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マリ・キュリー
【ウラン含有量に注目|特定原子の遷移を示し物理学に殉じたフランスの偉人】-7/26改訂

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。
では、ご覧ください。内容を整理し、
主にリンクを見直しました。
現時点での英訳も考えています。
(以下原稿です)

キューリ夫人伝
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【1867年11月7日生れ ~ 1934年7月4日没】


マリー・キュリー(1867–1934)
出典:Wikimedia Commons(Public Domain)

マリア・スクウォドフスカ=キュリー

:Maria Salomea Skłodowska-Curieですが

フランス語でマリ・キューリと呼ばれる事が多いです。

彼女は物理学と化学で2度ノーベル賞を受けています。マリ・キューリの父は研究者
でしたが貴族階級の出身だった為に、帝政ロシアの支配下の元で教壇に立つこと
を禁じられていました。マリ・キューリは10歳をなる前に大変苦労します。父の
非合法の講義が発覚して職・住を失い、母の結核による他界があり、更には
投機での失敗もあり、
マリーは親戚等の世話になります。

 

そんな苦しい時期にマリ・キューリにも

恋をした時間がありました。

当時、マリ・キューリは家庭教師を生業としていましたが、カジュミェシュ・ゾラフスキ
という青年と恋仲に落ちます。
共に避暑旅行に出かけたりして幸せな時間を過ごしますが、
最終的には破局を迎えました。この事がマリ・キューリのパリ行きに繋がった様です。

パリでもマリ・キューリは苦労します

屋根裏部屋に住んで、寒い時には持っている全ての服を着ながら勉学に励みます。
パトロンが居たという話も聞きません。地方から出てきた若いマリはただ勉強を続け、
自分の知見の方向性を模索します。人生をかけて取り組む分野を切り開いていくのです。
そんなパリ生活は大学の学部を卒業する迄、続きました。

 

そんなマリ・キューリに

光明がさします。知り合いを通じて

ピエール・キューリと出会ったのです。

 

そのピエール・キューリは国外で評価を受けていて1893年には英国の
ケルヴィン卿が訪ねてくる程でした。
ところが、ピエール・キューリは
勲章を辞退してしまうような性格でひたすら研究に励んでいました。

そんな二人が惹かれ合い、認め合い、マリの帰国後もピエールは
恋文を
贈り続け、遂にはマリの心が動き、2人は簡素な結婚式をあげます。

幸せな結婚だったと思います。

祝いの宴もなく、結婚指輪も無い、

つつましい形式でしたが

祝い金で買った自転車に乗り、

フランスの片田舎へと新婚旅行に旅立ちます。

ピエールが自転車をこぎ、

その後ろにマリが乗り、長閑な道を

語りながら進んでいった事でしょう。

料理・洗濯などの家事で頑張り、長女に恵まれながら学問を続け、ベクレルの見出した放射線に対して二人は研究していきました。そこで。光や温度といったパラメターではなくウラン含有量の「量」が放射現象には本質的であるとの結論を得ます。
その後、マリとピエールの夫妻は元素の精製に心血を注ぎます。純度をあげる事で同位体の存在に近づいていったのです。関心のある精製にキューリー夫妻は全てを注ぎ込みます。結果として、夫ピエールは度重なる発作に苦しみ、妻マリは神経衰弱から睡眠時遊行症に陥ります。
そんな中で第2子を流産してしましました。そうした犠牲を払い、夫婦は物理学で大きな成果をあげます。

放射能とは何か

放射能とは、不安定な原子核がより安定した状態へ移り変わる際に、
自発的に放射線を放出する性質のことです。現在では原子核物理学の
基本概念として知られていますが、19世紀末までは原子は変化しない
存在であると考えられていました。その常識を覆すきっかけとなったのが、
アンリ・ベクレルによる天然ウランの放射線の発見と、それを受けて
マリ・キュリーが「放射能(Radioactivité)」という概念を提唱し、
体系化した研究でした。マリ・キュリーは、放射線の強さが光や温度ではなく、
物質そのものに由来することを実験によって示し、放射能が原子固有の性質で
あることを明らかにしました。

放射線にはアルファ線、ベータ線、ガンマ線など複数の種類があります。
アルファ線はヘリウム原子核、ベータ線は電子や陽電子、
ガンマ線は非常に高いエネルギーを持つ電磁波です。
これらは原子核が崩壊する過程で放出され、後にラザフォードらによって
詳しい性質が解明されました。こうした研究は原子核物理学の誕生につながり、
現代の量子物理学や素粒子物理学へと発展していきます。

現在では放射能は医療・工業・科学研究など幅広い分野で利用されています。
例えば、がん治療で用いられる放射線治療、PET検査などの核医学、
年代測定、材料検査などは放射性元素の性質を利用した技術です。
一方で、放射線は過度に被ばくすると人体へ悪影響を及ぼすことも
分かっており、
厳格な安全管理のもとで利用されています。
マリ・キュリー夫妻が命がけで切り開いた放射能研究は、
現代医学や原子核科学の礎となり、21世紀の科学技術にも受け継がれているのです。

 

新しい概念の提唱に至ります

マリ・キューリ最大の功績は、
単にラジウムやポロニウムを発見したことではありません。

「放射能(Radioactivity)」という現象そのものを体系化し、
それが原子そのものの性質であることを実験で示したことです。

それまで原子は変化しない存在と考えられていました。
しかしマリ・キューリの研究は、原子が自らエネルギーを
放出し、
別の元素へ変化する可能性を示しました。

この発見は20世紀物理学の出発点となり、後の
ラザフォードによる原子核研究、
ボーアの原子模型、
さらには量子力学へとつながっていきます。

―この事実は、原子を不変と考えていた当時の物理学に対する根本的な挑戦でしたー

放射線の放出は一見するとエネルギー保存則に反するかのように見えましたが、
後にラザフォードらによって原子核内部の構造と崩壊過程が研究され、問題は
より深い階層のエネルギー変換として理解されていきます。当時はまだ手探りの
段階でしたが、原子が変化し得る存在であるという認識そのものが、
物理学の地平を大きく押し広げたのです。

そして、その過程で放射線を放出して一見、エネルギー保存の法則に
相反する変化を起こしますが、それを追ってラザフォードらが
研究成果を次々と発表します。原子核の崩壊過程では素粒子の結合に関わる
様々なエネルギーが関与します。現在では簡素にダイヤグラムで理解する手法が
確立されていますが、当時は手探りの状況理解でした。
そして夫ピエールが放射線に医学的効果を期待出来ると発見をしていくのです。ラジウムの効果でした。微量のラジウムならば古くから「ラジウム温泉」の効果は広く知られていました(ただし、明確に「ラジウム」という言葉は使われていませんでした)。

また、現在では分かっているのですが過度のラジウムは身体に悪影響を与えます。放射線の影響を直接・装置で患者に対して考慮し始めたのです。ピエールの発見は大きな人類の知見へと繋がっていきます。

当初は、妻マリーの博士学位習得が放射線研究の目的であったのですが最終的にはマリー・ピエール・ベクレルの3人に対してノーベル賞が贈られます。苦労してきた二人にとって、まさに栄誉の極みでした。

所が、その後突然の不幸が訪れました。夫ピエールが46歳の若さにして交通事故で命を落とすのです。妻マリーは悲痛にくれます。当然でした。その後、傷が癒えるまでに多くの言葉と時間が必要でしたが、最終的に妻マリーは夫ピエールの大学での職位と実験室の後任を引き継ぎます。研究者として活動を始めたのです。

ケルビン卿との議論

マリー・キューリ―はケルヴィン卿と対峙します。夫を認めてくれていた恩人でもあるのですがケルビン卿はラジウムを元素ではなく化合物であると考えていたのです。マリーは実験事実で論破してケルビン卿の誤りを正しました。そしてカメリーオネスと低温状態のラジウム放射線を研究していこうと話を進めます。

また第一回ソルベー会議で論文を発表していた若き日のアインシュタインを評価して、チューリッヒ大学教職への推薦状を書いています。そうした当時の綺羅星の物理学者が彼女と交流を持ちました。反面、ゴシップ騒動に追われていた部分も有、マリーはマスコミを嫌います。二度目のノーベル賞を受ける際にはスウェーデン側からも授与を見合せる打診がありましたがマリーは毅然と対応して、ゴシップネタとされた関係を「成果をあげた関係」であると語りました。
旦那様の教え子、ランジュバンとの成果でした。

そして、、、語らなければなりません。何より悲しかったのは放射線のもたらした弊害です。研究の過程で放射線被曝が重なりマリーは頭痛・耳鳴り・怪我がなかなか治らないといった障害に悩まされ続けます。そして終には死に至りますが、当時はまだその関連性が明確ではなかったようです。

波乱に満ちたマリー・キューリの人生は幕を閉じましたがその後人々は彼女の残した物を高く評価しています。1995年、夫妻の墓はパリのパンテオンに移されました。フランス史の偉人の一人として今でも祭られています。そして、物理の世界の偉人として世界中で語り継がれています。


関連する物理学者

この分野の物理学者(放射能・原子物理学)

ピエール・キュリー

アンリ・ベクレル

J・J・トムソン

長岡半太郎

アーネスト・ラザフォード

ニールス・ボーア

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(2021年9月時点での対応英訳)

Maria Salomea Skłodowska-Curie
She is often called Mari Curie in French.

She has received two Nobel Prizes in physics and chemistry. Mari Curie’s father was a researcher, but because he was from the aristocratic class, he was forbidden to teach under the rule of imperial Russia. Mari Curie has a hard time before she turns 10. Marie takes care of her relatives and others as her father’s illegal lectures are discovered and she loses her job and residence, her mother died of tuberculosis, and her speculative failure. Become.

I had a time when I fell in love with Mari Curie during such a difficult time. At the time, Mari Curie was a tutor, but she fell in love with a young man named Kajumjesh Zorafski. She spends a happy time together on a summer trip, but in the end it was catastrophic. This seems to have led to Mari Curie going to Paris.

Mari Curie has a hard time even in Paris. She lives in the attic and works hard at her studies while wearing all her clothes she has when it’s cold. Her life in Paris continued until she graduated from college.

Her light shines on such Mari . She had met Pierre Curie through her acquaintance. The Pierre Curie was well received abroad, and in 1893, Sir Kelvin of England visited him. However, Pierre Curie was devoted to his research with a personality that would decline his medal.

The two were attracted to each other and acknowledged each other, and even after her return to Paris, Pierre continued to give her a love story, and finally Mali’s heart moved, and the two had a simple wedding ceremony. I think it was a happy marriage. There was no celebration party, no wedding ring, and although it was a humble format, I rode a bicycle I bought for the celebration and set out on my honeymoon to a remote country in France. Pierre would ride a bicycle, and Mali would ride behind him, talking about a quiet road. They worked hard on cooking, continued their studies while being blessed with her eldest daughter, and studied the radiation found by Becquerel.

Therefore. We conclude that the “amount” of uranium content, rather than parameters such as light and temperature, is essential for radiation phenomena. After that, Mari and Pierre devoted themselves to the purification of the elements. By increasing the purity, we approached the existence of isotopes.

Mr Curie and his wife put everything into the refinement of interest. As a result, her husband Pierre suffers from repeated seizures and his wife Mari suffers from sleepwalking due to memory weakness. Meanwhile, I had a miscarriage of my second child. At that cost, we come up with a new concept. That is, “a specific element changes to another element”
The fact is.

Then, in the process, it emits radiation and causes changes that seemingly contradict the law of conservation of energy, but Rutherford et al. Will announce their research results one after another. Various energies involved in the bonding of elementary particles are involved in the decay process of atomic nuclei. Nowadays, a simple method of understanding with a diagram has been established, but at that time it was a fumbling understanding of the situation.

And her husband Pierre discovers that radiation can be expected to have a medical effect. It was the effect of radium. The effect of “radium hot springs” has long been widely known for trace amounts of radium (although the word “radium” was not explicitly used). Also, as we now know, excessive radium has a negative effect on the body. We began to consider the effects of radiation on patients directly and with equipment. The discovery of Pierre will lead to great human knowledge.

Initially, the purpose of radiation research was to obtain a doctoral degree from his wife Marie, but in the end, the Nobel Prize will be given to three people, Marie Pierre Becquerel. It was a great honor for the two who had a hard time.

However, sudden misfortune came after that. Her husband, Pierre, died in a car accident at the young age of 46. Her wife Marie is in pain. It was natural. After that, it took a lot of words and time for her wounds to heal, but eventually her wife Marie took over her husband Pierre’s college position and laboratory successor. She started her career as a researcher.

Discussion with Sir Kelvin

Marie Curie confronts Sir Kelvin. Sir Kelvin, who was also her benefactor who acknowledged her husband, considered radium to be a compound rather than an element. Marie argued with her experimental facts and corrected Sir Kelvin’s mistakes. She then goes on to study Cameriones and cold radium radiation. She wrote a letter of recommendation for the University of Zurich teaching profession in recognition of her youthful Einstein, who had published her treatise at the first Solvay Conferences. The physicist of Kirasei at that time had an exchange with her.

On the other hand, Marie Curie has been chased by the gossip turmoil, and Marie hates the media. When sMari received her second Nobel Prize, the Swedish side also asked her to forgo her award, but Marie responded resolutely and described her relationship as her gossip story as “successful.” “It’s a relationship,” she said.
It was an achievement with her husband’s student, Langevin.

And … I have to talk. The most sad thing was the harmful effects of radiation. In the process of her research, radiation exposure overlaps and Marie continues to suffer from disabilities such as her headaches, tinnitus and injuries that are difficult to heal. She and she eventually died, but it seems that the relevance was not yet clear at the time.

Her turbulent life with Marie Curie ended, but people have since appreciated her leftovers. In 1995, the tombs of the couple were moved to the Pantheon in Paris. She is still celebrated as one of the great men of French history. And she has been handed down all over the world as she is a great man in the physical world.

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長岡半太郎‗【日本物理学の黎明期に、ボルツマンに学び原子構造の土星モデルを提唱】-7/25改訂

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。 では、ご覧ください。内容を整理し、 主にリンクを見直しました。 現時点での英訳も考えています。 (以下原稿です)

長岡半太郎(人間の記録) 【スポンサーリンク】

【1865年8月19日生まれ ~ 1950年12月11日没】

画像引用:長岡半太郎| 近代日本人の肖像 | 国立国会図書館

長岡半太郎の豊かな人脈

長岡半太郎は、日本で最初に世界水準の原子模型を提唱した 物理学者として知られています。1904年に発表した 「土星型原子模型」は、後のラザフォード模型や ボーア模型へと続く原子物理学の重要な一歩 となりました。その背景には、田中舘愛橘、ボルツマン、 本多光太郎らとの豊かな交流がありました。

この長岡半太郎は大村藩の流れに生まれます。 学生時代は東大で山川 健次郎田中舘愛橘に学び、 助教授としてドイツ留学していた時期に ボルツマンに学びます。それだから実証主義の 考え方も、留学以後は頭の片隅にあった筈です。

どう考えて、どこまで核心に迫っていったか

論じる際には当時の日本における量子論での

現象把握を考えると良いでしょう。そんな事を考えながら、

科学史の観点から論文を読んでみたくなりました。

別の面から調べてみたら話は進む時があると 思えるからです。そして長岡半太郎の子供時代は 学業成績は芳しくなかったようです。

この点は同時期の本多光太郎を思い出します。因みに、 二人に加わえて鈴木梅太郎の三人は 「理化学研究所の三太郎」 と呼ばれていたそうです。 携帯電話のコマーシャルで似たような人達居ましたね。

長岡半太郎の研究業績

土星型原子模型とは何か

土星型原子模型とは、1904年に長岡半太郎が提唱した原子構造のモデルです。 当時はJ・J・トムソンが提案した「ブドウパン模型」が有力視されており、 正電荷が広がった球の中に電子が埋め込まれていると考えられていました。 しかし長岡は、この考え方では原子の安定性や電子の運動を十分に説明できないと考え、 重い中心の周囲を軽い電子が高速で回転するという、新しい原子像を提案しました。 その姿が土星の周囲を取り巻く環に似ていたことから、 「土星型原子模型」と呼ばれるようになりました。

この模型では、原子の中心に大きな質量と正電荷が集中し、その周囲を電子が 公転するという考え方を採用しています。現在の知識から見ると、 中心に「原子核」という言葉はまだ存在していませんでしたが、 長岡は原子の質量が中心付近に集まっているという発想に到達していました。 これは後にラザフォードが金箔散乱実験によって原子核の存在を実証するよりも 数年前のことであり、その先見性は現在でも高く評価されています。

もっとも、この模型は古典力学に基づいていたため限界もありました。 電磁気学によれば、加速度運動をする電子は電磁波を放射して エネルギーを失い、やがて原子核へ落下してしまうはずです。 また、原子スペクトルの離散的な性質も説明できませんでした。 そのため土星型原子模型は最終的な理論にはなりませんでしたが、 「原子内部には中心構造が存在する」という大胆な着想は、 当時の物理学者に大きな刺激を与えました。

その後1911年にはラザフォードが原子核模型を提唱し、 1913年にはニールス・ボーアが電子軌道へ量子条件を導入して ボーア模型を完成させます。さらに20世紀後半には ハイゼンベルクの不確定性原理やシュレーディンガーの波動方程式によって、 電子は古典的な軌道を回る粒子ではなく、確率的に存在する波動関数として 理解されるようになりました。 このように長岡半太郎の土星型原子模型は、 今日の量子力学とは異なる古典的モデルではありますが、 原子構造を具体的な形で世界へ示した最初期の理論の一つであり、 日本から世界へ発信された画期的な原子模型として、 近代原子物理学の発展に大きな足跡を残したのです。

長岡半太郎は田中舘愛橘と地震の論文を纏めたり、

本多光太郎と磁気の論文を纏めたりしていますが、

長岡半太郎の研究業績として大きいのは、

なんと言っても原子モデルでしょうボルツマン仕込みで

ミクロへの探求を進めていたのです。トムソン

ブドウパンの中のブドウのような形で

中心からの距離や軌跡と無関係に

電子の存在を仮定していたのに対し、

長岡半太郎は原子の周りを電子が回転する

土星のようなモデルを提唱しました。

この話は、不確定性関係をふまえて論じてみたいと思います。後に確立された不確定性関係では対象粒子の位置と運動量の関係が論じられます。この二要素が関連して論じられる訳です。

長岡の土星型原子模型は1904年に提唱された古典的な原子像で、土星の環のように陽子(あるいは陽電荷)を中心に電子が回転するイメージを提示しました。しかしこのモデルは古典力学に基づくものです。 のちに確立される量子力学とは理論的枠組みが異なります。ハイゼンベルクの不確定性原理(1927年)は、位置と運動量を同時に厳密に決定できないという量子論固有の性質を示したものであり、「電子の軌道が古典的に確定できない」という点で古典的な軌道像の限界を指摘します。 したがって、長岡の模型は当時の原子イメージ構築に大きな貢献をした一方で、後の量子論が示す粒子の確率的・波動的性質とは根本的に扱い方が異なる、という位置づけで論じるのが適切です。

現代的に考えて、不確定性の考え方の枠組みでは運動量が確定している電子に対して位置は不確定であって当然です。具体的には個体原子の位置は止まっていると見なせそうですが、動き回る電子の位置の確定が難しいのです。「運動量」の観測精度を高めている電子に対して位置情報はどんどんぼやけてきてしまいます。

当時すでに原子という概念そのものは広く受け入れられていましたが、原子内部が どのような構造になっているかは、まだ誰にも分かっていませんでした。

長岡半太郎は、その未知の世界に対して土星の環になぞらえた 原子模型を提案し、電子の運動を理論的に考えるための最初の本格的な 枠組みを与えたのです。そのモデルをもとに 帯電物質である電子の挙動が議論できたのです。

素晴らしいパラダイムシフトでした。

関連する物理学者

◀ 前の人物:J・J・トムソン 電子を発見し、ブドウパン模型を提唱しました。

▶ 次の人物:アーネスト・ラザフォード 長岡半太郎の模型にも着想を得ながら、 原子核模型を提唱しました。

この分野の物理学者(原子物理学・量子論)

ルートヴィヒ・ボルツマン

J・J・トムソン

長岡半太郎

アーネスト・ラザフォード

マックス・プランク

ニールス・ボーア

ヴェルナー・ハイゼンベルク

エルヴィン・シュレーディンガー

〆最後に〆

以上、間違いやご意見があれば 以下アドレスまでお願いします。 改定や返信を致します。

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2020/09/13_初回投稿 2026/07/25_改訂投稿

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(2021年9月時点での対応英訳)

Hantaro Nagaoka’s rich personal connections

This Hantaro Nagaoka was born in the flow of the Omura domain as well as Hideki Yukawa. He studied with Kenjiro Yamakawa and Aikitsu Tanaka at the University of Tokyo when he was a student, and with Boltzmann when he was studying abroad in Germany as an assistant professor. So did he discuss the idea of ​​positivism based on his study abroad? When discussing how close he was to the core, it would be good to consider the phenomenon grasp in quantum theory in Japan at that time. With that in mind, I wanted to read the treatise from the perspective of the history of science. If you look at it from another side, it seems that there are times when the story goes on. And it seems that his academic performance was not good when he was a child of Hantaro Nagaoka.

This point reminds me of Kotaro Honda at the same time. By the way, in addition to these two people, Umetaro Suzuki was called Santaro of RIKEN. There were similar people in mobile phone commercials.

Research achievements of Hantaro Nagaoka

Hantaro Nagaoka has compiled papers on earthquakes with Tanakadate Aikitsu and papers on magnetism with Kotaro Honda, but the major research achievement of Hantaro Nagaoka is probably the atomic model. I was pursuing a quest for the micro. Whereas Thomson assumed the existence of electrons in the shape of grapes in grape bread regardless of the distance or trajectory from the center, Hantaro Nagaoka created a Saturn-like model in which electrons rotate around an atom. Advocated.

I would like to discuss this story together with the uncertainty relation. The uncertainty relation established later discusses the relationship between the position of the target particle and the momentum. These two factors are discussed in relation to each other. In the framework of that idea, it is natural that the position is uncertain with respect to the electron whose momentum is fixed. Specifically, it seems that the position of a solid atom is stopped, but it is difficult to determine the position of moving electrons. The position information becomes more and more blurred for the electrons that improve the observation accuracy of “momentum”.

Considering going back in time

and observing electrons in the time of Hantaro Nagaoka, even if we imagine a charged substance that captures the behavior of electrons, we cannot stop the movement of electrons moving around in the charged body. Because an electron is an object that is always moving. That’s why it’s difficult to model at the beginning.

Although it can be said that it is an incomplete model in today’s physics, especially in quantum mechanics, Hantaro Nagaoka’s model can be highly evaluated because it changed the atomic model at that time. I was able to create an initial image of the existence of an atom that I had no knowledge of. Based on that model, we were able to discuss the behavior of electrons, which are charged substances. It was a wonderful paradigm shift.

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W・C・ヴィーン
【黒体放射の研究やウィーンの法則をもたらした物性研究の先駆者】‐7/23改訂

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輻射電磁流体シミュレーション
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W・C・ヴィーン【1864年1月13日生まれ ~ 1928年8月30日没】


Photo: Wilhelm Wien (Public Domain / Wikimedia Commons)

その名を正確に記すと
ヴィルヘルム・カール・ヴェルナー・オットー・フリッツ・フランツ・ヴィーン
:Wilhelm Carl Werner Otto Fritz Franz Wien

熱力学における黒体放射の研究で有名です。ヴィーンは東プロイセンで
農夫の子として生まれ、ベルリン大学でヘルツの元で学位を取ります。
そこでの学位論文は光の回析特性に関する論文でした。

その後ヴィーンはレントゲンの後任としてヴュルツブルク大学で教鞭を
とっています。またヴィーンはドイツ物理学会で会長を努めていて、
前任はゾンマーフェルトでした。

さて、今日までヴィーンの業績・人となりを
調べていて断片的な印象を持ってしまいました。
それだから、ヴィーンの「人柄」が伝えられないのです。
実際の性格もあるのでしょうが、考えてみてたら、
当時の時代背景も大きいと思えてきました。
ヴィーンはドイツで生まれドイツで亡くなっています。
ヴィーンが生きた時代のドイツとヨーロッパは、
第一次世界大戦とその前後の政治的不安定さの渦中にあり、
国際的な科学交流もいまほど自由ではありませんでした。

ゲルマン圏の科学者はしばしば政治的背景の影響を受け、
その中でヴィーンもまた独自の立場や慎重さを持って
国際会議や学会活動に関わっていたと考えられます。

そんな時代にヴィーンはソルベーユ会議に出ていて
国を代表して物理学会に関わっていたでしょうが、
政治絡みの考えは他のメンバーと独自のものとなって
いたと考えられます。時節柄、修業を兼ねて他国へ
留学したり協同研究をしたりする環境とは
大きく異なっていたのでしょう。ドイツ帝国の人ですから。
ヴィーンは現代とは異なった環境に生きていたのです。

ヴィーンの法則とは何か

ヴィーンの法則とは、黒体放射において「物体の温度が高くなるほど、
最も強く放射される電磁波の波長は短くなる」ことを示す法則です。
1893年にヴィルヘルム・ヴィーンによって導かれ、
熱を持つ物体がどのような色や波長の光を放射するのかを
定量的に表す最初の理論の一つとなりました。

例えば、比較的温度の低い物体は赤外線を多く放射しますが、
温度が上昇するにつれて赤色、橙色、黄色、そして青白い光へと
放射の中心が移っていきます。鉄を加熱すると赤く光り始め、
さらに高温になると白熱して見える現象や、太陽より高温の恒星ほど
青白く見える現象も、この法則によって説明することができます。

ヴィーンの法則は黒体放射の性質を見事に表現しましたが、
すべての波長域で完全に一致する理論ではありませんでした。
その後、マックス・プランクはヴィーンの成果を受け継ぎ、
エネルギー量子という新しい概念を導入することで、
黒体放射全体を説明する「プランクの法則」を完成させます。
つまり、ヴィーンの法則は量子論誕生への重要な橋渡しとなった
歴史的な法則であり、20世紀物理学の幕開けを支えた
大きな一歩だったのです。

ヴィーンの業績について考えてみると、

ヴィーンの法則は、黒体放射において
「温度が高くなるほど、最も強く放射される電磁波の波長は短くなる」
ことを示した法則です。
太陽が赤く見えたり青白く見えたりする恒星の違いも、
この法則で理解できます。後にプランクは、この
ヴィーンの法則を含む形で
黒体放射全体を説明する
「プランクの法則」を導き、
量子論誕生への道を切り開きました。

この法則は反応を起こす物質の温度と放出される
電磁波の波長を関連付けますが、
対象物質の内部構造迄、踏み込んだ議論
を垣間見る事は出来ません。現象の
不完全な定式化であって独自の理論です。

考えを進めさせて頂くと、
マッハとボルツマンの考え方の
対立も思い起こされます。

ソルベー会議に出席する中で
ヴィーンもまた従来の考え方を守る立場で、
伝統的な枠組みの中で葛藤していたのでしょうか。

はっきりと確定して言える内容に悩み、
使っている推論の妥当性に対して悩みます。
ミクロの現象に対するモデルが大きく変更される
時代に当事者達は大胆かつ慎重に
判断せねばならなかった筈です。
いつかまた考えてみたいと思っています。

それにつけても、
ヴィーンの法則は我々に新しい知見を
もたらしていて、物質内部での反応に対し
変化を定量的議論の枠組みに乗せて
次なる議論の礎を作っています。
確かな一歩でした。

前後の人物

◀ 前の人物:ハインリヒ・ヘルツ
電磁波の存在を実験で証明し、ヴィーンが学んだベルリン大学の師

▶ 次の人物:マックス・プランク
ヴィーンの法則を発展させ、黒体放射を量子論として完成

この分野の科学者(熱力学・量子論)

グスタフ・キルヒホッフ

ヘルマン・ヘルムホルツ

ルートヴィヒ・ボルツマン

ハインリヒ・ヘルツ

ヴィルヘルム・ヴィーン

マックス・プランク

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(2021年9月時点での対応英訳)

The exact name is Wilhelm Carl Werner Otto Fritz Franz Wien.

He is famous for his work on blackbody radiation in thermodynamics. Wien was born in East Prussia as a child of a farmer and holds a degree from Hertz at the University of Berlin. His bachelor’s thesis there was a treatise on the diffractive properties of light. Wien has since taught at the University of Würzburg as a successor to Roentgen. Wien was also chairman of the German Physical Society, and his predecessor was Sommerfeld.

By the way, until today, I have been investigating Veen’s achievements and personality, and I have a fragmentary impression. That is why Veen’s “personality” cannot be conveyed. He may have an actual personality, but when I think about it, I think he has a big historical background at that time. Vein was born in Germany and died in Germany. There was a great war in Europe at that time. Germany, in particular, persecuted Jews, with a number of Jewish physicists operating in an anti-German regime. It was at that time that Veen lived.

At that time, Veen would have been involved in the Physical Society of Japan on behalf of the country at the Solbeille Conference, but it is probable that his political ideas were unique to the other members. Perhaps it was very different from the environment in which students study abroad or collaborate in research in other countries for the purpose of training. He is from the German Empire. Veen lived in a different environment than it is today.

Considering Wien’s achievements

 

, Wien’s law can be thought of as the limit of Planck’s law. This law associates the temperature of the substance that causes the reaction with the wavelength of the emitted electromagnetic wave, but we cannot get a glimpse of the in-depth discussion of the internal structure of the target substance. It is an incomplete formulation of the phenomenon and is an original theory.

As I move forward, I also recall the conflict between Mach and Boltzmann’s ideas. Was Veen also struggling within the traditional framework in attending the Solvay Conferences, in a position to uphold his traditional thinking? He is worried about what he can say clearly and definitely, and about the validity of the reasoning he is using. The parties would have had to make bold and careful decisions in an era when the model for microscopic phenomena changed drastically. I would like to think about it again someday.

Even so, Wien’s law brings us new insights, laying the foundation for the next debate by putting changes in the reaction within matter within the framework of a quantitative debate. It was a solid step.

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マックス・プランク【実証主義に対して実在論を展開してプランク定数を定めました】

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。
では、ご覧ください。内容を整理し、
主にリンクを見直しました。
現時点での英訳も考えています。
(以下原稿です)

比熱実験キット
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マックス・プランク【1858年4月23日生まれ ~ 1947年10月4日没】

Scherl Bilderdienst:
Berliner Nobelpreisträger. Professor Dr. Max Planck erhielt den Nobelpreis 1918 für Chemie
ADN-ZB
Planck, Max
theoretischer Physiker, geb. 23.4.1858 in Kiel, gest. 4.10.1947 in Göttingen, seit 1885 Professor in Kiel, seit 1889 in Berlin, 1930/37 Präsident der Kaiser-Wilhelm-Gesellschaft zur Förderung der Wissenschaften. Er erhielt 1918 den Nobelpreis.
21015-01

出典:Wikimedia Commons / Public Domain
Max Planck (1933)

その名は正確には


マックス・カール・エルンスト・ルートヴィヒ・プランク
(Max Karl Ernst Ludwig Planck)

【現在の国で言えば】ドイツ生まれのプランクは

前期量子論の主要メンバーの一人です。

ベルリン大学でヘルムホルツと共に教授職を務めた際には、当時の
重鎮だったヘルムホルツと同列に話が出来る事に対してプランクは
大変な名誉を感じていたそうです。ヘルムホルツから評価を受けた時
などはとても嬉しかったとこぼしていたと言われています。因みに、
この時のプランクの教授就任はキルヒホッフの死去に伴うもので、
就任前に大学側はボルツマンヘルツに打診をしていたそうです。
そしてプランクは黒体放射の研究からエネルギーと輻射波の関係を導き、
プランクの法則として理論化します。

学問的方法論の観点から語れば、

エルンスト・マッハの実証主義に対し

プランクは実在論を展開しています。

量子論の扉を開いたプランク

19世紀末の物理学では、加熱した物体が放つ光(黒体放射)
の性質を
理論的に説明できないという大きな問題がありました。
プランクはこの難問に挑む中で、

「エネルギーは連続ではなく最小単位ごとにやり取りされる」

と仮定します。最小単位とは量子です。この考え方によって
黒体放射を正しく説明できることが分かり、

1900年、量子論の出発点となる「プランクの法則」が誕生しました。
この発想は後のアインシュタイン、ボーア、
シュレーディンガー、ハイゼンベルクらによって発展し、
現代量子力学へとつながっていきます。

明記しておきたい点は量子に対しての認識です。

プランク自身は当初、この離散性を
“現象上の数学的仮定”
とみなしており、
量子の物理的実在を
積極的に主張したわけではありません。

エネルギー量子の実在性を明確に示したのは、
1905年に光量子論を発表したアインシュタインでした。

プランクは微視的な物理公式を特徴づける定数である「プランク定数」
を提唱
しています。即ち微視的な知見において、不連続な物理量を
上手に理論に取り入れて
微細な定数を導入して体系化しているのです。
最終的に
プランクが提唱した一連の考え方はとても大事な概念で、量子力学の
根幹をなしています。現代の我々が
後付けで考えてみると、取り得る状態が
不連続だから
行列力学で使えます。そして状態の時間発展が量子力学体系の中で
記述出来て、微視的な
状態間の遷移が「定量的に」表せるのです。
こうした様々な新概念が提唱されたのです。そんな、

プランクらの時代における改革には、まさに
「パラダイムシフト」という言葉が使えます。

思想体系において大きな変換が起きました。
まず、考え方のハードルをクリア出来た事は
物理学にとって大きな一歩であったと言えます。

そして明記しておきたいのはボルツマンのプランクに対する評価です。
秀逸なブログを見つけましたので引用させて頂きます。
https://jmedia.wiki/温度とエネルギーに関するボルツマン定数/Boltzmann_constant より引用】

「(以下引用)
1920年、プランクはノーベル賞受賞講演で次のように書いている。[13]
この定数はしばしばボルツマン定数と呼ばれますが、私の知る限り、
ボルツマン自身はこれを導入したことがありません。これは奇妙な状況で、
ボルツマンが時折発した発言からわかるように、この定数の正確な測定を
実行する可能性について考えたことがなかったという
事実によって説明できます。(ここまで引用)」
ボルツマンの没後にその仕事の意義が深められ、評価された事実は
人々の心に残るストーリーです。明記していなくて御免なさい。
【以上12行、2025年7月の改定で追記しました】

そしてプランクは戦争の時代を生きたので幾多の悲劇を味わいました。

人道的見地から、アインシュタインへのユダヤ人迫害に対して当時の
独裁者である
ヒットラーに直接意見を述べています。そして、プランクの長男は
第一次世界大戦で戦死しています。
プランクの二男はヒットラーを暗殺に加担したので
処刑されてしまいました。加えてプランク自身も国賊の親として批難を受けていました。
更には、、
他にプランクには二人の娘さんが居ましたが、共に孫娘を産んだ後に亡くなっています。

プランクが1900年に提唱した量子仮説は、当時は黒体放射を説明するための
一つの仮定に過ぎませんでした。しかし、その発想は20世紀物理学を根本から変え、
半導体、レーザー、MRI、量子コンピューターなど、現代科学技術の礎となっています。
プランク定数は今日でも物理学の基本定数として世界中の研究者に用いられ、
その名を冠したマックス・プランク研究所群は、21世紀の最先端研究を牽引し続けています。


関連する物理学者

この分野の物理学者(量子論・現代物理学)

グスタフ・キルヒホッフ

ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ

ルートヴィッヒ・ボルツマン

マックス・プランク

アルベルト・アインシュタイン

ニールス・ボーア

マックス・ボルン

エルヴィン・シュレーディンガー

ヴェルナー・ハイゼンベルク

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(2021年9月時点での対応英訳)

To be exact, its name is
Max Karl Ernst Ludwig Planck.

[Speaking in the current country] German-born Planck is one of the main members of the early quantum theory.

When he was a professor with Helmholtz at the University of Berlin, Planck was very honored to be able to talk with Helmholtz, who was a major figure at the time. He is said to have complained that he was very happy when he was evaluated by Helmholtz. By the way, Planck’s appointment as a professor at this time was due to Kirchhoff’s death, and it seems that the university side had consulted with Boltzmann and Hertz before his appointment. Planck then derives the relationship between energy and radiant waves from the study of blackbody radiation and theorizes it as Planck’s law.

From an academic methodology perspective

, Planck develops realism against Ernst Mach’s positivism. Planck advocates the “Planck’s constant,” which is a constant that characterizes microscopic physical formulas. That is, in microscopic knowledge, he skillfully incorporates discontinuous physical quantities into theory and introduces minute constants to systematize them.

The series of ideas proposed by Planck is a very important concept and forms the basis of quantum mechanics. When we think about it later, it can be used in matrix mechanics because the possible states are discontinuous. And the time evolution of states can be described in the quantum mechanical system, and the transition between microscopic states can be expressed “quantitatively”.

You can use the term paradigm shift. A major transformation has occurred in the ideological system. First of all, it can be said that clearing the hurdle of thinking was a big step for physics.

And since Planck lived in the era of war

 

, he experienced many tragedy. From his humanitarian point of view, he speaks directly to Hitler, the dictator of the time, about the persecution of Jews against Einstein and others. And Planck’s eldest son was killed in action in World War I. Planck’s second son helped Hitler assassinate and he was executed. In addition, Planck himself was criticized as a parent of national bandits. In addition, Planck had two other daughters, both of whom died after giving birth to a granddaughter.

In this way, Planck’s life has changed, but his achievements have never disappeared. Planck’s constant, which retains Planck’s name, is still used in discussions around the world, and his institute continues to do cutting-edge research into the 21st century.

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ディーゼル
【Rudolf Diesel、1858/3/18 – 1913/9/29】‐7/19改訂

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。
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(以下原稿です)

HONDA製エンジン
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Portrait of Rudolf Diesel(Public Domain:Wikipedia)

パリ生まれのルドルフ・ディーゼル
― 近代エンジン史を変えた異才の発明家

ディーゼルはフランスの製本業を営んでいた父のもとに
パリで生まれます。1870年の普仏戦争勃発に伴い、
多くのドイツ人はフランスから退去させられました。
ディーゼル一家もロンドンに移住します。

12歳の時にルドルフは、ドイツ語の教育を
受ける為にアウクスブルクの母方の叔父と叔母の下へ
送られました。1873年にトップの成績で学校を卒業し、
工業学校を経てミュンヘン工科大学へ進みます。

そもそも、私は
太田氏の小説「ほかほかのパン」で
ディーゼルの名前を思い出しました。

ルドルフ・ディーゼルに対するイメージは
ヤンマー社の彦根研究所で初期型のエンジン
を見た時の思い出しかありませんでした。

調べてみると、実の所は色々な足跡を残しています。
ルドルフ・ディーゼルは、ディーゼルエンジン
の発明者として知られていますが、彼の足跡は
その発明にとどまりません。以下に、
彼の主な業績や足跡を紹介します。

ディーゼルエンジンの発明:

ディーゼルエンジンは何が画期的だったのか

19世紀後半の工場では蒸気機関が主役でした。しかし蒸気機関は、
一度ボイラーで水を沸騰させてから動力へ変換するため、
熱エネルギーの多くが失われ、決して効率の良い機械ではありませんでした。

ルドルフ・ディーゼルは「もっと熱を無駄なく仕事へ変えられないか」
と考えます。その答えが、高温・高圧まで圧縮した空気へ燃料を噴射し、
自然着火させる圧縮着火方式でした。
点火プラグを必要とせず、高い熱効率を実現できるこの方式は、
蒸気機関の時代から内燃機関の時代への大きな転換点となりました。

1892年に特許を取得し、その後の改良を経て実用化された
ディーゼルエンジンは、船舶・鉄道・大型トラック・発電設備など、
大きな力を必要とする分野へ急速に普及しました。
現代でも物流や発電を支える重要な原動機として活躍しています。

 

技術革新の推進: ディーゼルは、燃料の消費を最小限に抑えつつエネルギーを効率的に
変換する方法を探求しました。彼の発明は産業革命以降の技術革新に大きな影響を与えました。

ディーゼルエンジンとは何か

ディーゼルエンジンとは、燃料を高温・高圧に圧縮した空気へ噴射し、自然着火させて
動力を得る内燃機関
です。一般的なガソリンエンジンが点火プラグで燃料に火をつける
のに対し、ディーゼルエンジンは圧縮によって発生した熱を利用して燃料を燃焼させます。
この仕組みは「圧縮着火方式」と呼ばれ、1892年にルドルフ・ディーゼルが特許を取得し、
その後の改良によって実用化されました。

ディーゼルエンジン最大の特徴は、熱エネルギーを効率よく機械的な仕事へ変換
できる点にあります。圧縮比を高く設定できるため熱効率が高く、同じ燃料から
より多くの動力を取り出せます。そのため燃料消費量を抑えられ、大きな力を
長時間発揮する用途に適しています。大型トラックやバス、船舶、建設機械、
鉄道車両、非常用発電機などで現在でも広く利用されているのは、
この優れた燃費性能と耐久性によるものです。

また、ディーゼルエンジンの登場は、蒸気機関が主流だった産業社会に大きな転換
をもたらしました。ボイラーで水を沸かす必要がある蒸気機関に比べ、燃料を直接
シリンダー内で燃焼させる内燃機関は設備を小型化でき、効率も飛躍的に向上しました。
その結果、輸送機械や産業機械の性能が大きく向上し、20世紀の物流や産業発展を支える
重要な原動力となったのです。近年では排出ガス浄化技術やバイオディーゼル燃料
の研究も進み、環境性能を高めながら、社会インフラを支えるエンジンとして
進化を続けています。

 

産業界への貢献:

ルドルフ・ディーゼルは、彼の発明を実用化するために努力し、産業界にその技術を普及させました。これにより、機械化された生産プロセスが可能となり、産業の発展に寄与しました。

教育活動:

ディーゼルは後進の育成にも力を注ぎました。
ディーゼルは正式な教育機関で教える立場ではなかったものの、
自身の研究や著作を通じ、効率的なエネルギー利用の考え方を広めました。
特に著書『合理的な熱機関理論』は多くの技術者に影響を与えました。。

社会的影響:

ルドルフ・ディーゼルの発明は、エネルギーの効率的な利用によって社会に大きな影響を与えました。それにより、交通手段や産業活動の発展が促進され、経済の成長に寄与しました。

遺産と認識:

ディーゼルエンジンの普及と彼の業績に対する認識は、
世界中で広く認識されています。彼の名前は、
エンジンや自動車産業、エネルギー分野など、
多くの分野で永遠に記憶されるでしょう。
私が彦根で見た遺産は一端に過ぎません。

これらは、ルドルフ・ディーゼルが残した
主な足跡の一部です。
彼の業績は、
現代の産業社会においても
重要な役割を果たしています。

前後の人物

◀ 前の人物: ケルビン卿

熱力学・絶対温度・エネルギー保存へ繋がります。

▶ 次の人物: ニコラ・テスラ

蒸気から電動機の時代へという流れになります。

関連する科学者・技術者

 

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(2024/4/12時点での対応英訳)

Diesel born in Paris

Diesel was born to his father who was a bookbinder in France.
Born in Paris. With the outbreak of the Franco-Prussian War in 1870,
Many Germans were expelled from France.
The Diesel family also moves to London.

At the age of 12 Rudolf received a German education.
I went to my maternal uncle and aunt in Augsburg to receive the test.
Sent. He graduated from school at the top of his class in 1873,
After attending technical school, he entered the Technical University of Munich.
In the first place, I
In Mr. Ota’s novel “Hot other bread”
I remembered the name Diesel.

What is your impression of Rudolf Diesel?
Early engine at Yanmar’s Hikone Research Institute
All I could remember was when I saw it.

If you look into it, you’ll find that it actually leaves a lot of footprints.
Rudolf Diesel is a diesel engine
Although he is known as the inventor of
It’s not just his invention. less than,
We will introduce his main achievements and footprints.

Invention of the diesel engine:

Rudolf Diesel patented the first diesel engine in 1892. This is a type of internal combustion engine that has higher efficiency and consumes less fuel than a steam engine. Diesel engines are used in a wide range of industries, including automobiles, ships, and power plants.

Driving innovation: Diesel explored ways to efficiently convert energy while minimizing fuel consumption. His inventions had a major impact on technological innovation after the Industrial Revolution.

Contribution to industry:

Rudolf Diesel worked hard to put his invention into practice and popularized it in industry. This enabled mechanized production processes and contributed to the development of industry.

Educational activities:

Diesel also focused on training the next generation. He was passionate about engineering education and mentored many students and engineers.

Social impact:

Rudolf Diesel’s invention had a huge impact on society through the efficient use of energy. This facilitated the development of transportation and industrial activities, contributing to economic growth.

Heritage and recognition:

The spread of diesel engines and recognition of his achievements were
Widely recognized all over the world. his name is,
engines, automobile industry, energy field, etc.
It will be forever remembered in many fields.
The heritage that I saw in Hikone is just one part of it.

These were left behind by Rudolf Diesel
Some of the main footprints. His achievements are
Even in modern industrial society
plays an important role.

 

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ハインリヒ・R・ヘルツ
【電磁現象の実用化の為に送受信の装置を実現した先駆者】-7/18改訂

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電磁気学入門
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ハインリヒ・R・ヘルツ【1857年2月22日生まれ ~ 1894年1月1日没】


Heinrich Hertz portrait
Public Domain (Wikimedia Commons)

独逸のヘルツ

ハインリヒ・R・ヘルツのRは
ルドルフ(Rudolf )のRです。

もともと、ヘルツは気象学に関心を持っていました。
1878年ミュンヘン工科大学では指導教官が気象学者のベゾル
でしたが、そこではさしたる業績を残していないようです。
その後の師ヘルムホルツのもとで
液体の蒸発の論文や新型の温度計に関する
論文をまとめた程度だと言われてす。

エーテルに対する理解の変遷

所で、19世紀終わり頃迄は電磁波の伝達物質としてエーテルという物質
想定していました。確かに
波を伝える伝達物質、別の言葉を使うと
媒質といった物があり波は伝わります。

水という媒質があり表面で波紋が伝わり、空気という媒質があって音が伝わる訳です。
1881年のマイケルソンの実験や、1887年のマイケルソン=モーリー実験では
期待された「エーテル風」が検出されませんでした。これらの結果を受けて、
ヘルツはマクスウェル方程式を改めて考察し、電磁波が真空中を伝わることを
裏付ける実験へと進んでいきました。
ヘルツはマクスウェルの方程式を再度
考え直します。
電磁波の存在を煎じ詰めて実用的なアンテナを考案しました。

現代の整理された考え方によると、電磁波は真空中であっても伝わります。例えば
太陽光は大気圏に届く前に
真空中を伝わってくるのです。そこにはエーテルは
存在しません。
エーテルの仮定は観測にかからないばかりか、
地球の自転運動・公転運動に対して説明がつかないのです。

ヘルツ最大の功績

ヘルツ最大の功績は、ジェームズ・クラーク・マクスウェルが
理論的に予言していた「
電磁波」の存在を、世界で初めて
実験によって証明したことです。

電気と磁気は時間的に変化すると互いを生み出しながら
空間を伝わる――マクスウェルは数学によってそう導きました。
しかし当時は実際に電磁波を見た人はいませんでした。

ヘルツは火花放電を利用した送信器と、
金属リング状の受信器を製作し、
離れた場所へ電磁波が伝わることを実験で確認しました。

この成果によって、電磁波は単なる理論ではなく
現実に存在する自然現象であることが証明され、
後の無線通信やラジオ、テレビ、携帯電話へとつながる
歴史的な第一歩となったのです。

電磁波とは何か

電磁波とは、電場と磁場が互いに影響し合いながら空間を伝わっていく
波のことです。
光も電波も赤外線も紫外線もX線も、すべて同じ
電磁波の仲間であり、
波長や周波数が異なるだけです。

ヘルツが実験によって存在を証明した電磁波は、
現在ではラジオ放送、テレビ放送、Wi-Fi、Bluetooth、
携帯電話、GPS、
人工衛星との通信など、
社会インフラのほぼすべてを支えています。
現代人が毎日利用している無線通信は、
ヘルツの実験の延長線上にあると言っても
決して大げさではありません。

ヘルツのその他の業績 

何よりも、ヘルツが大事な「時代を担っていた一人」である
という点を強調します。その時代には実験が繰り返され、
電磁気学の分野で光と電磁波をつなぐ

理論がもやもや生み出されていたのです。
それを支える手段が模索されていたのです。

ヘルツは電磁波を発信する
装置を開発して電磁波の送受信
の実験を繰り返しました。
マクスウェルの理論を現実の生活の中の仕組みと
関連させることを考えてみると、
電波を発信する仕組みと受信する仕組みが必要です。

例えば、磁場中で帯電体が振動運動をした時に
電場と磁場が生成されて、光速度に近い
伝番をする筈です。それを観測にかけるには
「出来るだけ簡単で解析しやすい送信部と受信部」
を設計してシステムの構築をしなければいけません。
ヘルツはそうしたシステムを構築したと言えるのです。
その過程では例えば、

送受信間にガラスを置くと
電磁波が通じ難くなると確認しました。即ち、
電磁波というものがあって、それを使うと離れた
空間の間を送受信出来て、電磁波が透過しやすいもの
とし難いものがあると示したのです。大きな一歩でした。

そして、実験で人々にガウスマクスウェル
の理論を現実の世界とより近づけました。
ヘルツは周波数の単位に名を残しています。

前後の人物(HTML)


関連する物理学者

この分野の物理学者(電磁気学・無線通信)

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Hertz of Germany

Heinrich R. Hertz’s R is Rudolf’s R.

Originally, Hertz was interested in meteorology. At the Technische Universität München in 1878, the instructor was the meteorologist Bezor, but he does not seem to have made much of a mark there. It is said that he only compiled a treatise on liquid evaporation and a new thermometer under his teacher Helmholtz after him.

At the transition of understanding of ether

Until the end of the 19th century,People had assumed The Existance,Ether  as a transmitter of electromagnetic waves. surely

There is a transmitter that transmits waves, or in other words, a medium, and waves are transmitted. There is a medium called water, and ripples are transmitted on the surface, and there is a medium called air, and sound is transmitted.

Hertz reconsiders Maxwell’s equations when Michaelson denies ether in an experiment in 1881. He devised a practical antenna by decocting the existence of electromagnetic waves.

According to modern organized thinking, electromagnetic waves are transmitted even in a vacuum. For example, sunlight travels through a vacuum before it reaches the atmosphere. There is no ether there. Not only is the assumption of ether unobservable, but it cannot explain the rotation and revolution of the earth.

Other achievements of Hertz

Separately, Hertz developed a device for transmitting electromagnetic waves and repeated experiments to send and receive electromagnetic waves.
Considering the relationship between Maxwell’s theory and the mechanism in real life, we need a mechanism to transmit and a mechanism to receive radio waves. For example, when a charged body vibrates in a magnetic field, an electric field and a magnetic field are generated, and the number should be close to the light velocity. In order to observe it, it is necessary to design a “transmitter and receiver that are as simple and easy to analyze as possible” and build a system.

It can be said that Hertz built such a system. In the process, for example, I confirmed that placing glass between transmission and reception makes it difficult for electromagnetic waves to pass through. In other words, he showed that there are electromagnetic waves that can be used to send and receive between distant spaces, making it easy for electromagnetic waves to pass through and difficult for them to pass through. It was a big step.

And in his experiments he brought Gauss Maxwell’s theory closer to the real world. Hertz has left its name in the unit of frequency.

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昨夜の「数学白熱教室」 【2015-11-28投稿分_谷山氏_フェルマーの定理】

NHKのEテレの「数学白熱教室」第三回を見た。いつもの通りで途中で少し眠ったようだが、多分後半の重要なところは見た。

フェルマーの定理から、谷山・志村・ヴェイユ予想へと話が進む前の数論と方程式の解の話もおもしろかった。よくわかったというわけではないが、不思議なものがそこにあるという感覚は感じ取れた。

ワイルズともう一人の研究者のフェルマーの最終定理の解決も実は谷山・志村・ヴェイユ予想の解決であり、それとフェルマーの定理とが密接に関係しているという話も興味深かった。またこれはフレンケルが現在研究しているラングランズ・プログラムの一例になっているという。

もともとフェルマーの定理はピタゴラス数の拡張として考えられたとの説明は数学がどうやって広がっていくかを示した話であったと思う。ピタゴラス数として3, 4, 5のつぎは13,12, 5であるが、そこらあたりまでなら誰でも知っているだろう。だが、それらよりも大きい数にもピタゴラス数はある。

谷山さんは自ら命を絶った数学者であるが、彼は不思議な予想能力があった人だったという。一方、志村さんは今でも生きていて、ちくま学芸文庫に数冊本を書き下ろしている。

でも妻によれば私の眠っていたときの話は素数にある種の対称性があるという話だったという。そういう話だとフレンケルさんの話でなくとも誰か数学者が本に書いてあってもいいはずだと思う。だから、どれかの数学の本で読むことができるかもしれない。

(2024.3.23付記)その後、志村さんも亡くなったが、いつなくなったのかは覚えていない。だが、最近まで存命だったことは確かである。

 

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あけましてオメデトウございます。今年も宜しくお願い致します。【@2025元旦】_1/1投稿

こんにちはコウジです。
「オメデトウございます」の原稿を投稿します。

投稿前に誤字がありました。
細かい文章も再考しています。しっかり正確に。
そして沢山情報が伝わるように努めます。
(以下原稿)

あけましておめでとうございます。

今年も宜しくお願い致します。

個人として今年は新しいことを色々と始める積りですので
物理学の考察には時間を使わなくなってくると思えます。

昨年度のノーベル賞受賞を思い出してみても、
AI関連での発展が顕著なので、そうした考察を追いかけます。

先ずは新しい知見である「プログラム学習」を身に付け、
次々と最新トレンドを追いかけられるように体制を整えます。

その中で、進展に合わせて過去の科学史を振り返り
新しい意義を考察していきたいと思うのです。
(年初は書評の再考、サイト内リンクの確認をします)

実際、A8が運営するFanBlogが4月で閉鎖するという情報があるので
本ブログからのリンクをチェックしていかないといけませんね。

今年も宜しくお願い致します。

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【改訂】東大が量子コンピューターを2023年秋に導入
(IBM社製‗127量子ビット)

東大

こんにちはコウジです!
「東大が量子コンピューター」の原稿を改定します。
今回の主たる改定は新規追記分の補完です。
大分長いこと改定していませんでしたね。

初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように再推敲します。

SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。

(写真は従来の基盤の写真です)

以下投稿の内容は2023/04/22の
日経新聞記載の情報メインです。
現代の情報だと考えて下さい。

新聞記事を離れた所で冷静に考えていくと
税金の使い道の話でもあります。

日本国民の皆様が一緒になって考えて、
出来れば知恵を出し合えたら
より良い展開に
つながる類の話題なのです。しかし、
実のところ、大多数の日本国民は
「量子コンピュータ?言葉は聞くけれども…」
って感じで内容が議論されていません。
議論を喚起しましょう。

本記事では私論を中心に語ります。但し、
記載した量子ビット数は何度も確認しています。

ニュースのアナウンサーも語れる内容が少ない
のでしょう。
そんな中で東大本郷キャンバスでは
記者会見が開かれ、IBM社のフェローが
「有用な量子コンピューターの世界がすぐそこまで来ている」
と語っています。

物理学を専攻していた私でも多分野において下調べが必要です。
当面、「ラビ振動」、「共振器と量子ビットの間の空間」
「ミアンダの線路」、「量子誤り訂正」といった概念を
改めて理解し直さないと最新の性能が評価できません。

特に理化学研究所に導入された機種は
色々な情報が出ていて教育的です。対して
東大が導入するIBM社製の量子コンピューターは
トヨタ自動車やソニーグループなど日本企業12社での
協議会による利用を想定していて、
利益享受を受ける団体が限られています。
今後の課題として利用の解放(促進)が望まれます。 

東京大学が川崎拠点に導入

既に27量子ビットを導入している川崎拠点に2023年の秋に
127量子ビットの新鋭機を導入する予定です。
経済産業省は42億円の支援を通じて計算手法等の
実用面へ向けての課題を解決していく予定です。

一例としてJSR(素材メーカー)が「半導体向け材料の開発」
を想定して活用する方針を打ち出しているようですが
具体的にプロジェクトに参加する事で得られるメリットを
明確にする作業は大変そうです。

現時点での量子コンピューターの国内体制

報道では「量子ビット」の数に着目した表現が多いです。
実際に理化学研究所では2023年の3月に64量子ビットの
装置を導入して研究を進めています。

また、英国のオックスフォード・クァン・サーキッツ
は都内のデータセンターに今年の後半に量子コンピューター
を設置予定で外部企業の利用も想定しています。

対して米国のIBMでは433量子ビットのプロセッサーが開発
されていて、2023年度中には1000量子ビットの実現、
2025年度には4000量子ビット以上の実現を計画しています。 

EV電池開発に革新的貢献ができるか

一例としてIonQ社とHyundai Motor社は共同で
量子コンピューターに対する
バッテリー化学モデル
を開発しています。(2022年2月発表~)

実際に同社は新しい変分量子固有値ソルバー法
(VQE:Variational Quantum Eigensolver)を共同で開発してます。
開発目的はバッテリー化学におけるリチウム化合物や
化学的相互作用の研究への適用です。

 特定の最適化問題を解決するVQEは原理的に
量子コンピューターと親和性が良いです。
変分原理を使用し、ハミルトニアンの基底状態エネルギー、
動的物理システムの状態の時間変化率を考えていくのです。
計算上の限界で、既存システムでは精度に制約がりました。

 具体的に酸化リチウムの構造やエネルギーのシミュレーション
に使用する、量子コンピュータ上で動作可能な
バッテリー化学モデルを共同開発しています

リチウム電池の性能や安全性の向上、コストの低減が進めば
EV開発における最重要課題の解決に向けて効果は大きいです。
【実際、EV価格の半分くらいはバッテリーの価格だと言われています】

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以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をします。

nowkouji226@gmail.com

2023/04/23_初稿投稿
2024/03/17‗改訂投稿

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【Topic_2021/05/17投稿_9/25改定】
次世代加速器計画【ILC】

2021/5/10の日経新聞記事の情報を基本として
トピックをお知らせします。

日米欧の計画で進む国際リニアコライダー(ilc)
は新しい物性物理学の理論において
突破口を開くと期待されます。
また経済面でも期待され、
「科学のオリンピックを30年続ける」
ような効果があると評価する人々もいます。

また、日本学術会議は「事故対策」「不確定要素」
を懸念しています。そんな中で、宇宙が誕生した
状態を再現することを目的としていて
新しい理論に繋がる実験を計画しています。実際に
建設する予定は東北地方の北上山地が予定地
となっており2035年ころの稼働を目指しています。
総建設費は8000億円となります。

大きさは全長最大で20キロメートルで
小柴
氏・梶田氏がノーベル賞を受けたヒッグス粒子を
大量に作ります。

実験の姿としては
両側から+とー(プラスとマイナス)の
電荷を其々帯びた電子と陽電子を発射して
光速度近くまで加速した上で衝突する事で
大量のヒッグス粒子が発生する姿を観測
しようというものです。

ヒッグス粒子は物質に質量を与える
素粒子であると考えられていて
欧州合同原子核研究機関(cern)にある
巨楕円形加速器「lhc」で2012年に観測されています。

現代物理学で注目される微粒子なのです。

その数は理論的には1種類とも5種類とも言われ、
実際の実験結果が期待されます。また、
全宇宙の1/4を占めると言われるダークマター
の発見も期待されます。

同様な計画は中国でも進んでいるようで、
こちらの動きも注目されます。

アニメのエバンゲリオンに出てくるような
未知の粒子が制御出来るとしたら
素晴らしいですね。

新聞を読んだ時は計画の推進面だけしか
分かりませんでしたが、実際問題を含んでいて、
乗り越えるべき障壁もあります。

今後の情報をもって再度、
話題を改定したいと思います。



以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をします。

nowkouji226@gmail.com

2021/05/17_初回投稿
2022/09/25_改定投稿

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