2025年10月31日2025年10月19日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す老人の呟きから10月末抜粋・ガロアのノートにあった詩 【2015-11-18 】・昨夜の「数学白熱教室」 【2015-11-28】・数学・物理通信6-3を発行 【2016-03-19】・伏見康治コレクション3 【2016-05-24】・」エ―レンフェストの定理 【2016-06-21】・最近ならば 【2016-07-27】・物理学を学ぶときに 【2016-11-30】・ブログは消耗品である 【2016-12-24】・遠山啓さんの心配 【2017-04-26】・cleverな人よりもwiseな人を 【2017-04-28 】・complementary 【2017-12-07】・四元数の流行を下火にした人 【2018-04-10 】・『物理学天才列伝』下 【2018-08-20 】・Diracの寡黙とGell-Manのライターズ・ブロック 【2018-08-27】・エディトンとチャンドラセカール 【2019-06-21 】・テラー 【2019-08-09 】・F. J. Dysonの死 【2020-03-02 】・C. N. 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わが身は墓場へとくだりゆくL’eternel cypres m’environne: Plus pale que la pale automne, Je m’incline vers le tombeau.岩田さんは書いている。糸杉は棺をつくるのに使われると。この詩の前に岩田さんは書いた。ガロアは自分の生命がもうあまり長く続かないことを予感していたのではなかったろうか。paleのaの上のアクサン・シルコンフレックスと糸杉cypresのeの上のアクサン・グラーブ、およびetenelのはじめのeのアクサン・テギュは再現できていないことをお断りする。前にもこのブログで書いたことがあるのだが、この『偉大な数学者たち』を感激して読んだという記憶は私には残念ながらなかった。しかし、だからといってこの書がつまらない書だとは思っていない。昨夜の「数学白熱教室」2015-11-28・NHKのEテレの「数学白熱教室」第三回を見た。いつもの通りで途中で少し眠ったようだが、多分後半の重要なところは見た。フェルマーの定理から、谷山・志村・ヴェイユ予想へと話が進む前の数論と方程式の解の話もおもしろかった。よくわかったというわけではないが、不思議なものがそこにあるという感覚は感じ取れた。ワイルズともう一人の研究者のフェルマーの最終定理の解決も実は谷山・志村・ヴェイユ予想の解決であり、それとフェルマーの定理とが密接に関係しているという話も興味深かった。またこれはフレンケルが現在研究しているラングランズ・プログラムの一例になっているという。もともとフェルマーの定理はピタゴラス数の拡張として考えられたとの説明は数学がどうやって広がっていくかを示した話であったと思う。ピタゴラス数として3, 4, 5のつぎは13,12, 5であるが、そこらあたりまでなら誰でも知っているだろう。だが、それらよりも大きい数にもピタゴラス数はある。谷山さんは自ら命を絶った数学者であるが、彼は不思議な予想能力があった人だったという。一方、志村さんは今でも生きていて、ちくま学芸文庫に数冊本を書き下ろしている。でも妻によれば私の眠っていたときの話は素数にある種の対称性があるという話だったという。そういう話だとフレンケルさんの話でなくとも誰か数学者が本に書いてあってもいいはずだと思う。だから、どれかの数学の本で読むことができるかもしれない。(2024.3.23付記)その後、志村さんも亡くなったが、いつなくなったのかは覚えていない。だが、最近まで存命だったことは確かである。数学・物理通信6-3を発行2016-03-19・さっき、ようやく『数学・物理通信』の6巻3号を発行した。インターネットのサイトで見て下さる方は数日したら、谷村先生が掲載して下さるであろうから、数日は待たれる必要があろう。今回は友人の E さんの相対論の話が出ている。彼の講義ノートは数百ページのものらしいが、それを20ページ前後に要約したものとなっている。さすがにこの分野の専門家なのでやはり随所に独自性が現れているが、それでもその長さから数学の部分の詳しい説明はないので、ちょっと説明が欲しい気もしたが、これはこれでそれなりによくできた要約だと思っている。それと S さんの周期ポテンシャルの量子力学のシリーズがはじまった。私も大学院の講義でこの周期的ポテンシャルをあつかったことがあるが、その周期的ポテンシャルとしてはいわゆるKronig-Pennyのモデルしか扱ったことがない。周期的ポテンシャル1次元の問題だが、結構難しいところがある。私は関心があったのは、量子状態で離散的なエネルギー準位から、周期的ポテンシャルになるとそのエネルギーの幅が生じて最後には固体の量子理論としてのエネルギーのバンド構造ができるところのうつりかわりである。素粒子のレプトンの質量準位が二重構造をなしているのではないかというような予想を立てたりして、それを導こうと考えたりしたこともあった。これはうまくいかないことは明らかかもしれないけれど。レプトンのe, \myu, \tauはニュートリノと合わせてdoubletにはなっているが、質量準位は二重構造にはなっていない。二つの井戸をもつポテンシャルとして有名なのはアンモニアの二つの井戸ポテンシャルがあり、スペクトルが二重線になっていたのだったかどうかもう忘れてしまった。そんなことを周期的ポテンシャルから思い出している。伏見康治コレクション32016-05-24・『物理学者の描く世界像』(日本評論社)に中性子の減速の話題が取り上げられている。これは原子炉内での核分裂で発生した中性子を減速させる話である。伏見康治先生もやはり原爆研究か原子炉の理論の一環として中性子の減速の問題を考えられていたらしい。あまりこれは現在では学問的な内容ではないのかもしれないが、それでも原子炉工学を学ぶときには基礎知識であろうか。数年の間 E 大学工学部で原子力の基礎知識を講義したことがあり、そのときに中性子の減速の数学というか物理を自学自習したことがあった。これは講義をするためには当然のことであった。伏見先生は雑誌「数学セミナー」の編集部の要望に応えて「やはり微積分は役に立った」という記事を3か月にわたってかかれた。それが、この本に掲載されている中性子の減速である。私はこれらの章をまだ読んではいないが、それほど難しい数学も用いていないので、読んでみようかと思っている。私が昔テクストを読んでつくったノートも役に立つかもしれないなどと考えている。などと多寡をくくったことを書いたが、さらにちらっとこの記事をながめたところではどうもノートが役に立つのは連載3回の1回目だけらしい。エ―レンフェストの定理2016-06-21・というと量子力学でその位置の期待値から波束が古典力学の運動方程式の形をみたすという定理である。この定理が難しいと思ったことはなかった。が、私自身はこの定理の意義を軽視してきたが、このところその意義に目覚めている。もっともこの計算は学生のときにも苦手だったが、どうもいまでも苦手であることを発見した。学部の4年生になって量子力学のセミナーがはじまり、その初めごろにセミナーでこの計算で立ち往生してしまい、S 先生から叱られたことがあった。その後のセミナーではその汚名を挽回するように努めたけれども。その思い出よみがえってきたのだが、何十年もたってこれくらいの計算はなんてことはないはずなのにやはり苦手である。もっともきちんとやればなんてこともないはずだ。だが、どうも逃げ腰なのがいけないのではないかと思う。きちんと落ち着いてやれば、なんてことはないはずだが、ちょろちょろしてしまう。この姿勢がよくない。最近ならば2016-07-27・自分の研究結果をできるだけ早く発表するのは科学者にとっては常識であろう。だが、昔はそうではなかった。ニュ―トンは若いときに自分のした研究結果をかなり晩年にならないと発表しなかったし、ガウスも数学日記を書いていたが、その中には新しい結果もあったのに死後になってそれが他人によって発表されたとかいう。ガリレイにしても本当は彼のした研究で後世からみて一番価値のある物体の自然落下の研究はローマ法王庁から自宅蟄居を命じられていた晩年になってようやく書いたことを最近知った。いわゆる「科学対話」と言われている著作を書いたのは「天文対話」よりも後だったという。それでもニュートンは微積分学と力学の創成者として有名だし、別に問題はあまり起こらなかった。いや実はいくつかの先取権の問題はあったのだが、なんとかクリアしたという。20数歳のときの仕事でニュートンは結果として後世に名を遺したが、それからの余生(?)は権力と富を求めたのではないかとか最近通俗書の科学史の本で読んだ。物理学を学ぶときに2016-11-30・何をテクストとして学んだらよいか。これは意外と独学で学んでいる人に困ることである。私がもし初心の学生なら、何を学ぶだろうと思い出しながら、書いてみた。だから世の中で名著と言われるものでも途中で挫折すると思われるようなものはあまり推薦しない。これらの名著はある程度物理の何たるかがわかってから、読んだらいいと思う。さて一般物理としてはじめに何を学んだらいいのか。私には適切なテクストが思い浮かばない。原島鮮先生の『初等物理学』(裳華房)という本があった気がするが。それを読んだことはないので、それがよかったとも言えない。力学についていえば、私自身は文句なく原島鮮先生の『力学』(裳華房)を推薦するが、その本が今も出ているのかどうか。電磁気学を学ぶときには私たちの年代なら、高橋秀俊『電磁気学』を学んだものだが、私は砂川重信先生の『電磁気学』(培風館)を勧めたいと思う。そしてもっと進めば、いろいろの本が電磁気学には名著がたくさんあるだろう。しかし、一番初めはこれがいいのではないか。相対論は何を読んだらいいか。私たちはメラーの『相対性理論』(みすず書房)を学んだ記憶があるが、一般相対論の方は今でもあまりよくわからないので、どれがいいかよくはわからない。広江克彦『趣味で相対論』(理工図書)か砂川重信『相対性理論の考え方』(岩波書店)がいいのではないかと思っている。それで初歩を学んだら高等な相対論の本はいくつもある。量子力学を学ぶなら、やはり原島鮮『初等量子力学』(裳華房)がいい。それで初歩を学んだら、また多くの名著がある。私は大学4年生のときのセミナーでSchiffの”Quantum Mechanics” (McGraw-Hill)を読んだ。もっとも全部読んだわけではなくて摂動論のところくらいまでである。またボームの『量子論』(みすず書房)はたとえばエルミート演算子などについてよく分かるように書いてある。その点で私はボームの本にお世話になっている。この本はいまではDoverで安く購入できる。熱力学を学ぶときには何を読んだらいいだろうか。私は統計力学とか熱力学はとても弱いので困ってしまうが、統計力学が理解可能だと思えるようになったのは原島鮮先生の『物性論概説』の統計力学の章を読んだからであった。それまでは統計力学は私には理解可能なものとは思えなかった。熱力学はレオントビッチ『熱力学』(みすず書房)が大学のときのテクストだったが、これはあまり勧められない。いまの私ならムーア『物理化学』上(東京化学同人)1章から3章までを読むのがいいと思う。すくなくともこれくらいしか私は読み通したことがない。統計力学もムーア『物理化学』上(東京化学同人)の4章と5章を読めばいい。もちろん、フェルミの『熱力学』(三省堂)とかの翻訳もあるが、いまでは手に入らないだろう。ブログは消耗品である2016-12-24・新聞が消耗品であるようにブログも消耗品である。だから日々新たな気持ちで書くことが大切で、昔書いたことが大事なわけではない。とはいうものの日々の自分の考えたことを書いているので、ときどきはそれを見直すのがいいと思っている。思想と言えるほどのものが私のブログにあるのかどうかはわからないが、どういう本を読んであんなことを思ったとかそういう風なことは書いていないことが多いけれどもやはり何かを考える動機に読書がなっていることは確かである。最近ではコタツで夜に読んでいるのは図書館で借りて来た「昭和後期の科学技術思想史」である。これに岡本拓司さんが書いている広重徹論は大部なものである。多分日本で書かれた最大の広重徹論であろう。私の不満に思うのは現代科学の発展の歴史をふり返って広重の言ったことが当たっていたのかどうかという視点が欲しいような気がしている。広重徹が亡くなったのは1975年であり、彼が思っていたことがどれほど正しかったかは広重徹論を書く一つの視点ではなかろうか。(2016.12.26付記) 広重は70年代に素粒子で多くの共鳴粒子が見つかったりでして、数百個になったことにいらだっていたと、この岡本拓司さんの広重論にある。そこが私などは不思議に思うところだが、多数の素粒子が見つかったときにすでにそれらを複合粒子として考えるという考えが出ていたのだから、いわゆる本質的な力学としてはまだきっかけもつかまれていないとしても素粒子の研究としてつぎの段階への手がかりは出ていたことになる。それはFermi-Yangの論文に始まり、坂田モデルとつながり、IOO対称性とか1960年代の初頭にはそういうことが出ていた。それがGell-MannとN’eemanの八道説につながり、その後のクォークモデルとなる。そして電弱理論とかQCDにつながっている。Weinberg-Salam理論は1968年には出ているが、くりこみ可能性を’t Hooftが証明したのが1971年というから広重の亡くなる前にはすでに新しい理論の芽はあったのだ。そこらの評価が広重にはできていなかったと思われる。最後の段階への評価はできなかったにしても複合モデルを評価できなかったのは広重としては大きなミスではなかろうか。そういうことは岡本拓司さんの広重論にはもちろん出てこないのだが。遠山啓さんの心配2017-04-26・東京工業大学に勤めていた遠山さんは若いときにレッドパージにかかって大学を辞めさせられるのではないかと心配をしていたときがあったと知った。彼は狭い意味での政治的な人ではまったくないが、その算数教育の方針が時の文部省の方針に反していたので、そのための心配を密かにしていたのだろう。それで、もしレッドパージにかかって大学を辞めなければならなくなったとしたら、文筆で生きていく覚悟をしていたとはなかなか悲壮である。そのことは実際には起こらなかったのだが、それでも算数教育では彼と数学教育協議会のメンバーたちが考案した「水道方式」と「量の理論」とは数学教育に一石を投じることとなった。結局のところ、その教育のしかたが文部省の方針よりも合理的で多くの子どもたちの算数教育に有用であったためにときの政府の介入をもはねのけて、いまではどの算数の教科書も数学教育協議会の教えた方を少なくとも部分的には取り入れるというふうになっている。これで想起するのは戦後の一時期だが、やはり武谷三男がある種のジャーナリストとして文筆で生計を立てていたという事実である。武谷は1953年に立教大学に勤めるまで、大学卒業後、およそ19年にわたって、大学とか研究所に勤めることも会社に勤めることもできなかった。そのための後遺症は長く武谷に残っており、武谷に批判的な人にはその事実の重さがわかっていない、大きな事実だと思う。その不幸にもかかわらず、武谷が物理学者として生き残れたのはあるいは奇跡だというべきかもしれない。遠山は武谷ほどその旗幟が鮮明ではなかったから、大学から追われることはなかった。しかし、レッドパージの覚悟をしていたとは、戦後の政治状況の様子の一環が読みとれる。cleverな人よりもwiseな人を2017-04-28 ・というのは量子力学の行列力学のversionの建設に貢献した、M. Bornの書いた文章が出典であろう。このBornの文章を読んで、湯川秀樹が「cleverな人よりもwiseな人を」という考えを日本の一般に紹介したと思っている。ところが『遠山啓』(太郎次郎社エディタス)の遠山の退官記念講義で「cleverな人よりもwiseな人を」という話が話されている。これは遠山が湯川の話をどこかで読んで、つまみ食いしたというふうに考えるよりは遠山も同じBornの話を独立に読んでいたのであろうと私は考えている。Bornがどういうふうに言っていたのか湯川は詳しく紹介していたはずだが、記憶は確かではない。たぶん、Bornのまわりで学んだ若者はみんな原爆をつくる指揮をしたオッペンハイマーOppenheimerや原爆をつくることには失敗したHeisenbergも含めて優秀な人材であった。だが、Bornは「彼らがcleverであるよりも知恵のあるwiseな人であってほしかった」というような回想をしていたと思う。そのBornの回想を湯川は読んで雑誌「自然」だったかで紹介していた。ちなみにHeisenbergは量子力学の行列力学versionの端緒を与える研究をしたことで有名だが、自分の考案した算法が行列と数学でよばれるものだとは知らなかったらしい。彼の考案した奇妙な算法が実は数学で行列(マトリックス)と呼ばれる算法であることに気がついて行列力学を体系づけた功績はBornとJordanである。量子化条件と呼ばれている、位置座標と運動量の間の交換関係を導いたのもBornとJordanだと言われている。complementary2017-12-07・complementaryという語を今朝はつぶやいている。相補原理という原理をデンマークの物理学者ボーアが思いついた。これは多分量子力学での粒子性と波動性の理解が難しくて、たとえば、電子は一方で古典的な粒子ともみなされるのにやはりある種の波動性ももっている。古典的な描像では粒子とはある小さな箇所に質量とか電荷がかたまっているというイメージだが、一方の波動は空間に広がっている。見て感じることができる波は水面の波である。海の波などがその典型である。この波は電磁波の波などだと空間に3次元的に分布しているのだが、海の波だとある平均的、近似的な平面のまわりで運動している。すくなくとも一カ所にかたまって存在してはいない。シュレディンガーなどはこの波で電子のような粒子をつくろうと考えたらしいが、波は時間が経つと壊れていく。これは海の波などだと大きな波が崩れて白い泡が生じるのでわかる。ソリトンで有名だった広田良吾先生の講義を聞いたときに彼は波の上部の方が下部よりも速度が速いと図を描いて示していた。それで波の上部が早いから一度塊としてできた波群は上部の方が速度が速いから、砕けるのである。よく映画とか写真で上から波が覆いかぶさっているようなところをサーフィンしているサーファーを見る。これなどは波の上部の速度が下部の部分よりも速いために起こる現象である。有名な葛飾北斎の波間の富士などもこういう知識を持ってみると理解できる。北斎がこのことを理解していたかどうかはわからないけれども。私にしても広田先生の講義を聞くまではそんなことも知らなかった。complementaryに返ると、実はあるえらい先生からあるときにSさんと君とはcomplementaryだろうと言われたのを思い出したのである。この S さんも、私が偉い先生だと思っていた、K 先生ももう亡くなって久しい。四元数の流行を下火にした人2018-04-10 ・最近の四元数のブームではかつて四元数の流行を下火にした人がいたなんて、驚きだろうが、いたのである。これはギッブスというアメリカ人の物理学者とヘヴィーサイドというイギリスの電気工学者であったという。要するに実部(またはスカラー部ともいう)のない四元数の積で出てくる、その四元数の実部と虚部が実は現在ベクトルのスカラー積とベクトル積というモノであり、実は有用なのは四元数そのものではなく、ベクトルの現在スカラー積と言われているものとベクトル積と言われているものとが有用なのだとの深い考察を行って、ベクトルを導入したのがギッブスとへヴィーサイドだと言われている。そうすると、ハミルトンは四元数を発見した、創造性に富んだすごい人だったが、それを展開して、ベクトルを導入し、かつそのスカラー積とベクトル積とが有用なのだという洞察をすることができた、ギッブスとへヴィーサイドとの役割も大切なのだとわかる。もちろん、ハミルトンが四元数を発見しなかったら、その後のいわゆるベクトルとその理論は生まれなかったのだが、ギッブスとヘヴィーサイドとはハミルトンとはちがった役割をもっているのだということがわかる。ギッブスは熱力学でも熱力学ポテンシャルといわれるいくつかの関数を導入して、熱力学の様相を大きく変えたという。ヨーロッパの学者からなかなか認めてもらえなかったが、いまでは優れた物理学者であることが知られている。(2018.4.28付記)ボイヤーの『数学の歴史』を読んでいると、ギッブスの先駆者としてグラースマンがいるそうだが、グラースマンの数学を学んだことがない。いつだったか藤川和男さんが松山に来られて講義をされたときにグラスマン数のことを話されたことぐらいしか覚えていない。最近では金谷健一さんの『幾何学と代数系』(森北出版)でグラースマンの数学を学ぶことができるだろう。『物理学天才列伝』下2018-08-20 ・ブルーバックス(講談社)を図書館から借りてかえって、その一部を拾い読みしている。私がおもしろかったのはチャンドラ・セカールであった。南部さんの『素粒子』(ブルーバックス)だったかに天文台からシカゴ大学まで大学院のセミナーをするために出てきていたとか書いてあって、彼のクラスの全員がノーベル賞をとったと説明があった。これはリーとかヤンとかがその直後にノーベル賞をとったことを意味してもいた。そのうちにチャンドラー自身がノーベル賞をとる。わたしが関心をもったのはチャンドラーの最後の研究である、ニュートンのプリンピアの話であった。彼はプリンキピアをはじめからは読まないで、自分で力学の定理を書いてそれを現代的に証明して、それからその点をニュートンがどう書いているかをプリンキピアを読むことで比較したという。そして、どのようにニュートンがうまく力学のことを書いているかを痛感したという。この研究はいつものチャンドラの流儀で本にした。すなわち、チャンドラーは自分の研究の総括としていつもその分野の専門書を書いて、その分野の研究を終わりにしていた。このチャンドラーの最後の研究書は中村誠太郎さんの訳で講談社から出されている。もっともこの本は一万円を超える定価がついていたと思う。もっともこの説明で私もこの訳本を読んでみたくなった。もう数十年も昔のことだが、日本にチャンドラがやってきて、ブラックホールについて物理学会で講演した。その講演の訳が物理学会誌にでていたのだが、その最初の部分のアイディアを使って、試験問題をつくったという思い出がある。入試の問題になるくらいのやさしい話にしたのである。Diracの寡黙とGell-Manのライターズ・ブロック2018-08-27・これらは天才的な学者であった、二人の家庭環境から来ているらしい。Diracの父親はスイス出身のフランス語教師であり、夕食のときにDiracにフランス語を話すように強制したために、英語でもDiracはほとんど話さないようになったと言われている。誰かがフランス語圏からDiracに会いにやってきたときに、フランス語をDiracが解しないと思って一生懸命に英語で話そうとしたとかいう話があり、そのあとでDiracがランス語が話せることを知っておどろいたとか読んだことがある。またフランス語で書かれたDiracの論文もあったはずだ。同じようにGell-Manも心理的要因から文章が書けなくなるという症状をもっていたらしい。卒業論文は完成するどころか、書き出すこともできなかったというから、Gell-Manのライターズ・ブロックは重症である。そういう病気があるとは私自身は聞いたことがない。Yale大学では大学院には進めなかったので、MITに進んだという。そこで、Weiskopfにつく。 Wesikopfからは実践的な物理学を学んだという。「数学的洗練さよりも、証拠と一致するかどうかを重んじろ。できる限り単純さを追い求め、決まり文句やもったいぶった言い方は避けろ」これはなかなかいいアドバイスである。こういうアドバイスをする人はその当時はほとんどいなかったのではないか。私などが育ってきた研究雰囲気と似通っているが、それは横道にそれる。Gell-Manの優れた点は問題の表面的な細部に惑わされずに、「分析的な目」で、その裏に隠されたパータンを見抜く才能にあったという。ただ、列伝の著者も彼が少し嫌な性格の持ち主であったことをほのめかしているようだ。エディトンとチャンドラセカール2019-06-21 ・エディトンとチャンドラセカールとの奇しき因縁を昨夜のNHKのテレビの放送ではじめて知った。エディトンは1916年だったかに観測隊を指揮してアフリカに出かけて、日食のときの星の位置を観測して、それを普通のときの星の位置ときに見える位置と比較して、一般相対性理論の重力による光の曲り方が相対論の予言と一致することを示した。一般相対性理論では3つの実験的検証があるが、そのうちの一つである。ちなみに一般相対論の残り二つの実験的検証は「水星の近日点の移動」と「光のスペクトルの赤方偏移」である。それはさておき、星の一生を研究したエディントンは星の最後は白色矮星になることであると結論した。ところがチャンドラセカールはもし星が太陽の30倍以上の質量をもつと星の最後は白色矮星にはならず、ブラックホールになると予言した。エディントンはこの仮説を認めず、チャンドラをイギリスから追い払った。チャンドラは優秀な人であったから、アメリカに行き、そこでブラックホールとは関係のない,星の研究をしていたが、水爆実験か何かの折に出てくる光か何かの電磁波のスぺクトルが、チャンドラの予言したブラックホールの予想した電磁波のスペクトルに類似しているとの手紙を若い学者から受け取り、約40年前の自分の理論が正しかったことを知るようになった。シカゴの郊外の天文台に勤めていたチャンドラはシカゴ大学の大学院の講義にでかけてきていたが、彼の教えていたクラスからはヤンやリーとかノーベル賞受賞者が続出していたという。その後、彼自身もノーベル賞を受賞した。何年間かあるテーマについてチャンドラは研究するが、そのおしまいに、その分野の研究についてのテクストを書いて、その研究を終わりにするという習慣があった。彼の人生の最後の研究はニュートンのプリンキピアであった。それはプリンキピアの命題を読んで、その証明は読まずに、自分でその命題を証明して、そのあとでプリンキピアの証明を読むという方法である。その本は読んだことはないが、日本語での訳本が講談社から、中村誠太郎訳で出ている。この訳本は定価が1万円以上するもので、1冊公費で購入して大学の在職時代にはもっていたが、退職時に図書館に返却したので、現在は手元にはもっていない。暇ができたら、大学の図書館から借り出して読んでみたいと思っているが、そんな機会が私に来るかどうかはわからない。テラー2019-08-09 ・テラーとは水爆をつくったエドワード・テラーのことである。NHKの昨夜の「フランケンシュタインの誘惑」ではオッペンハイマーを権力の座から追い落して、自分が表にでて、水爆をつくったのはよかったが、オッペンハイマーを追い落とす査問委員会の証言で彼に不利な証言をしたために、その後の科学者社会とのつきあいがなくなって、晩年はとてもさびしかったのではないかとの話であった。ピアノを弾くのが好きであったから、晩年はピアノを弾いて過ごしたという。それでもあからさまにつきあいはなかったかもしれないが、ノーベル賞学者のヤンはテラーの支持でシカゴ大学で学位をとったので、少しはテラーに同情的であった。量子電気力学の業績で知られる、ダイソンもそれほどテラーを嫌ってはいなかったらしい。でも昔からの友だちはみんなテラーから離れてしまったことはたぶん間違いがない。テラーは山登りも好きであった。若いときに、これはたぶんハンガリーにいたときの話だが、電車にはねられて脚を折ったとか聞いている。だから脚がわるかったはずだ。なかなか直観的な理解をする人だとも聴いている。テラーの群論の理解が直観的であったとかヤンの書いた文章で読んだことがある。ただ権力的なところがあり、ちょっと科学者仲間からは人生の途中から大いに敬遠された。F. J. Dysonの死2020-03-02 ・昨日の新聞でF. J. Dysonが亡くなったのを知った。95歳だったという。朝永、Schwinger, Feynmanの量子電磁気学の理論をまとめた理論をつくった人として知られている。同じ年代の物理学者C. N. YangはDysonが上の3人と一緒にノーベル賞をもらえなかったことについて上記3人にだけノーベル賞を授与した委員会の批判的であった。同じ業績に対して3人までの受賞者とするノーベル賞委員会の不文律があるのをC.N. Yangが知らないはずはない。だが、そういう不文律を破ることも、また意味があるくらい量子電磁気学のくりこみ理論に対するDysonの寄与は大きかったとYangは評価していたのだろうと思う。Yangももう高齢だと思うが、彼はまだ生存しているのではないかと思うが、定かではない。Dysonと聞くと、私の妻などはどうも自動で掃除する電気掃除機のようだねと言っていた。最近ではDysonという名前の自動掃除機が販売されている。C. N. Yangの方は2020-03-03・昨日F. J. Dysonが95歳で亡くったというニュースを書いた。一方、C. N. Yang(楊振寧)の方は現在97歳でまだ生きておられるらしい。彼は若いときに中国国籍からアメリカ国籍をとったが、2005年にまた中国国籍を再度取得したとインターネットに書いてあった。奥さんをなくされてか、54歳も年の離れた大学院生と再婚したと話題になったとあった。Yangには何度か国際会議で見かけたり、大学院時代に当時在学していたH大学のコロキュウム室で会ったことがある。小さな黒板に散乱論のセミナーの期日が書いてあったので、scattering theoryのセミナーをしているだねとO教授とY助教授にいわれていた(注)。このときにはイギリス人のKemmerも一緒に来られていたと思う。Yangはきりりとひきしまった顔の人であった。その後、1年後か2年後に大学院をおえてK大学の研究所で非常勤講師を数か月したが、ここで出会った女性の秘書さんがえらくこのYangさんのファンだと言われていたのが、さもありなんと思った。Yangは勤勉な研究者であり、hard workerという定評がある。これはアメリカの物理学会というか、物理学者の世界ではよく知られた事実であったらしい。ベンジャミンフランクリンが大好きで、C.N. Franklin Yangという名前をつけておられる。彼のお父さんは数学者であり、若いときにはアメリカに留学された方であったとか聞いた。中国が中華人民共和国になった後も清華大学に勤められていたとかで、Yangはときどき人民共和国に帰省したりしており、どちらかといえば、中華民国よりも中華人民共和国寄りであると聞いたことがある。これは共同研究者で、ノーベル賞の共同受賞者でもあった、T. D. Lee(李政道)が中華民国寄りであるのと対照的であるとか聞いていた。(注)この訪問後にYangの自著の小さな本を研究室の図書に寄贈するために送ってこられた。こういう細かな配慮がYangが好かれる原因の一つであるのかもしれない。小説『カード師』2020-06-09・小説『カード師』は朝日新聞に現在連載中の新聞小説である。作者は中村文則さん。カード師の私の体験を書いている小説だが、ある人の遺書を私が読んでいるというところらしい。らしいとしか言えないのは私にはちょっと面倒な設定であるので、途中から読むのを諦めたからである。ところが今日は光とは電子とかの波と粒子の2重性の話が出てくる。これは量子力学をまじめに学ぶ人は一度は聞くテーマである。いわゆる二重スリットの話といえば、ああ、あの話なのと分かるくらい有名な話である。もっとも一般の人にこの話がどのくらいわかるかはわからない。朝永振一郎さんのエッセイにこれを簡明に説明したエッセイがあった。「光子の裁判」というタイトルだったか。光は波と思われていたが、これが粒子性をもつものであることは光電効果かとかCompton効果からわかってきた。それで20世紀初頭にこの光の2重性の解釈に物理学者は苦しむことになる。古典物理学的に言うと粒子であるものは波動であるとはいえないし、波動であるものは粒子であるとはいえない。だが、量子力学では光とか電子はその両者の性質をもつものとしてとらえる。それはどういう実験的観測をするかによる。粒子としての位置を測定すると、それは粒子性を示すし、光の運動量をきっちり定めようとする実験をすると波動性が得られる。だったかな?光は波動でも粒子でもない、両方の性質を併せ持つものであるという理解である。これは古典物理学の範疇ではその両方の特性をあわせもつことなどできないが、量子力学ではそれが可能である。いわゆる弁証的統合的理解が必要である。いわゆる、2重スリットでは2重スリットのところで光の位置を観測しないかぎり波として振る舞う。ここを通過した後で光を粒子として観測したときにはその過去が変えられるという風に小説では書いてあったが、2重スリットのところでは何の観測もしていないならば、それは波であったのか粒子であったのかは判定することが出来ないという風に考えると理解している。この話は何十年も量子力学の講義をした来た私にもわからない。私のいまの理解では波としての性質は確率波として理解しており、1個1個は粒子性をもっているのではないかと思っていたが、それも私の思い込みで観測しないときには光が粒子性をもっていたか波動性をもっていたかは何も確定的にいうことができないというのが公式の見解であろう。こういう事実を目に見えるように実験してくれたのが亡くなった、外村彰さんであった(注)。光の粒子は一個一個粒子のようにスクリーン(または写真フィルム)上にやってくるが、それが長時間露光されていると、波動的なふるまいの光の干渉縞が観測される。(注) 外村彰 『目で見る美しい 量子力学』(サイエンス社)は量子力学のテクストとしてはあまり数式の多くない写真の多いすばらしいテクストである。特に66-67ぺージの写真が今回の内容と関係している。この本の価格も2,800円とリーゾナブルである。コンプトン効果を連立方程式の問題にしたら2020-12-02・以前から考えておりながら、なかなか実現しないのが高校数学の連立方程式の練習問題に、コンプトン効果のX線の波長のずれの計算をいれたらどうかと思っている。これは朝永の『量子力学 I』(みすず書房)にこのテーマが取り上げられており、昔一生懸命計算した覚えがある。なかなか計算ができなかったと思う。以前に購入していた『シルヴィアの量子力学』(岩波書店)があるのに日曜に気がついて、その個所だけを読んでみた。面倒そうな式がたくさん出てはいたけれど、それほど難しい計算ではない。どうしてこの問題が難しいと思ったのかはわからない。どうも数学では単に練習問題として出題される無味乾燥な問題が多いが、物理的にも意味のある演習問題であれば、解く人も身が入るのではなかろうかと思う。実は大学を定年退職した後の2年ほどはそういう方式のe-Learningのコンテンツをつくっていた時期があった(注1)。このe-Learningのコンテンツは高校程度だが、理系の大学生で落ちこぼれそうになった人を救うという名目でつくっていた。だが、このe-Learningのコンテンツには三角関数が全く入っていないので、そこを何とかしたいと思いながら、まだうまく三角関数の部分が書けていない。前につくっていた、e-Learningのコンテンツで中性子と原子核との衝突の問題を演習問題として取り上げたことがある。その問題を見て、技術者だった義弟が関心をもってくれた。これは中性子は水の原子と衝突して熱中性子になるための衝突回数だったかに関係している。現在の原発の中性子の減速材としては普通の水を使っている(注2)。どうも原子力だとかだと今はちょっと時代遅れの技術的な問題であるが、80年前くらいはホットな問題であった。(注1)これは私が80歳を越えていて、高校生のことを考えてはいないことの反映である。長い老後生活を楽しむために高校数学だって学んだら、興味深いのではないかという気持ちが強いからである。現役の高校生さん、すみません。現役のときにはこういう楽しさはわからないのは仕方がない。(注2)普通の水と普通でない水があるのかということだが、重水というのがある。これは陽子の代わりに重陽子D_{2}Oでできた水である。高速中性子の減速材としては普通の水(軽水)よりも中性子の衝突回数が少なく熱中性子になる。それで原子炉の減速材として重要視された(注3)。第2次世界大戦中にノールウェイに重水工場があったが、ここをナチスドイツが差し押さえたというので原爆開発をし始めるのではないかという恐れをもった連合国がこの重水工場を襲撃するという映画がある。タイトルは「テレマークの要塞」だったと思う。本当にあった話かどうかは知らない。重水は原爆の材料に直接になることはないと思うが、一般の人は原爆の材料と聞くと納得してしまうところがあるだろう。あくまで原子炉の減速材としての役割だと思う。もっともその原子炉を動かしてプルトニウム239をつくれば、このプルトニウムは原爆の材料になる。日本でも原子炉がたくさん原発での稼働していたので、プルトニウムが蓄積している。これは原爆の材料となる。それで日本の多量のプルト二ウムの蓄積は国際的には日本は原爆をつくるのではないかと、大いに危険視されている。(注3)ウラン235は核分裂するが、これは速度がおそい熱中性子といわれるものによる核分裂の断面積が大きい。天然のウランの99.3%はウラン238でこれは核分裂しない。だが、この多量にあるウラン238が中性子を1個吸収してプルトニウム239となると、これは高速の中性子によって核分裂する。だから、原子炉の中にある一定の割合でプルトニウムを混ぜて高速中性子で核分裂を起こさせることが考えられた。これは普通にはプルサーマルと呼ばれている。こうして蓄積したプルトニウムを消費しようと試みられている。ところが熱中性子による原子炉の制御に比べて高速中性子による原子炉の制御は難しいと言われており、それで原発への信用度が下がっているのが、現状である。原発の燃料のウラン235を燃やした(化学反応で燃やす燃焼とはちがう)後の核廃棄物の半減期が数万年とかと言われているので、この核廃棄物を安全に2万年も保管するかということが問題になるのだが、これはまだまったく技術的に解決していない。特に日本ではどうしたらいいかいいアディアがない。普通に考えられているのは核廃棄物をガラス状に焼結させて、地下深くに貯蔵することである。しかし、その2万年の間にその放射能に汚染された地下水がでて来ないという保証は誰もできない。原発はトイレ無きマンションだと言われる所以である。花粉症2021-02-22 ・私も典型的な花粉症である。毎年2月10日前後から鼻がぐずぐずして鼻汁がとても出る。今年は早めに行きつけの内科の医師に処方してもらった薬のおかげかそれほどひどくはないとはいうものの。もっとも今年は暖かい日もあるので、いずれひどい花粉症の症状に悩まされるであろう。40歳すぎからの花粉症とのつきあいであり、はじめは花粉症という言葉も知らなかったので、風邪にかかったと思っていた。もっとも熱は出ない風邪だが。hey feverという語がヨーロッパにはあることをそのころ知ったのだが、これが日本での花粉症にあたるとは知らなかった。物理学者のハイゼンベルクが若いときからアレルギーに悩まされており、1925年の5月にもひどいHeyfeverにかかった。それでついていた先生のボルンに休暇をもらってHelgoland島に逃避の旅行に出かける。ここで、ハイゼンベルクは量子力学の端緒となるアイディアをつかんで、それをすぐに論文にまとめる。これを読んだ先生のボルンはそこで使われた数学が奇妙であることに悩むが、それはボルンが若い大学生のとき数学で学んだマトリックスであることに気がつく。そして、ハイゼンベルクの論文を発展させる論文を学生のヨルダンと論文を書く。その後休暇から帰ってきたハイゼンベルクと3人でいわゆる三者論文 (drei M”annerarbeit) を書く。これが行列力学と呼ばれた、量子力学のはじまりであった。これは1925年のことである。年が明けて1926年にはド・ブロイの発想に触発されたシュレディンガーの波動力学と呼ばれた、また別の量子力学の論文が発表されることになる。天才は数学だって必要とあれば創り出す。ハイゼンベルクは行列の算法をそれが数学としてすでにあるということを、知らずに発明したのであった。ボルンとかシュレディンガーとかは40歳代であったが、他のハイゼンベルク、ヨルダンとか、また行列力学でも波動力学でもない独自の量子力学を発展させたイギリス人の若い学者ディラックもハイゼンベルクの一年先輩の物理学者パウリもみんな20歳代の前半の研究者であった。それで量子力学はKnabenphysik(少年の物理学)と呼ばれた。ちなみにKnabenは雅語であり、普通の日常生活で話される言葉としてはKnabenという語は使われない。日常での若者という意味のドイツ語はJungeである。いうならば、Knabenはゲーテの詩に出てくるような語である。大栗博司さんの本を手に入れた2021-07-13 ・注文していた大栗博司さんの書いた本を手に入れた。『探求する精神』(幻冬舎新書)である。朝日新聞の書評で物理学者の須藤靖さんが激賞していた。大栗さんには個人的な面識はないが、私たちの発行している「数学・物理通信」の送り先の一人である。大栗さんはもちろん京都大学名誉教授の中西襄先生の友人知人の一人であるから、中西先生からの推薦されたメールアドレスに加わっている。数日はこの本で楽しむことができるであろう。益川さんが亡くなった2021-07-30・先日、Steven Weinbergが亡くなったと書いたばかりだったが、旧知のノーベル賞物理学受賞者の益川敏英さんが亡くなったと知った。昨夜、ドイツ語のオンラインのクラスの途中で、妻がスマホを見て、教えてくれたので、知っていたが、今日の朝日新聞に大きな写真と共に記事が出ていた。名古屋大学の大学院生たちだった益川さんたちが大挙して広島の私たちの研究室を訪れたことはまだ昨日のように覚えている。ほとんど私と同年の人たちであった。みんな、なかなか多士多才の人たちであり、その中でも益川さんはみんなの尊敬を集めているらしいことは分かった。それから何回か私が名古屋の会議にでかけたときにも、友人たちと帰りにどこかに夕食に誘っ てくれた。もう何十年もあってはいなかったが、彼は偉くなっても人柄があまり変わるというふうではなかった。それはノーベル賞をもらった後でも変わらなかったと思う。私よりは1歳年下の81歳だったという。戦争を空襲を受けたという経験で知っている最後の世代だった。学士院賞をもらった後で2021-08-02 ・益川さんが学士院賞をもらった後で私の勤めていたE大学工学部に非常勤講師として来てもらったことがあった。実はその前の年度に来てほしいと要請を研究会に出かけた友人のEさんにことづけしたのだが、その年度はすでに3件の非常勤講師を引き受けていて無理だから、つぎの年は優先して予定に入れておくという話だった。そしてその約束を次の年度には果たしてくれたのであった。もっともそれは彼と小林さんがノーベル賞を受賞するずっと以前のことである。たぶんそのころでもいつかはノーベル賞を受賞するのではないかと思われてはいたが、それでもまだ実験的なevidenceがまだだったと思う。topクォークが発見されたのはそのあと数年してであったと思う。CPの破れの実験的検証とどちらが先だったか。愛媛県出身者としては3人目2021-10-07・真鍋淑郎さんは愛媛県出身者としては3人目のノーベル賞受賞者となった。大江健三郎、中村修二につづいて、3人目である。このうちの2人がアメリカ在住である。すなわち、中村修二さんと真鍋淑郎さんである。二人とも物理学賞の受賞である。もちろん、大江さんは文学賞の受賞者である。大江さんは松山市とも関係があるが、もともとは松山の出身ではない。中村修二さんと真鍋淑郎さんも松山市とは関係があまりない。意外と田舎の方の出身であるのが、独自の個性を生むのに役立っているのかもしれない。科学者は老後に何をするか2021-10-13・昔、「自然」という雑誌が出ていたころ科学者は「老後に何をするか」ということが、その巻頭言か何かで触れられたことがある。物理学者のWeiskopfによれば、1.Do philosophy (哲学をする)2.Do administration (科学の行政にかかわる)3.Do nothing (何もしない)の3つが挙げられたという話だった。それを聞いた朝永さんが 4.Do nonsense (ナンセンスなことをする)をつけ加えられたとか。朝永さん自身は実際には5.Do scientific history (科学の歴史を研究する)をされた。これは著書『スピンはめぐる』(みすず書房)とか『物理学とは何だろうか』上、下(岩波新書)に結実した。特に後者の下巻の熱力学のいろいろな概念の説明は興味深い。これらの著書のうちで、前者『スピンはめぐる』は英訳まで出ている。後者の英訳は出ているのかどうか私は知らない。マックス・ボルン2023-01-17 ・これは「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで雑誌『ひうち』という雑誌に掲載したものである。その中の第4回である。ご参考までにこのブログに掲載する。 (4)マックス・ボルン(Max Born) 1882-197010年以上も昔になってしまったが、ドイツのマインツ大学に留学していたころ、住んでいたMainz-Gonsenheimの近くの森の傍のバスの終点に、M. Bornとのみ記された(小さな)石碑があった。そこになぜ、マックス・ボルンの名を記した石碑があるのか、由来を書いたものが見当たらなかったので結局わからずじまいであった。日曜などに子どもをつれて森を散歩するついでに、よくそこへ立ち寄ってボルンに思いを馳せたものだ。ボルンといっても、たいていの人はそんな名前はご存じないにちがいない。しかし、彼こそハイゼンベルクやシュレディンガーやディラックと並んで「量子力学」の創始者の一人なのだ。特にハイゼンベルクの独創的ではあるが、荒削りの洗練されていない論文から数学的に構造のはっきりした量子力学の理論を抽出したのはまさに彼とP. ヨルダンであった。彼らの量子力学は行列の形で表されるために行列力学と呼ばれている。また、量子力学における状態関数は、粒子がある場所に見い出される確率と関連するという確率波解釈を提唱したり、またボルン近似といわれる粒子の散乱によく用いられる近似法を考案したのも彼であった。ハイゼンベルクの先生の一人であるにもかかわらず、哲学的立場がハイゼンベルクと異なるためか、その評価においていくらか彼はないがしろにされる傾向にある。例えば、ハイゼンベルクがノーベル物理学賞を1932年に受賞したときに、共同受賞したとしてもおかしくかなったのに、ボルンのノーベル賞受賞は1954年であり、ハイゼンベルクの受賞より22年後のことであった。因みに「量子力学」(Quantenmechanik)という語はボルンによるものという。ユダヤ系ドイツ人であったために、1932年から1954年まで、イギリスに亡命生活を余儀なくされた。1954年に帰国し、1970年にゲッティンゲン郊外のバート・ピルモントで亡くなった。私の好きな学者の一人である。(1988.11.20) (2023.1.21 注)Quantenmechanikは英語ならだれでも知っているQuantum Mechanicsである。発音が難しいのでカタカナでつたなくだが、つけておくとクヴァンテンメヒャニークと発音する。ドイツ語をご存知の方はカタカナの発音は無視してください。マイトナー2023-01-26 ・これは『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(12)である。 (12) マイトナー (L. Meitner 1878-1968) いままで女性科学者を一人も紹介していなかった。女性の科学者といえば、だれでもキュリー夫人を思い出す。それほどキュリー夫人は偉大だし、かつ有名である。しかし残念ながら、彼女はドイツ語圏世界の科学者というのははばかられるであろう。ではドイツ語圏世界は著名な女性の科学者を生まなかったのであろうか。そんなことはない。リーゼ・マイトナーやエミー・ネタ―といった名がすぐ思い浮かぶ。力学の「ネタ―の定理」で知られる数学者のネタ―のことは別の機会に譲ることにして、今月はマイトナーをとりあげよう。マイトナーといえば、すぐにペアとなって第1回目に紹介したハーンを思い出す(ベルリンにハーン・マイトナー研究所という彼らの名にちなんだ研究所がある)。マイトナーは、放射線化学者であったオット・ハーンの30年にもわたる共同研究者であった。今日ではあり得ないことだが、昔のドイツでは女性の科学者が大学や研究所の実験室に出入りすることを許可しないというようなこともあったらしく、マイトナーははじめの数年は研究所の木工場の一部を借りて実験を行っていたと言う。 ユダヤ系のオーストリア人であった彼女は、1938年のヒットラーによるオーストリアのドイツ併合と共に「人種法」による身の危険を避けるためにやむなく、ベルリンをはなれてスウェーデンへと亡命する。その直後に、シュトラースマンの意見によって動かされたハーンはイレーヌ・キュリーやフェルミらの実験を追試することになった。綿密な化学実験が何日も何日も続き、その結果ハーンは破天荒な実験結果に達する。すなわち、「天然に存在する最も重い元素ウランに中性子を当てるとできるのはウランよりも重い超ウラン元素ではなく、それよりはるかに軽い二つの元素である」。これがいわゆる「核分裂」の発見である。その意外な結果に驚いたハーンは急いで論文を1938年12月末にNaturwissenschaften誌に投稿すると共にその結果を長年の協力者であったマイトナーに直ちに知らせた。ハーンには自分の発見が何を意味するのかは十分にはわからなかったが、そのことを深刻に受けとめたのはマイトナーであった。彼女はハーンがどれほど緻密にかつ注意深く実験するかを十分知っていたから、その実験事実は疑う余地はなかった。では、ハーンの発見は何を意味するのだろうかと彼女は思い悩んでいた。そこへ、マイトナーの甥の物理学者のオット・フリッシュが伯母とクリスマスの休暇を過ごすためにコペンハーゲンからやってきた。マイトナーは甥の顔を見るやいなや、自分の疑問について議論をふっかける。フリッシュははじめいやいやながらであったが、そのうちに自分も熱心にハーンの発見の解釈についての考察を伯母と共同で行い、結局彼らはいわゆる「核分裂」反応が起こっているという結論に達する。ちなみに、核分裂(nuclear fission)という語はフリッシュによる命名という。こうしてマイトナーはハーンの発見の意味を解明した世界最初の科学者となったが、またわずかな差でノーベル化学賞へのチャンスを逃した科学者ともなった。後年マイトナーはハーンに「1938年にあなたは私を亡命させるべきではなかった」と述べたとハーンの自伝に書かれている。優れた科学者は自己の命よりも研究を優先したい願望をもっているものらしい。(1989.7.14 フランス革命200年の記念日に) (2023.1.26付記)ハーンの回にも核分裂とはなにかを説明できなかったし、今回もその説明はスキップしている。ウラン元素に衝突させる中性子のエネルギーは小さなものである。高速の中性子を当てるのではない。原子炉のことを知っている人は中性子の減速材として軽水とか重水を使うことを知っているであろう。減速されてよたよたの中性子の方が高速の中性子よりも核分裂を起こさせる断面積が大きい。高速中性子で核分裂を起こさせる原子炉もあるが、そういう元素はプルトニウムであり、核分裂を起こさない天然のウラン元素U238が中性子を吸収してプルトニウムをつくり、そのプルトニウムは高速の中性子によって核分裂を起こす核分裂断面積が大きい。そいうふうにしてプルトニウムをつくりながら、エネルギ-を取り出す原子炉を高速増殖炉という。もっともそういう炉は実用化されていない。将来的にも実用化できる見込みはあまりない。フォン・ノイマン2023-01-27 ・これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(8)である。 (8) フォン・ノイマン (J. von Neumann 1903-1957) 天才はしばしば短命である。美人がそうであるように。これは神が多分にその才能や美しさを妬んだためかもしれない。原爆製造に関係して比較的若くして亡くなった天才的科学者としてはエンリコ・フェルミとかフォン・ノイマンがいる。イタリア系のフェルミはドイツ語圏世界の科学者とはいいがたいが、ハンガリーの首都ブタペスト生まれのノイマンは明らかにドイツ語世界の科学者である。ノイマンは数学者であったが、大学でははじめ化学を専攻した。オッペンハイマーとかウイグナーとかいった物理学者もはじめは化学専攻であったそうだから、化学は万学への契機を与えるのであろうか。日本でも、理論物理学者には意外と電気工学出身とか化学出身の人で成功しているが多いのは世界的傾向とまったく似通っている。ドイツのSpringer社の黄表紙シリーズの中にある“Die Mathematsiche Grundlagen der Quantenmechanik” (『量子力学の数学的基礎』)はノイマンが29歳のときの著作という。十年ちょっと前に数学者のY先生からこの本の内容の手ほどきを受けたことがあったが、Y先生もそのエレガントさにしきりに感心されていた。しかし、この本は私のような数学オンチには簡単に読めるような代物ではない。関数解析、量子力学、ゲームの理論、プログラム内蔵型コンピュータの普及発展等々ノイマンの業績はまことにすばらしい。ノイマンは驚くほど記憶がよいだけではなく暗算能力にも優れていたという。しかし、その彼が初期のコンピュータENIACのことを聞いてそれにすぐ夢中になったというのはおもしろい。ものすごい暗算の達人だったからこそ、人間の能力の限界をよく知っていたのだろうか。ノイマンはロス・アラモス(スペイン語でポプラを意味する)の原爆実験場に長くいたために、ガンに侵されたのではないかといわれている。そういえば、ロス・アラモス研究所長であったオッペンハイマーや原爆製造の指導者の一人フェルミ、ごく最近ではファインマンといった人々もガンに冒されて亡くなっている。広瀬隆のノンフィクション『ジョン・ウエインはなぜ死んだか』に述べられているような事実がロス・アラモス関係者に現れるのは当然の結果かもしれない。今世紀初期のハンガリー出身の優れた一群の科学者たちの出現、例えば、ウィグナー、ノイマン、ガボーア、テラー、シラルドも興味津々であるが、このことについては別の機会に譲ることにしよう。「ジョニー(ノイマンのアメリカでの呼び名)は本当は悪魔なんだけれど、人間の中で暮らして人間の真似があまりにうまくなったんで、とうとう自分が悪魔であることを忘れてしまったのさ」と数学者の森毅は『異説数学者列伝』のノイマンの項を書き始めている。(1989.4.15)オッペンハイマー2023-01-30・これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(6)である。(6)オッペンハイマ― (J. R. Oppenheimer 1904-1967)中部ドイツを流れるライン河が北から西へと大きく折れ曲がり、マイン川と合流する地点にあるマインツから南に20kmほどのところにオッペンハイムというワインの産地として有名な小さな町がある。この地がオッペンハイマーの父祖の地であるかどうかは定かではないが、明らかに彼はドイツ系のアメリカ人であり、若くして黄金時代のゲッティンゲンに学んだ。オッペンハイマーの名はマンハッタン計画と呼ばれた原爆開発と分かちがたく結びついており、しばしば彼は原爆の父と呼ばれる。また彼を悲劇の主人公とするのに好都合なことにマッカシーによる赤狩りによって一切の公職から追放されるという経験もしている。栄光からの転落であった。現代のガリレオ・ガリレイといわれる由縁はここにあるオッペンハイマ―の評伝はこうした彼の経歴からか、優れた才能をもった物理学者でありながら、一級の物理学の業績をあげ得なかったために、その代償として原爆開発の指導者としての世俗的な名誉の道を選んだのではないかと述べている。 私もそれは十分にあり得ることと考えるが、このオッペンハイマーの物理学上の評価は現在では変わってきている。たとえばノーベル物理学賞受賞者である、C. N. Yangは彼の最近出版された論文選集の中で、オッペンハイマーの中性子星やブラック・ホールについての先駆的な研究は今日、偉大な物理学および天文学上の業績として認められるようになったと述べている。人の真の評価は棺を覆った後にもなお直ちには定まらないということだろうか。(1989.1.2) (2023.1.30 付記)この文章を書いた後で、オッペンハイマーがブラック・ホールの観測可能性だとかの話題が出るといつもすぐにその話をそらしたとか、F. J. Dysonの書いた文章の中で見かけたような気がするが、定かではない。ちょっと込み入った感情をオッペンハイマーは自分の研究についてももっていた人かも知れない。SchiffだとかBohmの量子力学のテクストの序文にオッペンハイマーへの謝辞が書かれているので、彼が優れた物理教師であったことがうかがえる。本文ではそれについて触れていないのは片手落ちだったかもしれない。朝永振一郎2023-01-31・これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(13)である。 (13) 朝永振一郎 (Sin-itiro Tomonaga 1906-1978) 朝永振一郎と見たとたんに「ええっ、どうして朝永さんがドイツ語圏世界の科学者なの」と不思議がる読者の顔が思い浮かぶ。その通り、朝永は日本の科学者であって、ドイツ語圏世界の科学者ではない。しかし、この一連の記事では表題の意味を広く解釈することにしている。その一例はオッペンハイマーであった。朝永とドイツ語圏世界とのかかわりは1937年の彼のライプチッヒ留学に始まる。当時すでにヒトラーはドイツの政権を掌握していた。当時、理化学研究所の仁科芳雄博士のもとにいた朝永は日独学術交流事業の一環としてライプチッヒのハイゼンベルクのもとへと研究にでかける。 ライプツィッヒの日独学生寮に住み、日本語、日本文学専攻のドイツ人学生とのつきあいながら、原子核物理学の研究を続ける。そのときの滞独日記は現在では『朝永振一郎著作集』(みすず書房)に収められているので、読まれた方も多かろう。そのトーンはその当時の政治情勢を反映してかなにか陰鬱で、センチメンタルでもある。ハイゼンベルクの下にも、ほとんど優秀な学生は残っていなかった。しかし、彼の助手で、後に空軍に入り偵察飛行に出たまま帰ってこなかった、共産主義者のハンス・オイラーは優秀な若い学者として将来を嘱望されていた。ハイゼンベルクもオイラーの才能とその早すぎた死を悼んで自伝『部分と全体』(みすず書房)でオイラーについて一章を割いている。 朝永の滞独日記にもこのオイラーに彼の論文をほめられたとある。このころのハイゼンベルクは「白いユダヤ人」と言われ、ナチへの非協力者として当局からは白い眼でみられていたらしい。ハイル・ヒトラーと挨拶して大学での講義を始めなければならなかったので、あいまいに手を振って挨拶をするハイゼンベルクを何度も見たと朝永は述べている。 さて、「滞独日記」は決して明るいものではないが、その陰で朝永の懸命な研究生活がつづく。ハイゼンベルクの物理的思考法やフィーリングを着実に吸収している。そしてその成果は帰朝後の1943年の超多時間理論、1947年のくりこみ理論へと結実する。敗戦直後の日本で朝永は一躍世界の研究の最前線に躍り出て、アメリカのシュウインガー、ファインマン、ダイソンといった若い天才物理学者と競い合う。そのころ、ハイゼンベルクはくりこみ理論の論文を読んで、あなたの「生きているしるし(Lebenszeichen)」を見たと朝永に書き送っている。 朝永の著した量子力学のテクスト『量子力学I, II』(みすず書房)は不朽の名著だが、特に『量子力学I』は何度読んでも感銘を受ける。純然たるテクスト風の書籍でこんなに感銘を受けるものが他にあっただろうか。 私には朝永の講演を何回か聞く機会があったが、もっとも印象に残っているのはなんといっても、第二回科学者京都会議の直後に広島市公会堂で行われた「平和を創造するための講演会」での彼の講演であった。このとき彼はPugwash会議の歴史と現状について話した。 「このごろPugwashが“平和のために努力する”という意味の動詞として使われ、pugwash, pugwashed, pugwashedと規則変化します。みんなでpugwashしましょう」と朝永が話を結んだときの会場中の笑いとどよめきと深い余韻は今も私の体の中に残っている。(1989.8.30) (2023.1.31付記)朝永さんについて30年を経たいま何か書き加えておこうかということが思い浮かばない。その後にも朝永さんの講演は聞いたことはあったのに。まったく何も考えが思いつかなかったか、それともいろいろと思ったことがあったのだが、忘れてしまったのかは今ではわからない。その後、朝永さんは科学者の原罪みたいな思想を説くようになられたと思うが、その思想にはあまり賛成ではない。(2023.2.1付記)朝永さんの著書に関係したことでは『スピンと角運動量』(みすず書房)のPauliマトリックスの導出の箇所をフォローして「数学・物理通信」にエッセイを書いたことがある。量子力学を学んだ人でPauliマトリックスを知らない人はないが、これはあまりにも有名なのだが、その導出までは知らない人も多いかと思って書いたメモである。『スピンと角運動量』では他の本ではあまり見ない取り扱いも一部あり、その点で長い間わからなかった点があった。頭のいい人に尋ねてみたいと思いながら、それを果たせず、結局自己流に理解して、Pauliマトリックスの導出を説明したエッセイを書いた(「数学・物理通信」9巻10号(2020.2.3)20-30)インターネットで検索すれば、見ることができる)。もとより量子力学では角運動量の一般論を学ぶので、その一般論で角運動量の大きさが1/2 \hbarであると特定して、Pauliマトリックスを導くのも一つの方法ではあるのだが。(2024.1.12付記)上の付記を書いてからほぼ一年後の今思うことは朝永の岩波新書『物理学とはなんだろうか』下巻のIII章(2 熱と分子、3 熱の分子運動論完成の苦しみ) を読んで私の熱力学の認識を少しでも深めたいという気持ちが少し起って来ている。そういうことが私にできるのかどうかは実際のところはわからないが、そういう気持ちがちょっぴり起っていることだけは確かである。ゲーデル2023-02-02・これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(15)である。 (15) ゲーデル (K. Goedel 1906-1978)今月はゲーデルをとりあげよう。ゲーデルについて私の知っていることはほとんどない。私の思いつく手がかりとしてはホフシュタッターの本『ゲーデル、エッシャー、バッハ』くらいなのだが、これが訳本でも765ページの大著ではじめから読む気力を失わせるような本でとても参考資料にはなりそうにない。もっともホフシュタッターの父親はノーベル賞を受賞した物理学者で、私はその昔、学部学生のときの卒業研究のテーマで「原子核の荷電分布」というのを与えられ、ホフシュタッターの論文を読んで、その実験結果を簡単な仮定から再現することを試みるというような行きがかりはあったのだけれど、これはまったく本題からはずれる。ゲーデルはウィーン大学で数学と物理を学んだ後、プリンストンの高級研究所 Institute for Advanced Studyで研究をし、そこで亡くなった。彼は現在のチェコスロバキアのBruno(当時のオーストリア・ハンガリー帝国のBruenn)の生まれというから、正真正銘のドイツ語圏世界の科学者である。彼ほどの数学者がプリンストンで正教授になったのが、46か47歳のときだというから、決して早い方ではない。ゲーデルは天才的な数学者であるノイマンに数学基礎論の研究を断念させるほどすごい学者であったらしい。ゲーデルの業績は「どんな矛盾のない公理系も不完全である。すなわち真か偽か決定できない命題をもつことを証明した」ことにあるという。このことは思想的観点からみてもきわめて重要であるといえよう。公理系がその自己完結性をもたず、つぎからつぎへとつながって行くところが、ホフシュタッターの本『ゲーデル、エッシャー、バッハ』のモチーフでもある。しかし、一つの理論体系が自己完結的になりえないという考えはゲーデルとの関連においてではなく既に私たちは知っている。それは坂田昌一の自然の「無限の階層性」の哲学である。いかに見事な物理法則の体系が完成してもその中にはかならず偶然に支配される現象的な要素があり、それについての考察がつぎの新たな論理を生むというのが坂田の終生変わらぬ信念であった。たとえば、現在の素粒子の標準理論といわれる電弱理論においても対称性の破れといった問題があり、それについてはヒッグス・セクターの問題といった形で現象論的段階のまま残されている。数学基礎論についてのヒルベルトの公理主義の立場ははじめ成功したかに見えたが、結局ゲーデルでの不完全性定理によってその夢は打ち砕かれてしまった。しかし、「形式的公理系は不完全だが、その背後には絶対的な数学的実在がある」とゲーデルは考えていたらしい。この考えは今は亡き遠山啓らの数学協議会に集う人々のとっている立場に非常に近い。ところでゲーデルの不完全性定理に対するゲーデルのこの考えは量子論にはじめて確率概念を持ち込んだアインシュタインがこの確率概念を最後まで本物だと思わなかったことと極めて類似していて興味深い。数学者の倉田令二朗によれば、「ノイマンがプリンストンの悪魔」なら、さしずめ「ゲーデルは魔王」であり、彼は年中、リュウマチ、熱、消化不良、風邪に悩まされ、極度の対面恐怖症のため部屋にカーテンを常に引き、黒眼鏡をかけて部屋の隅にうずくまっていたという。天才たることもまたつらいことだ。我々は凡人であることを喜ぶべきかもしれない。(1989.10.20)ライプニッツ2023-02-03 ・これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(3)である。 (3) ライプニッツ (Leibniz 1646-1716)数学は自然科学の中に入れないという人もあるが、私はやはり数学も自然科学の一つであるという立場をとりたい。それに17世紀のライプニッツの時代には今ほど数学と自然科学とは分離していなかった。いやそれどころか後世に科学として確立する分野の天文学(Astronomie)と化学(Chemie)は占星術(Astrologie)や錬金術(Alchemie)とはそんなに明確には分離していなかった。ところで、微分積分学の創始者としてはライプニッツよりもニュートンの方がよく知られているが、ライプニッツも疑いもなく微積分学の創始者の一人である。高校で学ぶ微分積分学ではもっぱらライプニッツの考案した微分記号や積分記号 が用いられており、ニュートンの用いたといわれるドットと呼ばれる のような記号は大学程度にならないと教わらない。それだけとっても、実際の微積分学への影響としてはライプニッツの方がニュートンよりも大きい。ただし、微積分法そのものの発見はニュートンの方が10年ほど早かったといわれている。私的なことで恐縮であるが、私はこのウナギのような形の という積分記号 ∫ が大好きである。先入観としてそうなのであるから不思議である。微分と積分とはどちらが難しいかといえば、だれでもすぐ積分と答えるし、そうにはちがいないのだけれども、この ∫ を書くたびにひとりでにその形の優美さにほれぼれしてしまう。記号の偉大さとはこんなことをいうのだろうか。とんだ方向に話がそれてしまったが、ライプニッツの科学への貢献には計算機の改良、記号論理学の創始等もある。哲学者、数学者、政治家で百科全書的天才である。ライプチッヒ生まれのライプニッツとはなんだか語呂あわせのようだ。(1988.11.4) (2023.2.3付記)この文章を書いた後で大田浩一(東京大学名誉教授)さんの書いた本を読んだら、彼はドイツ人からライプニッツと発音するのではなく、ライブニッツと発音すべきだと教わったと書いてあった。ただ日本ではライプニッツと発音する人が多いと書かれた独和辞書もある。友人のドイツ人R氏にこの点を糺してみたが、両方の発音があるとのことだったので、決着はついていない。ミュラー、べドノルツ2023-02-04 ・これは以前に「燧」という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載されたものの(2)である。 (2)ミュラー (K. Alex Mueller 1920- )べドノルツ (J. Georg. Bednortz 1950- ) ミュラー、べドノルツと聞いても一般の人はもちろん超電導を専門にしない物理学者は何をした人たちだったんだろうと思うかもしれない。かく申す私もそのうちの一人である。しかし、高温超電導体研究の端緒を与える研究を行った学者だといえば、物理学者ならずとも「ああ、あの超伝導フィーバーを引き起こす研究をした人たちだな」と思い及ぶに違いない。これほど世界を賑わせた画期的な研究は最近あまりなかった。超伝導研究に世間の関心を集めたせいか、マスコミでは物理学の主流は高エネルギー物理学から固体物理学に移ったとまで述べるものが多くなった。液化窒素の温度(零下196度)で冷却することによって超伝導現象を呈するセラミック超伝導体はいままで高価な液化ヘリウムによって冷却しなければならなかった超伝導の世界を大きく拡げてしまった。特にその工学的応用が大きく期待されている。「電力貯蔵」「超伝導磁石による核融合発電」「損失のない超伝導送電」「超伝導磁石による高速モノレールカー」等々。これらは、実際には21世紀以降の技術的課題となるであろうが、だからといってミュラー、べドノルツの発見の価値が低くなりはしない。ミュラーはバーゼル(Basel)生まれのスイス人でチューッリヒ連邦工科大学(ETH Zuercrich)の出身、またべドノルツはミュンスター生まれのドイツ人でミュンスター大学からETHに学んだという。両人とも現在IBM チューリッヒ研究所所属、1987年度のノーベル物理学賞を受賞した。(1988.9.28) (参考文献)1.科学 58巻1号(1988)(岩波書店)2.中嶋貞雄、『超伝導』(岩波新書)ハイゼンベルク2023-02-06・ これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(9)である。 (9) ハイゼンベルク (W. K. Heisenberg 1901-1976) 5月にふさわしいドイツ語圏世界の科学者としてハイゼンベルクを紹介しよう。一般に天才というものは早熟である。ハイゼンベルクもこの例外ではない。彼が量子力学への正しい一歩を踏み出したときまだ23歳であった。 量子力学はパウリによって少年の物理学(Knabenphysik)とまさしく呼ばれたように、ボルンやシュレディンガーのような例外はあるが、若者のための、若者によって創られた物理学であった。このときハイゼンベルク、パウリ、ディラックらの天才はすべて20歳を少しでたばかりであった。 ボルンがパウリに会ってハイゼンベルクの量子力学の構想をはっきりと数学的に定式化するのに協力してほしいと申し出たとき、パウリは毅然としてこれを断ったという。当時すでに40歳を越えていたボルンのような「老人」は量子力学のような若者の物理学に首を突っ込むべきではないというのがパウリの考えであったという。パウリの強烈な個性に辟易するボルンの姿が目に見えるようだ。 それはともかく、ハイゼンベルクが彼の正しい量子力学、すなわち行列力学へのきっかけをつかんだのは1925年5月のことであった。彼はひどい枯草熱にかかったためにそれを避けるために休暇を申し出てヘルゴランド島に出かける。ここで彼は自分の研究を仕上げたのであった。 枯草熱(Heufieber)とはどんな病気なんだろうと私は長年疑問に思ってきた。山崎和夫訳のハイゼンベルクの自伝『部分と全体』(みすず書房)にもユンクの『千の太陽よりも明るく』(文芸春秋新社)の訳にも枯草熱と訳されているが、枯草熱とは花粉症のことらしい。天才ハイゼンベルクも我々と同じ花粉症に悩まされていたと聞いて、ぐっと身近に感じるのは私だけではあるまい。 彼が1967年に日本にやって来たとき、私も彼の英語での講演を聞いたが、内容はよくわからなかった。プラトンとかイデアとかそんな言葉のみが頭に残っている。がっしりした体格で頭の前の方が禿げ上がっていたのを記憶している。晩年の写真としてよく見かけるあの風貌であった。伝記等にある写真でよく見かける、あのさっそうとした若者の姿はどこにもなかった。 その講演のつぎの日は雨で私は大学に行かなったが、ハイゼンベルクは宮島への観光をキャンセルして、私の先生のO教授と物理の話をしたらしい。O教授の部屋からニコニコと上機嫌(in guter Laune)で出てくるハイゼンベルクを見たと友人の小林正典君(故人、岐阜大学名誉教授)から後日聞いた。 1976年4月から1年間ドイツで研究生活をすることとなった私はモスクワ、コペンハーゲンを経由して、この年2月1日にフランクフルトに着いた。後で知ったことによると正にこの日にハイゼンベルクは死去したのであった。そのことをその後、知ったとき、なんだかドイツの科学のロマンの時代が終わってしまったと感じたものだ。 ハイゼンベルクの業績は多岐にわたっている。量子力学の創設は彼の一番大きな業績であろうが、その他に不確定性関係(不確定性原理と普通呼ばれている)や場の量子論、原子核の構造、強磁性体の理論、非線形場による素粒子の統一理論等どれ一つとってもすばらしいものである。(1989.5.5) (2023.2.6付記) 北海の島でリゾート地のヘルゴラント島はいつだったかテレビで見たところでは海岸の崖が赤くてそれが印象的な島であった。岩がごつごつしていてあまり草花が咲かないので枯草熱が悪化しない理由であるとか聞いた。枯草熱とは、春先の草花とか木の花とかが咲くころに40度近い熱が出て体調が不調になるのだということをアメリカに長く留学していたことのある、元同僚から教えてもらった。この方も春先には鼻の頭を赤くされるほどの花粉症であった。日本では花粉症は鼻汁がすごく出るのが普通かと思うが、枯草熱は鼻汁が出るとはあまり聞かなかったような気がする。むしろ高熱が出て気分がとてもわるいのだという。 私も花粉症なので、花粉症の悩ましさはわかっているつもりだが、私の花粉症は高熱が出ることはない。2月のいまごろから4月終わりまでの花粉症は毎年悩ましい。(2024.4.1付記)Heisenbergの行列力学を知るには朝永振一郎の名著『量子力学 I』(みすず書房)を読まれるといいだろう。促成栽培的に量子力学を学ぶためにはこの書はちょっと遠回り的なので、はばかられるが、それでも読んでわくわくする書である。純粋の科学書でこういうわくわく感を他の書では残念ながら、感じたことがない。こういうわくわく感を読者に感じさせる本を書ける人はどんな方なのであろうか。(2024.9.4付記) 現在のNHKのラジオのドイツ語講座「まいにちドイツ語」で今月にはHelgolandが舞台となっている。またNordseeのWattenmeerが先月だったか話題として出てきた。私のブログではHeisenbergに関係してHelgolandについて述べたことがあるし、NordseeのWattenmeerについても述べたことがあった。もっとも私自身はHelgolandに行ったこともないし、NordseeのWattenmeerも見たことがないのだが。(2024.11.4付記) このブログではNordseeのWattenmeerについてもどこかに書いてあるのだが、読者にそれを検索して探せというのも不親切なので付言する。Wattenmeerは引き潮のときにずっと何キロメートルも干潟のできる海のことをいう。Nordseeはそういう海らしい。フランスの有名な観光地であるモン・サンミシェルも北海に面しており、ここも干潟が沖合に向かって引き潮のときに干潟ができるらしい。そしていまではそういう人もいないだろうが、満ち潮のときには馬車で駆けてくるくらいの速さで潮が満ちてくると聞いている。昔はそれで引き潮のときに沖合まで歩いて出てしまって潮の満ちるのが早くて溺れて亡くなった方がいるとか噂で聞いている。Wattemeerという語は私のドイツ語の教師でもあるドイツ人のR.R.氏から教わった語である。日本で普通にドイツ語を学ぶ学生なら、こういう語は中級にならないと知らない語であろう。 パウリ2023-02-07 ・これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(10)である。 (10) パウリ (W. Pauli 1900-1958) ハイゼンベルクといえば、すぐにペアとなって思い出される科学者として今月はパウリを紹介しよう。パウリはハイゼンベルクの一つ年上でミュンヘン大学のゾンマーフェルトの学生としてはハイゼンベルクの先輩である。ハイゼンベルクが野や山やWanderungを好み、「太陽の子」と呼ばれたのとは対照的に都会を好み夜毎に酒場に姿を現したという。性格的にも正反対のこの二人は終生深い友情で結ばれていた。 パウリはウィーンの出身でゾンマーフェルトのもとで20歳になるかならぬで相対性理論についての論文を書いた。その理解の深さ、透徹した論理や鋭い批判によってこれを読んだ人は誰もこれが20歳の若者の作とは信じなかったという。日本でもゲージ理論の先駆的な研究で有名な内山龍雄氏を驚嘆させている。 パウリはまた「パウリの排他原理」の名で知られる事実を雑多な実験事実の中から本能的にかぎだした。現在では、「排他原理」は美しい数学的形式で表され、このことから「排他原理」はこの方式ではじめて定式化されたのかと思いがちなだが、実はそうではない。 パウリはあまりに批判的でありすぎたために、彼によって事前につぶされたいくつかの発見があり、その中でとりわけ有名なのはクロニッヒによる電子のスピンの概念の提唱がある。クロニッヒはパウリがこのスピンの考えに賛成しなかったために、電子のスピンについての自己の考えを発表するのを見合わせた。その直後にオランダのライデン大学のエーレンフェストの学生であったウーレンベックとハウトシミットが電子のスピンの考えを提唱し、このときは何故かパウリはそれほど反対しなかったために、電子のスピンの概念の提唱は彼らによるものとなった。 しかし、意外に決定的なところでパウリは彼の肯定的な裁可を与えている。それはハイゼンベルクの量子力学の着想に関してである。ヘルゴランド島から休暇の帰途、当時ハンブルクにいたパウリを訪ねたハイゼンベルクは彼の量子力学の着想をパウリに話したが、ここでパウリはそれについて彼の支持を与えたのであった。ハイゼンベルクにとってパウリの支持は他の誰の支持よりも心強く感じたにちがいない。 パウリはもちろんハイゼンベルクの才能をよく認識していたにちがいなかろうが、事毎にきびしい批判的言辞を披露してはばからぬパウリが認可を与えたというのはやはり彼の天才的な直観によるものであろうか。その直後パウリは水素原子の問題をハイゼンベルク流の行列力学の手法で解いてみせ、世間をあっと言わせた。そしてこれが行列力学の信用をつとに高めたのであった。しかし、この方法はとても複雑をきわめるために私たちが水素原子の問題を大学で教える際には、よりやさしい波動力学的手法によることがほとんどである。 その後、ハイゼンベルクと組んでの「波動場の量子論」の論文はその当時の場の量子論の集大成でもあった。さらにベータ崩壊に関してエネルギー保存則が確率的にしか成立しないのではないかと言われたときに、「ニュートリノ」という未知の粒子を導入してこの困難を救ったのもこのパウリであった。そして、この粒子は数十年後であったが、実験的に発見された。 彼の著した量子力学のテクスト『波動力学の一般的原理(Die Allgemeinen Prinzipien der Wellenmechanik)』はディラックおよび朝永の量子力学のテクストと共に量子力学の三大名著と言われている。 パウリは第2次世界大戦中はアメリカやスイスにいて、純粋な物理の研究に従事し、他の大多数の物理学者とは異なり、軍事研究には関係しなかった。その点で、ナチス治下のドイツで原子力研究に従事したハイゼンベルクやその周りの人々について彼がどのように感じていたかはとても興味のあるところである。 死の直前になって、パウリはハイゼンベルクと再び一つの共同研究を行っていた。これが世にいう「宇宙方程式」である。しかし、あるときパウリはハイゼンベルクと意見を異にし、ある学会において厳しい口調で彼を非難し始める。その批判は遠慮会釈もなく猛烈を極めたものであったという。その場に同席した物理学者でノーベル賞受賞者のC. N. Yangは、激昂しているパウリに対してそんなときでも冷静さを保っているハイゼンベルクの姿に感銘を覚えたと語っている。 「物理学の法王」といわれたパウリは59歳で世を去った。日本でも湯川、朝永、坂田、武谷といった素粒子物理学者の中で坂田が一人、59歳の若さで世を去ったが、人の良い点をみて、悪い点をあげつらわなかったという点で坂田とパウリはまったく正反対の極致にあると思われる。しかし、政治的、学問的信条において自分の信じる点を譲らなかった点では坂田とパウリは相通じるものを案外持っているのかもしれない。(1989.6.6) (2023.2.7付記)この「ドイツ語圏世界の科学者」も残りが少なくなってきた。昨日のハイゼンベルクと今日のパウリはそのハイライトであろうか。同じ物理関係のブログのkouzouさんと同じ人を取りあげることになっているかもしれないが、視点はまったくちがうはずである。もともとこれらの記事は雑誌「燧」に掲載される前にパンフレット”Zeitung der deutschen Gruppe in Ehime”に毎月掲載したものである。これはNさんという方が始められた松山でドイツ語を学ぶ小さなグループがdeutsche Gruppe in Ehimeであった。それに関係していたドイツ人の友人R氏がNさんに共鳴して出されていた、小冊子が”Zeitung der deutschen Gruppe in Ehime”である。別にR氏から特に強く勧められたというわけでもなかったが、彼に協力するということもあって書き続けたと思う。それをまとめて、その後に雑誌「燧」に掲載したといういきさつがある。これまでこれらのエッセイが読者を十分に得たとは思わない。このブログでの発表によって何回目かの発表したことになるが、これを読んでまったくの的外れのエッセイだとかいうような批評はどこからもまだもらったことがない。ヨルダン2023-02-08・これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(11)である。 (11) ヨルダン (E. P. Jordan 1902-1980) 後年ワインの当たり年として知られるようになった1976年の5, 6, 7月はドイツ、いや、ヨーロッパではカンカン照りの日照り続きであった。私たちの住んでいたマインツ郊外のWohnungの前庭の芝もこのときほとんど枯れてしまった。雨が降らないため、渇水で庭に水を撒くことも自制するようにとテレビ、ラジオで放送されていたらしい。何日も何日もほとんど雨らしい雨も降らないために空気が乾燥しているせいか喉がからからに乾く。一般にヨーロッパでは5月、6月は一年で一番よい季節で晴れたよい天気が続くのが普通だ。しかし、この年は少し異常だったようだ。あくまで澄んだ空をジェット機のつくる飛行機雲のみが幾条もの白い直線となって残り、やがて消えていく。私たちの町からフランクフルト空港へは車で30分くらいのせいか、この飛行機雲の絶えることがない。 このころのある日、私たちのWohnungのブザーが鳴った。誰だろうと玄関口に降りて行ってみるとE大学の素粒子論の研究仲間である、Eさんであった。彼は7月8日からアーヘンで開かれる「ニュートリノ国際会議」に出席するために昨日ブラッセルに着き、すぐに飛行機を乗り継いでフランクフルトからマインツにやって来たという。 私たちは数か月ぶりの再会を喜び合った。数日して彼はアーヘンに汽車で行き、私は家族と一緒に車でアーヘンへと出かけた。学会本部で郊外に宿を斡旋してもらい、そこからアーヘン工科大学の講堂で開かれている学会へと通った。 何日目かの朝、会場の方へ歩いて行くとマインツ大学のKretzschimar教授が大急ぎでやってくるのに出会った。「どうかしましたか」とたずねると、「ヨルダン教授の講演があるのです。ヨルダン教授を知っていますか」という。「もちろん知っています。私もその講演を聞きに行くところです」と答えると、「では急ぎなさい」と言い残して彼は足早に先に行ってしまった。後からふうふういいながら会場に入り、真ん中の少し前の方に席を見つけた。会場はすでにほぼ満員である。 アーヘン工科大学のFaissner教授のヨルダン教授の紹介に引き続いて、ヨルダンの「ハイゼンベルクの思い出」と題する講演がドイツ語で行われた。内容はほとんどわからなかったが、「Drei-Maenner Arbeit(三者論文)呼ばれる著者である、ボルン、ハイゼンベルクと私は・・・」というところだけはなぜか耳に残っている。 私たちのように量子力学をすでにできあがった学問として学んだ者はもうこの三者論文を勉強したりはしなかった。しかし、『量子論の発展史』(中央公論社)の著者である高林武彦氏によれば、この三者論文とシュレディンガーの一連の波動力学の論文とはまさに横綱相撲でまことに堂々としたものであるという。 老齢のためだったのか、または、病後であったのかこのときヨルダンは椅子に腰を下ろして話をした。白髪でハイゼンベルクより長身に見えた。謹厳な風貌の人で、講演の後、聴衆の拍手に手をあげて応えられたのがいかにも印象的であった。それから数年してヨルダンは亡くなった。 ヨルダンはハイゼンベルクより1歳年下で、パウリ、ハイゼンベルク、ヨルダンの3人は引き続いてボルンの助手をつとめた。ハイゼンベルクの量子力学の着想に触発されたボルンが量子力学の数学的定式化の研究にとりかかろうとしてパウリの協力は断られたが、すぐさま年は若いが俊秀のヨルダンを口説いて彼の協力をとりつけ最初の論文「量子力学について」を夏休みを返上して完成する。そして、9月には夏休みから帰ってきたハイゼンベルクも加わって三人で「量子論についてII」を11月には仕上げていた。それと前後してイギリスの天才物理学者ディラックの論文が現れる。年が明けて1926年はじめにはシュレディンガーの波動力学と呼ばれるようになった一連の論文が出現し、量子力学の数学的形式は完成するのである。 ヨルダンの業績は他に量子力学の変換理論、星の生成、宇宙の進化等があり、また量子生物学を提唱したという。(1989.6.17) (2023.2.8付記)明日はシュレディンガーについての記事を載せるつもりだが、これでほぼ物理学者の連載エッセイは終わるが、あと生物学者とか医学者が一人二人残っている。さらにこの連載のエッセイではないが、他のところに書いたエッセイが2編ほどある。それがどこかにあるので、探すつもりである。シュレディンガー2023-02-09 ・ これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(18)である。 (18)シュレディンガー (E. Schroedinger 1887-1961) 一夜明ければ大スターになっていたとか大学者になっていたとかいうのは、映画スターとか学問を志す者の実際には果たすことのできない夢であろう。 ちょっと見たところでは、シュレディンガーはそのような夢を実現した稀有な人と思われる。1925年、ゲッチンゲン大学のボルン、ハイゼンベルク、ヨルダンの三者による「行列力学」の創成によって量子力学の一つの正しい定式化が行われ世を賑わした。ゲッチンゲン、ミュンヘン、コペンハーゲンといった当時の学会の主流からすこしはずれたところのチューリッヒ大学の教授であったシュレディンガーの大活躍が1926年の年明けとともに始まる。 「固有値問題としての量子化(Quantisirung als Eigenwertproblem)」と題する一連の論文が1926年の前半の半年ほどの短期間にあいついで、雑誌Annalen der Physikに現れる。ハイゼンベルク流の行列形式の量子力学の難解さに辟易していた当時の物理学者にとって、これは干天の慈雨にも似たものであった。さらには、やはりこの年にボルンたちの行列力学と彼の波動力学とが数学的に同等であることを彼は示した。これらの研究はもちろんド・ブローイの物質波の仮説やアインシュタインの論文に刺激されてできたものではあったが、だからといってシュレディンガーの天才を疑うべきではない。 1926年にはシュレディンガーはすでに40歳近くでディラックやハイゼンベルクのような若者とはもう言えなかったが、それだけ力量も充実していたということだろう。ボルン、ハイゼンベルク、ヨルダンが共同して行列力学を創り上げたのと対照的に独力で波動力学を創り上げている。 高林武彦は『量子論の発展史』(中央公論社)において彼の仕事はまさに横綱相撲にふさわしいと述べている。もっともシュレディンガーが提案した波動方程式(彼の名にちなんでシュレディンガー方程式と呼ぶのが普通だが)を彼は最初解くことができなかったそうだ。その解き方については当時チューリッヒ工科大学(ETH)にいた優れた数学者ワイルの手を煩わせたという(注 2023.2.9)。 私たち凡人は数学を学んで、それを用いて何か研究しようとするが、天才たちはそんなことをする必要がない。必要とあれば、自分で数学だってなんだって創り出してしまうのだから。例えば、ハイゼンベルクが量子力学のために考案した妙なかけ算はボルンによってそれが行列のかけ算だとわかったし、ディラックは量子力学のためにデルタ関数を創り上げた。シュレディンガー方程式の解法も、現在では境界値問題として知られている、その当時としては新しい解法を必要としたのであった。また、アインシュタインの一般相対性理論の構想は、数学者にとってはすでに知られていた、テンソル解析とリーマン幾何学にもとづいたものといわれ、アインシュタインは数学者にすでに知られてはいたが、彼には未知のものであったリーマン幾何学のいくつかの定理を再発見したという。 思わぬ方向に話がそれてしまった。シュレディンガーに話を戻そう。1933年シュレディンガーはベルリン大学教授の職をなげうってオックスフォード大学へと移っていく。彼はユダヤ人ではなかったが、ナチスの行ったユダヤ人同僚に対する教授職の解任や追放等に対する抗議の気持を強く持っていたためという。その後、紆余曲折を経て結局はアイルランドの首都ダブリンの高等科学研究所に落ち着き、1956年に故国オーストリアのウィーンに帰るまで、そこで研究生活をおくる。 シュレディンガーは哲学的傾向の強い学者で、それも素朴な実在論者であり、波の重ね合わせとして粒子をつくりあげるという基本的なアイディアを抱いていた。また、波動関数ψは粒子の電荷密度を表すものとして素朴にイメージしていたらしい。 このイメージはボルンが1926年に初めて提唱し、ボーア等の綿密な吟味を経て、その後はコペンハーゲン解釈と呼ばれるようになった波動関数の確率解釈という学会の正統的見解とは根本的に相容れない見解であった。シュレディンガーは波動力学と呼ばれた量子力学の一つの形式の生みの親ではあったが、この波動関数の確率的解釈は彼にとっては生み落とした鬼子のようでもあったろうか。(1990.11.22) (注 2023. 2.9)波動幾何学の創始者である、三村剛昂先生は私の学生時代に定年退職されたが、シュレディンガーは彼の方程式をワイルに解いてもらったという話を彼からじかに聞いたような気がするが定かではない。これは彼の講演を聞いたときに彼の話に出たのか、それとも竹原市にあったH大付属の理論物理学研究所に私が行ったときに個人的に三村先生から直に伺った話であったかはいまではわからない。 (2023.2.9付記)このシュレディンガーをもって「ドイツ語圏世界の科学者」の数学者と物理学者、化学者の記は終わる。まだ残っているのは生物学者のローレンツと医学者のコッホである。明日以降にはこれらの人についての記を述べよう。 いずれにしても物理学者を中心とした「ドイツ語圏世界の科学者」は実質的には終わった。コッホ2023-02-10・これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(16)である。 (16)コッホ (R. Koch 1843-1910) 年も改まって1990年となった。ヨーロッパ、特に東欧世界の1989年の政治情勢の変動は、情報通の人々の予想をもはるかに上まわっていた。東欧世界の自由化の兆しを喜ぶ一方で、我々の「自由」世界がこれでいいのかと本当に疑問に思う。例えば、記録映画「核分裂過程(Kernspaltung)」に見られるような国家権力や地方政府当局の市民への抑圧や市民の抗議行動について報道をしないといったことは別に核廃棄物処理工場の建設を強行しようとした西ドイツのバッカスドルフについてだけ見られる現象ではなく日本においてもしばしば見られるものだからである。 前置きが長くなったが、今月はコッホをとりあげよう。コッホは結核菌やコレラ菌、羊や牛の病気である炭疽病の病原菌を発見したこと、および、ツベルクリンの創薬等で知られている。これだけを聞いたら、コッホは大学とか研究所に勤める学者、いや現代風に言えば、研究者のように思えるだろう。しかし、彼の伝記によれば、炭疽菌や結核菌の発見は彼が一介の田舎医者だったり、保健省の役人だったりしたときに行われたものだという。数学者ワイヤストラウスが高校の教師をしながら、偉大な数学研究を行ったと同じように。その後、コッホはベルリン大学教授になり、伝染病研究所の所長となったが、彼の研究の方法はすでにそれ以前に彼の手によって独自に形成されたものであった。 パスツールが発酵や腐敗は微生物の作用によることをすでに確立していた時代ではあったが、それでも病原菌についてのいろいろな研究方法はまったく確立していなかったし、それについての専門的教育も専門家も存在していなかったときだけに、このコッホの研究の独創性はいくら高く評価しても評価しすぎることはないだろう。低温殺菌法を意味するpasteurizationという用語に名を残したパスツールの方が「微生物の狩人」としてはわずかに先駆者であろうが、我々は非常に多くのものを医学の分野でコッホに負っている。 パスツールと彼より約20歳も年下のコッホはライバルで、「犬猿の仲」であったという。これはいくつかの分野で二人の研究が交錯していたことによるらしい。それはともかく川喜田愛郎の『パスツール』(岩波新書)によれば、1880年代のはじめを境にして、病原微生物学の主流はパスツ-ル学派からコッホとその学派に移ったという。 一医学生のころ遠い異国を旅する冒険旅行家となることを夢見たコッホは、妻からの贈物の顕微鏡によって人類の知らなかった微生物の世界を旅することとなった。彼の若いときの夢は形を変えてではあるが、実現したといえるだろう。(1990.1.4) (2023.2.10付記) こういう伝記まがいのエッセイを書くためにはそれなりの読書が必要であり、執筆当時は数冊の本を読んだりしている。このシリーズ以外でもあまり長くではないが、数人の科学者について書いたことがある。もう一人でこのシリーズ「ドイツ語圏世界の科学者」は終わるが、その後にもなお数人の科学者についてのエッセイを書くことができるだろう。その原稿がうまく残っていればの話ではあるが。ローレンツ2023-02-13 ・これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(14)である。 (14)ローレンツ (K. Lorenz 1903-1989) 今年(1989)の2月末に動物行動学者のローレンツが85歳で亡くなった。雑誌「科学朝日」の5月号で京都大学教授の日高敏隆さんが思い出を書いていたので、すぐにでもローレンツをとりあげるつもりでE大学法文学部のUさんにSpiegel(1988年11月7日号)での彼の最後となった対話の記事のコピーとかローレンツの対談「Leben ist lernen」(Piper)とかを借りたが、なにせドイツ語が十分読めないので、そのままになっていた。せめて日本語に訳された『攻撃』くらいは読んでから、ローレンツのことを書こうと思っていたが、それも果たせそうにない。雑誌「みすず」(1989.8月号)にSpiegelの対話の部分の訳が出たのでそれらを頼りにはなはだ不十分だが、ローレンツについて述べてみよう。ローレンツの業績は一口に言って動物行動学とか行動生物学とか言われる学問分野を確立したことにある。『生物学辞典』(岩波書店)によれば、「放し飼いにした動物、特に鳥類(ガン、カモ類、カラス類)や魚類(シククリット類その他)の行動について、厳密な認識論に裏付けられた観察を行い、リリーサーの概念をはじめ、行動の生得的解発機構の認識を打ち出して、行動生物学を確立した」とある。「厳密認識論」というものがどんなものかも知りたいが、それはおいておくとしても、上の文章を読んですぐ何のことかわかるだろうか。専門家の方は別として、何を言おうとしているのかよくわからないのが本当だろう。リリーサーという専門用語は別としても「解発」という語もいくらか専門用語的で普通の日常生活では使わない。例えば、カモメが危険を知らせるための鳴き声をあげれば、そのひなが逃げ隠れするといった行動をする。このような、その動物に特有の行動を引き起こすメカニズムを動物というものは生まれながらに持っているものだというのである。そして、そのような行動を引き起こすもとになる特性、上の例では、カモメの危険を知らせる鳴き声をリリーサー(releaser, Ausloeser)というらしい。いつでも学問というものはしゃちこばってとっつきにくいものだ。日常の言葉で言ってもらえれば、すぐに了解できることでも改まって専門用語を用いて言われるとなんのことだかわからなくなることはしばしばある。市民運動等においてもいわゆる科学者でない市民はいつでも日常の言葉で科学者に言い直してもらう必要があろう。ローレンツは上に述べたような業績によってフリシュ、ティンバーゲンとともに1973年ノーベル賞を受賞した。ローレンツが「私たち人間が行う行動は石器時代の人々が行った行動と同じように本能に縛られている」というとき、ほかならぬ人間自身もローレンツから見ればカモとかガンとかいう動物と同じ動物であると考えられていると言った点はひょっとしたら物議をかもすところだろう。しかし、私はローレンツのいうことの方が真実を衝いていると思われる。人間は地球というある種の生き物の中に巣食うがん細胞なのかもしれない。すなわち、自分たちを破滅に導くまで本能の赴くままに自己増殖し、環境を破壊するといった点で、もう一つだけ触れておきたい点は、第2次世界大戦下でのローレンツとナチスとの関係である。ローレンツのいい方によれば、「自分の関心事に重点をおくあまりに政治的問題を避けてきた」とのことである。音楽界の巨匠フルトベングラーとか哲学者のハイデッガーとか対ナチ協力のかどで非難される学者や芸術家は多い。ローレンツは積極的ではなかったとしてもその点については非難されてもしかたがないようである。しかし、私自身が同じ状況におかれたらどうするだろうかと考えるとき答は簡単に見つかりそうにない。(1989.9.26) (2023.2.13付記) このローレンツをもってもともとの「ドイツ語圏世界の科学者」の再掲載は終わる。あと数人ドイツ語圏世界の科学者」について書いたことがあるので、その原稿が見つかればあと数人について述べることができるであろう。ガリレオ・ガリレイ2023-02-15・ これは「力学の道草」というエッセイの一つである。 ガリレオ・ガリレイガリレオ・ガリレイ(1564-1642)は近代科学の父と言われる。彼は哲学的・思弁的であった、それまでの科学に実験的な手法を導入して仮説を検証するという方法を意識的に導入したのであった。フィクションなのか事実なのかははっきりしないが、ピサの斜塔から重い砲丸と軽い銃弾とを一緒に落として、それらがほとんど同時に落ちるということを実験的に示したといわれている。アリストテレス(B.C. 384-322)の力学体系では思い物体ほど速く落下すると考えられていたので、スコラ哲学者たちはその事実を認めることを拒否したという。望遠鏡をつくり月面が凹凸していることを観測したり、木星に衛星が存在することを発見したり、コペルニクスの地動説を支持して宗教裁判にかけられ、ローマ法王庁からその説の撤回を迫られて、仕方なく自説を撤回したものの「それでも地球は動いている」とつぶやいたとか。当時の宗教裁判の過酷さはその一端をたとえば、ウンベルト・エーコ原作でショーン・コネリー主演の「バラの名前」に見ることができよう。しかし、武谷三男か森毅だかによればガリレオ。ガリレイは論争術にも優れた自信満々の男で宗教裁判にかけられてへこむような男ではなかったともいわれる。ともかくエピーソドには事欠かない。少年のころ教会の天井からぶら下がっているランプも揺れる周期を自分の脈拍を用いて測り、振り子の等時性を発見したという。まさに天才の名に値しよう。ガリレオ・ガリレイの一番大きな業績は地上の物体の運動学を樹立したことである。うまく斜面を用いて落下運動を研究し、現在知られている落体の運動法則を確立した。すなわち、自由落下運動は等加速度運動であり、重力は落下物体の速度に単位時間当たり一定の変化を引き起こすことを把握していた。また力が働かない物体は等速直線運動をするという「慣性の法則」をも認識していたのである。ガリレイが実験を盛んに行ったというのは後世の人たちの創り出した虚像で本当は思考実験的な研究が主であったという説もあるが、最近亡くなったある学者の詳細な研究によれば、やはり実験を主にして仮説を検証するといったことは後世の人の創り出した虚像ではないらしい。(1995.3.3) (2023.2.15付記)これは『数学散歩』(国土社)にも収録された「力学の道草」というタイトルのエッセイの(2)である。これは工学部の材料工学科の力学演習を3人の教員グループで受け持っていたときに、同僚のK教授から演習資料の埋め草に書くことを勧められたものである。そういう事情を『数学散歩』にも書いていない。ここではじめて明かす事情である。このことを知っている人は私も含めて3人しかいない。ニュートン2023-02-16・ これは「力学の道草」という続きのエッセイの一つである。 アイザック・ニュートン (1642-1727) ニュートンはガリレオ・ガリレイが亡くなった年に生まれた。ニュートンは数学においては微積分学をつくり、物理学においては古典力学の体系を完成した天才である。もっとも微積分学はニュートンが力学をつくるのに必要として考案したのだから、無限小を取り扱う数学である微分積分学は力学の付属品と考えるべきかもしれない。最近では力学との関係において微積分を教えようとする試みもされているが、現状はむしろ力学との関連を考えずに教えられているのが実態であろう。 ニュートンの伝記を読むと先駆者としてのデカルトの業績が大きく彼に影響を与えているように思われる。特に微積分学についてはデカルトの「座標幾何学」の影響はとても大きいのではないだろうか。力学の面から見るとすでにガリレオ・ガリレイだとかケプラーだとかの先駆者がいたし、その成果を受け継ぐといった面が彼には多分にある。ニュートンの、力学への進展への本質的な寄与は「加速度は力に比例する」ことをはっきりと認識したことにある。 晩年になって「私は仮説をつくらない」といったとか「自分は海辺できれいな貝殻を拾って喜んでいる子供のようだ」といった謙虚に思えるような言動のみが巷間に伝えられているが、どうしてどうしてそんな一筋縄で捉えられるような人物ではない。 普通の金属を金に変える錬金術の研究に没頭し、また神学に凝って聖書に出てくる事実がいつの年代であるかという研究を何十年もするなど性格的にも奇妙な側面をもっている。ちなみに言うといつかドイツで会ったオランダ人の若い神学者に初対面のとき「神学ってなんですか」と尋ねたら「神の歴史を研究することです」と答えてもらった。私の「神学」についての知識はそれ以上をいまだに越えていない。 ニュートンは現代風に言えば造幣局の長官にあたる職を長年にわたって務めているし、万有引力(最近では重力という)の発見とか微積分学の発明とかにおけるプライオリティを強固に主張するなどと世俗的な名誉欲もけっこう強い人である。 ニュートンといえばまず力学とか微分積分学とかを考えるが、光学をずいぶん長年にわたって研究し、太陽光はいろいろな色の光が混ざっていることを発見したのはニュートンであることは意外に知られていない。また、ニュートン-コーツ公式という数値積分法、ニュートン-ラフソン法といった高次方程式の解を求める方法やニュートンの冷却の法則といったところにもニュートンは名前を残している。(1995.3.16) (2023.2.16付記)このニュートンの記述でもって科学者のエッセイを書くことを終わる。昨日も書いたかもしれないが、他にも科学者の短い伝記めいたものを数編書いているが、このブログに掲載するには長すぎるということで、このニュートンで科学者の伝記めいたエッセイを終わりにする。科学に関心のない方にはちんぷんかんぷんであったかもしれない。その点はご寛恕をお願いしたい。エンリコ・フェルミ12023-02-20 ・これは「技術と科学の歴史を考える」というタイトルの講義の後半を私が担当したときの「原爆製造と原子核物理学」というサブタイトルの講義の中の人物評伝の一部のエンリコ・フェルミの前半である。Enrico Fermiについては参考文献のセグレ『エンリコ・フェルミ伝』(みすず書房)を読んでほしい。また、Fermi夫人である、ラウラ(Laura)の著した『フェルミの生涯ー家族の中の原子』(法政大学出版局)が夫人から見たEnricoの伝記である。Segreによれば、Fermiのもっとも偉大な業績を3つ挙げれば、つぎのとおりである。1.フェルミ統計の発見2.ベータ線崩壊の理論3.中性子の実験的研究、特に遅い中性子による核反応の発見および原子炉における連鎖反応の達成この中でも2のベータ線崩壊の理論を私個人はもっとも重要なフェルミの業績と考えているが、ノーベル賞をもらったのは3の中性子の実験的研究である。特に遅い中性子による核反応の発見に関係したものである。今世紀最大の理論物理学者の一人ランダウLandauは「理論物理学者にして実験物理学者でもあった最後の人フェルミ」と評している。(以下「エンリコ・フェルミ2」につづく)フェルミ 22023-02-21 ・これは「技術と科学の歴史を考える」というタイトルの講義の後半を私が担当したときの「原爆製造と原子核物理学」というサブタイトルの講義の中の人物評伝の一部のエンリコ・フェルミの後半である。Fermiの講義録である『原子核物理学』は内容が少し古くなってきたが、原著はシカゴ大学出版局から、訳書は吉岡書店からいまも出版されており、読者に読み継がれている。日本版の訳者小林稔氏(京都大学名誉教授、故人)は訳者まえがきでつぎのように述べている。「イタリヤの生んだ鬼才Enrico Fermi教授はいうまでもなく原子核物理学の第一人者であり、人類が第二の火、すなわち、原子力を発見したのも主として彼の研究に負うものであって、彼は歴史上永久に名をとどめる数少ない物理学者の一人であることは疑いのないところである。 Fermi教授は実験及び理論の両方面に卓越した才能をもち、その業績も有名なフェルミ統計、べータ線崩壊の理論、量子電磁気学など理論的なものから、中性子衝撃による人工放射能、遅い中性子の選択吸収、さらに原子力解放の緒となった核分裂の現象、その連鎖反応など行くとして可ならざるものはなく、しかもいずれも物理学の根本問題を衝き、その自然認識の深さの非凡さは驚嘆のほかない。イタリヤにおいては僅かの放射性物質とパラフィンのみの実験室でよく世界の原子核研究に伍し、中性子の性質の探求にあざやかな業績を挙げており、アメリカに移ってからはまさに鬼に金棒、現在もシカゴ大学の大サイクロトロンを主宰し、有能な同僚や弟子たちと共に原子核研究の推進に非凡の精力を注いでいる」これはFermiが亡くなる直前に書かれた彼のプロフィールである。ここにはFermiの業績についてほとんどあますところはない。しかし、Fermiの教育上の業績についてはまったく触れられていない。この点についてはFermiの優れた弟子の一人で、ノーベル賞物理学受賞者のC. N. Yangの文章から引用しておこう。(引用はじめ)「よく知られているように、Fermiは水際立ったすばらしい講義をした。これは彼の特徴的なやり方であるが、それぞれの題目について彼はいつでも、最初のところから出発して、単純な例をとりあげ、できるだけ「形式主義」を避けた(彼はよく込み入った理論形式は「えらいお坊さま」のものだと冗談をいった)。彼の論証は非常にすっきりしているので、ちっとも努力をしていない印象を与えた。しかし、この印象はまちがっている。すっきりしているのは、注意深い準備、いろいろの異なった表現の仕方のうちでどれを選ぶかを慎重に考慮した結果のためであった。・・・週に1~2回、大学院生のために非公式の、準備なしの講義をしてくれるのがFermiの習慣だった。グループは彼の部屋に集まり、Fermi 自身か、ときには学生の誰かが、その日の討論のために特別な題目を提起した。Fermi は、綿密に見出しのついた自分のノートを探し回って、その題目に関するノートを見つけ出し、われわれに講義してくれるのだった。・・・討論は初歩的水準に保たれた。題目の本質的、実質的部分が強調された。大抵いつも、分析的でなく、直観的、幾何学的な取り組みであった」(引用終わり)(2024.3.1付記)ここにFermiの特質が述べられていて、あますところがない感じである。そういえば、これを書いたYangはまだ中国で健在なのだろうか。ひょっとして100歳を越えているか、または、100歳にとても近いかのどちらかであろう。ジョリオー・キュリー夫妻2023-02-23・フレデリックとイレーヌ・ジョリオー・キュリーの簡単な評伝についてはセグレ『X線からクォークまで』(みすず書房)のpp. 327-343を読んでほしい。また、フェデリックについては参考文献の『ジョリオ・キュリーの遺稿集』(法政大学出版局)を参照して下さい。イレーヌは言わずと知られた有名なキュリー夫人の長女であり、体つきも性格も母親そっくりであったという。血筋とその母親からの教育によって母親と同じ放射線科学の研究に入った。一方、フレデリックは物理学者ランジュバンの学生であったが、その並外れた技術的な才能を買われてキュリー夫人の助手として推薦された。彼は陽気で活発な上に気持も優しくまた想像力に富んだ人物であった。彼らは後にチャドウィックが中性子を発見するきっかけとなる現象を発見した。また1938年の核分裂反応の発見にもきわめて近いところにいたが、この発見も逃している。しかし、1934年には人工放射能をもった物質を創成することに成功して1935年にノーベル化学賞を夫妻で受賞した。フレデリック等はハーンの核分裂反応の発見後、すぐにその追試に成功し、またその核分裂の際に2個以上の中性子が放出されることを発表した。すなわち、原子核からエネルギーが取り出せることを示し、このことを機密にしておこうと思っていたシラードたちを大いに慌てさせたのであった。シラードはアインシュタインにルーズベルト大統領に原爆を提言させたことで知られている、ハンガリー出身の物理学者である。2024年の始動2024-01-08・今日、1月8日から今年2024年を始動する。今日は成人の日で祝日だが、私は定年後は基本的には日曜日しか休まないことにしているので、今日が2024年の始動はじめである。いまある方と折衝をしていて、この方と仕事ができたらいいなと考えている。多分最終的には引き受けてくれるのではないかと楽観的ではあるのだが。話は別だが、四元数関係の『四元数の発見』にはまだ載っていないエッセイ15編を数日前にプリントアウトした。なかなかこれらを通して読むという作業はしてこなかった。この正月明けからこの作業をしてみたいと思っている。それと昨日古本店である、近くのBook Offで購入した線形代数の本のベクトル空間の章を読み始めた。これが定価220円で売られているのを他の本と共に購入した。実は,ここに以前に山本義隆『熱学思想の史的展開』のちくま学芸文庫版を見掛けたので、これが今もあれば、購入したいと思って出かけたのである。これはさすがに残っていなかった。ちなみにこの本の現代数学社版はもっているのだが、山本さんは同書がちくま学芸文庫に収められる機会に増補改訂されたとか聞いているからである。山本さんとはもう50年近く会っていないので、彼は私のことをもう忘れたかもしれない。何かの本の後書きで彼が病気をしたとか書かれていた。その後、『小数と対数の発見』(日本評論社)を書いたとかあった。いや、この本のあとがきにそう書いてあったのかもしれない。ハイゼンベルクが日本にやってきたころ2024-04-01 ・20人くらいドイツに関係した科学者について昔ある雑誌に書いた記事から転載したブログのうちでハイゼンベルクのブログが読まれていたので、先ほど読み直してかなり加筆修正をした。昔、ハイゼンべルクが日本にやって来たとき、講演を聞いたと書いた。そのときの彼の講演の後で新聞記者が私の先生の一人のYさんにその内容を尋ねていたのを覚えている。H大学の大学会館のかなり広い部屋でその講演があった。それは1967年だから私は博士課程の最上級生であったが、あまり話の中身は理解できなかった。それがいつごろであったか。もし秋であったのなら、私の学位論文の研究がだいぶん煮詰まってきて、まとまりつつあった時期だったろうか。それがもし5月ころなら、まだ研究にとりかかって間がない頃であり、研究のために必要なkinematicsを習得しようとして四苦八苦していた時期になる。いずれの時期だったかは覚えていない。Goldberger-Watsonの両氏が書かれた本である”Collision Theory”のphoto-productionのプロセスに必要なkinematicsは、私には結構難しかったが、懸命にそれを習得しようとしていた。その論文には南部陽一郎さんはあまり関係していないといわれるが、有名な南部(Nambu)さんの名前が入った通称CGLN(著者名のChew-Goldberger-Low-Nambuの頭文字をとった略称)と言われた論文の第2論文のkinematicsをCGLNの一人のGoldbergerが解説した本を読んでいた。原論文のCGLNにもちろんそのkinematicsの要旨も出ているのだが、私には論文からその仕組みを読み取る力はなかった。私がいまこれほどまでに異常にLevi-Civitaの記号に執着する元は実はphoto-pi-productionの研究を過去にしたことがあったのが、その理由である。もっともそれは今関心のある、3次元のLevi-Civitaの記号ではなく、4次元のLevi-Civitaの記号とその縮約公式が研究には必要だったのだが。参考までにいうと、Levi-Civitaの記号\epsilon _{ijk}はベクトル解析のベクトル代数を理解するときにとても役立つ記号である。ベクトル代数やベクトル解析でこのLevi-Civitaの記号の有用性を知れば、ベクトル解析の面倒さ、不可解さの一部は必ず晴れるという魔法の杖のようなものである。もっともこれになじむのはなかなか難しいかもしれない。私にとっても、もう何十年も昔のことだが、Bohmの『量子論』(みすず書房)の本にでていたLevi-Civitaの記号を見たときが、この記号を見た、生まれてはじめての機会だったと思うが、とてつもなく難しいものに思えた。これはパウリ行列の間に成り立つ関係を示すために用いられたものであったのだが。(2024.4.2付記)私のLevi-Civitaの記号との出会いは上にBohmの『量子論』であったと書いたが、その英語版を今見てみるとはパウリ行列の間に成り立つ関係はLevi-Civitaの記号を使って書かれていない。それでこれは私の記憶違いらしい。どうも有名なSchweberの場の量子論のテクストの比較的はじめの方の記述を見たのをまちがって思い込んでしまったらしい。いずれにしても、これは私にはわからんなと思ったことだけは事実である。これは単に記号だけのことではあるのだが、私はギリシャ文字に心理的に弱いらしいことがわかる。もっとも、私はSchweberの場の量子論の本を詳しく勉強したことがない。結局のところ、Bohmうんぬんという、上の記述はまちがっているのだろうが、あえてそのままにしておく。人の書くことをそのまま簡単に信用するなという教訓にしたいためである。アインシュタイン2024-05-02・以前にアインシュタインについてはこのブログでも書いたことがある。これは昔の講義ノートに書いてあったことの再録である。アインシュタイン(1879-1955)について少し述べておこう。アインシュタインはユダヤ系のドイツ人で南ドイツの都市ウルムで生まれた(その後、スイスの市民権を取り、死亡するまでそれを保持した)。私も1997年に、このウルムを訪れたことがある。アインシュタインは小さい頃から数学と物理に興味をもっていた。ドイツのギムナジウムの軍隊的な規律を嫌い、ギムナジウムを中退してチューリッヒ工科大学を受験したが、試験に失敗してしまう。しかし、数学や物理は抜群の成績であったので、もう一度ギムナジウムに入って勉強し直すことを大学の学長から薦められ、スイスのギムナジウムに入り直し、そこを卒業してチューリッヒ工科大学(ETH)に入学する。大学の頃はあまり講義には出席せず、自分独自な勉強に精を出した。試験のときは学友のグロースマンからノートを借りて勉強して単位を取った。大学卒業後は大学での助手の職は得られず、ベルンの特許局で特許技師として働きながら、立派な業績をあげる(注)。それが1905年の3つの論文で、光量子仮説、ブラウン運動、特殊相対性理論である。光量子仮説は光が粒子性をもつことを示した光電効果の説明を与えたものであり、ブラウン運動は分子の存在と分子の熱運動を実験的に証明可能とした。特殊相対性理論は時間と空間の概念の変革を行ったものであり、この理論から質量とエネルギーの相互転換が可能であることが示された。1915年には特殊相対論を一般化した一般相対性理論を発表する。この一般相対性理論は重力を空間の性質として説明する理論である。その中の一つの予言である、重力場中での光の偏曲は第一次世界大戦後の皆既日食の際に観測され、一般相対性理論の実験的検証の一つが得られた。その他、量子論への貢献も大きい。1932年以来アメリカに居住し、プリンストンの高級研究所で研究生活を送りながら、統一場理論を研究した。この理論は重力と電磁場を空間の性質として説明しようとするものであったが、成功していない。一方、アインシュタインは原爆研究をルーズベルト大統領に始めることを進言した手紙を送ったが、第二次世界大戦終了直前に広島と長崎に原爆が投下されたことは、彼には思いもよらないことで、その責任を深く感じることとなった。核戦争を避けるための努力を訴えたラッセルーアインシュタイン声明は世界各国の著名な科学者11名によって署名され、各国の科学者が一堂に集まって核戦争と核兵器の廃絶を議論するパグウォッシュ会議のきっかけとなった。(注)アインシュタインがETHの学生だったころ数学の先生としてミンコフスキーが在職していた。特殊相対論を学んだことのある人は知っているが、アインシュタインの特殊相対論はミンコフスキーの4次元時空の論文で理解できるようになったという学者も当時多かった。確かにアインシュタインの論文の内容の説明の後でミンコフスキーの説明を講義で聞いたとき、こちらの方が分かりやすいと感じたことは事実である。また、アインシュタインの特殊相対論を読んで、『あの「さぼり」の学生のアインシュタインが!』とミンコフスキーが言ったとかとも言われている。その真偽のほどはわからないのだが。ちなみにミンコフスキーが論文を発表したときにはミンコフスキーはもうETHの教授ではなく、ゲッチンゲン大学に帰っていたと思う。ゲッチンゲン大学のもう一人の数学の教授は有名なヒルベルトであった。(2024.5.21付記) 詳しい消息は知らないのだが、ミンコフスキーはこの論文の発表後に病気で急に亡くなったと思う。ミンコフスキーがゲッチンゲン大学に帰って来たのも友人だったヒルベルトの尽力だったとか。ヒルベルトはミンコフスキーと二人でゲッチンゲン大学の数学をこれから盛り立てて行こうとの意図があったのであろう。惜しまれる早世ではあった。X線の発見とレントゲン2024-05-28・これは「ドイツ語圏とその文化」という自作の雑誌に掲載したものである。 X線の発見とレントゲン -ドイツ語圏世界の科学者3-1.はじめにレントゲンによるX線の発見についての記述をちょっと場違いかもしれないが,ラジウムの放射能の研究で有名なマリー・キュリー夫人の伝記『キュリー夫人の素顔(文献:リード)からその一節を引用するのが一番いいだろう.(引用はじめ)原子力時代の始まりを1895年11月8日からとしても,決しておかしくはないだろう.その日バイエルンの研究室で,一つの現象が観測され,それがその後の物理学者たちのものの見方を変えてしまった.それを観測したのは,ウィルヘルム・レントゲン(1845-1923)であった.彼はナシの形をした陰極線管を戸棚から取り出し,その一端を電気回路に接続した.それから,その陰極線管のまわりを黒いボール紙で覆い,部屋を完全に暗くして,陰極線管に高圧の電流を通した.(中略)陰極線管から1メートルほどまで来たとき,彼はかすかな光を見た.彼はマッチをすって,その光がどこから出ているのか見ようとした.それは白金シアン化バリウムを塗った小さなカードであった.陰極線管からの光線は,厚いボール紙に完全にさえぎられているのに,そのカードは光を放っていた.彼は陰極線管のスイッチを切った.するとバリウムを塗ったカードは光らなくなった.スイッチを入れると,カードは再び光はじめた.こうして,レントゲンはエックス線を発見したのであった。(引用者が訳書から漢字と固有名詞等を少し変更した)(引用終わり)レントゲンはこの正体のわからない放射線の性質を調べて同じ年の12月28日に論文として発表した.このとき放射線の基本的性質はほとんど解明されていたという.これは大発見であった.手のX線写真をとればその手の骨の様子がわかることも示されたという.医学的な応用が直ちに誰の目にも明らかだった.『キュリー夫人の素顔』によれば,X線の研究は一年経つか経たないうちに48冊の書籍と1,000編以上の論文が出版されたという.それに対比してその当時の流行の研究テーマではない,放射性元素の研究をひそかにはじめたマリー・キュリーの姿が印象的である.しかし,以下ではレントゲンとX線に焦点をあてたいが,その前に放射線にはどのようなものがあるのかをまとめておこう.2.放射線の種類広辞苑によれば,放射線(radiation)とは狭義には放射性元素の崩壊に伴って放出される粒子線または電磁波のことをいい,アルファ線・ベータ線・ガンマ線のことをいうが,それらと同じ程度のエネルギーをもつ粒子線・宇宙線を含める.ちなみにいずれも原子核から放出されるが,アルファ線はヘリウム原子核,ベータ線は電子または陽電子,ガンマ線は非常に波長の短い電磁波である.広義には種々の粒子線や電磁波の総称である.とある.狭義の意味では天然放射性元素でも人工の放射性元素でもすべて放射性元素から放射されるものという限定があるが,ここではもっと広い意味にとって放射線を考えてみよう.電子線(陰極線),陽子線,中性子線,X線とか宇宙線も含めて考えることにしよう.そのときに放射線は質量をもった粒子放射線と質量をもたない電磁放射線とに大別できる.1.粒子放射線 アルファ線,ベータ線,電子線,陽子線,中性子線,重粒子線2.電磁放射線 ガンマ線,X線がその主なものである.電磁放射線とは普通はいわないが,電磁波の仲間には光線や赤外線,紫外線等も含まれている.光線は人間の目に見えるので,可視光線とわざわざ可視という形容詞をつけて呼ぶのが普通である.一方,紫外線や赤外線は人間の目で見ることはできないが,赤外線は体にあたると暖かく感じるし,紫外線を浴びると人の皮膚が後で黒くなったり,または赤くなったりして日焼けをする,また,このころは携帯電話をもたない人はいないくらいだが,これは電波といわれる電磁波である.ラジオやテレビの電波も電磁波の一種である.これ等の電波の波長は0.1mmから30kmである.X線は可視光線と同じ電磁波の1種であり,その波長は0.01nmから10nmである(注:1nm=10^{-9}mである).参考までに可視光線の波長は380nmから800nmくらいであり,X線の波長は可視光線の波長と比べると1/40から1/80,000も小さい.電磁波の波長$\lambda$と周波数$\nu$と速度$c$の間には\begin{equation}c=\lambda \nu\end{equation}の関係がある.この関係は難しそうだが,周波数(振動数)とは1秒間に何回1波長の振動を繰り返すかを示す量であるから,周波数に波長をかければ,それが電磁波の速さとなる.ここでcは真空中の光の速さである.これは電磁波である以上は波長の大小にかかわらずこの関係は変わらない.もちろん電磁波の伝わる空間が真空中でなければ,その速さは真空中での光の速さより小さくなる.波長0.01nmのX線の周波数3$\times 10^{19}$Hzであり,そのエネルギーはおよそ0.1keV,また波長10nmのX線の周波数は3$\times 10^{16}$Hzであり,そのエネルギーはおよそ100keVである\footnote{eVはエネルギーの単位の一つで,$1 \mathrm{eV}=1.9\times 10^{-19}J$である.これは1Vの電圧で電子を加速したときに電子がもつエネルギーである.3.X線の性質X線という名称はレントゲンがX線を発見したときにはこれがどういうものかわからなかったために代数で未知数を表すためによく使われる文字xにちなんでつけられたものである.しかし,簡単にわかるようなX線の基本的性質はレントゲン自身によってX線の発見から数週間内に調べられた.それらの性質をここに挙げておこう~\cite{レートン}.1.X線は高エネルギー(数10keV)の陰極線(すなわち電子)を放電管の陽極にあたるとき生じる.2.重い金属でできている陽極は軽い金属でできている陽極よりも強いX線を発生する.3. X線は電荷をもたない.X線は磁場によって曲げられないから.4.X線は帯電した物質を放電させる.5.軽い元素からできている物質は重い元素からできている物質よりもX線を強く透過する.6.写真乾版(フィルム)はX線に感光する.7.X線は直進し,普通にはそれを反射させたり,屈折させたりできない.8.シアン化白金バリウム,カルシウム化合物,ウラニウムガス,岩塩などがX線によって蛍光を出す.その後の研究で以下の性質も判明した~\cite{レートン}.1.X線は波動性をもつ放射線である.電磁波の1種である.2.\X線をある条件下で偏光させることができる(注:(直線)偏光とは電磁波の電場の振動面がある平面に固定されることを意味する.振動面が回転する場合には円偏光または楕円偏光という.偏光面は光の進行方向に直角である.これは光(電磁波)が横波であることを示している.自然な光はいろいろな振動面をもつ光の重ね合わせである.光を偏光板を通すと特定の振動面をもつ光だけが得られる.これを偏光という)3.X線は結晶で回折させることができる.これによって結晶の空間構造を知ることができるようになった.4.X線には連続X線の他に陽極の材料に特有のスペクトラルをもつ特性X線がある.5.特性X線の波数は陽極物質の原子量とともに増大する.4.X線の発見の意義物理学上の意義で言えば,特性X線の方が連続X線よりもはるかに意義が大きいが,物理学上での意義を別にすれば,医学的な診断の技術としてのX線の意義がとても大きい.骨折したときに骨がどういう風に骨折しているのかとかいう診断を与えてくれる.これは私の経験したことだが,20数歳のときに奥歯の親知らずが生えて来て,それも成長する方向が横にある歯を押すようになったために熱を出した.歯科医に行ったら,歯のレントゲン写真をとられて,それを見て親知らずを歯茎を切開して抜いてもらったことがある.その後も歯科でX線写真を撮ったことがあるのは1度や2度ではない.もっとも一番よく知られているのは肺結核の診断としてのX線写真の撮影であろう.これは日本の学校や会社等では普通に健康診断の一環として行われている.もちろん,X線撮影のための放射線障害も恐れもないわけではないが,それよりも病気の予防や診断のメリットの方が勝っている.体をCTスキャンして,肺がんや胃がんの健診をしたりする.最近ではX線による非破壊検査が工業的にいろいろなところで行われている.大きな船の船体の鉄板でできた船腹の壁のどこかに小さな傷(crack)が入っていないか,または原子炉の格納容器に亀裂が入っていないかX線の診断機で調べるのが普通である.航空機の機体などもそうやって検査するのだと思う.そういう検査を\textgt{非破壊検査}という.特性X線についてはここで詳しいことを述べないが,いわゆるボーアの原子の量子論の確証と原子番号$Z$の物理学的な意義を確定した功績はとても大きい(注:原子番号$Z$は元素の原子核内の陽子の数であることがMosleyの法則によって確かめられた.ちなみにMosleyはイギリスの優れた実験物理学者であったが,第1次世界大戦のときに若くして戦死した.メンデ—レーフの元素の周期律は実はこのMosleyの研究で確定をした).特性X線は原子の内側軌道に存在する電子が空席になることによって,より外側軌道にある電子が内側軌道に遷移するために発生する電磁波である.X線の波長が可視光の波長よりも小さいために可視光にならないが,光とX線とは原子から発生する点で同じメカニズムである(注:ガンマ線の場合は原子核から発生する.その点でガンマ線はX線とは単に電磁波としての波長の違いだけではなく,発生機構の違いがある)もちろん,このようなX線の利用とか応用とかは直接にはレントゲンとは関係がないが,それでもX線の発見がその契機を与えたことはまちがいがない.またその後,X線回折と言われる新しい物質の結晶構造を解析する手段が開発された.レントゲンが優れた実験家であったということを記す,事実がある.これは上にも何度か引用したレートンの書の脚注につけられたつぎのような注意からも明らかである.(引用はじめ)後から考えてみると,X線が発見される数年前から,すでに多くの実験室に(X線が)存在していたことが確かなようである.なぜならば,そころの高電圧を用いた気体放電管がしばしば使われており,そこからX線が発生するからである.レントゲンは単にそれらに注目した最初の実験家であるにすぎない.(中略)この種の経験は,予期しないものに対して大きく目を開き,それに備えるのが大切であることを示している.最初は正確な測定を妨げる厄介な実験的障害に思われた効果でも,のちに,測定しようとする量よりもはるかに重要なものとなるかも知れないのである.(引用終わり)実際,いったんX線の存在が明らかになってしまうと自分の方が先にX線を観測していたということを主張する実験家は一人二人ではなかったことを私たちは知っている.よく言われることであるが,観測することと発見することとは同じではない.観測してもそれが新しい事実であることがはっきり認識されなければ,発見とはならない.5.レントゲンの生涯レントゲン(Wilhelm Conrad R\”{o}tgen)は1845年3月27日ドイツのレンネップで生まれた~\cite{山崎}.レンネップは現在はレムシャイトの一部となっており,日本では刃物の町として有名なゾーリンゲンの近くの町である.日本の商社等の支社や営業所が多くあるデュッセルドルフからもそれほど遠くはない,ライン河下流の地域でオランダにほど近い.お父さんはドイツ人で織物の製造と販売をする職人兼商人である.お母さんはオランダ人であった.だからかどうかは知らないが,レントゲンは戸籍の上ではオランダ国籍であったという.だが,その当時国籍という概念が今ほどはっきりしていたのかどうかわからない.1848年一家はオランダのアッペルドルンに移り住んだ.そこで初等教育を受けた後,ユトレヒトの工芸学校に入った.しかし,彼はその途中で事件に巻き込まれ,退学処分となる.それで大学への入学資格が得られなかった(注:ヨーロッパでは大学入学資格がないと大学に入学できない.その大学入学資格はフランス語圏ではバカロレアという.またドイツ語圏ではアビトューアという).それでもユトレヒト大学の聴講生となるが,大学への入学資格をもっていないために正規の大学の学生となることができない.そのときに,トールマン(Tohrmann)という学生と親しくなる.彼はスイスの出身であるが,父親のユトレヒト赴任について来てユトレヒト大学の学生になっていた.彼はレントゲンが大学入学資格がないために正規の大学生になれないことに深く同情して,スイスのチューリッヒ(Z\”{u}rich)にあるポリテクニク\footnote{現在ではこの学校はETHという略称で呼ばれており,最難関の大学である.このETHは約30年後にアインシュタイン(Einstein)の卒業した大学でもある.}は約10年前に創立された準大学であり,その入学試験はアビトューアがなくても受験できることを教えてくれた.ところが受験前に病気にかかり,受験ができなくなったが,ユトレヒトの工芸学校の成績と共に病気のために受験できないという医師の診断証明書を校長に送った.その手紙に心を動かされた校長はレントゲンが無試験でポリテクニクム(工科大学)に入学できるように取り計らい,それが許された.工科大学でははじめ熱力学をつくったことで有名なクラウジウスに学び,その後クントに学んだ.その後チューリッヒ大学で学位をとり,クントの助手となった.またクントが大学を変わったときにクントについて行って勤務する大学を変えた.その後,レントゲンは大学教授となった.教授となって4つ目の大学として1888年にヴュルツブルク大学に勤めることになった.そして7年後の1995年に大発見をすることになった.5.1でもX線の発見の様子が描かれてはいるが,イタリア出身の物理学者セグレによる「X線の発見」の記述はつぎのようである(『X線からクォークまで』~\cite{セグレ}から引用した).(引用はじめ)1895年11月8日の夕方のこと,レントゲンはヒットルフ管を操作していた.彼はそれを黒いボール紙でしっぽり覆っておいた.部屋は完全に暗くしてあった.管から少し離れた所には,スクリーン用に白金シアン化バリウムを塗った紙が一枚置かれていた.驚いたことに,レントゲンはこの紙が蛍光を発するのを見たのである.スクリーンが発光するからには何かがそれに当っているはずであるが,彼の管は黒いボール紙で覆ってあったので,光も陰極線も,そこから外に出てくるはずはない.この思いもよらぬ現象に驚き,かつ不思議にも思い,彼はもっと研究してみることにした.スクリーンを裏返して,白金シアン化バリウムを塗っていないほうが管に向かい合うようにしてみた.しかし,相変わらずスクリーンは蛍光を発している.スクリーンからもっと遠ざけてみたが,やはり蛍光は続いている.次にいろいろな物体を何種類か管とスクリーンとの間に置いてみたが,どれもそのスクリーンに向かう何物かをさえぎらないようであった.管の前方に手を出すと,スクリーンにその骨が見えた.つまりレントゲンは「新種の放射線」を見つけたのである.(引用終わり)こういう風に一時にすべてのことを発見できたとは私は思わないが,それでも彼の何週間かの研究の過程で起きたことを多分述べていると思われる.レントゲンは一人で実験するのが常であったという.11月8日から実験室にこもって研究をした.自分でも信じられないような現象に出くわしたので,その新しい放射線の存在を確認するために何回も何回も繰り返して実験をした.ようやくいろいろ発見した現象を写真乾板上に記録してようやく自分の発見を確信したという.(引用はじめ)1895年12月28日,レントゲンは,ヴュルツブルクの物理・医学協会の秘書に論文の初稿を渡した.これはすぐに印刷されて,1986年1月の初めのうちにほうぼうへ送られた.(中略)この発見に続く数か月の間,レントゲンは世界中からの講演の招待を受けたが,ただ一つを除いて,他のどんな招待もみな,断ってしまった.自分のX線の研究を続けたかったからである.(引用終わり)レントゲンはこの業績により1901年にノーベル物理学賞を受けた.そのノーベル物理学賞の賞金は全部ヴュルツブルク大学に寄贈したという.また,X線についての特許をとることをある会社に提案されたが,まったく特許をとるつもりがないことをその会社に告げたという.ノーベル賞を受ける前の1900年にミュンヘン大学に移った.第一次世界大戦後のインフレのために破産して老後は大変だったらしい.1923年2月10日にミュンヘンで亡くなった.78歳だった.6.おわりにもう1年か2年レントゲンが長生きしていれば,ドイツ語圏で起こった量子力学の誕生に出会えたことだったろう(注*:Heisenbergたちによる行列力学が1925年に発表され,またSchr\”{o}dingerによる波動力学の発表は1926年であった)だが,老齢のレントゲンにはそのことは知る由もなかったかもしれない.レントゲンは機械工作が得意で,そのことが彼がX線の発見に成功した理由かもしれない.この器用さや機械が好きなことは彼の父親譲りであったと思われる.大学入学資格をとれなかったために大学に入学できなかったというエピソードの持ち主でもあるが,そういうハンデを優秀なレントゲンははねのけてしまった.もっともX線の発見以外に後世に残る業績を上げているというわけではないが,一つの偉大な発見をすれば人生には十分すぎるであろう.\bibitem{リード}ロバート・リード(木村絹子 訳),『キュリー夫人の素顔』(共立出版,1975)114-115\bibitem{新村出}新村 出編,『広辞苑』第5版(岩波書店,1998)\bibitem{レートン}R. B. レートン(斎藤・並木・山田・小林 訳),『現代物理学概論』(岩波書店,1970)399-449\bibitem{山崎}山崎岐男,『X線の発見者 W.C. レントゲン』(出版サポート大樹社,2014)\bibitem{セグレ}セグレ(久保亮五,矢崎裕二 訳),『X線からクォークまで』(みすず書房,1983)27-34\end{thebibliography}読者からの手紙『ドイツ語圏とその文化』をいつもありがとうございます.終りまで目を通しています.貴兄の世界の拡がりに期待をしています.ところで1巻2号のMayerの血液の色の話ですが,むかし初めてこの話を読んだとき,色の明度が変わるのは間違いだろうと思いました.その後,目にしたいくつかの教科書的な本でも,色の変化の真否については何も書かれていなくて,これを元にしたMayerの推論だけが書かれていました.歴史的事実としてはよろしいのですが,何か一言,簡単な言及が欲しいところです.間違ったデータから,正しい結論が引き出されることは,よくありますが,この場合はMayerの自然観と論理性が正しい結論を与えたのでしょうか.波爛万丈のMayerですが,Rumfordもいろいろですね.マサチュッセッツ生まれで,アメリカ独立戦争では王党派だったため,追われて英国に亡命(独立前だから“亡命”ではなく,本国に逃れたというべきですか),火薬と砲弾についての研究が認められて,Bayern王につかえて・・・というご存知の次第ですが,独立したアメリカといつ“和解”したのでしょうか.物理学者が主に受賞しているアメリカ芸術科学アカデミーのRumford賞はRumfordの寄付が元のようなので,生前に和解したのでしょうか.現代は和解の難しい時代ですね.(M. Y.)\\(答)メール有難うございます.マイヤーの血液の色の鮮明度の件は山本義隆氏の『熱学思想の史的展開』(現代数学社)のp.318に\\(引用はじめ)「今日の医学の常識からすると,ドイツと南洋との温度差くらいで静脈の血の色がそれほど違うことはないそうであるからこれはたいへん偶然的な,もしかしたら間違いあるいは錯覚が原因になった発見なのかもしれない」(渡辺正雄)という指摘の方が現実的な気がする.(引用終わり)とあります.それを踏まえてどこかに注釈をつけたのですが,そのことをもっとはっきりと指摘しておくべきだったかもしれません.しかし,そのことを当然と思ってしまったので,詳しい言及と注意をしなかったのだと思います.ちなみに上に引用された渡辺さんの参考文献は「エネルギー概念の成立」で,東京大学公開講『エネルギー』(東京大学出版会,1974)p.17です.こちらの方はまったく見ておりません.折々のことば2024-09-27 ・朝日新聞の第一面に哲学者の鷲田清一さんの「折々のことば」が載っている。昨日今日は写真家の土門拳さんの写真集『風貌』からのことばが載っていた。 気力は眼に出る。 生活は顔色に出る。 教養は声に出る。 土門拳土門拳はつぎのようにも書いていると鷲田さんは書く。 「本人が欠点と思っているところが、実は案外、唯一の魅力だったりする」昨日も何か鷲田さんは書かれていたのだが、これは昨日の新聞がもうどこへ行ったかわからないので書けない。だが、これを読んで思い出したことがある。若いときに半年だけ京都大学の基礎物理学研究所の非常勤講師をしていたことがある。一般の人にわかりやすくいえば、ここは湯川秀樹先生が所長をなさっていた研究所で、彼の定年前の2年前の頃である。所長室の隣の小さな会議室で昼食を一緒に所長も含めて所員が食べていた。この昼食後のあるとき、湯川さん本人から土門拳の写真をとるときの手法について聞いたことがある。土門が湯川さんの写真をとるために来たときのことだが、彼は顔を見合わせるなり、腹の立つようなことを言うのだという。これが土門の写真を写すときの手法だったのだろうと湯川さんは述べていた。怒ったときにその人の本性が現れると土門は考えていたのではないかと。いずれにしても写真家にはすべてお見通しであったのだろうか。怖い怖い。ザンクト・パウリ2025-04-28 ・FCザンクト・パウリ(FC Sankt Pauli)とはハンブルクのサッカーチームの名前だという。聞き覚えのあるチーム名だが、どこのサッカーチームかわからなかった。ザンクト・パウリはあまり強いサッカーチームではないらしい。ファンとしてはそのことがいとおしいらしい(注)。いま、NHKのラジオの「まいにちドイツ語」の放送を2回目か3回目として聞いていたら、ナビゲーターの綿谷エリナさんが言っているのを聞いた。ハンブルクにはザンクト・パウリという地区があったような気がするが、確かではない。その地区には塔のそびえた立つ教会か寺院があったと思うが、これも確かではない。ハンブルクに行ったことは1度きりであり、それもおよそ50年ほど前のことになる。パウリと聞くと天才的な物理学者Wolfgang Pauliを物理屋さんなら思い出すであろう。パウリ行列という2行2列の3つの行列 \sigma _{x}, \sigma _{y}, \sigma _{z} がある。これに単位行列 1 を加えると、これらの4つの行列でどんな2行2列の行列でも1, \sigma _{x}, \sigma _{y}, \sigma _{z} の線形結合として表すことができる。いわば、4次元空間の4つの座標系軸に沿った単位ベクトルe_[0}, e_{1}, e_[2}, e_{3}がすべての4次元空間のベクトルをそれらの単位ベクトルの線形結合\bm{e}=d\bm{e}_[0}+a\bm{e}_{1}+b\bm{e}_[2}+c\bm{e}_{3}で表されるようにである。そしてここからがちょっと手前味噌だが、この4つの2行2列のマトリックスは四元数 1, i, j, k の一つの表現として使われたりもする。もっとも \sigma _{x}, \sigma _{y}, \sigma _{z} の前には -i の係数をつけておくのが普通である。他の係数を付けることも可能ではあるだが。(注)FCザンクト・パウリとはFussball Club ザンクト・パウリであろう。サッカークラブ ザンクト・パウリであった。またザンクト・パウリはやはりハンブルクの地区名である。歓楽街として知られているレーパーバーンもこの地区にある。数学・物理通信の論文が引用された2025-06-05 ・雑誌「数理科学」6月号は「物理学と特殊関数」の特集だった。それを見るともなしに見ていたら、「数学・物理通信」の論文が引用されていた。これはびっくりであった。もちろん、うれしいびっくりである。著者は佐藤勇二さん(福井大学)という方で、論文のタイトルは「ベッセル関数と物理現象」であり、引用された論文は中西襄先生と世戸憲治さんの共著の論文「多重振り子と鎖振子」である。私は数学・物理通信の発行者だが、佐藤勇二さんにメールで数学・物理通信を送っていない。ということは谷村さんのサイトで佐藤さんはこの記事を見たのだろうか。谷村さんの日頃のご尽力に感謝しなくてはならないだろう。名古屋大学の谷村さんは「数学・物理通信」の発行のはじめから、彼が京都大学に勤務されていたころから、ご自分のサイトに「数学・物理通信」のバックナンバーも含めてすべてを掲載をして下さっている。私がメールで送っている方々を延べで数えると100人は超えているのだが、お送りしている方々は人間だからやはり病気で亡くなるということが起こってくる。それも両手の指にあまる数の方々がすでに亡くなった。きちんと数えたことはないのだが、20人以上を超えているだろう。メールでお送りしている数を数えたら、87人だったが、それからでも数人の方が亡くなっている。もっともお送りする方で新しい方にもお送りすることも出ている。でもなかなか100人は超えない。これは個人のできることの限界であろうか。「数学・物理通信」は購読料を取ったりしていない、まったくのボランティアの事業である。だから資金がなくて発行を中止するということはない。だが、私が倒れれば、発行は続かないだろう。Follow me!関連FacebookXBlueskyHatenaCopy投稿ナビゲーション前の投稿: ヨハネス・ケプラー:Kepler【年間の観測情報から数学を使い天文学を確立_法則の確立】‐10/31改訂次の投稿: ルネ・デカルト (René Descartes)【我思う、故に我あり|近代(合理)哲学の祖】‐11/1改訂 コメントを残す コメントをキャンセルコメントを投稿するにはログインしてください。