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長岡半太郎
【1865年8月19日生まれ‐6/8改訂】

東大

こんにちはコウジです。「長岡半太郎」の原稿を改定します。投稿作業としては関連リンク、内部リンクの改定、個別の人物の追加をしましています。今後もご覧下さい。また、ブログ宣伝でツイッター使います。
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‗③BLLpQ8kta98RLO9‗2543⇒3212‗④KazenoKouji‗3422⇒4088
なので合計‗6102+5965=【12067@2/9】⇒6328+7300【13628@4/5】

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それよりも紹介の内容を吟味します。【以下原稿です】

【1865年8月19日生まれ ~ 1950年12月11日没】


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長岡半太郎の豊かな人脈

 

この長岡半太郎は大村藩の流れに生まれます。

学生時代は東大で山川 健次郎田中舘愛橘に学び、

助教授としてドイツ留学していた

時期にボルツマンに学びます。それだから実証主義

の考え方も、留学以後は踏まえながら議論をしていった

のでしょうか。どこまで核心に迫っていったか

論じる際には当時の日本における量子論での

現象把握を考えると良いでしょう。そんな事を考えながら、

科学史の観点から論文を読んでみたくなりました。

別の面から調べてみたら話は進む時があると

思えるからです。そして長岡半太郎の子供時代は

学業成績は芳しくなかったようです。

この点は同時期の本多光太郎を思い出します。因みに、この二人に加わえて鈴木梅太郎の三人は「理化学研究所の三太郎」と呼ばれていたそうです。携帯電話のコマーシャルで似たような人達居ましたね。

長岡半太郎の研究業績

長岡半太郎は田中舘愛橘と地震の論文を纏めたり、

本多光太郎と磁気の論文を纏めたりしていますが、

長岡半太郎の研究業績として大きいのは、

なんと言っても原子モデルでしょうボルツマン仕込みで

ミクロへの探求を進めていたのです。トムソン

ブドウパンの中のブドウのような形で

中心からの距離や軌跡と無関係に

電子の存在を仮定していたのに対し、

長岡半太郎は原子の周りを電子が回転する

土星のようなモデルを提唱しました。

この話は、不確定性関係と合わせて論じてみたいと思います。後に確立された不確定性関係では対象粒子の位置と運動量の関係が論じられます。この二要素が関連して論じられる訳です。その考え方の枠組みでは運動量が確定している電子に対して位置は不確定であって当然です。具体的には個体原子の位置は止まっていると見なせそうですが、動き回る電子の位置の確定が難しいのです。「運動量」の観測精度を高めている電子に対して位置情報はどんどんぼやけてきてしまいます。

時代を戻して長岡半太郎の時代に電子を観測

することを考えてみて、電子の挙動をとらえる

帯電物質を想定してみても帯電体の中を

動き回る電子の動きを止める事は出来ません。

電子とは何時も動いている物体だからです。

それだから、初めの時点での

モデル化の難しさが出てくるのです。

今日の物理学、特に量子力学的な知見では不完全なモデルとも言えますが、長岡半太郎のモデルは当時の原子モデルを大きく変えた点で高く評価出来ると思えます。全く知見の無かった原子という存在をに対して初期的なイメージを作る事が出来たのです。そのモデルをもとに帯電物質である電子の挙動が議論できたのです。
素晴らしいパラダイムシフトでした。

〆最後に〆


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2022/06/08_改訂投稿

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(2021年9月時点での対応英訳)

Hantaro Nagaoka’s rich personal connections

This Hantaro Nagaoka was born in the flow of the Omura domain as well as Hideki Yukawa. He studied with Kenjiro Yamakawa and Aikitsu Tanaka at the University of Tokyo when he was a student, and with Boltzmann when he was studying abroad in Germany as an assistant professor. So did he discuss the idea of ​​positivism based on his study abroad? When discussing how close he was to the core, it would be good to consider the phenomenon grasp in quantum theory in Japan at that time. With that in mind, I wanted to read the treatise from the perspective of the history of science. If you look at it from another side, it seems that there are times when the story goes on. And it seems that his academic performance was not good when he was a child of Hantaro Nagaoka.

This point reminds me of Kotaro Honda at the same time. By the way, in addition to these two people, Umetaro Suzuki was called Santaro of RIKEN. There were similar people in mobile phone commercials.

Research achievements of Hantaro Nagaoka

Hantaro Nagaoka has compiled papers on earthquakes with Tanakadate Aikitsu and papers on magnetism with Kotaro Honda, but the major research achievement of Hantaro Nagaoka is probably the atomic model. I was pursuing a quest for the micro. Whereas Thomson assumed the existence of electrons in the shape of grapes in grape bread regardless of the distance or trajectory from the center, Hantaro Nagaoka created a Saturn-like model in which electrons rotate around an atom. Advocated.

I would like to discuss this story together with the uncertainty relation. The uncertainty relation established later discusses the relationship between the position of the target particle and the momentum. These two factors are discussed in relation to each other. In the framework of that idea, it is natural that the position is uncertain with respect to the electron whose momentum is fixed. Specifically, it seems that the position of a solid atom is stopped, but it is difficult to determine the position of moving electrons. The position information becomes more and more blurred for the electrons that improve the observation accuracy of “momentum”.

Considering going back in time

and observing electrons in the time of Hantaro Nagaoka, even if we imagine a charged substance that captures the behavior of electrons, we cannot stop the movement of electrons moving around in the charged body. Because an electron is an object that is always moving. That’s why it’s difficult to model at the beginning.

Although it can be said that it is an incomplete model in today’s physics, especially in quantum mechanics, Hantaro Nagaoka’s model can be highly evaluated because it changed the atomic model at that time. I was able to create an initial image of the existence of an atom that I had no knowledge of. Based on that model, we were able to discuss the behavior of electrons, which are charged substances.
It was a wonderful paradigm shift.

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ピーター・ゼーマン
【1865年5月25日生まれ‐6/7改訂】

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【1865年5月25日生まれ ~ 1943年10月9日没】


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その名の綴りはPieter Zeeman

ゼーマンはオランダの小さな町、

ゾンネメレに生まれています。

またゼーマンはローレンツと同じ時代の理論家で

ローレンツと同時にノーベル賞を受賞してます。

当然、アインシュタインとも交流をもちます。

ゼーマンにとって幸運だったのは

ローレンツカメリー・オネスに師事した事

です。稀代の理論家と実験家の指導のもと、

ゼーマンは素晴らしい環境で育ちます。

そんなゼーマン等が出した結果がゼーマン効果です。

具体的には磁場中に置かれたナトリウム原子のスペクトル

を観察した時に、それが分裂していたのです。

ローレンツとゼーマンによってなされた説明は

ナトリウム原子の内部構造についてのものでした。

細かくは原子内部の電子が電荷を持ち、

磁場中では今で言う縮退状態からの開放される

ので(スピンの性質から)放射特性が変化するのです。

更には、その電荷の物理量が別に理論を進めていた

J・J・トムソンのそれと近しい値をとった事で

ローレンツとゼーマンの理論は説得力

をもちました。結果、

ノーベル賞が贈られます。

また、ノーベル賞受賞後

ゼーマンはアムステルダムで
研究所を運営し、そこで電磁光学
の研究を進めています。特に、
移動する媒質の中での光の伝播
に関しても研究していますが、
それは相対論の形成に有益
ローレンツアインシュタイン
も評価していたと言われています。
因みにこの3人を考えると年齢順で
ローレンツ(1853年生まれ)
ゼーマン(1865年生まれ)
アインシュタイン(1879年生まれ)
の順番です。実験事実が確立していき、
相対性理論が熟成されていくのです。

ローレンツとゼーマンの素晴らしい
点はナトリウム原子の構造を
解明した手法にあったと思います。
実験結果の積み重ね、仮設の設定、
そして全てを使った理論構築の
モデルはその後に多くの学者が活用可能で
再現可能な手法だったかと思えます。
その後に他の原子も次々と性格が
明らかにされていきます。

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2020/10/31_初版投稿
2022/06/07_改定投稿

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(2021年9月時点での対応英訳)

The name is spelled Pieter Zeeman.

Seeman was born in the small Dutch town of Zonnemaire. Zeeman is a theorist of the same age as Lorenz and has won the Nobel Prize at the same time as Lorenz. Naturally, he also interacts with Einstein.

Fortunately for Zeeman, he studied under Lorenz and Kamerlingh Onness. Under the guidance of rare theorists and experimenters, Zeeman grows up in a wonderful environment. The result of such Zeeman is the Zeeman effect. Specifically, when I observed the spectrum of the sodium atom placed in the magnetic field, it was split.

The explanation given by Lorenz and Zeeman was about the internal structure of the sodium atom. In detail, the electrons inside the atom have an electric charge, and in a magnetic field, they are released from the degenerate state as they are now called, so the radiation characteristics change (due to the nature of spin).

Furthermore, Lorenz and Zeeman’s

theory was convincing because the physical quantity of the electric charge took a value close to that of J.J. Thomson, who was advancing the theory separately. As a result, the Nobel Prize will be awarded.

After receiving the Nobel Prize, Zeeman runs a laboratory in Amsterdam, where he pursues research in electromagnetic optics. He is particularly studying the propagation of light in moving media, which is said to have been useful in the formation of relativity and was also appreciated by Lorenz and Einstein. By the way, considering these three people, in order of age
Lorenz (born 1853)
Zeeman (born 1865)
Einstein (born 1879)
It is the order of. Experimental facts will be established and the theory of relativity will be matured.

I think the great thing about Lorenz and Zeeman was the method of elucidating the structure of the sodium atom. It seems that the accumulation of experimental results, the setting of temporary settings, and the model of theory construction using all of them were methods that many scholars could utilize and reproduce after that. After that, the characteristics of other atoms will be revealed one after another.

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W・C・ヴィーン
【1864年1月13日生まれ‐6/6改訂】

SolvayConf-1927

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【1864年1月13日生まれ ~ 1928年8月30日没】


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その名を正確に記すとヴィルヘルム・カール・ヴェルナー・オットー・フリッツ・フランツ・ヴィーン:Wilhelm Carl Werner Otto Fritz Franz Wien

熱力学における黒体放射の研究で有名です。ヴィーンは東プロイセンで農夫の子として生まれ、ベルリン大学でヘルツの元で学位を取ります。そこでの学位論文は光の回析特性に関する論文でした。その後ヴィーンはレントゲンの後任としてヴュルツブルク大学で教鞭をとっています。またヴィーンはドイツ物理学会で会長を努めていて、前任はゾンマーフェルトでした。

さて、今日までヴィーンの業績・人となりを
調べていて断片的な印象を持ってしまいました。
それだから、ヴィーンの「人柄」が伝えられないのです。
実際の性格もあるのでしょうが、考えてみてたら、
当時の時代背景も大きいと思えてきました。
ヴィーンはドイツで生まれドイツで亡くなっています。
その時代のヨーロッパでは大戦がありました。
特にドイツはユダヤ人を迫害し、
何人ものユダヤ人物理学者が
反ドイツの体制で活動していました。
ヴィーンが生きたのは、そんな時代なのです。

そんな時代にヴィーンはソルベーユ会議に出ていて
国を代表して物理学会に関わっていたでしょうが、
政治絡みの考えは他のメンバーと独自のものとなって
いたと考えられます。時節柄、修業を兼ねて他国へ
留学したり協同研究をしたりする環境とは
大きく異なっていたのでしょう。ドイツ帝国の人ですから。
ヴィーンは現代とは異なった環境に生きていたのです。

ヴィーンの業績について考えてみると、
ヴィーンの法則はプランクの法則の極限
として考える事が出来ます。この法則は
反応を起こす物質の温度と放出される
電磁波の波長を関連付けますが、
対象物質の内部構造迄、踏み込んだ議論
を垣間見る事は出来ません。現象の
不完全な定式化であって独自の理論です。

考えを進めさせて頂くと、
マッハとボルツマンの考え方の
対立も思い起こされます。

ソルベー会議に出席する中で
ヴィーンもまた従来の考え方を守る立場で、
伝統的な枠組みの中で葛藤していたのでしょうか。
はっきりと確定して言える内容に悩み、
使っている推論の妥当性に対して悩みます。
ミクロの現象に対するモデルが大きく変更される
時代に当事者達は大胆かつ慎重に
判断せねばならなかった筈です。
いつかまた考えてみたいと思っています。

それにつけても、
ヴィーンの法則は我々に新しい知見を
もたらしていて、物質内部での反応に対し
変化を定量的議論の枠組みに乗せて
次なる議論の礎を作っています。
確かな一歩でした。

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The exact name is Wilhelm Carl Werner Otto Fritz Franz Wien.

He is famous for his work on blackbody radiation in thermodynamics. Wien was born in East Prussia as a child of a farmer and holds a degree from Hertz at the University of Berlin. His bachelor’s thesis there was a treatise on the diffractive properties of light. Wien has since taught at the University of Würzburg as a successor to Roentgen. Wien was also chairman of the German Physical Society, and his predecessor was Sommerfeld.

By the way, until today, I have been investigating Veen’s achievements and personality, and I have a fragmentary impression. That is why Veen’s “personality” cannot be conveyed. He may have an actual personality, but when I think about it, I think he has a big historical background at that time. Vein was born in Germany and died in Germany. There was a great war in Europe at that time. Germany, in particular, persecuted Jews, with a number of Jewish physicists operating in an anti-German regime. It was at that time that Veen lived.

At that time, Veen would have been involved in the Physical Society of Japan on behalf of the country at the Solbeille Conference, but it is probable that his political ideas were unique to the other members. Perhaps it was very different from the environment in which students study abroad or collaborate in research in other countries for the purpose of training. He is from the German Empire. Veen lived in a different environment than it is today.

Considering Wien’s achievements

 

, Wien’s law can be thought of as the limit of Planck’s law. This law associates the temperature of the substance that causes the reaction with the wavelength of the emitted electromagnetic wave, but we cannot get a glimpse of the in-depth discussion of the internal structure of the target substance. It is an incomplete formulation of the phenomenon and is an original theory.

As I move forward, I also recall the conflict between Mach and Boltzmann’s ideas. Was Veen also struggling within the traditional framework in attending the Solvay Conferences, in a position to uphold his traditional thinking? He is worried about what he can say clearly and definitely, and about the validity of the reasoning he is using. The parties would have had to make bold and careful decisions in an era when the model for microscopic phenomena changed drastically. I would like to think about it again someday.

Even so, Wien’s law brings us new insights, laying the foundation for the next debate by putting changes in the reaction within matter within the framework of a quantitative debate. It was a solid step.

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ピエール・キューリ
【1859年5月15日生まれ-6/5改訂】

ソルボンヌ大学

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【1859年5月15日生まれ 〜 1906年4月19日没】


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ピエール・キューリって有名

ご紹介するマダム・キューリの旦那様ですが、

調べていけばいくほど良い男です。

ピエールはフランスのパリに生まれましたが、

学校に行きたがらず、お医者だった

お父様や家庭教師等に勉強を

教えてもらって自宅で勉強していました。

特に数学で優秀さを発揮して、とりわけ幾何学で光る所を見せるようになっていき、16歳でパリ大学に入学します。そしてなんとピエールは18歳で学士号を得てしまいます。今の日本では現役学生が入学試験を受ける年齢ですね。びっくりです。ご家庭の事情で博士号習得はあきらめて物理研究室の助手として働きます。原子に対して知見が集まりつつあった未開の時代に数々の業績を残しています。

 

パリ大学鉱物学助手時代に圧電効果

圧電効果とピエゾ効果発見

ピエールは同じ大学の兄ジャックと協同研究進めます。水晶等の結晶に圧力差が生じた時に電位差が発生する現象を定理化して「圧電効果」または「ピエゾ効果」と呼ばれる法則を明確に定式化して、公表しました。更に、彼等はもう一つの現象も示します。水晶に電界を加えた時に形が変わるという現象を発表しましています。

現代の工業製品での応用

現在の工業製品ではこの応用である水晶振動子がデジタル回路で使われています。固有周波数を持つので時計やコンピュータの回路で時間(クロック)の基準となっているのです。

 

ピエールと磁性

ピエールは磁性に対して更に研究を進めています。その中で自差係数を計測するための精密なねじりばかりを使っていますが、その装置は後に精密計測で世界中の研究者に広く使われています。ピエール・キュリーは博士論文のテーマとして強磁性、常磁性、反磁性について研究をおこないました。特に常磁性への温度特性を「キュリーの法則」として定式化しています。。その式に出てくる物質固有の定数は「キュリー定数」と呼ばれています。更に強磁性体の磁性損失も明らかにしています。「キュリー点」です。キュリー天秤も作りました。沢山の業績を残していますね。

 

そんな沢山の成果をあげていましたが、

ピエールは薄給に甘んじ出世に興味をもたず教育功労勲章も断っていました。そんなピエールを外国では高く評価していて、1893年には英国のケルヴィン卿が訪問してきています。その後ピエールはポーランド人のマリア・スクウォドフスカ(後のキューリ夫人)と出逢い結婚しています。何度もピエールは恋文を送っていたようです。簡素な下宿で温かい時間を過ごしていました。その後は夫婦共同で放射性物質の研究をしていて、ポロニウムとラジウムを発見、放射能という用語の提案を行っています。そして遂にピエールは学生と共に核エネルギーを発見します。

原子核の遷移は熱を生んでいたのです。学生との発見は続き、アルファ線、ベータ線、ガンマ線を見付けています。それぞれの放射線の帯電特性に気付いた訳です。

 

こうした成果をピエールがあげていく中で、過度の研究の中でピエールの心身のダメージは徐々に蓄積していきました。リウマチの症状で毎晩ピエールは激痛に襲われて悲鳴をあげていたそうです。妻マリアとベクレルと共にノーベル物理学賞を受賞した際には体調不良で授賞式に出られませんでした。

そして運命の日が来ます。1906年4月19日木曜日です。

当時パリ大学教授になったばかりのピエールは昼食後2時半頃に目的地に徒歩で移動していました。パリの狭い道を多くの馬車が混走していました。道を渡り損ねた彼は馬車にひかれてしまい、頭蓋骨にひどいダメージを負って即死してしまうのです。一瞬の悲劇でした。フランスは宝を失います。

彼の死後に妻マリアは2度目のノーベル賞を得ています。また娘のイレーヌ・ジョリオ=キュリーとその夫で研究所の助手だったフレデリック・ジョリオ=キュリーも放射性元素の研究でノーベル賞を受賞しています。もう1人の娘エーヴは、母の伝記を書き残しました。孫の ヘレン ランジュバン ジョリオ はパリ大学の核物理学教授で、同じく孫の ピエール ジョリオ は生化学者です。

そして今ピエールとマリの魂はパリのパンテオンの

地下聖堂に眠ってます。他のフランスの産んだ

偉人達と共に。フランスの名誉と共に。

夫婦で深い安らかな眠りを続けています。

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Pierre Curie is the famous Madame Curie husband

, but the more you look up, the better he is.

Pierre was born in Paris, France, but he didn’t want to go to school and was studying at home with his father, a doctor, and a tutor. He entered the University of Paris at the age of 16, especially as he demonstrated his excellence in mathematics, especially in geometry.

And Pierre gets his bachelor’s degree at the age of 18. In Japan today, it’s the age at which active students take entrance exams. That’s surprising. Due to family circumstances, I give up my PhD and work as an assistant in the physics laboratory. He has made many achievements in the undeveloped era when knowledge about atoms was gathering.

He works with his brother Jack, who was also an assistant in mineralogy at the University of Paris. The phenomenon that a potential difference occurs when a pressure difference occurs in a crystal such as quartz is theoremized, and the law called “piezoelectric effect” or “piezo effect” is clarified and published. In addition, they show another phenomenon. We are announcing the phenomenon that the shape changes when an electric field is applied to the crystal. In current industrial products, this application, the crystal unit, is used in digital circuits. Since it has a unique frequency, it is the standard for time (clock) in clock and computer circuits.

Pierre is researching magnetism

 

. Among them, he uses only precision torsion to measure the deviation coefficient, but the device was later widely used by researchers all over the world for precision measurement.

Pierre Curie studied ferromagnetism, paramagnetism, and diamagnetism as the theme of his dissertation. He especially formulates the temperature characteristics for paramagnetism as “Curie’s law”. .. The substance-specific constants that appear in the formula are called the “Curie’s constant”. Furthermore, the magnetic loss of the ferromagnet is also clarified. It is a “Curie point”. He also made a Curie balance. You have a lot of achievements.

Although he had achieved many such achievements, Pierre was content with a low salary and was not interested in his career and refused the Order of Educational Achievement. Such Pierre is highly evaluated in foreign countries, and in 1893, Sir Kelvin of England visited. Pierre then met and married the Polish Maria Squadovska (later Mrs. Curie).

Pierre seems to have sent a love letter many times. He had a warm time in a simple boarding house. After that, my husband and wife were jointly researching radioactive materials.

He discovered polonium and radium and proposed the term radioactivity. And finally Pierre discovers nuclear energy with his students. Nuclear transitions were producing heat. His discoveries with his students continued, finding alpha, beta, and gamma rays. I noticed the charging characteristics of each radiation.

As Pierre achieved these achievements, Pierre’s physical and psychological damage gradually accumulated through his excessive research. Pierre was screaming every night because of the symptoms of rheumatism. When he won the Nobel Prize in Physics with his wives Maria and Becquerel, he was ill and could not attend the award ceremony.

And the day of his destiny will come.

It is Thursday, April 19, 1906. Pierre, who had just become a professor at the University of Paris at the time, was walking to his destination around 2:30 after lunch. He was crowded with many carriages on the narrow streets of Paris. He fails to cross the road and is run over by a carriage, causing terrible damage to his skull and dying instantly. It was a momentary tragedy. France loses treasure.

His wife Maria has won the Nobel Prize for the second time after his death. Her daughter, Irene Joliot-Curie, and her husband, an assistant at the institute, Frederick Jorio-Curie, have also won the Nobel Prize for her work on radioactive elements. Another daughter, Ave, wrote down her mother’s biography. Her grandson her Helen her Langevin her Jorio is a professor of nuclear physics at the University of Paris, and her grandson her Pierre her Jorio is a biochemist.

And now the souls of Pierre and Mali are sleeping in the crypt of the Panthéon in Paris. With other great men from France. With the honor of France. The couple continues to sleep deeply and peacefully.

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マックス・プランク
【1858年4月23日生まれ -6/4改訂】

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【1858年4月23日生まれ ~ 1947年10月4日没】


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その名は正確には


マックス・カール・エルンスト・ルートヴィヒ・プランク
(Max Karl Ernst Ludwig Planck)

【現在の国で言えば】ドイツ生まれのプランクは

前期量子論の主要メンバーの一人です。

ベルリン大学でヘルムホルツと共に教授職を務めた際には、当時の重鎮だったヘルムホルツと同列に話が出来る事に対してプランクは大変な名誉を感じていたそうです。ヘルムホルツから評価を受けた時などはとても嬉しかったとこぼしていたと言われています。因みに、この時のプランクの教授就任はキルヒホッフの死去に伴うもので、就任前に大学側はボルツマンヘルツに打診をしていたそうです。そしてプランクは黒体放射の研究からエネルギーと輻射波の関係を導き、プランクの法則として理論化します。

学問的方法論の観点から語れば、

エルンスト・マッハの実証主義に対し

プランクは実在論を展開しています。

プランクは微視的な物理公式を特徴づける定数である「プランク定数」を提唱しています。即ち微視的な知見において、不連続な物理量を上手に理論に取り入れて微細な定数を導入して体系化しているのです。プランクの提唱した一連の考え方はとても大事な概念で、量子力学の根幹をなしています。現代の我々が後付けで考えてみると、取り得る状態が不連続だから行列力学で使えます。そして状態の時間発展が量子力学体系の中で記述出来て、微視的な状態間の遷移が「定量的に」表せるのです。こうした様々な新概念が提唱された

プランクらの時代における改革には、まさに
「パラダイムシフト」という言葉が使えます。
思想体系において大きな変換が起きました。
まず、考え方のハードルをクリア出来た事は
物理学にとって大きな一歩であったと言えます。

そしてプランクは戦争の時代を生きたので幾多の悲劇を味わいました。人道的見地から、アインシュタインへのユダヤ人迫害に対して当時の独裁者であるヒットラーに直接意見を述べています。そして、プランクの長男は第一次世界大戦で戦死しています。プランクの二男はヒットラーを暗殺に加担したので処刑されてしまいました。加えてプランク自身も国賊の親として批難を受けていました。更には、、他にプランクには二人の娘さんが居ましたが、共に孫娘を産んだ後に亡くなっています。

こうして色々とあったプランクの人生ですが、プランクの残した業績は決して消えていません。プランクの名前を残しているプランク定数は今でも世界中で議論の中で使われていて、彼の名を冠した研究所は21世紀になっても最先端の研究を続けています。

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(2021年9月時点での対応英訳)

To be exact, its name is
Max Karl Ernst Ludwig Planck.

[Speaking in the current country] German-born Planck is one of the main members of the early quantum theory.

When he was a professor with Helmholtz at the University of Berlin, Planck was very honored to be able to talk with Helmholtz, who was a major figure at the time. He is said to have complained that he was very happy when he was evaluated by Helmholtz. By the way, Planck’s appointment as a professor at this time was due to Kirchhoff’s death, and it seems that the university side had consulted with Boltzmann and Hertz before his appointment. Planck then derives the relationship between energy and radiant waves from the study of blackbody radiation and theorizes it as Planck’s law.

From an academic methodology perspective

, Planck develops realism against Ernst Mach’s positivism. Planck advocates the “Planck’s constant,” which is a constant that characterizes microscopic physical formulas. That is, in microscopic knowledge, he skillfully incorporates discontinuous physical quantities into theory and introduces minute constants to systematize them.

The series of ideas proposed by Planck is a very important concept and forms the basis of quantum mechanics. When we think about it later, it can be used in matrix mechanics because the possible states are discontinuous. And the time evolution of states can be described in the quantum mechanical system, and the transition between microscopic states can be expressed “quantitatively”.

You can use the term paradigm shift. A major transformation has occurred in the ideological system. First of all, it can be said that clearing the hurdle of thinking was a big step for physics.

And since Planck lived in the era of war

 

, he experienced many tragedy. From his humanitarian point of view, he speaks directly to Hitler, the dictator of the time, about the persecution of Jews against Einstein and others. And Planck’s eldest son was killed in action in World War I. Planck’s second son helped Hitler assassinate and he was executed. In addition, Planck himself was criticized as a parent of national bandits. In addition, Planck had two other daughters, both of whom died after giving birth to a granddaughter.

In this way, Planck’s life has changed, but his achievements have never disappeared. Planck’s constant, which retains Planck’s name, is still used in discussions around the world, and his institute continues to do cutting-edge research into the 21st century.

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ハインリヒ・R・ヘルツ
【1857年2月22日生まれ‐6/3改訂】

deutuland

こんにちはコウジです。「ヘルツ」の原稿を改定します。投稿作業としては関連リンク、内部リンクの改定、個別の人物の追加をしましています。今後もご覧下さい。また、ブログ宣伝でツイッター使います。
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①SyvEgTqxNDfLBX‗3385⇒3452‗②ev2Fz71Tr4x7b1k‗2717⇒2876
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なので合計‗6102+5965=【12067@2/9】⇒6328+7300【13628@4/5】

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それよりも紹介の内容を吟味します。【以下原稿です】

【1857年2月22日生まれ ~ 1894年1月1日没】


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独逸のヘルツ

ハインリヒ・R・ヘルツのRは
ルドルフ(Rudolf )のRです。

もともと、ヘルツは気象学に関心を持っていました。

1878年ミュンヘン工科大学では指導教官が気象学者のベゾル

でしたが、そこではさしたる業績を残していないようです。

後の師ヘルムホルツのもとで

液体の蒸発の論文や新型の温度計に関する

論文をまとめた程度だと言われてす。

エーテルに対する理解の変遷

所で、19世紀終わり頃迄は電磁波の伝達物質としてエーテルという物質を想定していました。確かに波を伝える伝達物質、別の言葉を使うと媒質といった物があり波は伝わります。水という媒質があり表面で波紋が伝わり、空気という媒質があって音が伝わる訳です。1881年にマイケルソンが実験でエーテルを否定したタイミングでヘルツはマクスウェルの方程式を再度考え直します。電磁波の存在を煎じ詰めて実用的なアンテナを考案しました。

現代の整理された考え方によると、電磁波は真空中であっても伝わります。例えば太陽光は大気圏に届く前に真空中を伝わってくるのです。そこにはエーテルは存在しません。エーテルの仮定は観測にかからないばかりか、地球の自転運動・公転運動に対して説明がつかないのです。

ヘルツのその他の業績 

別途、ヘルツは電磁波発信の
装置を開発して電磁波の送受信
の実験を繰り返しました。
マクスウェルの理論を現実の生活の中の仕組みと関連させることを考えてみると、電波を発信する仕組みと受信する仕組みが必要です。例えば、磁場中で帯電体が振動運動をした時に電場と磁場が生成されて、光速度に近い伝番をする筈です。それを観測にかけるには「出来るだけ簡単で解析しやすい送信部と受信部」を設計してシステムの構築をしなければいけません。ヘルツはそうしたシステムを構築したと言えるのです。その過程では例えば、
送受信間にガラスを置くと
電磁波が通じ難くなると確認しました。即ち、
電磁波というものがあって、それを使うと離れた空間の間を送受信出来て、電磁波が透過しやすいものとし難いものがあると示したのです。大きな一歩でした。

そして、実験で人々にガウスマクスウェル

の理論を現実の世界とより近づけました。

ヘルツは周波数の単位に名を残しています。

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Hertz of Germany

Heinrich R. Hertz’s R is Rudolf’s R.

Originally, Hertz was interested in meteorology. At the Technische Universität München in 1878, the instructor was the meteorologist Bezor, but he does not seem to have made much of a mark there. It is said that he only compiled a treatise on liquid evaporation and a new thermometer under his teacher Helmholtz after him.

At the transition of understanding of ether

Until the end of the 19th century,People had assumed The Existance,Ether  as a transmitter of electromagnetic waves. surely

There is a transmitter that transmits waves, or in other words, a medium, and waves are transmitted. There is a medium called water, and ripples are transmitted on the surface, and there is a medium called air, and sound is transmitted.

Hertz reconsiders Maxwell’s equations when Michaelson denies ether in an experiment in 1881. He devised a practical antenna by decocting the existence of electromagnetic waves.

According to modern organized thinking, electromagnetic waves are transmitted even in a vacuum. For example, sunlight travels through a vacuum before it reaches the atmosphere. There is no ether there. Not only is the assumption of ether unobservable, but it cannot explain the rotation and revolution of the earth.

Other achievements of Hertz

Separately, Hertz developed a device for transmitting electromagnetic waves and repeated experiments to send and receive electromagnetic waves.
Considering the relationship between Maxwell’s theory and the mechanism in real life, we need a mechanism to transmit and a mechanism to receive radio waves. For example, when a charged body vibrates in a magnetic field, an electric field and a magnetic field are generated, and the number should be close to the light velocity. In order to observe it, it is necessary to design a “transmitter and receiver that are as simple and easy to analyze as possible” and build a system.

It can be said that Hertz built such a system. In the process, for example, I confirmed that placing glass between transmission and reception makes it difficult for electromagnetic waves to pass through. In other words, he showed that there are electromagnetic waves that can be used to send and receive between distant spaces, making it easy for electromagnetic waves to pass through and difficult for them to pass through. It was a big step.

And in his experiments he brought Gauss Maxwell’s theory closer to the real world. Hertz has left its name in the unit of frequency.

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J・J・トムソン
【1856年12月18日生まれ-6/2改訂】

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【1856年12月18日生まれ~1940年8月30日没】


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その名はジョゼフ・ジョン・トムソン

;Sir Joseph John Thomson。

イギリスのJJトムソンは同位体の発見者です。

指導者としてはラザフォードオッペンハイマーボルンの師であり物理学の発展に大きく貢献しました。先ずケンブリッジ大学を卒業し、4年後にキャヴェンディッシュ研究所の所長を務めます。さらに、電子の実在を形にしていった一人でもあります。電子を発見したかについては異論があるかも知れませんがいくつかの洗練された実験で、JJトムソンは電子の単位量を決めて特定原子の同位体を示しました。

トムソンによる電子の追及

J Jトムソンの生きた時代の大きな関心は電子でした。ニュートン力学が確立され、それをもとに色々な議論が進んでいた時代に、トムソンは原子核などの束縛を受けていない所謂「自由電子」の振る舞いを明らかにしていきました。初期は陰極線と電子線という言葉さえうまく使い分けられていなかったようです。

電子が沢山放出されるような現象を作り上げて、飛んでくる電子を観測していくイメージです。電子線と呼んだ方が細いイメージです。

原子核の周りをまわっているような「束縛された電子」は当時でも今でも観測の対象とすることはとても難しいのです。また、JJトムソンの子供も後に、電子の波動性を証明してノーベル賞を受けています。

そして、いくつもの偉業を遂げ

J・J・トムソンの亡骸は

ニュートンの墓のすぐ近くに眠っています。

英国の生んだ偉人として。

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Its name is Joseph John Thomson

[Sir Joseph John Thomson].

This JJ Thomson of England is a discoverer of  the isotopes. As a leader, he was a teacher of Rutherford, Oppenheimer, and Born, and contributed greatly to the development of physics.

At first,JJ Thomson graduated from Cambridge University and will be the director of the Cavendish Laboratory four years later. And , He is also one of the people who shaped The Reality of Electrons. There may be some disagreement about the discovery of the electron, but in some sophisticated experiments,Joseph  Thomson determined the unit amount of the electron and showed the isotope of a specific atom.

J Thomson’s pursuit of electrons

The history of  John Thomson and electronics is closely related. In an era when Newtonian Mechanics was established and various discussions were proceeding based on it, we clarified the behavior of so-called “free electrons” that are not bound by atomic nuclei. At the beginning, it seems that even the terms cathode ray and electron beam were not used properly.

It is an image of observing flying electrons by creating a phenomenon in which a lot of electrons are emitted. It is a thinner image to call it an electron beam. It is very difficult to observe “bound electrons” that seem to orbit around the nucleus even now. The child of JJ Thomson also later received the Nobel Prize for proving the wave nature of electrons.

And now, the corpse of JJ Thomson, who has achieved several feats, is sleeping in the immediate vicinity of Newton’s tomb. He was a great man born in England.

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田中館 愛橘(たなかだて あいきつ)
【1856年10月16日生まれ‐6/1改訂】

東大

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【1856年10月16日生まれ ~ 1952年5月21日没】


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日本物理学創設期の人、
田中館愛橘

その名は田中館・愛橘と書いて

たなかだて・あいきつ、と読ませます。

生まれた年は旧暦の時代で安政3年9月18日です。

【新暦で1856年10月16日です】

没年は新暦での昭和27年です。

先祖に南部藩の赤穂浪士

と呼ばれた方が居たそうですから、

そうしたイメージから語り出したいと思います。

時代の変革期に若き日々を過ごしました。

 

田中館愛橘の生い立ち

ご紹介する田中館愛橘の父方は

兵法師範の家系であり、

愛橘は藩校である作人館に学びます。

作人館での同窓生には原敬がいて後輩には

新渡戸稲造がいました。存じませんでしたが

立派な学校ですね。東京に出て慶應義塾に通い

ますが学費が高額なので東京開成高校に進みます。

今で言えば東大教養学部のイメージでしょうか。

そこで愛橘は山川健次郎から物理学を学びます。

政治にも関心を持っていたようですが、山川から諭され、
日本での理学の遅れを挽回せんと愛橘は物理学を志しました。

1879年に東大で外国人教師であるメンデンホールが(ユーイングと共に)トーマス・A・エジソンの発明したフォノグラフを日本に紹介しましたが、田中館愛橘は早速試作を行いました。その音響や振動の解析を行っています。

音を音質と音量に分けて考えたり、
フィルター処理をする作業が日本で始まったのです。
1880年にはメンデンホールによる重力観測に参加し、
東京と富士山で観測作業を行いました。
当時の世界一の性能を持っと言われたた
電磁方位計を研究開発しました。

そんな時期に、、

突然、福岡に帰っていた父・稲蔵が割腹自殺したとの
知らせを受けて田中館愛橘は明治16年12月に帰郷します。
土地や家などを売り払い東京三田に愛橘の教育の為に
一家総出で引っ越しをしたようなお父様でした。
そのお父様がなくなったのです。

そしてその年に東京大学助教授となりました。
詳細は追って調べます。この時期気になる動きです。
時代の変革期に各人が考え抜いていたはずです。

田中館愛橘とケルビン卿

その後、田中館愛橘はイギリスでケルビン卿に師事し、

大きな影響を受け、生涯を通じてケルビンを敬愛しました。

その後1890年にヘルムホルツのいた

ベルリン大学へ転学、電気学などを修めます。

この時代の電気に対する理解は、項を改めて

マクスウェルらと関連して語っています。

電磁気学は力学と異なり色々な人々の多様な知見が

次々重なり形成されていった歴史があるのです。

力学のように第一法則、第二法則、

として電磁気学では出来ていません。

 

愛橘は東京帝大理科大学教授となり後にに理学博士の学位を受けます。更にデンマークのコペンハーゲンで開かれた万国測地学協会 第14回総会で
地磁気脈動や磁気嵐の発表をします。

 

田中館愛橘の業績

時代柄もあって、田中館愛橘は陸軍や海軍に対して貢献します。地磁気測量では指導の中心的な役割を果たしています。旅順での戦闘の際には敵情視察用の繋留気球の制作を依頼されています。それが愛橘と航空研究のきっかけ
となりました。

田中館愛橘は中野の陸軍電信隊内での気球班で気球研究を始め、制作および運用法を指導しています。試行錯誤の末に気球を完成させ、旅順戦で戦闘に使用しています。

そして田中館愛橘が60歳になり、教授在職25周年のパーティで愛橘は辞職する旨を伝えました。後の東大での定年退職制度に繫がっていきます。

また、田中館愛橘は数多くの人材を育てました。教え子としては長岡半太郎、中村清二、本多光太郎、木村栄、田丸卓郎、寺田寅彦などが居ます。それ故、愛橘は「種まき翁」、「花咲かの翁」と呼ばれたそうです。
95歳7か月の天寿を全うしました。


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(2021年9月時点での対応英訳)

Tanakadate Aikitsu,

whose name is Aikitsu, is written as Aikitsu.

Born on September 18, Ansei 3 in the lunar calendar. [October 16, 1856 in the new calendar] The year of death is 1952 in the new calendar. It seems that his ancestor was called Ako Ronin of the Southern Clan, so I would like to start with that image. He spent his youth in a period of change.

By the way, Tanakadate Aikitsu’s father is a family of military art masters, and Aikitsu learns from the clan school, Sakujinkan. The alumni at the Sakujinkan was Takashi Hara, and his junior was Inazo Nitobe. I didn’t know about it, but it’s suary a good school. He went to Tokyo and go to Keio University, but the tuition fee is high, so he went to Tokyo Kaisei High School. Is it the image of the Faculty of Liberal Arts at the University of Tokyo now? There, Aitachibana learns physics from Kenjiro Yamakawa.

Yonger days of Tanakadate

In his younger days,Aikitsu have been interested in politics, but Yamakawa advised him to make up for the delay in Japanese science, and Aitachiya decided to pursue physics. He introduced Edison’s invented phonograph to Japan in 1879 with Mendenhall, a foreign teacher at the University of Tokyo, but Tanakadate Aikitsu made a prototype immediately. He is analyzing the sound and vibration.

He started working in Japan to divide sound into sound quality and volume, and to filter it. In 1880, he participated in gravity observation at Menden Hall and carried out observation work in Tokyo and Mt. Fuji. Aitachi made an electromagnetic directional meter, which was said to be the world’s number one high-precision directional meter at that time.

 

Tanakadate Aikitsu returns home after being informed that his father, Inazo, who had returned to Fukuoka in December 1884, committed suicide by seppuku. And that year he became an assistant professor at the University of Tokyo. Details will be investigated later. Because it is a movement that is worrisome at this time.

Tanakadate and Baron Kelvin

After that, Tanakadate Aikitsu studied under Sir Kelvin in England and was greatly admired Kelvin throughout his life. After that, he transferred to the University of Berlin, where Helmholtz was, in 1890 and studied electrical engineering. His understanding of electricity in this era will be discussed later in the context of Maxwell et al.

Unlike mechanics, electromagnetism has a history of  accumulating diverse knowledge of various people one after another made electromagnetism. It has not made as the first law or the second law of mechanics.

Aitkitsu became a professor at the University of Tokyo Science University and later received a doctorate in science. He will also present geomagnetic pulsations and geomagnetic storms at the 14th General Assembly of the International Association of Geodesy Sciences in Copenhagen, Denmark.

 

Job of Tanakadate

Also, due to his time, Tanakadate Aikitsu contributes to the Army and Navy. He plays a central role in his guidance in geomagnetic surveying. During the battle in Lushun, he made a mooring balloon for hostility inspection. That was the catalyst for Aikitsu and his aviation research.

Tanakadate Aikitsu started balloon research in the balloon team within Nakano’s Army Telegraph Corps, and is instructing production and operation methods. After a lot of trial and error, the balloon was completed and used in battle in Lushunkou.

 

When Tanakadate Aikitsu turned age 60, he announced that he would resign at the party of his 25th anniversary as a professor. He will be involved in the retirement age system at the University of Tokyo later. In addition, Tanakadate Aikitsu has nurtured a large number of human resources.

His students include Hantaro Nagaoka, Seiji Nakamura, Kotaro Honda, Hisashi Kimura, Takuro Tamaru, and Torahiko Terada. Therefore, They called Aitkitsu”Seeding old man” and “Hanasakika old man”. He completed his life of 95 years and 7 months.

(NOTE)Transition Words,
“In the same time,on the other handsin addition for exanple” is Important.