her university post, or resign and continue her research career in France? Although many urged her to come home, Yuasa prioritized her scientific continuity and chose to stay.

In October that year, she officially became a CNRS researcher. By 1957, she was promoted to senior researcher, and her research structure became more established. Even then, CNRS was already a central institution in the French scientific community and remains one of Europe’s leading public research organizations today.

During this period, Yuasa also experienced deep personal loss. In 1956, Irène Joliot-Curie passed away, followed by Frédéric Joliot-Curie in 1958. Yuasa was deeply saddened, but their teachings and spirit remained strong within her.


Later Years at the Orsay Nuclear Research Center and Reconnecting with Japan

In 1959, Yuasa’s base of operations moved to the newly established Institut de Physique Nucléaire d’Orsay. This center, jointly operated by CNRS and Paris-Sud University, became a major hub of nuclear physics in France and remains a key collaborator with CERN today.

Her days at Orsay were filled not only with research but also mentoring young Japanese researchers and students, attending international conferences, and a busy international schedule. In 1967, she returned to Japan for the first time in 18 years to attend an international conference on nuclear physics in Tokyo. This visit helped deepen collaboration between CNRS and Japanese universities and research institutes. Yuasa herself began receiving frequent requests for essays and contributions from Japanese scientific journals.

However, from around 1970, her health began to decline. In 1973, she underwent major surgery to remove her stomach and gallbladder after a thorough hospital examination. Even so, Yuasa continued to prioritize work over her body. Her unwavering dedication reflects her persistence and sincerity as a scientist.


Toshiko Yuasa’s Final Years — Her Challenge as an Honorary Researcher and Her Last Moments

In 1974, Toshiko Yuasa reached the CNRS retirement age of 65. Yet, recognizing her achievements, the organization made an exception and appointed her as an honorary researcher, allowing her to continue her work. Despite struggling with illness, she devoted herself to Franco-Japanese collaborative research and remained passionate about science until the very end. Her life continues to embody the true spirit of a scientist.


Retirement and a New Beginning as Honorary Researcher

Upon turning 65 in 1974, Yuasa retired under CNRS regulations. Normally, those in the role of “research director” could continue until age 70, but due to CNRS staff reduction policies, Yuasa was not promoted to that role.

Nevertheless, her contributions and scientific achievements were highly respected, and CNRS granted her the rare title of “Directrice de recherche honoraire” (Honorary Research Director). Though this position did not provide salary or formal duties, it allowed access to research facilities and participation in projects. This unusual measure reflected the deep respect Yuasa commanded in French science.


Awarded the Medal with Purple Ribbon and Final Return to Japan

In 1976, Yuasa was awarded the Medal with Purple Ribbon by the Japanese government. This honor, bestowed upon those with notable achievements in academic, artistic, or technical fields, recognized her lifelong research career in France and significant contributions to Franco-Japanese cultural exchange.

In 1977, she returned briefly to Japan for the International Conference on Nuclear Structure — her first visit in a decade. Having undergone surgery, her physical strength had waned, and she could hardly eat. Those who saw her were pained by her frail appearance.

Still, she gave lectures around the country and rekindled friendships, spending her days filled with intellectual energy. Even while ill, she carried a strong scientific message she wished to convey.


Pursuing Science to the End

After returning to France, Yuasa continued her experiments and worked on launching joint Franco-Japanese research in nuclear physics. Professor Takuji Yanabu of the University of Tokyo’s Nuclear Physics Institute served as Japan’s liaison, and the two corresponded frequently.

However, around 1979, Yuasa’s health worsened further. Though her doctors recommended hospitalization, she stubbornly refused, saying she could not bear interrupting her research. Instead, she tried dietary and home-based treatments.

On January 30, 1980, at last persuaded by those around her, she entered the prestigious Antoine Béclère Hospital, named after physicist Henri Becquerel. It is said that even in the ambulance, she resisted, demanding to be let out and refusing to go.

On February 1, she fell into critical condition. The day before, the French government had officially approved the Franco-Japanese collaborative research project she had long worked toward. Professor Mitsuo Sakai of the University of Tokyo brought the news to her hospital room. Though seemingly unconscious, Yuasa slowly opened her eyes, nodded, and appeared to mouth a few words.

Just hours later, at 4:25 p.m. on February 1, 1980, Toshiko Yuasa passed away at the age of 70. Her life, marked by a determination to remain “with science until the end,” continues to embody the soul of a true researcher.

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ニコライ・N・ボゴリューボフ
【固有値を使い定常状態を表現したロシア人】‐3/13改訂

こんにちはコウジです。
半年ごとの既存記事見直しの作業です。
今回は近世20世紀に概念・手法を確立していった偉人を紹介します。
では、ご覧ください。内容を整理し、リンクを見直しました。
現時点での英訳も考えています。
(以下原稿です)

カピッツァの手紙
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【1909年8月21日 ~ 1992年2月13日】


【写真出典:Nikolay Bogoliubov Wikimedia Commons】

ロシアの物理学者

名前から分かるかとおもいますが、

ボゴリューボフはロシアの物理学者です。

本稿を記載するにあたり改めて
ボゴリューボフ
の「人となり」
を調べてみましたが
伝わっていません。
ボゴリューコフの名で検索をかけると
私のブログが上位に出てきてしまう有様です。

ボゴリューコフは20世紀初頭の生まれなので
革命前後のソビエト連邦で青年期を迎え政治的制約は存在しましたが、
理論物理学の分野では極めて高い水準が維持され、
独自の学派が形成されていました。

因みに、プランクメダルを受けていますので
ドイツ関係の画像を使っています。

◆ ソ連理論物理学の中心人物

ボゴリューボフは単なる理論家ではなく、ソビエト連邦
における理論物理学の制度的形成に大きく貢献した人物でした。

革命後のソ連では、西側との学術交流が制限される時期もありましたが、
それでも独自に高度な理論物理学の伝統が築かれます。

その中心にいたのが

レフ・ランダウ

ニコライ・ボゴリューボフ

でした。

ランダウが物理的直観と大胆な理論構築を得意としたのに対し、
ボゴリューボフはより数学的厳密性を重視したといわれます。

この二つの流れが交差することでソ連理論物理は
「物理的洞察」と「数学的構造」の
両輪を持つ学派
へと発展しました。


◆ ボゴリューボフ変換の本質

いわゆる「ボゴリューボフ変換」は、生成消滅演算子を
線形変換することでハミルトニアンを対角化する手法です。

これは単なる計算テクニックではなく、

「どの状態が物理的に安定なのか」を定義し直す操作

とも言えます。

超流動ヘリウムでは励起スペクトルを導き、
BCS理論ではクーパー対の準粒子記述を与えます。

つまりボゴリューボフ変換は、

ボース系(超流動)

フェルミ系(超伝導)

の両方に適用できる「普遍的道具」なのです。

この普遍性こそが、彼の理論的影響力の大きさを示しています。

ボゴリューボフの業績

先の程「人となり」が伝わらないと記載しましたが、
実際には有益な活動をしていたようです。
ネット上で「超伝導の微視的理論の構築に重要な貢献」を
ボゴリューボフがしているという指摘を見つけました、
また、「コペンハーゲン学派、Bogoliubov学派、ランダウ学派」
としてロシア人が評価する文章を見つけました。
“Influence of N. N. Bogoliubov on the Development of Theoretical Physics in the Soviet Union”
(ランダウの孫弟子、Bogoliubovの弟子である V. G. Solovievの記載)

 

何よりも、数学的にボゴリューボフ変換と呼ばれる
考えを打ち出し
行列形式で表される
状態遷移を角化する事で表現していると言えるでしょう。

ボゴリューボフは再正規化群散乱行列の公理化・量子場理論の厳密化にも貢献しています。
特に再正規化群の発展は、後の高エネルギー物理・臨界現象理論に大きな影響を与えました。

ボゴリューボフは観測にかかる定常状態を数学手法を使って作りだしています。つまり、数学的にいう固有値問題に帰着させて定常的な状態を表現しているのです。数学的な作業をしてみた結果がどういった現象に対応しているか物理的に説明する事が出来るのです。 

この定常状態を使い、ボゴリューボフは現実にヘリウムの超流動状態を表しました。ボーズ粒子の超流動をボゴリューボフ変換で示しフェルミ粒子の超電導をボゴリューボフ変換で示す訳です。役にたちますね。


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2020/10/08_初稿投稿
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Russian physicist

As you can see from the name, Bogoliubov is a Russian physicist. In writing this article, I re-examined Bogoliubov’s “becoming a person”, but it has not been conveyed. If you search by that name, my blog will appear at the top.

Since Bogoryukov was born in the early 20th century, it should be considered that he was adolescent in the Soviet Union before and after the revolution and was conducting his research in a closed academic environment. By the way, he has received a Planck medal, so he uses images related to Germany.

Bogoliubov achievements

Above all, it can be said that he mathematically expresses the idea called Bogoliubov transformation by diagonalizing the state transitions expressed in the form of a matrix.

In other words, the steady state of observation
It is created using mathematical methods.
In other words, reduce it to the mathematical eigenvalue problem.
It represents a steady state.

The result of doing mathematical work
What kind of phenomenon is supported
It can be explained physically. Twice

Using this steady state, Bogoliubov
He actually represented the superfluid state of helium.
Bogoliubov transformation shows the superfluidity of boson particles
Superconductivity of fermions by Bogoliubov transformation
It is a translation to show. It will be useful.

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ネイサン・ローゼン
【ワームホールを考案|EPRパラドックスで相関を追及】-3/1改訂

こんにちはコウジです。
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【Nathan Rosen, 1909年3月22日 – 1995年12月18日】

パラドックス大図鑑
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【1909年3月22日 – 1995年12月18日】

【Photo:Nathan Rosen Wikimedia Commons】

ユダヤ人物理学者ローゼン

その名前は Nathan Rosen。
ローゼンはイスラエル建国後はイスラエルでも活動しました。
ニューヨーク出身のユダヤ人物理学者。MITで学んでいます。

ローゼンはいわゆるワーム・ホールの発案者でもあり、
EPRパラドックスを考えた三人のひとりです。それは
EPRとは Einstein–Podolsky–Rosen の頭文字から名付けられています。

量子的ふるまいの局所性を相対論的に完全に
説明できない(矛盾するだろう)という指摘であって、
量子力学の記述だけでは物理的実在を完全には記述できて
いないのではないか、
という問題提起でした。

簡単に言えば「もつれた状態」で空間的
距離を置いたスピン(別の議論では光子)
妙なふるまいを示すのです。

量子的なもつれ(エンタングルメント)の
記載に修正の必要があるのか、
相対論での記述に修正が出来るのか、
突き詰めていく手掛かりになります。

EPRパラドックスにおいてはもつれ
(エンタングルメント)
の状態が議論され、

「EPRの 前提の下では量子力学の確率的手法を
再現で きない場合がある」と考えると良いです。

または
「統計的な条件設定をしなければいけない」
特殊な場合があって、量子もつれが背景にあり
「理解しにくい現象もあるんだなぁ。」
という前提から話始めた方が良い、
と考えた方が良いです。

◆ アインシュタインとの共同研究

ネイサン・ローゼンの名が物理史に残る最大の理由は、
アルベルト・アインシュタインとの共同研究にあります。

1935年、アインシュタインとローゼンは一般相対性理論の方程式を
解析する中で、空間の異なる領域を数学的に接続する解を発見しました。

これが後に「アインシュタイン=ローゼン橋」と呼ばれ、
現在ではワームホールの原型として知られています。

当時の目的はSF的な空間移動ではなく、ブラックホール特異点を
物理的に理解できる形に書き直す
ことでした。しかしこの研究は、
後に宇宙論・量子重力理論・情報理論へと広がる重要な出発点となります。


◆ EPR論文の目的

同じ1935年、アインシュタイン、ボリス・ポドルスキー
ローゼンの三人は有名なEPR論文を発表しました。

この論文の目的は、量子もつれを肯定することではなく、

「量子力学は未完成ではないか?」

と問いかけることでした。

アインシュタインは量子力学の確率的解釈に強い違和感を持ち、
遠く離れた粒子が瞬時に関連する情報が光速制限を超えるように
見える
という点を問題視しました。

この議論は後に量子情報科学の基礎問題へと発展していきます。


◆ 現代物理への影響

EPRパラドックスは長い間「哲学的議論」と見なされていました。しかし
1960年代に ジョン・ベル がベルの不等式を導入したことで状況は一変します。
実験によって、局所的実在論・量子力学
のどちらかを放棄せざるを得ないことが示されました。

現在では量子もつれは、
量子暗号・量子コンピュータ・量子テレポーテーション
の基礎原理として利用されています。つまりローゼンの問題提起は、

「量子論の欠陥指摘」から
「未来技術の基盤」へ

と意味を変えていったのです。

新しい理解生成

ベルの不等式が成り立ち、
量子テレポーテーションが議論される昨今、
基礎理論の解釈は完全になされているか
色々な側面で説明がなされています。

量子論も相対論も其々で様々な説明(効果)を
可能にしているのですが、完全に全てを
記述できると言えないのでしょうか。
この記載をするとどうしても
歯切れの悪い文章になってしまいます。
「局所的実在論」という言葉がありますが、
物理量の把握には究極の難しさがあります。

私もこの場でうまく説明が出来ているとは思えません。
ただ、物理の記載であることは確かで、
発展していく可能性を含めた議論ではあります。



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2022/01/04_初稿投稿
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電磁気関係
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(2022年1月時点での対応英訳)

Jewish physicist Rosen

Its name is Nathan Rosen.
Rosen was also active in Israel after the founding of Israel.
He is a Jewish physicist from New York. He had studyied at MIT.

Rosen was also the inventor of the so-called wormhole,
He is one of the three in the EPR paradox.
Relativistically complete locality of quantum behavior
It was pointed out that it could not be explained (it would be inconsistent),
The description in the quantum mechanical model and the relativistic model
It cannot be described at the same time.
Quantum entanglement
Is it necessary to correct the description?
Is it possible to correct the description in relativity?
It will be a clue to the end.

Various explanations (effects) for both quantum theory and relativity
It’s possible, but it’s completely everything
Can’t you say that you can describe it?
If you make this description,
The text will be crisp.
There is a word “local realism”,
Understanding the physical quantity is the ultimate difficulty.
However, it is certain that it is a description of physics,
It is a discussion that includes the possibility of development.

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エドワード・テラー
【ハイゼンベルグに学ぶ|原爆開発推進・水爆の父】-3/8改訂

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オッペンハイマーとテラー
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【1908年1月15日生まれ ~ 2003年9月9日没】


【Wikimedia Commons「Edward Teller」】

水爆の父・テラー

エドワード・テラーは水爆の父と呼ばれ、

晩年のオッペンハイマーと何かにつけて対立します。

実際、水素爆弾の実際の設計は、後に
「テラー=ウラム方式」と呼ばれる構成によって実現しました。

エドワード・テラーはハンガリーのブタペストで弁護士の父と
4か国語を使う母から
生まれました。

ユダヤ系であったエドワード・テラーの父は職を追われ、
ハンガリー・ドイツ・
アメリカと移住を重ねました

ただ、学問の世界では良い出会いに恵まれています。
ハイゼンベルクの下で
博士論文を書き、
ボーアの居たコペンハーゲンで有益な
時間を過ごします。

有益な時代に原子核物理学分子物物理で多くの業績を残しました。
ヤーン・テラー効果やBETの吸着等温式
その時代のエドワード・テラーの業績です。

◆ テラーと「冷戦科学」という時代

エドワード・テラーの研究人生を理解するためには、
第二次世界大戦後に始まった「冷戦」という時代背景を避けて通ることはできません。

戦後、アメリカとソ連は核兵器を中心とした軍事的緊張関係に入り、
科学者は純粋研究者であると同時に国家安全保障の担い手となりました。

エドワード・テラーにとって核兵器開発は、単なる軍事研究ではなく
「独裁国家への抑止力」という意味を持っていました。

ナチズムから逃れ、さらにスターリン体制下の粛清を知った彼にとって、
全体主義は現実的な恐怖だったのです。

そのためテラーは、

  • 強力な兵器こそ戦争を防ぐ

  • 科学は国家防衛に奉仕すべき

という立場を生涯維持しました。

この思想は多くの物理学者と対立を生みますが、
同時に冷戦期アメリカの科学政策を大きく方向づけることにもなりました。


◆ ロスアラモス以後のテラー

水素爆弾開発後、テラーはカリフォルニアに設立された
ローレンス・リバモア国立研究所の創設に深く関わります。

ここは単なる研究所ではなく、

核抑止戦略を科学的に支える拠点

として設計されました。

テラーは理論家でありながら政策提言にも積極的で、
後年にはレーザー兵器や宇宙防衛構想(SDI)にも関与します。

科学者が国家戦略へ直接関わるという姿は、
20世紀後半の新しい研究者像を象徴していました。

マンハッタン計画とテラー

アインシュタインと共にエドワード・テラーは
原爆の研究をアメリカ政府に働きかけ、
実際に
その計画は進んでいきます。

政治的な思想ではドイツ時代に資本主義の崩壊を
目の当たり
にしたテラーは共産主義に対して
当初は関心を
抱いていたようです。

ところが、友人のランダウソ連政府に
逮捕された時期に反共思想
を強めます。

反共思想と新兵器の開発にかける
熱意
が結びついていくのです。
そしてまた、
核兵器に対して考えていきます。

テラーとオッペンハイマー

ランダウが逮捕された時期以降
エドワード・テラーと
オッペンハイマーとの確執の始まります。
J・ロバート・オッペンハイマーは原爆開発を主導した一方、
水爆開発には慎重な立場を取るようになり、
両者の対立は科学倫理をめぐる象徴的事件となった。

特に兵器としての水爆の利用に関しては
エドワード・テラーとオッペンハイマーは
対極の立場をとります。

エドワード・テラーは水爆開発の推進派で、
オッペンハイマーは開発否定派でした。

実際に、エドワード・テラーは原爆・水爆と兵器の
開発の中心に居ました。水爆を
「My・Baby」
と呼んでいた
と言われています。

その立場は変わらず、
生涯その事を悔いることはなかったと言われています。
エドワード・テラーはそんな研究人生を歩みました。

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以上、間違い・ご意見は
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時間がかかるかもしれませんが
必ず返信・改定をします。

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2020/09/22_初稿投稿
2026/03/08_改定投稿

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(2021年10月時点での対応英訳)

Teller, the father of the hydrogen bomb

This main person,Edward Teller, called the father of the hydrogen bomb, confronts Oppenheimer in his later years. Edward Teller was born in Budapest, Hungary, to a lawyer’s father and a four-language mother. Edward Teller’s father, who was of Jewish descent, was forced out of work and emigrated to Hungary, Germany, and the United States. However, I am blessed with good encounters in the academic world. He writes his dissertation under Heisenberg and spends a useful time in Copenhagen, where Bohr was. Under such circumstances, he made many achievements in nuclear physics and molecular physics. The Jahn-Teller effect and the adsorption isotherm of BET are the achievements of Edward Teller.

Manhattan Project and Teller

So,Edward Teller, along with Einstein, urged the US government to study the atomic bomb, and the plan actually goes on. In political terms, Teller, who witnessed the collapse of capitalism during the German era, seemed initially interested in communism. However, when his friend Landau was arrested by the Soviet government, he intensified his anti-communism. His anti-communist ideas and enthusiasm for the development of new weapons are linked. and again,

Teller and Oppenheimer

After that time, the feud between Edward Teller and Oppenheimer began. Edward Teller and Oppenheimer are at the other end of the spectrum, especially when it comes to the use of the atomic bomb as a weapon. Edward Teller was a proponent of atomic bomb development, and Oppenheimer was a denial.

In fact, Edward Teller was at the center of the development of atomic and hydrogen bombs and weapons. He is said to have called the hydrogen bomb “My Baby”. His position has not changed and it is said that he never regretted it throughout his life. Edward Teller went through such a research life.

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湯川秀樹
【電子の数百倍の質量を持つ中間子の仮説を提唱しノーベル賞を受賞】-3/7改訂

こんにちはコウジです。
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【1907年1月23日生まれ ~ 1981年9月8日没】


【Photo: Wikimedia Commons / Public Domain】

湯川秀樹の生きた時代

旅人
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湯川秀樹の書いた本「旅人」は湯川秀樹の

自伝です。その湯川秀樹は朝永振一郎と同じ時代

を生きています。

互いに刺激しあう関係を築き、共に

時代のテーマに取り組んでいます。

伝記を読んでいくと湯川秀樹が情熱を持って

物理学に取り組んでいた様子が分かります。

色々な所で引用されているのですが

「アイデアの秘訣は、執念である。」

と湯川秀樹は明言しています。一見不可解な
現象を紐解き、単純明快な原理を抽出

する仕事をしてきたのです。

 

湯川秀樹の興味

そもそも、湯川秀樹の関心は物質の相互作用であって、
その世界は全く目に見えません。

湯川秀樹は情熱で綿密に話を組み立てます。
重力・電磁力以外の微細粒子間の相互作用を
引き起こす「強い力」
に着目して議論を進めました。

湯川秀樹の時代には場の考えが発展していく過程で
原子の中での相互作用を湯川秀樹は中間子という概念で
相互作用を紐解いたのです。
湯川秀樹のアイディアは
「場を担う粒子」
という考え方です。

そもそも、重力(万有引力)を考えると二つの質点が
存在した時に
その質点同士が互いを引き合い
現象が説明
されます。この明快なモデルに反して、

「電子の数百倍の質量をもつ中間子の仮定」

は当時の観測とは別に設定されていて、
ボーアハイゼンベルクは内容の吟味を求めていたと言われます。

最終的には1947年の英国物理学者セシル・パウエルによる
「中間子観測」が契機となり、湯川秀樹はノーベル賞を受けます。
「物理での概念確立の危うさ」を感じてしまう歴史です。

理論的な要請と言えなくはないですが、
辻褄合わせの為の概念は色々な角度から
真剣に議論されなければいけません。

別の言い方をすれば、その概念を磨き上げて
納得のいく説明をすることが出来た時に
「大きな仕事をした」と言えるのではないでしょうか。

中間子という概念は、後の素粒子標準模型へとつながる
「力を粒子が媒介する」という
現代物理の基本思想の出発点となりました。

湯川秀樹はボゾンの一つとして中間子を
「仮定」して強い力を説明してみせたのです。
この仮定での中間子が物理的にどういった意義を持つか
一般の人々にも分かりづらいと思えます。

◆ 湯川秀樹と「日本発の理論物理」という転換点

湯川秀樹の受賞は、日本人初のノーベル賞であり、日本の基礎科学研究が
世界的水準に到達した象徴的出来事でもありました。

湯川秀樹の業績が持つ本当の意味は、単なるノーベル賞受賞にとどまりません。
それは「日本から世界標準の理論物理が生まれた」という歴史的転換点でした。

20世紀前半まで、物理学の中心はヨーロッパにありました。
理論はドイツ、実験は英国という構図の中で、日本の研究者は
主に「学ぶ側」に位置していたのです。

しかし、湯川秀樹の中間子理論は違いました。

それは既存理論の改良ではなく、

  • 未観測の粒子を理論から予言し

  • 自然界の力の構造を説明し

  • 後に実験が理論を追認する

という、アインシュタイン以来の理論物理の王道的成功でした。

この出来事によって、日本の物理学は「輸入学問」から「創造する学問」へと変わります。

そして同時代には、朝永振一郎が量子電磁気学を完成へ導き、
日本の理論物理は世界の中心的存在へと押し上げられていきました。

つまり二人は、

日本物理学の“創世記”を完成させた存在

だったと言えるでしょう。

湯川秀樹こぼれ話 

湯川秀樹の業績は京都大学の原子力研究を初めとして
日本の物理学者たちに引き継がれています。

個人的なご縁としては私が幼少時代を過ごした東京板橋にあった
理化学研究所の分室でも研究をしていたようです。

少し時代がずれますが、私の故郷で彼が活動していたと思うと
不思議な気持ちです。ノーベル賞受賞者の朝永振一郎もそこに居ました。

一昔前は、理化学研究所は本駒込にも拠点があり、
今でもホンダ朝霞の近くに拠点があります。

何故か、と調べを続けていったら埼玉県にある平林寺に
創始者の一人である大河内氏の墓所があります。

そんな歴史的背景を知ると、理化学研究所が
単なる研究機関ではなく、日本の科学史の
連続性を象徴する場所であるようにも感じられました。

また、湯川秀樹は
ラッセル=アインシュタイン宣言にも参加しています。
この宣言は後のパグウォッシュ会議へと発展し、
科学者による核軍縮運動の原点となった。


以前のブログでもこの関連の話は盛り込んでいますが
私は研究者が異議を唱えても社会が破滅的な兵器を作る現実を
大変、問題だと思っています。政治家の暴走をとめないと。

アインシュタインであれ湯川秀樹であれアシモフであれ
社会が叡智を集結して対応することを私は夢見ています。

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2020/09/07_初稿投稿
2026/03/07_改定投稿

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(2021年10月時点での対応英訳)

The time when Hideki Yukawa lived

The book “Traveler” introduced at the beginning is an autobiography of Hideki Yukawa. Hideki Yukawa lives in the same era as Shinichiro Tomonaga. We build relationships that inspire each other and work together on the themes of the times. As you read the biography, you can see that Hideki Yukawa was passionate about physics.

Although quoted in various places, Hideki Yukawa clearly states, “The secret of the idea is obsession.” At first glance, he has worked to unravel mysterious phenomena and extract simple and clear principles.

Hideki Yukawa’s interest

In the first place, Hideki Yukawa’s interest is in the interaction of matter, and the world is completely invisible. He assembles the story with passion.

He focused on the “strong force” that causes the interaction between fine particles other than gravitational and electromagnetic forces. In the days of Hideki Yukawa, Hideki Yukawa unraveled the interaction in atoms with the concept of mesons in the process of developing the idea of ​​the field.

Hideki Yukawa’s idea is the idea of ​​”particles that carry the field.” In the first place, considering gravity (universal gravitational force), when two mass points exist, the mass points attract each other and the phenomenon is explained.

Contrary to this clear model, the “assuming of a meson with a mass several hundred times that of an electron” was set separately from the observations at that time, and it is said that Bohr and Heisenberg sought scrutiny of the content.

Eventually, Hideki Yukawa received the Nobel Prize, triggered by “Meson Observation” by British physicist C. Powell in 1947. It is a history that makes us feel “the danger of establishing a concept in physics”.

It can be said that it is a theoretical request, but the concept for Tsuji matching must be seriously discussed from various angles. In other words, when you can refine the concept and give a convincing explanation, you can say that you have done a big job.

Hideki Yukawa explained the strong force by assuming a meson as one of the bosons.

Hideki Yukawa Spill Story

Hideki Yukawa’s achievements have been handed down to Japanese physicists, including nuclear research at Kyoto University.
As a personal connection, it seems that I was doing research in a branch office of RIKEN in Itabashi, Tokyo, where I spent my childhood. It’s a little out of date, but it’s strange to think he was active in my hometown.

Nobel laureate Shinichiro Tomonaga was also there. Until recently, RIKEN also had a base in Hon-Komagome, and it still has a base near Honda Asaka. If you continue to investigate why, there is a graveyard of Mr. Okochi, one of the founders, at Heirinji Temple in Saitama Prefecture. Knowing such a spiritual aspect of RIKEN, I somehow convinced myself.

Hideki Yukawa also participates in the Russell-Einstein Declaration. I’ve included this related story in my previous blog, but I think the reality of society making catastrophic weapons is a big problem, even if researchers disagree. Whether it’s Einstein, Hideki Yukawa or Asimov, I dream of society gathering wisdom and responding.