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老人の呟きから9月末抜粋_・『物理数学散歩』の不評 【2013-04-05 】・WKB近似の解説論文 【2013-04-18 】・天然原子炉と原爆開発資料 【2013-07-02】・演劇『コペンハーゲン』に関して 【2013-08-28】・歴史に疎いが 【2013-09-02】・特殊相対論とミンコフスキー 【2013-10-04 】・ヒッグスにノーベル賞 【2013-10-09 】・重力質量と慣性質量 【2014-03-09】・ハイゼンベルク原子炉の謎 【2014-04-11】・ETH 【2014-05-17】・世界の見方の転換 【2014-05-27】・辻哲夫『物理学史への道』 【2014-05-30 】・四元数:実数の4組表現 【2014-07-01 】・青色LEDのノーベル賞受賞 【2014-10-08】・行と列 【2014-10-31 】・ランダウの理論物理学教程 【2014-11-22】・オッペンハイマーの科学観 【2015-03-10】・宇宙白熱教室とネター 【2015-06-20】・南部さんの死去 【2015-07-18 】・エミー・ネター 【2015-07-28】・Heisenberg方程式を見つけたのは・・・ 【2015-08-21 】

『物理数学散歩』の不評_2013-04-05 

私の著書である、『物理数学散歩』(国土社)がほとんど売れなかった。2011年4月に出版して今が2013年4月であるが、わずか50部しか売れなかった。

それも大学の図書館で20冊購入されたことが分かっているので、一般の人は30部しか購入してくれなかった。

これは数式が満載であるということを抜きにしてもやはり気落ちするような事実である。定価は1,260 円であるので、高価なわけでは決してない。

前著『数学散歩』の方はそれでも250部くらいは売れたと思うので、今回の焦点を絞って理工系の学生を対象にした出版はまったく失敗だったことになる。

どうも『物理数学散歩』というタイトルがよくなかったのか。いずれにしても私が思っていたような人はほとんどいなかったということになる。

私にしても、もし若い学生の時にこのような本が出版されていたとして、購入したかどうか。それはわからない。

もっとも不評であったことが、即ち価値がないということではないと信じている。

(2019.4. 26  注)古本で5,000円とか10,000円の値がついているのを見ると、だれか貴重な本だと思ってくれている人が少数だが、いることは確かである。だが、こんな値がつくと誰だって買えないであろう。
(2019.11.18 付記) 古本で5,000円などと値がついたら、そんな本を買うことなどできないのは、当然である。
(2020.2.29付記) 古本で29,000円の高値がついているとかコメントいただいたことがあるが、これは著者の本意ではないので、下のコメントに留意されてもし読みたい方にはまだ残部がありますので、コメントに意向をお教えください。
読んでみたい方には『物理数学散歩』は著者割引で、送料込みで1,000円でお分けできます。コメントにご連絡ください。一万円のミスプリントではありません。

WKB近似の解説論文

2013-04-18 ・物理学者のMさんから、WKB近似の解説論文を投稿してもらってから、半年以上経った。

論文中に図があるのだが、latexではそのまま図を使えないので、picture環境で今週の月曜から描きなおしている。

7つある図の5つを描きなおしてあと2つとなった。そのうちの1つも昨日その大部分をすでに描いている。いくつかの矢印とそれへの説明を入力すれば、この図は描きあがる。

ポテンシャルの障壁の山をどうやって描くかを考えるのに昨日の時間の大部分を使ったが、3次のベジェ曲線のコマンドを使ったら、うまくいった。それでこの図の難しいところはクリアーできた。

残っているのは図1である。これはなかなか面倒な図であるから、完成はもしかしたら、来週になるかもしれない。

この解説論文は6月に発行予定の数学・物理通信3巻3号に掲載を予定している。

Mさんの解説論文の意図はいいものであったが、それにしても解説はまだ難しいところがあった。それで私の独断で付録とか参考文献をつけた。

著者のMさんの校閲をまだ経てはいないが、編集者の意図をくんでくれるものと勝手に期待している。

天然原子炉と原爆開発資料

2013-07-02‗「地球上に天然の原子炉が存在したのではないか」という理論を提唱していた、黒田和夫さんという人のことを岩波書店のPR誌「図書」7月号で読んだ。

黒田さんの書いた講談社ブルーバックスでそういう題の本があり、面白そうと思ったので購入はしていたが、読んだことはなかった。

その天然原子炉の話がとても要領よく説明されていた。原子炉の中には水が中性子の減速材としてまた、熱を伝える熱伝達材として入っているのだが、自然の原子炉の可能性は水がないのでありえないと原子炉をつくったFermiたちは思っていたらしい。

だが、水が過去のウランの鉱床に結構十分あり、かつU235の含有率は20億年前にはいまのU235の3.5倍の含有率であったろうという。これは現在の原子力発電で使われる濃縮ウランのU235の濃度にほぼ等しいという。

そういういくつかの条件下では天然の原子炉が地球上に存在しえたはずだというのが黒田氏の推論であったが、原子炉の研究をしていた人からはそういう理論は無視をされたという。

ところが1972年になって、フランスの原子力庁がアフリカのガボン共和国のオクロ鉱山から産出されたウラン鉱が異常な同位体組成をもっており、原子炉で使用済みのウラン鉱の燃えカスに似ていると発表した。

さらに、これは黒田が予言した天然原子炉の理論でほぼ完全に説明ができると結論付けたという。

これだけでも話が面白いのだが、理化学研究所で行っていた、戦争中の原爆開発の関係文書を黒田が預かっていたという。

このエッセイの著者小嶋稔さんはその依頼をしたのが理研の誰であったかはわからないと書いている。死後その資料は理研に黒田夫人から返却されたという。

それで思い出したのだが、黒田さんがアメリカから日本に里帰りしたときに「武谷三男に会って、天然の原子炉について議論するために日本に来たと言っていた」とどこかで読んだ。

それはもちろん、武谷が書いていたことではないが、武谷が亡くなった後でどなたかがそういう回想をされていた。

そういえば、武谷は戦争中に理研にいたし、原子力研究の一端を理論的に担っていたことも事実である(2014.3.17  付記参照)。

もっとも武谷は原爆が広島に落とされたころ、特高に捕まって取り調べを受けており、それは調書が出来上がる直前であったから、黒田さんに文書の秘匿を頼んだ本人とは考えにくい。それでもひょっとすれば、事情をうすうす知っていた可能性はあったのではないか。

(2014.3.17  付記)武谷の戦時中の原子力研究の一端の成果として1955年ごろに発行された、岩波書店の『現代物理学』講座の1冊の豊田利幸博士との共著の『原子炉』がある。

この書は原子炉の原理について述べた隠れた名著ではないかと思っているのだが、そういうことを知っている人もあまりいなくなってしまった。

演劇『コペンハーゲン』に関して

2013-08-28・ことはハイゼンベルクとボーアに関することである。とは言っても物理学のことを知らない人にはなんのことかわからないであろうか。

ボーアはデンマークの物理学者で原子論で知られた有名な学者だし、もう一人のハイゼンベルクもドイツのこれまた有名な物理学者である。

この二人はもちろんボーアがハイゼンベルクの先生にあたる。そしてこの二人深く互いを理解しあった中であったが、第2次世界大戦中の1941年にドイツ占領中のデンマークをハイゼンベルクが訪れる。

そして、ハイゼンベルクはボーアに連合国が原爆の開発に進まないようにとそれとなく伝えようとしてコペンハーゲンを訪れる。

そして実際に会うのだが、その話はハイゼンベルクがナチの情報部に漏れるのを恐れて遠まわしにしか言わない。そのためにボーアはナチのドイツが原爆を開発する意思があるのだと思ってしまう。

それで、歴史上ではアメリカの原爆開発だけが進行して、それは広島、長崎への原爆投下へと至る。

この辺のハイゼンベルクとボーアとの会話とボーア夫人の3人の会話が演劇『コペンハーゲン』のテーマである。ただ、私はまだこの演劇を見たことがない。

『数理科学』9月号はそのテーマがボーアであり、その記事の一つにこの演劇に関する対話のいきさつを山崎和夫さんが書かれている。

それによれば、ボーアとハイゼンベルクはそのときのことについて一度二人だけで話し合いを戦後何回かしようとしたらしい。しかし、それが行われないうちにロベルト・ユンクの「千の太陽よりも明るく」(平凡社)が出版され、そのデンマーク語訳を読んだボーアがアメリカの物理学者たちが悪玉として描かれているのに機嫌を悪くされてこの話し合いは結局されなかった。

これがハイゼンべルクに近いドイツの物理学者の思っている事情であるが、一方アメリカに亡命したかつてのヨーロッパの物理学者たち、特にユダヤ系の物理学者は身内が強制収容所で殺されてなくなったということもあり、ハイゼンベルクとそのまわりにいたドイツの物理学者の方がむしろ悪玉であると考えている。

そして山崎さんによれば、それが世界の大勢の考え方であるらしい。

私が興味深く思ったのは「千の太陽よりも明るく」の出版されるまではボーアはむしろハイゼンベルクとの和解を考えていたのだが、このノンフィクションのせいでその和解がなされなくなったらしいことであった。

私はこの書を学生の頃に読んだが、アメリカの物理学者の悪玉説であるとは思わなかったが、当事者になるとそうは思わなかったことに驚かされた。

(付記)そして広島への1945年8月6日の原爆投下によって、私の先生のSak先生とSaw先生とが原爆に被曝するという、結果となった。Sak先生はすでに故人だが、Saw先生はまだ存命である。

歴史に疎いが

2013-09-02・暦史に疎い私だが、

1900 量子仮説の提唱(Planck)

1905 特殊相対性理論(Einstein), 光電効果の理論(Einstein)

1911 有核原子模型の提唱(Rutherford)

1913 原子模型の量子論(N. Bohr)

1915 一般相対性理論(Einstein)

1923 物質波仮説(de Broglie)

1925 行列力学(Heisennberg)

1926 波動力学(Schr”odinger)

1935 中間子理論(Yukawa)

1948 量子電気力学のくりこみ理論(Tomonga, Schwinger, Feynman, Dyson)

などの物理学上の発見のいくつかの年は覚えている。

そういえば、2011年は有核原子模型の生誕100年であり、今年の2013年はBohrの原子模型に量子論の100年目であった。それだから雑誌『数理科学』9月号でボーア特集となった。

2011年には徳島科学史研究会の総会で当時高知女子大におられた大久保茂男さんが有核原子模型の提唱から100年ということで特別講演をされた。

その講演はなかなかインパクトのあるものであったが、それはもうあまり思い出せない。しかし、徳島科学史雑誌にその講演の内容が載せられているので今でも読むことができるのは幸いである。

そういえば、2005年にも特殊相対性理論100年ということで科学雑誌に特集が組まれたように思うが、早くも記憶が定かではない。

それにしても私が新しい科学上の発見の年を覚えていないのはどうしてだろうか。

特殊相対論とミンコフスキー

2013-10-04 ・「特殊相対性理論とミンコフスキーとはミスマッチだ」と思う方もおられるかもしれない。そんなことをいう人は特殊相対論のことを知らない方だろう。

1905年にアインシュタインが特殊相対性理論を発表した後で、その3年後の1908年にミンコフスキーがその幾何学的な意味を示した。

私は相対論の講義を聞いてよく理解できなかったが、このミンコフスキーの解釈を聞いてようやく特殊相対論を理解できるようになった。それ以来、これは私のお好みである。

雑談会でその分野の専門家であるEさんが、特殊相対論の話を一般の人のためにしたのだが、わかりやすくという意図のためにかえって理解が難しくなっていると感じた。

そのときに技術者だったKさんがE=mc^{2}という式がどのように導出されたかをまだ知らないと言っていたので、その説明をしたいと考えるようになった。

私の勤務していた大学の工学部には特殊相対論を教える科目はなかった。それで原子力工学の基礎を教えるために2回と半分くらいの授業時間を使って特殊相対論の初歩とE=mc^{2}の導出を講義していた。いわば、目的志向の講義であった

講義のプリントをつくって学生に配ったが、その記録は小著「数学散歩」(国土社、品切れ)に載せてある。もちろん、この講義のプリントはもっと他のことも書いてあるが、それらは授業で取り扱わなかった。

そういうことで、ミンコフスキーのアイディアにもとづくローレンツ変換の初等的な導出をしようかと考えているこのごろである。

ヒッグスにノーベル賞

2013-10-09 ・ヒッグスが今年度のノーベル賞をもらった。ヒッグスの方の名はもちろん知っていたが、もう一人のアングレールの方は失礼ながら名前も業績も存じ上げなかった。

テレビのニュースで聞いたときにヒッグスはすぐにわかったが、もう一人の方の名はわからなかった。今日新聞を見てようやくわかったが、まったく名前を知らなかった。

以前に電弱理論でグラショウ・サラム・ワインバーグがノーベル賞を受賞したときにもちろんグラーショウの名は知っていたが、電弱理論の先駆的な研究をしていたとは知らなかった。

まあ、私は工学部に勤めて素粒子の研究から遠ざかったからある意味ではしかたがないけれども、それくらいは知っているべきであったろう。

グラショウはむしろ大統一理論の提唱者としてしか知らなかった。グラショウの自伝によれば、ワインバーグとはニューヨークのブロンクスの高校の同級生だったとかで同級生がノーベル賞をもらうという数少ない例の一つになっている。

重力質量と慣性質量

2014-03-09・ある化学系の技術者だった方が『ドイツ語圏とその文化』2号に「質量は重力に比例する物体のある属性だ」という私が書いた一文を読んで、ようやく質量とは何かの一端がわかったと言われたと聞いた。

質量は重さに比例する重力質量と、重さとは関係がない、慣性質量という考え方がある。

たとえば、摩擦のない床(注)の上に物体が置かれていて、それに力を働かせたとする。物体の重力と床からの抗力とが釣り合っているので、この物体を横側から押してやれば容易に動くかと思うのだが、そうはいかない。

それは運動を起こしにくくさせている、慣性質量がこの物体にはあるからだと考える。

このようにして定義された慣性質量は重力質量とは論理的に関係がなさそうである。

要するに、質量の考えには二つの考えがある。それらはどういう関係にあるのか。

その違いを測定する実験が20世紀の初めに行われたと聞くが、その違いは誤差の範囲でわからなかった。

それで1915年になってその二つの質量は同じものだとする、等価原理がアインシュタインによって提唱されて、これが一般相対性理論の二つの原理の中のひとつとなった。

(注)摩擦のない床など考えられない方はスケートのアレーナのような滑らかな氷の上に物体を置くことを想像してほしい。

ハイゼンベルク原子炉の謎

2014-04-11・「ハイゼンベルク原子炉の謎」というエッセイが物理学会誌の4月号に載っている。

第2次世界大戦中にドイツで試作されていた、ハイゼンベルクが指導した原子炉が臨界に達しなかったということで、ハイゼンベルクは二流の物理学者と揶揄されたりした(arme zweite Klasse Physiker : Otto Hahnによる評)(注1)。

ハイゼンベルクはフェルミのような実験核物理と理論核物理を個人的に体現する型の人ではないので、これは彼の不名誉ではないかもしれないが、不名誉と考える人もいる。

それとドイツのハイゼンベルクのごく親しい周辺の人を除いて、戦前に師とも目されたボーアでさえも、ハイゼンベルクがナチの意向を汲んで原爆をつくろうとすると考えたという。

その辺がユンクの『千の太陽よりも明るく』(文芸春秋)の記述と食い違っているのだが、その辺の謎があるから、一般の人にもわかるような史劇「コペンハーゲン」が上演されて議論を呼んだ。

というような経緯はこのブログでも述べたことがある。

表題のエッセイにはそういういきさつも載っており、物理学者ならずとも興味をそそられるであろう。

しかし、このエッセイの主眼はそこではなく、ハイゼンベルクが関係した重水を使った原子炉がなぜ臨界に達しなかったかの謎に迫ろうとする(注2)。

そして解析的には解けない、臨界条件を求めるハイゼンベルク・ビルツの式をモンテカルロ法で数値的に解き、結局重水の量が足らなかったためにハイゼンベルクの原子炉は臨界に達しなかったと結論している。

普通には臨界条件を求めるには中性子の拡散方程式を解くが、この拡散方程式と比べてハイゼンベルク・ビルツの式が不合理というわけでもなかったということらしい。

(注1)arme のところをpauvreとしていたが、pauvreはフランス語なので、armeと変えた。armeにも「貧しい」という意味の他に「哀れな」という意味がある。

正しくはarmer, zweiter Klasse Physikerかもしれない。もしder arme zweite Klasse Physikerとderという定冠詞がつくなら、正しいだろう。(2016.7.29付記)

これはもちろん原爆とか原子炉の研究に関してだけで、その他の点でハイゼンベルクが2級の物理学者だということではもちろんない。

(注2)臨界とは原子炉の中で中性子が増えていく有効増倍率k_{eff}=1となる条件である。原子炉が作動するためには最低条件としてこの臨界条件を満たす必要がある。

普通に原発等で原子炉の運転をするにはこの中性子の有効増倍率k_{eff}を1よりごくわずかに大きくしたり、小さくしたりするようにコンピュータ制御で制御棒の出し入れを細かくしている。炉内の中性子の数を計測カウントしてその有効増倍率を1の上下となるようにコンピュータ制御で制御棒の出し入れをして原子炉を運転をする。

もっとも見てきたように言っているが、原発等の原子炉の実物は見たことがない。いつか何十年か前に当時知人が勤めていた熊取の京大原子炉の見学をさせてもらった。このときは原子炉は運転休止中であり、原子炉の上を説明を受けながら歩いたのを覚えている。

もともと制御とか運転とかは、ある運転の道筋(範囲)を決めておき、そこからあまり外れないようにすることだと星野芳郎の『技術と人間』(中公新書)で読んだ覚えがある。

ETH

2014-05-17・ETH (Eidgenössische Technische Hochschule Zürich, ETH ZürichETHZ)(注)と聞いてすぐにチューリッヒ工科大学のことだなとわかったら、それはかなりヨーロッパ通か研究者の方であろう。

いま調べて原稿を書いている、レントゲンがこのETHの初期の卒業生である。レントゲンが入学したころにはこのETHができてまだ10年ほどしかたっていなかった。

オランダで幼少時を過ごしたレントゲンはアビトューアの資格をある事情で得られず、大学に入っても資格を得られないということからアビトューアの資格がなくてもはいれる工科大学のETHに試験を受けて合格をして入った。

もっともその後ETHではなく、チューリッヒ大学で学位を得て卒業をしている。

ETHはいまではヨーロッパの名門の大学として知られており、かのアインシュタインの卒業した大学としても知られている。

アインシュタインはレントゲンよりも10歳か20歳年下なので彼はアビトューアなしではETHには入れず、もう一度ドイツで退学したギムナジウムをスイスのギムナジウムをに入り直して、アビトューアをとっている。

もっとも試験は前年に受けて数学と物理は抜群の成績だったらしいが、古典語ラテン語、ギリシア語とかの成績が悪くて不合格となっていた。

だが、いまならなかなか合格にはできないのかもしれないが、ETHの校長がアインシュタインにギムナジウムに入ってこれらの科目を習得するように説得したらしい。そしてつぎの年には無試験で入学を許可された。

もっともアインシュタインはほとんどETHの講義には出なくて、友人のノートを借りて勉強し試験はパスしたという。

ノートを貸した友人の度量が大きかったということだろう。

そのさぼりのためにETHの助手としては残れずベルンの特許局の技師の職を友人の父親の紹介で得たという。

そのベルンで2005年に大きな3つの論文を出して、一躍世界にアインシュタインの名が知られるようになった。

ベルンは河沿いの美しい町である。1976年の春にここを鉄道で通り抜けたが、実際にこの街を訪れたのはその数か月後の8月の終りのことであった。

(注)Eidgenössischとはいま辞書を調べると「スイス連邦の」という形容詞だと分かった。読みをカタカナでつけるとアイトゲノッシュシュとでもなろうか。アイドではなく,アイトである。

ノーベル賞受賞者を20人以上出しているとWikipediaにある。

世界の見方の転換

2014-05-27・山本義隆氏がまた大著を著したらしい。

らしいとしか言えないのはまだこの3部の大著『世界の見方の転換』(みすず書房)を購入もしていないからである。

旧知の方であるから、彼の著書を読みたいと思ってできるだけ購入してはいるが、残念ながらちょっと拾い読みするくらいで通して読んだことはどの書もない。

これは彼の著書がくだらないからではなく、多分その反対に襟を正して読みたいと私が思っているからである。

この新著は『磁力と重力の発見』『十六世紀の文化革命』についで彼の3部作とでもいうべきものらしい。

5月25日の朝日新聞に書評が出ていたが、これは書評を読んでその内容がわかるようなものではなかろうから、やはり購入して読むべきだろうが、経済的理由からもなかなか購入も難しい。

辻哲夫『物理学史への道』

2014-05-30 ・先日、松山市駅の高島屋のふれあいギャラリーに書道の展示の手伝いに行った後で、ジュンク堂に本を見に立ち寄った。

そこで『物理学史への道』(こぶし書房)を買って帰った。一昨日は読む時間がまったくなく、昨夜ようやくその一部を読んだ。

辻哲夫は広重 徹の僚友であり、物理学史家と考えられている。それで広重の武谷批判について辻がどういう判断をしているかが私には関心事であった。

これに直接触れたところはなかった。武谷は自分が批判されると過剰に反批判を展開するというところがあるので、それには巻き込まれたくないという意図もあろうか。

もっとも広重 徹は論争的であったというのは結構一般に受け入れられた評価のようであるので、広重 徹と武谷とは論争では戦闘的という点で、結構似た性質をもっていたということかもしれない。

私のペンネームの一つに香山 徹があるが、実は若いころに広重の書『戦後日本の科学運動』(中央公論社)に触発されて、自分でつけたペンネームである。

四元数:実数の4組表現

2014-07-01 ・実数の2組(a, b)で、複素数を表すことがある。それと同様に四元数を実数の4組(a, b, c, d)であらわすことがある。

(a, b, c, d)=a(1,0, 0,0)+b(0, 1, 0, 0)+c(0, 0, 1, 0)+d(0, 0, 0, 1), と表すことができるので、これから4つの基底 (1,0, 0,0), (0, 1, 0, 0), (0, 0, 1, 0), (0, 0, 0, 1) を自然に導入することができる。

これはもちろん1=(1,0, 0,0), i=(0, 1, 0, 0), j=(0, 0, 1, 0), k=(0, 0, 0, 1)のことである。

だが、あからさまにi, j, kを導入していないので、四元数の別の表示a+bi+cj+dkから四元数の演算規則を求めないと、どんなものだかまったくわからない。

しかし、実はi ^{2}=-1, j^{2}=-1, k^{2}=-1, ij =-ji=k, jk=-kj=i,  ki=-ik=j の演算規則がわかっているので、四元数を計算することができる。

まさに、この四元数の元 1, i, j, k は四元数における「実体」である。

というようなことを考えている。

四元数の実部と虚部とが互いに「直交補空間」であるという命題を説明しようとしてここ数日頭を働かせた結果わかったことである。

上の命題自身は数学者ポントリャーギンが著書「数概念の拡張」(森北出版、2002)に書いてあることだ。しかし、そのことを前に数回繰り返して読んだのだが、どうもわからなかった。

四元数の全体が4次元のユークリッド・ベクトル空間であるとポントリャーギンは書いているのだが、その記述が間違っているのではないかと思っていた。

訳注でスカラー積を

(1, i)=(1, j)=(1, k)=0

(i, j)=(j, k)=(k, i)=0

(1, 1)=(i, i)=(j, j)=(k, K)=1

ととることができるとあった。そのことが理解できなかったが、このことがようやくわかった。

青色LEDのノーベル賞受賞

2014-10-08・言わずと知れた、赤崎、天野、中村3氏のノベール賞受賞の報である。

天野さんの名前は聞いたことがなかったが、赤崎、中村の両氏の青色半導体への寄与は知られていた。

それにしても中村修二氏の寄与がとても大きい。基礎研究としては赤崎、天野の研究が先行していたにせよ、中村氏の研究成果と実用化がなかったら、赤崎、天野のお二方もノーベル賞受賞できていたかどうか。

新聞を読む限りでは3人とも好きなことをしていたことを強調されている。少なくとも研究には自己満足がなければならない。

これらの方々の研究成果にもかかわらず、日本の基礎研究とか実用研究の雰囲気はいまあまりよくない。

これは今日の朝日新聞の社説でも要注意と述べていたが、その注意くらいではとてもすまないところに来ているのではないか。

これは国立大学の法人化以降に顕著に見られる傾向である。私たちが大学に勤務していたころの予算の維持と研究の雰囲気が失われてしまっていると事情に通じた人は語っている。

外国に研究に行けば、帰ってきても以前に自分が在籍したその職はなくなっているとも聞く。そういうことでは誰も外国にオチオチ研究留学できない。これは構造的にそういう風になってしまったとか。

20年後の日本の研究と技術開発の現状はもう見るも無残になってしまっているだろう。そんな現状を憂うことをいう人はまだなぜだか少ない。

それにプロジェクト研究は別だが、個々の研究者に与えられる、研究費は私が現役のころの1/3くらいになっているとか聞く。

それでも、もし、いい研究が今後もできるとすれば、それは個々の研究者の涙ぐましい研究費集めの努力と日夜を継ぐ研究の成果によるものであろう。

だが、それも今後は少なくなってしまうであろう。ああ、そのことを政治に携わっている人が知っているのかどうか。

行と列

2014-10-31 

行列というと普通の人はコンピュータの新しいソフトを買い入れるための行列とか日本シリーズで球場に入るための行列を想像するであろう。
しかし、行列は数学用語でもある。英語ではマトリックスmatrixという(もっとも英語風に発音するならば、メィトリックスだろうか)。元はドイツ語でMatrizeという。複数だとMatrizenである。ドイツ語でもMatrixという語もあるようだ。Matirzeは印刷用語で字母という意味もある。
行列は方形に数字を並べた集まりのことで、これには、たす、ひく、かけるといった演算ができる。そして、この方形に数字や文字を並べた横の列を行(row)とよび、縦の列を列(column)とよぶ。
英語 で行をrow, 列をcolumnとよぶことを知らない人はちょっと数学を学んだ人にはいないと思うが、さてドイツ語ではどういうのだろう。ということでいつものドイツ語のクラスで先週聞いてみた。
R氏は線形代数を学んだことがないらしく、実際に数学でどういうかは知らないがといいながら、英語のrowにあたるのはReihe, columnにあたるのはSpalteだといわれた。
昨日の午後、先週のドイツ語のクラスの要約をつくっていたときに、気になって最近自宅からもってきた藤原松三郎著『行列と行列式』(岩波全書)を開いてみたら、11ページに行はZeileとあり、列はKolonneとあった。
それでその語を採用していたが、ちょっと気になったので、高木貞治著『代数学講義』(共立出版)を見てみたら、行はZeileだったが、列はSpalteであった。
それで高木先生の権威にしたがって、ドイツ語の要約をつくった。しかし、クーラン・ヒルベルトの『数理物理学の方法』のドイツ語版をもっていることを思い出したので、それを見て確かめてみようとは思ったが、今朝はそれを探して読んで来ることを忘れて仕事場にきた。
岩波の『数学辞典』ならrowとcolumnのドイツ語訳を見つけられるかと思って昨日調べたが、どこにも出ているようではなかった。インターネットの和独辞典もひいてみたが、どうも数学用語としての行と列の用語に対応した語を見つけることができなかった。いまインターネットの英独辞典をひいてみたら、、さすがに訳が出ていたが、複数の候補があり、一つに絞ることができなかった。
訳の候補として有力なのはrowでは-e Reiheと-e Zeileである。またcolumnではKolumne(これは性が書いてない)と-e Spalteである。
(2014.11.1 付記)今朝、クーラン・ヒルベルトの「数理物理学の方法」のドイツ語版を調べたら、やはり行は-e Zeileであり、列は-e Spalteであった。

直接にはこの語を使っていないが、ZeilenindexとSpaltenindexという語を見つけたので、間違いがない。

ランダウの理論物理学教程

2014-11-22

詳しくはランダウ=リフシッツの『理論物理学教程』と言わなければならないが、それがPDFで無料公開されているという。
もっとも1960年代に発行されたものであり、最新の1980年代のものは公開されていないらしいが、それでも憧れの『理論物理学教程』である。
私に一番近しかったのは『弾性体論』だったが、これは大学の講義の弾性論のテキスト(英語の版の青焼きコピー)として使われた。結局はまったくわからずじまいであった。この科目の単位はどうやってもらったのだろうか。
その後、材料工学科に数年勤めたときに弾性体論の一部を講義することになってあわてて、それを学び直したといういきさつもあった。しかし、いずれにしてもランダウの本は私にはわからなかった。
ゆっくりじっくり読めばわかるようにはなるだろうが、それはあまりにも時間がかかりすぎるという気がする。そして、別の本で学んでその基礎がある程度わかった上で読めば、多分ランダウの本はすっきりしているのだろうと思う。
私がもっている訳本では『力学』、『場の古典論』、『統計物理学』の3つだけであるが、『弾性体論』は今でもどこか探せば英訳の青焼きのコピーが出てくるであろう。
1960年代の版ではあるが、公開されたということで感慨がある。学生のころランダウの量子力学の英訳本を友人のY君がこれを私たちに見せびらかせて読んでいたことを思い出す。
その後、私は4年生になって研究室に入り、そのセミナーでシッフの英語の量子力学の本を読んだが、WKB近似のところだけはランダウの日本語訳で読んでノートをつくった覚えがあるが、そのノートもよく探さねば出ては来ないであろう。
ロシア語の『場の古典論』と『量子力学』はその後、手に入れたので、ロシア語を学ぼうと思ったが、初歩のロシア語を学んだ段階でそれきりとなってしまい、その後ロシア語には縁がない。
大学で2年後輩のO君は生物物理とか分子生物学とかに関心があって、長らく医学部に勤めていたが、ロシア語は辞書を引けば読めるようになったと言っていたから、まあものになったのであろう。

O君とはかなり長い間年賀状のやり取りをしていたが、そのうちにお互い疎遠になってしまった。大学を定年で辞めてからはどこかで物理を教えていると聞いたが、まだ生きているのかどうかわからない。

オッペンハイマーの科学観

2015-03-10・先日、ダイソンの「叛逆として科学」(みすず書房)を読んだときにおもしろく感じられたのはオッペンハイマーの科学観である。

オッペンハイマーは原爆の父とも呼ばれてロスアラモスで原爆の製造の指揮を執ったことで知られる物理学者である。

後世からみたら、オッペンハイマーの一番すぐれた物理学上の業績はアインシュタインの一般相対論の方程式のブラックホール解を見つけたことだろうとダイソンはいう。

ところが、このブラックホール解という業績をもとに宇宙に本当にブラックホールがあるのかを探したら、どうですかというダイソンの勧めにまったく興味を示さなかったという。

ダイソンはいう。それはオッペンハイマーの物理学上の関心事は物理の基本となる方程式を見つけることであったからだろうと。

ノーベル物理学賞受賞者のC. N. ヤンなどもオッペンハイマーの最大の物理学的業績はブラックホール解の発見であろうと述べている。そして、オッペンハイマーがもう少し長生きしていれば、この解の発見でノーベル賞を受賞できたのではないかとまで言っている。

ところが、オッペンハイマーはそういう解には関心を示さなかった。武谷三段階論でも本質的段階は方程式の発見といわれているから、方程式の発見がやはり昔の物理学者の夢であったのだろうか。

宇宙白熱教室とネター

2015-06-20・アリゾナ州立大学のローレンス・二クラウス教授のNHK「宇宙白熱教室」の放送の第3回目が昨夜あった。これは以前に放送の再放送である。

3回目にしてようやく眠らないで最後まで見ることができた。あまり難しい数学を使わないで宇宙の質量を求めるところまで話が進んで来た。来週は最終回である。

私は宇宙のことをよく知らない。それでおもしろく見せてもらっている。どういう人がこのクラスに聴講に来ているのかわからないが、年配の方が多いようである。

中学生の低学年かひょっとすれば小学校の高学年かと思われる子が一人いるが、宇宙の話に興味を持つのはある程度年がいかないとわからないであろう。

運動エネルギーからはじまり、位置のエネルギーの話へと移って行き、地球の質量を求めることから宇宙の質量を求めることへと話は及んだ。数式の計算がないわけではないが、初等的なものであり、日本でもちょっと優秀な高校生ならば十分わかる程度の話にしているのはさすがである。

昨夜は物理法則が時間的に不変ならば、保存される量があるというネターの定理のことを話していた。

ネターの定理のことをネーターの定理と吹き替えで言っていたので、ちょっと変な感じがした。この定理を発見したネターのことをいつかサーキュラー『ドイツ語圏とその文化』でとりあげてみたいと考えている。

物理の人は知っているとは思うが、ネターはドイツからアメリカに移住したけれども当時のアメリカでも女性に大学教授の職はなく、苦労した挙句に比較的若くして亡くなってしまった。

数学者の正田健次郎さんが、ネターボーイとよばれるネターのとりまきの一人であったとは誰かの書いたエッセイかなにかで読んだことがある。このころはいまでは単に代数とよばれる分野が抽象代数と言われたころであり、ネターボーイたちも颯爽としていたらしい。

ネターの定理についてはあまり学生時代には聞いたことがなかったが、大学に勤めるようになって間がないころ、理学部に勤めていた友人のEさんから内山龍雄さんの『一般相対性と重力』(裳華房)だったかの不変変分論という章の手ほどきを受けたことがある。

素粒子論の研究者は大抵知っている話だが、私はそのときまでネターの定理のことを聞いたことがなかった。

南部さんの死去

2015-07-18 ・7月5日に物理学者の南部陽一郎さんが亡くなっていたことが昨日報道された。

偉大な物理学者だということは聞き及んでいるが、私にはまだその偉大さはよくはわからない。もっとも南部さんの提唱された「自発的対称性の破れ」については短い論文を友人たちと出版したことがある。それはもっとも本質的な議論ではまったくなかったが。

一年のうち何ヶ月かを大阪大学で研究されていたので、大阪大学で大学の定年後も研究を続けている友人から南部さんのことをちらっと聞いたことがある。

南部さんの頭脳は働きは晩年にも衰えなかったと聞いているが、しかし肉体的には足取りとかが危うそうなことがあったとこの友人は語っていた。これはしかたがあるまい。

友人は私よりの数歳下なので、70歳をちょっと越したぐらいだが、彼でもときどきは急病で入院を余儀なくされたりとかするらしい。年は争えない。

しかし、それほど偉大な物理学者の南部さんではあるが、ノーベル賞の受賞は89歳の時と遅かった。これは彼の研究が深くていつも何十年もしないと一般の物理学者に理解できなかったためとも言われている。

1940年代後半には東大出身の優秀な物理学者が輩出し、それらのその当時の若者は東京大学には職がなかったために大阪大学、大阪市立大学等に勤めるようになった。南部、早川、木庭、山口、西島さんたちである。

その関西の大学への東大からの流出の先頭を切ったのが南部さんだったとか聞く。ご冥福をお祈りする。

エミー・ネター

2015-07-28・女性数学者エミー・ネターについて不定期刊行の『ドイツ語圏とその文化』で取り上げようかと考えている。

物理を学んでいるものにはネターは「ネターの定理」で有名である。一方、数学者の間ではむしろネターはかつて抽象代数学といわれた新しい代数で有名なのであろう。

ネター環という理論で有名らしい。これはちょっとネットで調べたが、私には理解できないので紹介できるような気がしない。昨夜、wikipedia のネターの定理を読んでみたが、もうわからなくなっていた。もっともこれはちょっと努力をすれば理解可能であると思っている。

それで内山龍雄さんの『一般相対性と重力』をとりだしてきたが、これは友人の E さんが何十年も前に手ほどきしてくれたことがあるが、そのときのノートを参照しなくてはわかりそうにない。そのノートはどこかにあるのだが、まだどこにあるのか見つけてはいない。

そうはいっても文章だけの説明でネターの定理の説明をすることはしたくない。解析力学の範囲でもいいから数式を用いた説明をつけたいと思っている。

ネターは予想に反して結構多くの人の関心を集めていると見えてネターに関係するサイトは多い。

私はここで、ネターと書いたが、どうしたものかインタネットでも文献でもネーターとなっている。これは日本風になった発音なのか、それともこの発音のほうが正しいのか調べていない。

Noetherをネタ―とカタカナで表したのだが、発音はNertherだと、ある英語のサイトの記事にはあった。とするとネーターと表すのがいいのだろうか。太田浩一さんの『ほかほかのパン』(東京大学出版会)にもネーターの表記である。

特に女性の書いたネターの伝記等がたくさんあるようだが、これはネターの生きた時代だけではなく、現在でも女性のおかれた環境が厳しいことを物語っているようでもある。その業績からいえば、ネターは抜きん出ている。

Heisenberg方程式を見つけたのは・・・

2015-08-21 ・講義をするということから遠ざかって久しい。もう講義をしなくなってから 5 年を過ぎただろうか。

冒頭のタイトルは「Heisenberg方程式を見つけたのはHeisenbergではない」という名古屋大学の谷村さんの発想を敷衍したいと思ったからである。

・・・のところは実は上に書いたように書くべきだったのであるが、それだとあまりにタイトルが長くなりすぎる。それで・・・とした。

量子力学ではHeisenberg方程式は一番の基本方程式であるが、その基礎方程式を現在のように定式化した初めての人はHeisenberg自身ではないという。ちょっと本当かと思うような話であるが、これは実は正しい。

Heisenbergから渡された論文に載っていた奇妙なかけ算に頭をかしげた、先生のBornがその奇妙なかけ算は自分が学生時代に大学の数学の講義で学んだことのある、マトリックスのかけ算とおなじものであることに気がついたという。

交換関係としてよく知られている[x, p]=ih/(2\pi)もBornの定式化によると言われている。Heisenbergは天才で、実に自分が知らなかった数学を自分で編みだしていたのだ。

ついでにいうと(neben gesagt)、もう一つの量子力学の基礎方程式 といわれるSchr”ondinger方程式をSchr”ondingerがはじめて導いたのだが、彼は自分が導いた方程式を最初解けなかったという。当時Schr”ondingerはチューリッヒにいたのだが、彼はしかたなく、数学者のWeylにこの方程式の解き方を教えてもらったという。これは波動幾何学の創始者として知られた三村剛昂先生から聞いた話である。

Schr”odingerはWeylからその当時には新しい手法だった境界値問題の方程式の解き方を教わったのだという。こういう話は物理の歴史においては別に珍しくない。

天才は数学でもなんでも自分の必要に応じてつくりだしてくる。数学を十分学んでから物理を研究しようなどと思っていた、または、思っている、私などは学者の部類には入らない。

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